“姓名占い狂の教祖”津田左右吉の犯意露わな古代史「全面破壊」を放免し、日本は“民族の至宝”「正しい歴史」を喪失した。歴史を失った国家は必ず滅亡する。今からでも遅くはない、日本人よ、「正」古代史を復権すべく最後の“知の戦い”に命を捨てようではないか。

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筑波大学名誉教授 中 川 八 洋

 記紀にあらん限りの罵詈雑言を投げつける“畸形の共産主義者”津田左右吉を、戦後日本は無罪放免にした。ジャコバン党ロベスピエールを崇拝する赤色憲法学の宮澤俊義、レーニンを崇拝する家族破壊“狂”の我妻栄と並び、日本民族から古代史を剥奪し歴史無き“無国籍日本人”大量生産を仕事とした津田左右吉は、戦後日本を過激に左傾化させた“赤い巨大機関車”ワースト・スリー。

 だが、驚くべくことは、惰弱で無気力な一般の日本人の方。津田左右吉が、“スターリンの犬”河上肇や“天皇による天皇制度破壊”を考案した上杉慎吉らと同時期に、「日本に共産革命を!」の雄叫びとも解せられる『古事記及日本書紀の研究』(備考)『神代史の研究』を出版したのは、1924年(大正14年)だった。が、この時、この二書を糾弾した者は、一人もいない。津田左右吉の恩師・白鳥庫吉すら弟子・津田に対して苦言一つ投げつけてはいない。白鳥庫吉らの『国体真義』(1928年)は、いったい何だったのか(注1)。 

(備考) 津田左右吉のコミュニストぶりが満開の書『古事記及日本書紀の研究』の初刊は、(タイトルに「び」がある)1918年。これは全く売れず世間も知らなかった。が、1924年の修正版は世間の注目を浴びた。

 上記五名のうち河上肇に対してのみ例外的に政府は、1925年に治安維持法を制定した。が、杜撰すぎたザル法の典型だから、有効な働きは何一つなかった。河上肇によるスターリン系の共産主義思想の蔓延は、スペイン風邪の伝染力より強烈で、1932年以降、近衛文麿を初め日本の官界と陸軍の中枢を支配した。昭和天皇処刑と一億日本人皆殺しを戦争目的とする“祖国叛逆の真赤な大東亜戦争”は、このスターリン系共産主義を奉戴した東アジア共産化を目指した革命戦争だった。

津田左右吉を「古代史の学者聖人」にした「蓑田胸喜→内務省」発禁処分の大愚行

 戦後直ぐに、教条的な共産党員の吉野源三郎に依頼されて、津田左右吉が雑誌『世界』に発表した天皇制廃止反対論は、よくよく読むと、天皇制“準”廃止論である。天皇を“日本国天皇”から引きずり降ろし、当時の日本では、最極左人士しか発想しなかった国民主権論に基づいた“日本人(日本人民)の天皇”に貶めているからだ。津田は、こう書いている。

「皇室は《国民の皇室》であり、天皇は(「日本国天皇」ではなく)《われらの天皇》であられる。《われらの天皇》は、われらが愛さねばならぬ」

「国民は皇室を愛する。愛する所にこそ民主主義(「人民民主主義」のこと)の徹底した姿がある」(注2、丸カッコ内中川)

 これは、1791年9月のフランス革命憲法が「ルイ十六世フランス国王」を、「フランス人民の王ルイ・カペー」に貶めたやり方と全く同一。この革命憲法制定から一年半後、ルイ16世は、ギロチンで処刑された(1793年1月)。何ということはない、津田左右吉は、読者誑かし語「われらが天皇」をもって、日本国天皇を全否定している。津田のこの巧妙なトリック語に従えば、「《われらの天皇》で無い」と声をあげれば天皇制を即座に廃止できる。また「愛していない」と国民がその意思を表明すれば、天皇から天皇の地位を剥奪できる。共産革命家・津田左右吉は、ジャコバン党員の再来だった。

 日本国天皇の地位は、現世代の意思を超越して悠久にご存在されるものであり、それは二千年間という祖先が奉戴してきた歴史によって“法”となっているからだ。国民であれ国会であれ、その意思で超越的大真理である“法”を改変できない。国民も国会も、“法”にただ従う義務のみ負っている。だから“法の支配”と言う。“法の支配”の大原則において、国民は“法”に反する意思を有することは許されない。

