天照大神は実在。その五代孫である以上、神武天皇の実在も自明──“鏡”教が発生した源郷は伊都国(いつきくに)。ならば、“鏡教の始祖”天照大神の「高天原」は福岡県糸島郡に比定される 

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 産経新聞の連載「海道東征を行く──神武さまの国造り」(2015年1月~12月)が、単行本『神武天皇は確かに存在した』になったのは2016年8月(注1)。この本は、神武天皇への侮辱や不敬があからさまで、全体の基調は何から何までフザケ半分。社長・住田良能が天皇制廃止を絶対だと社内に周知したのが2006年。以来、産経新聞はそれを社是としてきた。この2015~6年のルポルタージュ本は、神武天皇不在論を転倒主張で保守層に無自覚浸透させるのを狙っている。

 例えば、奇天烈語「神武さま」など、歴史や国語の語彙として、日本人なら誰しも見たことも聞いたこともないだろう。天皇制廃止に爆走する神武天皇不在論の共産党ですら、万が一にも使わない珍語。産経新聞は、共産党の指示である“語彙「神武天皇」の使用禁止”運動に積極的に協賛している。

 さらに、その第一章タイトルは「イワレビコ誕生」。この異様な言葉から察するに、産経新聞とは共産党以上の極左なのか、幸徳秋水の“申し子”であるのは間違いない。神武天皇の国風諡号「カムヤマトイワレビコの天皇(すめらみこと)」は、神武天皇が崩御されてから約七百年後(持統天皇より)贈られたもの。が産経新聞は、この諡号を「生誕時の幼名だ」「諱=実名だ」かの真赤な嘘をでっち上げる。

 古代天皇の幼名や諱は一般には知られていないため、共産党支配の古代史学界ですら「神武天皇ご誕生」以外を用いることはしない。しかも、諱の使用は、我が国が弥生時代から守ってきた天皇尊崇の大原則「臣下は天皇の諱を口に出してはいけない」に違背する。さらに、(共産党員以外の日本人は)国風諡号を仮に使用する場合、敬称(美称)語「カムヤマト」&身位「天皇」を決して抹殺しない。

第一節 日本書紀に基づく後世の伝承・神社に、史実の証拠力は薄弱

 宮崎県や鹿児島県には、高天原の痕跡も、日向三代の痕跡も、神武天皇の痕跡も、匂い一つ発見できない。西都原古墳群は、四世紀初頭から七世紀前半にかけての前方後円墳/円墳/方墳などの典型的な古墳時代のそれで、それより数百年前の天照大神や神武天皇などが実在した弥生時代中期の遺跡は全く存在しない。特に、実在する天照大神の最重要痕跡は、何といっても前漢製の白銅鏡。が、前漢鏡は、両県からは一枚も発掘されていない。

 第十二代景行天皇の即位は早ければ303年だから、この景行天皇の熊襲征討に伴う、熊襲地方から「妃」を迎えた以降の時期と、この古墳群はぴったし一致する。景行天皇の征討軍の侵入を機に、宮崎県南部以南に大和朝廷の高度文化が流入したが、西都原古墳群はこの一つ。

 さらに、宮崎県や鹿児島県には、『古事記』が記録する“筑紫のひむか”の光景が、寸毫も散見できない。「ひむか」とは「早朝、旭=太陽をお迎えする」の意味。稲作水田地帯から東の方向に向かって、昇る朝日を“ご来光/ご来迎”として迎え、「旭の太陽に拝礼する」ことを「ひむか」と言う。この宗教観の習俗が紀元前1000年頃の日本列島で発生したとすれば、既に三千年以上を経たのに、今でも日本人に強く残存している、ということ。現に、多くの日本人は、人生に一度でいいから、富士山の五合目あたりから、早朝、朝日が昇るのを拝んでみたいと願う。弥生時代の「ひむか=旭日の太陽崇拝」民族文化は、かくも、今日の日本人の心性に受け継がれているのである。

