“譲位”簒弑「4・30」と山本信一郎(宮内庁長官)“歴史大捏造”

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

序節 犯罪“凶悪な歴史大改竄”を実行した宮内庁は、共産党員の巣窟

 菅義偉/山本信一郎/園部逸男の三名が集まり、「今上陛下の《ご譲位ご意向》は最高の好機だ!」、これを悪用しない手はない、「皇位継承を禁止に持ち込めば、天皇制度に最後の止めを刺させる(=天皇制廃止革命の法的基盤を完全なものにできる)」、と歓喜の祝杯を挙げたのは2016年1月だったようだ。この三名に、内閣法制局長官・横畠祐介が加わっていたか否かは、定かでない。

 園部逸男(54年卒)/羽毛田信吾(65年卒)/山本信一郎(73年卒)は、京大「民青」の先輩後輩。「コミンテルン32年テーゼ(天皇制打倒の1932年スターリンの対日命令)」を奉戴する河上肇以来の悲願達成を成就することに人生を賭け、2019年「4・30」への道筋をつけた“教条的な共産主義者”の京大三人組である。羽毛田信吾の化身(代理)として宮内庁長官になった山本信一郎は、俺が必ず天皇制廃止を決定づけてやると、陰に日向に漏らしてきた“スターリン狂の権化”である。

 2016年初頭以来、菅義偉/山本信一郎/園部逸男の三名は、頻繁に密会・謀議し、皇位継承の禁止(=譲位・受禅の禁止)の法律化も実際上の実行も可能だ、との結論に達した。この方法として、①言葉「譲位」を日本から完全に消す“言葉「譲位」殺し”を徹底し、②「譲位・受禅の皇位継承」の儀式を絶対にさせない“儀式「譲位」殺し”をする。“言葉「譲位」殺し”は山本信一郎が、“儀式「譲位」殺し”は菅義偉が主に担当し、2018年2月に至る丸二年間、この赤い二つの車輪が安倍晋三の首相官邸で爆走していたのである。

正語「譲位」を殺す、“言葉殺しlogocideの殺語犯罪”を強行した山本信一郎

 山本信一郎は本籍の党本部の造語国語力を借りて奇天烈な珍語「生前退位」を創り、2016年2月上旬、NHK記者の橋口和人に陛下の“ご譲位ご意向”をリークした。このリーク時に、山本は“悪魔の四文字”「生前退位」を使うよう念押しの指示をしたと推定される。2016年7月13日のNHK午後7時のニュースで「陛下、生前退位…」のテロップは、こうして流された。

 皇后陛下のご抗議で、侮蔑語彙「生前」は、2016年10月21日以降、新聞テレビからすぐ消えた。共産革命語「退位」の“譲位”への是正の方は、皇后陛下のご抗議なんか無視しろと安倍晋三が主導し、政府部内から消えなかったし、内閣法制局は特例法で「退位」を法律用語にした(2017年6月)

 さらに、山本信一郎と菅義偉の“言葉「譲位」殺し”革命は、2016年8月8日の今上天皇のTV御諚から二文字「譲位」の完全抹殺に成功し、決定的なレベルになった。今上陛下のTV御諚は、官制に従い、皇室主務大臣の菅義偉と宮内庁長官の山本信一郎の二人が起草した。噂では、菅義偉は、その原案を木村草太に書かせたという。本当の話だろう。

 むろん陛下に上奏される前に総理大臣は目を通す。が、安倍晋三はほとんど関心を示さず、すぐ了解。今上陛下は、2016年8月8日、“逆臣”菅義偉と山本信一郎から、絶対不可欠語「譲位」が削除された“赤い御諚”を(畏れ多くも)強制的に読ませられた。天皇を「“生きたテープ・レコーダー”にすぎない」と道具視する共産党員・菅/山本は、天皇から威厳・聖性・高貴も、皇祖皇宗から受け継がれてきた“絶対法”皇位継承儀式も、簒弑的に剥奪した。今上陛下におかれては、さぞご無念であられたことだろう。日本国民は、両名に対するこの恨みを片時も忘れてはならぬ。

