金田一京助は、一流学者の名声を纏った、“日本国解体→共産国・日本で再建”を目指す共産革命家ではなかったか──”天皇を戴く共産国・日本”を目指した津田左右吉と並び、金田一ら間接アプローチの共産主義者は、直接アプローチの河上肇と変わらない。

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

(本稿は連載「侵略異民族アイヌの本当の歴史」第12弾)

 アイヌ語地名の研究に関し、作為や不自然さを感じさせない、つまり、このジャンルで政治色がない学者・趣味人は、ただ一人しかいない。アイヌの言語学者・知里真志保だけ。私はまた、知里真志保の学者としての生き方に大いに共感している。「学者の良心とはかくあるべし」を体現して生きた知里真志保に対し、惜しみなく拍手を送りたい。

 とりわけ、知里真志保は、悪評芬々の次の一文を書き残した。が、これを読んだ時、「学者の神髄ここにあり」と快哉を叫んだことを思い出す。

「バチェラー博士の辞書(『アイヌ・和・英三対辞典』)くらい、欠陥の多い辞書を私は見たことがない。欠陥が多いというよりは、欠陥でできている」(注1)

 また、これを読んだ時、「バチェラー博士」が別の名前に置き換わって、私の頭の中を駆け巡った。目がおかしくなったのか、次の文章に変わっていた。なお、“金田一京助の論文”とは、「北奥地名考」(1932年)、「奥州蝦夷種族考」(1962年)、「山間のアイヌ語」(1938年)の三本を指す(注2)

「金田一京助の《アイヌ語地名》論文くらい、欠陥(捏造、詐言)の多い論文を私は見たことがない。欠陥(捏造、詐言)が多いというより、欠陥(捏造、詐言)でできている」。

東北以南には(津軽海峡海岸部を除き)アイヌの居住は一人もいない/往来すら全くのゼロ

 金田一京助は、明治生まれの嘘つき学者で、その口から出任せの虚偽垂れ流しは、前代未聞の醜悪度を誇る。前稿でも指摘したが、金田一が1932年に発表した大論文「北奥地名考」は、金田一があらん限りの捏造術を駆使して“虚”アイヌ語地名をでっち上げた、小保方晴子のマジック・ショー「STAP細胞」の捏造を越える、まさしく“世紀の犯罪論文”ナンバー・ワンだろう。

 これから、同論文の主な大嘘捏造の手口を暴いていく。アイヌ関係の学者で良心を持つ通常の人間は、知里真志保ぐらいしかしかいない驚くべき現実が、金田一京助の犯罪手口“読者騙し”からクローズ・アップされるだろう。まず、東北以南には、津軽海峡海岸部の「エゾ村」と呼ばれた異民族アイヌ人のコタンを例外として、一つも無い。が、金田一は、次の大嘘をデッチアゲる。

(奥州にはコタンが二つだけある) 一つは、『延喜式』「神名帳」の中に記載されている岩手県陸前高田市の氷上山(ひかみやま、標高874㍍)の頂上付近に建立された三社からなる氷上神社の一つ、西宮の《陸訓許段(りくこた、陸訓許、標高811㍍)神社》。もう一つは、岩手県紫波郡矢巾町德田に築城(812年)された平安時代の城柵《徳丹城 とくたん城 とくた城》である」(注2、182~3頁の要約中川)

 金田一は、詭弁・詐言何でもありの大嘘付き。まず、氷上神社の一社「りくこた神社」の祭神は、「りくこたの神」(注3)。なのに金田一は、これはアイヌの神様だと言いたい口吻。ならば金田一は、「りくこた」の語義及び語源をアイヌの宗教思想において論じなければならない。が、金田一は、「りくこた」の意味について、無視・無言を通す。金田一は学者ではなく、ペテン師。

 詐言師・金田一は、狡猾にも和語「りくこた」の宛て漢字を音読みして「リクンコタン」と改竄し、「コタンだぞ」「アイヌが住んでいたぞ」と叫ぶ。金田一には学者性も良心もない。悪質な詐欺師の本性が大爆発している。宛漢字「許段」には「許多」を宛てることもあるように、「こた」としか読めない。決して「コタン」とは読まないのは、そうは読めないからだ。

 即ち、スーパー詐言師・金田一とは、賀茂真淵や本居宣長が驚倒必定の、『古事記』の宛て漢字を音読みする狂人に準えよう。現日本語は弥生時代に形成されたが、その後一千年以上も漢語読みの漢字とは混淆しなかった。宛て漢字を使っても、和語は、古来の和語のままだった。