 こう正しく理解すれば、上記の津田左右吉の錯覚を誘う巧妙な天皇制廃止反対論=天皇制“準”廃止論は、拡大解釈すれば「スターリン32年テーゼ」の枠組内に括れる。やはり、津田左右吉は河上肇の亜種で、日本共産党の親族だった。この事実は、津田の人的交流からも裏付けられる。

 ところで1940年、内務省は、津田左右吉のこれら”反・歴史”著しい犯罪本を発禁処分にした。さらに、津田を出版法違反で起訴した。何という軽挙妄動で馬鹿の三乗であることか。

 本はいったん出版されると、いかなる国家権力でも消すことは不可能。ルソーの『人間不平等起源論』に匹敵する、津田左右吉の“天下一の悪書”『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』を叩き潰すには、これを全否定する学術書を公刊して対抗する王道を採るのが絶対。これ以外の安易な近道は逆効果が甚大。「目には目を」と同じ、「学には学を」である。

 英国では、バークの『フランス革命の省察』とそれに続く三本の1791年論文が、ルソー思想の英国侵入を、ベンサム一人を除き、阻止することに成功した。この歴史の教訓に学べば、当時の東京帝大には、坂本太郎が既に博士号も取り、新進気鋭の助教授として在籍していた。確かに坂本太郎は、喧嘩にビクビクの怯懦な性格だが、ペンネームならば引き受けただろう。一方、蓑田胸喜は財閥と関係が深く、現在価額の一億円ぐらいなら直ぐに手に入れる。出版社に坂本太郎用の研究基金を作り、坂本にペンネームの条件を提示すれば、金銭欲のない研究一路の坂本太郎でも乗った筈。

 だが、出版法違反という馬鹿げた裁判の受難で、戦後、津田左右吉は“学聖”に崇められ、古代史学界では津田批判が出来なくなった。共産党員・井上光貞/直木孝次郎/水野祐らの跋扈と嘘歴史の垂れ流し放題を助長した。そればかりか、非・共産党系の肥後和男や植村清二までが、津田史学に尻尾を振る始末。万事休すの情況で、おもわず目を覆う。

 結局、神武天皇実在論を持論とする坂本太郎は、戦後永く古代史学界のボスだったのに、同学界で逆に孤立した。坂本太郎の神武天皇実在論の出版を渇望した一般社会とは別世界の“学界(=蛸壺の中)”では、1960年代に入ると神武天皇実在論の出版を許容する雰囲気が完全に消えた。実際にも坂本太郎は、1962年に東大を定年退官すると同時に、共産党が支配権を掌握した古代史学界から事実上放逐された。この時、「神武天皇は歴史上存在しない」は学界の定説となった。

「俺様は天皇より偉い」と酔わずに、“偉大な史書”記紀に悪口雑言の罵りは可能か

 『津田左右吉全集』第一巻/第二巻に収録された「日本古典の研究」、すなわち『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』などは、一読すると日本人なら誰しも、嘔吐を催す気分に襲われる。「記紀は物語であって、歴史にあらず」と、実在する古代天皇をバッサバッサと斬り殺す、(赤川次郎に似た)大衆小説家並みの達文・速筆の津田左右吉の手口と屁理屈・詭弁には、学者性が一欠けらも無い。道を歩く善男善女に手当たり次第に難癖をつけ金品を巻き上げていく暴力団とそっくり。

 津田左右吉の異様な史学の特徴は、次の三つ。

1、唯物史観。津田は、共産主義者特有のゴリゴリ唯物史観 materialismの持主。津田史学には、(1906年頃までの日本人の絶対思想だった祖先崇拝など期待しないが)人類が普遍的に有する、祖先への感謝や敬意などの通常の感性すら欠如している。祖先に霊的なものを感じる精神の働きが空無な津田は、この「祖先に霊的なものを感じる精神の働き」を日本人から剥奪して日本人をボルトナット化する“生体人格手術”を、古代史の大改竄を通じて展開したのである。

2、マルクス・レーニン主義。マルクス『共産党宣言』が煽動する階級闘争の「俺様(津田左右吉)は天皇より偉い。何故なら、俺様(津田左右吉)は人民様だからだ」が、津田左右吉の著作全てから漂っている。津田左右吉には、幸徳秋水の訳本『共産党宣言』を読んで感動した形跡がある。

