“「骨相」占い師”百々幸雄が垂れ流した“お笑い創作”「アイヌの祖先は縄文人」の害毒は、神経剤サリンより深刻──ケット人(エニセイ川)の頭骨特性を継ぐ樺太アイヌは、日本人(擦文時代人)と混血した北海道アイヌと異なり、“原アイヌ”の痕跡を残している 

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

(本稿は、1月23日up記事に続く、連載「侵略異民族アイヌの本当の歴史」第七弾)

 日本におけるアイヌに関する研究は、歴史学ジャンルのものも考古学ジャンルのものも人類学ジャンルのものも、正常な範疇に括られるものは、限りなくゼロに近い。現に、アイヌを対象とした本は、主要大学の図書館なら、専門書・一般啓蒙書を含め、誰でも数百冊は手にできる。この中で、一般通念における正常な学問水準をクリアしている著作は、果して何冊あるだろうか。

 私はまだ百数十冊程度しか読破していないが、正常な学者の正常な著作と断定できたのは、日本人のでは、僅かに三冊。大林太良『北方の民族と文化』、篠田謙一『日本人になった祖先たち』(2007年)、長谷部言人『日本人の祖先』(1951年)。アイヌ本は、「不正常が98%、正常が2%」。なお、ネフスキー『月と不死』収録「ユーカラ二篇」を加えれば四冊。この四冊以外は皆、有毒本ということ。

 本稿で取り上げる百々幸雄の「骨」研究は、ご本人は形質人類学だと詐称するが、実態は“「骨相」占い”のレベル。彼の新著『アイヌと縄文人の骨学的研究』(2015年)を読んだ時、真っ先に頭に浮かんだのは、細木数子の六星占術だった。百々幸雄の「骨学」は、学問ではなく、ビジネス骨相学の一種で、ペテン師流の占い師と同類といえる。

本文で「間違っていた」と反省した学者なら、結論で「俺は反省しない」と言わない

 侵入異民族アイヌが、原日本人である縄文人の血をひいていないことなど、当り前すぎること。侵略してきた外国人が被侵略民族と同じであるはずなかろう。が、百々幸雄や瀬川拓郎らの真赤な嘘宣伝で、荒唐無稽な狂説「縄文人→アイヌ」が、学界や教育界を幽霊の如く徘徊した。これを粉砕したのが、篠田謙一の『日本人になった祖先たち』(注1)。多くの良識ある識者だけでなく一般の教養人も、この本を絶賛した。

 馬鹿げた大嘘「縄文人→アイヌ」を叩き潰すに、篠田謙一だけでなく安達登の働きも大きかった。安達の、2006年の学会誌『DNA多型』論文(注2)や2011年の米国の学会誌論文(注3)などがそれ。

 これらの正しい学術成果に降参し、百々幸雄は学者をやめるだろうと、賢明な日本人は胸を躍らせた。百々幸雄も「研究を一からやり直さなければならないような・・・研究成果が発表された」と、2015年の最新の著書で回想している(注4、187頁)から、2006~11年、少しは反省したように見える。

 が、このたった一行の反省は、百々幸雄の狡猾な嘘演技だった。学者の良心が一欠けらもない“骨相占い師”百々幸雄は、自著の「はじめに」で、絵に描いた傲慢不遜を露わに、「縄文時代人の血筋や文化伝統を多く引き継いだ人々が北海道アイヌであることに疑いの余地はない」(注4、ⅱ頁)と、傲然と開き直っている。この厚顔無恥な開き直りは、終章(結語)でも過激で、「アイヌの源流は北海道の縄文時代人にまで遡るという見解が、今や定説になったといってよい」と嘯く始末(注4、221頁)

 現在、「縄文人→アイヌ」と主張する職業的嘘つきは、瀬川拓郎と百々幸雄の二名のみ。つまり、定説ではなく、絶滅寸前の狂説。が、百々幸雄は、「狂説」を「定説」に摩り替える。これでは、篠田謙一や安達登の学的成果を完全に無視しそれを否定するヤクザまがいの行為ではないか。百々幸雄の本性は、学者とは程遠いゴロツキ/詐欺師と何ら変わらない。

