アイヌ嘘歴史“捏造の元祖”金田一京助は、どんな目的でそうしたのか──天皇への武力叛逆を煽動? 日本人からその祖先を剥奪して「“無祖先”自虐教」を刷り込む? いずれも日本国の溶解的自壊か、スターリン型共産革命に行き着く

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

(備考)本稿は、10月26日/11月9日/11月16日/1月8日upの連載「侵略異民族アイヌの本当の歴史」第五弾。

 大和朝廷への服属(帰順)を断固拒絶する、東北の「蝦夷」が日本人であることなど自明にすぎ、この問題は元来、論争にもなりえない。が、六国史にある「蝦夷」をアイヌだとの真赤な嘘を真赤な嘘と知りつつ、学問の形で大嘘宣伝した“極左”一流学者が、大正時代から昭和前期にかけて二人いた。現在、共産党員アイヌ史家が“真赤な嘘”「蝦夷はアイヌだった」を書き捲るのは、この“嘘歴史パイオニア”二人が残した真赤な嘘内容の著作が決定的に元気づけているからだ。

 「北海道アイヌ」の存在を革命手段に活用して、日本国の溶解的解体を目論んだ明治生まれの“極左”一流学者二人とは、喜田貞吉と金田一京助のこと。喜田貞吉は部落解放アナーキスト。金田一京助もアナーキズムに傾斜した共産主義者で戦後に入党した。

  なお、この両名の馬鹿げた嘘「蝦夷=アイヌ」に反駁したのが、戦後の1951年になっていたが、東京帝大理学部教授・長谷部言人(医学部卒)。金田一とは同じ年に生れた長谷部の結論が、次。

「身長、頭の形、血液型のどれをとっても、現代の東北人がアイヌに似ているとは言えない。結果は逆で、エミシはアイヌではないという方角を指し示している。・・・(前節では)国史の記述と地方差とを研究してアイヌが内地にいた跡形の無いことを証明した」(注1)

 喜田貞吉と金田一京助が活躍した大正時代を、彼らと同時期の極左著名人と一緒にし、表1に纏めた。明治生まれがいかに“反日極左”に育つかが、一目瞭然に明らかになる。明治生まれの保守主義者・与謝野晶子が、いかに稀有な例外だったかもわかる。

表1;大正時代を“赤”“黒”で埋め尽くした“赤”“黒”製造機械の明治維新(1868年)

(備考1) 附記1に、明治維新に関する若干のコメントがある。

(備考2) 表1の極左人士七名全員は、明治維新後に産まれ明治時代の中に、25歳の青年になった。男性は13~25歳の間に、自らの思想を形成する。25歳以降は、それ以前につくられた思想=脊椎に潤沢な知識を肉付けする作業をするだけで、思想形成はしない。だから、転向は極めて稀にしか起きない。ちなみに私は1965年(20歳)の思想から一㍉も変化していない。

「六国史」にある語彙「蝦夷」99%は”叛乱する東北日本人”、「蝦夷=アイヌ」は1% 

 六国史『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』における日本語「えみし」は、『書紀』の神武天皇紀に初見され、『三代実録』の陽成天皇紀が最後。

 神武天皇の御即位を紀元後50年とすれば、平安時代の陽成天皇元慶二年(877年)に、最後の「えみし」記述が見えるから、「大和朝廷に服属せず叛乱する東北の勇猛な日本人武者」を意味する日本語「えみし」は、八百年以上にわたって使用されたことになる。「えみし」同様、大和朝廷に帰順せず叛乱する、二地方「熊襲」「隼人」に比すれば、圧倒的に長期間であった。

 なお、未開人観賞が趣味の“唐の三代皇帝”高宗に、「《えみし》です」とアイヌを見せた659年、この唐の皇帝が漢字「蝦夷 発音は支那音」で御下問し、これが日本で「アイヌ」の宛て漢字となった。「アイヌ」の漢字が、東北“叛乱”武力勢力の「えみし」の宛て漢字と同じになった原因である(注2)

 が、この時、高宗に奉答した日本側高官の博徳(帰化支那人、「はかとこ」と読む)は、引見させたアイヌ二人を「つかる 津軽」と呼称し、「えみし」とは呼ばなかった。アイヌ二人は津軽半島突端の海峡海岸に住んでいたからである。また、東北の日本人武力“叛乱”勢力「えみし」を、「荒えみし 敵対的」「にき(熟)えみし 友好的」に二分し、津軽アイヌは「にき(熟)えみし 友好的」だと奏上している(注4)

 日本語「えみし」は、「関東北部・東北地方の勇敢な叛乱武者」の意で、弥生時代にできた古・日本語。また抽象名詞。蔑視感など無いし、尊敬の念が込められていた。蘇我蝦夷の名前「蝦夷」は、原義のままに“勇猛な武人”の意。鎌倉武士の中で、「俺様は、東夷(あづまえびすだ」と勇猛ぶりをアピール者がいたが、これもこの名残。

 さて、神武天皇紀の記述。

「えみし(原文の“宛て漢字”は「愛瀰詩」)を ひだり(一人)(もも)な人  人は云へども たむかひ(抵抗)もせず」(注3)

【訳】 関東北部(茨城県?)の叛乱日本人武装集団は、一人当百(「一騎当千」の類語)の強者なのに、われら久米一族軍勢の武勇の前には防衛戦もせず降伏してくる【訳、終】。「えみし」との戦いに勝った久米一族が、戦勝を祝う歌である。

 陽成天皇紀の記述は、878年3~4月の条。

「夷俘(えみし)叛乱し、秋田城ならびに郡院の屋舎、城辺の民家を焼き損ふ。・・・陸奥国に勅して(出羽国を救援すべく)・・・精勇二千を発して星火馳救すべし・・・」(注5)。