3、「『帝紀』『旧辞』が俺の手元にある。俺はそれを見ながら論じているのだ」と、津田左右吉は戦慄を覚えるような怖い狂妄(幻覚)で論じている。奈良時代後半頃に消失した『帝紀』『旧辞』などどこにも存在しない。津田左右吉は、明らかに強度の幻覚障害を病んでいる。狂人の一種か。

 この連載『神武天皇・神功皇后実在論』は、津田左右吉「史学」に対するクリティーク。津田史学を完膚なきまでに粉砕することが目的。津田の『日本古典の研究』を切り刻んで山羊の餌にする予定。白い山羊が見る見るうちに真赤になったら、熱烈な拍手喝采をお願いしたい。

孝昭天皇(第五代)&孝霊天皇(第七代)は、歴史学的に実在──“嘘つき”津田左右吉

 坂本太郎は、後代の我々に「“大嘘付き”津田左右吉を叩き潰して欲しい」と熱く遺言している。

「大和朝廷に国家統一は(その実在に学界に疑問視がない)崇神天皇一代でできたはずは無く、大和に都した歴代天皇の力に負うたものであろうから、崇神天皇以前に多くの天皇の代のあったことは当然認めなくてはならない」

「初代の神武天皇にかけられた東征の物語についても一概に無稽のこととすべきでなく、歴史事実の幾分かを含むものと解される」

「神武天皇は固より、崇神天皇以前の九代の天皇は実在の人ではないという(津田左右吉の)説は、何ら実証されたものではない」(注4、丸カッコ内中川)

 確かに、この通り。神武天皇から開化天皇までの九代の御代につき、その御存在を裏付ける歴史的事実の方が多々ある。一方、この実在を否定する歴史的根拠は何一つ存在しない。津田左右吉とは“嘘歴史捏造の病”を罹患した一種の精神異常者であったろう。正常性がなく、歴史家以前。

 例えば、第五代の孝昭天皇に関しては、播磨の飾磨郡(しかま、現在の姫路市)を武力制圧し服属させたことが『播磨風土記』に記録されている。孝昭天皇の播磨の国“制圧”の目的が、「砂鉄産出地帯の独占」なのは言うまでもない。碁と同じく、「服属しない地方の武力(=鉄刀と鏃)を減じ、朝廷側の武力を倍加させる」ことが、この地方の大和への服属を永遠化するからだ。

1、播磨の国に制圧したのが、孝昭天皇であること。

 「飾磨(しかま)と号(なづ)くるゆえんは、大三間津日子命(孝昭天皇、おおみまつひこのみこと)、ここに屋形(やかた、仮の宿営舘)を造りて座(ま)しし時・・・」(注5)。播磨の飾磨郡は、現在の姫路市。

2、制圧目的が、砂鉄産出地方の獲得だったこと。

 「安師(あなし、採鉱の技術者)の里(村)。安師と称(い)ふは、大和の穴師の神の神部(直属する部民)に託(つ)きて仕へ奉る。故、穴師となずく。」(注5、丸カッコ内中川)。この村人は、その稲作収穫の三割の租税や農閑期には労働を、大和・三輪山の山麓地帯に広がる大和朝廷が直営する製鉄工房=穴師集団に納めることを命じられた。むろん、この播磨国の「村人」は純・農民で穴師ではない。今に残る三輪山の穴師兵主神社は、かつて多くの製鉄工房がそこにあった時代の名残。

 この「安師の(に納税する)里」は、(瀬戸内海側から見て)市川の左岸だが、市川の右岸「阿保」は、そのものずばりの産鉄地である。この地名「阿保」は、「穴穂」「穴太」と同じく、産鉄地という意味。「安師=穴師」は、「鉄穴師」と同義である(注6)

 産鉄地「飾磨郡」が大和朝廷に服属した事実は、孝昭天皇に率いられた相当な規模の(海岸からの上陸作戦であったにせよ)大和朝廷軍の侵攻ルートからして、播磨国の「明石郡」「賀古郡」「印南(いなみ)郡」も、それ前に陥落したことを意味する。大和朝廷に降伏した播磨国の兵士が数百人以上になったのは疑い得ない。なお、賀古郡の加古川河口の砂浜も砂鉄を産出する。

『後漢書』の”倭の国王”「帥升」に口を閉ざし、具体的天皇に比定しない学界の狡猾

さらに、次の『後漢書』の記述「国王」は、明らかに第五代孝昭天皇を指している。仮にも、この記述が孝昭天皇でないと主張したいなら、具体的にその人物名を挙げなければならない。

