神武天皇の海兵隊「筑紫ひむか隊」の御出立は、佐賀県唐津湾。上陸(一回目敗退)は東大阪市日下町──日向(ひむか)三代の故地は、福岡県前原市。

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 国家は、どう誕生するのか。人類史を紐解くと、大まかには、三タイプある。

A、自然発生&自然発展;ローマ帝国、古代ギリシャのアテネ等、古代エジプト、英国、その他多数。

B、英雄による帝国創建;始皇帝による秦(支那帝国)ムハンメドのイスラム帝国、チンギス・カーンの蒙古帝国、アレクサンドロス大王の東方遠征、ナポレオン(スペイン、イタリア、ドイツ、スウェーデン、ロシア、英国を含む)ヨーロッパ帝国(英国等の軍事反撃に瓦解)(英国からボルガ川までの)ヒトラーのドイツ千年王国(米国主導の軍事反撃で瓦解)

C、本国からの移住による分国的な独立;(レバノン沿岸の貿易国家から移住したフェニキヤ人の)カルタゴ、(英国の移住者が分離独立した)米国/カナダ/豪州。

 日本国は、世界史の標準に従えば、日本列島に自然的に発展しており、典型的なAタイプである。が、日本人だけに許される超ミクロ的な観察をすれば、Cタイプの特性がある。この理由は、日本の国家統一を成し遂げ今日の日本国を創って頂いた大和朝廷は、恐らく福岡県と佐賀県の海岸部に形成された原初的な小さな国「伊都国」からの武装集団が奈良盆地を制圧し樹立したと考えられるからである。

 この意味で、「伊都国を英国、大和朝廷の日本国を米国」に譬えても、さほどピントずれではない。『魏志倭人伝』は、伊都国が大和朝廷を代理して北部九州を総監督しているとする。これが事実なら、大和朝廷と伊都国との関係は、第一次世界大戦時の米国と英国との関係に少し似ている。

日向(ひむか)三代のご存在は史実。神武天皇のご存在も神武東征も明らかな史実。

(1) 日向(ひむか)三代の故地。本研究の現段階ではまだ仮定だが、いったん仮の比定しなければ、最終的な確定に至ることはできない。『古事記』の次の記述から、「久士布流(くじふる)山」を朝日が昇る東に見える地点が、この故地に当る。JR筑肥線の駅でいえば、「加布里(かふり)」駅と「筑前深江」駅の間か。両駅とも唐津湾の海岸に近い。また、ここは韓半島は真向かいになる。高祖山(たかす、標高416㍍)に登れば、壱岐・対馬が見える。高祖山と「くじふる山」(419㍍)は双子の山で、二上山の典型。

(皇孫ニニギノミコトは)筑紫の日向(ひむか)の高千穂の久士布流(くじふる)多気(嶽)に天降りまさしめき」「ここは韓国(からくに)に向ひ、・・・・・朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、ここは、いと吉(よ)き地(ところ)」。129頁

 「くしふる山」の南東に、今もその名が残る「日向(ひむか)峠」があり、福岡市と前原市を結ぶ道路が走っている。「くしふる山」は今は名無しになり「高祖山」で一括りだが、江戸時代の黒田藩では「くしふる山」と呼び、高祖山とは区別していた。なお、「高千穂」は、《高い山》ではなく、《山の頂が連なっている》という意味。弥生中期の環濠集落としての「日向三代の故地」だが、私は、人口一千人以上で、「吉野が里」の三分の一ほどの規模をイメージしている。皇孫ニニギノミコトは、まだ赤ん坊ながら、この集落の首長になられたのである。

 『日本書紀』でも「くしひ(くしふる)二上(山)の天の浮橋・・・」との文言がある。紀140頁。第十二代景行天皇の御代、宮崎県や鹿児島県の叛乱する「隼人」「熊襲」を平和的に服属させる手段として、旧辞における「筑紫の日向」を「宮崎県の日向」に変更したと考えられるが、この改変から削られず残った元の文だろう。私は、日向(宮崎県)を「ひゅうが」、福岡県糸島半島の日向を「ひむか」と読む。耳で聞いても相異がわかるようにするためである。