 この記述を読んだ時、誰しも十一世紀の「前九年の役」を思い起こす。陸奥国から出羽国に、鎧兜で身を固め、和弓(弓矢)を馬上に翻す騎馬軍団一ヶ連隊が進撃している光景。まさに「前九年の役」の二百前のリハーサル。アイヌでない事など、語る必要も無い。

 序なので、『続日本紀』780年条の「蝦夷」記述を注6の表4で概説しておく。重要二点が明らかになっている。第一。この八世紀、かなりの数の一般日本人が北海道に居住していること。第二。『続日本紀』では「アイヌ」言及の記述はゼロ。アイヌは、大和朝廷の視界にすら入っていなかった。

 要するに、「六国史」全体でアイヌへの言及は、斉明天皇紀のみで二ヶ所。一つが、唐の第三代皇帝・高宗と日本側通訳官・博徳のアイヌに関する会話。もう一つが、大和朝廷内で人気沸騰の“羆の毛皮”欲しさで、アイヌに依頼され奥尻島ギリヤーク人を征伐した時の、アイヌたちの言動記録。

 六国史全ての「えみし」の宛漢字「蝦夷」「夷」「蝦狄」等の総数は、数えていないが一千ヶと仮定する。一方、斉明天皇紀で、アイヌを意味する語彙「蝦夷」「津軽」等は九ヶ。すなわち、語彙「蝦夷」のうち99%が「日本人」を指し、「津軽半島アイヌ」を指す「蝦夷」は1%。アイヌは、大和朝廷にとって羆の毛皮以外では無関係。この1%ですら過剰に過ぎる。

 実際に、“白村江の海戦”を目前に控え、唐帝国の朝鮮半島への出兵「情報」を聞き出す諜報intelligence材料として観賞用アイヌを献上しての皇帝との謁見会話での「蝦夷」を除くと、この1%は0.4%に下がる。この数字の方が、当時の日本政府のアイヌ人記録としては実態に沿っている。

 序だから、『日本書紀』にある、ギリヤーク人に関する記述三ヶ所を、注7で紹介しておく。

“語呂合わせ”“コジツケ”の天才・金田一京助は、頭が赤い“狂気と妄想病”ペテン師

 日本一のアイヌ語学者・金田一京助の“荒唐無稽な嘘アイヌ史”は、確信犯的に“アイヌ知らず”を演技し、東北地方の対「大和朝廷」叛乱史を虚構アイヌでクローズ・アップさせ、天皇制廃止や日本国の社会主義化に直結する暴力革命を煽動する共産革命イデロギーの宣伝として垂れ流したと考えられる。以下いくつか具体的な例を挙げる。金田一京助の、“非・学問の極み”荒唐無稽なアイヌ史改竄・捏造のアクドイ犯意は、霧の中から鮮明に浮かび上がるだろう。

「東北・平泉で栄華を極めた藤原三代のミイラは、十四世紀以降の樺太アイヌの習俗」(金田一京助)

 金田一は、次のような小学校五年生でも嗤うデッチアゲに酔い痴れる。彼に正気は一欠けらも無い。

「最後の俘囚の藤原清衡・基衡・秀衡三代のミイラが、内地の他のどこにもない、陸奥にだけ、蝦夷の大酋長の葬儀法の所為で存在する。・・・本州アイヌが、ついにここまで発達して消えたかと、千載の大種族(「アイヌ」のこと)のこの世に姿を消す最後の閃光の美しかったこと・・・」(注8、78頁、俘囚とは「元・えみし)のこと)

「平泉に小京都が現出した三代の栄華の夢こそ、消えなんとする本州エゾ(アイヌ)の最後の、一瞬の炎だった」(注8、63頁、カッコ内中川、津軽海峡沿岸を除いてアイヌがゼロ人の東北を「本州アイヌ」とは卒倒)

 金田一は、生涯を通して「東北の蝦夷は、アイヌだ」だと主張し続け、この嘘を垂れ流すべく、どんなコジツケも詭弁もデマゴギーも躊躇はなかった。上記の文は、樺太アイヌ語を採集した際に金田一が樺太で聞き知った、樺太アイヌのミイラづくりの習俗を、藤原三代のミイラに牽強付会的にくっ付け、“同族のアイヌと同じ習俗だ”を捏造すべく、コジツケ考案をした金田一らしい悪賢さの一例。“コジツケの天才”金田一京助の、この“世紀の大捏造”に、以下、基本部分を反駁しておく。

 第一点。樺太アイヌのミイラは、明時代の支那のどこかの風習からの影響との説があるが、定かではない。が、十四世紀以降の習俗なのは確定している。一方、藤原三代(清衡、基衡、秀衡)のミイラは全て十二世紀。樺太アイヌの習俗が奥州平泉に、タイムマシンでもあるまいし、二百年前に入ってくるわけないだろう。Henry Stewartは、「樺太アイヌがミイラを作っていた年代は必ずしも明確ではないが、上限は十四世紀をより遡ることはなく、十九世紀に入ってからは、その習慣は既に廃っていた」と結論。これは、学界では異論ゼロの定説(注9)

 第二点。金田一の生涯変らぬ主張は「北海道アイヌが南下して東北に入り蝦夷になった」である。

 すなわち、金田一が、奥州藤原三代のミイラをもってこの藤原三代は“幽霊”「本州アイヌ」の証拠だと仮にも強弁したいなら、「ミイラ化の葬制は北海道アイヌの習俗だった」を証明しなければならない。

 が、北海道アイヌには、ミイラ化の葬制習俗は皆無。金田一の言説は、嘘八百の大嘘ばかり。 

 第三点。奥州藤原三代のミイラは人為ではない。自然ミイラ化の可能性が高い。一方、樺太アイヌのミイラづくりは、詳細が判明している人為的ミイラづくりの典型(注9)