(後漢第六代皇帝)安帝の永初元年(107年)倭の国王帥升(師升)ら、生口(奴隷)百六十人を献じ、請見を願う」(注7)

 この「倭」「帥升」について、日本の古代史学者は、具体的な人物名を挙げない。挙げると、津田左右吉の「初代~第九代天皇は記紀編纂者の作文。実在せず」に叛乱して津田の大嘘つきぶりを一瞬に暴くことになり、共産党から執拗に報復される。津田大明神の真赤な謬説に黙々と従うのが、古代史学者が大学で保身して生きていくための政治的“賢さ”なのだ。

 さて、この人物を比定する作業の第一段階。その第一。一度に百六十人もの奴隷を獲得する方法は、戦争捕虜のケースのみ。そのような戦争が、捕虜「貢物」の前年106年、どこで起きたか。

 第二。現在のソウルから平壌にかけた支那帝国の植民地「帯方郡」に、戦争捕虜(奴隷)百六十人を輸送する船団を有している当時の国家はいずれか。尚、対馬海峡を当時の小舟で渡る季節は四~六月のみ。第三。出航地点は呼子唐津湾博多湾の三ヶ所しかなく、伊都国か奴国に港湾使用を命令できる国家となる。尚、最高級の港・呼子がある末盧国は、実態的には伊都国の一部。

 比定作業の第二段階。後漢書では「倭」だが、北宋版『通典』では「倭面土国王帥升」(注7)と三文字「倭面土」である。この「倭面土」を内藤湖南は「やまと」と訓む。これが正しい。次、「帥升」。「」は「元帥」の「帥」で、「軍隊の最高司令官」の謂い。即ち、人物名は「升」の一字のみ。「升」が誰を指すのかは、この漢字からは推定できない。

 が、以上の諸条件に当て嵌まるのは、「播磨国」軍事制圧に勝利した第五代孝昭天皇お一人。異論は存在できない。とすれば、「播磨国」軍事制圧は106年だったことが、逆に、この『後漢書』『通典』から読み取れる。

 尚、戦前日本では「やまの国」と訓んでいた「邪馬台国」を、「やまたいこく」と馬鹿げた痴れ読みするようになったのは戦後からである。神格化されたコミュニスト津田左右吉に遠慮し、言葉「やまと」を原則抹殺する反学問が学界のルールとなったからである。『随書倭国伝』は、「邪馬台国」を「やまと(の国)」と訓(よ)め、と明記している。「倭国は、邪摩堆(やまと、大和)に都す。『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」(注7)

 当時の船について。弥生時代晩期に当る107年の時点、呼子(東松浦半島の突端)から「壱岐島→対馬→加羅→帯方郡」に、どのような船で百六十人もの戦争捕虜を送ったか。橿原市常盤町の坪井遺跡から出土した弥生土器の欠片に描かれた舟と同じだと仮定する。それは、全長12㍍/幅1㍍の「漕手12名(櫂は左右六本)、操舵手1名」の外洋航行能力がある丸木の刳(くり)舟である(注8)

 捕虜も漕手に使うが逃亡防止を考えれば、一舟で四人が限度。捕虜が海中に飛びこんでも泳げないよう両足を足枷に嵌め縛り、足枷を解こうとすれば護送兵士が瞬時に刺し殺す態勢で、残りの漕手八人は護送兵士が兼ねる。即ち、百六十人の捕虜輸送には、最低四十艘の大型丸木舟が必要(4人×40艘)。孝昭天皇は、106年の播磨の国制圧直後に、数百名以上の捕虜に直径一メートルの大木を切りださせ、大型丸木舟を製造させたことになる。尚、対馬海峡におけるこの舟の転覆防止のため腕木を渡したアウトリガー(舷外浮材、outrigger)付きではなかったか(注8)

 ところで、後漢は孝昭天皇が望んだだろう金印を授けたか。記録がない以上、授けなかったと考えられる。「奴国」を日本の代表と認め金印を授与し僅か五十年(107-57=50)で、その地位を変更することはできまい。ただ、相当な量の高級織物や銅鏡は下賜しただろうと推定できる。これなら、記録する必要がない。