 聖徳太子の頃より外国語の漢文が記録のため利用され、和語主義の『古事記』と外国語主義の『日本書紀』の二本立てになったように、和語と外国語は峻別された。これが混淆して、和漢混交文の現在の日本語表現方法が確立したのは、奈良時代の末期から平安時代にかけてである。ともあれ、宛て漢字を決して音読みしないのは、国語学者でなくとも小学生五年生なら知るイロハ常識。この常識を欠如する金田一京助とは、どうも日本人ではないようだ。ソ連人なのか?

 次、徳丹城について。この城は、「徳田(とくた)」に築城されたので「徳田城」と命名すべきが、恐らく、勇壮さや威容さないという理由で、「田」を「丹」に変えたようだ。読み方は、当然、「丹」を「た」と読み、「とくたん城」ではなく、「とくた城」だっただろう。

 問題は、「とくたん」でも「とくた」でも、「トコタン」とは決して読めないということ。だが、日本人から歴史を剥奪して日本民族を無歴史の下等・未開民族に貶めたいコミュニスト金田一にかかると、「とくたん」が、リズムが似ている「トコタン」に変造される。アイヌ語「トコタン」は「沼村」の意味。だが、九世紀も今も「徳田」村には沼はない。水はけのよい田園の村である。

 金田一が、仮にアイヌ語「ツコタン」だと強弁するならば、「廃村」という意味。だが、812年、「徳田 とくた」には五百人もの常駐兵士がやってきたから、大繁栄の賑わい村となった。繁盛しているから、アイヌは「廃村」と名付けたのか。「東北に二ヶ所コタンがあった」との金田一の真赤な捏造話は、初めから破綻するキワモノ話。アイヌが一人も住んでいない東北に、幽霊でもコタンは作れない。

純粋日本人マタギの、そのマタギ語に、アイヌ人のアイヌ語ゼロは当り前すぎよう

 かつては、「秋田県などのマタギは、アイヌ」との真赤な嘘が多数説だった。が今や、そんな妄想的な嘘を吐く者はめっきり減った。マタギは、その生き方が修験道の山伏的だし、また弓矢の使い方からしても大和朝廷に服属せず戦って敗れついには山中に逃げ込んだ武士の雰囲気があり、アイヌとは天と地ほどに異なるのは明らか。謬論「マタギは、アイヌ」が雲散霧消したのは当然だろう。

 マタギは、上代古語「やまだち 山立」を語源とし、「野生動物を追い立てる者」という意味が原義。奈良時代もしくは平安時代には公認の職業であって、「山中を漂泊するサンカ」とは異なる。この「山立」が「マタギ」に音変化したのは、「山立」が平安時代末期に「山賊・盗賊」の意味となったので、マタギ自身が慌てて「や」を削除した作為も含め、「やまだち→やまだぎ→「や」を意図的に削除→まだぎ→マタギ」に変わったと考えられている(注4)

 さて金田一。マタギ言葉に、アイヌ語「セタ(犬)」「ワッカ(水)」「サンベ(心臓)」があるから、マタギの全員ではないが、その一部はアイヌの末裔だと執拗に強弁する。1938年発表の彼の論考「山間のアイヌ語」は、そう結論する。金田一は、1937年7月の、近衛文麿の蒋介石殺害戦争の開始に興奮し、“日本人殺し/日本人抹殺”の一環として書き上げたのだろうか。

 が、アイヌは川辺の民/海辺の民。このアイヌ部族文化において、アイヌが山中で暮らすマタギになる事自体、万が一にもあり得ない。マタギの言葉にアイヌ語が闖入する事も万に一つもありえない。

 マタギの弓は和弓の一種。アイヌの半弓ではない。毒矢を用いない。また、マタギの動物への慰霊(供養)祭は、日本全国に共通して行われている縄文文化的・仏教的な慰霊(供養)と同じで、アイヌの熊送りのような残虐な殺害を快楽する反・慰霊(反・供養)の祭りとは真逆である。水田稲作を拒否したマタギとは、縄文文化から弥生文化への移行に乗るのを拒否したのだから、マタギこそは新石器時代の縄文文化を昭和時代に至るまで伝えた純血の日本人の一集団と推定できる。