 もし宮崎県北部の高千穂峡や鹿児島県東端の高千穂峰が、“筑紫のひむか”ならば、それらの西側は平坦な稲作水田地帯でなくてはならない。が、そのようなものは微塵もないどころか、山岳地帯である。つまり、日本書紀の神武天皇の条における記述は、唐津湾・博多湾の南域を指す「筑紫」を、九州を意味する「筑紫島(筑紫州)」に混同したことからも発生している。

 さらに、「高千穂」の意味を取り違えているのも原因。「高千穂」とは、刈り入れた稲穂をたくさんうず高く積み上げた情景のこと。「高い山の峰」との解釈は、誤読。記の原文は「筑紫の“ひなた”の高千穂のくじふる岳」。つまり、標高419㍍の「くじふる岳」はなだらかな山で、高い山ではない。とんがった峰でもない。「高千穂」を「刈り入れた稲をたくさん(=うずく積み上げた」景色と解せば、すんなりと文意が通じる。現実にも、「くじふる岳」は「刈り入れた稲穂をたくさんうず高く積み上げた」形。

 また、古事記に出てくる地名・地理が、筑前・肥前の筑紫にはいくつもあるが、宮崎県・鹿児島県には一つもない。例えば、前者では「韓国と向かい合っている」「くじふる岳」「笠沙」など。かつて糸島半島の北側の「糸島」は、南側がほとんど海で、ほぼ完全な島だった。陸橋のような細い陸地(現在の「泊」と「志登」)で内陸部の南側と繋がっていた。この地形は、キノコの傘に柄がくっついている部位に似ている。まさに「笠沙」(注2、129頁)。なお、この「笠沙」の地点は、ニニギノミコトと「木花之佐久夜姫」との出会いの場所でもある(131頁)

(備考)「志登」は筑肥線「波多江」駅のすぐ北側。

 筑肥線「加布里」駅を降りて「くじふる岳」を望むと、橿原神宮から三輪山を望んだ時の景色が重なる。ともに距離が10㎞で同じ。山の高さも標高419㍍と467㍍でほぼ同じ。神武天皇は、橿原から三輪山を眺めては、笠沙から「くじふる山」を眺めた少年時代を思い出しておられたのではないか。

 話を戻す。天孫降臨の場所に「高い峰」を絶対としてきた古代史学者の解釈は全くの間違い。三輪山も「くじふる山」も、朝から登山し昼を頂上でゆっくり過ごしその後下山しても、夏なら麓に着いた時まだ明るい。表1参照。その程度の高さと緩やかな勾配の山を、皇室は好まれたのである。持統天皇は、三輪山よりさらに標高が低い大和三山に“美”を観想された。藤原京の光景は、前原市の光景に酷似。紀元前100年の八百年ほど昔の高天原時代の皇祖先のDNAが蘇ったと考えられる。

表1;宮崎県・鹿児島県の峻険な山々は「くじふる山」と真逆

 “日本人は何でもかんでも外国を模倣する民族”と、自虐史観が売り物の古代史学界が、天孫降臨を、強引に朝鮮神話にこじつけたのである。「高天原」とは、稲穂がたわわな水田平地のこと。地形の「高低」とは無関係。「高千穂」も、刈り取った稲穂を積み上げた風景で標高の「高さ」を意味しない。それなのに“間違いも間違い”「地形の高さ」にこじつけ、史実とは全く無関係の宮崎県・鹿児島県の稲作不毛の山岳地帯に悪意をもって妄想する。古代史学者の性悪さは、言語道断!

「アジア共産化戦争の“スターリンの犬”」に日本人改造──「皇紀2600年」祭の目的

 さて、話を産経新聞社刊『神武天皇は確かに存在した』に戻す。このトンデモ本は、「日本はロシアの属国たれ!」「ロシアが日本の祖国だ! ロシアのために一億日本人は死ね! 餓死しろ!」がモチーフの“悪魔の反日”本の典型。KGB工作員だらけの“プーチン礼賛新聞”産経新聞とは「ロシア“KGB”新聞」だが、対ロ売国本『神武天皇は確かに存在した』も、この証左の一つ。

