侵略異民族アイヌ史を美化・捏造し、北海道“先住民族”日本人の歴史を抹殺する“自虐&転倒の国”日本

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筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 ケット人の支族アイヌは、騎馬民族ではない。エニセイ川から石狩川までの3500㎞は、平原ではない。とすれば、3500㎞移動など極めて困難な行程で不可能、との先入観に囚われるのが、定住「水田」農耕民族の日本人。

 が、大型野獣が棲息する住む山々が近傍の、川辺を縄張り居住域とするケット人やその支族アイヌ人にとり、西シベリア東端から石狩平野までの東進は、日常の生活の延長で、さして特別な事ではない。遭遇した他部族を必ず完全殺戮でき、移動途次の食糧確保が無事に達成できるならば、さほど難しくはないのである。

 こうした、考古学の研究対象となる「不朽物」を有さないアイヌの、その歴史解明に欠かせない、原アイヌ「3500㎞大移動」をぼんやりでもいいから映し出すには、行程と年代について、仮推定・検証を何度も何度も繰り返す必要がある。この繰り返し(feedback)検証には、当然だが、最初の仮推定が無くてはならない。が、前々稿で、この最初の仮推定を書き忘れた。遅ればせながら本稿で触れる。

エニセイ川とバイカル湖は連続、山路50㎞を除き繋がっているバイカル湖とアムール川

 エニセイ川上流の入り口から、支流とはいえ大河のアンガラ川を遡れば、小舟群団を持つアイヌにとって、実に簡単にバイカル湖に到る。安全を重視して二百年をかければ、まさに安全にバイカル湖に到る。バイカル湖の水は、アンガラ川を通ってエニセイ川に注ぎ、北極海に流れ込んでいるから、アイヌの移動は、この水の流れに逆った遡行。

 もう一度言う。「大型動物を求めての移動用三脚テント」を生活の中核に据えるケット人(アイヌ人)にとり、僅かしかない家財道具を小舟に積んで(岸から綱で引くなどして)アンガラ川を俎上すれば、バイカル湖畔「西岸」に到達し、そのまま、この小舟群団でバイカル湖を東へ漕げば、直ぐバイカル湖の対岸(東岸)に着く。

 このバイカル湖東岸から、セレンガ(セレンゲ)川を少し遡上し、支流ヒロク川を上流へ上流へと進む。この川はなくなるが、水平直線距離五十㎞の(実際には100㎞を越える)山路さえ踏破すれば、アムール川の支流シルカ川に到る。現在の中都市チタはシルカ川沿いにある。またシルカ川と言えば、清国とロシア帝国が締結したネルチンスク条約(1689年)の、その町(かつては「城塞」)ネルチンスクもある。あとはシルカ川が合流するアムール川を下っていくだけで、一直線にアムール川の河口(=樺太の対岸)に到る。

 つまり、地理的に特段な難所は、ヒロク川からシルカ川に到る山中の一か所しかない。むろん、川の遡行そのことを、難所ではないという意味ではない。

エニセイ川→アムール川(ハバロフスク付近)移動に八百年、ハバロフスク以東で八百年

 だが、この「3500㎞大移動のアイヌ」にとっての真に難関は、この地理上の難所ではない。上述した①遭遇した他部族を必ず完全殺戮できるか否か、➁移動途次の食糧確保が無事に達成できるか否か、の方である。この事を検討するにも、先述の通り、「行程と年代について、仮推定・検証を何度も何度も繰り返す必要」がある。そして、それには最初の仮推定を提示しなければならない。表1は、この研究開始に不可欠な、最初の仮想定。

表1;「アイヌ3500㎞大移動」研究のため、最初の仮・想定年代

 「アイヌ3500Km大移動」は、「紀元前1300年~500年」の前期八百年間と、「紀元前500年から紀元後300年」の後期八百年間の、合計千六百年間を要したと仮定した。そして、前期の移動行路において遭遇した他部族に対する「殲滅ジェノサイド戦」は合計二十回と仮定すれば、アイヌはこの「殲滅ジェノサイド戦」で20戦20勝した、ということ。これはまた、前期八百年の間に、“獰猛なジェノサイド狂”コシャマイン型の酋長が二十名輩出した、ということ。

