堀北真希と成宮寛貴が主演の「ソ連戦車への特攻」こそ、日本人の魂──ソ連が崩壊してもロシア民族の対日侵略は、ソ連のまま。プーチンの北海道・新潟侵攻の準備は急ピッチ。

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筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 8月16日、“極左”古舘伊知郎が喋り捲る真赤な「報道ステーション」など“反日”一色のテレビ朝日が珍しいことに、実に優れた番組を放映した。歴史に埋もれて専門家以外には余り知られていない満洲で起きた一つの歴史事実を素材にした、原作『妻と飛んだ特攻兵』(2013年、豊田正義)をTVドラマ化したのである。主演は、成宮寛貴と堀北真希。

 このTVドラマよりも、私がもっと感動したのは、インターネットで放送の三日前の8月13日、東京都世田谷区下馬にある世田谷山観音寺にある「神州不滅特別攻撃隊の碑」の前で、堀北と成宮が揃って撮った写真であった。私が、この「神州不滅特別攻撃隊の碑」に白菊と線香を携えて最初に参拝したのは、一九七〇年八月だったように思うので、そうであれば私は25歳だった。

 女優の堀北は26歳、俳優の成宮は33歳なので、ほぼ同じ年齢での両名の碑参は、何かしら世代間継承できたかのようなほっとする安堵感が私を包んだ。堀北真希は、この碑参のあと、こう語っている。

 「ドラマの撮影に入る前にもここに来てお参りさせてもらっていたんですけど、今回無事に撮影が終わったと、いい報告ができてよかったと思います」

「(三日後の放映について)私達にとっても、視聴して下さる方にとっても、心に響くものが大きいと思います。戦争を知らない私達の世代にとって、自分が学んだ事を後世に伝えていくということが大事だと思います」

 私は、「16日の放映だから視聴率が16%になればいいな」と願いながら視聴した。

 結果は、10%を切って「9・1%」だという。一流の演技をされた堀北真希にも、そして草葉の蔭から視聴したはずの谷藤徹夫・少尉(享年22歳)と朝子・令夫人(享年24歳)の御霊にも、「9・1%」では低すぎ失礼極まると、残念を越える感情になった。

 確かにこのドラマの展開は、間延びして冗長が多く、スピード感のある場面のあっと驚く切り換えの連続が無い。せっかくの戦争ドラマで(視聴率を稼ぐ)兵器や戦場シーンには臨場感を持たせなくてはならないが、それも皆無。脚本が余りに凡庸にすぎた。

 特攻を含む大東亜戦争の軍事史・戦史の専門家であり、兵器にも多少の知見をもつ私に仮にテレビ朝日が脚本協力を依頼していれば、あんな無様な「97式戦闘機=2式高等練習機」(注1)の張りぼてなど作らないし、11の離陸風景にしてももっと迫真性のある実戦的なものにしただろう。

 特にテレビ朝日が「省略する」という大愚を犯した、ソ連戦車群への急降下攻撃・激突の場面を、私ならド迫力あるCG作製を指導しえただろう。堀北/成宮の、爆死直前の緊迫の緊張と至福の表情を監督が撮影できるよう、他の8の急降下攻撃・激突・爆発炎上の背景をCGでいくつもの組み合わせができるようつくらせただろう。

 ここで8とあるのは、出撃は11機だが、一機は離陸に失敗し一機はエンジン不調で途中で墜落したため、赤峰付近のソ連戦車群に(日本陸軍の大虎山・航空基地には一発の爆弾もなかったため)“体当たり激突”したのは全部で9だからである。

 なお、視聴率「9・1%」を「16%」にする自信などむろんないが、「10%以上」にする事など容易いこと。『妻と飛んだ特攻兵』の原作者・豊田正義氏を私がインタヴューする対談の15分番組を、かなりの数の写真パネルと共に、12時過ぎでいいから前日に流すことで、「視聴率10%以上」は簡単に可能だったはず。

真正の英雄で崇高な英霊を抹殺した、公刊戦史『戦史叢書』の犯罪

 防衛庁が国民の税金で大東亜戦争の公刊戦史をまとめあげる作業は、当然のことで、このこと自体は、何一つ非難されるべきものではない。問題は、国家的な歴史学的な研究であるべきこの事業において、私的な人間関係が優先されて多くの改竄や歪曲がなされたことだ。特に、生き残った陸軍・海軍の高官たちは、自分たちの非が暴かれないよう、防衛研究所戦史室にあれこれと注文をして、いや正しくは圧力をかけて、歴史事実の改竄・歪曲のほか、厖大な(「なかった」ことにする)歴史の空白化を行った。