全国統一に王手をかけた「吉備国」制圧の第七代孝霊天皇。その皇女こそ「卑弥呼」

 第七代孝霊天皇には皇子・皇女が八名おられた。うち、皇女「夜麻登ヤマト登母母曾トモモソ毘賣ヒメ命ミコト」は、日本史において特別な歴史上の人物。『魏志倭人伝』の「卑弥呼」に比定でき、そう断定できるからである。日本書紀は「倭ヤマト迹迹日トトヒ百襲モモソ」と表記。以下、「百襲姫」と略す。

 「百襲姫」は第八代孝元天皇の摂政であられただけでなく、神宮の斎宮。かつ、『魏志倭人伝』に拠れば、対外的な国家元首。幕末の歴史に譬えれば、「孝元天皇が、幕府」で「百襲姫が、外交における勅許の大権を有する孝明天皇」に当る。

 尚、伊勢に神宮が遷宮されたのは第11代垂仁天皇の御代の297年であった。第九代天皇まで、神宮は皇居内に在った。第十代崇神天皇は、神宮と皇居(朝廷の御所・宮殿)を分離し、奈良盆地内の笠縫村に遷宮。この時の斎宮が崇神天皇の皇女「鉏入トヨスキイリ日賣ヒメ命」で、『魏志倭人伝』に記述されている「台与トヨ」である。「百襲姫」と同じく、斎宮であると同時に国家元首を兼ねた。

 「百襲姫」が仕える神宮と摂政・国家元首としての政庁があった場所が纏向遺跡である。考古学的に180年頃に建立されたと判明している。巨大な纏向遺跡は、「百襲姫」の父君・孝霊天皇が造営されたのだから、必然的に孝霊天皇の即位は170年頃だったことを明らかにする。

 纏向遺跡で発掘された一直線に並ぶ四つの建物のうち、巨大な建造物Dが、摂政・国家元首の政庁。伊勢神宮の原型となった神宮神殿が建物C。建物Aが「百襲姫」の宮邸と考えられる(注9)。政治機構は、『魏志倭人伝』に拠れば、外務大臣は総理大臣の麾下ではなく、国家元首に直属。

 さて、現在も「賢所」が皇居内の吹上御所の傍にあるように、天皇の御所・宮殿と神宮とは同じ皇居内にあったはずと考えているのだが、孝元天皇の御所・宮殿は、「軽の堺原の宮」とある。とすれば、纏向遺跡は神宮だけで、天皇の御所・宮殿とは距離があり、同一場所ではなかったことになる。この問題、まだ悩んでいる。住所をリストしておく。

表1;御所・宮殿と神宮の住所

 『古事記』は、大和朝廷の国家統一に関する孝霊天皇の重要な動きを記載している。「(百襲姫の同母弟)吉備津日子命に、播磨国から吉備国(岡山県と広島県の東部)に侵攻させ制圧した」(注10)と。吉備国は、播磨国のよりはるかに良質な砂鉄を産する。水銀や金も産出しただろう。水銀がないと金を抽出できない。また、水田稲作のコメ生産量も、播磨国の数倍だと推定される。

 これ等の軍事行動で大和朝廷の富が一気に増え、これが巨大建造物の纏向遺跡の造営費用に充てられたと考えられる。纏向遺跡の現在発掘されている四つの建造物は180年頃と推定されるから、その着工を175年とすれば、吉備国の制圧は173年頃、孝霊天皇の即位は170年頃と仮定して史実とさほどかけ離れてはいなかろう。『吉備国風土記』が散逸して現存しないのが残念。

『古事記』と『日本書紀』の基本的相違の、更なるイロハの一つ

 なお、『日本書紀』では、吉備国制圧を崇神天皇の事蹟としている。帝紀・旧辞を訂正する大権は天皇にしかないから、崇神天皇自らが旧辞をそのように訂正したのではないか。自分の業績を大きく見せるべく、畏れ多く大きな声では申しにくいが、曽祖父に当る天皇の功績を横取りしたのである。どうも旧辞だが、崇神天皇の頃から記録され始めたのではないか。

 ここで、古事記と日本書紀との相違を思い出してもらおう。

①『古事記』は、天武天皇のご臨席の下で、諸説がある事項に関し“どれが最も史実に近いか”を徹底議論し研究した結果を一つに纏め、稗田阿礼に暗唱させ、それを太安万侶が文字化したもの。

