ゼレンスキー閣下の国会演説「基礎知識」解題

Pocket

筑波大学名誉教授    中 川 八 洋

 3月23日、日本国の衆参両議院議員(515名)を前に、ウクライナ大統領ゼレンスキー閣下のon-line演説(12分)は、日本国内に多大な感動と感銘を与え、日本の国論をウクライナ防衛戦争の支援一色に強く糾合した。日本の憲政史上にその名を留める実に見事で称讃さるべき演説だった。

 この演説、暫くは日本の巷間を賑わすだろう。これを考えて、演説内容の分析ではなく、語彙や表現方法に限った私のメモを記しておきたい。教養ある日本人には、このようなものは全く不必要だから、多少ご無礼になる。ご海容されたい。

 ゼレンスキー「日本」演説を、3月8日の英国国会演説、3月16日の米国国会演説と比較すると、トーンも内容も全く異なる。対英米では武器援助や「烏」領土上空への飛行禁止空域(air‐cover)の設定など、喫緊のロシア侵略軍撃退のための軍事的要請が中心。一方、日本では、そのような分野には一言も触れなかった。が、ここでは、このような相違分析などをする積りはない。

 ゼレンスキー「日本」演説の特徴の筆頭は、女性が執筆陣に加わっているだけでなく、ゼレンスキー大統領の妻オレーナ氏など女性が主導した文章であることに尽きる。必然的に、対英米演説文とは顕著に相違が起きて当たり前。日本人・中高年女性の多くが、ゼレンスキー「日本」演説に感動したのも、この特性からの当然の結果。実際にもオレーナ夫人が、日本の童話『桃太郎』『二匹の蛙』のオーディオ本づくりに参画したことまで言及されている。

 また、執筆陣に日本文学の専門家が入っている。どうも、“俳句や連歌を嗜む日本人”を出発点にして、日本人に忖度させる/連想させる内容にし、具体的な語彙と直接的表現を極力避けている。例えば、次のように、「福島第一原発事故(2011年)」「地下鉄サリン事件(1993年)」「日本の奇跡の戦後復興(1945~55年)」等を示唆している内容が羅列されているのに、それを指す具体的な語彙はいっさい使用されていない。

表1;日本人の心を捉えた、ゼ大統領演説が省いた具体的語彙

(備考)訳には、主としてウクルインフォルム(烏の通信社)を使った。

死を覚悟しているゼ閣下の心境が滲む日本の軍歌「敵は幾万」(←司馬遷『史記列伝第49』)

 日本では余り指摘されていない、ゼレンスキー大統領演説にウクライナが潜ませた、唯一の軍事分野の文がある。実に短いものだが、かつての日本人の武士道の精神に乗っ取って命を捨てる覚悟でウクライナ防衛を完遂するとの決意の宣言である。見事な文で、私は、感動で体が震えた。

「私たちの軍人は既に28日間ウクライナを英雄的に守っている。28日間、世界で最大の規模を持つ国から、全面的な侵攻を受けている。しかし、その国は(軍事)能力面では最大ではない。さらに(世界政治に与える)影響力も最大ではない。そして、倫理面では最小である」。

 これは、日本の軍歌「敵は幾万」をもじっていると考えられる。原詩は山田美妙斎(本名は山田武太郎)で、明治19年に彼が出版した『新体詩選』に収録されている、題「戦景大和魂」の八章詩。作曲は小山作之助で、明治24年(1891年)に、上記八章のうち三章を歌詞にした歌曲を発表。

 この名曲が流行した最初は、日清戦争中であった。「卯の花の 匂う垣根に…」で始まる、あの名曲「夏は来ぬ」(1896年)を作曲した小山作之助の作曲だけあって、1930年代の大東亜戦争でも陸軍の軍歌として好まれ、今でも自衛隊の各軍楽隊が公式の場でよく演奏している。

