邪馬台国《九州》説は、大和朝廷の存在事実を“抹殺”し天皇制廃止を狙う極左キャンペーン──邪馬台国論争そのものを即時絶滅させることが、天皇制度護持に不可欠な緊急要諦

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 政治学/歴史学/哲学/経済学などの文系学問は、「一に該博な知識量、二に清澄に気高い倫理道徳的な人格、三にエジソンやアインシュタイン的な理工型直観力」の三拍子が揃っていない者には不適な学問領域である。このことは、この三条件を具備するバーク/ハミルトンやミーゼス/ハイエクあるいはその弟子筋の“保守主義の英哲”を見れば十全に証明されていよう。

 なお理工系学者に上記の第二条件は不要。戦後日本の文系学者は、具備すべき第二条件に違背する共産革命家が九割を占め、浅薄で貧困な知識しかない“第一条件の真逆者”が東大を始め大学のほぼ全教授となった。日本の文系の大学学部の八割を、早急に廃止しなければならない。

 さて、不毛にして有害な歴史論争「邪馬台国論争」が明治時代から今に至るまで永く存在してきた事実も、上記の文系学者の三条件に違背しそれとは対極的な“クズ人間/ワル人間=劣等日本人”が、歴史学者や考古学者のほとんどを占めているからである。

内藤湖南「邪馬台国=大和朝廷」1910年、笠井新也「卑弥呼=百襲姫」1924年

 支那語「邪馬台国」を、正しく「やまとのくに」と訓もう。極左反日革命勢力の“言葉殺しlogocide訓み”「ヤマタイコク」など、正常かつ健全な日本国民の言語に存在させてはならぬ。同時に、大和朝廷つぶし(=抹殺)が主目的の「邪馬台国《九州》説」を、粉砕的に日本国から一掃しなければならぬ。

 われわれ日本国民は、天皇を奉戴できる光栄を祖先から相続して、生をこの日本に受けたのである。“歴史の共同体”たる日本国の国民として、我々が歴史の真実を守り抜くに、命などなんぞ惜しかろう。記紀を護持するに、命を鴻毛の軽きに置こうではないか。

 「邪馬台国《九州》説」で、全うな見識に括れるものは一つもない。どれもこれも初めから破綻している。多少の学があれば読むに堪えないものばかり。「邪馬台国《九州》説」に魅かれ支持する日本人とは、IQが三歳児に及ばないことの証左。以下、具体的争点を挙げ、関係学者をばっさり切り刻もう。

(1)福岡県山門郡や熊本県山門郷の「やまと」を、「と」の発音が全く異なって別の語彙「大和やまと←山処」と同一視する、お粗末な売名学者を、「学者」と看做してはいけない。久米邦武/白鳥庫吉/橋本増吉は、明白に学者失格。弥生時代・日本人は85音。平安時代・日本人の51音ではない。

(2)七世紀の「神籠石(コウゴセキ)遺跡」を“三世紀の邪馬台国の遺跡”だと、四百年も間違った者は学者ではない。例えば、喜田貞吉は、この狂説(=「福岡県山門郡の女山の神籠石は邪馬台国関連遺跡」)を1902年に発表。久米邦武は同年直ちに、この“噴飯物”喜田説を絶賛。両名は、これにて自爆死。

(3)榎一雄『邪馬台国』は1966年に出版され大いに売れた。私の書庫に、学部在学中に買ったのが、今も紙が黄色に日焼けして残っている。余りに突飛で読むに堪えず、おそらくパラパラめくって首を傾げておっぽり投げたようだ。白鳥庫吉の弟子である榎一雄は東京大学文学部教授。この時、「こんなバカ教授の戯言に給料を支払うのは税金の無駄使いだ/文学部など廃止すべきだ」と考えた記憶がある。津田左右吉を挙げるまでもなく、白鳥庫吉の門下生には、必ず狂気が走っている。

 榎一雄の狂説は、こうだ。魏志倭人伝が伝える“大和盆地までの距離”を、伊都国を円の中心に据えて各地を放射線状に配置し直せば、倭人伝にある日本列島の各地名は全て九州にあるから、邪馬台国は九州なのだ、と。「帯方郡から伊都国までを直線コース。伊都国以下を放射線コースに解すると、倭人伝に出てくる三十国が全て九州に置かれる」(注1、81頁)。これ、“大和盆地までの距離”の改竄。また、倭人伝にある地名も邪馬台国も不在扱いにする“実質抹殺”の作業ではないか。