 陸軍の中でも満洲や関東軍に関係した元・陸軍高官はとりわけひどかった。この理由は、生き残った関東軍の高官の多くはソ連工作員でコミュニストだったためだ。

 日本人の顔をしているが、「ソ連人」であった在満洲の元陸軍高官は、満洲においてしたい放題の巨大犯罪をなしたソ連を美化するために、またソ連軍と完全に通謀していた関東軍総参謀部の実態を完全隠蔽するために、防衛研究所戦史室に歴史改竄の圧力を徹底にかけた。防衛研究所戦史室の研究者が改竄に同意しないときには、「なかったことにする」つまり「歴史事実の不在化・空白化」をするよう、人に知れないよう陰であの手この手の圧力をかけた。

 政府公刊戦史『戦史叢書』が、一九四五年八月十九日の、十一名の航空士官たちが私的に「神州不滅特別攻撃隊」を編成して実際に特攻した、日本国と日本民族の歴史においては不朽で偉大な戦士の高貴なる自己犠牲の精神が発露された日本男児の魂の精華を歴史の闇に葬ることにしたのは、この後者の圧力によってであった。公刊歴史である『関東軍2』(1974年)と『満洲方面陸軍航空作戦』(1972年)のいずれにも、「神州不滅特別攻撃隊」は一文字も記述されていない。防衛省防衛研究所戦史室によるこの歴史改竄・歴史事実空白化の犯罪は、許してならない(注2)。

 防衛省防衛研究所戦史室の表向きの口実は、「この特攻は、命令によるものでなく、軍規違反の私的な自爆行動だから、公刊戦史には記載できない」というもの。何という戯言か。いや、何という詭弁であることか。

 このような口実・詭弁こそ、正義に悖り、国際法に違反し、人道に乖離しているばかりか、それ以上に公刊戦史の本来の責任と任務に悖るスーパー詭弁である。戦史は、すべての戦史を記録するもの。仮に、軍規違反の戦史を排除すれば、そのほとんどが軍規違反である大東亜戦争の公刊戦史は書けない。そもそも1937年7月にコミュニスト近衛文麿が開戦した八年間の対支戦争そのものは、大元帥陛下の承認・決裁を経ておらず明白に軍規違反の軍事行動である。

 もう一つ。もし公刊戦史が「軍命令ではなかったから」の屁理屈で特攻行動を公刊戦史から抹殺するのであれば、海軍中将・宇垣纏の「命令違反の特攻」(大元帥陛下・昭和天皇の停戦命令である玉音放送の後)を公刊戦史に記述したこととの矛盾をどう説明するのか。

 それ以上に、8月15日の昭和天皇=大元帥陛下の停戦命令(=玉音放送)は、敵国が戦闘停止をする条件においてである。米国、英国、豪州、中華民国の四ヶ国は、この停戦条件を遵守したが、ソ連はいっさい守らず、スターリンは1945年9月2日の戦艦ミズーリ号甲板での降伏調印=終戦まで戦闘続行を命じている。バカ民族になりきった日本人は、八月十五日の停戦記念日を、終戦記念日だと勘違いしている。「停戦」と「終戦」を峻別する国際法をないがしろにするお粗末な間違いにすら気付かないのが、劣化民族の日本人。日本の終戦記念日は、九月二日。この日以外にはない。

一般通念「八月十九日は、終戦後」こそ、国際法に違背するトンデモ謬説

 つまり、満洲の関東軍総司令官が、八月十六日の大陸令第1382号に従って停戦を70万人の全部隊に命じたが、それはソ連軍が戦闘を停止した場合に限るもので、ソ連軍が在満洲の一般邦人への殺害を残虐に行っている最中に、停戦する方が国際法に違背する。国際法は、在外の邦人保護の権利と義務を主権国家の軍隊に附与しており、邦人を守るための戦闘は合法である。それ以上に、軍隊には在外自国民を保護しなければならない義務がある。

 TVドラマで、邦人保護を問い質す成宮寛貴に上官の大虎山分屯隊隊長(箕輪三郎・陸軍中尉)である杉本哲太が、「大陸令が出た以上、邦人保護の自衛はできない」と回答していたが、国際法上は全くの間違いである。邦人保護の軍事力の行使は、自衛の軍事力の行使とは並列的に別のものであり、「邦人保護」は「自衛」ではないからだ。関東軍の総参謀長の秦彦三郎やエリート参謀の瀬島龍三などは、この在外邦人保護の軍事力の行使を、あろうことか禁止し、ソ連軍による一般邦人殺戮を助長する前代未聞の暴挙を敢行したのである。

