「弥生時代を日本の歴史から抹殺せよ」「『縄文時代→古墳時代』に歴史を改竄せよ」が、現在日本の“狂”古代史学界──大学における“歴史の大捏造”「天照大神/日向三代/神武天皇~開化(仲哀)天皇は『歴史ではない/架空の物語』」の共産革命が止まらない

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 日本の古代史学界は、“狂った大義”天皇制廃止を掲げてライフル銃を無差別に乱射する血塗られた共産革命しかしておらず、当然、「歴史の改竄/歴史の捏造なんぞ、やりたい放題に何でもやってしまえ」が信条で日常の行動である。暴走族や暴力団の無法犯罪行為と全く同じ。共産党主導の、この天皇制廃止を目指した学的犯罪“歴史の改竄・捏造”には、大きく三分野がある。

 第一;津田左右吉に始まる「神武天皇→第九代・開化天皇までの天皇は不在」論(物語論/創作論)。すなわち、欠史でないのに偽装表示「欠史」を貼り、存在する歴史を「存在せず」と抹殺する歴史改竄手法は、極度にひん曲がった人格と真赤な腐った脳みその“劣等人間”津田左右吉に始まる。

 この津田流歴史改竄方法は、その後エスカレート。今では「仲哀天皇/神功皇后に至るまで天皇や皇后は存在せず創作である」論に発展。しかも、これが、共産党が支配する学界と教育界での定説となった。文部省もこの共産党の狂説を率先垂範して狂信し、今では真赤な嘘歴史「神功皇后までの皇統は存在せず」以外の教科書を、文部省が国家権力で禁止するに至った。

 要は、古代史学界や文部省は、史書の形にまとめられた皇統譜たる記紀を、あろうことか「史書や皇統譜ではなく、作為された創作」にでっち上げ、皇統譜そのものを破壊的に消滅させたのである。古代史学界と文部省が、天皇の皇統譜(武家時代の家系図をイメージされたい)潰しを通じた、天皇のご祖先(皇祖皇宗)抹殺という恐ろしい歴史改竄を推進してきた。が、この歴史捏造を阻止せんとする日本国民は、私一人を除き、日本全土のどこを捜しても今やゼロ人。

 第二;天皇御陵を、「単なる過去の遺跡」を意味する「古墳」に扱い、不敬にも「御陵」として拝することをしない/させない、つまり刑法188条「礼拝所不敬罪」等に違背する刑法犯罪をなすことが、学界の絶対基調。特に、共産党員だらけの宮内庁が告訴しないことをいいことに、古代史学者は、刑法墳墓罪なんか無視してしまえと、皇室・天皇陛下のご祖先の御陵暴き/御陵潰し/御陵抹殺“犯罪”のやりたい放題。御陵は全て今上陛下のご祖先の御陵(お墓)である。古墳ではない。日本国民なら誰しも、刑法第188条の遵守履行以上の尊崇をもって御陵を拝すべき。それが誇りある日本民族の光栄で高貴な義務だからだ。

 が、天皇ご祖先の御陵を「古墳=遺跡」にすれば、それは天皇のご祖先を無きものにする(=抹殺)のと同じ。万世一系で丸二千年間も続いた天皇制度の抹殺そのものを達成したことになる。「学術的な調査だ」「お墓の修復である」という真赤な嘘口実で御陵暴きを共産党員古代史学者が試みる、彼らの手口を、天皇制廃止状態「天皇など存在していない」の先取り革命という。

 また、天皇御陵から天皇のお名前を削るのが、恐ろしいことに今や一般的になった。これも共産党が命令した、嘘ラベル「御陵とは天皇の御陵ではなく、単なる古墳=遺跡に過ぎない」の実行で共産革命。共産党員古代史学者には、一般通念の学者はいない。共産党員古代史学者とは、ロシア皇帝ご一家を銃殺した血塗られたレーニンと同じ、天皇処刑を目指す悪魔の天皇制廃止革命家たち。

(備考)例えば、仁徳天皇陵=百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)を、共産党支配の古代史学界は平然と「堺市大仙町にある古墳に過ぎない」を意味する、地名を冠した「大仙陵古墳」と呼ぶ。しかし宮内庁は、刑法188条違反明らかなこの“違法”呼称に対し、刑事告訴の義務を果たさない。

 第三;「天照大神、日向三代、神武天皇」などの皇室の祖先は全て、弥生時代中期~後期の方々である。そこで、皇室の祖先は、巨大な陵に葬られておられる応神天皇以前には存在しなかったとの真赤な嘘歴史をでっち上げるべく、皇室に関わる日本歴史では弥生時代は存在しなかったと、卒倒する“狂”歴史を捏造したのが共産党員古代史学者の全員。そして今、これが学界の定説になった。

