神武天皇ご即位は「西暦元年前後」とせず「紀元前660年」に固執する“無知・無見識な騒ぎ屋”民族系とは、「スターリン32年命令」“神武天皇捏造論”を助長し宣伝流布する反日集団──『古事記』「日本書紀」を修理・保守せずば“日本民族の至宝”かつ“偉大な史書”記紀を守れない。

Pocket

筑波大学名誉教授  中 川 八 洋                                  

 戦後日本では1968年を境に、多数派だった“保守”が一気に没落的に消滅の階段を転げ落ちた。佐藤栄作の「非核三原則」で“日本は核武装しない”と内外に宣言し、田中角栄が中共と国交を結びソ連のシベリア開発を日本国民の税金でしてあげる“日本人ロシア奴隷”の道を選択した1972年~3年以降、自民党は“革新”社共化し、福祉国家・社会主義・共産主義を党是とする極左政党に変貌した。日本に残った自由の砦は、風前の灯の天皇制度と弱体化し続ける日米同盟だけとなった。

第一節 皇紀2600年祭の糾弾・唾棄が皇統と『記紀』悠久護持の秘訣

 1960年代までは国民の過半を超えていた一般国民の保守層も、左傾化が止まらない自民党に倣い一気に瓦解して、そのほとんどは、無思想の無気力層/福祉バラマキ無限要求層に堕落した。一部は“共産党の別動隊”民族系に衣替えした。このため、1960年代までの“保守のレーゾン・デートル”「親英米/反ソ/反ナチ/反・中共/反共」は雲散霧消した。これに伴って保守知識人の信条「大東亜戦争否定」「“昭和天皇の聖性護持”に成功した東京裁判」の両論を共有する保守国民はいなくなった。保守知識人とは、代表で「竹山道雄/福田恒存/林健太郎/磯田光一/中川八洋」等を指す。

 1983年、ブレジネフが背後にちらつく“ロシアKGBの犬”民族系が、「保守」を食い殺すように「大東亜戦争肯定論」「東京裁判“日本弱体化論”(「東京裁判史観!」)」を掲げて突然台頭。彼らは、「ポツダム宣言/ヒロシマ原爆/ご聖断が日本を救った神風だ」という1960年代までの多数一般日本人の常識を破壊するのを「愛国」と狂妄し、「自国損壊」運動に暴走した。スターリンが使嗾した大東亜戦争の戦争目的は「アジア共産化/(8・14宮城クーデタ等)昭和天皇銃殺/日本国民皆殺し(一億玉砕)」。が、逆走をしては悦に耽るアホバカ民族系は、白日の下に曝すべき“祖国叛逆”大東亜戦争史の真相を、あろうことか逆さにも共産党と共同し闇に葬った。

 民族系の祖国叛逆性は、これらに留まらない。“共産党の別動隊”日本会議/産経新聞は、記紀が共産党系学者の暴言的論文でズタズタに破壊され尽くされているのを知りながら、一度として「記紀を守れ」「神武天皇は実在する」「神功皇后は実在する」「仲哀天皇までの天皇は全て実在し史実である」と主張したことはない。この主張をするには、最小限、津田左右吉/水野祐/直木孝次郎/井上光貞/上田正昭の五名を凌ぐ学識&教養を展開しなければならない。が、無学歴・低学歴の“ゴロツキ屑人間の集合体”日本会議/産経新聞に期待すべくもない。産経新聞の「正論」メンバーは、隠れ共産党員、北朝鮮対日工作員、ロシアKGB工作員のいずれか。学的教養知識人はゼロ名。

 現に、産経新聞社社員も日本会議メンバーも、強烈な天皇制廃止狂の北朝鮮人・住田良能(社長)が最大スポンサーだった西尾幹二の「保守つぶし」が目的の“赤黒”教科書づくりを阻止しなかった。それどころか、西尾幹二が作った“準・共産党”極左教科書に拍手喝采した。西尾幹二が“隠れ共産党員”(正しくは幸徳秋水と同じアナーキスト)で、彼の中学教科書は“準・共産党”製と喝破したのは谷沢永一だけだった。

 今では、小中学校の歴史教科書から、神武天皇や神功皇后の名前すら完全に抹殺され、テストで「神武天皇は架空の物語とされています」と、神武天皇と名前を使用しただけで0点となる。仮にも神武天皇の名を口にしたら、教師から怒鳴られる学校も多くなった。この傾向を側面助長し最後の止め的な決定打となったのが、“黒い悪魔”西尾幹二の“赤黒”教科書運動だった。

 西尾幹二の狂気の「反日」運動は、日本最後の「保守」を食い殺し、日本に残っていた、ほんの一欠けらの“歴史学の良心”すら、完膚なきまでに一掃した。西尾幹二とは、谷沢永一が痛憤するように、愛国演技を得意とする、性悪な極左の反日革命家であった。