 それにしても、藤原三代(泰衡を含めると四代)が、源頼朝によって1189年に滅ぼされる歴史を、本州アイヌがこの世から消える美しい閃光だと、名演技「錯覚錯誤のふり」で、アイヌを超美化する金田一の狂気を越える妄想は、金田一が重度のメンタルdisorder(病気)の病人であるのを示唆する。

 文字を読めない・書けない/算数ができない/大工道具もない/仏教など知らない/馬に乗れない/和弓を拒絶する/羆狩りと酒がぶ飲みが人生のアイヌが、中尊寺の金色堂を作れるはずがない/頼朝軍と戦争などできない、と考えるのは小学生一年生でもわかる常識。だが、カルト宗教「アイヌ狂」の“教祖”金田一京助には常識などない。麻原彰晃を越える、大妄想のチェーンに酔い痴れる金田一は、カルト「アイヌ教」布教の宣教師。彼のコジツケと語呂合わせのデマ論文は「布教用聖書」。

(前九年の役の)安倍三代はアイヌ。アイヌの安倍貞任は和歌の名手・・・」は、金田一妄想の狂歴史

 笑止千万も度が過ぎる「奥州藤原三代(四代)はアイヌである」との、“気狂い”金田一京助の、卒倒する妄言狂論を読んだ時、最初に頭に浮かんだのは、中学二年生の時、面白くて徹夜して読み耽った『古今著聞集』の、その巻第九にある一節だった。

 陸奥守・源頼義が、逃げる“陸奥の国の俘囚長”安倍貞任を衣川で追いかけ弓を射んとし、その背中に、和歌「衣(「衣川」をかけている)のたて(経糸の「たて」と小城の「館たて」をかけている)は綻びたり(「亡びたり」をかけている)」を投げかけた。安倍貞任は振り向いて、「年を経し絲の乱れの苦しさに」と返歌した。見事な和歌に、頼義はつがえた矢を収め追捕を止めた(注10)

 すなわち、「安倍貞任はアイヌだ」と妄言を吐く金田一とは、「アイヌは鎧兜に身を固めた騎馬戦を得意とし、2㍍を越える日本の弓矢に長じ、さらには和歌まで達意であった」、と空前絶後の嘘を喚いている事に同じ。そればかりか、金田一は、前九年の役(1051~62年、「奥州十二年合戦」)の、「反・朝廷側の東北の蝦夷や再び賊軍に寝返った元・蝦夷(俘囚)は、アイヌだ」と、真赤な嘘を強弁していることになる。それはまた、「戦役に登場する彼ら皆は日本人。むろんアイヌではない」を自明の前提としている『古事談』『愚管抄』『保元物語』『源平盛衰記』『太平記』『陸奥話記』『今昔物語』等の記述全てを、金田一は“真赤な嘘だ、誤りだ”と難詰していることになる。

 金田一京助のアイヌ史は、間違っているのではない。論評不可のレベルで狂っている。金田一の古いアイヌ論考を復刻的に纏めて2004年に『古代蝦夷とアイヌ』として刊行した、公然ゴリゴリ共産党員・工藤雅樹は、この『古代蝦夷とアイヌ』を、「金田一の蝦夷論に手軽に接することができる点で、多くの方々にとって有益である」と評している(注8、316頁)。が、「有益である」は、「有毒である」の間違い。金田一の作品はどれもこれも、河上肇の作品と同じく、日本国にとって有害・有毒きわまりないものばかり。    (備考) 見出しの「安倍三代」とは、「安倍忠良→安倍頼良(頼時)→安倍貞任」を指す。

「弥生時代からの日本語『えみし』はアイヌ語。「えみし」はアイヌを意味しアイヌと同義」(金田一京助)

 金田一京助の精神障害は、天文学的な重症。金田一を、普通の正常な言語学者にはくくれない。「アイヌ語が得意なペテン師」と見做してこそ、正しい学的評価。次の金田一のお笑い戯言を見よ。

「私は、1907年(明治40年)に樺太アイヌ叙事詩を筆録した(1914年出版の『北蝦夷古謡遺篇』)(この叙事詩は)「アイヌ」という言葉と「えみし」と言う言葉を対句に使っており、「えみし」が「アイヌ」と言う言葉だと知ることができる」(注8、27頁)

 だが、この金田一の主張は、大笑いして等閑視するのは禁物。金田一アイヌ学とはトリック満載で作為した“非・学問”、と端的に裏づける言説の一つだからだ。上記引用文のトリックは、三つ。

 第一。北海道アイヌの膨大なユーカラには、語彙「えみし」が一つも無い。北海道アイヌは、語彙「えみし」が、自分達「アイヌ」を意味しない事を知っていた。金田一が「えみし=アイヌ」だとアイヌ自身が認識していたと主張したいなら、最低でも、北海道アイヌのユーカラから、アイヌを意味する数十ヶの語彙「えみし」を提示しなければならない。

 六世紀までの“先住民族”縄文人の後、七世紀から北海道に大量に移住してきた日本人との付き合いで、北海道アイヌの日本語力は、十八世紀から日本人と付き合いだした樺太アイヌの日本語力に比すれば、格段に高かった。北海道アイヌは、話し聞くでは、江戸時代すでに日本語とアイヌ語のバイリンガルだった。一方、樺太アイヌの日本語は、生噛りで、正確さは無かった。

 第二。上記引用文の樺太ユーカラの、およその成立年について、狡猾な金田一は、口を噤む。仮にそれが十八世紀半ばならば、樺太アイヌの数倍の数で日本人が移住し始めてきた頃。そして、多数民族となった樺太の日本人のほとんどが、少数民族に転落した樺太アイヌを「えみし」「えぞ」と呼んだ。この日本語が、古いユーカラであれ、採り入れられることはごく普通にあり得るだろう。しかも、江戸時代末期から明治時代にかけ、樺太アイヌは急速に日本語を日常に多用するようになった。新奇な日常語になった面白い外来語として、彼らはユーカラに「えみし」を挿入したのではないか。