 確かに、弥生時代がなければ皇室&天皇制度は生まれていない。この歴史事実から、“皇室憎し”の共産党は“弥生時代憎し”の狂気に暴走し、その抹殺を図らんとする。具体的には、共産党支配の大学と古代史学界は、皇室関連の歴史事実が弥生時代に関わった場合、「弥生時代を抹殺して、天皇不在を捏造せよ!」を絶対ルールにしている。

福岡県糸島市の「高天原」が直轄する弥生中期の祭祀場が沖ノ島祭祀の始まり

 第三の事例として、沖ノ島に関わる古代史学者らによる空前絶後の歴史偽造、すなわち“弥生時代抹殺”の実態と手口にメスを入れる。沖ノ島遺跡は、高天原(天照大神)の歴史学的な史実(ご存在)を解明する鍵の一つを今に伝えており、皇室発祥の弥生時代中期を探索するに最重要な遺跡。裏を返せば、沖ノ島から弥生時代をマジック・ショー的に隠蔽すると、皇室発祥の歴史の抹殺に貢献できる。

 この故に、「高天原も存在しない」「日向三代も存在しない」「神武天皇から開化天皇に至る天皇など存在しない」と、天皇のご祖先(皇祖皇宗)を、あらん限りに抹殺する“捏造と詭弁の達人”井上光貞(スターリン32年命令を奉戴する共産党員)は、1970年代後半、沖ノ島遺跡から高天原/日向三代と目される遺物が発掘されたことに驚き、「沖ノ島遺跡の遺物は、《弥生時代では祭祀が行われなかった》ことを示している」と、事実転倒のスーパー真赤な嘘を、先制的かつド派手に展開した。

 井上光貞は、この“大嘘”発表場所として、広く世間に広告される効果抜群の、同僚教授やマスコミの出席が特例的に許される定年退官直前の最終講義を選んだ(1979年1月)。そして、通常は大学では決してありえない、講義レジュメをわざわざ印刷し特別聴講の学生以外にも配布した。コミンテルン河上肇直系の井上光貞は、学者の仮面を被った根っからの共産革命運動家が正体だった。

 それから四十年、井上光貞の狂った珍論奇説「弥生時代がなかった沖ノ島の祭祀」を流布する嘘宣伝専門家が現われた。日本列島の考古学も日本の古代史も専門ではない、チベット密教を研究する正木晃。この正木晃のプロパガンダ本が『宗像神社・古代祭祀の原風景』(2008年、NHK出版)

正木晃が大道芸で見せる“歴史捏造の赤いマジック・ショー”に、拍手してはいけない

 沖ノ島遺跡は、これまでの三回の調査に従い「1号~23号」に分けられている。また、巨岩十三ヶも、AからMの番号が振られている。この17号遺跡から、鏡二十一面/鉄剣・鉄刀十二振り/勾玉・管玉という、皇室の“三種の神器”と同じものが多数発見されている。それはまた、福岡県糸島市の有田平原にある「女王墓」副葬品から発掘された“三種の神器”と同種。

 ところで、正木晃は、「17号遺跡を四世紀後半の祭祀遺跡」と断定している(注1、42頁)。四世紀後半の遺物が含まれている事実をもって、「全部、四世紀後半の遺物だ」にでっち上げ、「17号遺跡からの弥生時代遺物」を抹殺する作為をなしている。

 17号遺跡では、「紀元前100年~紀元後350年頃」の四百年以上に亙って同じ祭祀が続いた可能性が高い。沖ノ島17号遺跡の鏡と福岡県糸島郡を占める伊都国(備考)の「女王墓」(有田平原)の鏡のうち、内行花文鏡&方格規矩鏡を比較すると(表1)、このことが鮮明に浮かび上がってくる。

(備考)福岡県の現・糸島市の前原有田平原を王都とする「伊都国」は、紀元前200年頃からの日本人の発音では「いつきくに」か「いつくくに」。「伊都」は、三世紀初頭の魏の支那人が宛てた漢字。原義は“神に仕えるクニ”。漢字表記は「斎国」が正しい。『魏志倭人伝』の「伊都国」は、「いとくに」ではなく「いつくに」と訓むべき。

表1;有田平原「女王墓」の鏡と沖ノ島17号/18号遺跡の鏡

表2;弥生中期の(平原以外の)「高天原」遺跡と鏡

 

(備考)上記三遺跡は、表1の有田遺跡とともに、市町村の再三の行政編成で、現在は糸島市(←前原市)。

沖ノ島祭祀の嚆矢は弥生中期。前漢鏡模造の内行花文鏡&方格規矩鏡から明らか

 正木晃は性悪の歴史偽造屋。真赤な嘘「(紀元前一世紀に始まった)沖ノ島祭祀は、古墳時代の四世紀後半に始まった」(38頁、2行目)は、正木のふんだんな歴史偽造のほんの一部。