 百々幸雄は、安達登の業績を引用して、縄文人とアイヌとの間に血縁関係が全く無い事をいったん認めている(注4、188頁の図59)。それは、東北/北海道の縄文人・続縄文人のミトコンドリアDNAはハプログループN9bが63.5%でハプログループY1が出現しないのに、江戸時代のアイヌは、「N9bが23.2%、Y1が32.9%」となり、縄文人とは血縁関係が全く無い事が明瞭に証明されてしまったとする図。当然、百々幸雄が四十年間も垂れ流した子供騙しの真赤な嘘“小進化モデル”「東日本縄文人→続縄文人→擦文人→北海道アイヌ」は、完膚なきまでに破綻した。

 が、百々幸雄の反省演技は、ここまで。これ以降、何十頁にもわたり、平然とこの破綻した百々幸雄“小進化モデル”を、あらん限りの屁理屈を捏ねまわし、復活させていく。百々幸雄の心臓は、鋼鉄でできている。

擦文人の頭骨を一例も解剖していない百々幸雄の「小進化モデル」は、反・医学の嘘

 百々幸雄の“小進化モデル”「東日本縄文人→続縄文人→擦文人→北海道アイヌ」は、真赤な間違いであるだけでなく、実は口から出まかせの嘘創作。それは「擦文人→北海道アイヌ」とする系譜部分。何故なら、百々幸雄は、擦文人の頭骨の形態小変異を一体として解剖したことがない。解剖ゼロなのに擦文人を系譜図に含めた、百々幸雄の学者としての犯罪は、図60(192頁)と図62(頁)に、必ず存在しなければならない「擦文人」の文字がないことで明らかだろう。

 「縄文人・続縄文人→北海道アイヌ」は、安達登や篠田謙一によって“科学的にナンセンスな間違い”と排除されている。そして、「擦文人→北海道アイヌ」は、“研究ゼロ=政治的な出鱈目フィクション”なのが明白だから、百々幸雄のダーウィンの真似事“小進化モデル”は、真赤な嘘八百も度がすぎていよう。当然、図71(213頁)も、まったくの間違い。つまり、「⇒擦文人⇒北海道アイヌ(江戸時代)⇒」は、百々幸雄らしい口から出まかせの反・医学(反・遺伝子学)/反・歴史学の作図である。

 百々幸雄はなぜ、擦文人の頭骨の形態小変異について、一体も解剖せず調べようとはしなかったのか。答えは簡単。擦文人は一人残らず移住した純粋な日本人で、擦文人を解剖すると、真赤な嘘「擦文人→北海道アイヌ」が一瞬で否定されるからである。

 以下、少し、「擦文人」に関し初歩的な事実を復習しておこう。「擦文人」という言葉自体、政治的な用語で、非・学問甚だしい。学界が、このような言葉を用いること自体、アイヌ関連の学者が、一般通念上の学者ではなく、98%が政治的嘘宣伝したく学者の衣を着ているからだ。

 擦文人は、阿倍比羅夫の東北「蝦夷」征伐と北海道渡島「蝦夷」征伐と奥尻島のギリヤーク人征討によって、北海道の安全が回復したため(アイヌが対日本人の凶暴な殺戮を一時的に抑制するようになり、殺される危険が減ったため)、七世紀末より東北地方から大量に移住した日本人を指す。という事は、純・日本人を、なぜ彼らが使用していた土器の名前「擦文人」にわざわざ代える必要があるのか、という問題がクローズアップされてくる。

 また、秋田から移住した土師器職人の土師器を、なぜ、わざわざ「擦文土器」と言う必要があるのか。学問的に正しく「北海道産の土師器」と言うべきだろう。即ち、七世紀末から十二世紀末までの丸五百年にわたる北海道「第一期移住日本人時代」を歴史から抹殺すべく、「擦文土器、擦文文化、擦文人、擦文社会」なる奇天烈な不適切語が考案された。それぞれを、学術的に正しい用語「土師器、第一期移住日本人文化、奈良平安時代の移住(北海道)日本人、移住(北海道)日本人社会」に是正しなければならない。

 そして、アイヌは決して土器を生産しない部族だから、この擦文土器には全く関与していない。この最重要でイロハ的な事実をアイヌ学者はなぜ隠蔽するのだろうか。また、木製文化に固執するアイヌは食器に決して土器や陶磁器を使わない。だからアイヌは、擦文土器を焼かなっただけではなく、使用すらしなかった。また、アイヌは鉄器製品を造れない。