 第三。北海道アイヌ語には、縄文語と日本語が、かなりの数、混入している。だが、金田一は、アイヌ語の研究をしながら、他意があるのか、日本語を選り出す学問的作業を基本的にはしない。この金田一の非・学問的な姿勢は、縄文語に対してはもっとひどい。

 確かに、縄文語自体は全く判明していない言語。北海道アイヌ語から東北・北海道の「北方縄文語」を選り分ける作業は基本的には困難。が、全く不可能というわけではない。

 樺太アイヌは縄文人とは直接接触していないから縄文語の流入・受容は少なく、北海道アイヌが用いる名詞で樺太アイヌにはない語彙を集めて、その中からアイヌ語として不自然すぎるのを抽出する作業をすれば、少なからず縄文語だと推定できる語彙が一次的に特定できるはず。

 一次的としたのは、樺太アイヌは北海道アイヌと交流があり、北海道アイヌ語に混入した縄文語が北海道アイヌを通じて樺太アイヌ語に混入しており、この分別が二次作業になるからだ。

 ともあれ、日本語の抽出作業を意図的に回避する“デタラメ言語学者”金田一は、漫才師も顔負けの根拠ゼロで、「えみし」はアイヌ語だと法螺を吹く。“学者以前”金田一京助は、革命家が本業か。

「《ナイ》のつく地名が東北には多い→アイヌが住んでいた証拠→《蝦夷》はアイヌだ」(金田一京助)

 東北地方の「蝦夷」に関し、歴史学的に既に確定している事柄がある。この100%確定している歴史事実を、カルト宗教信条やイデオロギーから、政治権力が介入して覆すことは、ニュートン力学やファラデ―電磁気学を否定する野蛮人の暴力と同じ。文明国に在っては許されない。

 確定している歴史事実とは、次の三つ。

第一。東北地方に居住したアイヌは、「津軽半島突端/陸奥湾沿岸/下北半島突端」の津軽海峡海岸のみ。十三世紀の鎌倉時代初頭で、この地のアイヌ人口は、女子供含めて総計三百名程度。当時の東北地方の日本人の人口は225万人(全国九百万人、注11。うち四分の一と仮定)。アイヌ人口は0.014%を占めるに過ぎない。つまり、アイヌ人口はゼロ人と同じ。

 なお、秋田県のマタギはアイヌの子孫との説がある。仮にそうだとしても、数十名を越えないだろうし、学問的にも日本人社会に溶け消えたと考えるほかない。秋田県にアイヌが住んでいた遺物・痕跡も伝承も、一つとして発見されていないからだ。

 もしアイヌが東北に住んでいたなら、“熊送り”の伝承が東北地方のあちこちに数多く残っているはず。しかも、大正から昭和前期にかけ多くの民俗学者が、全国隈なく“伝承”採録に精力的に走り回ったから、最低でも10~20ヶほどの“熊送り伝承”が収集されたはず。だが、熊送り伝承は、東北に一つも無かった。この厳然たる事実は、アイヌが東北には全くいなかった瀝然たる確定証拠。

第二。『日本書紀』など六国史の語彙「蝦夷」「夷」「津軽」の中で、アイヌだと特定できるのは斉明天皇紀に九ヶのみ。八世紀初頭の東北人口は125万人(全国人口は五百万人、注11)。一方、史料が示す東北アイヌは、津軽半島突端に約百名(0.01%以下)。つまり、アイヌは東北地方にはいなかった。

第三。青森県を核とする東北・北海道「縄文人」集団は(附記2)、同一言語(=北方縄文語を使用していた。が、この北方縄文語を研究した言語学者は皆無。これもあり北方縄文語は完全に不明。四世紀に北海道に侵入したアイヌ人は、相当数の先住民族・縄文人の名詞をアイヌ語に採り入れている。この絶対的な真実に反し、「アイヌ語の名詞すべては、純粋なアイヌ語だ」との真赤な嘘を振り回す金田一京助の事実改竄は非・学問の極み。反・学問の極み。金田一は学者以前。正常以前。

(備考)日本列島全域に共通した日本語は弥生時代に形成された。が、日本語は縄文語を母胎に成長発展したもの。この事実は万人が認める常識。問題は、縄文語の発見など不可能だとし誰も研究しない事。この全員放棄は、宗谷岬から沖縄までの日本列島の縄文語が十近くに分かれていて、一つでないことも原因。例えば、日本語・沖縄方言が、南九州縄文語を母胎に形成されたことに異論を挟む者はいないが、南九州縄文語を発見しようとした学者は一人もいない。一方、アイヌ語は日本語とは異質。アイヌ語の中から北方縄文語を選り分ける作業は可能なはず。アイヌ語学者がこの作業をしないのは、他意がある? 怠惰である? どちらだろう。

 さて、金田一京助に話を戻す。金田一とは、言語学者。言語学者とは、明治以降、一人の例外もなく、極度の歴史音痴で歴史がサッパリを特性・特徴とする集団。そればかりか、言語学者は国語力がない。これも彼らに共通した特性。例えば、日本の「英語」言語学者は、一人として英文学ができない。英文学の知見ゼロだった渡部昇一を思い起こせば(注12)、誰しも納得しよう。

 金田一京助は『日本書紀』等の字面をスラスラ読む。が、正確な解釈はできず、全てコジツケの嘘解釈やデタラメ思い付き間違い解釈しかできない。これは、金田一に限らず、言語学者の一般的な特徴。しかも、『日本書紀』等から正しく歴史を読み取るには、関連知識が公正で該博である事が不可欠。一方、金田一京助は、アイヌ語以外は極度に無教養。では、金田一を反面教師とし、『日本書紀』を正確に読み、正しくアイヌや「蝦夷」日本人を読み解くための基礎知見や基本方法とは、どんなものか。これについての教示は後述。さて、ここから以降が、本稿の核心。