 産経新聞が出版した、共産党と完全連携の「反日」“赤黒”教科書運動家・西尾幹二『国民の歴史』は、神武天皇はむろん第19代の仲哀天皇まで存在しないとバッサリ切り捨てている(186頁、注1)。さらに、共産党史観を絶対とする“天皇制廃止狂”西尾幹二は共産党語しか使わない。「皇統譜」ではなく「王統譜」(185頁/188頁)、「崩御」ではなく「死去」(186頁)、「大和朝廷」「皇位」ではなく「王権」(187頁)、等々。さらに西尾幹二は、引用は天皇制廃止のゴリゴリ共産党員の本のみ。例えば、西尾『国民の歴史』184~9頁は全て過激な共産党員・水木彪の『王権のコスモロジー』から。

 日本会議も、共産党史観を民族系に洗脳するのが主目的だった西尾幹二の共産革命運動としての「新しい教科書(=民族系も飲みやすい糖衣錠の共産革命教科書)づくり」に全面協力した。日本会議は、共産党員学者の書籍しか引用しないスーパー極左本『国民の歴史』を二十万部ほど購入し、共産党の天皇制廃止革命に全面協力した。日本会議とは、紛うことなく“共産党の別動隊”。

 日本では、世界に誇る“偉大な史書”『記紀』は、数十人の共産党員古代史学者に切り刻まれ、既に殺され息絶えた。現在、小中学校では「初代天皇から第十九代までの天皇は実在しない」が、徹底的に洗脳教育されている。現在の40歳代以下の日本人は、民族の歴史を剥奪され喪失し、ニーチェ的な無歴史の空無に浮遊する無国籍人へと改造された。“正しき日本国民”は絶滅し、地球のどこを探しても、今では一人も存在しない。

“無謬”信仰を捨て、歴史学的瑕疵ある「一部記述」の先制修正が、『記紀』を守る

 要は、『記紀』を守る方法は、『記紀』を改竄的に誤解釈し、創作物語=欠陥史書かに貶める津田左右吉/井上光貞らに反駁・反撃するのが第一。むろん、それだけでは不十分。第二に、共産党員古代史学者が難癖をつける『記紀』の明らかな瑕疵記述を、先回りして学術的な修正をしてしまう賢明さが肝要。

 「西暦紀元前後と合理的に推定される神武天皇のご即位」を、讖緯説に従ったのか、「紀元前660年」とする『日本書紀』記述の非合理性は、この第二の例。バッサリ斬り捨てるのが賢慮というもの。

 もう一例。「神武天皇が后を熊襲から迎えた」との記述は、第12代景行天皇の熊襲征討時に発生した和平措置としての史実。それを十一代遡って初代天皇紀に混入している。こんなのは、「削除扱い」にすれば済む話。さらにもう一例。神武天皇の奈良盆地への第二回侵攻。和歌山県南端(熊野)からの侵攻譚は、久米一族の“酒席”勇猛自慢話。史実は、第一回と同じく「河内から」。記紀のこの部分を史実に沿った是正を施して、つまり空欄扱いにして読ませなければ済む話ではないか。

 ところが、アミーバ的単細胞の視野狭窄な民族系は、「記紀を守ることは、記紀を仏教の経文と同じく信仰すること」だと、無学なゴロツキ性を丸出しし、「記紀=無謬」論に粋がる。彼らは、“記紀が偉大な史書で、カルト宗教の経典などでは決してない”最重大な核心事実がわからない。

 この無知蒙昧さは、英国が王制を擁護するため、幾多の修正保守を重ねる保守主義を歩んだ“英国人の知恵”がわからないことに通じよう。記紀を修理し修理しその根幹=皇統譜を守り抜く保守する精神が、記紀の偉大性を永遠化する。“下衆の昆虫脳”民族系には、この哲理がどうも無理。

 話を、『記紀』を死守するに、辛酉革命説から生まれた「神武天皇ご即位は紀元前660年」がいかに有害極まりないかに戻す。まず、「神武天皇ご即位は紀元前660年」を絶対とすれば、五代前の天照大神のご生誕は、自動的に紀元前820年頃になる。この瞬間、伊勢神宮に祀られている紀元前150年ごろに前漢から購入した天照大神の銅鏡(前漢鏡、国産の可能性もある)が嘘八百となる。銅鏡は、紀元前820年頃の支那には存在しない。その頃、日本には輸入する手段も輸入主体も存在しない。 

 前漢は202B.C.~8A.D.。日本が楽浪郡やそれ以前の入植支那人たちと交流を開始するのは150B.C.前後。天照大神が前漢製の白銅鏡を持たせて皇孫ニニギノミコトを「地上」に降臨させた年がこの頃ならば、関連歴史とぴったり一致する。矛盾は最小化する。ニニギノミコトの天孫降臨を紀元前105年と仮定するのが、記紀を護る健全な学問に従う正常な歴史学徒の態度。また天照大神の宮(=高天原)を伊都国すなわち糸島郡平原と仮定すれば、歴史事実の整合がさらに強化される。