 『神武天皇は確かに存在した』を開いた瞬間、私は昏倒するかのように後ろに仰け反った。最初に出てくる口絵写真が、「八紘之基柱 あめつちのもとはしら」(1940年建立、宮崎市)だったからだ。ここに掲げられている「八紘一宇」とは、レーニン語「世界共産化 ミール」の隠語。GRU工作員の共産主義者だけが集った「帝国陸軍新聞班」が1938年3月に考案したものだ。私は、1973年に宮崎市に仕事で出かけた折、高さ36㍍のこの建造物を初めて見た。そして、爆破するにダイナマイトが何本必要かを考えた。が、2016年の産経新聞の極悪書を手にするまで、恥を曝すが、私は実は四十三年間も忘れていた。

 日本国の国防の核は対ロ国防。対ロ国防の入り口は、日本国からロシア工作員を一人残らず排除し、ロシアによる工作を美化・称讃する「敵国人」製の建造物を爆破・粉砕することである。爆破すべきロスケ建造物の筆頭は、靖国神社境内のパル判事(コミュニスト)の石碑と宮崎市の巨大塔「八紘之基柱」。皇室が昔から用いる“八紘一宇”の原義と、1938年3月~1945年8月に喧伝された共産革命洗脳語「八紘一宇」とが、天と地ほどに相違する明白な事実を無視するとは、日本人の無学なナラズモノ性が今や天文学的で、治癒不可能のレベルだからだろう。

 前者は、「日本列島全体の天下が平和でありますように」と祈る言葉。後者は、「モスクワが共産主義の総本山で、世界中が共産化するために、日本は戦争し続けよう。この世界共産化(=「八紘一宇」)のために、日本国が滅び一億日本人が戦死し餓死することが日本国民の使命である」という意味。国家を破滅されるまで永久に戦争し続けることが、どうして平和なのか。

 現に、巨大塔「八紘之基柱」が建立された1940年を境に、日本国中に満ちていた「蒋介石殺害戦争(=日中戦争)、絶対反対!」は、姿を消した。そして宗主国であるソ連軍“様”に、満洲・樺太・日本列島に無血的に侵略/占領して頂くべく、日本は1941年12月に英米蘭に大敗北するのを目的とした“一億玉砕”の戦争を開始(注3)。1938年3月以降の“転倒語”「八紘一宇」が日本国廃滅と一億日本人皆殺しの魔語なのは、このように三歳児ですら理解できる初歩的な歴史事実。

「日本海軍発祥」の地は、佐賀県唐津市唐津湾「志登」or「呼子」(+福岡市「小戸」)

 この巨大塔「八紘之基柱」と一緒に爆破すべき“スターリン崇拝教の遺物”が二つある。第一は、日向市美々津の、「日本海軍発祥地」の碑文が刻まれた大きな石碑(立磐神社の境内、1942年9月建立)。第二は、神武天皇東征の軍船「おきよ丸」(1940年に造船、宮崎神宮の境内に今も保存。「おきよ」は「起きろ! 出航だ!」の意)。産経新聞社の『神武天皇は確かに存在した』は、嘘歴史の両者を美化している。産経新聞は捏造歴史が大好きなようだ。

 神武天皇は、佐賀県唐津湾から出港され東征の長途についた。その港は、豊玉姫/玉依姫の実家のある唐津湾の東端で、現在、志登神社(JR筑肥線「波多江」駅から北に10分)がある。現在の唐津湾からこの志登までの海は、江戸時代、干拓し水田にしてしまった。神武天皇東征をもって日本海軍発祥とするなら、その碑は志登神社に建てるべきだろう。

 なお私は、日本海軍発祥の地は、唐津市の呼子であるべきだと考えている。ここから、陸海軍総司令官・神功皇后の新羅征討軍が威風堂々と出撃したからである。細かく言うと、神功皇后の旗艦は、福岡市・今津湾の東端にある小戸(おど、日本書紀の宛て漢字は「小門」)を御出帥され、海路を伝って、呼子に集る膨大な数の大軍船団に合流された。小戸には、神功皇后「御出帥」の史実を正しく伝承する小戸大神宮がある。