“世紀の狂説”「東北はアイヌ語だらけ→東北《えみし》はアイヌ人→日本人はアイヌの子孫」(金田一)

 金田一京助は、①「ナイ 沢」「ベツ 川」等はアイヌ語だと見做す。②次に、「ナイ」「ベツ」が東北地方にも北海道と同じく分布するから(注13、41頁)、東北地方にはアイヌ人が南下して居住していた、とする。この虚構を前提に金田一は、③史書にある「えみし」全員はアイヌ人を指す言葉だ。だから、東北日本人全てがアイヌの子孫である、とする。そればかりか金田一は、④「えみし」が大和朝廷に帰順して「俘囚=元えみし」になり、その一部は防人(さきもり)的に西方に強制移住させられたから、日本人全体にもアイヌの血が混ざった、とも示唆する。

 このように金田一京助のアイヌ語研究は、「東北日本人はアイヌの末裔」「全国の日本人にはアイヌの血が流れている」という、“荒唐無稽な妄想”を重ねに重ね、終点駅(ターミナル)の“狂説の中の狂説”に突っ込む暴走列車のようなものだった。金田一は、分裂病ルソーやニーチェとは異質な、それ以外のメンタルdiseaseを重く病んでいる。

 日本人の原祖先は、紛れもなく縄文人。だが、金田一は縄文人への言及を絶対にしなかった。『金田一京助選集』全十五巻のどこにも、言葉「縄文人」が一度も出てこない。金田一が、意図的に日本史から縄文人を抹殺する“日本史の大改竄”を目的にアイヌ語研究をしていたのは間違いない。

 いや、金田一のイデオロギー一色の学問の狙いは、縄文人抹殺だけではない。金田一京助は、縄文人抹殺の延長上に日本人抹殺を学問の第一目的としていたことは、その作品から間接的に伝わってくる。その手法は、ブルジョアジーをこの世から抹殺し、“プロレタリアートの天国”をこの世に創らんとしたマルクスと同じ。金田一の研究手法も作品も、マルクスのプロレタリアート神格化とソックリの、アイヌの神格化が全て。金田一は、マルクスの狂気「プロレタリアートの天国」創りを模倣し、日本国を“アイヌの天国”に改造することを夢想し妄想し狂妄し、暴走機関車になりきっていたのではないか。

 金田一京助の作品から、過剰な女遊びで借金生活の“クズ人間”石川啄木の「はたらけど はたらけど なほ わがくらし(生活) 楽にならざり ぢっと手を見る」や、トンデモ嘘八百満載の河上肇『貧乏物語』(備考)と同種の、金田一らしい読者騙し手練手管の煙が漂っている。金田一/石川啄木/河上肇の三者は共通して幸徳秋水訳のマルクス『共産党宣言』の愛読者だったことを考えれば納得。

(備考)蛇足。群馬県富岡の製糸工場における女工の勤務時間・給与・日常生活については多くの記録がある。比較すれば、細井和喜蔵『女工哀史』や山本茂実『あゝ野麦峠』が真赤な嘘偽りの作り話なのが判明する。

 金田一京助の作品はどれもこれも異様で異常なカルト的な非学問きわめる物ばかり。その中でも、スターリンが天皇制廃止「32年テーゼ」を河上肇に渡した、この1932年に発表した論文「北奥(州)地名考」には、特段にギョッとした。目が飛び出すかと思った(注13、154~239頁)。この論文の非学問性は、次のごとく、正常の域にない。

A、当論文で金田一がアイヌ語だと強弁(詐称する)するアイヌ語三百語(仮数字)が本当にアイヌ語だとしても、東北地方の日本人の日本語語彙は三万はあるだろうから、これは1%にしか当たらない。つまり、金田一は、笑止にも「東北地方の日本人は古来より99%日本語を使っていた」「東北日本人は日本人であって、万が一にもアイヌではない」と、馬鹿さも度が過ぎた無価値・無意味な事の証明をしていたことになる。

B、しかも、「ナイ 沢」「ベツ 川」は、本当に古来からのアイヌ語なのか。それとも縄文語をアイヌが取り入れた、アイヌ語の中の外来語ではないのか。青森県・津軽海峡海岸部の三百人程度を除き、東北に居住するアイヌ人は一名もいなかった。だから、アイヌ語が東北地方に残っているなど、万が一にもありえない。想定できるあるケースを除き(備考)、アイヌ人もアイヌ語も、(この三百人を除き)東北にはかつて一度も存在しなかったと断定してこそ正しい歴史にほかならない。

C、金田一がアイヌ語だと主張している言葉は全て、日本語に吸収された北方縄文語か、日本語(主に東北方言)と考えられる。つまり、金田一は、コジツケと語呂合わせで、これら北方縄文語や日本語をアイヌ語だと詐称している。

 なお、本州以南の縄文語は、弥生時代に日本語が形成されていく過程で分別不可能な形で日本語の中で溶解した。これに対し、弥生時代がなかった北海道に限り、アイヌが北方縄文語をアイヌ語と言う冷凍庫の中に保存したので、北方縄文語は、アイヌ語の化粧をして残存しているはず。

(備考)六世紀にアイヌが北海道縄文人を皆殺しした時、この難を逃れて東北広くに移住した三万人ほどの縄文人が、アイヌ語「ナイ」「ベツ」を借用しており、東北日本人がこの外来語を面白がって使ったと想定したケースのこと。ただ、物であれば外来語はその外国人がいなくとも爆発的に流行するけれど、地名に限っては、一般的には外来語を用いない。地名は、その土地の昔ながらの住民が付けるのが普通だからだ。とすれば、日本語らしからぬ東北の地名も、日本語オリジナルの一つ北方縄文語の名残と考えるのが順当だし、これが合理的な推定。