 すなわち、マタギ語に残るアイヌ語は、アイヌ語ではなく、縄文語ではないのか。縄文時代晩期もしくは続・縄文時代にシベリアから北海道に侵入したアイヌは、日本語の一種たる北方縄文語を借用し、それをアイヌ語として冷凍保存していたと考えられる。仮定だが、こう解釈する他ない。

アイヌ語文法はケットorコリャーク/チュクチ語系だが、アイヌ語の二割以上は日本語

 ここで、いったん金田一京助の狂論クリティークを中断して、頭を整理しよう。アイヌ語は、表1の四つから構成されている。だが、金田一らアイヌ語学者は、3と4についていやいやながら言及することがあるが、2については捨象し黙殺する。そこで、一例を示しておこう。知里真志保『地名アイヌ語小辞典』でnayを引くと、興味深い注解がある。

(川を意味する)petは本来のアイヌ語で、nayの方は外来らしい。川を古朝鮮語でナリ、あるいは現代朝鮮語の方言でナイと言っているのと関係があるかも知れない」(注5)

 北海道・東北縄文人は、紀元前二万年頃、沿海州とは陸続きだった樺太・北海道に歩いて渡ってきた沿海州の旧石器人を直系の祖先としている。北海道と青森県との間にある津軽海峡は、干潮時には大きな川程度か、真ん中は湖になるがおおむね干潟に近い浅瀬だっただろうから、北海道から東北への移動も極めて容易だった。

 とすれば、青森県・秋田県・岩手県などに居ついた旧石器人は北海道と同一人種。しかも、この旧石器時代人はそのまま縄文人に進化したから、北海道/東北北部の縄文人は全く同一人種だった。

 そして、この沿海州の旧石器人は、朝鮮半島にも移動したはず。とすれば、北海道・東北縄文人の言語と古朝鮮語に、一万年以上は、それぞれ別々に変化・発展したことを考慮しても、沿海州・旧石器人の言語が、ほんの一部ならば偶然に双方に残っていることは起こりえよう(注6)

 つまり、アイヌ語の川nayが、北海道/東北北部の縄文人語だったとするなら、それが古朝鮮語と一致しても何ら不自然ではない。古朝鮮語とアイヌ語とが一致するすべての単語は、北海道/東北北部の縄文人語だという事。アイヌ語「ナイ」は、北海道/東北北部のまさしく縄文人語。表1は、縄文語かも知れないと仮定したマタギ語と、ほぼ確定の縄文語「ナイ」「ピラ」を含めて作成した。

表1;(日本語だらけの)アイヌ語は、シベリア産である証拠の冷凍庫──アイヌ学者が解凍しない黒い狙い

(備考1)アイヌは、一年の八ヶ月間が冬のシベリア北方民族だから、11月末に冬が来て寒くなり水が氷るのを表現する(温暖地帯育ちの)日本人の季節感覚に驚いたが納得し、日本侵入後、日本語「氷」を使うようになった。極寒地帯部族に固有な「六月になり氷が解ける春が来た」季節を前提とした、「氷が溶ける」を表現するアイヌ原語「氷」の方は必要がなくなり、自然に消えた。日本語「氷」のアイヌ語化は、アイヌがシベリア産の証拠の一つと考えてよい。

(備考2)アイヌ人はシベリアでは塩を使ったことが全くない。これは北方少数民族にほぼ共通の食習慣。日本語「塩」のアイヌ語化は、アイヌがシベリアから北海道に侵略・侵入した証拠の一つ。

川を意味するアイヌ語「ナイ」「ペッ」は東北に一つもない。”嘘吐き病”金田一の犯罪

 幽霊コタンづくりの金田一の犯罪手口を先に紹介した。このように金田一の言説は、ロス疑惑の三浦和義を凌ぐイカサマ魔術師だから、日本国民は緊張と冷静さを失わず、金田一の恐ろしい“日本国転覆”の革命目的を洞察する知力と勇気を発揮しなければならない。

 金田一と言えば、(北海道で)「川」を意味するアイヌ語petとnayに、明治政府の日本人は漢字「別」と「内」を宛てたのだから、北海道以外でも漢字「別」と「内」があれば、それはアイヌ語が由来である、との詭弁を弄することで悪名高い著名なユーカラ翻訳の第一人者。だが、これほど見え透いたイカサマ賭博師を彷彿とさせる金田一のトリックや詭弁が見破れないほど、1930年代からの日本人の知能と資質は劣化の一途を辿っている。