 大阪や秋田や新潟を東京からの距離で言う場合があるが、それは東京が首都だからである。一方、魏帝国は、「邪馬台国が日本の統一国家」と考え「その都に君臨する女王・卑弥呼」に朝貢の見返りに高級な品々を贈った。が、榎一雄は、邪馬台国の纏向ではなく、伊都国を日本の首都にしてしまっている。榎一雄は、精神病院から脱走して東大で授業していたらしい。

 この僅かな例示だけでも、「邪馬台国《九州》説」は論理的に成立しないのがわかる。日本の学界は、日ロ戦争の頃から、江戸時代の武家階級の消滅と時期を同じくして、極左一辺倒に走り出した。薩長が推進した明治維新は、極左人士を養成する赤い土壌を日本中に撒き散らした。

 ともあれ、日本古代史の歴史の真実を復権させなければ、日本の国家死滅は避けられない。古代史学界を、“歴史の真実”「邪馬台国《奈良盆地を首都とする大和朝廷》説」に満ち溢れさせねばならない。そのためにも一般国民が、どの学者がどちらの説を唱道したかの事実を知ることが大切。少なくとも表1ぐらいは知ってもらいたい。

表1;本居宣長一派を除き、九州説は皆、天皇制廃止勢力?(備考1)

(備考1) 久米邦武『日本古代史』は、大逆事件の行動者に与えた影響において、中江兆民のルソー論に次ぐ。喜田貞吉は部落解放同盟のイデオローグの一人で天皇制廃止論者。白鳥庫吉は、皇室憎悪感情をちらりと垣間見せる。津田左右吉の“人民の天皇”奉戴論は、天皇制廃止と紙一重。天皇制廃止一色の井上光貞は日本共産党員。安本美典は共産党員・南博の愛弟子で、正気とは思えぬ「卑弥呼は天照大神」を吹聴。高天原・日向三代・初期天皇の歴史を四百年間分ばっさり抹殺するためだろう。

(備考2) 内藤湖南の論文発表後は、一時期、「邪馬台国=大和朝廷」派が学界の絶対多数説となった。これは白鳥庫吉系の東大でも同じ。が、それから百年を経た今日、「邪馬台国=大和朝廷」派が絶対多数になった気配はない。「邪馬台国=九州」派と拮抗しているように見える。記紀を罵詈讒謗して否定する効果も抜群の「邪馬台国=九州」説は、天皇制廃止のスプリング・ボード。古代史学界を支配する共産党が、「邪馬台国=九州」説の消滅を拱手傍観するはずはない。

 次にどうするかだが、一般国民が邪馬台国をめぐる五百点を超える書籍や論文を読むのは無理だし、実際的でもない。学校教師用に、最低限読むべき最優良論文を集めた本を出版するなら、何らかの効用も生まれよう。表2がそれ。この五本の各論文はかなり薄め。五本全部でも分厚くならず、普通の本の厚さ。どこかの出版社がやってくれると有難い。「解説」は私が無報酬で書いて差し上げる。

表2;出版すべき最重要論文集『邪馬台国は大和朝廷、卑弥呼は百襲姫』

 (備考)上記五本の論文は、全て著作権法の対象外。

帯方郡を創設した(日本と親密な)公孫氏を滅ぼした魏の対日侵攻を恐れた大和朝廷

 私が学者・笠井新也に敬意を払うのは、私と結論が同じだからではない。笠井新也は本物の学者で、史書を濫りに「訂正」しない“史書尊重主義”を守っているからである。例えば、魏志倭人伝の「水行十日。陸行一」を、日本の多くの古代史学者は、「水行十日。陸行一」に“訂正”する。それなりに妥当で合理的な理由を提示しての訂正だから、この訂正は“改竄”とは言えない。

 つまり、これら「多くの古代史学者」は、「伊都国→大和朝廷」の道程は、最短の瀬戸内海ルートを通るはずとの先入観を絶対前提に、大和川を遡行するとしても陸地内だから「《河内湖上陸→纏向の卑弥呼『政庁』》には丸一日がかかる」現実に合致した合理的理由を挙げて“訂正”している。

 しかし笠井新也は、(山田孝雄を除けば)例外的に、この訂正をしない(注3)。「水行十日。陸行一月」通りに読み、魏が掌握する「伊都国→大和朝廷の都」ルートを探索。まず笠井は、「不弥ふみ=福岡県津屋崎」「投馬国=出雲」とし、この間を20日かかるとした。次に笠井は、この出雲から敦賀までを上記の「水行十日」、敦賀から大和朝廷の都までを「陸行一ヶ月」とした。この笠井説を支持する古代史学者はほとんどいない。が、私は次の理由で全面的に支持する。山田孝雄の論文は、注4。