(2) 記紀に明記されている、日向(ひむか)三代の奥方の実家(地方の小豪族)の職業が、表1。

表1;「日向三代」のご専門

 古代史の学者は国語力が貧弱・無知が特徴。宛て漢字の知識すら欠くからだ。例えば、『魏志倭人伝』の「邪馬台国」を比定するに、福岡県「山門郡」に語呂合わせする超お馬鹿がいる。「山門=ヤマト」の「と」と、「大和=ヤマト」の「と」は、全く別の発音。日本人の発音は飛鳥時代まで85音。奈良時代末に「かな」が発明されたことにより、平安時代半ばから日本人は51音へと退化した。「大和」の「と」は「処」の意味。「山門」の「と」は「入り口」の意味。「大和」と「山門」は、全く別の言葉。

 問題は「ほ」。炎=火の「ほ」と稲穂の「ほ」は、同一発音。このため、太安万侶ですら宛て漢字で、この区別をしない。太安万侶は、宛て漢字を「火火手見」とすべきだったのに、「穂穂手見」としている。記135頁。第二代「ホホデミノミコト=山幸彦」が超一流の鍛冶師なのは、「佩いていた剣を鋳直して、五百個の鈎にした」と、刀剣を溶かし釣針に鍛造し直していることで一目瞭然。なお、表1から、日向(ひむか)二代/三代は、母親の実家を継いだことがわかる。

 さして重要でないが、奥方に関する記述で気になった箇所を書き留めておこう。

表2;「日向三代の奥方」に関する『古事記』記述

 神武東征は、筑紫の日向(ひむか)における、祖父と父の「鉄剣と軍船」の全面協力があって初めて可能な偉業。それはまた、母・祖母・曾祖母の実家の総力を挙げた応援の結果でもあった。軍事行動では後方からの兵站・補給が最重要。神武天皇のご出陣後、刀剣や新規兵員の送派など補給に、一族は六年に亘って食うや食わずで全力を挙げ、貯めていた財産もすべて使い果しただろう。

公理「奈良盆地を征せずして日本列島を支配できない」も認識できないクズ学者たち

 神武東征に関し歴史学的研究や言及をしたいなら、学者はそれに不可欠な最低限の教養を持つべきである。だが、津田左右吉を初め、古代史学者は全くの無知無教養。その資格がない。この最低限の教養の筆頭が、公理「イ、日本列島を統一したいなら、その拠点が日本では奈良盆地しかない」を認識できるか否か。が、これを論じた論文は、江戸時代から今に至るも一本もない。

 次。次の「三条件を具備する者のみが、天下統一の可能性を持つ」と認識できて初めて、通常の歴史学者である。つまり、日本の古代史学者は、一人として、通常の水準を持つ学者がいない。

ロ、奈良盆地の支配者になること。

ハ、天下統一の意思(intention)を有すること。

ニ、(徳川家康の幕藩体制のような)世代を経ても安定的に存続する権力機構の政治制度を創設し、天下統一を可能とする軍事力を強化し続けていけること。

 具体的に言えば、神武東征という「ロ」は、実はマイナーな問題。議論の中核はイとハとニである。現に、天下一の“天下統一の戦略的要地”奈良盆地は、長髄彦(ながすねひこ)が既に領有していたのである。が、長髄彦には、この天下統一の意思も能力(capability)もなかった。

 真面な歴史学者なら、「神武天皇はどうして、奈良盆地を制圧すると天下統一への道が開けると確信したのか」「神武天皇が、なぜ天下統一のご意思を持たれたのか」「一歩間違えば経済破綻から一族崩壊がありうるのに、一族皆が総力を挙げて軍事的補給をし続ける覚悟をした、つまり父親や祖父あるいは祖母たち親族一同が《神武天皇には、天下統一の基盤をつくる能力がある》と、何故に確信するに至ったのか」に強い関心を持つはず。が、これらを考察した論文はゼロ。どうやら日本人とは、先天的な歴史学音痴で、歴史がさっぱりわからない六流民族ということか。

 確かに、日本には、『イギリス史略』を書いたバークや、ブルクハルト、ホイジンガ―に相当する歴史家が生まれなかった。ヒュームの『イングランド史』ですら超一流で、日本人学者には真似できない。つまり、歴史学が不毛な劣等民族、それが日本人なのだ。