 多少の諍いは合っても豊穣な定住農耕で繁茂した日本とは異なって、極寒の北方少数民族が棲息する地帯では、人間を生かせる食糧はごく限られている。故に、絶えず餓死と背中合わせの北方少数民族は、縄張りの分配をし合わない限り、文字通り、部族全体の餓死は避けられない。

 しかも、北方民族間に法秩序など無いから、縄張りは他部族に対する殺傷力(暴力)が決定する。この移動中に遭遇した他部族を“皆殺しジェノサイド”に勝利し続けた結果として、アイヌは、新天地「(ハバロフスク以東の)アムール川下流・ウスリー川域」に到達できたのである。

 食料事情が(それ以前の「東進移動八百年間」と比すれば)良好なアムール下流域に到達したからとて、所詮、アイヌはここでは余所者。先住の北方民族が直ぐ、アイヌを受け容れることなど万が一にもない。しかも、この地に到達したアイヌ部族五百名は、病人や負傷者だらけの上に、ほぼ全員が痩せ細って栄養失調だったはず。

 それでもこの情況下で生き残るに、アイヌは、圧倒的な戦闘力を見せつけ、同時に貢物と婚姻関係を通じ、先住民族から縄張りを再分配してもらうのに成功するしかない。この先住民族から受容してもらう歳月に、少なくとも三世代は要しただろう。よってアイヌが、ギリヤーク人(ニヴフ族)やウリチ族との共存を常態にしたのは紀元前四百年頃と仮定する。

「アイヌ3500㎞大移動」中の、匈奴や鮮卑の脅威は? 

 上記の仮定で、ある問題を考慮しなければならない。第一は、紀元前五~三世紀にアルタイ山脈の南、モンゴル高原に台頭し急膨張した騎馬民族「匈奴」の軍事的な大脅威である。最盛期の匈奴は、アムール川を支配下に置いた時期もあった。仮に小部隊の匈奴であれ、遭遇すれば、アイヌ集団五百人など一瞬にして皆殺しされ死体の山となる。が、「匈奴」が最盛期だった、紀元前三世紀~紀元後一世紀、アイヌはすでに新天地「アムール川下流・ウスリー川域」に到達していた。注1。

 第二に「鮮卑」。鮮卑は、紀元後六世紀頃まで猖獗したので、遭遇すればアイヌは滅んでいる。が、「鮮卑」は、漢族支配に全勢力を投入し南下にしか関心が無く、ために、アムール川下流・ウスリー川域は、「鮮卑」の来寇から安全地帯だった。

大和朝廷への服属を拒み国家統一を四百年遅らせた、「東北」豪族・武人らの大罪

 「匈奴」に触れた時、ふと万里の長城が頭によぎった。匈奴の侵略を防ぐべく、漢族が最初に造った万里の長城は、日本の弥生時代中期に当る紀元前214年のもの。なお、世界中の観光客で賑わう、現在の万里の長城は明代のもの。最初のそれは、はるか北方に位置する大平原の中に築城された。

 日本も、アイヌが北海道に侵入してきた四世紀、まだ国家統一の途次だし、国力もないから不可能な話だが、万里の長城のような城柵を余市から宗谷にかけて張り巡らせれば、アイヌの侵入は阻止できたはずで、今日のアイヌ問題はなかった。この非現実的な夢想ケースでは、日本人の祖先「北海道縄文人」が、侵入民族アイヌにジェノサイドされる“六世紀の酸鼻な事件”は起きなかった。

 が、四世紀は無理でも、六世紀に入ると日本国の情況はがらりと変化した。日本は、北海道天ノ川河口の上ノ国(備考)or函館などに城柵を築城する充分なる国力を持つようになっていたからだ。しかし、東北地方の豪族や武装の日本人(「蝦夷 えみし」と総称された)は、大和朝廷への服属を拒み、大和朝廷の国家統一を手古摺らせ、八世紀頃まで大和朝廷は、北方政策を北海道統治ではなく東北「叛逆日本人」平定に浪費せざるを得ないという、国防上の国家的な大損失を余儀なくされた。