 日本書紀に、小戸について「日向国(ひむかの国、筑紫)の橘小門(たちばなのをど)の水底・・・」(注4、332頁)という文がある。ついで。「高天原」が筑紫(糸島郡前原市)に在ったことは、「伊弉諾尊、・・・筑紫のひむかの小戸の橘の檍原に至りまして・・・」(注4、94頁、69頁)の記述からも明らかなこと。

 次。ダイナマイトで爆破せずともガソリンで焼却すべきものに、宮崎神宮が保存する「おきよ丸」がある(注1、67~8頁)。1940年に建造されたこの模造船は、神功皇后の新羅征討や、広開土王の碑文にある朝鮮半島の半分以上を占領した391年の朝鮮出兵時の日本海軍の軍船を模している。紀元前10年頃の神武天皇東征時は、丸木船もしくは丸木舟発展型の一部構造船(備考)で全く異なる。歴史を無視し四百年後の船にすり替えるとは、「皇紀2600年祭」に浮かれた1940年の赤い日本がバカ騒ぎ一色だったのがわかる。

(備考)丸木舟を船底や船首に用いるが、左右に側板を斜めに張り付けると漕ぎ手を二列の搭載人員二倍化ができ、船速も五割ほど上がる。問題は、この側板の接ぎが拙劣だと大波の時に外れ、即、沈没すること。紀元前10年の神武東征時、日本の最文明国・伊都国に、この造船技術があったか否か。私には判断材料がない。

伝承の多くは平安時代の作。神武天皇の実在とは無関係。記のみ「実在」を語る

 産経新聞社刊『神武天皇は確かに存在した』は、反・学問的な奇天烈な間違った考えに基づいて、この神武伝承ルポルタージュを纏めている。「神武伝承は、東征ルートのほぼすべての地に残っている」「(その多くは現在に息づく説話や祭りの形で)語り継がれるに足る見聞があったればこそ、これだけ完全な形で伝承になっているのではないか」(注1、8頁)。無学歴・低学歴の産経新聞社記者らしく、小学校五年生の作文に及ばない拙劣さ。何とも虚しくなる。

 2015年の日本人が西暦元年前後を見聞したらしいとは、日本人はタイムマシンで2000年ほど昔に戻って神武天皇をその目で確かめたとの謂いだから、産経新聞の記者の頭は、どう見ても正常からぶっ飛んでいる。そこで少し学的な基本を復習せねばなるまい。

 歴史学では、伝承は諸刃の剣である。安易に使えば逆効果になる。例えば、神武天皇が実在するか否かに、伝承は99%役に立たない。理由は、①日本全国にある神武伝承の全ては日本書紀に基づいている。②この日本書紀は、神武天皇のご生誕&東征のスタートを宮崎県だと完全に錯覚している。この①②の結果、日本書紀に基づく伝承は、反転的に神武天皇不在論/捏造論の根拠に転用されても、その逆の神武天皇実在論には用いることができない。

 現に、産経新聞社刊『神武天皇は確かに存在した』の頁数で六割は、高天原も日向三代も神武天皇も宮崎県とする(完全に錯誤著しい書紀に従い)明白な大間違いに基づいて展開している以上、恐ろしい極左本『神武天皇“捏造”論』と何ら変わるところがない。神武天皇実在を実証したいなら、最初に、宮崎/鹿児島県に伝わる「神武伝承」「日向三代伝承」の全てを一つ残らず否定し削除すること。

 次。古事記は、天武天皇の御省察を経たため、神武天皇の史実を根幹部分では伝えている。が、古事記を基に発生した民間伝承は、神社を始め一つも存在しない。古事記は、太安万侶/稗田阿礼が元明天皇に献上し御進講したが、元明天皇はその後『古事記』を個人的に秘匿され、大和朝廷官吏ですら読んだ者がどうも一名もいない。

 また、その宛て漢字の難解から、古事記は太安万侶の弟子以外には読めず、この数名の弟子が死没した後は、古事記を読んだ者はいない。つまり、古事記は、厳密にも、元明天皇の次に読んだのは、一千年を経た本居宣長。古事記は、暗号でできた一種の機密文書に近いものだった。