 なお、敦賀から奈良盆地までの陸路は、この三世紀でも、ある程度整備されており、急げば二週間で可能だったと推定される。なのに、支那人の行程では一ヶ月かかるようにしたのは、多くの地点でわざと遠回りし最短距離を知られないよう、地理・地形情報の攪乱を綿密に実行していたからだろう。

(1)大和朝廷は、国防の観点から、魏帝国やそれ以前の公孫氏・後漢の支那人たちに、瀬戸内海を決して見せない外交方針を堅持していた。瀬戸内海とは、大量の兵力を大阪湾/奈良盆地に急派projectionできる高速道路。だから、魏や後漢の支那人に対し、大和朝廷は「大和朝廷の都に行くには、山道を一ヶ月もかけて歩かねばならない、それほど大変な道程です。貴使節団を大和にお招きできないのは、この理由です。(→「大規模軍隊が容易に踏破できるルートではない」を連想させる)」という偽情報を刷り込むことにした。この刷り込み方法は、伊都国にtransitしたシナ商人/シナ技術者を、この峻険ルートで奈良盆地に送迎して体験させればいい。これらシナ商人/シナ技術者が、いずれ必ず後漢や魏への密告者(informant)になると考え、大和朝廷はこの方法に手抜きしなかった。

(2)“遼東半島の雄”公孫氏は、後漢の気息奄々の衰退に乗じて(後漢の完全滅亡は220年)、楽浪郡の南に自分の富を蓄積すべく“新・植民地”帯方郡を設置した(204年)。大和朝廷の朝貢相手先は、楽浪郡から帯方郡の管轄に移行した。日本の“外交上の宗主国”は、後漢ではなく公孫氏になった。この日支関係は、公孫氏が魏帝国に滅ぼされる238年まで続いた。

 が、「燕王」と称した公孫氏は、238年、魏四万人の大軍に攻められあっけなく滅んだ。帯方郡は魏の直轄領土になった。この事態は、三十年間以上(204年~238年)も公孫氏の「臣下」だった大和朝廷を処罰として滅ぼしてもよい“強大な軍事大国”魏帝国が忽然と日本の眼前に現れたことになる。

(3)第九代開化天皇は、“公孫氏滅亡ショック”の翌239年6月、慌てて伯母の百襲姫を“偽装の国家元首”にし帯方郡に全権大使「難升米」を送り、魏に朝貢する「魏の臣下」になりたい旨を懇願した。回答は思いの他に上出来で、魏の明帝に謁見できただけでなく(239年12月)、“偽装の国家元首”百襲姫が「親魏倭王」に認められ、その証拠として金印紫綬まで授与された。

(4)魏は、240年と247年、日本に特使「梯儁」と「帳政」を送ってきた。真に議論すべき歴史学上の問題は、「大和朝廷はなぜ、両名を伊都国の迎賓館に留めて奈良盆地に迎えなかったか」である。この理由は明快。「奈良盆地の地形・地理を知られたくなかった」「瀬戸内海を知られたくなかった」からだ。それほど“公孫氏が魏に鎧袖一触で滅亡したショック(=魏が対日侵攻するかも知れない恐怖)”は大きく、幕末の黒船四隻以上の余震が大和朝廷を覆っていた。

 おそらく第七代孝霊天皇が180年頃から実行してきた、(奈良盆地にどうしても入れる必要のある)支那人には送迎の監視要員をつけ、「松浦半島の呼子→伊都国→日本海→敦賀→奈良盆地」をそのコースとした、数十年に及ぶ用心深さが功を奏し、魏の特使「梯儁」「帳政」は、共に瀬戸内海ルートを探索できなかったし、その存在すらも知ることができなかったようだ。(山田孝雄とともに)笠井新也が、魏志倭人伝「大和へのルート」を“日本海廻り”に比定したことは、見事だし正解である。

『魏志倭人伝』行程記録は、魏の使節団が大和朝廷に騙され謁見を放棄した証拠物

 なお、魏の特使が伊都国逗留を合意して、強引に大和盆地の「女王」謁見を要求しなかった理由は一つしかない。謁見してから安全に帰国するためには呼子の出航は「最悪でも八月下旬」だが、それが無理と判断したからだ。