狂暴コミュニスト菅義偉は、皇室の儀式“譲位”を絶滅させるべく、皇位継承を日本国から簒弑した

 皇位継承儀式から譲位・受禅を抹殺する方策は、二段階で行われた。第一段階が、譲位・受禅は一時間で済む儀式だから、午前中で済み一日以内。しかも、特例法第二条も、「一日」と定めている。だが、凶悪な犯罪者の菅義偉にとって、特例法の規定など鼻から無視。

 日の特定は皇室会議での審議が必要である事を悪用し、菅義偉は、2017年12月1日の皇室会議で安倍晋三に「退位4月30日/即位5月1日の二日間に分離」案を上程させ、これを決定してもらった。表面上は、譲位日と受禅日の分離という形だが、分離すれば瞬時に譲位・受禅の儀式が雲散霧消する。譲位も受禅も現実には完全に抹殺される。菅義偉らは、これを狙い、分離を強行した。

 なお、「譲位」「受禅」の言葉を「退位・即位」と言う言葉に摩り替えると、聞く側の一般国民の頭は機能停止状態に陥る。「譲位・受禅」と聞けば、「どうして二日もかかるのか」と誰しもが直ちに疑問を呈し、中には激昂する正しい日本人が産出する。が「退位・即位」と聞くと、耳慣れないし、言葉が持つ言外のさまざまな情景を消し去るから、「どうして二日もかかるのか」との疑問も怒りも生まれない。

 “言葉殺し”はかくも恐ろしい。故に、古来から政治にかかわるものは正名論に立脚し、正語に絶対に固執することに心掛けた。正名論が知識人や政治エリートの心得だったのは、言葉殺し排除に有効でもあったからだ。正名論の軽視や放置が、天下動乱や革命の温床となるからでもあった。

 譲位・受禅抹殺の第二段階が、実際の4月30日式典への生体解剖。「4・30」式典に“譲位”の儀式を煙ほど存在させてはならぬ、は天皇制廃止の過激共産主義者である菅義偉/山本信一郎/園部逸男らが妄執する革命プランの骨盤。彼らはこれを完遂するに、二つの大嘘のでっち上げた。

 第一が“歴史の大改竄”、第二が“憲法の解釈大改竄”。第二は、第六章で論じる。第一の「歴史の大改竄」を担当したのが山本信一郎。山本は、譲位・受禅が歴史上「二日に亘ることもあった」かの、真赤な嘘歴史の煙を立ち昇らせる文書を国民の間に平然とばら撒いた。

 「二日に亘る」史実など歴史にあろうはずがないのは、初めから解りきったこと。彼らの「歴史の実例を捜した」とは、詐欺師の騙しの嘘詭弁。“詐欺師”山本信一郎は、煙(ムード)で代替する、手の込んだ悪質な知能犯罪を考え付いた。

 詐欺師は、いかなる分野の詐欺師にも共通するが、こそこそ隠れたりせず堂々と人様の前で大嘘を吐くし、トリックも披瀝する。山本信一郎も、この例外ではない。山本信一郎の嘘つき度は、「積水ハウス63億円詐取」の地面師よりはるかに凶悪で、度肝を抜く。

第二節 『貞観儀式/光格天皇実録/北山抄/江家次第ほか』を正しく読む

 山本信一郎の手口は、「積水ハウス63億円詐取地面師」が駆使したニセ印鑑証明書や不正公正証書やニセ旅券づくりとソックリ。こんなアクドイ詐欺師が宮内庁長官とは、驚愕を越え絶句する。

譲位・受禅の儀式は、平安時代からすべて、紫宸殿にて挙行。所要時間はおよそ一時間。

 平城天皇/嵯峨皇/淳和天皇に始まる、一千年以上にわたる数十回の譲位・受禅の儀式すべて、紫宸殿で挙行され、式典時間はおよそ一時間だった。紫宸殿での挙行をなされず、仙洞御所と清涼殿の二ヶ所に儀場分離の例外的儀式は、たった一回、1817年の光格天皇のケースのみである。

 つまり、光格天皇のケースは、譲位・受禅の儀式として一応の参考にはなるが、皇室が遵守すべき適切な典型先例ではない。もし、どうしても光格天皇のケースを先例としたいなら、緊急避難的に儀場分離をせざるを得なくなった原因である“早朝の大規模な譲位パレード”踏襲が絶対条件となる。“早朝の大規模な譲位パレード”をしない儀場分離など、摘み食い(arbitrary-selection)のペテン行為。先例踏襲ではない。