 例えば、北海道寿都町の海岸名に「六条間」がある。「間」は日本語・東北方言で「港湾」のこと。「六条」は長さ「六丈」すなわち船長10㍍の「大船」を意味し、アイヌ語「ログンテ」に訛ったと考えられる。アイヌ語のうち、日常生活関連語以外の名詞は、原則、縄文語か日本語だろう。が、金田一は、「ログンテ」を、エニセイ川/アムール川以来の古くからのアイヌ語だと言う(注13、176頁)

 アムール川時代にも、石狩川に侵入した四世紀初頭(仮定)も、アイヌは丸木舟しか知らない。一方、日本は、四世紀にすでに、漕ぎ手が左右六~七名で、兵士20名ほどを積載する排水量20トンの大型外洋渡航の軍船を大量に有する、当時の東アジアにおいて支那を凌ぐ大海軍国だった(備考)。だから高句麗まで攻め上る事が出来た(広開土王の碑)。五世紀頃(仮定)、北海道寿都湾で全長10㍍(六丈)の舟から下船してきた(東北地方の)日本人に浜辺でアイヌが会い、その会話(歓待の宴会など)の中からこのアイヌ語が造語されたと推定するのが、真面な言語学者の学問的推察。

 三世紀以前のアムール川など“川辺の民”アイヌの言語に、存在しない大型船や港湾の語彙は形成されない。当然、それらを表現する言葉は存在しない。金田一の本性は“ペテン師”非・言語学者。

(備考)白村江の戦いで、日本の海軍力は唐の三倍だった。河口においては川上側(唐)に陣取れば、川下側の敵(日本)が数倍でも簡単に勝てる。引き潮になれば、河口の川上側は全船が高速ミサイル(火矢発射)艇になるから、火矢の命中精度も火矢の投射量も、仮に軍船が同数でも、川下側の十倍以上に跳ね上がる。

「蝦夷」は厳密に日本人とアイヌに峻別しなければならない。その基本的方法とは?

 金田一京助とは、歴史学関連の分野では、無知無教養を演技し意図的な嘘歴史をプロパガンダする革命煽動家だった。また民俗学・民族学の分野も、完全抹殺した。大林太良らの学問を全面無視し、アイヌ民俗学・民族学など存在しないと嘯くのが、生涯にわたる金田一の政治信条だからだ。

 金田一に騙されないようにするには、日本人が健全な学問的アプローチができる基本常識を持てばいいだけのこと。いくつか演習してみよう。

1、斉明天皇紀の「二つの記録」にある「蝦夷」は、なぜアイヌと断定できるのか。

① 唐帝国「第三代皇帝」と日本側通訳官「博徳」の御下問・奉答

 「道奥の蝦夷・・・、白鹿の皮一つ、弓三つ、箭(矢)八十(本)を天子に奉る」とあるからで(注14)、アイヌ以外の日本人(大和朝廷)は、こんなもの、万が一にも献上しない。自明すぎよう。

② 阿倍比羅夫の奥尻島ギリヤーク人殲滅戦闘

 「(アイヌはお礼に)生羆二つ、羆皮七十枚献る(たてまつる)(注14)と記載。生きた羆や羆の皮の、朝廷への献上は、アイヌにしかできない。

2、『日本書紀』ほか六国史の「蝦夷」に次の記述があれば、100%日本人。

a「柵養(城内で生活している将兵)」の蝦夷、b蝦夷に位階・官職を授ける、c蝦夷に弓矢・鎧・鼓を下賜、d蝦夷の仏門への出家の許可、e・・・・・。

 2、の理由は単純明快。和弓を拒否し/馬に乗れず/鎧兜を拒否するアイヌは、当時の世界最先進国の戦闘では全く役に立たない。アイヌは、人間間の戦闘でも、狩猟用の半弓(&毒矢)以外は使用しない。また、アイヌは漢文が読めない/書が書けない/宮廷マナーができない/家系図がない等々で、官位を持つ官吏にはなれない。いや、それ以前。アイヌは羆や鹿狩りで頭がいっぱいで宮中の位階などに関心はない。

 さらに、アイヌには一人も仏教徒がいなかった。アイヌから仏教徒が出たのは、明治時代の同化教育で過半数が日本人的な感覚や意識を持つに至り、主に大正時代になってから。金田一京助や喜田貞吉の愚説狂説「九世紀以前のアイヌに仏教徒がいた」は、空前絶後の大妄想。

 少なくとも、表2の初歩の中の初歩を知れば、「六国史の語彙《蝦夷》は日本人」は、自明すぎる。

 また表2は、学問ジャンルでは民俗学・民族学。金田一は、このジャンルを完全に排除・排斥。

表2;アイヌが絶対に模倣しなかった日本文化・習俗・その他

 次の表3も、金田一が隠蔽する、民俗学・民族学のジャンルでの、アイヌに関する基本常識。この常識がないと、ほとんどがアホ馬鹿教授たち(六流学者以下)が占めるアイヌ史学者の如く、「アイヌが擦文文化の担い手だった」と妄想したり、「擦文人(=全員が完全な日本人)がアイヌ人になった」、つまり「鳩の卵から、ヒグマが産まれた」と全く同じ、精神病院に収監されている狂人以上の狂言を吹聴したり、の反学問を合唱することになる(注15)。金田一京助の狂気の反・学問は、多くのアイヌ史家に継承され、嘘八百史の大合唱隊になっている。

表3;交易(物々交換)で日本人等から購入し、アイヌは決して製造しない

共産党「論壇」司令官・吉野源三郎とペアを組んだ金田一京助の「暴力革命」運動

 大学教授と霞が関官僚と裁判官は、入党しても党籍免除である。清水幾多郎や丸山真男は党籍がない。林健太郎は、1945~60年の歳月をかけてまったりと完全転向したが、党籍が無かったので離党届は出していない。谷沢永一は1952年に離党届を出し完全転向。江藤淳は1960年に離党届を出し50%転向。金田一京助に党籍がないのは、「東大教授→著名人」だから当たり前。