 要は、神武天皇実在論は、必然的に史実を伝える『古事記』研究が、ほぼ全て。そして、日本書紀は、この古事記研究の補足に使うものであって、僅かでも、『紀』のみに基づいた神武天皇論を展開してはならない。産経新聞社刊『神武天皇は確かに存在した』は、反・歴史の有害図書。

第二節 伊勢神宮「ご神体」八咫鏡は、前原市平原「発掘」と同じ和製か

 神武天皇は日向三代の皇子で天照大神の五代孫である。天照大神か日向三代か、いずれかの“実在”が証明されれば、自動的に神武天皇の実在は歴史学的に確定される。高天原を福岡県糸島郡前原町(現・前原市)に仮定すると、天照大神の実在は(仮説以上に)おおむね証明される。

 大和朝廷とは、三種の神器を奉戴する天皇を頂点とする統治機構で、かつ「八咫鏡」に特段の宗教的崇拝信条・感情を感得する精神が共有されている政治主体である(注5、127頁)。すなわち、「八咫鏡/八坂勾たま/鉄剣」をもって天皇位の資格とする宗教感情が横溢するのが大和朝廷。

 この大和朝廷と類似する政治主体は、(これまでに発見された)弥生時代の考古学的な発掘物からすれば、基本的には「伊都国」のみ。隣接する「那国」がそれに次ぐ。そして、第三の「国 くに」は日本中どこにも存在しない。

 1965年に発掘された福岡県糸島郡の有田平原の遺跡は、英国から一種の分封で米国が誕生したのに似て、「伊都国→奈良盆地の大和朝廷」の可能性を端的に証明する。少なくとも歴史学的推定「伊都国→大和朝廷」“分封”に匹敵する、他の「国」や地域は日本中どこにも一つも存在しない。

伊勢神宮の八咫鏡(直径46cm前後)は、舶来ではなく、「伊都国」産か「纏向川」産

 日本の古代史学者も考古学者も、99%は天皇制廃止の共産革命運動家。ために、伊勢神宮の八咫鏡を研究するものはほとんどゼロ。例外は、階級闘争を信じるマルキストだが、唯物論に馴染めず、記紀の「神話」を受容する原田大六ただ一人のようだ。

 伊勢神宮にある八咫鏡(やたのかがみ)は、おそらく前漢鏡。日本で発掘された前漢鏡(+後漢鏡)のほとんどは楽浪郡から買った舶来品。が、古事記の記述は、天照大神が八咫鏡を「舶来品」でなく、「国産」していたと示唆する。国産の漢鏡を学術用語で「仿製鏡」という。

「いしこりどめの尊に おほせて 鏡を作らしめ、」(注5、81頁)

 八咫の「咫 あた」は円周の単位。後漢の学者「許慎」の『説文解字』などから、八咫とは2.31cm(一寸)×8寸×8咫=147㎝となる。ここから八咫鏡の直径は46.5㎝と計算される。巨大な白銅鏡である。この巨大な八咫鏡が発掘された遺跡は、全国でただ一つ。現在は前原市(江戸時代は「怡土イト村」)の、福岡県糸島半島の有田平原。1965年に調査された、この地の「伊都国」王墓から八咫鏡五面が発掘された。しかも、この発見された八咫鏡は、仿製鏡=国産だった。

 西暦紀元頃、神武天皇は奈良盆地の橿原に構えた皇居内に皇祖神・天照大神を祀る「神宮」を造り、ここに鏡を祀った。この八咫鏡は、鋳造工房のある故郷「伊都国」から送ってもらったか、「伊都国」から連れてきた技術者が製造したか、のいずれか。神武天皇の皇后「媛蹈鞴五十鈴媛命 ひめたたらいすずひめのみこと」の名には「蹈鞴たたら=製鉄」「五十鈴いすず=褐鉄鉱」とあるから、その実家は鉄や銅の鋳造・鍛造をする工場主。伊都国から移住した、神武天皇の臣下である「八咫鏡」製造技術者が、この工場で作ったと考えるのが、もっとも蓋然性が高いように思う。