②『日本書紀』は、推古天皇の下で蒐集された帝紀・旧辞の複数の諸説を、漢文が得意な臣下百名ほどがゼロから研究し“最も史実に近かろう”を選別したもの。故に、解らない時には複数説をそのまま羅列した。一つに絞る権限は無かったようだ。とすれば、『古事記』と『日本書紀』では、一般的には『古事記』の方が、より史実に近いと考えるべきではないのか。

③『古事記』は元明天皇に献上された、元明天皇お一人がご覧になる(実際は太安万侶が御進講する)「皇統譜」である。ために、名刹の寺の“秘仏”や剣豪が弟子一人に渡す“秘伝”と同じ性格を持つ。だから、『日本書紀』を編纂した百名の朝廷官吏は、一人も『古事記』を見ていない。見ることが許されなかったからだ。一方、『日本書紀』は、大和朝廷の官吏ならだれでも読むことが許される公的な皇統譜かつ公開の天皇の事蹟記録である。

 この常識を踏まえれば、『古事記』と『日本書紀』に齟齬がある場合、「原則的には」という限定付きだが、『古事記』を採用し『日本書紀』を排するのが、記紀を読む場合の基本的態度。よって、この一般ルールに従い、「吉備国の制圧は孝霊天皇。崇神天皇でない」と解しなければならない。

神武天皇から開化天皇までを“物語”と抹殺する津田左右吉を”潰す”のは難しくない

 上記で論及した僅かな分量でも、「嘘つきコミュニスト津田左右吉は、史料で実在が明らかな孝昭天皇(第五代)孝霊天皇(第七代)孝元天皇(第八代)を意図的に抹殺した」ことを証明している。『魏志倭人伝』『播磨国風土記』を正確に読むだけでも、“歴史の偽造屋”津田左右吉をかくも簡単に粉砕できる。津田が抹殺した第九代天皇までの事蹟につき、上記でわかった分だけだが表にしておく。

表2;初期大和朝廷の(連続勝利の)武力制圧行動(ゴチックは確定)

 神宮の伊勢への遷御に関しては、日本書紀に「丁巳の年の・・・、伊勢国の渡遇宮(わたらひの宮)に遷し祀る」とある。『日本書紀』、上巻、岩波書店、270頁。「渡会」は通常、外宮を指す。が、ここの文脈では内宮を指している。干支「丁巳」は、297年に当る。崇神天皇の頃より、大和朝廷は干支を使えるようになったから、この丁巳は正確だと考えてよい。

  崇神天皇の崩御年に関しては、古事記に「戊寅の年の十二月に崩(かむあが)りましき」とある。『古事記 祝詞』、岩波書店、187頁。この戊寅は、258年に当る。

日本国の初代天皇(崇神天皇)が、大和地方の初代天皇(神武天皇)と、なぜ同一なのか

 次稿以降、神武天皇実在論を本格的に展開する。が、表2ですでにそれは十全に証明されているとも言える。崇神天皇が日本最初の天皇で、初めて日本国の国家統一を成し遂げたとする荒唐無稽な暴論は、「神武天皇からの九代の天皇が二百五十年近い歳月をかけた国家統一の軍事行動を、崇神天皇は“すべてお独りで成し遂げた”」との主張と同じ。こんな出鱈目も度が過ぎた奇論暴説は、どんな無法な暴力団でもできない。

 初代天皇の神武天皇のご存在とその後の八代の天皇が実在しない限り、第十代崇神天皇が実在することはできない。当然、崇神天皇の事蹟もこの日本国の歴史にはなりえなかった。それなのに、『日本書紀』の宛て漢字が神武天皇の「始めて天下を馭す天皇」213頁と、崇神天皇の「肇(はじめ)を御す天皇」248頁がソックリで、その元の和語は「はつくにしらすすめらみこと」と完全同一だから、前者は幽霊で物語だとこじつける。同姓同名など、世界の全ての国家にはゴマンといる。こんなコジツケは「同姓同名の場合、片方を処刑しよう」とするのと同類で、正常とは程遠い狂人の言説。頁数は岩波書店。

 そもそも宛て漢字を見ても、前者は「天下」で後者は「国」。全く異なっている。文脈はもっと異なり天と地に相違する。前者では畝傍山麓「橿原」における即位に当り、奈良盆地南部の完全平定を祝ってのこと。片や広く全国民への調と役の税制整備と国民が豊かになった国政機構の完成を祝ってのこと。明らかに、崇神天皇に関しては“日本国の天皇”の意味だし、神武天皇に関しては“大和盆地南部の天皇”の意味。