(備考) 阿倍比羅夫による奥尻島ギリヤーク人征討の660年、日本海側の日本人とアイヌ人との居住境界は、天ノ川と後志利別川の中間線か。なお、阿倍比羅夫は、日本国を害さないギリヤーク人より、害するアイヌ人こそ征討すべきであった。主に余市アイヌだろうが、アイヌ一千名以上が後志利別川に三脚テントに野営して野次馬のごとく集まってきたのは殲滅する好機。この時、アイヌの方を殲滅しておけば、室町時代のコシャマインによる日本人一万人以上の殺戮はなかっただろう。

 このように東北地方の反・大和朝廷勢力は、九州南部の反・大和朝廷勢力「熊襲/隼人」と異なり、(天才・軍略家であらせられた神功皇后のご選択のように)無視して放置しておけば済む広域武装勢力ではない。東北地方の反・大和朝廷勢力は、我ら日本人の祖先たる“縄文人の故地”北海道の防衛を機能不全にしてしまったからである。東北地方より北方の、北海道に来寇している異民族アイヌを北海道から叩き出すという、日本国の国防を無能化したのである。

 この意味で、大和朝廷への服属を拒んだ、東北地方の豪族や武装集団の日本人(「蝦夷 えみし」と総称)の罪は計り知れない。敏達天皇や斉明天皇の御代の『日本書紀』第20巻/第26巻を読むと、この無念が何時も頭をよぎる。

 ついで。これに類する国家叛逆的な大罪は、平安時代から鎌倉時代初期にかけての奥州藤原氏にも通じる。源頼朝による奥州藤原氏殲滅の断行(1189年)は正しかった。これによって、十三世紀にモンゴル軍が「西は九州博多、北は樺太」に侵略してきた時、全国の鎌倉武士団は一致して、モンゴル軍撃退に集中できた。

(附記) 近頃、モンゴル軍の日本侵略に関して馬鹿げた真赤な嘘が共産党とロシアKGB支配の学界からプロパガンダされている。モンゴル軍は、日本に移民するために来寇した。侵略ではない、と。

 彼らが真赤な嘘証拠として挙げるのが、モンゴル軍が保有していたかなりの数の鋤と鍬。が、この鋤と鍬は、侵略後の日本で騎馬用の馬の牧草づくりのため。実際に博多上陸後、那珂川の周辺に大牧草畑を作る予定だった。移民政策なら、必ず子どもを産める若い農民夫婦をかなりの数連れてきているはず。だが、蒙古軍には一名の女性もいなかった。蒙古軍は十万人をはるかに超えたが、このうち蒙古人は5%未満。95%は朝鮮人や支那人。蒙古人がいないのに、“蒙古人の移民”とはいったい何だ。

北海道を事前にintelligenceし尽した、アイヌの周到・慎重な探索力(斥候力)の怖さ

 表1に関連した重要問題がもう一つ。それは、アイヌ部族は、エニセイ川を恐らく追放されて、東へ東へと移動したが、放浪者のごとく当てもなく東に向かったのではない。あくまでも、食料を求めた結果としての東。また、この東進する毎に、その前には十全な調査・探査を行い、部族五百人が生活できる食糧の確保の、目途が立ってから移動している。つまり、十名以上の先遣隊が四方八方、安全と食料を探ったintelligence後であり、衝動的・直感的な東への踏破ではない。

 特に、一戦を交えることになる他部族の縄張りへの突入を避けられない場合は、その戦力をつぶさに斥候し戦いに勝利する準備をし、縄張り突破もしくは縄張り奪取を敢行したはずである。縄張り奪取の場合、相手をジェノサイドするのが鉄則。ジェノサイドできなければ、自分がジェノサイドされる。

 アムール川河口から北海道石狩川への移動を決行する時も、事前に石狩川を探索し尽くしたことは言うまでもなかろう。この探索には、十年前後の歳月が費やされ、先遣隊的な斥候アイヌ人は延べ数十人に及んだと思われる。大型魚(鮭)や周辺の山には熊や鹿がふんだんに棲息している事を視認し、石狩川周辺は祖先から伝え聞いた原故郷エニセイ川と瓜二つだと確信し、また先住民族が非武装の温和な縄文人だから時を待ってジェノサイド出来ると確信し、北海道を最終居住領域と決定。そして、北海道への強行移住を決行したのだろう。