 この基本事実を忠実に踏まえる時、非学問的な謬名ラベル「擦文時代」が貼られた、丸五百年間に及ぶ移住日本人の北海道社会の実像を初めて明らかにすることができる。第一期移住日本人時代を、闇夜に押し込める現在の政治的介入し放題の学界から解放しなければならない。

 この、七世紀末~十二世紀末の北海道「第一期移住日本人時代」における日本人人口を六万人~十万人と仮定する。彼らの主たる産業は交易であり、渤海国とも貿易をしていた。また道央・道南で米作以外の農耕をしていた農民もかなりいたことも分かる。が、その大半は相当に貧しい農民であったと考えられる。史料を紹介しておく。

(1) 清和天皇紀にある。875年11月の条。

「渡島の荒狄(えみし)反叛(そむ)き、水軍八十艘なり。秋田郡・飽海郡(あくみ、山形県遊佐町)の両郡の百姓(たみ)21人を殺略(ころ)しき」(注5)

 時期的にも米の収穫を終えた季節を選んでの農家・農民襲撃だから、米強盗殺人なのは明白。アイヌの舟は五人乗りだから、四百名で襲ったことになり、数的にはアイヌと解し易い。が、アイヌは米を常食とはしておらず、米なしの肉食だけを数年ぐらい続けても何でもない。また、アイヌは青森県の地理は多少知っているが、秋田県や山形県は精通していない。

 九世紀、秋田港や十三湊港と、北海道の松前や石狩川あるいは現在の伊達市辺りを結ぶ日本の船舶は五十人以上が乗れる中型船が普通だったろう。これだと八十艘で四千人の大部隊となり、米強盗にしては規模が大きすぎる。しかし、北海道に移住したが餓死に瀕した貧しい日本人達が、中型船や大型船(200人以上が乗れる外洋船)は金がなく雇えず、アイヌの丸木舟を改造したか、「全長10㍍以上、相当量の米俵を積載できる十人乗り」級の船を自分たちで建造し、土地勘のある秋田県と山形県の米農家を襲ったと考えられる。つまり、この襲撃事件は、日本人だと判定するほかない。

(2)嵯峨天皇の御代、『日本後紀』810年の条。

 北海道から宮城県気仙沼に遭難・漂流した船の話が記録されている。この船がアイヌではなく日本人のだとは直ぐわかる。外洋用の200人乗りの大型船舶を、アイヌは建造・所有も操船も、できないからだ。

「渡島の狄(えみし)二百余人、部下の気仙郡に来着す。陸奥国の管する所にあらず(出羽国の所管)。帰り去れと命令す。狄ら云う、<時これ寒節、海路越え難し。願わくば来春をまちて本郷に帰らんと欲す>と。これを許す。留住の間、宜しく衣粮を給うべし」(注6)

 この記述は、九世紀の北海道の日本人達は、外洋用の大型船舶を所有するほど富裕な人々もかなりいたことを明らかにする。また、この船の存在自体、北海道日本人が、渤海国と直接交易していたことを示す。なお、この遭難した船の港は伊達市辺りか。

 十三湊や秋田港に相当する港や渤海国と貿易する外洋船が道南に存在した歴史が、江別の古墳群(八~九世紀)や有珠善光寺(浄土宗)の開山(826年)と同時期なのに着目しよう。そうすると、発掘土器に歪に矮小化した時代区分の名称「擦文人/擦文時代/擦文文化」は、この時代の北海道の日本人をアイヌ的な原始的な生活をしているかに誤解させるニュアンスを醸し出すことに気づく。実際にも、“非・学問語”「擦文人/擦文時代/擦文文化」は、この時代の本当の歴史情況を隠蔽する悪意で創作された政治用語。北海道は八~十世紀、「第二の奥州平泉」のような社会を萌芽させつつあった。これを破壊したのは、狂暴なジェノサイド文化を持つアイヌ以外を想像できるだろうか。

 もう一度言う。「擦文時代」「擦文文化」は非・学問に過ぎ禁語とすべきである。代りに「第一期移住日本人時代」という新しい正しい時代区分名称に、急ぎ変更是正しなければならない。