 さて、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(1937年、新潮社)は、2017~18年、大変なベストセラーになった(マガジンハウス刊)。吉野源三郎とは、共産党がスポンサーの雑誌『世界』の初代編集長。『世界』は、1950~1960年代、大学の生協本屋で飛ぶように売れていた。本屋に平積みなっている光景が繰り広げられる毎月5日、私は一日中、不愉快だった。この吉野源三郎が、1937年、旧制の中学生(当時は同学年中10%しか進学できないエリート)に“共産主義者になろうよ”の洗脳書を書いた。それが『君たちはどう生きるか』である。戦後の1967年と2011年、共産党直轄のポプラ社が復刊した。

 この『君たちはどう生きるか』のペア作品として、ポプラ社は『私たちはどう生きるか』(1959年)を出版した。その著者が金田一京助。金田一の共産党員としてのお勤めだろう。

 「私たちはどう生きるか」と言えば、金田一は明治生まれだから、きっと『論語』を推奨し、新渡戸稲造『武士道』を褒め、さらに世界的な古典、スマイルズの道徳教本四冊『自助』『品性』『義務』『節倹』を薦めていると、誰しも思う。あるいは、洪自誠『菜根譚』を読め、佐藤一斎『言志四録』を読め、などと書いてあるのかと想像した。

 そう思いつつ手に取って吃驚仰天。侵入異民族の話「アイヌの熊送り「アイヌの神々」「ユーカラ」「アイヌの子供たち」「・・・」ばかり(注16)。少年教育用タイトル「私たちはどう生きるか」は名ばかりで、偽装表題。次の瞬間、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が、“共産主義者になろう”をモチーフにした共産革命煽動本なのを思い出した。

 ルソー『人間不平等起源論』を彷彿とさせる金田一の『私たちはどう生きるか』は、日本の子供たちに共産革命モチーフ「非文明の未開人を理想に生きよ」「日本人の祖先への尊敬などかなぐり捨てろ!」を教宣する洗脳書。「金田一京助」は筆名で、彼の正しい本名は赤田狂助らしい。

 

1、長谷部言人『日本人の祖先』、築地書館、1983年の復刻版、61頁。原著は1951年で岩波書店。

2、生半可に『日本書紀』を読む者は、景行天皇紀に「東(あづま)の夷(ひな)の中に、日高見国(茨城県を指す、北海道の日高ではない)有り。…これ全て蝦夷(えみし)という」をもって(備考1)、漢語「蝦夷」は四世紀初頭(備考2)から使われていたと思い込む。これ間違い。『日本書紀』編纂は八世紀に入ってからで、八世紀初頭の語彙が不用意に遡及して使われた。

(備考1)『日本書紀』上、297頁。

(備考2)景行天皇の御即位を、私は、紀元後303年と推定。“反歴史学の元祖”津田左右吉に始まる共産党員古代史学者の、次から次に「古代天皇実在しない」の歴史大改竄の犯罪は、狂イデオロギー天皇制廃止からの“悪質極める歴史の大偽造”。景行天皇が実在されなければ、当時の他の歴史の存在と整合しないから、歴史が無くなり空白となる。津田左右吉の言説には正常性が一欠けらも見当たらない。

3、『日本書紀』上、日本古典文学大系、岩波書店、204~5頁。

4、『日本書紀』下、日本古典文学大系、340頁。

5、『読み下し 日本三代実録』下巻、戎光祥出版、73~6頁。

6、    表4;『続日本紀』の蝦夷は全て日本人でアイヌ人ゼロ。光仁天皇の御代の例。

(備考)頁数は、『続日本紀』第五巻、新・日本古典文学大系、岩波書店。

7、    表5;“海岸の民”ギリヤーク人に関する『日本書紀』記述(三ヶ所のみ)

①欽明天皇紀の記述。「佐渡島の北の海岸に、ギリヤーク人(肅愼人、みしはせのひと)がいて、一艘の船に寝泊まりしている。春と夏に魚を捕って食料にしている。佐渡島の人は、人に非ず/鬼だと恐れて近づかない。・・・(彼らは)瀬波河浦に移動した。島民は誰も近づかない。この浦の水を飲んで、半分が死んでしまった。・・・」(現代語訳)。ギリヤーク人は五世紀、宗谷から知床に到るオホーツク海岸に数千人が移住してきた。その一部が海難で佐渡島に漂着したのだろう。

②斉明天皇紀の記述については、10月26日upの論文を見よ。

③持統天皇紀の記述。「佐渡島の、蝦夷(日本人)『いなりむし』とギリヤーク人『しらすえそう』とに、錦の袍袴&緋紺のふとぎぬ&斧などを下賜した」(現代語訳)。ギリヤーク人が一定の数、佐渡島に住み付き、大和朝廷は佐渡島の日本人の治安のため、酋長を宣撫せざるを得なかったようだ。

(備考) 『続日本紀』第二巻、新・日本古典文学大系、481頁の補注五二に、この佐渡島北海道の渡島半島と勘違いする誤読がある。注意の事。当時、佐渡島渡島と表記された。

8、金田一京助『古代蝦夷とアイヌ』、平凡社ライブラリー、頁数は本文。

9、日本ミイラ研究グループ編『日本・中国ミイラ信仰の研究』、平凡社、346頁、321頁。

10、『古今著聞集』、日本古典文学大系、岩波書店、272頁。

11、鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』、講談社学術文庫、19頁の図1から推定。もう一つは、55頁。

12、ある時、渡部昇一が、バークとルソーの思想の相違をかい摘まんで説明してくれというので、Irving Babbit『Rousseau and Romanticism』(1919年刊)の記述内容を記憶のままに紹介した。説明後、渡部昇一は一つだけ質問した。Babbitって誰?