 また、譲位・受禅の儀式は、平城天皇から光格天皇までの数十回すべて、同日挙行。儀式を(同日ではなく)二日に跨がらせる異様極める先例無視の新規創造は、安倍晋三が史上初。歴史伝統を冒涜する安倍晋三の「二日に跨がらせる」共産革命を、“空位”の問題だ!と騒ぐ暇などない。この革命は、譲位・受禅の儀式そのものを根底から否定する天皇制廃止革命で、皇位継承それ自体に対するサボタージュ(=殺戮的破壊行為)である。つまり、安倍晋三首相の2019年「4・30」「5・1」分離は、皇位継承の廃絶を目的に実行される“日本国に対する空前絶後の大犯罪”である。

 安倍晋三の皇位継承の廃絶革命「4・30」「5・1」分離は、1945年8月14日深夜、帝国陸軍の「ソ連人」軍団クーデターに酷似し匹敵する。1945年8月14日深夜(15日未明)宮城クーデターは、昭和天皇を監禁・脅迫し、場合によっては銃殺し、玉音放送のレコード盤を破壊し御璽を強奪し、8月15日にポツダム宣言受諾拒否と戦争続行のニセ詔書を渙発する予定だった。

 狂信的共産主義者の阿南惟幾(陸軍大臣、ソ連GRU「対日」工作員)ら、帝国陸軍の共産主義狂「ソ連人」軍団は、スターリンの命令に従い、ソ連軍に日本全土を占領させるまで、婦女子を含む日本人を皆殺しすることも目的に、上陸する米軍に対して「本土決戦」(=文字通りの一億玉砕)を強行せんとした。強行すれば日本人七千万人のうち最低でも男児二千万人が戦闘死しただろう。

 婦女子も一千万人以上が巻き込まれ死・戦災死する。日本の全業はすべて発電所や鉄道インフラを含め灰燼に帰す。日本が再生することは全く不可能になる。この大敗戦後には、餓死する日本人は二千万人を超えただろう。日本で生き残った日本国民数は、「7000万人-2000万人-1000万人-2000万人=“二千万人以下”」になったと想定される。

 8月14日深夜の宮城クーデターは、天皇陛下に忠誠一筋の“愛国者”田中静壹・陸軍大将(東部軍管区司令官)が武器を持たず止めに入ったため、瓦解した。“主犯”阿南惟幾は切腹した。「4・30」皇位継承廃絶革命を中止させるべく、安倍晋三に切腹させるか、その首を刎ねるかの「第二の田中静壹」は、今の日本に一人でもいるのだろうか。

 “知の詩人”クローデルが喝破したように、皇室を護持する事と日本国を護持する事は不可分。分離できない。この哲理に殉じた田中静壹・陸軍大将の自己犠牲の精神を、今こそ我ら日本国民は学ぼうではないか。

 話の脱線はここまで。山本信一郎は、「4・30」「5・1」分離で“二日に亘る式典”を、「歴史に実例=先例が存在する」と詐欺の嘘強弁を捏造した。この真赤な嘘歴史満載の『宮内庁編 歴史上の実例』は、2018年2月20日、内閣官房に設置の「式典準備委員会」(委員長は菅義偉)に提出され、インターネットでも撒布された。安倍晋三は天皇制廃止教のカルト信者として、この歴史捏造文書を“権威ある経典”だと拝み、狂気の共産革命「4・30」「5・1」分離式典を閣議決定した(2018年4月3日)

“国民騙しの凶悪詐欺師”山本信一郎著『歴史上の実例』の、歴史大捏造と悪質トリックを暴く             

表1;“赤い悪魔”山本信一郎の歴史大捏造&悪質トリック

 山本信一郎は、「4・30」をでっち上げるために、譲位・受禅の儀式は、平城天皇以来、紫宸殿であるのは常識中の常識なのに、これを「上皇御所!」という空前絶後の巨嘘を考案した。理由は、高輪の上皇御所は未だできておらず、「《儀場=上皇御所》の不在から、伝統に従えませんでした。いろんな特殊な例外が多い儀式にならざるを得ませんでした」と、“世紀の大犯罪”「4・30」を糊塗的に言い訳する/正当化する詭弁づくりのためである。