 那珂通世は、日本書紀の編纂者が推古天皇九年より一蔀(=1260年、「ぼう」と読む)前の辛酉に神武天皇の即位年を定めたと推定した。讖緯説が、『日本書紀』編纂者が660年も歴史を早めた理由だろうとした。そして那珂通世は、これに従い『日本書紀』を是正し、神武天皇が「日向に生まれ給ひしは西洋紀元前第一世紀の中頃(50年B.C.)にて、大和の橿原の宮に大八洲しろしめししは西洋紀元(0年)の頃なるべし」と結論した(注2)

 私は、神武天皇のご即位を紀元後10年とした。那珂通世と十年しか違わない。また、ご生誕を紀元前30年に仮定した。那珂通世と二十年しか違わない。私のように考古学資料や第五代孝昭天皇の事績その他の歴史と整合したわけではないのに、那珂通世の明治21年の閃きは中々のもの。

皇紀2600年祭典(1940年)は、スターリン崇拝の共産主義者の革命戦争“煽動”

 神武天皇を敬仰することは正しい。史実にも適う。日本国家を創建していただいた日本国の始祖を敬うことは民族が永遠に存続する生命源を新たにすることだから、神武天皇敬仰こそ、日本国にとって真正なsustainable(持続可能)方策の筆頭。このためには日本国家の歴史の宝庫たる『古事記』『日本書紀』の死守は絶対だし、「神武天皇のご存在は史実」を日本国民の学的コンセンサスにしなければならない。

 そして、不可分一体の「神武天皇のご存在は史実」と「神武天皇を敬仰すること」にとって、『日本書記』の「神武天皇のご即位年」記述を六百六十年ほど戻す“歴史に適う”正しい作業を欠いてはならない。それなのに、「現在(西暦2021年)は皇紀2681年」と粋がる“昆虫脳の下衆階級”は、日の丸振って矢鱈に燥ぐ。彼らのこの“逆走”行為こそ、神武天皇抹殺の共産党員古代史学者の応援団。

 「神武天皇ご即位は紀元前660年」に固執すると、表1をどう説明する? 平均寿命が45~50歳の時代に、宝算「127歳」「114歳」「137歳」「110歳」の天皇が続出した医学的説明は可能なのか。

 『日本書紀』の天皇宝算は、第16代仁徳天皇までは人為記述である。年齢数えをしない時代である上に、宝算を記憶記録する制度が整備されていなかったからである。第17代天皇以降は、結縄その他で正確にご年齢を記録したようだ。また、大和朝廷の干支担当官が干支を完全に正確に駆使できるようになったのは第27代安閑天皇の御代から。それ以前の干支は見よう見まねで、正確さとは縁遠い。

表1;『日本書紀』記載の、宝算100歳越えの“12天皇”

(備考)宝算の出典は、注3。

 第27代安閑天皇の崩御が535年なのは確定しているから、神武天皇の即位を中川仮定「紀元後10年」とすると、古代天皇全27名の「平均在位年」は、(535-10)年÷27名=19.4年である。これは蓋然性が高い平均「古代天皇の即位25歳(30歳)、45歳(50歳)崩御」と一致する。

 実際の平均宝算を算出しよう。表1の全16名の天皇の『書紀』宝算は合計1683歳。皇太子ご生誕を天皇25歳の時とし、父子皇位継承は半分の八代(残り八名は兄弟継承)とし、先述の660年が讖緯説による不必要な人為延長だとして除去すれば、「(表1の総計1683歳-25歳×8名-660年÷16名=51歳」となる。天皇の宝算平均は、当時の日本人平均寿命45歳より“やや健康”と算出できる。

 ここからも、660年を日本書紀から差し引いてあげる方が、『日本書紀』の信用を倍加させることが判明する。660年を差し引いても、「660年」問題は無視できる矮小な瑕疵に過ぎないから、偉大な史書『日本書紀』の権威は僅かも揺るがない。「『日本書紀』の記述は、完璧で誤謬なし」とする民族系は、経典の読経以外を知らない“脳内空洞の仏教徒”に等しい。

 一方、スターリン32年テーゼを狂信する共産党員古代史学者は、「660年が実際より加算され、朝廷史が引き伸ばされているから、日本書記は史書ではなく創作」だと喧伝する。彼らは、歴史が剥奪された非人間を理想とする血塗られた狂気のカルト教団信者。反・歴史学を宗教信条とする正常を喪失した狂人たち。偉大な史書『古事記』『日本書記』に対する彼らの誹謗中傷は、暴走族が喚く罵詈雑言より恐ろしく、殺戮を秘めた刑法犯罪に近い。学問の世界から追放されねばならない。

 蛇足。『日本書紀』編纂官は、編纂官になった最初の一~二年間、支那からの外国人教授に干支と暦学の集中習得に没頭させられる。伝承に年月日を貼り付けた作業において、『日本書紀』に干支学上のミスが一つもないのは、この成果。が、記憶記録の年月日そのものが正確でないのだから、これに干支を張り付ける作業など何になろう。それ以前に、書記編纂官が日本に流れてきた支那人二流「暦学」学者が誤導した、一種の占星術的な讖緯説を信じるとは情けない。この意味で、干支をほとんど無視した『古事記』の方が、はるかに賢明。

紀は「天皇宝算を引き延ばさず新規天皇三十名を捏造する」策をなぜ採らなかった?