 今や日本人は、死体に近いスーパー低能児(脳内空洞人間)と化し、日本列島に地名が附けられていく現実の歴史過程すら全く想像しなくなった。仮にも「アイヌが東北地方に住んでいた/アイヌが地名を命名した」との主張を聞けば、先ず、次の最低条件を満たしているかをチェックする。が日本人は、この最低限のチェックをせず“嘘八百の捏造”「アイヌ語地名」を、言いなりのままに、ただ信じる“お馬鹿”になってしまった。

A、地名は、その土地に永年住んでいる者か、その地方に対し政治的な統治権限を有る者が附ける。しかも、必要から意識しての命名よりも、自然発生的(無意識)に名前がいつの間にか附いているケースがほとんどである。

 すなわち、北海道のごとく、明治政府がアイヌ語地名を最優先すると決定し、新地名をアイヌに聴取し行政権限でそれを布告した“人為の地名命名”のやり方は、東北以南には全く存在しない。東北以南の地名は二千年以上の歳月がかかっている。まず、紀元前の弥生中期頃からの(文字なき)和語の地名が発生し、この和語が数百年の間に幾度も変遷した。

 次に、四世紀頃から、この和語地名に漢字を宛て始め、律令体制が完成する頃、全国の主要な地名が漢字表記になった。が、この漢字表記もその地方の好き嫌いもあって、その後何度も変遷した。和語と漢字表記の、いずれが原名を残している確率が高いかと言えば、和語の方。ために地名の由来は和語から探索するのが常道である。

B、また地名は、一時的旅行者や極少人数の滞在者が附けることなど、万が一にも起きない。例外は、地方行幸の天皇や皇族(聖徳太子など)のお言葉とか、あるいは空海など大僧侶の地方行脚の説法などに限られている。つまり、アイヌ語地名が東北以南にあるという暴論を吐きたいなら、先ずもって、東北地方ではアイヌ人人口の方が日本人人口より圧倒的に多かったと証明すべきである。例えば、「奈良時代、アイヌ数百万人が東北に居住していた」などが証明されねばならない。

 さらに、アイヌが住んでいた証拠として、東北全体で地名「コタン」を少なくとも数百ヶ所を明示しなければならない。イオマンテというアイヌ民族伝承も、相当数発掘されていなくてはならない。そして何よりも、アイヌは川辺か海辺(海岸)にしか集落コタンをつくらないから、アイヌ語地名が仮にも東北にあると主張するなら、それがコタン名付きで川辺か海辺に集中している事実を立証しなくてはならない。

金田一の間接主張「岩木川や奥入瀬川にアイヌ語は存在しません」は、矛盾の極み

 さて、金田一京助とは、カルト宗教「内」教の狂信的な教徒。しかも、言うまでもなく詐言師である上に、明らかな精神医学上の狂人。なぜなら、彼は、こう主張・強弁するからだ。

①東北における漢字「内」「別」がある地名は全てアイヌが附けたもの。つまり、明治政府が権力を行使して北海道でアイヌ語「nay」「pet」に漢字「内」「別」を宛てたように、東北においてはアイヌこそが権力を持つ東北の支配者だったから、地名に「内」「別」の漢字があれば、それは必ずアイヌの命名である、と。

②これ以外に、アイヌ語でコジツケ解釈が可能な地名や神社名があれば、それは権力者アイヌが附けたのである、と。

③地名や神社名に関して、伝承で伝わるおおむね二千年の歳月の中で自然的に産まれた、「由来」歴史など断じて考慮するな! 直ちに無視せよ! と。

 こんな狂った屁理屈・詭弁を大上段にかざす以上、金田一が医学的に狂っているのは明白すぎ、彼の全業績は、ユーカラ翻訳を除いて、日本全体で廃棄処分すれば済む話。だが、今や金田一京助は、真赤な嘘歴史の陳列館ウポポイに凝集された日本の極左勢力の英雄である。仕方がない、一つずつ論破していこう。

(1)金田一のトリック第一。「《内》はアイヌ語《川 ナイ》だから、(論理を宇宙にぶっ飛ばす飛躍をさせて)漢字《内》がある地名ならば、アイヌが附けた地名」という“狂”詭弁がこれ。金田一は「川の名前に《内》があれば、この川名は、アイヌが附けた」とは言っていない。本ブログ読者はこれに注意集中!