 つまり、「今上陛下の「高輪」上皇御所が完成していれば、【5月1日】一日で済んだのに」と、わけのわからぬ言い訳をすべく、国民騙しの詐欺言辞として《儀場=上皇御所》をデッチアゲたのである。ムード的に「4・30を設けざるをえませんでした」の煙幕を立ち昇らせる屁理屈が、「《儀場=上皇御所》の不在」ということ。実際に、この騙しに引っかかった頭が悪い皇室尊崇派の御仁がいる。

 次。人殺し以上の犯罪者性を持つ山本信一郎は、表1のdのごとく、世紀のマジシャンを自認して、上皇御所を紫宸殿にでっち上げた。譲位・受禅に関わる重要史料はすべて「儀場は紫宸殿」を自明の前提としての記録文だから、これを読む多少教養ある日本人を騙すには、上皇御所を紫宸殿に偽イメージ化するのが手っ取り早いからだ。

 “凶悪な共産党員”山本信一郎が狡猾な詐欺師よろしく、こんな犯罪的捏造を考え付いたのは、次の二点に着目したからでもある。第一点。仙洞御所が焼けて京都御苑に残っておらず、誰もチェックできない。つまり、嘘八百の仙洞御所を描いてもバレナイと踏んだ。第二。紫宸殿は平安時代より「南殿」と略される。この国語を知る者は、歴史学科卒以外では、私のように中学時代から源氏物語を含め日本の古典文学をことごとく読みこなしているものに限られ、ほとんどいない。よって、南殿を“上皇御所にある、南向きの建物”だとデッチアゲてもバレないと、山本は踏んだ。

 山本信一郎の歴史大捏造文書『歴史上の実例』の嘘八百を暴き正しく公憤するには、表2の常識語を身に着け表3を知ればある程度可能。なぜなら、これさえあれば、十頁しかない『光格天皇実録』1817年3月22日条も基本部分なら正確に読めるし、『歴史上の実例』の嘘八百も透けて見えてくる。

表2;『光格天皇実録』を初めて読まれる方へ(Ⅰ)

表3;『光格天皇実録』を初めて読まれる方へ(Ⅱ)──3月22日の時刻

(備考)光格天皇時代の時刻は、明治4年「改暦の詔書」と同じ。平安時代のそれより一時間ほど遅い。

表4;『光格天皇実録 第三巻』の校訂(暫定)

 『光格天皇実録』に記載の時刻ミスは、原文の記憶錯誤とは考えられず、原文を判読した宮内省編集官の誤読ではないか。「新主の御所」は、この日の『日次案』担当の議奏の記載ミスだろう。

 さて、もう一つ、『貞観儀式』『北山抄』『西宮記』『江家次第』『代始和抄』などの譲位・受禅の箇所は、合計しても十頁ぐらいしかなく、これも少し自己訓練すれば誰でもすぐに読める。以下に、読み方の入門を兼ねて、これらを概説する。