 アムール川河口から北海道・石狩川への部族移動は、樺太の西海岸を南端まで二年以上かけ、徒歩集団と小舟群団とで行ったと仮定する。大集団二千人がアニワ(亜庭)湾全体に広く散開する形で集結した後、北海道移住組と樺太残留組と二つに分かれ、前者千五百名、後者五百名と仮定する。これが北海道アイヌと樺太アイヌの分枝。それぞれのアイヌ語方言の相違は、かくして生まれた。

 まず、基本の仮定。宗谷海峡の渡海初年次には、丸木舟を二十艘準備できたとして、一艘最大五人だから、小舟群団として一回で百名を移送できる。期間は波が穏やかな4~7月に限られるから、「アニワ湾→宗谷→留萌→石狩海岸→石狩川」のコースでは三往復が上限か。この場合、一年間の移送人数は、「5名×20艘×三回=300名」。つまり、1500名を移送するに五年間を要する。

 が、小舟の船頭格は戻るから、実は4名しか運べない。家財道具と一人とが同じ重量とすれば、この一人分を引き、実際の移送は一艘3名。とはいえ、アニワ湾側で待っている者が小舟を増産するから、次年には30艘、次々年には40艘に増えると仮定できる。こう計算し、アムール川河口からアニワ湾を経た石狩川までの千五百名の移動は、十年の歳月があれば余裕をもって完遂できる。

「狼は、兎から産まれる」と全く同じ、“スーパー狂気の妄言”「アイヌ=縄文人説」

 さて、ここからが本稿の本論。アイヌは、エニセイ川とその周辺の山で大型魚や大型野獣を狩猟する非農耕民族ケット人を母胎にする以上、縄文人とは似ても似つかぬ、それとは真逆な習俗と文化の異民族である。当然、この縄文人からアイヌが誕生したとするアイヌ研究者の強弁を聞けば、ダーウィンは心臓麻痺で即死すること間違いない「狼は、兎から進化して生まれる」と主張しているのだから、正常の域には無い。アイヌ研究者の九割はエセ学者で、犯罪者的な凶悪ペテン師である。

 そこで、アイヌと縄文人に関する習俗や文化の明白な相違や異質性を、あらゆる分野で、これでもかこれでもかと論じたい。が、読者は読むのにうんざりするだろう。いくつかの習俗に限る。まず、アイヌが北海道に侵入して以来、明治時代半ばまでの1600年間、北海道で頑なに守ったアイヌ墓制・葬制を、縄文人のそれとの比較から始めよう。

 アイヌは土葬だが墓石が無い。墓標は朽ち果てる一本の棒切れ。親族が埋葬場所を再び訪れることは無いからだ。その埋葬方法は、藤本英夫の本に(注2)、1960年頃の観察記録がある。が、この埋葬、昭和後期の事例だから、(アイヌ社会では大正時代から仏教への帰依が始まったから)仏教の影響もかなり強い。以下の私の引用は、仏教に影響された部分を排除している。“共産党員”藤本英夫は六流学者にもなれない赤色クズ人間。アイヌ固有の葬制と仏教の影響下の葬制の、この峻別作業すらしない。知力が小学生レベルで、できないからである。

 “棒切れ”墓標はハシドイの木で作り、四種類。T字形、Y字形、槍型、縫い針型。高さは1㍍ほど。直径は10㎝ほど。(熊送りと同じく)死者を神に送るべく、神の使いが直ぐ分かる目印として天辺に消し炭を塗り、黒い布をぶら下げる。この棒切れに、水を入れてきた桶を、底を割ってぶら提げる。

 藤本が見学したのは、アイヌ全員、読み書きができる1960年頃。なのにアイヌは、墓標に名前を書いていない。墓(祖先)に再び訪れないアイヌにとって、墓名は必要がないからだ。墓や仏壇その他を通じて、死んだ祖先と無数に再会・対話する/したい、日本人の宗教思想は、極寒北方の異民族アイヌには存在しない。

 さて話を戻す。アイヌは亡骸をキナ(ゴザ、筵)で包む。次に、この筵がほどけないよう、その両端に(悪臭の出る)ニワトコの小枝で作った櫛を指す。死亡後に新たに搗いた稗や粟の団子を入れた器を、掘った穴の、死者の頭側に置く。土を被せ、その傍に棒きれ墓標を立てる。盛り土などしない。埋葬はこれで終わり。が、葬儀の掉尾が、老衰などでの死者の場合、その最後の生前の家を持ちものと一緒に焼く。死者に「あの世での家と生活道具」をもたせるためである。