 金田一のこのトリック、もう一度、繰り返す。金田一は、通常の詭弁「《内》はアイヌ語《川》の意。だから、川の名前に漢字《内》があれば、アイヌが命名したことになる」と、ほざいているのではない。金田一は“狂”詭弁「川でなくとも、丘や森などどんな地名であれ、漢字《内》が使われていれば、全てアイヌが命名した地名である」と喚いている。簡単に言えば、金田一は、「漢字《内》は、アイヌだけしか使わない漢字だ/アイヌ様の降臨を示すお札だ」、と絶叫している。

(2)金田一のトリック第二。青森県であれ岩手県であれ秋田県であれ、この地方にある川の95%以上には、漢字《内》は附いていない。例えば、青森県における川のトップスリー岩木川/奥入瀬川/馬淵川のいずれにも、漢字《内》は存在しない。

 つまり、金田一は、川の名前の研究など全くしていない。金田一は、川の名前にアイヌの痕跡を求める“通常の気狂い”ではない。麻原彰晃と全く同じ狂人教祖・金田一は、「川の語源調査をしていけない/川の名前の由来を調べていけない/代りに地名に漢字《内》があれば礼拝せよ」と、布教し捲っている。だから、川名の由来がつとに知られている上記の三つの川は、青森県には存在しないと、引田天功のイルージョンよろしく、抹殺する。アイヌが仮にも東北地方に居住していたなら、この三つの川名には、「nay 内」「pet 別」が附いているはず。が、狡猾な金田一は、トリックが一瞬で暴かれ破綻するから、「内」「別」のない、この三つの川に言及するのを避けたのである。

 なお近年、“気狂い”金田一京助を教祖とする狂カルト「アイヌ教」が東北を大席捲しており、古来からの川名の由来が破壊・改竄され尽くしている。注意を喚起したく、上記の三つの川だけだが、表2に本来の川名由来を纏めておく。

表2;アイヌとは全く無縁な純然たる日本語の川名由来を改竄する“アイヌ教に犯された日本人”

 なお、岩手県は、真赤な嘘「河川名・馬淵川の由来」と称する看板を相当な数、馬淵川のほとりに設置している。これは歴史を改竄・捏造する犯罪看板。直ちに撤去されねばならない。今や岩手県庁は、金田一教祖の“狂カルト”アイヌ教の共産党員公務員に簒奪された赤色一色の官庁。

 コジツケも悪質な“語呂合わせ狂”金田一は、馬淵川をアイヌ語「mau pet 浜茄子川」が語源だとしている(注2、226頁)。「まぶち」は、「mau pet」をどう音韻変化させても生まれない。「mau→馬、pet→川」で、「淵」に相当するアイヌ語が不在だからだ。

 が、金田一は平然と「《淵》に相当するアイヌ語はありません」としつつ、アイヌ語が語源だと言い張る。これが狂人ペテン師・金田一の正体なのだ。浜茄子は北海道では多いが、ほぼ南限の馬淵川ではほとんど見つけられない。そもそも、馬淵川のどこにアイヌのコタンがあるのか。馬淵川を訪れたアイヌは過去二千年に亘って一人もいない。

東北の「内」に川や沢の意味は無い。「《うち・そと》のうち」「村」「苗 なえ」などが原義か

 話を、金田一の論考に戻す。金田一は生涯、弟子である知里真志保のアイヌ語の研究成果を用いなかった。1961年に没した知里があと数年長生きしていれば、激しい金田一批判をしていただろう。1950年代末頃より、知里と金田一の間には不穏な空気が流れていた。

 金田一の「北奥地名考」は、非・学問性が顕著なトンデモ辞書である、永田方正『蝦夷地名解』をふんだんに用いている。これだけでも金田一のアイヌ語が学問ではなく宗教だったのは明らか。

 この好例の一つ。無学無教養な金田一は、刀鍛冶との関係明瞭な岩木川流域の「十腰内 とこしない」を、コジツケ詭弁をもってアイヌ語だと嘯く。「腰」は「振り」と同じく、刀を数える助数詞である。「十腰」は「刀が十振り」の意味で、これ以外に解釈できない。

 つまり、「十腰内」は、安倍比羅夫に刀を十振り献上したとかor鎌倉時代に十三湊の安藤家や江戸時代に弘前藩に、納めるこの村の年貢が刀十振りだったとか、そのような伝承や歴史事実から生まれた村名だろう。尚、この村名の由来は、「内 うち」の元々の原義が「村 むら」であったことも示唆している。「内」は和語「うち」の宛て漢字で、「ない」はその音読み。「ナイ」と読むこと自体、不適当。