日本人の『貞観儀式』『北山抄』『西宮記』『江家次第』等に無知が、菅・山本らの“譲位廃止”を助長

 これらの史料は単なる史料ではなく、公式の皇室儀式法。これらすべてが規定する儀式こそ、譲位・受禅の皇位継承が遵守すべき法。その基本骨格は次。カッコ内頁数は、注1。

A、譲位・受禅の儀場は必ず紫宸殿のこと。

・『貞観儀式』;「皇帝(は「紫宸殿」の通称名)南殿(なでん)に御(ぎょ)す(お出ましになられる)」(421頁)。

・『北山抄』;「天皇(は)南殿に御す」(283頁)。

・『江家次第』;「天皇(は)南殿に御す」(628頁)。

B、紫宸殿の天皇は、垂れた御簾みすの後に立たれて、お姿を誰にもお見せになってはならない。

・『江家次第』:「懸御簾」(628頁)。

・『代始和抄』;「この日は、(天皇は)御簾を垂れてあらわにはおはしまさず」(343頁、上段)。

C、皇太子は、紫宸殿の東階から昇殿し、天皇の御前に置かれた椅子(いし)に座る

・『江家次第』;「太子(紫宸殿の)上に参じ椅子につく」(628頁)。

・『北山抄』;「皇太子は東階より(紫宸殿に)昇る」(284頁)。

*「東階」は、紫宸殿の東側(軒廊こんろうと連絡)階段。皇太子はここから式場に入られる。

*「椅子(いし)」は背もたれがある。兀子(こつし)は、現代のピアノ椅子に同じく、背もたれも肘掛けもない。

D、宣命文は、大内記(ないき)or大外記(げき)が起草。天皇に杖で奉り、「可」の仰せをもって清書。

・『貞観儀式』;「大臣は(大)内記を召して、譲位の宣命を作れと(命)令す」(420頁)。

E、皇太子が椅子より起立されると、宣命大夫(宣命使、中納言か参議の公卿)が二回宣制する

F、参列者は、第一回の宣命宣制の後、二回拝礼。第二回の宣制の後は、二回拝礼か拝舞。

・『江家次第』;「宣命使(は)版(位に)就く、太子起つ。(宣命使)宣制、群臣拝舞。また宣制、群臣再拝あるいは拝舞」(629頁)。

*式典の前、参列する皇族・堂上公家は建礼門(南門)の内側、地下官人は外側に儀列。皇太子のご起立をもって、建礼門が開門。皇族・堂上公家は承明門をくぐり南庭に儀列。地下官人は南門をくぐり承明門の外に並ぶ。これを「外弁」(「内弁」補佐)が監督。紫宸殿上の東階側に立つ「内弁」が、譲位式典の総括責任者。

G、新天皇は紫宸殿の南階を降り、3㍍ほど進み、天皇に向って拝舞する。

・『江家次第』;「新帝(は南階を)下(お)り拝舞す」(629頁)。

・『北山抄』;「今上(新天皇)は南階より降りて、階(段)を去ること一丈ばかり(3㍍ほど)、北に向き(南)階の中央(線)当りで拝舞す」(284頁)。

H、譲位・受禅の前に、大規模な譲位パレードを行うこと。

・『貞観儀式』;「天皇は本宮(御所、江戸時代であれば御常御殿)を去り、百官を従えて(=大パレードをして)、御在所(仙洞御所)に遷る」(419頁)。

剣璽渡御が完全破砕される「4・30」「5・1」。皇位継承を破壊尽す菅義偉と山本の凄まじい赤炎

 譲位式典は、十以上の儀式からなる。うちトップ・スリーと言えば、宣命の儀/剣璽渡御の儀/譲位パレードの儀であろう。

 「剣璽渡御の儀」は、上記の譲位・受禅における「宣命の儀」と一体不可分に執り行われる。平安時代では、朝、夜御殿から内侍に奉持されて、前天皇とともに紫宸殿に遷幸し、御譲位・受禅の儀式中は前天皇の傍。儀式が終わると、新天皇はいったん東宮御所に戻られ、清涼殿でのいくつかの儀式が終わるまで待たれるが、二人の内侍(女官)はそれぞれ宝剣と神璽を捧げて、清涼殿の夜御殿に奉安されるまで清涼殿の新主となられる新天皇の後ろにひたすらぴったりついて行く。

  • 『貞観儀式』;「拝舞を終え(新天皇は自分の)歩行(での)御列に帰る、内侍は節剣をもちて追従す」(423頁)
  • 『北山抄』;「(拝舞畢<おわり>て新天皇は)東行し(軒廊に設置されている)御休み所に還る。内侍二人(典侍・掌侍各一人それぞれ)神璽・宝剣をもち、(新天皇の)前と後にさぶろう」(284頁)
  • 『江家次第』;「(新天皇の拝舞終了と同時)内侍等は神璽等をもって(新天皇に)相従う」(629頁)

 要するに、譲位受禅の儀式終了と同時に、剣璽はいつの間にか新天皇に渡御している。このように、剣璽渡御の儀式は、儀式らしい儀式は何もないが、剣璽は紫宸殿に御される前天皇とともに(内侍が奉持して)紫宸殿上に遷幸されておられたが、新天皇が紫宸殿を去られるとともに剣璽も新天皇にぴったりくっ付き遷幸されることにより、完全なる渡御の儀がいつの間にか執り行われていたということ。

 剣璽渡御のこのような“儀式を超えた儀式”を、“赤い悪魔”菅義偉と山本信一郎は根底からぶっ壊すべく、絶対にできないようすべく、悪辣非道の“犯罪式典”「4・30」「5・1」を考案した。なぜなら、この両日における剣璽は、こうなるからだ。