反・医学“骨相占い四十年”百々幸雄にも、(石田肇の協力で)“三分の学的功績”がある

 百々幸雄は反・医学/非・学問を垂れ流したその害毒が余りに大きく、負の学問業績ばかりかに判定される。が、百々幸雄には、諺「盗人にも三分の理」とよく似た、ほんの僅かだが、学的功績がある。

 それは、図60(192頁)と図67(204頁)にあるように、石田肇氏の協力があってのことだが、バイカル湖周辺の新石器時代人の頭骨を解剖した功績。何故なら、アイヌの原故郷は、エニセイ川(正確には、その支流のアンガラ川)であろうと仮定でき、それは、アイヌの頭骨もDNAも、アンガラ川の上流に当る「バイカル湖周辺の新石器人」とほぼ同じであるはずだが、この事を見事に証明しているからだ。

 頭骨の形態小変異の「スミスの距離」は、図60(二次元平面)では、樺太アイヌはバイカル湖新石器人集団に近く、北海道アイヌとはかけ離れている。これを一軸に布置した図67でも同じで、樺太アイヌはバイカル湖周辺新石器人と近く、北海道アイヌとは全く別人種の如く遠くにかけ離れている。

 ケット人の一支族アイヌは、「アンガラ川→バイカル湖→アムール川上流→アムール川下流→樺太→北海道石狩川」に東進移住しただろうと推定できる。アイヌは、虎が棲息するアルタイ山脈の北側一帯(エニセイ川、アンガラ川、バイカル湖、アムール川)か、ウスリー川とアムール川の合流周辺かを故郷とする北方少数部族。この事実は確定しており、改竄できない。何故なら、アイヌは虎の棲息場所に住んでいたと、虎を讃歌するユーカラ=絶対証拠があるからだ(注7)

 この大移動において、樺太アイヌは北海道に渡らず樺太に残留したため、続縄文人や擦文時代の日本人とは婚姻・混血をしなかった。ために樺太アイヌは、原アイヌの頭骨やDNAを色濃く残存し、バイカル湖周辺新石器人とは近縁の親族関係を呈するのである。図60/67は、これを立証した。

 尚、図60/67は、「樺太アイヌは、13世紀に北海道アイヌが移住した、北海道アイヌの分身」と言う法螺話を一蹴している。樺太アイヌは、北海道アイヌとは、別人種とすべきほど相違することを逆に立証しているからである。そもそも「13世紀に北海道から移住」も、口から出まかせの政治的創作。

 北海道アイヌが元軍と戦うべく樺太に軍事侵攻する前から、樺太アイヌは樺太に居住していたと、元の公式史書は記述している。また実際にも、七世紀以前に樺太アイヌが樺太にいたと、支那の史書は明記している(注8)。なお私は、樺太アイヌの樺太定住を四世紀初頭と仮定している。

 

1、篠田謙一『日本人になった祖先たち』、NHKブックス。

2、安達登ほか「北海道縄文人・続縄文人骨のミトコンドリアDNA解析」『DNA多型』第14号、2006年。

3、安達登ほか,“Mitochondria DNA Analysis of Hokkaido Jomon Skeletons”,American Journal of Physical Anthropology,146号,2011年。

4、百々幸雄『アイヌと縄文人の骨学的研究』、東京大学出版会、頁数は本文。

5、『読み下し 日本三代実録』上巻、戎光祥出版、680頁。

6、森田悌『日本後紀』中、講談社学術文庫、198頁。読下しは中川。

7、「ユーカラ二篇」『月と不死』、東洋文庫、平凡社、120~1頁。

8、白鳥庫吉「唐時代の樺太島について」『白鳥庫吉全集』第五巻、岩波書店。

(2021年2月20日記)

 

御願い;