 岩木川は、良質の砂鉄が採れ、鎌倉時代には、刀や鉄製品の一大生産地になった。刀鍛冶屋は、岩木川に沿って数十軒を下ることはなかった。“コシャマインの大虐殺”(1457年)の切っ掛けとなった志海苔村(函館市)の鍛冶屋も、岩木川の出身者と考えられる。

 ところが嘘つき常習男・金田一は、鍛冶屋村を直ぐ連想させる「十腰内」を、アイヌ語「tuk-ush nai」(峰・在る・沢)か、「tu kush nai」(山の走り根・通る・沢)だろうと、こじつける。アホくさ。この村には沢はない。峰も尾根もない。岩木川から少し離れた、なだらかな丘陵地帯である。

 そもそも、金田一が列挙する、川や沢をもって命名されたと詐称する地名の箇所のほとんど(八割以上)には、川も沢もない。これを示す表3はまた、金田一のカルト宗教「内」教の狂気が爆発している証拠ともなっている。これらアイヌ語地名なるものは、一つの例外なく、アイヌ語とは無関係である。例えば、冒頭にある青森県北部の「袰内 ほろない」に行ってみるがいい。そこはかなり茫漠とした高い丘陵地帯。川や沢は匂いほどもない。元々は「うち」と読む「内」は、「村」を意味していたのではないか。

 表3;カルト宗教「内」教の呪文「内」を叫び続ける金田一(青森県のみ、他県は省略)

(備考)表3は、金田一が1932年の「北奥地名考」を三十年後に整理し直した1962年の発表論文(注2、51~2頁)から作成した。

 金田一のコジツケ語呂合わせは、常軌を逸するから、しばしば絶句する。その一つに、陸奥湾に面した夏泊半島で有名な平内(ひらない←ひらうち)町にある、地名「狩場沢」に関する荒唐無稽な金田一の語呂合わせがある。

 「狩場沢」は、仲が悪かった津軽藩と南部藩の藩境で、津軽藩領。津軽藩は、南部藩との戦争に際しての戦場として、ミニ関ヶ原のようなこの地を選んだ。実際にここで津軽藩主は狩りをしたが、それはいずれ起きる戦争に備えた軍事演習だった。南部藩側も藩として重要港・野辺地(のへじ)を守るべく、「狩場沢」との間に土塁を築いている。

 ところが、このような歴史事実に即して附けられた地名「狩場沢」に対する、金田一のトンデモこじつけ改竄は、こうだ。「狩場沢」は、アイヌ語の「カリンパ(山桜の皮)ナイ(沢)」か、「カリンパ(山桜の皮)ウシ(いつもそこに在る)」のことで、日本人はこれに漢字「狩場沢」を宛てただけ、と(注2、211~2頁)。

 “世紀の偽情報工作員”金田一京助らしい、珍論奇説を越えるスーパー狂気の語呂合わせ。なぜなら、カリンパは、桜でなく「桜の」のこと。“山桜が咲き誇る沢”なら意味が通るが、「山桜のが浮かんでいる沢」とは、いったい何。また、「山桜のが何時もそこに在る」なんてことは、万が一にも起きない。皮は直ぐ腐り、「そこには無い」からだ。

金田一の目的は、日本人から伝承と歴史を剥奪し、“無歴史の未開人”への改造か

 金田一の秘めた目的は何だったのか。彼は、日本人から伝承も歴史も剥奪して、いや国語や文字も剥奪して、「歴史のない/伝承のない/文字・国語のない“アイヌ並みの未開人”」に改造するプロパガンダに精励してきたのではないか。とすれば、金田一の目的は、河上肇と同種の正統派コミュニストとして、ブルジョアジー(日本人)とプロレタリアート(アイヌ人)を逆転させ、「アイヌが支配者、日本人が被支配者」の階級闘争をアイヌ勝利で完結しようとしていたことになる。

 不在/非在のアイヌ語地名“共産革命運動”は、北海道における明治期以来の、日本政府・日本人(保護する強者)とアイヌ人(保護される弱者)との関係を、東北以南では瞬時に逆転させてしまう。なぜなら、東北以南では地名をアイヌ様から下賜され、それに感激した日本人がアイヌに感謝し叩頭する、そんなアイヌ製地名を押し戴く前代未聞の卑屈な行為に、日本人を誘導するからである。金田一を教祖とするアイヌ語地名キャンぺーンの流行は、見事な「アイヌが上、日本人が下」の関係を構築したのである。