 155万人がいた満洲の一般邦人のうち、祖国・日本に帰還できたものは約100万人強で50万人以上(備考)が殺された。これはソ連軍、現地の凶暴支那人のみの犯罪ではない。日本人殺戮のソ連軍の共犯者として、関東軍総参謀部の秦彦三郎/松村知勝/瀬島龍三ほか、百名を遥に越えるコミュニスト陸軍将校が暗躍した、おぞましい同胞殺戮方針が実行された当然の結果である。

(備考)30万人は満州国内で殺戮された主に婦女子、20万人はシベリアに「男狩り」で連行され、そのほとんどはシベリアの凍土で餓死・病死・凍死した。

 要は、「神州不滅特別攻撃隊11名」は、軍規違反の特攻ではなく、国際法上の邦人保護の義務を履行した、“法の支配”に合致する国際法上の合法軍事行動である。それはまた、邦人保護の軍事行動を禁止した関東軍総司令部こそ、国際法違反の対日本人犯罪集団であったことを意味する。

 邦人がソ連軍から逃避する時間を少しでも稼ごうと自らの命を捧げた「神州不滅特別攻撃隊11名」こそ、我が日本民族が永遠に賞詞すべき真正の英雄であり、崇高な英霊である。「神州不滅特別攻撃隊11名」を抹殺した公刊戦史こそ、祖国に叛逆する犯罪図書である。

 大陸令第1382号について蛇足。それは、正確には「自衛の戦闘は可」としており、この意味からも、杉本哲太の「自衛はできない」は間違い。「自衛の戦闘も不可」としたのは、八月十八日の大陸令第1385号である。

特攻は、命令してはならず、あくまでも“自主”が本義

 そもそも特攻とは、英訳がsuicide attackであるように自殺攻撃戦法。つまり、特攻とは、軍人が戦場において個人的に選択するもの。上官が命令する軍制度としては決して設けてはならないもの。この意味で、上官の命令のない「神州不滅特別攻撃隊11名」こそは、特攻のあるべき本来の姿であった。

 特攻に関して、戦後の現代史家はすべて狂っている。特攻して散華した高貴な英霊を尊崇し慰霊することと、「特攻制度をつくった犯罪的軍人」「ふんだんに特攻の命令を下達した犯罪的軍人」を裁くこととを峻別していない。海軍特攻制度をつくったのは中澤祐・海軍中将(軍令部作戦部長)であり(注3)、その大量命令者はつとに有名な大西瀧治郎・海軍中将である。

 だが、悪魔の化身である残忍非道な中澤祐は、戦後、責任を部下になすりつけて天寿を全うした。このようにほとんどが腐りきった陸海軍の将軍や提督しかいなかったのが日本国であった。これだけでも、大東亜戦争が祖国日本への叛逆であったのは明白だろう。大東亜戦争肯定論など、日本への憎悪感情に生きた林房雄のように、反日の狂人の狂気でしかない。

 話を戻す。中澤を追及したのは戦後たった一人しかおらず、妹尾作太男だけ(注3)。現代史の研究者のうち、民族系のデタラメ嘘つき評論家を含め、真っ当なものは1%いるだろうか。

ソ連と通謀するばかりか、ソ連軍の完全な下部機関だった関東軍総参謀部

 TVドラマで、杉本哲太が、8月9日払暁からソ連軍が160万という巨大兵員と戦車・自走砲6千輌をもって満ソ国境を怒涛のごとく攻めて来ているのに、関東軍総参謀部が対ソ防衛戦闘開始の命令を出さないことに怒ってるシーンがあった。これは歴史事実に正確。ソ連の本格的な満洲侵攻は、実は東部で宣戦布告二日前の8月7日に開始されていた。瀬島龍三らの参謀部はソ連に協力して、この事態すら関東軍の全部隊に知らせず秘匿してあげた。

 しかもソ連の宣戦布告後で防衛戦闘開始以外の選択肢などない八月九日午前0時にあって、出撃命令を出さず、大連に主張中で山田乙三・総司令官が不在であるのをいいことに、総参謀長の「ソ連人」秦彦三郎はわざと延々と会議を長引かせ、ついには出撃命令を出さず、その「準備」に留めた。「開戦せよ」ではなく「開戦の準備をせよ」である。しかも、それはソ連の対日宣戦布告から二時間も経った、八月九日午前二時だった。

「各方面軍/軍/直轄部隊はそれぞれ侵入せる敵を排除しつつ、速やかに開戦を準備すべし

 ここで詳しく説明する紙幅はないが、満洲の一般邦人を事前疎開させなかった理由の第一は、ソ連側から依頼されて「ソ連人」秦/松村知勝/瀬島らが、満洲に広く散開させている70万人弱の関東軍を油断させるためだった。疎開させれば、ソ連軍の侵攻が近い事を現地の各部隊は理解して自主的に戦闘準備に入るので、それを阻止するためだった。