 1月23日にupした「国際法上の侵略か不法入国に当る北海道アイヌ」の附記2全文を削除して下さい。そして、書き直した、次の改訂附記2に入れ替えをお願いします。

(附記2) 樺太・白主の城は、「蝦夷管領」安藤氏の築城。蒙古軍には無用で無関係。

 瀬川拓郎を初めとしてアイヌ史家は皆デタラメ。例えば、「樺太の西南端にある白主(しらぬし)の土城は、蒙古軍が造った」「北海道アイヌの樺太侵攻を阻止するためのモンゴル側の砦だ」と真赤な嘘を吹聴する。が、それを証明するor示唆する史料など一つもない。そもそも、モンゴル軍は一般通念上の城を築城しない。高速戦場移動の平原戦を得意とするから、テントのパオ(ゲル)を用い固定した城を無用とする。

 白主の土城は、蝦夷管領の安藤氏が築城した日本側の城。この城内で安藤氏は、北海道アイヌや樺太アイヌからなる戦闘部隊を編成し、ここから小舟の大船団をもって間宮海峡を北上し、北樺太の地名「果夥 kuo-huo」にあるアイヌ前進基地に向かう。「果夥」は、北緯52度辺り。

 アイヌのギリヤーク人襲撃の場所=戦場は二ヶ所。その第一は、「果夥」から直接、北樺太のギリヤーク人の集落を襲撃する。当然、ギリヤーク人側のモンゴル軍との戦場は、この北樺太の北端部分。

 第二の戦場。「果夥」から一気に間宮海峡を沿海州側に渡海し、「拂里河」(アムール川の支流)に突入する。この場合アイヌは、渡海に用いた小舟をズルズルと山中を引き摺って「拂里河」に浮かべ、そこから「キジ湖」に入り、次にアムール川本流に入る。ギリヤーク部族の集落は、アムール河口だから、流れに任せて容易に襲えるからだ。一方の元軍は、アイヌがアムール川本流に入る前に叩き潰したいから、戦場は「拂里河」「キジ湖」となる。

 『元文類』巻四十一は、第二のケースを記述。1297年7月8日「(アイヌの酋長・・・は)果夥過海、入拂里河(元軍はこれを破った)」とある。中村和之の嘘「元軍は、果夥に城を築いた」など、一文字も書いていない。つまり、中村和之は、白主土城を真赤な嘘「モンゴルの城」にデッチあげるべく、中学生一年生が初めて習う初歩的な漢文力さえあれば正しく読めるのに、犯意をもって荒唐無稽な誤読をしている。『元文類』巻四十一の、6月5日の条は、元軍はキジ湖の北岸の町「吸刺豁疃」でアイヌ部隊を破ったとある。この頃のアイヌ軍は、北樺太のギリヤーク人が標的ではなく、アムール河口のギリヤーク人を南回りで直接襲撃しようとしている。

 さらに中村和之は、抱腹絶倒の大嘘を法螺吹いている。「北緯52度果夥は、北緯46度の南樺太・最西南端の白主である」と主張するからだ。嘘も度が過ぎている。中村和之は、学会発表論文「モンゴル帝国のサハリン(樺太)島への侵攻とアイヌ」の第1図も(注1)、アイヌ史入門書としては中高校生の間でも売れている『アイヌの歴史と文化Ⅱ』の論文「北からの蒙古襲来」でも(注2)、共著『中世後期における東アジアの国際関係』の論文でも(注3、図1)、真赤な嘘八百を嘘と知りながら書いている。函館工業高等専門学校は、中村和之を懲戒免職にするか、自ら“スーパー劣等高専”「函館高専」を廃校にするかを決断する責任がある。

 漢文も読めない自称専門家のペテン師・中村和之は、軍事知見のイロハも欠くド素人。故に、万が一にもあり得ない大妄想「アイヌ軍は、陸路でアニワ湾から樺太の北端まで進撃する」「モンゴル軍は、アイヌが樺太南端のアニワ湾に上陸する地点でアイヌを撃退する」と空想する。だが、陸路からの侵攻ルートの場合、戦場に行き着くまでに“陸戦の天才”モンゴル軍に鎧袖一触に殲滅され、一兵たりとも生存できない。しかも、海路は遮るもののない高速道路だが、陸路は海路の何十倍も時間がかかることを、スーパーお馬鹿な中村和之は分からない。