 ともあれ、日本書紀は結果として、皇紀紀元を660年ほど引き伸ばすことにした。660年とは、在位年数「平均20年」からすれば、天皇三十名の御代に相当する。天皇十二名の宝算を百歳以上にした日本書記の“信用失墜方策”よりも、新規天皇三十名を創作した方が、明らかに後世を騙せる。が、『日本書紀』編纂者は、頑として「新規天皇三十名の捏造・創作」を拒絶したのではなく、そのようなことを発想すらしなかった。当然である。『日本書紀』は、史実厳格な皇統譜を天皇事績まで拡大した絶対的な史書で、伊勢神宮に捧げる聖なる皇統譜である。1㍉であれ、作為など穢れの極み。

 そもそも、津田左右吉や共産党員古代史学者は悪意の塊。いや、それ以上に狂っている。『日本書紀』編纂官たちが、『書紀』編纂で自分たちの個人的な見解を自由に書き入れ改作できたと、あり得ない嘘歴史を主張しているからだ(注4)。神武天皇から平安時代前半迄の宮廷官吏にとって、「天皇は皇孫(すめみま、ニニギノミコト)の化身」で皇孫と同体。天上より地上に降りてこられ、崩御によって昇天され「すめろき(=崩御後の天皇)」になられると心底から信仰していた。この宮廷官吏の考え方は、柿本人麻呂の「大君(おおきみ)は神にしあれば 天雲(あまぐも)の雷(いかづち)の上に廬(いおり、行宮)せるかも」の信条に同じ(注5)。歴代天皇は“現つ神”であり、聖なる「神」に触ることなど自裁でも足りないと、九世紀までの宮廷官吏は信仰していた。

 大嘗祭とは、新天皇が天の羽衣をお着きになられ天上に戻られニニギノミコトに化身し、再び地上に降りてこられる、新天皇が「皇孫=神」になる儀式である。何人も、「神=天皇」を創ることはできない。「神=天皇」は天照大神の後裔のみで、この後裔の中から三種の神器を肌身離さず、さらに大嘗祭を経た天皇のみがその有資格者となる。

 キリスト教徒が、「第二のキリスト」「第三のキリスト」を創作しないように、大和朝廷の宮廷官吏もまた、想像上の天皇を創作することなど発想すらできない。讖緯説を信じた編纂官たちは、実在の天皇十二名を選び、平均55歳「長生きさせる」ことにした。これが「12名×55歳=660年」発生の原因。

 ところが、天皇制廃止教団の信者で悪意しかない共産党員古代史学者は、好ましくはないが許容さるべき讖緯説受容行為を、天皇制度“誹謗中傷のチャンス”とばかり、「天皇12名の宝算が100歳以上とは、いかに日本書紀はデタラメな創作であることよ」と難詰する大合唱を展開した。この共産党の誹謗中傷を回避する方法は簡単。「660年ほど間違っています/100歳以上の天皇はいません。この記述部分は読まないで下さい」とするだけで、万事が解決する。

 

第一節

1、西尾幹二『国民の歴史』、産経新聞社。頁数は本文。

2、那珂通世(三品影英増補)『上世年紀考』、養徳社。

3、水野祐『増訂 日本古代王朝史論序説』、小宮山書店、64頁。

4、井上光貞『日本国家の起源』、岩波新書、76~7頁。井上は、「神武天皇は実在の人物ではなく六世紀に述作された」とする津田左右吉の転倒狂説を支持し、「不変の価値を持つ」と絶賛。神武天皇が実在する史実こそニュートン力学に匹敵する不変の真理だから、これと逆。大量殺戮教団の教祖レーニンの共産党員・井上光貞の狂信は、ニコライⅡ世皇帝殺戮に通じている。

 皇統譜の決定は天皇の大権以上に、編纂官にとって信仰する「神々」の系譜史づくりだから、「編纂者が記紀を自由に改作できる」など、万が一にもあり得ない。つまり、自分たちがやっている記紀“勝手放題改竄”の大犯罪を正当化すべく共産党員学者が示し合わせて捏造した真赤な嘘なのだ。先に殴っておいて「お前、俺を殴ったな」と恐喝する、暴力団のやり方と同じ。共産党員・井上光貞らは、血塗られた恐ろしい暴力団の集団である。

5、私は、大東亜戦争から日本を救って下さった昭和天皇に「神」を観想している。神でない限り、ポツダム宣言とヒロシマ原爆の奇跡は起こりえない。故に、柿本人麻呂のこの歌にも感動する。故にまた、大和朝廷の宮廷官吏が「天皇とは、即、神」と考えた彼らの信仰にも深く共鳴する。