 日本の歴史学は、偉大な『古事記』『日本書記』で最高点に達し、その後、窒息死状態。特に、津田左右吉以降の、日本人の古代史は腐った鰯以上に腐臭を放つ有毒な粗大ゴミにすぎない。「邪馬台国が九州にあった」など漫才芸人の戯言。実際にも、日本で「歴史家」を標榜する者は、津田左右吉などアジリが専門の悪質なデマゴーグが98%。

 話を戻す。急襲される箇所が「大阪湾→河内湖」の一つしかない天然の要塞は、(当時の兵器においては)日本列島広しと言えども、奈良盆地だけだった。奈良盆地に陸上から攻め込むには、京都府(山背国)か滋賀県(近江国)からのみ。が、この地を敵が掌握することは困難だし、仮に掌握しても奈良盆地側の勢力は、山背・近江を防衛戦場にできるから、優位の陸軍力さえあれば撃破は容易。

 和歌山県の紀ノ川を遡上し奈良盆地の御所市に突入するルートはあるが、紀ノ川には地元の豪族が複数いて、見知らぬ“よそ者陸軍部隊”がトレパスするのを易々と容認することはない。『古事記』『日本書紀』が述べる、和歌山県の東南端「新宮市」から熊野川を直線的に北上して奈良県宇陀市に至る神武ルートは、空想にすぎた荒唐無稽。現実には万万が一にもあり得ない(備考)

 自衛隊のレンジャー部隊員百名に、磁石も地図も携帯電話もなく、弥生時代中期の夏服装かつ「食糧は持てるだけ自由/日本刀一本/矢20本と矢」の装備で、《三ヶ月以内に御所市に集合》の命令を下し新宮市を7月20日に出立させ、この任務を達成できる者が果たして何名いるか。確率100%でゼロ名。八剣山(標高1915㍍)と伯母子岳(1344㍍)の間を突き抜けるが、ここは原始林。仮に「三ヶ月間は救助しない」を条件にすれば、10月20日にヘリコプターで救助するとして、レンジャー部隊のうち餓死・病死が20名、山中を彷徨いガリガリに痩せた者80名というところか。救助を一ヶ月ずらし11月末の初冬にすれば、この80名全員も凍死してしまい一人の生存者もいまい。

(備考)共産党系古代史学者は、神武東征に係わる空想上の挿話「新宮市→宇陀市の侵攻ルート」をもって、「神武東征など噓ばかりだ」「『古事記』『日本書紀』は物語。歴史でない」の証拠とする。一方、私は、史実からかけ離れたこの伝承がどうして皇室の旧辞に挿入されたのだろうかを研究している。二つ三つの空想型伝承があるからと言って、歴史的事実「神武東征」を否定する証拠にはならない。言うまでもない事。が、津田左右吉らは、僅かでも合理的に解釈できない既述を発見すると、鬼の首でも獲ったかのように、「史書ではない。創作小説だ」と大騒ぐ。彼らは学者以前で、学的知性と人格に重大な欠陥がある。

 話を戻す。全国を軍事的に制圧するに、兵力をこの全国に最も効率的(低コストと最小時間は距離の最小)に展開する場所が、日本列島の真ん中がベストであることなど幼稚園児でもわかるだろう。即ち、首都の適地は京都府/滋賀県の南部か奈良県以外にはない。このうち、防衛がもっとも確実で容易なのは、前述したように、山に囲まれた奈良盆地のみ。なお、「やまと」の語義は、《山々に囲まれた》という意味。しかも、神武天皇が伊都国を御出立になられた年を仮に紀元前10年とすれば、その時の奈良盆地は、北半分が湿地帯で水田は南半分にしかなかった。縄文時代は、奈良盆地全体が湖であった。

 すなわち、敵が「大阪湾→河内湖」に侵入しても、奈良県南部の橿原市に突入するには、大和川を遡行する以外のルートは存在しなかった。敵侵入ルートが一本しかない地形は、防衛が極めて簡単な、いわゆる“要衝の地”である。

閑話休題;『古事記』『日本書紀』の地名は、歴史に正確な地形を伝えている

 閑話休題。日本人なら誰でも知っている言葉「(とよ)葦原の瑞穂の国」は、『日本書紀』神武天皇紀の冒頭にも出てくる。これは、神武天皇が橿原の宮から北方向をご覧になられて、「前面の南半分が水田で稲穂がたわわに稔っている/後方の北半分が湿地帯で葦の原が生い茂っている」風景を表現したもの。だが、この紀元ゼロ年前後の風景は、それから二百五十年を経た崇神天皇から景行天皇の御代にかけて一変した。湿地帯は干上がり、そこが全て水田に開墾されたからだ。『日本書紀』が小説でないのは、『日本書紀』完成の720年、知ることなど万が一も不可能な、七百年前の紀元ゼロ年頃の奈良盆地の風景を正確に記述していることにおいて自明。