 仮に魏の特使が大和「訪問」を強行すれば、“「不弥国→投馬国」の20日間+「投馬国→敦賀」の10日間+「敦賀→纏向」までの陸行一ヶ月”だから合計二ヶ月。それに、「伊都国→不弥国」の3日間の往復もあるから、呼子に戻るまで最低でも「四ヶ月+一週間」かかる。これに“百襲姫の都”纏向滞在10日間を加えれば、伊都国三雲の迎賓館到着が五月下旬だったなら、呼子から帯方郡への帰国開始はどうやら十月半ば。海は荒れ無事に韓半島・金海に辿り着けない危険が発生する。

 魏の特使は、日本側には自分たちだけの往復には(江戸時代の早馬制度のような)時間短縮の方法があり、大和朝廷官吏の宅急便的な往復を信頼した方が、二ヶ月後には「女王」からの返答をもらえて、遅くとも八月上旬までには帰国の途につけると判断したようだ。すなわち、魏志倭人伝が記録する“行程にかかる日数”等は、彼らの旅行スケジュール検討用の資料でもあった。魏の特使に、「伊都国←→大和」往復にかかる日数を、二倍以上に誇張し信じ込ませた第九代開化天皇の巧緻な“騙し外交”力は、日本国民なら頭を下げて敬意を払うべきだろう。

“偉大な史書”記紀を尊敬し修理保守してこそ日本の学者──内藤湖南と中川八洋

 私(中川八洋)の古代史学は、学識は大幅に劣るが、基本態度は碩学の内藤湖南に酷似している。湖南も八洋も、記紀に対し襟を正して尊敬し記紀の護持を絶対とし、記紀の生命を再活性化し永遠にすべく、記紀を修理することを旨とするからである。

 また私(中川八洋)は、津田左右吉の真赤な暴論「記紀は編纂者の述作」を断固“逆否定”すべく日本国民は剣を抜けと檄を飛ばしていることにおいて、坂本太郎が学者として逃避すべきでなかった「反・歴史学の泰斗」津田左右吉に対する学的“糾弾”を、坂本太郎に代理し実践している。

 前者の内藤湖南についてだが、具体的事例を挙げる。内藤湖南は、明治日本における「邪馬台国《九州》説」の異様な大流行に抗して、「『日本書紀』に戻れ!」の趣旨に他ならない、「邪馬台国《大和朝廷》説」を展開した。明治がまさに終わらんとする1910年であった。

 内藤湖南は、自分の「邪馬台国《大和朝廷》説」で、“間違い”「卑弥呼は、垂仁天皇の皇女・倭姫命」としたから、近視眼的な観察では、「卑弥呼=神功皇后」を示唆する『日本書紀』(神功皇后紀66年)を否定しているかに見える。が、内藤湖南も『日本書記』も、『魏志倭人伝』の卑弥呼は「大和朝廷の枢要な女性皇族」とすることで同一立場。実際にも、内藤湖南は『卑弥呼考』の冒頭で、「(日本書紀が)卑弥呼を神功皇后なりと信じたりと断ぜんに何の碍(さまた)げかあらん」と宣言している。

 極左反日勢力が面白おかしく騒ぎたてる“学界の赤い阿波踊り”「邪馬台国《九州》説」は、日本古代史の真実「探索」が目的ではない。『日本書紀』の信用を毀損して、大和朝廷の神武天皇以来の皇統を抹殺する事が狙いである。卑弥呼が、大和朝廷とは別の九州に栄えた「王国の女王」(在位181~248年、薨御の齢八十歳)だとすれば、この三世紀に大和朝廷はなかったことになり、一気に「神武天皇から250年以上の皇統(最低でも九代の天皇)を歴史から抹殺する歴史改竄の口実を創れる。

 神功皇后は四世紀半ばに実在した天皇相当。それなのに、四世紀半ばの神功皇后の実在年を日本書紀が間違って百二十年ほど昔にずらしてしまったのは、“織田信長を超える軍神”神功皇后の実在性を疑しめるし、“赤い悪魔”津田左右吉が流した大嘘「日本書紀は術作である」の傍証ともなる。「邪馬台国《九州》説」のダーティな狙いには、これも含まれている。

 一方、碩学・内藤湖南のように“正しい歴史”「邪馬台国は大和朝廷」を復権すると、神功皇后の実在も“偉大な史書”『日本書紀』の信憑も一気に回復する。内藤湖南の学的功績は計り知れない。

本居宣長の『魏志倭人伝』排斥を、『記紀』排斥に反転させた「邪馬台国《九州》説」

 日本の古代史学界は、天皇制廃止の“反日カルト宗教団体”共産党に完全支配されてしまい、考古学と支那の史書を歴史探索の信頼できる優先方法だとし、記紀を“単なる参考に過ぎない”に貶める。が、歴史学ならば、「記紀こそが、日本国の古代史歴史学の根幹」「考古学と支那の史書は、その補完」とせねばならない。この学的ルールは、一㍉も揺るがしてはならない。この意味で、記紀重視の大学者・本居宣長が、“支那の史書”『魏志倭人伝』を中途半端に蔑視した“不用意な学説”がブーメラン的な逆効果を生んでしまったことは、実に痛恨の限りである。