「亡き祖先が子孫離れせず、あの世がない縄文人」は、日本人の心に今も生きている

 翻って、“日本人の祖先の一つ”北海道縄文人の墓を考えよう。例として、(まだ侵入アイヌに撹乱されておらず、平和だった)紀元前1200年頃に造られた、北海道千歳市のキウス周提墓群を取り上げる。

 仏教渡来以前の“日本人の墓に関する宗教的思想”について、反宗教の共産党が絶対支配する日本の学界は、宗教分野の研究を大学から完全に放逐した(禁止した)。現在の日本の大学では、墓について言及する場合、基本的にはエンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』に依拠しなければならない。構造マルクス主義人類学などが、日本列島すべての大学を跳梁跋扈し、墓に関する学問は共産革命の僕になった。日本の文系大学に、学問の自由など存在しない。共産党の絶対支配によって、学問の自由は虱潰しに潰されたからだ。

 話を戻す。千歳のキウス周提墓群は、現時点14基。1&2号は、外径が75m。墓壙の深さは2㍍。周堤の幅は最大20㍍もある。出入り口があるので、祭祀を行っていたのがわかる。

 弥生時代に大発展する日本人の祖先崇拝(信仰)の原初形態とも考えられるが、これほどの大きさにした理由を説明できない。人口比で考えれば、仁徳天皇陵(最大長500㍍強)よりはるかに大きい。当時の北海道全土の縄文人総数を3万人、仁徳天皇の御代における大和朝廷統治下の日本国民総数を400万人とした。墓を巨大にすれば、子孫が仰ぐだけでなく、そのぶん子孫を惹きつけ子孫に墓参りさせる心理効果を増大せしめる。

 このように墓を巨大にして子孫を集める効果を狙うのは、墓に眠る死者が子孫に会いたいからである。墓のほとんどは子孫が自主的に造ることはない。墓造営や埋葬方法や祭祀に関しては死者が生前に準備してしまうか、子孫にどうしろと命じておくのが一般的だからだ。しかも、仏教渡来以前の、日本人の“逝った先祖”観は、民俗学からおおむね判明している。「亡き祖先が、子孫離れしない」「生きている子孫が、先祖離れしない」という宗教的心情が濃厚だということ。

 この「子孫離れ/先祖離れ」は、「子離れ/親離れ」と同類。この「子孫離れ/先祖離れ」を宗教的に解剖すると、日本人にとって、死者は「あの世」に往かないという事。仏教的に言えば、日本人は、死んでも成仏しない、ということ。亡き親が子供から離れない事を意味する「草葉の陰から見守る」と言う言葉が今でもあるのは、縄文人が今の日本人に生きているということに他ならない。

 このように日本人が亡き父母が草葉の陰から見守っているように感じるのは、先祖離れができないからである。譬えれば、日本人は浄土宗の「西方浄土」を観念で受容しても、心底では拒絶している。

 つまり、亡き死者を「あの世」に送ることを決してしない日本人と、アイヌのように死者を“神の世界”に送る思想とは真逆である。アイヌは、日本人とは全く異質な北方の異民族である。吉田兼好法師『徒然草』に次の有名な文がある。

「晦日(「つごもり」、おおみそか)の夜、いたう闇きに松ども(たいまつ)灯して夜中すぐるまで人の門を叩き走りありきて・・・。亡き人の来る夜とて魂祭るわざは、このごろ都には無きを・・・」(第十九段、注3、カッコ内中川)

 縄文人は、死んだ人が大みそかの晩に家に戻ってくると信じていた。大みそかには、戻ってくる死者の魂を祭らねばならないと考えていた。これは8月の盂蘭盆(サンスクリット語で「ウランバナ」)でも同じ。それは表向き、仏教の祖先祭祀。だが、この盂蘭盆、日本人の思想と精神においては、仏教の教理を排し、亡き先祖が山から家に戻ってくると考え、地方によっては山に迎えに行く風習があった(注4)。お盆になると庭で薪を燃やす地方も多かった。祖先が道に迷わずに昔の家に辿り着くようにするためである。「京都五山の送り火」(大文字、お盆の翌日8月16日)も、還ってきたご先祖様のお帰りを見送るためのもので、先祖は決して「この世」から離れない(あの世に逝かない/逝ったきりにはならない)との信仰あっての宗教行事である。