 序にもう一つ。神武紀や初期天皇紀にでてくる奈良盆地の地名は全て標高四十五㍍以上である。標高45㍍以下の奈良盆地「湿地帯」に人間が住む村や施設建立などできなかったから、当たり前。つまり、『日本書紀』は、旧辞や伝承に依拠して書かれており、編纂者の恣意的な「物語」加筆が一つも存在しない、厳密な意味で史書の中の史書である。

 ところが津田左右吉は、「八世紀初頭の朝廷の書紀編纂の官吏は、標高45㍍以下にある全ての地名・建造物名を、標高測量器械を用いて測り、用意周到に人為的に消した」と主張している。津田左右吉とは大嘘付きの詐言師で、歴史学者ではない。津田の文化勲章は剥奪すべきである。

神武ひむか海兵隊の侵攻コースと「中途寄港」歳月に関する記述を訂正してあげよう

 日本の歴史学者の質は、国際的にみると、唖然とするほどスーパー低水準。現に、『古事記』『日本書紀』の神武東征の記述を歴史学的に読める学者は一人もいない。その証拠に、次の最重要問題につき僅かでも言及した論文はゼロ本。

1、記紀の記述欠落「淡路島に前進基地を構築」「狭い水路しかない、大阪湾から河内湖への突入に当り、不可欠な水先案内人は誰か」を、どう埋めるか。

2、筑紫ひむか海兵隊は、「母国」伊都国からの「食糧の補給、軍船の修理・補充、兵員の補給、刀剣・弓矢の補給」をどうしたのか。

 また、記紀における「筑紫ひむか海兵隊」の侵攻コースとそのかかった年月に関する余りにひどい杜撰さを「どう訂正してあげるか」につき、日本の古代史学者は、訂正案一つも提示したことがない。逆に、この杜撰さを嘲笑し論い、「神武東征など無かった。全部、歴史事実と無関係な作文なのだ」の「証拠」にデッチアげ、“最高級の史書”記紀を抹殺する。

 具体的に例示する。神武東征に関する『日本書紀』の不手際の最たるものは、何と言っても、実証的に積み上げると現れてくる歴史事実とは大きく乖離する《日向三代の故地は、日向国(宮崎県)》としたことだろう。このため、架空「神武東征は、宮崎県から北上して瀬戸内海に入った」を作為せざるを得なくなった。即ち、次の3と4の作業をするのが記紀を正しく読む学的な態度。真正の歴史家。

3、日向三代の故地は福岡県前原市。「日向国」の宮崎県ではないのは明白。

4、瀬戸内海でのその他の侵攻コースと滞在期間に関する杜撰な記述をどう解釈・訂正するか。

 『日本書紀』は「日向三代の故地は宮崎県」を絶対とする。一方、『古事記』は、準天才的な軍略家・天武天皇(「附記」参照)が旧辞を御高閲された後の考えが基調だから、「日向三代の故地は宮崎県でない」を絶対とする。

 第一。『古事記』は、宮崎県を神武東征から排除すべく、豊後水道=豊予海峡を記述しない。記は、「筑紫の日向→岡田宮(遠賀川の河口で海岸)→大分県の宇佐→広島県の安芸郡→岡山県の高島宮→速吸門(=明石海峡→其の国(=淡路島→大阪湾から河内湖に入る急流の水路「浪速の渡」」の順で記述している。記149頁・151頁。お見事。宮崎県の「日向国」が、跡形なく削除されているからだ。尚、旧辞のケアレスミス「順序が逆の、宇佐と岡田宮」を入れ替えたのは、私の訂正。丸カッコ内のゴチック「明石海峡」「淡路島」は私の注釈。

 ところで、日本の古代史学者がいかに劣悪であるかは、この岩波書店本『古事記』を校閲した武田祐吉と倉野憲司の笑止な頭注に証明されていよう。まず、明石海峡であるのが明らかな「速吸門」を「豊予海峡」と頭注している。記149頁。次、既述の地名の順序から淡路島だと推定できる、151頁の「其の国」を「どこの国かわからない」と頭注している。記150頁。