 米国国務省のユージン・ドーマンは、昭和天皇を神(=God)だと確信し、「神を救いたい」一心でポツダム宣言を起草した。英国では神が国王・女王陛下を救うのだが、ドーマンは「日米両国はGod(=昭和天皇、現つ神)の命を救うべく、大東亜戦争(太平洋戦争)を止めるべきだ」と訴えた。それがポツダム宣言。なお、英国の準・国歌「女王陛下万歳」の歌詞は「God save the Queen」。一方、ポツダム宣言は、「日米両国政府はmust save the God昭和天皇」。

 

第二節 「神武天皇は西暦紀元前後に即位」;那珂/中山/中川の結論

 明治以降、「神武天皇は実在」「神武天皇ご即位は、西暦紀元前後」を結論する学者が三名いる。那珂通世と中山平次郎(九州帝大医学部教授、東京帝大医卒、1932年に考古学研究をいったん引退)と中川八洋の三名である。那珂通世も中山平次郎も、戦後の古代史学会において徹底的に排除され無視された。中山が弟子・原田大六を育てた他は、両名は正規の弟子人脈を作っておらず、戦後の古代史学界とは縁がない以上、赤い学界が干し上げるのは簡単なこと。

 戦後日本では、八年間の大東亜戦争の戦争目的「日本国共産化」は成功し、帝国大学の文系は共産主義者がほぼ全ての教授ポストを占めるに至った。稀に東京帝大の坂本太郎のような“やや保守のノンポリ”がいたが、敗戦と同時に勝ち誇った共産党勢力が神武天皇実在論そのものをタブーにしたから、坂本太郎は恐怖で持論の「神武天皇実在論」の論文を書けなかった。

 代わりに、共産党が神格化した“学界の殉教聖者”津田左右吉の狂説が神聖視され、津田以外の説は検閲され不可能になった。原田大六のみ、マルキストで共産党員だったこともあり、多少の学問の自由が許され、恩師・中山平次郎の“学説”を敷衍できた。

根拠ゼロのヤクザの論法で、神武天皇不在論を展開した“共産党員”井上光貞

 井上光貞が「神武天皇は実在しない」理由に挙げる根拠は四つ。全く意味不明で、かつ学問とは無関係。第一。神武天皇の和風諡号「カムヤマトイワレヒコ」のうち、美称部分「カムヤマト」を除いた、神武天皇に固有な名前は地名をとった「イワレ(磐余)ヒコ」だけだが、記紀ともこの地名の説明をしていないから、神武天皇そのものは創作人物で実在しない。

 これ、学術的な証明????? アホラシ。地名の説明の有無がどうして人物の実在の有無を決定するのか。さらに、「磐余」は地名なのか。「岩から生まれたプロレスラーのような頑健な男性」を意味する抽象名詞ではないか。

 第二。また井上光貞は、学問的な根拠を一切提示しない。根拠として挙げるのは、示し合わせた共産党員仲間の門脇禎二が、「そう言っているから」だけ。脳内腐った赤い熟トマトの門脇禎二は、「語彙イワレヒコは、履中天皇・雄略天皇・清寧天皇・継体天皇などの幾人かの天皇を素材として形象化したのではないか」と、思い付きを述べているだけ(注1)。この理由の学問的論及はしていない。

 第三の根拠。直木孝次郎が「継体紀と神武紀を比較すると、神武伝説の大体は、継体朝の歴史をモデルに形を整えているだけ」と言っているから(注2)。井上光貞は、直木孝次郎のこの奇説狂論がなぜ正しいかについては一言も論及しない。誰が読んでも一読で、神武紀と継体紀はあまりの相違に気づく。両者に酷似性など1㍉も存在しない。

 第四の根拠。水野祐が「神武天皇の名前は、壬申の乱に際しての陵墓に馬や兵器を奉った天武紀で、神武紀以外で初めて現れる」「そして天武天皇が勝利したから、お礼に神武天皇を伝説的に初代天皇にした」と言っているから(注3)。井上は、水野祐の見え透いた創作嘘話を根拠としている。

 ①史書だから、神武紀以外で神武天皇を記述する必要はない。また、神武天皇が他の紀で記述されたからと言って、関係があるならごく自然なこと。何ら特別な意味はない。②天武天皇は挙兵時に劣勢だった。戦勝の神である神武天皇の御陵で戦勝祈願をするのは、何らおかしくないし、当然の行為。また平安時代前半までは、神武天皇御陵は大和朝廷が知るところで、御陵への参拝や日常の清掃は欠かしていなかったようだ。③継体天皇は元旦に詔し、神武天皇と崇神天皇に言及されておられる(注4)。つまり、水野祐の「天武天皇紀が初」は間違い。“記紀改竄”の犯罪常習屋・水野祐は、「継体天皇が神武天皇に祈られておられる」有名な個所を意図的にバッサリ削除しただけ。④『日本書紀』は、崇神天皇も神武天皇に二度言及されたのを記録。水野祐は、これもバッサリ削除の改竄をしている。