 神武天皇を“日本国天皇”とはしない『日本書紀』の態度こそ、(一切の誇張や美化をせず)何とも謙虚で歴史事実に忠実に沿った、史書のあるべき学術的な表現ではないか。津田らの共産主義者の「同名だから片方は物語」など、短絡思考甚だしい。というより、人格的に犯罪者性が極度でない限り発想できない。

 そもそも、崇神天皇の和風諡号は「みまきいりびこ いにゑのすめらみこと」(実名は不明)、神武天皇の和風諡号は「かむやまといはれびこのすめらみこと」(実名は「ひこほほでみ」)で全く異なる。これが仮に同一なら同一人物の可能性を論じることは許されるかもしれないが、記紀とは大和朝廷内か皇室内部でしか使用しない皇統譜だから、作為の必要など全くないし、また万が一にも祖先の系譜を間違ってはならないもの。だから、疑問を感じる天皇など記紀にはお一人も存在しないのである。

 

1、文部省は『国体の本義』を1937年5月に出版した。これは、『国史概説』(1943年)とともに、スターリンの共産体制を魔語「日本の国体」で包んで日本人を共産革命に使嗾するソ連GRU工作員の赤い文部省官僚らが執筆した国民騙しの赤色洗脳書。この『国体の本義』と類似のタイトル『国体真義』が、1928年、杉浦重剛や白鳥庫吉らの共著として出版されていた。杉浦重剛は日本最後の愛国サムライだから最も信頼できる。だが、白鳥庫吉は、(私は彼の思想本籍の分析をしていないが)“最凶の対露売国奴”白鳥敏夫の叔父だから、用心するに越したことはない。

2、津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」『世界』1946年4月号。

3、先天的な大嘘付きの“反・歴史”河上肇と津田左右吉は、「中江兆民植木枝盛」の直系。津田左右吉『古事記及日本書紀の研究』の初刊は1918年。河上肇のデビュー1917年と同時。この事実は、ソ連工作によるマルクス・レーニン主義の対日流入の前で、両名の思想の源流が国産なのを示す。河上肇には“水戸学の狂人テロリスト”吉田松陰の影響も無視できない。明治以降の日本の極左思想は全て土佐藩と長州藩に始まった。水戸学の「尊王攘夷」には、“天皇殺し”が含意されており、日本史上最悪最凶の国産「ラディカル反日」イデオロギーである。

4、『坂本太郎著作集 第一巻』、吉川弘文館、358頁。

5、『風土記』、日本古典文学大系、岩波書店、269頁、279~80頁。この岩波書店版は、実在明らかな孝昭天皇について、「孝昭天皇とする説があるが、確かでない」と、さもそうでないかに断定する真赤な嘘の頭注を書いている。268頁。戦後日本では、「初代~九代は不在にせよ」の津田左右吉の狂気を継ぐ共産党のやりたい放題の“反学問”強制検閲は、スターリン時代のソ連と変わらないほどの猛威を揮い続けている。

6、真弓常忠『古代の鉄と神々』、ちくま学芸文庫、42~3頁、137頁。三輪山の巻向川も、「穴師川」と歌に詠まれているように、砂鉄を産出した。巻向川の近傍に「穴師兵主神社」がある。「穴師」は採鉱技術者を、「兵主」はここでは刀剣製造者を指す。なお、鉄に係わる知見は古代史理解において絶対。真弓の本の他、山本博『古代の製鉄』は必読。

 序にもう一つ。神武天皇の皇后の名は、「媛(ひめ)踏鞴(たたら)五十鈴(いすず)媛命」。「五十鈴」は川底の砂鉄や湖沼の底にできる褐鉄鉱を指す。「たたら」は、製鉄の工程で、板を踏んで空気を送り込む鞴(ふいご)の事。「踏み鞴」とも言う。即ち、神武天皇は、刀剣を製造する三輪山の採鉱・製鉄業の娘を皇后にされたのである。『日本書紀』、上巻、岩波書店、212頁。

7、『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』、岩波文庫、57頁、58頁、65頁。

8、松枝正根『古代日本の軍事航行史 上巻』、かや書房、177頁、180頁。

9、石野博信討論集『邪馬台国とは何か──吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡』、新泉社、256~7頁、303~5頁。

10、『古事記 祝詞』、日本古典文学大系、岩波書店、171頁。

                                              (2021年6月22日記)

 

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