 17号遺跡/18号遺跡/19号遺跡(備考)から、前漢から輸入した内行花文鏡/方格規矩鏡を模造した、国産だが紛れもなく弥生中期の、しかも福岡県糸島市の「高天原」で製作された内行花文鏡/方格規矩鏡が発見されている以上、沖ノ島祭祀は、記紀の記述通りに天照大神の三皇女の時代に開始されている。この歴史事実に疑義を挟みうるものは何一つない。

(備考)19号遺跡から、国産の内行花文鏡が発見されている。

 紀元後100~150年、前漢や後漢の(当時の先進国である)支那帝国でも製作できない、技術的にとてつもない高度さが要求される直径46.5㎝=八咫という巨大銅鏡を、伊都国=高天原は独自製作できた。伊都国が紀元前100年頃に始めただろう銅の生産から銅鏡製作まで、百五十年ほどかけて技術を積み重ねたことがわかる。紀元後57年に隣国「那の津国」が両国の代表的な形で金印を授与されたが、それは銅鏡や鉄剣製造の技術が支那レベルと認定されたことも理由の一つになっただろう。

 また、「神」と崇める島への奉納である以上、古い銅鏡であることは万が一もない。ほとんど製作した直後の「新鮮」な銅鏡である。よって第17号/第18号/第19号遺跡の、奉納された「内行花文鏡/方格規矩鏡」の奉納時期は、製作から二年は経っていないと解さねばならない。

 四百年以上の歴史(紀元前100~紀元後350年)を抹殺した正木晃の他意は暴かれねばならない。

遠方からは真白に輝く沖ノ島は島全体が神域。長皇女を斎宮にされた天照大神

 閑話休題。弥生・日本人が沖ノ島に神性を感得したのは、彼らが命を懸けた“鉄を求める”韓半島への渡航にとって、島を覆う多くの岩によって太陽に照らされ真っ白に輝く沖ノ島が一種の灯台のような役割を果たしたからだけではあるまい。“島に神が宿る”or“島そのものが神”という、縄文・日本人のアニミズム信仰を継承する弥生・日本人の宗教心性が(備考)、沖ノ島での宗教祭祀を「紀元前100年~紀元後1000年の一千年間」続けさせた原動力であったろう。

(備考)奈良盆地でも三輪山の山全体に対し、おそらく神武天皇の統治以前の土着の、紀元前の弥生・日本人は、神性を感得し、その麓に「三輪神社」の始原的なものを作った。むろん紀元後200年頃までは原初的な社殿すらなかっただろう。「神社」は磐座などを憑代にして榊などで飾る露天の祭祀場だったはず。縄文人のアニミズム信仰が、沖ノ島や三輪山など一部に限るが、弥生人の祖先崇拝教やその「神」と融合していた。

 宗教的な沖ノ島信仰は、記紀によれば、高天原の天照大神に始まる。この記紀の記述を否定する歴史事実は存在しないから、これに沿って沖ノ島の考古学的遺物を検証するのが歴史学。日本書紀によれば、宗像神社に斎宮として「高天原」から天下った三姫君に対して、天照大神は「皇孫ニニギノミコトを助け奉(まつ)れ。皇孫のために祭(まつ)られよ」との神勅を下す(注2、108頁)

 ただ、下の表3で明らかだが、三姫君の宗像降臨の時には、まだ(姫君からすれば甥に当る)皇孫はご誕生されてはいない。皇孫ご生誕の直後に、宗像神社の三姫君にお伝えになられたのであろう。なお、「祭(まつ)られよ」は、「宗像で多くの供物(寄進物)を受け取り、皇孫に送れ」という意味。そうならば、宗像一族は、毎年、福岡県糸島市の日向三代に、コメその他を貢納していたことになる。宗像地方は、天照大神の御代で、既に伊都国の直轄地だった。

 皇孫ニニギノミコトは、JR筑肥線「深江」辺りに、「吉野が里」よりも小さいが独立した環濠集落を分封されたとイメージされたい。この三姫君の邸(弥生中期なので茅葺屋根で平床の上に筵)は、現在の宗像神社の社殿の辺りだろう。その日常の祭祀場は宗像山の麓にある「高宮祭場」でなかったか。

 すなわち、皇長女「タキリヒメ(オキツシマヒメ)」が主宰する沖ノ島祭祀は、年に一回、梅雨前の五月末~六月上旬、玄界灘の波が最も静かな季節を選ばれて挙行されたと推定できる。この時、伊都国(=高天原)の国王or日向三代から送られてきた鏡を、勾玉・管玉や鉄剣と一緒に沖ノ島に奉納したのだろう。なお、三皇女のお名前が記紀でかなり異なっている。付記の表4参照。

表3;宗像神社「斎宮」になられた天照大神の三皇女(年は仮定)