 なお、有田平原の「第一号王墓」から発掘された埋葬副葬品は、ほとんどが国宝に指定された。それを、以下にリストする。

 耳璫があるから、この「王」は女王である。女王であるのに鉄剣一刀が副葬されており、“三種の神器”が揃っている。下記ゴチックの「鏡、勾玉、刀剣」がそれ。

 なお、この「王墓」の築造推定時期は(100年以降)150年A.D.前後なので、紀元前90年頃に崩御/宝算60歳が仮定される天照大神から二百年以上が経過。天照大神の直系と考えられるが、ご本人ではない。

大型内行花文鏡×5面。国産。

・内行花文鏡×2面。舶来。

・方格規矩鏡×32面。舶来。

・四?文鏡×1面。舶来。

・メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉×約500、ガラス小玉×約500、ガラス管玉×約30、ガラス連玉×約900。

・耳璫 3破片

・素環頭大刀×1振り

「神鏡」八咫鏡は、どう用いるのか。女王墓が示唆する「太陽に仕える巫女(日の女(め))

 八咫鏡の使用方法の一つが古事記に記述されている。「・・・真賢木(の)上枝に八尺の勾たま…、中枝に八咫鏡を取り懸け、下枝に〇〇(=楮や麻から作った御幣の布)を取り垂(し)でて」と(注5、81頁)

 鏡は、祭壇に祀るのではなく、どうやら「ぶら下げ」るものらしい。では、いつ/どの方向にぶら下げるのか。私の暫定的な推定だが、元旦ではなかろうか。元旦の早朝、太陽が東から昇る頃、伊都国の王は、櫓の四方の縁に数面づつ「ぶら下げ」たのではないか。なお、鏡は凸面。

そうすると、伊都国のどこからでも、この櫓の全体が朝日に当たって煌々と照り輝く。一女王が四十面も持つのは、このように一度に十枚以上を用いるからである。東西南北に三面づつ「ぶら下げ」れば12面が必要。ここの櫓は、読者は「吉野が里」遺跡の櫓をイメージされたい。

 話を脱線するが、古代史学者は、古代の日本人が暦学に疎かった事実をもって、誤解していることがある。日本人は、紀元前4000年頃の昔から、冬至の日と夏至の日だけは正確に確定でき、それをもって一年を太陽暦的に正確に知っていた(備考)。だから、縄文・日本人は、冬至の日に親族が集まり元旦を迎える祭事をし、死んだ祖先がこの冬至の日に“故郷の我が家に戻ってくる”と信じた。

(備考)村々ごとであれば、私でも冬至と夏至の日を三年間で正確に確定し、その装置を作れる。数㍍の一本の木を垂直に立て、日の出の影を完全水平な地面に記録すればいい話だからだ。二回ほど微修正を行うので、三年あれば十分。一年の始まりと終わりを知っていたから、人口比でほとんどを占める元縄文人達が、渡来人が持ってきた稲作を弥生時代に大々的に導入できた。稲作は苗代のタイミングが要。

 稲は、太陽の日差しの総量が、水とともに、その生育と収穫を決定する。キリストに仕えるローマ法王と同じく、太陽に仕える「日御子(=太陽神に対し祭祀を行う高貴な男性/女性)、ひみこ」が一般人から仰がれるのは、「日御子」の「対」太陽祭祀や日頃の仕向けが、太陽の日差しを最高の精度で十全にもたらすと信じられていたからである。

 このことは、天照大神が“太陽神の巫女”であって、一般通念上の「太陽神」ではないことを明らかにする。なのに、日本の古代史学者は、天照大神や天皇を、その「太陽の《子》」と自認する表現において、英仏の王権神授説に基づく絶対専制君主かに悪意をもって擬える。が、両者は全く異次元。「俺様は太陽神だ」と「私は太陽に仕える《みこ》」とは、対極的である。「太陽から生まれた《子》」ではなく「太陽に仕える《子》」だからだ。前者は、王の権力を抑えるものがその上位に存在しない政治制度だし、後者では「仰ぎ見る太陽など、人智では不可思議なものへの畏れや謙抑が、政治権力を自ら制限する」政治制度となる。