 これは、日本人が自ら自分たちを祖先や祖国そして日本領土から切断し、また日本人自らが自分たちを自国の歴史・伝承から切断する、自ら非国民化を選択しての祖国叛逆の叛乱行為に他ならない。東北以南にアイヌ語地名など一つも無いことなど、金田一京助も山田秀三も初めから了知している。だから両名は、カルト宗教の教宣方法で日本人を洗脳する事に人生の過半を投入した。

 こうも言い換えられよう。“反・歴史”「アイヌが日本人に地名を授けた」を狂信する大妄想が日本人の脳内を支配した時、日本人は自国の歴史を喪失するし、日本人は日本国家の根本レーゾン・デートルから浮遊する。現に今や、日本人は、祖先がつくった/祖先から伝授された“無形の巨大宝石”「地名」を平然とゴミ扱いで遺棄排斥している。これほどの反・歴史と祖先冒瀆行為に、日本人で公憤(健全に怒る)者は、とうとう私を除いて一人もいない。

 東北地方の多くの地方自治体は、そのホームページや観光地の看板で、由緒ある山や川や神社などを古来からの伝承に基づく正しい由来に唾をかけて蹴っ飛ばし、「アイヌ様から頂いた」真赤な嘘を公式に公言する始末。アイヌが東北に居住したことがない/往来したこともないことぐらい、少し考えればわかるはずだが、酒酔い痴呆老人に化した一億日本人は、腐りきった人格において、僅かな真面目さや正常さすら喪失してしまったから、こんな当たり前すら思考できない。要は、お馬鹿とドアホばかりの一億日本人は、“民族滅亡の媚薬”「多民族共生」に浮かれて阿波踊り、平然と祖先冒瀆に狂奔し、正しい日本語の地名由来を破壊尽している。

 金田一京助は、1917年のレーニンのロシア革命直後の1920年代から、日本人から歴史と国語を剥奪し日本国解体/日本国死滅を目指して、アイヌの虚像をデッチアげ、共産革命運動「“大捏造”アイヌ語地名」&「“大暴論”東北蝦夷アイヌ説」を展開してきた。が、現状の現実をつぶさに観察すれば、彼の狙いは見事なまでに大成功している。

 アイヌ語地名“共産革命”によって、日本人の日本民族としての精神は腐食を極め、日本人は自らの歴史(伝承を含む)・伝統(神社信仰を含む)・慣習(国語に対する無限の敬意を含む)を自ら破壊し喪失した。金田一京助の、墓場の下らの赤い高笑いが、日本列島の全土に響き渡っている。

 

1、知里真志保『アイヌ語入門』、北海道出版企画センター、237頁。

2、三本とも、金田一京助『古代蝦夷とアイヌ』、平凡社、に収録されている。頁数は本文。

3、岩手県神社庁は、「りくこたの神」はアイヌ語で「丘にある村の神」との意味だと、公式に誤ったトンデモ解説をしている。解説ではなく、謬説の大嘘プロパガンダ。この神社と祭神とを冒涜する、これほど狂気言説流布の悪魔的な行為は、「氷上神社の山頂三社は、アイヌが建立し、アイヌが祀ってきた」という真赤な嘘話をさも本当かに宣伝・洗脳する犯意なしに可能だろうか。アイヌは、氷上山の山頂はむろん山麓ですら、有史以来一万年以上にわたり、一人として訪れたことはない。

 アイヌはまた、強度な無「神」教徒である。仏教への帰依や仏式葬儀を一部のアイヌがするようになったのは、明治政府の同化政策の賜物で大正時代からである。神社に参拝する神道帰依のアイヌは、1905年以降、僅かな数しか記録されていない。が、金田一や岩手県神社庁は、アイヌは北海道に百も二百も神社を建立した神道信者だと主張しているに等しい暴言を吐いている。神社本庁は、山頂三宮を含む氷上神社を冒涜し、また約二千年間にわたり氷上神社を崇拝し維持してきた日本人を重大に侮辱した岩手県神社庁の幹部を厳正に解雇処分されたい。