 渡部昇一は、戦前米国で最も有名な英・仏文学の大家でハーバード大学教授のBabbitの名前すら知らなかった。「大変な学者で、学術的なBabbit論が十冊以上あります」と答えたら、素気なく「そうなの」と全く関心がない。そこで続けて、「米国におけるバーク・リバイバルの賢人ラッセル・カークの先駆者に当り、米国の保守系知識人なら必ず読む本です」と、是非読むよう薦めた。が、返事がなかった。言語学者は、渡部昇一に限らず、文学にも政治哲学にも全く関心がなく、極度な無学無教養が一般的特徴。

13、上掲、『古代蝦夷とアイヌ』。頁数は本文。

14、『日本書紀』下、岩波書店、338~40頁。

15、『北海道新聞』2012年6月18日付けに、真赤な嘘「擦文人→アイヌ民族」のカラー図が掲載されている。この狂説「擦文人→アイヌ民族」は、背後の政治的司令塔の指揮の下、多くの自称アイヌ史学者が大合唱する。このリスト表は作成済みだが、本稿では紙幅の関係から割愛する。

16、金田一京助『私たちはどう生きるか』、ポプラ社。

17、小山修三『縄文時代』、中公新書、33頁。

附記1;明治維新後の明治時代は、なぜ極左人士を大量生産したか

 幕末日本が産んだ“スーパー極左”に、ルソー崇拝の中江兆民とその弟子で日本の共産主義者第一号の植木枝盛がいる。ともに、土佐藩士。土佐藩は長州藩と並び、日本の“赤”製造の反日極左藩ワースト・ツーであった。

 明治維新とは、“戦争快楽の狂人”西郷隆盛の薩摩藩/“分裂病のテロリスト”吉田松陰の長州藩/“ルソー狂徒”中江兆民の土佐藩が起こしたように、明治時代を通し地下水脈であり続けた極左三藩の“無法”マグマが維新の原動力の暴力革命である。この無法と暴力を一時的に抑え込み明治政治体制をかろうじて支えたのは、“大賢帝”明治天皇の御存在と武士の子弟のサムライのエトス。

 が、伊藤博文など少数を除き、山縣有朋ら三藩のゲス志士あがりたち(=成り上がり者は、国中に国家腐敗・倒壊の反・国家ウィルスをばら撒き続け、日本国亡国の“悪魔の祖国叛逆”大東亜戦争の最凶の原因となった。

 歴史過程を辿っても、明治天皇におかれては(日露戦争の過度なストレスで)御歳を召されご威光が弱まり、政府・軍を支えた武士の子弟たちが一斉に引退した1906年を境に、明治政治体制は一気に瓦解した。すなわち、明治政府が僅か三十八年間で、政界&学界に極左人士が蔓延る“無法”状態に転落し、日本国の国家機能を不全化したのは、“凶暴な反日極左”三藩(薩摩・長州・土佐)および“極左のエセ学問”反体制アナーキズム水戸学がもたらした必然。明治天皇暗殺未遂の幸徳秋水も、昭和天皇銃殺クーデター主犯・平泉澄も水戸学信仰者ではないか(備考)

 一方、幕末が産んだ本物の逸材=保守系には、勝海舟/大村益次郎/井上毅/陸奥宗光/伊東祐享/児玉源太郎/小村寿太郎などがいる。提督として超一流だった東郷平八郎は、薩摩藩という極左土壌の影響か、思想は左翼で保守ではない。井上毅は、強度な反・水戸学の大秀才だった。

(備考) 水戸学の呪文「尊王攘夷」の「王」は、特定の「南朝」「後醍醐天皇」を指す隠語で記号。このため、「尊王」には、一般通念上の、天皇制度を奉戴し天皇を尊崇するとの意味は薄く、時にはそのような語義は全く存在しなくなる。つまり、南朝でない北朝の天皇を殺せ!の天皇制廃止イデオロギーに転化するマグマを内包している危険な「反日」イデオロギーが本性といえる。

附記2;縄文時代の日本で最大人口数だった東北・北海道縄文人

 縄文時代の人口、特に北海道縄文人の人口は、アイヌが大量殺戮した犠牲者・縄文人数を割り出すために不可欠な数字である。東北までの縄文人人口を1978年に最初に算出したのが小山修三。ただ、小山は、北海道と沖縄の縄文人を除外し推計しなかった。また、縄文中期の人口を26万人としたのも余りに少なく、実態の三分の一か半分と考えられる。彼の欠陥は、遺跡からの推定で、発掘遺跡数が、実際にあった集落の四分の一かなどの補正をしていないことにある。

 とはいえ、小山の業績は、縄文人の人口が、関東・中部や東北に偏っていたと結論付けたのは正しく、大いに評価できる。小山は、中期の全縄文人26万人の中、東日本25万人(96%)、西日本1万人(4%)とする(注17)。具体的人数や西日本に関する極度な低数字には異論があるが、全体的な傾向は間違ってはいない。

 私は、紀元後六世紀の「北海道縄文人は五万人以上」と仮定した。尚、それより2500年以上を遡るが、一体的で連結していた東北・北海道縄文人について、全縄文人の三割以上を占め、関東縄文人集団よりも大きな、縄文時代の最大勢力だったと考えている。青森県・三内丸山遺跡の大規模さは、キウス周堤墓群など北海道でも同じ。縄文文化は日本列島の中でも、東北・北海道が特段に際立って発展し花咲いていたのである。

 ところが、この北海道縄文人をゼロ人とするのが金田一京助。嘘八百のデマで覆い包んだ「金田一京助アイヌ史」を、反学問の極みとして排斥しないならば、正常な学者の職務放棄だろう。

                                          (2021年1月13日記)

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