 一般邦人を事前疎開させなかった第二の理由は、ソ連軍が攻めてきた時、一般邦人の集団逃避行が始まり、その保護に部隊のかなりを割かねばならず、また都市部の道路では避難民と軍用車両とがごった返し、迅速な軍事作戦に支障をきたすが、これを期待してのもの。在満洲の一般邦人が総計で50万人殺害されたが、この主犯は秦彦三郎/松村知勝/瀬島龍三らだと断定してこそ、歴史の真実である。

 瀬島龍三は、実際にモスクワまで出かけ、ソ連軍の対満洲侵攻計画の策定作業に参加している。1944年12月に日本を発ち、1945年2月11日に帰国した。この事実を瀬島は認めたが、二週間もソ連で何をしていたかを語る事は一度もなかった。尾崎秀実を凌ぐソ連工作員であった瀬島と交流を持った、すべての日本人を徹底断罪する必要がある。

 1939年夏のノモンハン戦争も、一般の日本国民に「ソ連軍は意外に強いぞ」「シベリアに攻め込むのは止めた方がいい→南進の選択肢も悪くはないのでは」との印象を植え付けるために、スターリンと関東軍側のソ連工作員が共同でやった戦争である。陸軍は、日本側の戦闘損害を、「皇軍は無敵」論において、正確に発表した事は一度もない。だが、ノモンハン戦争に関してのみ例外的に、「死傷・戦病者は合わせて一万八千名」と直ぐに発表した(1939年10月3日)。「ソ連軍は強いから、シベリアに攻めるのをやめよう」を、日本国民に洗脳するためだった。              

 この時の関東軍側の「ソ連人」は、総参謀長のコミュニスト磯谷廉介・陸軍中将/第二十三師団長の小松原道太郎/作戦課参謀の服部卓四郎や辻政信らである。

 このノモンハン戦争の研究については、できるだけ早く発表したいと考えている。   

世田谷観音に参拝しないのは、安倍晋三の本性が“愛国心ゼロ”だからだ──共産党主宰の広島/長崎/沖縄ではなく、8月の慰霊は世田谷観音である

 テレビ朝日のドラマ「妻と飛んだ特攻兵」を、首相の安倍晋三が視聴したかどうかには関心が無い。あのおバカ頭では、視ても何の感興も湧くこともないだろう。

 安倍晋三は、靖国神社には何か偏頗な思い入れがある。吉田松蔭が祀られているからかも知れない。戦場の勇者に対する本心から慰霊の精神が安倍にあるかどうかについては、怪しい。もしそうなら、戦場の勇者を愚弄し侮辱するA級戦犯の合祀に嫌悪感情を持つはず。民族系の票が目当てである可能性も否定できない。

 そこで、安倍が本心から戦場の勇者への感謝と鎮魂の慰霊をせんとする精神があるのであれば、安倍は(一票にもならない)世田谷観音に詣でて、「神州不滅特別攻撃隊」の碑に、8月19日、私と同じく白菊と線香を手向けるべきであろう。特攻の青年・少年ほど清で純な戦士はいない。

 特に、谷藤徹夫少尉の辞世の句は、思わず落涙する。出撃前夜の作である。

国敗れて山河なし 生きてかひなき生命なら 死して護国の鬼たらむ

 なお、この碑に苦言を一つ。11名のうち、離陸に失敗して飛行場の端で動かなくなった不運の飛行機に乗ったが故の伴元和少尉の名前が彫られていない。これはオカシイ。もし、「ソ連戦車群への激突自爆をしなかったから」が理由だと言うなら、中途で墜落した宮川進二少尉の名前も公平に削るべきである。

 だが、この11名は血判を交わして出撃したのである。祀るのであれば一緒にしてあげるのが、生きて慰霊するものの筋。特に削られた伴・中尉はソ連に連行されてシベリアで亡くなった。この伴中尉への差別だけは、どうしても腑に落ちない。

1、谷藤少尉が朝子夫人と乗機したのは、朝子夫人の搭乗の仕方からして98式直協機(を改造した「99式高等練習機」)の方ではなかったと考えられる。豊田正義は、「97式戦闘機=2式高等練習機」とする。まだ調査中で、いずれが正しいかは結論に至っていない。

2、この歴史空白化をなした“悪の政府公刊戦史”を真似て、「神州不滅特別攻撃隊」を排斥して歴史記録から抹殺した好例が、生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』(ビジネス社、1977年)。歴史学に沿って正しく記載したのは、押尾一彦『特別攻撃隊の記録 陸軍編』(光人社、2005年、217頁、177頁)。

3、ウォーナー『ドキュメント 神風』下巻、時事通信社、378~9頁。

(2015年8月18日記)

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