コーク“法の支配”を凌ぐ明治憲法お告文“祖先の支配”は、天照大神「鏡教」が源流

 さらに、八咫鏡が、わが日本国の祖先崇拝教の中核をなしている重要な根本政治原理を、日本国民は決して軽視してはならない。天孫降臨に当たり、天照大神は「これのは、もはら我が御魂として、わが前を拝(いつ)くがごと 斎(いつき)まつれ」(注5、127頁)と命じている。「祖先を敬え」ではなく、「祖先を神と崇めよ」である。

 この「祖先を神と崇めよ」は、民俗学的には祖先崇拝教だが、憲法学的にはコーク卿の“法の支配”と同列か、それ以上の大哲理である。なぜなら、“法の支配”の“法”を“祖先”に置き換え、憲法理論としたのが、井上毅が起草した明治憲法のお告文(おつげぶみ)だからだ。明治憲法に関し、私が仮に井上毅を代理せよと命じられたら、ほぼ同レベルのものを起草する自信がある。が、お告文を読んだ時、「自分のレベルでは遠く及ばない。井上毅はコーク卿と並んでいる」と、感動が止まらなかった。

 そして、井上毅が起草した明治憲法「お告文」とは、上記ニニギノミコトへの天照大神の神勅「八咫鏡」の近代憲法的な表現。ならば、「八咫鏡→明治憲法お告文」>コーク卿『英国法提要』であろう。このお告文は、「明治憲法に定められた明治天皇の政治大権は、ことことごとく“祖先の支配”を受け、祖先が残した統治の規範に従うものでなければならない」「明治天皇には、自らの意思による統治の大権は付与されていない」など、皇祖(神武天皇)&皇宗(第二代以降の歴代天皇)&皇考(先帝陛下)の遺訓や統治の洪範あるいは威霊/神佑に従います」との明治大帝の祖先への誓約宣言である。王権神授説とは180度逆の思想である。

 この短い皇祖等への誓約宣言=「お告文」において、皇祖・皇宗が五回でてくる。表2。

表2;皇祖・皇宗・皇考への誓約宣言の明治憲法「お告文」

 この“法の支配”と同じかそれ以上の“祖先の支配”という偉大な憲法原理が、天照大神の「天孫降臨時の八咫鏡」を源流としているところに、日本国の偉大な自由の哲理の輝きがある。八咫鏡、それは我が日本国の“自由”の淵源であり、日本国の“高貴”の母胎である。

紀元前一世紀、「伊都国」の情報網は、他の「国」とは比較にならない広域に及ぶ

 「那(奴)」国が後漢より金印を授与されたのは57年AD。この57年時点、隣国の伊都国も、伊都国の分封である大和盆地の朝廷も、那国とほぼ同等な国力で(ドングリの背比べ的に)並立状態だったろう。熊襲も出雲も蝦夷もまだ制圧されておらず、日本全国は群雄割拠的な分立状態だった。

 それから僅か五十年の紀元後107年には、大和朝廷は第五代孝昭天皇と目されるが、戦争捕虜160人(播磨国制圧戦争)を後漢に献上すべく帯方郡に送っている。倭の国王「帥」とは、大和朝廷の天皇のことで「軍隊の最高司令官」の謂い。日本国の天皇について、支那帝国は「倭の五王」と同じく一文字(備考)で表現する。名「升」から天皇を特定するのは困難。

(備考)履中天皇/反正天皇/允恭天皇/安康天皇/雄略天皇などを指している可能性が高い日本の五天皇は、支那の史書では「讃、珍、済、興、武」のように一文字で表記。

 この捕虜160人を運ぶ(丸木舟に毛が生えたような軍船の)大和朝廷の大規模「軍船」団は、博多湾にいったん集結し、ここから壱岐島を目指したようだ。また、この時、首都「須玖岡本」(福岡県春日市)に侵攻し「那国」国王を威圧し服属を誓わせ、その証拠として金印を提出させたと考えられる。志賀島に没収品「金印」をポイ捨てしたのは、帯方郡に向かう大和朝廷軍が偶々ここに立ち寄ったからか。