(備考)現代風の宛て漢字なら「田霧姫(日女)」。“稲田を覆う霧”の意。タコリ/タゴリはタキリの転訛。

沖之島は、いつ女人禁制になったか

 沖ノ島は女人禁制で有名。女性は観光客であれ学者であれ、上陸するのは許されていない。しかし、初代斎宮は天照大神の皇女で、ここで祭祀を執り行ったことは間違いない。つまり、元は女人禁制ではなかった。ではいつ、そうなったか。

 宗像大社「沖ノ島」女人禁制は、聖徳太子の法隆寺などの時期、仏教の普及ととともに絶対となったのは言うまでもない。が、実際はもっと早く、伊都国が大和朝廷の直轄地(「筑紫地方統轄長官=大率」の設置)となって実態的に消滅した200年A.D.よりも前だろう。以下は仮定でなく、私の単なる想像。

 宗像海岸(=辺津)と大島の距離は11㎞だが、大島と沖ノ島の間は49㎞。宗像タキリヒメの御代、操舵手一名/四人漕ぎ丸木舟の時速が六㎞だとすれば、大島・沖ノ島間は八時間かかる。早朝(朝7時)大島を出立して、途中、太陽を定点に航路再確認作業と休憩で二時間とれば、沖ノ島到着は午後5時。なお、後代の女官に相当するお付きの女性や仮屋用の萱そして食糧も、持参しなければならないから、ヒメによる沖ノ島祭祀の場合、数艘の丸木舟で船団(=総勢20名以上)を組んでいよう。問題は、万が一暴風ではなくとも玄界灘の波が荒れれば、転覆・溺死は免れない事態となること。

 紀元前104年以降で紀元前一世紀、年に一回、五月下旬、沖ノ島祭祀をタキリヒメがこの島で主宰なされたと仮定しよう。畏れ多い想像で憚れるが、例えば、十回目とか十五回目とかにタキリヒメご乗船の丸木船が暴風雨に遭遇し、ヒメは悲運にも薨御されたのでないだろうか。仮に遭難が49㎞の真ん中なら、浮遊物に掴まったとしても女性が遠泳できる距離ではない。以来、沖ノ島は、女人禁制が絶対ルールとなり、沖ノ島「斎宮」の祭祀は代わりに宗像海岸(辺津)の高宮祭場が慣例となり、沖ノ島への奉物は男性が代理して奉るようになったと想像しても、そう非現実ではあるまい。

 蛇足。沖ノ島に弥生土器(=食糧の入れ物)がほとんど発見されていない。祭祀や奉物の儀式は最長二泊の短期滞在だし、(帰りの船上での食糧も必要だから)土器全てを持って帰ったからである。弥生・日本人が来訪しなかったからではない。

墓がない沖ノ島祭祀を「葬祭未分化」で論じる、唯物史観の共産党員・井上光貞

 劣悪な劣等生が共産党の命令下で屯する暴力団組織の古代史学界に、学識や知性が水準にある学者は一人もいない。現に、IQが幼稚園児の正木晃は、古墳時代の皇族陵の副葬品と沖ノ島の奉納品とがほぼ一致する事実から、こじつけ短絡の妄想を膨らまして、「沖ノ島祭祀は、四~五世紀の古墳時代だ」と大騒ぎ。正木晃は学者ではなく、詐言が得意な赤い大道芸人の典型。正木晃の狂説を正しい歴史学的考察で解剖する。

第一;福岡県沖ノ島「17号遺跡の祭祀奉納品」の一部は、福岡県糸島市から発掘された弥生中期・後期の「有田平原/三雲/井原の王墓副葬品」と同一。真っ当な歴史家なら、次のように解釈する。同一文化・宗教を継承する同一血統の人間集団(連続する子孫)によって、「有田平原/三雲/井原《王墓築造》→沖ノ島《祭祀》」が営まれた、と。

 だが、正木晃は日本歴史から、この「有田平原/三雲/井原《王墓築造》」の存在自体もこの築造をした人々も「いません」とバッサリと抹殺する。理由は、正木晃は「日本史に、(天皇制度が誕生した)弥生時代など存在しない」をでっち上げたいからである。

第二;「沖ノ島遺跡の祭祀奉納品」には、「四~五世紀の畿内・大和朝廷の皇族陵の副葬品」と一致するものが多いのは事実。真っ当な歴史家なら、この事実から、「有田平原/三雲/井原《王墓の王・女王》」が「四~五世紀の畿内・大和朝廷の皇族」の祖先である証拠だと考える。神武東征が歴史事実だと考える。当然だろう。この推定ができないのは《正木の思想が真赤》だからだ。

 「沖ノ島遺跡の祭祀奉納品の一部」=「四~五世紀の畿内・大和朝廷の皇族陵の副葬品」は、双方とも「有田平原/三雲/井原《王墓の王・女王》の親族か、その子孫たち」が“奉納した/副葬した”から、同種であるのは当たり前。すなわち、沖ノ島遺跡の祭祀奉納品の一部は、四~五世紀の畿内・大和朝廷の皇族が、有田平原/三雲/井原の王族の子孫であることを示す証拠品である。