 第二。大阪湾から河内湖への突入を水先案内した功績者は、この149頁にでてくる「棹根津日子」。そればかりか、神武「ひむか海兵隊」の前進基地を淡路島「北端」に造ったのも、この「棹根津日子」。大阪湾から河内湖に突入するには満潮期の数時間しかなく、神武軍をして、何時(なんじ)に淡路島の前進基地を出発させれば、数十隻の丸木舟を一列縦隊で一気に遡上させられるかを知るのは地元の海人族(海洋交易の民)でない限り不可能。また、大阪湾の手前に前進基地が無ければ、タイムリーな突入時間を選ぶこの作戦はできない。

 さて次。記紀ともに超杜撰な、寄港transitと滞在期間の問題。『記』は「広島県安芸郡に七年、吉備国に八年」とする。『紀』は滞在を「安芸郡に二ヶ月強、吉備国の高島宮に三年」190~1頁、とする。七年や八年なら、これは移住。このような長期間になれば、戦士の戦闘意欲も大幅に減じる。また、その理由がわからない。『記』の記述は、捨てることにしよう。

 さて、『紀』の方は多少合理的。12月末に安芸郡に到着し翌3月に吉備国に移ったとあるから、移動航行三週間を差し引いても、安芸郡に二ヶ月強滞在。米の購入と「干飯」への加工などもあろうが、休養が主だったとも推察できる。いや、吉備国は瀬戸内海随一の軍事力を持つ強国だから、万が一に備え、安芸郡で戦闘訓練を二カ月間ほど行ったのではないか。

 『紀』を読む時に気を附けねばならないのは、干支を一種の星占い的に使い捲っていること。例えば、讖緯説などと同類の、唐帝国の何かの説に従って、佐賀県唐津湾を「冬十月に出立」としている。が、そのようなことは万が一もない。この季節であれば、瀬戸内海を厳寒の十二月や一月に東進することになり、現実には不可能だからだ。

 なぜなら、神武東征軍の時代は弥生中期。ほとんどが環濠集落で、よそ者を泊めることは危険だから、原則としてしない。東征軍は、夜は海岸に上がって浜辺で野宿をする。テントなどないから、雨が降っても野宿である。宇佐だけが例外的に宿泊施設と食事を提供してくれたのは、海人族同士で知り合いだった父親フキアエズノミコトの紹介による。つまり、野宿を考えれば、現在のカレンダーで、「出立は4月1日頃、河内湖突入は9月20日頃まで」が基本。

 この常識に従い、吉備国「三年」を仮に史実だと解釈する場合、次のような情況を私は想像した。吉備国駐兵は、吉備国が奈良盆地の勢力とつるんで、神武軍を背後から挟撃しないよう、五百名の実戦部隊(残り百名は兵站部隊)を見せて威圧するdissuadeのが主目的ではなかったか。

 そして、伊都国から持参した銅鏡や銅剣あるいは琥珀や翡翠の勾玉などを地元の豪族に献上して、駐屯地と未開の開墾地を借地した。ここで水田を作り、三年目には米を生産しただろうが、これは二の次。あくまでも、この三年間は、吉備国の豪族をして決して奈良盆地の勢力とつるむ気を起こさせないまでに委縮させることに集中したはず。そして、百名ほどの先遣隊に淡路島での前進基地を建造せしめ、そのうちの一部をスパイにして奈良盆地の詳細な地形と「長腿彦」の軍事力を探索させただろう。そして、吉備国に駐兵してから丸三年後、全軍が淡路島の前進基地から河内湖へと進撃した。紀は、次の如くに記述する。

「二月十一日、皇師(みいくさ)遂に東(に征く)。舳(とも)(へ)相接げり=丸木舟一列縦隊」。紀191頁。

第一次侵攻・敗退→暴風雨・大量溺死→故郷からの兵員・刀剣補給→第二次侵攻

 軍事侵攻は、軍事力forceのprojection能力とともに、兵站logisticの充分性・迅速性の、二本柱をもって遂行される。何れかが不十分ならば、勝利は覚束ない。だが、日本の古代史の大学教授はウルトラ馬鹿しかおらず、明治維新以降百五十年間に亘り、神武東征で、まず第一番目に考察されるべきこの二分野の論文は、いずれも一本もない。