(備考)「りくこた」は今では意味不明語。死語になった弥生語(日本語)か、弥生人=日本人が継承した「縄文語」か。それともこれ以外か。この語源を探るのが言語学者・国語学者の金田一京助の仕事のはず。が、学問が大嫌いな文学者・金田一は、語呂合わせごっこに興じても、労を要する学術研究を一切拒絶した。

 尚、私の仮・推定が以下。陸訓許段神社は、元は五葉山(氷上山より北に17㎞)の南麓に鎮座していた。室町時代の頃、修験道の信仰から、霊山である氷上山の山頂に遷座。「りくこた」は、紀元前の弥生時代中期頃、五葉山の麓で広大な水田を保有した地元の首長の名前のようだ。そして、その子孫が、この祖先を祀る祠を建立し礼拝するようになった。それが地元の鎮守の神社となり、さらに千年を経て氷上山へと遷座して今に至る。弥生時代の日本人の名前は、現在からすれば実に奇天烈なのが多く、意味が捕捉できない。が、「りくこた」に人名の響きを感じるのは、そう突飛ではあるまい。

4、小笠原功『白神山地・岩木川周辺の物語』、北の街社、83~4頁。

5、知里真志保『地名アイヌ語小辞典』、北海道出版企画センター、64頁。

6、沿海州の旧石器人は、紀元前二万年の頃、樺太・北海道・東北への移動、朝鮮半島への移動の他、アムール川河口への移動もしており、これがギリヤーク人の祖先になったと私は考えている。ギリヤーク人女性の仕草は、日本人女性とよく似ているとふと感じることがある。縄文人女性は髪をよく洗う文化を有していたが、ギリヤーク人女性も同じ。紀元前4000年頃には日本全土の縄文人女性は髪を梳く櫛を保有していた。ギリヤーク人女性もどうも同じであったらしい。アイヌ人女性が櫛を手にしたのは明治時代に入ってから。髪を洗うようになったのは明治中期以降である。

 また、ギリヤーク人と原日本人とは直ぐ親しくなり仲がいい。二万年ほど前の血における親族性の故ではないのか。紀元後600年頃、道央・道南の縄文人が獰猛蛮族アイヌに襲われ皆殺しされた時、その一部は道北のギリヤーク人の下に逃げ込んだ。ギリヤーク人は、縄張り内への他部族侵入は食糧の枯渇/欠乏を引き起こすから通常は拒絶するが、これら縄文人を快く受け容れた。

 もう一例。阿倍比羅夫は、奥尻島でギリヤーク人を征伐した後、降伏したギリヤーク人47名(49名)を大和盆地に連れてゆき朝廷から饗給を賜る扱いをした(現在の天理市に饗応の大宴会場を設営した)。一方、この征伐を依頼した旧同盟側の、しかも生きた羆の仔二頭など相当な貢ぎをなしたアイヌは、大和朝廷に一人も呼ばれなかった。「ギリヤーク人は文明度がアイヌより二ランクほど高く、教え込んだ宮廷マナー(朝貢の儀式)を振舞えるが、アイヌは蛮族すぎてそれができない」だけが理由だろうか。660年の阿倍比羅夫は戦争後、ギリヤーク人に親近感・友好関係を感じ、アイヌ人に「対日本人」敵意・危険性を感じとったからではないのか。

7、青森県平内町とは、自ら町名を貶める、愚昧極めるドアホ町民からなる町である。何故なら、おそらく江戸時代よりはるか以前に祖先から頂いた名誉ある日本語の地名「ひらうち」を、嘘八百「平はアイヌ語のピラ=崖、内(うち→ない)はアイヌ語の川」だから、町名は「崖が聳える峡谷の川」が原義だと、町挙げて思い込んでいるからだ。そもそも、「比較」「比例」を「ぴかく」「ぴれい」とは読まないように。「ピ」は「ひ」に転訛しない。つまり、平内町の「ひら」は「ぴら」から転訛したのではない。今もそうであるように、最初から一貫して「ひら」であった。

 さらに、小学生二年生程度に、ありのまま現実観察をするべきだろう。平内町には峡谷はない。山が崩落して地肌が見える崖piraもない。町の象徴になるそれ相当な川petもない。奈良・平安時代よりはるか前から、平内町はシベリア白鳥の飛来地。誇るなら狂妄「偉いアイヌ様に名前を附けてもらった」ではなく、名門の津軽藩の藩民であった事や美しい“小湊の白鳥”の方だろう。

                                            (2021年4月22日記)

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