 さらに三つ。まず、安藤氏が現地の樺太アイヌと北海道からやってきた“助っ人”北海道アイヌとを集め、城内で軍を編成し多少の訓練を施す城として最適な場所はどこかを、中村和之は考えていない。次に、アイヌ軍の前進基地「果夥」に行くための高速道路である間宮海峡の海上距離が最短で、同時に安藤氏の十三湊からも最短距離にある場所はどこかを、学者以前の中村和之は考えつくこともできない。さらに、城から直ぐに海岸に降りて乗船・出航が迅速にできる場所はどこかすら考えていない。白主は、これらの条件すべてを満たす最高の軍事的拠点。白主土城は、西側に乗船場を造っている。

 なお、白主土城にはアイヌ用の「縦穴式」住居を造っていたように(注4)、白主の城は安藤氏の前進基地である以上に、安藤氏とアイヌ軍の参謀本部でもあった。

 さて、アイヌと安藤氏の両者の対元“戦争目的”は異なり、両者の関係は呉越同舟。アイヌは、アムール川の下流流域のギリヤーク人の商権益奪取が戦争目的。一方、安藤氏は、「北海道はむろん、樺太にもモンゴル軍を上陸・常駐させてはならない」が軍事行動の最優先目的だっただろう。両者の間に、相当な軋轢が生れた可能性がある。

白主土城が支那大陸の築城方法で造られている理由──亡命してきた「金」国人が築城?

 奥州平泉藤原四代が滅んだ後の十三世紀初頭、鎌倉幕府から「蝦夷管領(出羽国・北海道・樺太「統治」庁の長官)」に任命された安藤氏は、十三湊の福島城を居城とした(1229年、安藤愛季が最初の城主か)。が、誤解してはならない、福島城は安藤氏が築城したのではない。恐らく、渤海国からの亡命渤海人が築城したと考えられる。

 この意味で、『日本城郭大系』第2巻の記述「正和年間(1312~7年)、安藤貞季が壮大な福島城を築いた」は、全くのデタラメで間違いも甚だしい(注5)。三百年以上もずれているのには驚いた。国立歴史民俗博物館は、1991~3年の調査などに拠り、その築城を十世紀後半と推定した(注6)

 私が“渤海人の築城”と推定するのは、約20万坪の城の外郭が一辺約一㎞の三角形(潟に対して逆三角形)、内郭が一辺約180㍍の四角形で、日本人の城とは余りに異質。内郭は、土塁と外堀・内堀で外郭から区切られている。門は、内郭も外郭も海とは逆の東側に一ヶ所のみ。私は、築城年代を国立歴史民俗博物館のより半世紀前の935年頃と仮定。つまり、安藤氏の初代・福島城主は、約三百年前に築かれた古い城に入城した。

 なお、渤海国は内紛で926年に滅び、数千人(仮定)を越える渤海人高官たちとその配下及び家族が、日本側の貿易港の一つ十三湊に亡命してきたはず。彼らは、敵対勢力の追撃に怯え、平安京の日本の朝廷の許可を得て、巨大な城郭・福島城を築城した。日本国(「叔父」)と渤海(「甥」)は叔父・甥的な関係で、百済が滅んだ時に多勢の百済人高官たちの亡命を受け容れたように、渤海人の受け容れを断ることはできない関係。

 また、十三湊が日本国と渤海国の貿易や政治的交流の重要港なのは、元正天皇の御代720年、「渡島津軽の津司(北海道・津軽郡「担当」の十三湊「長官」)従七位上(の)諸君鞍男ら六人を靺鞨(渤海)国に遣わして、その風俗を観しむ」(注7)との記述からも窺われる。実際にも日本は、渤海の建国(698年)とほぼ同時に、緊密な外交関係を構築した。この時の大和朝廷は、渤海を準同盟国として対「唐」包囲網づくりを目的としたのではなかったか。 

 さて、白主城が、なぜ支那風になったのか。二つの推定が成り立つ。第一。それを築城した安藤氏が、福島城を気に入っており、その内郭を模倣したとの推定。第二。奥州平泉藤原四代が十三湊を用いて貿易をしていた相手国・金は、1234年にモンゴルの元帝国に滅ぼされた。当然、数千人以上、おそらく一万人をはるかに超える「金」人が十三湊に亡命してきたのは歴史事実として紛れもないこと。彼らにとって、元は憎き敵国。樺太でアイヌ・安藤連合軍が元と戦端を開いた1264年、三十年前に「金」国から亡命してきた人々やその子供達が安藤氏への恩返しに白主土城を築城したとの推定には、合理的な蓋然性が高いといえる。