 ファナティックな国学者・本居宣長にとり、「神功皇后すなわち日本国の大和朝廷が、“野蛮な西戎”支那の魏帝国に朝貢する」ことなど、あってはならない“日本国の屈辱”以外の何物でもなかった。宣長は、魏志倭人伝の卑弥呼を、日本書紀が記載するままに神功皇后だと信じていた。

 だから、むかついた宣長は感情を爆発させ、突飛な思い付き「大和朝廷を偽僭称した熊襲が『邪馬台国の女王(=神功皇后)からです』と触れこんで洛陽に朝貢し、親魏倭王の金印紫綬を貰った。騙したのは熊襲だ。騙されたのは魏帝国だ。この間、大和朝廷はこの問題の圏外にあって、《真正の中国=中華》として屹立(高貴な独立)性を維持していた」を、自分の著書『馭戎慨言 ぎょじゅうがいげん、“野蛮な西戎”支那帝国を制馭する概論』(初稿1777年、刊行1796年)に書き込んだ。が、この内容、一種の邪馬台国九州説になっている。しかも、大学者・本居宣長の言説。ために、その後、『馭戎慨言』のこの部分は、邪馬台国九州説を流行させていく大きな淵源になってしまった。

 が、魏帝国を騙したのは熊襲ではなく、痛快にも大和朝廷である。大和朝廷の外交力は、三世紀の時点で、(「外交力の根幹は騙し」だから)世界屈指の水準。七世紀に発揮された“ビスマルクの化身”天武天皇の外交天才ぶりは、四百年前の第八代「孝元天皇」/第九代「開化天皇」/第十代「崇神天皇」のDNAだったのかと、私は思わず小躍りした。大和朝廷の魏帝国騙しを以下にリストする。

 第一。卑弥呼すなわち百襲姫は、第七代孝霊天皇の皇女に過ぎず、天皇ではない。この百襲姫に「親魏倭王」の金印紫綬を授けたのだから、騙された魏帝国は愚鈍。

 第二。大和朝廷は国防絶対重視の政権で、魏帝国を信用しておらず、魏使節団を奈良県の大和盆地に招き入れず、伊都国(いつくくに)の三雲南小路あたりに建造した豪奢な迎賓館に(来日から帰国まで)三ヶ月弱ほど閉じ込めている。「瀬戸内海→河内湖→大和川→纏向」と使節団を招き入れれば、このルートで魏帝国がいずれ大軍を侵攻させるかもしれない、そう恐れて大和朝廷は、このルート隠しに徹したのである。

 第三。魏の使節団が“神宮の斎宮(斎王)”でしかない百襲姫を“邪馬台国の女王”だと信じて、天皇すなわち国防軍司令官の第九代「開化天皇」/第十代「崇神天皇」に気づいていないことが、魏志倭人伝から読み取れる。この情報秘匿作戦は、いざ魏帝国が日本に侵略する時、日本の防衛戦争=国防にとって決定的に日本有利に働く。「武力に長じない女王しかいない国」と、魏側は慢心すること必定だからだ。つまり、魏の使節団は、国防軍司令官たる第九代「開化天皇」/第十代「崇神天皇」の存在にも、大和朝廷が保有する強大な軍事力にも気づいていない。日本側は、軍事能力capability/軍事態勢posture隠しに大成功している。

 第四。神懸かり百襲姫が仕えた第八代「孝元天皇」/第九代「開化天皇」/第十代「崇神天皇」のうち、二天皇による魏の使節団騙しは、以上に留まらない。相当な嘘話を使節団に刷り込んでいる。「何故、男王でなく女王を擁立しているか」の問いに、「《倭国乱れ、相攻伐すること歴年》。そこで女王・卑弥呼を立てて国内の平定を図りました」「《男王を立てても国中服さず・・・》。そこで卑弥呼の親族から十三になったばかりの《豊鋤入姫命》を女王にしました」などは、天皇(=国防軍総司令官)隠しの全くの創り話。が、この嘘話に、帯方郡の使節団がころりとヤラレタのだから、見事な外交。