 崇神天皇の神武天皇への言及は、「これ わが皇祖(みおや、神武天皇)、もろもろの天皇たち(第二代~第九代天皇)・・・」「昔、皇祖(すめみおや、神武天皇)、大きな“あまつひつぎ”(天皇位)を啓(ひら)きたまひき。・・・」(注4)である。

 井上光貞は、もし本物の学者なら、上記に列挙した“真赤な嘘”第二/第三/第四根拠のトンデモ学者たちの“学問とは程遠いデタラメ思い付き”を糾弾したはず。だが、反学問に生きたコミュニスト井上光貞は、人民裁判方式で決着つけるのを常習とするアクドイ政治屋。この人民裁判方式なら、神武天皇“非在”を、津田/門脇/直木/水野の共産党員学者の多数が提唱したから神武天皇は実在しない、との結論を正当化できる。井上光貞は、なんでもかんでも「学会の多数説だ」で検閲を恣にする共産党十八番のやり方を公然と実行し続けた。

 しかも、人民裁判方式で学問を革命の道具にする、良心を一切欠く井上光貞の結論は、神武天皇非在論にとどまらない。論理を飛躍させ、唐突に帝紀そのものまで「創作の小説だ」と罵倒するに至る。井上光貞は、消失している帝紀など見たことはないのに、「俺様は六世紀に作られた帝紀を読んでいるのだぞ」と、大威張りで次の大法螺を吹く。しかも、具体的な天皇名を隠し、世紀の大嘘がばれない工夫には、相当な気を遣っている。

「原帝紀には改作も加えられたらしい。原帝紀の(初代から九代天皇まで)はじめの方は、原帝紀が作られた時に架空に述作されたようである。(神武天皇のように)七世紀になって加えられた歴代もあったようである」(注5、カッコ内中川)

「ルイ16世ギロチンを日本でも」──“歴代天皇殺戮狂”水野/井上/直木の本心

 実在する神武天皇をはじめ古代史天皇を、次から次に「実在しない」と抹殺して、日本史から消していく「津田左右吉→水野祐→井上光貞→直木孝次郎」ら共産党員学者の目的が、学問ではないことは誰でも気づく。その通り、彼らの目的は、日本の天皇を、ルイ16世国王やニコライ二世皇帝と同じくギロチンや銃口で殺戮し捲ること。それを、処刑場ではなく、論文上(紙の上)で実行した。

 すなわち戦前、“半コミンテルン”津田左右吉は「神武天皇ほか第九代開化天皇までの天皇は存在しない」と書き捲ったが、戦後、これを鉦や太鼓で大騒ぎながら拡大・拡張したのが、津田の愛弟子・水野祐。そして、津田左右吉/水野祐の“古代天皇軒並み皆殺し”狂説を広く喧伝し、学界の定説へと仕上げていったのが井上光貞と直木孝次郎であった。津田は準・日本共産党員、水野・井上・直木はゴリゴリの日本共産党員。

 まず、水野祐の荒唐無稽な古代天皇殺しの、その狂気の手口を垣間見よう。どこから見ても、一欠けらの正常はなく、明らかに精神病院を脱走中の狂人の戯言。水野祐は、「古代の大和朝廷は、三王朝が交替した」と妄想し、これによってバッサリと15名の天皇を実歴史から“殺戮”する。「万世一系」をどうしてもぶっ潰したい水野祐が意図的に考案した、“世紀の妙案”と悦に耽る真赤な捏造嘘歴史。

 この嘘皇統譜は、「大和朝廷は崇神天皇から始まったのだから、初代の神武天皇から第九代開化天皇までの九天皇は創作だ」と九名をまず斬り殺す。しかも、崇神王朝は、第11代垂仁天皇と第12代景行天皇も創作として“殺害”し、政務天皇と仲哀天皇と合わせた三代で終わったとする。その後、応神天皇から第21代雄略天皇まで七代続き、これを「仁徳王朝」だと嘯く。そして第22代から第25代は創作として、現在の日本の天皇は、第26代継体天皇に始まるとする。が、この継体王朝から第28代宣化天皇を抹殺する。

 すなわち、ニコライ二世皇帝一家を皆殺ししたレーニンを狂信する“狂人”水野祐は、「初代~第9代+第11代/第12代+第22代~第25代+第28代」の15名の天皇を“殺し捲った”ことになる(注6、14頁)。崇神天皇には父親も母親もおらず、突然、大和盆地に降り立ったと強弁する水野祐には、生物学が存在しない。反・生物学の水野は、当然、反・歴史学に一直線に暴走する。

 水野祐の、この歴代天皇抹殺の屁理屈は笑止千万。初期天皇の国風諡号が後代の天皇と酷似するのは、この後代の天皇からイメージして創作された天皇だからだというもの。本末転倒のスーパー屁理屈。ただ唖然。天皇の漢風諡号は、奈良時代に淡海三船が作ったように、国風諡号は持統天皇の勅命で作られたと考えられる。第40代天武天皇まで国風諡号という制度それ自体がなかった。