“真赤な嘘歴史”捏造が職業の、お粗末“学者以前”中村和之

 上記・注3の中村論文には、ギョッとする歴史の捏造がある。支那側史料には約百年の空白がある(=1308~1413年、樺太アイヌに関する歴史史料がない)。だから、この間に北海道アイヌが樺太に移住して樺太アイヌが誕生した(注8、155頁)と中村は主張する。中村が挙げる根拠はたった一つ。「13~4世紀の『金華黄先生文集』は、樺太を記述してギリヤーク人とウィルタ人を挙げているが、アイヌを挙げていない」の一点のみ(155頁)。この文献は元の公式史書ではないから、全く根拠にならない。ただの書き忘れか、著者の無知。それを鬼の首でも獲ったかの如く、針小棒大に騒ぐとは、中村和之は学者ではない。

 そればかりか、中村は自分の論文で、元の公式史書が樺太アイヌに言及している箇所を引用している。一つは彼の論文156頁で、『元史』巻十二、1283年の条。「クイ(樺太アイヌ)の軍賦の徴を免する」。もう一つは、彼の論文148頁で、『元史』巻五、1264年の条。「ギリヤーク人は内附(服属)し、その国(樺太)の東(「南」の間違い)に、クイ/イリウ(ウィルタ)の両部(二部族)があって・・・」。

 すなわち、十三世紀、元帝国は、樺太南部に樺太アイヌが居住していると認め、それに対する賦課を免除している。この事実を知りながら、中村和之は、「樺太アイヌは、十三世紀には存在しなかった」「樺太アイヌは十四世紀に移住した北海道アイヌである」という荒唐無稽な嘘歴史を、何としてもデッチアゲたくて仕方がない。中村和之が躍起になる歴史捏造の犯意は何か。

 中村は、「アイヌは北海道で生まれた」「アイヌ人は、擦文社会(東北から移住してきた数万人から十万人を越える純粋な日本人)から生まれた」と言う大妄想を、是が非でも正当化したいのである。

「近世アイヌ文化とは、擦文社会が南と北との交流の中から生み出した」(注8、147頁、中村が「擦文」とせず「擦文社会」とするのは、擦文人が全員純粋な日本人で、そこからアイヌ人が産まれない事を知っているからである。アイヌとせずアイヌ文化とするのも、同じトリック)

 樺太アイヌが北樺太のギリヤーク人を襲撃するに、北海道アイヌが助っ人として北樺太の「果夥」に上陸したが、その後、北海道アイヌは樺太アイヌの縄張りを侵すことはなく、樺太移住などしていない。北海道アイヌと樺太アイヌは、四世紀、アムール川から樺太を南下し、この時に分かれて、千三百年を経て江戸時代を迎えている。だから、樺太アイヌには、ケット人やバイカル湖周辺の新石器時代人のDNAが強く残った。一方、北海道アイヌは擦文時代の日本人との混血でDNA遺伝子では樺太アイヌとは似て非なる人種になった(注9)

 

1、中村和之「モンゴル帝国のサハリン島への侵攻とアイヌ」『第31回北方民族文化シンポジウム 網走 報告』、2017年、21頁。

2、中村和之「北からの蒙古襲来」、榎森進・編『アイヌの歴史と文化Ⅱ』、創童舎、5頁。

3、中村和之「13~16世紀の環日本海地域とアイヌ」『中世後期における東アジアの国際関係』、山川出版社、151頁。

4、「サハリン白主土城の研究」『日本考古学協会第68回総会研究発表要旨』、2002年。2000年に実施された、この「白主土城調査団」に、中村和之は参加している。

5、『日本城郭大系 第2巻』、新人物往来社、123頁上段、1980年刊。

6、千田嘉博「十三湊・福島城の調査」『中世都市十三湊と安藤氏』、新人物往来社。

7、『続日本紀』第二巻、新・日本古典文学大系、67頁。

8、上掲、中村和之「13~16世紀の環日本海地域とアイヌ」。頁数は本文。

9、百々幸雄『アイヌと縄文人の骨学的研究』、192頁の図60を見よ。

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