 そこで、以下、神武天皇の第一次侵攻の後、どうやって戦力を立て直し、第二次侵攻で奈良盆地・大和川・河内湖の三ヶ所制覇を成し遂げたかを、この兵站補給の側面から少し考えることにする。

 第一次侵攻は、全面敗退。長兄ほか相当な死傷兵を出した。が、軍船は全て無事に大阪湾を脱出できたとする。約60艘。その後、紀ノ川河口あたりで、暴風に煽られ流され、次兄・三兄ですら溺死しているし、和歌山県の南端「新宮市」辺りで難破した者は多数だから、総兵力600名強のうち350名が溺死したと考えられよう。

 生存者250名のうち、自らの舟で淡路島の前進基地に帰還できたもの200名。現地の漁民などに助けられ、淡路島の前進基地に送ってもらった者が50名とする。長髄彦やその他の奈良盆地の勢力との戦いに、最低でも400名の戦闘員が必要ならば、150名足りない。この補充は、伊都国の親族に依頼するしかない。「淡路島→讃岐→伊予→宇佐→岡田宮→唐津湾」の復路コースで増援を要請しただろうが、三ヶ月はかかる。出立が12月頃なら、早くても翌年春に到達。

 背振山系から丸木舟用の楠や杉の大木を新たに20本近く切りだすにしても、それらは伊都国国王(おほきみ)の領有域にしか残っていないはず。おそらく、この二度目の侵攻は、国王の全面協力があっただろう。とりわけ、神武軍の鉄の刀剣の多くも、暴風で舟ごと一緒に流されており、最低でも直ちに100本を新規に調達する必要があるとすれば、親族ではとても無理。伊都国の国王が国内の蹈鞴(たたら)師全員を集め鍛造せよと命じたのでないか。

 また、食糧その他の購入資金あるいは現地の日和見勢力を買収する資金として、相当数の舶来の銅鏡・銅剣ならびに琥珀や翡翠の勾玉・管玉などがかき集められ、第二次侵攻の年の春から夏にかけて、兵員150名/舟15艘と一緒に送り届けられたと仮定できる。

 序なので、仮定の神武天皇の年譜を表3に纏めた。古代史は先ずは仮定をして、判明した事柄を踏まえて何度もこの仮定を書き直す(feedbackする)作業である。最初の仮定を想定しないなら、学術的な古代史の解明はできない。

表3;神武天皇の仮・年譜(カッコ内は宝算)

 表3が示すように、私は「神武東征の所要年数は六年半」とした。この「六年半」は、私なりのさまざまな仮定から合理的に算出した。『日本書紀』は「六年」212頁としているが、これを引用したのでない。

皇孫ニニギノミコトの降誕を何ら感じさせない“タダの観光渓谷”宮崎県高千穂峡

 宮崎県北西部にある高千穂峡の渓谷を観光すれば、誰でも「どうして、こんな所が天孫ニニギノミコトの降臨の遺跡なのか」、と直ぐに疑念を懐く。確かに、どこにも弥生時代の稲作集落がないし、その近隣から銅鏡の鏡一つ発掘されていない。

 また、日向三代なら、その二代「ホホデミノミコト」も三代の皇子「神武天皇」も、ご専門は製鉄・鉄製品製造。なのに、ここでは砂鉄が採れないし、韓半島から輸入できる地理でも無い。そもそも韓半島と交易する港がない。

 ところが、宮崎県や大隅半島は(『古事記』ではなく)『日本書紀』によって「日向国」とされ、さも「日向三代の故地」かに見做されてきた。「日向国は、日向三代の故地ではない」と否定したのは、古代では天武天皇/稗田阿礼/太安万侶ぐらいである。が、このご三方は古代の大和朝廷の中では、ごく少数意見。大和朝廷の絶対多数は、「日向三代の故地は、日向国」「神武東征の御出立は、日向国=宮崎県から」を常識とした。だから、720年に完成した『日本書記』は、その神武天皇紀の冒頭で、次のように宣言する。大和朝廷内官吏の無知な常識が、「空無な史実」を創り上げたのである。