第三;沖ノ島に(玄界灘の荒波を鎮める)神性を信仰された最初は、史書「記紀」によれば天照大神。この歴史事実を実証する証拠品は沖ノ島で発見されている。朝鮮半島攻略・植民地化の(英国ヴィクトリア女王の先駆者的な)神功皇后もまた沖ノ島に相当な奉納をされたようだが、これは神功皇后が天照大神に発祥する皇統に属し、天照大神の宗教信条を継承・共有していたからである。

 だが、狂気が漂う正木晃は、四~五世紀の畿内・大和朝廷の奉納品が沖ノ島から発見された事実から、畿内・大和朝廷がこの四~五世紀に初めて沖ノ島信仰を開始したとのデタラメを吹聴する(45頁)。沖ノ島は大和朝廷の畿内から遠い。どうして、四世紀後半以降になって突然、大和朝廷が、沖ノ島信仰という強度な宗教信条をもつことが可能なのか。しかも、神功皇后が新羅征討に御出陣された港は松浦半島の呼子。沖ノ島は何一つ関係していない。奈良盆地や大阪湾一帯に祖先代々からの沖ノ島信仰が大和朝廷に継承されていたからこそ、神功皇后は、ご出陣に際し宗像神社に立ち寄り、沖ノ島に祈願するよう寄進されたのである。宗教の大原則「宗教信条は一朝一夕に生まれることはない」を知らない正木晃のトンデモ本を読むと、格言「バカは死んでは治らない」が脳裏を過る。

 正木晃の超お馬鹿ぶりは、上述の内容に留まらない。唯物史観の過激共産党員・井上光貞がでっち上げた“反・歴史の詭弁”「葬祭未分化」(1979年)に心酔し、花火大会の如くぶち上げている。古墳時代の皇族陵の副葬品と沖ノ島祭祀奉納品が酷似するのは、「葬祭未分化」だからだ、と。

 井上光貞とは、IQが低く国語力がデタラメな凶悪な“赤”東大教授。だから、国語的にはナンセンスな井上光貞語「葬祭未分化」なる珍語を造語した。彼の論文を読むと驚くなかれ、「葬」は葬儀を指し、「祭」は葬儀を除く一般祭祀儀を意味していた。

 が、葬儀のことを「葬祭」とも言うように、国語的にはお粗末すぎる謬語「葬祭未分化」から、“葬儀と一般祭祀儀とが未分化”とは解釈できない。だが、ここでは、六流以下学者「井上光貞→正木晃」の脳内狂気問題には目を瞑り、「葬祭未分化」を「葬儀と一般祭祀儀の未分化」に解釈してあげよう。

 さて、沖ノ島だが、ここには墓は一切存在しない。つまり、葬儀は徹底的に排除・排斥されており、「葬儀と祭祀儀」は分化以前に分離。「祭祀儀から葬儀の排斥」こそは、沖ノ島祭祀の所与的な特性。

 縄文時代の日本人は、葬儀や墓祭りと「神」信仰に伴う一般的な祭祀儀との区別=分化が未発達であった。一方、弥生・日本人は葬儀と一般祭祀儀を厳格に明快に峻別して分化した。神社信仰の源流である祖先崇拝教において、神社やその神域から墓や葬儀の徹底排除はこの一つである。神社がその境内の内側では決して葬儀を行わないのは、世界の全宗教の中でも特段に厳格に葬儀と一般祭祀を峻別する宗教ドグマに律せられているからである。沖ノ島信仰には、弥生時代の「葬儀・一般祭祀儀の厳格峻別主義ドグマ」が強烈に貫かれている。

 ゴリゴリの唯物史観狂徒・正木晃が三歳の童児と変わらぬアホバカというより、気狂いに近いことは、次の一行で明らか。「(沖ノ島では葬祭未分化状態だから)儀式というものがまだ十分に確立していなかったと理解すべきだろう。とすれば17号遺跡は、祀るべき対象をどういう方法で祀ったら良いのか、まだよくわかっていない段階を示しているのかも知れない」(46~7頁)

 沖ノ島祭祀の信仰対象は、「神」沖ノ島。祀る方法は、奉納物を捧げている事実から確立していたのは自明。また、何らかの憑代を設置した痕跡もあるから、それ相当な祀る方法に従って順序よく祭祀を執り行っていたことがわかる。そもそも、祀る方法がわからなかったら、沖ノ島に、(数回に一度は転覆・溺死する確率の)命を捨てる覚悟で祀りに出向くことなどしない。正木晃は完全に狂っている。

皇室の歴史七百年(紀元前100年頃~600年)を消した“日本一の大詐言師”井上光貞

 “沖ノ島信仰の源流”である宗像神社の三女神(天照大神の三皇女)の伝承は、記憶記録官制度を整備された神武天皇とは僅か120年しか経っておらず、三女神伝承の骨格は相当に正確に記憶記録された歴史事実と考えられる。