 春秋の彼岸に墓苑に行くと、あちこちで墓石に水や日本酒をたっぷりとかけている風景に出くわす。そして、読経ではなく、ぶつぶつと語りかけている遺族も多い。先祖が「あの世」ではなく、「この世」で子孫の傍にいるとの信仰なしには、この行動はしまい。日本人はアイヌとは180度異なって、今も、縄文人のまま、祖先と暮らしている。祖先の魂が、「この世」の山々や草葉の陰で、日本列島を隈なく覆い尽くしているのである。

 柳田国男の次の有名な一文に、私も同一思想を共有するとはいえ、日本人論の神髄を見る思いがして感動が止まらない。

(日本周辺の民族では)死ねば途方もなく遠い遠いところ(あの世)に旅立ってしまうという思想が凡そはいきわたっている。・・・独りこの島々(日本列島)のみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを観念しているものと考え出した・・・」

「魂になってもなお生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人である故か、私には至極楽しく感じられる」(注5、カッコ内中川)

縄文人の生活;「植物採集/植物栽培」←→アイヌ人の生活;「大型獣捕獲と皮鞣し」

 北海道恵庭市に、広大な縄文カリンバ遺跡群がある。ここから、紀元前1000年頃の土壙墓群が見つかり、副葬された120点以上の漆製品が発掘された。櫛、髪飾り環、顔飾り輪など、全て女性用の品であった。漆製品は、人類史において日本の縄文人が世界最初。今も、日本は、この漆技術で世界に冠たる評価を受けている。現在の日本人とは、縄文文化の誇りある正統な継承者である。

 序の話。日本は今でも、竹篭などの竹工芸や竹芸術で世界から称賛されている。この篭編みは、(竹ではない)樹皮や蔓や草から縄文人が編んだ篭が発展したもの。日本人は、漆器/朱塗り器/竹篭を見た時には、縄文時代の祖先(原日本人)からの贈り物だと、しっかりと認識し感謝しなければならない。もう一つ序。私が子供の頃には水田の畔に大豆が植えられていた。これも縄文時代人からの伝統。

 話を戻す。この発掘「漆製品」は、重要な視点をもう一つ提起する。それは、縄文時代における日本女性の祖先は、美しく着飾ることが容認されていたこと。すなわち、縄文社会とは、美しい衣服や飾りでの女性間の競い合い(階層化)が起きていたのである。新石器時代とは思えない、文明一歩手前に発展した社会だったのである。

 一方、アイヌの女性を見てみよう。江戸時代末から大正時代にかけて、平山屏山『蝦夷島奇観』など、アイヌの生活に関する絵画やスケッチが数多く残っている。そのどれを見ても、アイヌ女性の服飾や飾りに文明社会の美しき装いと言うものがない。アイヌ女性には、未開人のままが強要され、「美しくありたい」の女性本来の感情が抑圧され認められていなかったのである。

 アイヌ女性の服も基本的には男性の「アットゥシ」(オヒョウの木の内皮の繊維で織ったアイヌ織物)と同じである。耳輪も、男性と同じで、女性用の櫛とか髪飾りなどは、アイヌには存在しない。これだけでもアイヌと縄文人は、木星と金星ほどにかけ離れた異民族なのが一目瞭然。

 女性が自らの美を好むままに追求できるか否かは、その社会が真に豊かな文明社会か否かのバロメーターだから、女性用の櫛もないアイヌ社会とは、非文明な野蛮と未開の基準において、縄文時代人以下に未開であった。「縄文人以下が、縄文人から生まれた」などとは、哺乳動物から爬虫類が生まれたとする“逆転”生物学というべき、狂気の妄想。

 縄文人の日常生活に関わる真面な本が出版されたので紹介する。工藤雄一郎らが編集した『ここまでわかった!縄文人の植物利用』によれば、大豆の種を播き栽培し収穫などは女性の仕事だとしている。表紙には女性が弦豆を採集している想像図がある(注6)。違和感がない。実際に縄文人の女性は、海辺でアサリ/ハマグリ/沖シジミ/カキ/サルボウ/エビ/カニなどを採集する他は、日々のほとんどを植物と向き合っていた。アワビやウニは、潜りが特異な一部の女性の仕事だったか。