 脱線。日本の古代史学者には、優秀なトップ秀才は一人もいない。むしろ劣悪な劣等生がほとんど。このため、彼らは『魏志倭人伝』を正確に読むことはできない。例えば、「黥面文身」を「入れ墨」と誤訳する。日本人はシベリアから侵略してきた異民族アイヌであるまいし、弥生時代でも平安時代でも、(江戸時代以降は別とすれば)「入れ墨」文化を全く有さない。主に漁労を営む弥生時代・日本人男性は、サメや大魚の攻撃を避ける呪文効果を狙い、顔面や身体に塗料を塗りたくる「塗色 ボディ・ペインティング」をした。好んだ色は黒色or朱色のいずれだろう。平安時代以降の日本の仏教界でも(呪いから身を護るため)墨で経文を身体に描くことが多かったが、これも「塗色」。「入れ墨」ではない。

 話を戻す。魏の使節団は、来日前も来日中も、相当数の支那人informantを駆使して、大和朝廷の奈良盆地の都を探査したはず。『魏志倭人伝』記述の行程数字も地名も、彼らのスパイが報告した記録。日本人から聞いた情報はゼロだろう。

 大和朝廷も、日頃から、帯方郡からの商人や技術者(製鉄や鉄製品づくり/絹織物生産など)は、伊都国に止めて大和盆地には入れていないか、入れる場合は朝廷派遣の監視要員をつけて日本海廻りで陸路にしただろう。が、二世紀末、纏向に建立した最新建築手法での巨大建造物だけは、支那人の建築技術者・設計者を入れざるを得なかったはず。魏帝国の使節団が倭人伝に書き留めた、三世紀前半の「百襲姫=卑弥呼」関連情報は、これら支那人二世が主力だったろう。

 だが、これら支那人やその子孫(=臨時諜報員)が、大和盆地の現場を直接観察しても、どうしても解せない事象があった。第七代/第八代/第九代/第十代天皇の御所・宮殿(=皇居)は小さくみすぼらしく、この皇居近くに並び立つ神宮「斎の宮」(=百襲姫)の祭殿(神宮)や政庁の方が、前者の十倍以上という規模の相違。われわれ日本人は、京都御所の小ささと伊勢神宮の巨大さから、祖先崇拝教とはこのようなものだと理解できる。が、「政治権力=宮殿の規模」の支那人には無理。これも決め手となり、上記四代の天皇のうち、後者の二天皇は、魏使節団に“虚像”「百襲姫=国家元首」刷り込みに成功したようだ。

 話を本居宣長に戻す。本居宣長にとり“記紀は押し戴く最高の史書”。一方、魏志倭人伝は“穢れた蛮族”支那人の戯文。が、『馭戎慨言』から百五十年以上が経った、大東亜戦争破綻の1945年8月と同時に、日本の古代史学界では「魏志倭人伝こそ日本国の歴史を語る最高の史書」「記紀は参考程度にチラ読みしかしてならない嘘満載の歴史小説」が学界の絶対ルールになった。まさに本居宣長の評価基準が百八十度逆に転覆されたのである。邪馬台国《九州説》は、この転倒状況を維持させるに効能抜群。共産党系煽動家の安本美典などは、かくして元気百倍、邪馬台国《九州説》を煽り続けた。

 記紀も魏志倭人伝も、われわれ日本人が等しく尊敬して大切にすべき史書。両者に差別の物差しを入れる必要はない。このためにも、邪悪な意図からの“反・歴史”「邪馬台国《九州説》」は、断罪的に死滅させねばならない。

笑止な「邪馬台国《東遷》説」──首都の国内移転はありうるが、国家“丸ごと”移動など無い

 私が初めて奇々怪々な「邪馬台国東遷説」を知ったのは、井上光貞の『神話から歴史へ』(中央公論社)を読んだ時で1965年。本郷三年生だった。「東大の文系教授は赤い上にアホバカばかり。井上光貞は、この典型」と心底から驚いた。それ以上に「国家が移動する」など、どんな頭なら発想できるのか、と不思議でならなかった。

 神武天皇の東征のように人間は移動する。が、国家は万が一にも移動しない。伊都国が移動して大和朝廷の日本国になったのではなく、伊都国の神武天皇が大和に入り、日本国を建国した。

 数千年の人類史に国家の移動は一件もない。このことは、米国を思い浮かべれば簡単にわかるはず。米国は、英国から移住・植民した英国が、数百年かけ建国した。英国という国家が移動したのではない。英国は米国が建国されても昔のままだし、現在も昔のまま大ブリテン島にある。オーストラリア国も、英国が移動した国家ではない。これもまた、英国が豪州大陸に移動した結果である。