 が、葬儀と一般祭祀儀を峻別する弥生・日本人の文化や宗教観を捏造・歪曲して不在にする“反・歴史の巨魁”井上光貞は、「皇室を皆殺ししたい/二千年以上続く天皇を歴史の上でも一人残らず処刑したい」との“天皇殺戮教の狂信者”でもあって、天照大神の実在を立証する沖ノ島信仰を粉砕し雲散霧消させる方法として、“沖ノ島信仰の源流”である宗像神社の三女神について、「六世紀中葉から七世紀になっての創作だ」と無根拠の思い付きを宣伝流布した(マスコミも教場に入れる定年退官の最終講義)

(宗像《三女神》の神話は)記紀神話の一般的性質からすると、古く遡っても六世紀中葉以後、おそらくは七世紀になって記録(=創作せられ・・・」(注3、210頁)

 何とも唖然とする戯言の極み。弥生・日本人の沖ノ島信仰は、紀元前100年~50年の弥生中期に始まった。これを示す物証も発見されている。記紀の沖ノ島記述の骨格部分には偽りや創作は片鱗も漂っていない。

 記紀は、皇室専用の史実と皇統譜の記録である以上、臣下が仮に創作すれば死刑の可罰は免がれることはない。記紀は、皇室内部に伝わってきた伝承や記録がその当時の歴史学の基準・方法において最高の厳格さで記載編纂されている。この自明の事実を破壊的抹殺して、後代の皇室は神話時代まで遡って勝手に歴史を創作した(改竄した)と、真赤な嘘を吹聴する井上光貞とは、ニコライ二世を銃殺したレーニンの血塗られた血の狂気に包まれている。

 さて、井上光貞は「葬祭未分化」を、人を葬る古墳に納める物と神を祀る祭壇に奉る物が同じである状態のことだと定義する(注3、228頁)。なんという非学問的なトンデモ定義で、詭弁としてもお粗末すぎる。葬儀と祭祀儀の分離・分化の基準は、第一が祭儀方法の分離・分化。第二が、祭場の分離・分化。縄文・日本人の祭儀のほとんどは祖先の墓前で挙催されており未分離。一方、弥生・日本人は墓での祭儀と神への祭祀儀とは、場所も儀式も厳格に区別され万に一つも混同していない。

 棺に納める副葬品と神に捧げる奉納品とが、違っていようと同じであろうと、これは葬儀と祭祀儀の分離・分化とは一切無関係。葬儀に際し、副葬品は、死者の生前愛したものが選ばれる。一方、神への奉納物は、祀る側が最も大切にしている/価値が最高位なものが選ばれるのが常。偶然に同じになるのはありうることで、それがどうしたというのだ。

 さて、皇室の祖先の諸神も神武天皇に始まる天皇も、天照大神を奉戴する“祭祀王”である。天皇や皇族にとって三種の神器こそ、いわば肌身離さずいつもお傍に奉じていたものである。棺に三種の神器のコピーが納められるのは当然なこと。また、神に捧げるに最高なものは必然的に三種の神器(のコピー)にならざるを得ない。このように棺内と祭壇に同一の品々が発見されたからと言って、「葬儀と祭祀儀が不分離だった」にはならない。自明で、論じる以前。

 井上光貞は、日本一の悪質な歴史偽造家。沖ノ島での奉納物がポスト古墳時代では安物になっていき、高価な三種の神器のコピー等がなくなることに井上は着目し、この大詭弁「葬祭未分離」をでっち上げた。ポスト古墳時代では、沖ノ島奉納物は、例えば人や馬や船の形代など葬儀専用物になった。理由は、斉明天皇の“白村江の海戦”など七世紀頃から造船技術が発達して、平安時代に入ると、日本の船は玄界灘の荒波など何でもないほどに大型化した。沖ノ島(=神)に航海の安全を守ってもらう信仰は不要となり、廃れた。1000年頃に沖ノ島信仰は完全に消滅するが、その予兆として平安時代に入ると、安物の奉納品で済ます祭祀の形骸化が起きた。が、井上光貞は、この安物“奉納物”済ます沖ノ島祭祀の形骸化をもって、「葬祭分化」に進化したと嘯く(注3、228頁)

人間の歴史を扱う大学教授ポストから“反・人間の殺人宗教”共産党員を罷免しよう

 唯物論の共産党員は、宗教の絶滅を目指す反・人間の狂人だから、当然、宗教がさっぱり理解できない。つまり、過去の人間の営みを扱う歴史学に共産党員/共産主義者は不適格者。日本の全大学の文系学部から共産党員・共産主義者を罷免追放する立法を急がねばならない。この必要性は、共産党員・井上光貞の狂った学説がもたらした“古代史学界の真実つぶし”運動が止まらない、悍ましい現況こそが遺憾なく明らかにしている。そこで、井上光貞とは祭祀など宗教問題がさっぱりの事例をもう一つ。