 一方、アイヌ女性は、昭和時代にはいっても、日々の多くを動物と向き合っていた。特に、獣の皮を鞣すのは女性の仕事。例えば、女性の腰巻/下着や子供の着物に、鹿皮を鞣すには、表面の毛をマキリ(小刀)で削り取り、肉をマキリの背で丁寧に剥す。そして何度も何度も洗う。あるいは、湧き水が出ない沼に暫く漬けておく。沼から出したら、直ぐに(縮まらないよう)板に張り付ける。鞣さずに使う熊を除いて、ほとんどの動物の皮に、このような工程の鞣しを行うである(注7)

 植物を相手とする縄文女性の日常と、動物を相手とするアイヌ女性の日常を比較し直視するだけでも、「縄文女性からアイヌ女性が産まれた」など荒唐無稽も度が過ぎて、学問ではなくオウム真理教の狂気のドグマなのがわかる。共産党員大学教授を全員解雇しない限り、日本の学界には学問が棲息することはできない。

 

1、「匈奴」に言及した時、司馬遷『列伝』第五十「匈奴」を、現在の日本人への警句が記述されていたなと、ふと思い出した。「匈奴」を、「ロシアand/orアイヌ」に替え、次の一文を読まれたい。

 「匈奴は、常に中国(正しい翻訳「我が国」)にとって、憂慮と災害を引き起こす存在だった」「匈奴は、北方の未開地域に住み、家畜を放牧しつつ転々と移動した。・・・文書を持たず、規約や命令も口頭でなされた。…士卒は弓を引く力があれば、全て甲冑を着けた騎兵となった」。『史記列伝 四」、岩波文庫、25頁。

2、藤本英夫『アイヌの墓』、日経新書、1964年、18~20頁、29~52頁。素人以下の高校教師・藤本英夫は、この程度の見学記録はできるが、赤い出鱈目ぶりは天文学的。例えば、縄文人を完全に抹殺しておいて、「かつてこの北海道は、正真正銘、アイヌの祖先の国であった」(14頁)などと真赤な嘘を平然とでっち上げる。藤本は悪魔より怖いコミュニスト。だから良心がない。

 また、「アイヌの葬儀と仏式による葬儀の共通性・類似性は、両者に仏教以前の古い習慣が保存されているということで納得される」(64頁)とは、笑止。誰しもお腹が痛くなるだろう。

 さらに、「(自然を無限搾取するだけの)アイヌは生産手段をもたないで、消費の方法だけ日本人に教えられた」(125頁)と聞けば、反論する気も失せよう。アイヌの男が働かないで酒ばかりを飲む飲んだくれになるのを、日本人は教えてはいない。日本では極度に富裕な町人や上級武士しか持っていない高級家具的な漆塗り「行器(ほかい)」を、アイヌは必要もないのに矢鱈目鱈に買い捲る。日本人の誰も、この異常な浪費病をアイヌに教えていない。

 羆や鹿やラッコやオオワシを捕獲し尽し、ラッコはついに絶滅した。熊祭りも、仔熊に対する動物虐待の極み、可哀相で見るに忍びない。アイヌはマルクス主義が“目の敵”にする「生産」を断固拒否し、ひたすら自然動物殺戮と浪費に生きてきた。新石器時代のまんまで、獰猛な北方蛮族アイヌにマルクス経済学を適用するとは、藤本英夫は生きていたら、吉本興業の人気お笑い芸人に成れただろう。

3、『方丈記 徒然草』、日本古典文學大系、106頁。

4、柳田国男「先祖の話」『全集13』、ちくま文庫、151頁、173頁、187頁、他多数。

5、柳田国男「魂の行方」『全集13』、ちくま文庫、710~11頁。

6、『ここまでわかった!縄文人の植物利用』、神泉社、2014年。

7、後藤寿一『北海道先史時代考1』、北海道出版企画センター、163~6頁。

(2020年11月14日記)

附記;本稿は、特別ゼミ「10月10日」研究発表の成果の一部である。ゼミ参加者の御協力に厚く御礼申し上げる。

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