 国家の膨張や分国は、このように人の移動によって発生する。ロシアは1480年にモンゴル・キプチャク汗国に婿入りし(備考)、モンゴル帝国を後継するモスクワ公国(現在のモスクワの中心部だけの小さな領域)という国家をスタートさせた。その後のロシアは、チンギス・カーンを継いで(支那人を除けば)世界最凶悪な膨張(侵略)民族文化を大爆発させ、その人口増加分を東に西に南に移動し続けた。

(備考)ロシア初代皇帝・イワン雷帝は、血統では「モンゴル人の血が八分の七、父系のロシア人の血が八分の一」。母も祖母も純血のモンゴル人だったからだ。なお、イワン雷帝の妻もまた純血のモンゴル人。

 ロシアは、この膨張文化を発揮して、1945年から日本の“固有の領土”樺太/北方領土・千島諸島を不法占拠(=侵略)し、今に至っている。ロシア国は、モスクワ等のロシア欧州部をフィンランドやスウェーデンに割譲して、極東に引っ越してきたのではない。

 話を日本の古代史に戻す。邪馬台国とは、伊都国人・神武天皇が、紀元ゼロ年前後、伊都国から大和に移動して建国した“大和朝廷の日本国”のことであって、それ以外ではない。伊都国は引っ越しなどしていない。伊都国は、魏志倭人伝の三世紀、その国王は大和朝廷の一官吏扱いになってはいたが、形式上は三百年昔のままだった。国家はこのように滅ぶことはあるが、引っ越すことはない。

狡猾で悪辣な人格の“過激共産革命家”井上光貞の、“赤い歴史改竄”の手口を暴く

 話を井上光貞に戻す。「邪馬台国九州説」など噴飯物で、学問の世界では一切成立しないのは小学生でもわかる。九州には、それらしき場所も遺跡も発見されていない。魏志倭人伝はどう読んでも邪馬台国は大和だと断じており、微塵も悩むようなことはどこにも見当たらない。そこで、ダーティな井上光貞は、あらん限りの真赤な嘘をでっちあげる。正気ではない。

 その一つが、“大和説の巨頭”和辻哲郎が、まだ若かった31歳の時の「九州説」を、延々と二頁に亙って引用し絶賛する(注5、284~5頁)。学説は、文系理系を問わず、全世界共通して最終のをもってその学者の説とする。和辻は『日本古代文化』の1920年初版を、五十歳になった1939年、改稿し180度逆の「大和説」に転向した。これが1951年に再版され、戦後日本で広く読まれた。

 井上光貞の『神話から歴史へ』は1965年刊。『日本古代文化』を引用して、和辻哲郎の邪馬台国論を論じる場合、1951年版を使うこと以外、学界では許されない。が、凶悪な共産革命家・井上光貞には、良心もなければ学界のルールも何にもない。

 もう一つ。前述した榎一雄のトンデモ法螺話「伊都国が日本の中心」として、行程の大改竄的な曲読を、これまた二頁半に亙って紹介している(注5、260~62頁)。だが、この場合、投馬国の方が(水行10日の)邪馬台国より、(水行20日だから)伊都国からはるか遠くに位置し、辻褄が合わない。だが、“大嘘吐きの赤いペテン師”井上光貞は、「邪馬台国は筑後川の山門郡、投馬国は宮崎県の西都原あたり」だと嘯く(注5、266~7頁)

 魏の使節団は、呼子・伊都国から大和朝廷の都へのルートを確定して、魏の皇帝に報告しなければならないのである。魏志倭人伝に真剣さが漂っているのは、このためである。一方、井上光貞は、上記のように、邪馬台国の都に行くルートは九州をぐるりと一周して、「伊都国から宮崎県の西都原に行き、それから筑後川の下流域(=邪馬台国の都)に戻る」と主張する。これではお笑い芸人の悪ふざけである。

 井上光貞は、歴史学者としては完全に狂っている。共産党員・共産主義者は人類史上最も凶悪な狂人ルソーやレーニンを礼拝する狂気のカルト宗教信者だから、“狂人”井上光貞もその一人にすぎないと思えば、別に驚く必要はないが。ともあれ、井上光貞が好例だが、「邪馬台国九州説」で、論理破綻していないものは、このように一つもない。「邪馬台国東遷説」は、論理破綻以前の、幼児の戯言。

 