 実際の歴史はこうであったろう。記紀における「第4代+第6代~第9代」五名の国風諡号が持統天皇とそっくりなのは、持統天皇がこの五名に贈ったことから、「先帝陛下(持統天皇)は、これがお好きのようだ」と生前仕えた者たちが考えたからだろう。ところが、頭が完全に狂っている水野祐は、この五名の諡号が持統天皇や文武天皇と瓜二つだから、この理由において「この五名の天皇は、この世に実在しなかった証拠だ!」と絶叫している。絶叫する意味、全く解らない。

 なお、崇峻天皇と安康天皇には国風諡号が贈られなかった。持統天皇のご聖断なのだろう。

 ところで、天皇の諱(実名)は、原則として朝廷内部に記録されない。諱とは“忌み名”であり、臣下が万が一も口には出してならないからである。だから、記憶記録の時代では、諱が記録されることすら稀。神武天皇の幼名「ワカミケヌ」&諱「ホホデミ」が記録されたのは、初代天皇故に皆が特別に関心が強かった結果と考えられる。

 私の例を参考までに紹介しよう。1960年代まで日本人は、天皇の諱=実名を口にするのを絶対に憚った。例えば、今上の昭和天皇に対し、口にするのは「今上陛下」のみ。万が一にも「裕仁」など口にはしなかったし、それ以前に「裕仁」と頭の中で考えることすら躊躇った。1966年、新宿の紀伊國屋書店でぶらぶら本を探している際、モズレー著『HIROHITO』(毎日新聞社刊)に出くわした時、驚愕の余り目が点になった。頬がこわばったのを感じた。横にいた二、三のお客も同様だった。呆然と眺めていた。水野祐が「諱=実名が記紀にないから、その天皇は実在しなかったからだ」と嘯くのは、私より年上の水野祐が真面な日本人とは真逆だった証拠である。天皇の諱は、日本国民には存在しない。

 蛇足。WIKIは、令和に入るや、突然、天皇の諱をわざとふんだんに使用している。WIKIの管理人40人(?)全員が共産党員だという噂は本当のようだ。

 水野祐の『日本古代王朝史論序説』は、真夏のお化け屋敷のような、ただただ狂説満載の狂気本。その一つは、「古事記で天皇の崩御年干支が書かれているのは実在で、書かれていないのは非在」だとの超バカげた嘘八百(注6、140頁、65頁)をほざいている。古事記の原典『帝紀』で、崩御年干支が正しく書かれるようになったのは第27代安閑天皇から。それ以前に百済や新羅の学者から偶々聞き、『古事記』に崩御年干支を記憶記録/文字記録したこと自体、不正確極まりなく迷惑な話。

 それよりも水野祐は、65頁の表で、崇神天皇の崩御「戊寅」を318年に換算している。水野祐がいかに古代史がさっぱりの破茶滅茶ド素人なのかが、これ一つで一目瞭然。なぜなら、この「戊寅」は258年だからだ。六十年間も歴史をずらせば歴史にならない。魏志倭人伝の「女王」卑弥呼である百襲姫の薨去は248年。崇神天皇は、大伯母・百襲姫の御陵「箸墓」(日本最初の前方後円墳、備考)を十年かけて造り、その直後に崩御した。もし318年とすれば、崇神天皇の宝算は120歳近くになる。

(備考)前方後円墳とは、「円墳」部分が妊婦の大きなお腹、「方墳」部分が女性の産道を模したもの。墓は弥生時代になっても縄文時代の墓思想が堅持され、死没した祖先に「もう一度、生まれてきて下さい」との願いを込めて、前方後円墳が考案された。が、こんな平凡な推定もできないのが、劣悪なスーパー劣等生の赤い団体「考古学界」の現実で実態である。

 共産党員で悪意爆発の歴史改竄屋・水野祐の頭は、幼稚園児に等しい。歴史学とは、関連歴史事実・関連考古学的知見を数学的に整合させる学問。「IQが低い/数学力が貧困」な者は不適格で失格。水野祐は性悪すぎ学者以前のキワモノ。

 天皇呼称は「おほきみ」「すめみま」で、大行天皇は「すめろき」であった。それ以外、朝廷(政府)内/皇室内であれ、そして我ら国民であれ、何が必要なのか。後年、対外用に和製漢語「天皇」が創られ「すめらみこと」と発音された。国風諡号は、記憶記録から文字記録になった後、とくに帝紀・旧事が整備されるようになってから、支那制度を模倣し考案された。臣下の使用が絶対タブーの「諱=実名」は、皇室内で漢字が普及すると、時たま記録された。

 こんなごくありふれた平凡な正しい歴史も知らないのは、水野祐が、狂暴・凶悪な“職業”共産革命家で、正常ともヒストリアンとも縁遠い男だったからである。

天皇の実在・非在“姓名ズタズタ分解”「姓名占い師」水野祐の狂気を継ぐ井上光貞

 1965年初刊の井上光貞『神話から歴史へ』(中央公論社)は、その294~8頁(文庫、新装改版)で、“共産革命家”津田左右吉/水野祐を奉じて、「(初代・神武天皇は神話の人であるから当然に実在しないが)第二代~第九代も実在しない」と断定する“歴代天皇殺戮”をなして歓喜・乱舞している。井上は、この理由として、学者なら理由にできないバカ・ワルの屁理屈「(この八名の天皇の和風諡号は)はなはだしく後世的である」(注7、295頁)を挙げる。唖然!