① 「4・30」で正殿の今上陛下が剣璽を帯同されておられようとおられまいと、剣璽は「4・30」に主権者たる人民に帰属する。「退位」とは天皇の廃帝を意味して、“譲位”の対置概念で“譲位”を排斥する。

②主権者たる人民(国民)は、皇室の皇位継承を完全に無視し、自分たちの意思において、主権者たる人民(国民)に手にある剣璽を、「有り難く思え、新天皇野郎!」と、「5・1」に徳仁《新天皇》陛下に渡してやることにする。

③ この結果、譲位・受禅の儀も行われておらず、当然、剣璽は渡御していない。すなわち、皇位継承はなされていない。新天皇は、天皇の御印でもある剣璽を政府から渡されご所有なられるだけ。つまり、神武天皇からの王朝の天皇ではなく、新王朝の一代限りの初代天皇となられる。

④ 剣璽は、皇位継承の神聖な宝剣や神璽ではなく、天皇の御印にすぎず、唯物論の“物”に扱う。

光格天皇の“複雑かつ前例のない”剣璽渡御の儀は、どう伝統と整合させ合致したか

 江戸時代は、剣璽は御常御殿の「剣璽の間」に奉安される。1817年3月22日の剣璽遷幸経路は次。

① 光格天皇御座乗の鳳輦に従い、午前7時、剣璽は御常御殿から紫宸殿に遷幸。璽は鳳輦の中に、剣は鳳輦よりかなり前に担がれている櫃に納められている。

② 光格天皇は譲位パレード開始30分前、7時半頃、紫宸殿にて剣璽渡御の儀の一部を執り行う。

③ 剣璽は、譲位パレードとともに仙洞御所へ(午前10時着)。午後2時までここに仮奉安。

④ 剣璽は、仙洞御所より清涼殿に遷幸(午後2時~午後3時前)。経路は、「仙洞御所正門→内裏・建春門→日華門→紫宸殿西側の階段から廊下伝いに清涼殿→夜御殿に仮奉安」

 午後3時半、剣璽渡御の儀式が開始。「公卿以下が、(清涼殿の東にある儀場の)庭に立つ」とある。 この後、内侍二人が夜御殿仮奉安の剣璽を奉持して、新天皇と共に紫宸殿南庇に遷幸。何らかの儀式が挙行されたようだが、委細不詳。

⑥ 午後4時、“剣璽遷幸パレード”「紫宸殿南庇→南階→南庭→日華門→御常御殿」が挙行。すべての道筋に筵が敷かれている。行幸と同じ規模。関白、左大臣、右大臣以下、堂上公家の高官76名を含む200名以上の大パレード。この76名については、『光格天皇実録』第3巻の1676~9頁にリストされている。午後5時すぎに終了。

 この“剣璽遷幸パレード”については、絵が描かれなかったのか,残っていない。それは、1687年の霊元天皇から東山新帝への剣璽渡御パレードと同じ規模・同じ儀式だから、『東山天皇剣璽渡御図』から窺い知ることが可能。後者は、小原文庫に所蔵されている。手続きをすれば、拝観することが可能。このパレードから分かるように、剣璽の渡御は、天皇の行幸と同一の扱いであった。

⑦ 剣璽が御常御殿「剣璽の間」に奉安。午後5時過ぎ。

 以上のことから解るように、光格天皇と新帝の仁孝天皇は、紫宸殿で同時儀式を挙行されたわけではないが、A前・新天皇それぞれが紫宸殿に臨御され紫宸殿で剣璽渡御の儀が執り行なわれたこと、B剣璽は仙洞御所の光格天皇から清涼殿の仁孝天皇に、野球のキャッチボールのように、確かに渡御したこと、の二点で完全な伝統儀式が伝統にたがわず履行されている。紫宸殿に御される前天皇がお見送りなされる中で新天皇に剣璽が奉持されていく渡御方法と、基本は何ら変わらない。

 が、「4・30」「5・1」には、剣璽が前天皇から新天皇に渡御する光景は一欠けらも匂いすらも完全に排除され、抹殺されている。今上陛下が良くて「老国家公務員」、実態的には「囚人」に扱われる「4.30」は、今上陛下へ廃帝!を宣告する“狂気の人民法廷”になっている。剣璽渡御が、片鱗でも見つかるはずはなかろう。

注  1、  

表;2019年5月1日の譲位・受禅の儀式が絶対に依拠すべき最小限の重要史料

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