1、榎一雄『邪馬台国』、至文堂、81頁。

2、那珂通世の『上世年紀考』は、学問業績として最高級に一流である。が、それ以外は、「邪馬台国九州説」など、彼には褒められるような業績は何一つ無い。

3、笠井新也「邪馬台国は大和である」『考古学雑誌』第12巻7号、1922年。

4、山田孝雄「狗奴国考」『考古学雑誌』第12巻8号、1922年。

5、井上光貞『神話から歴史へ』、文庫版、頁数は本文。

附記;邪馬台国or大和朝廷成立の歴史をめぐる、中山平次郎と和辻哲郎

(1)和辻哲郎

 和辻哲郎は1920年の時点、「邪馬台国《九州》説」だった。しかし、人格が素直で常識人の和辻は、1939年の改稿版では180度転向し、「邪馬台国《大和》説」を展開した。これを論じた和辻の本が『日本古代文化』(岩波書店)。その初版は1920年(31歳)。改訂版が1934年/改稿版が1939年(50歳)/新稿版が1951年。すなわち、和辻の邪馬台国論を知りたい場合、改稿版か新稿版を読むように。

(2)中山平次郎

A、大和朝廷成立の歴史は、中山平次郎の説が、私に最も近い。中山は、考古学的研究から、博多から筑後川まで版図だった「奴国」が神武天皇のもとに東遷して大和朝廷を形成したと考えた。これが、俗に「奴国東遷説」と言われる、1931年に発表した論文「邪馬台国および奴国に関して」(『考古学雑誌』21巻5号)。その基本主張は、次。

①「《邪馬台国=九州》説は、畢竟、机上の空論である」。

②三種の神器と古墳の原型の共通において、神武天皇に率いられた奴国が奈良盆地に移動して大和朝廷が生成・発展した。

③神武東征の時期は、金印「漢倭奴国王」授与57年のすぐ後で、一世紀後半の中頃か(70年?)

B、中山は1950年に「考古学上から見たる神武天皇東征の実年代」(『九大医療』1950年12月号/51年2月号)を発表し、二十年前の1931年論文を補強した。内容は、基本的には1931年のとほぼ同じ。

C、中川八洋は「神武天皇の御出撃は、伊都国・唐津湾から紀元前10年→大和朝廷“建国”」。中山平次郎は「神武天皇の御出撃は、奴国・博多湾から紀元後70年→大和朝廷“建国”」。この相違が発生した理由には、いくつかある。

第一;有田平原遺跡の発掘は1965年。中山先生の没年は1956年で、平原から発掘された遺物を御存じでない。平原遺跡を三雲・井原遺跡と総合すれば、奴国の須玖岡本に比べ、伊都国が大和朝廷の直接の母国なのが一目瞭然。中山先生の逝去が惜しまれる。

第二;中山平次郎は考古学的研究から結論し、私のような「くじふる山/日向峠/干拓前の唐津湾東部/今津湾西部などの伊都国の風景と記紀記述の一致性に関する研究」をなされておられない。

第三奴国東遷の立場だから止むを得ないが、中山は、「漢倭奴国王」金印に呪縛されすぎて、神武東征をその後とした。が、神武天皇が“伊都国の人”ならば、金印と神武東征とは無関係。神武天皇東征の年代特定はもっと早まり、私とほとんど同じ頃になったのではないか。

第四;中山は、奴国王に仕えた、福岡県糟屋郡や志賀島を支配した“海人族”安曇氏が、神武天皇の奈良盆地南部制覇の直後、神武天皇の下にはせ参じたとする。これは『日本書紀』応神天皇紀/履中天皇紀/舒明天皇紀その他から、史実的に正確。また、弥生中期・後期の福岡県の安曇氏は大阪湾までの舟を十分量保有していた。造船技術に長けており大量新規造舟など簡単だった。

 が中山は、この史実一つをもって、奴国の中枢部がごっそり大和に移動したとする。これはあり得ない。なぜなら、魏志倭人伝は(紀元後240年頃の)奴国の人口を約十万人としており、人口減は起きていない。

 伊都国が総力を挙げて神武東征を成し遂げたとする私ですら、伊都国から大和への移住人口は15%ぐらいと仮定している。紀元ゼロ年の伊都国人口が三万人なら、神武東征成功後の伊都国からの奈良盆地移住は「四千五百人」。しかも、この移住に十年の歳月をかけたとする。なお、数字「三万人」は、『魏志倭人伝』が伊都国人口を約五万人としており、240年前はこの六割と仮定した。

 奈良盆地には既住者がおり、水田が急激に増えるわけではないので、新規人口を急激に増やせば餓死者が発生する。年平均五百人規模の新規移住者「受け入れ」なら、水田拡張の速度をオーバーすることはないだろう。 

(2021年9月6日記)

 

 

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