 おそらく六百年後の持統天皇の御代に贈った諡号だから、「後世的である」のは、当たり前すぎること。持統天皇が、皇室の祖先たる八代天皇にお名前がないことをお悲しみになられたということは、これら八代の天皇が実在天皇だったということの証左ではないか。なお、諡号。第四代は「オオヤマトヒコ・・・」、第六代はオオヤマトタラシヒコ」、第七代/第八代は「オオヤマトネコ」、第九代は「ワカヤマトネコヒコ」。

 一方、持統天皇は「オオヤマトネコ」、文武天皇/元明天皇/元正天皇は「ヤマトネコ」。前記「初期天皇五代」と極度に類似する。この原因は、持統天皇に仕えた諡号の専門家が、持統天皇がお好みの諡号だと知ったが故に持統天皇の諡号に推挙したか、あるいは持統天皇の遺詔かも知れない。

 井上光貞は、暴力団的な難癖をさらに続ける。上記の第四代/第六代~第九代の五名について、この尊称部分を除いた残りが実名でなく何らかの「称号」で、どうも実名が諡号に全く加えられていない。すなわち実名が存在しない。このことを理由に、この五名の天皇は実在しないと結論する(注7、296頁)。もはや狂人の戯言。

 確かに、「すきとも(第四代)」「くにおしひと(第六代)」「ふとに(第七代)」「くにくる(第八代)」「おおびび(第九代)」は実名でないかも知れない。だが、これらが実名でないからと言って、どうしてこの五代の天皇は不在になるのか。逆ではないか。

 臣下が口にすること自体がタブー(禁忌)だった天皇の実名=諱が、文字記録が始まっただろう継体天皇の御代以降まで残っていること自体、作為の証拠に疑われよう。実名が残っていないからこそ、この初期天皇が実在した天皇で、記紀が史実に忠実に記録する偉大な史書の証拠になるだろう。

 さらに、井上光貞は、悪意を暴発させて奇天烈な難癖をつける。この初期天皇は、記紀では父子相続だが、皇位継承は「父子継承と言うような単純なものではなかった」(296頁)。七世紀に中国の相続法が流入し影響を日本に与えたが、この中国王位継承法に基づいているのではないか、と。

 井上光貞は、歴史家として六流以下のナンセンス男なのが、ここにも露呈している。日本の皇室の皇位継承“法”は頑迷固陋に純度100%に日本独自。支那の影響も(明治維新以降)英国の影響もいっさい受けていない。井上光貞は、見え透いた虚偽歴史をでっち上げている。そもそも、「父子継承でない」「兄弟継承が多かった」というなら、その証拠を出してみよ。証拠など全くないではないか。すなわち、井上光貞の言説すべて口から出任せ。そして井上は、極め付きの大嘘でこの節を結ぶ。

「第二代から第九代は、日本民族が文字や暦を持つ文明の段階に達したのち、その王名(=「天皇名」を改竄)表である帝紀の中に、架空につくりあげた天皇群ではなかったろうか」(298頁)

 共産党員古代学者とは、このように学術的な証拠一つとして挙げることなく、共産革命の天皇制廃止アジェンダ通りに、実在天皇を抹殺=殺戮し、「不在だ」との真赤な嘘宣伝に全力疾走する。

 要は、実在する歴代天皇を“不在”に改竄する津田/水野/井上/直木ら共産党員は、徒党を組んで暴力団組織の宗教団体を形成し、学界を我が物顔に「俺様たちを僅かでも批判したら、大学から叩き出すぞ」と徹底検閲をしまくっている。が、日本から叩き出すべきは共産党員古代史学者の方だ。

 「古代史の研究に関し、国公立・私立を問わず日本全国の全ての大学は、共産党と僅かでもつながるいかなる人物をも教員として採用することを禁じる法律」の立法を急がなければならない。そうしなければ、日本国民は“民族の魂”たる“民族の真実の歴史”を剥奪されたままになり、すでに死滅しつつある日本民族は最終段階を迎え息絶える。

 

第二節

1 門脇禎二『神武天皇』、三一新書、1957年。

2 直木孝次郎『日本古代国家の構造』、1958年。

3 水野祐「神武天皇東征伝説考」『史観』1953年6月号。

4、『日本書紀』下、岩波書店、42頁。『日本書紀』上、岩波書店、237頁、238頁。

5、井上光貞『日本国家の起源』、岩波新書、119頁。

6、水野祐『増訂 日本古代王朝史論序説』、小宮山書店、頁数は本文。

7、井上光貞『神話から歴史へ』、中公文庫、頁数は本文。

                                                (2021年7月21記)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です