 井上光貞は、「葬祭分化」の条件として「神と霊魂の分離」(注3、229頁)を挙げる。アホか。全くの逆だろう。日本は、祖先の霊魂を神にして神と霊魂とを分離しない。天照大神の霊を祀る伊勢神宮が典型だが、祖先の霊魂を神とする宗教が、日本の神道。学問の神様は「天満宮」に祀られるが、何ということはない、元は実在の歴史上の人間・菅原道真公の霊を「神」に祀っている。もう一度言う、日本人の宗教・神道とは、井上光貞の真赤な嘘とは逆に、「神と霊魂が不分離」の「先のへと連続する」宗教。学界に専門用語「祖霊神」がある理由はこれ。井上光貞は学者としては気狂い。

“反・宗教の共産党員”正木晃が捏造する、嘘八百の沖ノ島トンデモ祭祀論

 正木晃は、井上光貞を崇拝するだけあって、口から出任せのホラ話を吹き捲る。例えば、縄文人が沖ノ島でニホンアシカ狩りをした痕跡があるが、縄文人が魚の骨や貝殻を捨てた痕跡がないことから、正木は狂った妄想「縄文人は、アイヌの熊送り(イオマンテ)と同じ“ニホンアシカ送り”の祭りをやっていた」と(116~120頁)、酔っ払い並みの虚言を吐いて酔い痴れている。

 縄文人は、沖ノ島でアシカ猟をした場合、丸木舟の積載能力から、解体して骨を取り出し重量の大幅軽減を図る必要があった。だから、骨は必ず全て捨てた。また、気象が急変して海が荒れる前に帰る必要から、貝や魚を獲っている暇は全くない。況や、アイヌ的な“ニホンアシカ送り”の再訪祭りなどをやっている暇は一秒もない(注2、120頁)。島で二泊以上はしないはず。

 さらに、縄文時代の日本列島は食糧がふんだんにあり、贅沢しなければ餓死する心配は全くない。だから、縄文・日本人には、熊送りのような“生きた食糧の再訪”を祈る思想など全く存在しない。一方、シベリアの極寒の地の民・アイヌにとって、次に食糧にありつけるか否かは死活問題で、熊送りのような食べた食糧が再び客人的に戻ってくる祭りは、餓死・凍死を避けるために必要な祈りであった。

 また、頭が狂っている正木晃は、貝塚を墓代わりにする縄文・日本人の行動を、アイヌの再生祈願に同じとする(117頁)。笑止千万。貝塚は、人骨の腐食を防ぎ副葬品を土に埋もれさせないように、石棺の墳墓に準じる合理的な効能を持つ。縄文人はこの科学的効能から貝塚を墳墓に活用した。

 ではなぜ、正木晃は、弥生中期に始まる沖ノ島祭祀に関する学術論文で、縄文人のアシカ猟からバカげた非在の「縄文人の動物再生祭り」「縄文人の神」など、無関係で全く不必要な与太話を展開したのだろうか。結論を言えば、沖ノ島祭祀は、弥生・日本人すなわち神武天皇のご祖先によって開始されたが、縄文人与太話を延々と紡ぐことによって、この弥生中期・晩期の沖ノ島歴史を抹殺することが可能になるからである。具体的には、この縄文時代から一気に四~五世紀の古墳時代の皇族陵副葬品問題に飛べば、中間にある沖ノ島祭祀の核心である弥生時代の祭祀をマジック・ショー的に消せるからである。

 また、沖ノ島では墓はなく葬儀は行われておらず、一般祭祀儀との分化とか未分化とかの問題それ自体、沖ノ島には無関係である。正常な学者なら、こう指摘して、井上光貞の「沖ノ島の葬祭未分化論」を切り捨て、この問題はこれで瞬時に終わるはずである。が、正木晃は、いかがわしい“非学者の巣窟”である神道学で、死者の魂を鎮める魂祀り(タママツリ)と神を祀る神祀り(カミマツリ)の完全分化が七世紀だというわけのわからない説を唐突に持ち出し、「沖ノ島の岩上祭祀は主に四~五世紀で、七世紀以前だから、魂祀りと神祀りとはまだ未分化だから、沖ノ島では葬祭未分化であった」(注2、125~6頁)と宣う。「死者の魂を鎮める魂祀り」を沖之島はしないのだから、初めに分化ありきではないか。どうも正木晃は精神異常者だと断定できる。このことは、次の正木の言説で、もっと鮮明になる。