(神武天皇は)(ひととな)りたまひて日向国の吾田邑の吾平津媛をまきて、妃としたまふ。手研耳命をうみたまふ」。紀188頁。

 何という嘘か。偉大な史書『日本書記』ともあろうものが、読むだに嘆かわしい。吾田邑(あたのむら)は、薩摩国阿多郡阿多郷のこと。この地は、大和朝廷に叛乱し続けた熊襲。大和朝廷がこの地に初めて侵攻し征伐したのは、第十二代景行天皇と日本武尊。それより三百年前の神武天皇が、どうしして、妃を求めてこの地に入れたのか。馬鹿馬鹿しい。妄想も度が過ぎている。

 このような“虚”記述に、人間性を有さない人格欠陥の津田左右吉や井上光貞など共産党員学者は、ニンマリと笑い、「記紀は物語だ。歴史書ではない」を大喧伝する。

 が、本物の学者なら、この間違い記述を嘲笑したり罵倒したりは、決してしない。他にすべきことがあるからだ。それは、「どのような経緯で、これほどの偽情報が朝廷内部、具体的には天皇の大権でしか改変できない帝紀・旧辞に紛れ込ませたのか」を探索する。偽情報挿入事件の解剖とも言ってよかろう。そして、この帝紀・旧辞「偽情報混入」事件に関する、私の暫定的な分析による「容疑者」は、日向国から后妃になった隼人や熊襲の姫君とその皇子たちだろう、と疑っている。表4がそれ。

表4;「筑紫日向」を「日向国」に摩り替える偽情報工作をした后妃と皇子(容疑者)

 大和朝廷に叛乱し続けた敵対的なadversary地方豪族との、婚姻関係は、表向き友好平和を演出するが、過去の敵対者の半分は、この敵対的な「敵意」を別の形に変えて維持する可能性がある。国家は、この心理を見抜いて、表向きの平和友好の言辞や態度に細心の用心をすべきである。

 大和朝廷への服属は本心でも、大和朝廷への忠誠心をもつとは限らない。大和朝廷の権力を利用して、自分達の私的な権力と富を拡大することのみに専念する私欲一辺倒に走る可能性は、かつての敵なら、当然の行動かも知れない。現に、『日本書紀』を編纂した約百名の漢文の名手たちは、帝紀・旧辞がズタズタに改編されている箇所があるのを洞察できなかった。

 特に、帝紀・旧辞の修正や改変は天皇の大権だが、后妃やその皇子は天皇と接触するチャンスが、他の臣下とに比すれば超濃厚。「筑紫日向ひむか」を、時間をかけて「宮崎県・大隅半島の日向ひゅうが」に変更させる「対天皇」偽情報・洗脳は、后妃にとって容易いことではなかったか。

附記;「東洋のビスマルク」だった天武天皇

 天武天皇の外交・国防の才は、日本史上、特筆すべきレベル。三倍の海軍力を展開した以上、鎧袖一触で勝利できたはずの白村江の海戦における日本国の大敗北により、唐帝国の日本侵攻があるやも知れぬとの恐怖が大和朝廷を覆うことになった。現に、天智天皇は、怯えて近江に都を遷す逃亡的な行動をする始末。また、天智天皇は、唐の日本侵攻を招きかねない非現実的な“百済再興”を夢想された。

 一方、天武天皇は、百済を捨てて新羅と同盟関係を結び、唐・新羅連合体制を瓦解させ、さらにこの新羅をして唐に叛旗を翻させて開戦させる最高級の策謀にも成功した。この新羅が朝鮮半島を制圧したことによって実際にも新羅は唐と日本国の間の緩衝地帯となった。日本の「対唐」安全は一瞬にして盤石になった。このように外交だけで国防力を何倍にも高める才とやり方は、まさしくビスマルクのそれ。天武天皇は名実ともに“東洋のビスマルク”だった。

 さらに、天武天皇は念には念を入れて、大本営を兼ねる首都として飛鳥を選んだ。ここは背後に吉野の山中を控え山岳戦ができるし、唐の大軍を山が囲む閉鎖空間的な奈良盆地に引き込むことができる。実際にも唐は百戦練磨の将軍を、この飛鳥=大本営に派遣してつぶさに調査した。そして、日本側の防衛力は完璧との判断をし、対日軍事行動の全てを断念した。

 尚、ここで、天智天皇の外交・国防の才を評価以前としたが、内政における天智天皇とは聖徳太子に次いで天才級であって、日本国民は“内政の天智天皇”を心底から称讃し尊敬すべきである。

                                            (2021年6月28日記)

 

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