 「敵は幾万」が収録されている昭和六年のレコード盤『世界音楽全集19 流行歌曲集』をお持ちの方は、twitterで流して頂きたい。著作権はもうないはずだから。ちなみに、ゼレンスキー閣下の国会演説に敬意を表したく、「敵は幾万」の歌詞一番から三番を以下に抜粋する。一番のゴチック部分が、ゼレンスキー大統領「日本演説」の一部として採用された部分。

 一番「(ロシア)は幾万ありとても すべて烏合の勢なるぞ・・・味方(ウクライナ)に正しき道理あり 邪(ロシア、侵略者)はそれ正(ウクライナ、被侵略国)に勝ち難く・・・」(丸カッコ内中川)

 二番「風にひらめく連隊旗・・・旗は飛び来る弾丸に破るる事ことこそ誉れなれ 身は日の本の兵士(つわもの)よ 旗に愧(は)じそ進めよや 斃(たお)るるまでも進めよや・・・・・」。 

 三番「敗れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身の誉れ 瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや 畳の上に死ぬことは 武士のなすべき道ならず・・・・・」。

 なお、山田武太郎は、この詩を創作するに、司馬遷の『史記列伝第四十九』を下敷きにした。朝鮮半島へのロシア南下の迫る危機に、匈奴と戦い続けた前漢の名将軍「李広将軍」の勇猛と潔清をモデルに、明治新政府ができて間もない混成陸軍に“武士道の精神”再構築を謳いあげたのである。

 李広将軍の最期は自死であった。匈奴との戦いを総帥する大将軍の麾下で中将軍、今でいう数万人の兵卒を率いる軍団長だったが、道に迷い、大将軍が待つ“匈奴の王”単于(ぜんう)との一大決戦場への到着に遅れた。李広は、抗弁せず、その責任を取り、「ついに刀を引いて自ら首を剄(くびは)ぬ」と、自らを自らの刀で死刑に処した。

 ゼレンスキー大統領の日本演説文草稿づくりに参画したウクライナの学者が、日本陸軍の軍歌「敵は幾万」を知っていたことは解る。しかし、それが司馬遷『史記列伝第四十九』を素材にした詩だと知っていたか否かはわからない。仮に知っていたとすれば、死を覚悟しているゼレンスキーに、司馬遷が称讃して已まない李広将軍を重ねたことになる。

【蛇足】 松坂桃李という俳優がいる。これ本名。父親(東京福祉大学教授、心理学)がこの『史記列伝第四十九』から「桃李」を採って名付けた。母親もどこかの文学部の先生なのか、父親と同じく、『古今著聞集』にある「櫻梅桃李」から桃李と名付けたと言っている。立派な両親である。

演説冒頭は、日烏関係を“七夕祭りの織姫と彦星”の話に譬えた? or私の錯覚?

 以下に述べることは、全く自信がない。ただ、私の脳裏を一瞬巡ったので、それを日記的に記録しておくものである。読者は笑って読み飛ばされて頂きたい。ゼレンスキー大統領は、日本とウクライナの“精神の連帯”を冒頭でアピールしたが、次がそれ。

「両国の首都キーウと東京とは8193㎞離れている。・・・しかし、日本国民とウクライナ国民の自由の感覚には距離はない。生を望む気持ちに両国民には距離はない。両国民の平和を希求する気持ちには距離が無い」。

「侵略が開始された2月24日、私は、日烏間に8193㎞の距離があるなど全く感じなかった。東京とキ―ウの間の距離は一㍉も無かった。両国民の気持ちには一秒の距離も無かった。なぜなら、日本は直ぐに支援に駆けつけてくれたからだ。・・・・・」。

 この冒頭演説にほんの一瞬だが、「今日は7月7日だったけ」と頭が混乱した。次の瞬間、「そんなことあるわけない、3月23日だ」と思い直した。が、日烏間の感情と精神における絆を瞬時に形成するに、彦星と織姫が時空を超えた天の川でワープ邂逅する故事を、日本人にremindさせたのではないかとの思いは、12分のスピーチが終わった後も、私の頭からは消えなかった。以上は、私の個人的な日記である。読まなくてよろしい。是非とも忘れて頂きたい。

                                               (2022年3月25日記)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です