 沖ノ島「岩上祭祀」とは「祀られる神と神を祀る者との未分化」であった(注2、128頁)、と述べているからである。この「祀られる神と神を祀る者との未分化」の典型は天照大神。天照大神は、伊勢神宮に祀られているが、同時に自らは太陽神を祀る日御子(ひみこ)である。が、沖ノ島の岩上祭祀を行った者は、「沖ノ島(=神)を祀る者」であるが、この者を誰も祀ってはいない。況や、祀られる神ではない。少し正木の言説を引用する。今度は「神懸かり」が突然できてくる。

「岩上祭祀では、神懸かりが実現し易く、祀られる神と神を祀る者が未分化になりがちだったと思われる」(注2、128頁)

 沖ノ島祭祀を行った者が、恐山の「いたこ」のように神懸かりだったという証拠も根拠も何一つない。正木は、何を根拠にこの狂気的な妄想を喚くのだろう。また、神懸かりになると、神を祀る者が祀られる神になるらしいが、恐山の「いた子」は祀られる神にはなっていない。明らかに、正木晃は狂人特有の妄想を書き連ねている。

 正木晃のNHK出版本「第四章」を読んでいると、真夏の夜中、お化け屋敷に連れ込まれたような凍える雰囲気が襲い掛かる。宗像神社は、天照大神が派遣した三女神に対する冒涜行為である正木晃の沖ノ島祭祀論執筆に全面協力した責任をとり、宮司と権宮司は自死されたい。

 

1、正木晃『宗像大社 古代祭祀の原風景』、NHKbooks。頁数は本文。

2、『日本書紀』上、108頁。

3、井上光貞「古代沖ノ島の祭祀」『日本古代の王権と祭祀』、東京大学出版会。頁数は本文。

附記1;     

表4;高天原から天降られた三斎宮(宗像大社にとっては「祭神」)

 表4は、宗像大社(神社)が、『日本書紀』本文の伝承に従って祭神を祀られていることを明らかにする。私見だが、ここでは『古事記』の方が史実を合理的に伝えている。宗像大社は、中津宮と辺津宮の祭神を入れ替えるべきだろう。なお、『書紀』は、一書(=本文とは「別の記録」)として第一/第二/第三を提示し、全体で四つの記録・記憶を転記する。このように『書紀』は、作為された形跡が全くない。推古天皇の下で徹底蒐集された複数の『帝紀』記録を、天武天皇の下で“より妥当”を取捨選択した『古事記』とは異なり、「どれが正確かの判断は後世の者がなせ!」と公平に並列している。

附記2;後漢の金印授与は、最先進国「伊都国」でなく、何故「那の津国」となったか。

 後漢皇帝が授与する金印とは、その周辺の友好小国が、友好で従順だけではなく、後漢に準じる「先進国の予備」との認定された場合の褒美的な国章印である。一方、紀元一世紀、日本列島での先進国は「伊都国」「那の津国」の二ヶ国。ここに、「那の津国」に金印が授与されたのに、「伊都国」が授与されなかった差別の理由は何だろうとの疑問が沸く。私は、次のように考えている。

 A、準・先進国の条件

①人口が一定規模以上であること、及び首都が近代化されていること。

②鉄・銅の生産と金属の鍛造・鋳造技術。

③漢字の習熟度(読めるか否か)

④暦。

⑤算数習熟度。

 この評価基準では、那国の人口が伊都国の二倍であることで「上」。が、製鉄・製銅では伊都国が優っており、全体では両国に差異がない。なお、漢字習熟度/暦/算数習熟度では、後漢周辺の異民族とさして差はなく、弥生・日本人は先進国とは言えないレベルではなかったか。が、帯方郡での「宮廷マナー」が、日本人は他の異民族に比し先進国的で圧倒的に合格したのが、特別扱いになった理由ではないだろうか。

 B、「那の津国」が金印授与となった決め手は何だったか?

 これを解く鍵は、金印授与が57年A.D.だったことで、私には自明に思える。伊都国=日向三代は、紀元前10年に神武東征=大和盆地侵攻占領という大博打に近い軍事行動を起こしている。大和盆地の制圧が紀元後10年頃に完遂したとしても、国家創建は難事業、丸木舟に毛が生えたような船で、唐津湾から奈良県橿原への援助の連続は、伊都国の財政を逼迫させていただろう。25年A.D.に再興された後漢の漢半島植民地・帯方郡に朝貢する余力が伊都国には無かった原因はこれだろう。

 一方、「那の津国」は、競争相手「国」不在の好機到来とばかり、紀元後30~50年、頻りと朝貢(真珠その他)を密にしたのではないか。つまり、「那の津国=奴国」は、「伊都国」に朝貢競争で勝利して金印を手に入れた。ちなみに、伊都国の分国である大和朝廷は、この紀元後30~50年、第二代天皇/第三代天皇の御代。ひたすら大和盆地における(20年A.D.頃の神武天皇崩御をチャンスに)土着勢力の叛乱的な武力蜂起と戦う日々であったはず。

(2021年8月14日記)

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