 240年頃の帯方郡の記録『魏志倭人伝』では、「皆 女王国=大和朝廷に統属す。(大和朝廷からの)郡使(代官)の常に駐(とど)まる所なり」とあり、那国が大和朝廷に帰属する一地方に過ぎないのがわかる。女王国とは大和朝廷のこと。大和朝廷は対外的には「百襲姫(支那は「卑弥呼」「女王」と記録)を国家代表(元首)かに偽装し、天皇(第八代・第九代・第十代)を秘匿した。国防からの措置だろう。

 那国は、107年からは、大和朝廷に形式的独立も認められなくなり、300年前には影も形もなく滅んだ。大和朝廷の直接支配領域に編入されたからである。

 さて、大和朝廷の母国「伊都国」。その人口は那国に及ばないが、軍事的には相当に優位だったようだ。『魏志倭人伝』『魏略』によれば、那国の人口は「10万人以上」だが、伊都国は「5万人以上」。そして紀元前から、伊都国は宗像地方を領有しており、那国を、伊都国と宗像地方とが地政学的に挟撃していた。那国の、伊都国に対する軍事的劣勢は、紀元前から続いていた。この意味で、那国が伊都国を出し抜いて、後漢から金印を手に入れたのは、アッパレと言うしかない。

 古事記に、伊都国の天照大神は宗像神社「三社」に斎宮として皇女三名を置く、と解釈できる記述がある。「たきりびめの命は宗像の沖つ宮に坐す、いちきしまひめの命は宗像の中つ宮に坐す。たきつひめの命は宗像の辺つ宮に坐す」のこと(注5、79頁)。これらの三皇女には相当な護衛部隊がつくし、それはいつでも那国に北側から侵攻できる。

 「高天原」「日向三代」が糸島郡なのは、イザナギ・イザナミの国生みからも、容易に推定できる。それは、「一、淡路島」「二、四国」「三、隠岐島」「四、九州」「五、壱岐島」「六、対馬」「七、佐渡島」「八、奈良県の大和盆地」「九、岡山県児島半島(当時は島)」「十、小豆島」「十一、大分県国東半島の姫島」「十二、長崎県五島列島」「十三、長崎県男女群島」が、両神がお産みなられた国土としているからだ。

 この地名のほぼ全部は、博多湾や唐津湾から当時の丸木舟で交通できる島々(注5、55~7頁)。具体的に言えば、紀元前一世紀頃までに伊都国が海洋交易=交流した地域ばかりではないか。多少の違和感があるのは一つ、「八、奈良県の大和盆地」だけ。ここのみ、海上交易ルート上にはない。

 すなわち、この一つを除けば、古事記は、紀元前一~二世紀の伊都国=高天原を史実に忠実に記録している。712年に作られた物語なら、大和朝廷は(北海道渡島半島までの)制圧し統治下にあった領域を、「産んだ」すなわち「全ての日本列島を産んだ」と、記述しているはず。

 記紀に偉大な史書を透徹できないのは、「IQが低く、知見が貧弱で、人格が赤く狂っている」からである。そして、記紀こそは、「高天原も天照大御神も日向三代も神武天皇ご生誕も、福岡県糸島郡である」と、明白に伝えている。これが、日本の歴史であり、日本国の歴史の真実なのだ。

 

1、産経新聞取材班『神武天皇は確かに存在した』、産経NF文庫/潮書房光人新社、頁数は本文。

2、『古事記 祝詞』、岩波書店、頁数は本文。

3、「(尾崎秀実に対する)検事尋問調書」『現代史資料2 ゾルゲ事件二』、みすず書房。

4、『日本書紀』上、岩波書店、頁数は本文。

5、『古事記 祝詞』、岩波書店、頁数は本文。                    (2021年7月28記)

 

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