樺太“武力奪還”の好機は決断の日──“英雄”ウクライナの闘う“領土奪還”精神こそ日本の鑑

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筑波大学名誉教授 中 川 八 洋 

「皆さん これが最後です さようなら さようなら」

 これは、稚内市内の公園に建立された、真岡郵便電信局の電話交換手九名の自決を悼んだ「九人の乙女の碑」と呼ばれる慰霊碑に刻まれている。米英豪華四ヶ国が守った8月15日午前0時停戦から五日も経った、ポツダム宣言違反の8月20日に真岡に武力上陸=侵略したロシア軍の兵士からレイプされるのを潔くせず、青酸カリで自死を選んだ若き日本女性のうちの一人が、自決直前に打った今際の際の言葉。

 が、この慰霊碑の左横に立つ「碑文」は、真赤な嘘の羅列。これほどの歴史改竄は、共産党員かKGBロスケでなければ不可能。文章の稚拙さや稚内市役所公務員の半数が共産党員であるのを考慮すれば、前者だろう。

戦いは終わった。それから五日(後の)昭和20年8月20日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時、突如、日本軍との間で戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死をもって己の職場を守った

 窓越しに見る砲弾の炸裂。刻々迫る身の危険。今はこれまでと‥‥青酸カリを飲み、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた戦争は再び繰り返すまじ平和の祈りを込めて尊き九人の霊を慰む」

 ①8月15日は、日本政府の前日のポツダム宣言受諾通知後、大元帥陛下の昭和天皇が陸海軍の全部隊に対する停戦命令(玉音放送)。終戦ではない。「戦いは終わった」は終戦を指し、停戦を指さない。米戦艦ミズーリ号での9月2日の日本の降伏調印が、大東亜戦争における日本国の敗北で終戦。十三世紀の野蛮人ロシアは近代戦争の「停戦」が解からないし一切無視。相手が降伏するまで戦闘を止めない。だから、占守島ほかクリル諸島(「千島諸島」)&北方四島へのロシア侵略は、米英華豪が停戦した8月15日午前0時を過ぎること約三日後の8月17(18)日に開始。

 ②交戦国間の停戦を無視した「8月20日のロシア軍の真岡町侵略&三千五百名以上のロシア兵“上陸”に対し、同日、日本陸軍で応戦したのはたった一人、広瀬保・軍曹のみ。広瀬は拳銃一丁でロシア軍に立ち向い戦死。広瀬軍曹ひきいる第一大隊「監視哨」分隊は、砲一門と兵員十名だったが、広瀬は部下の兵隊九名を後方に退避させ、砲を分解・破壊し、単身、敵兵力に突撃した。日本陸軍(第25連隊第一大隊)の応戦は、真岡町からロシア軍が豊原を目指し進軍し始めた8月21日の朝。

 真岡町ほか西岸一帯の防衛を担当する歩兵第25連隊は既に連隊旗を18日に焼き、古参兵を除隊させ(樋口季一郎の命令、五百名の除隊は連隊五千名の一割だが、これにより連隊機能は三割低下した。GRUロスケ樋口はロシアと通謀し、第25連隊の戦力を削いだのである)、武装解除の準備を進めていた。真岡町を直接守る、同連隊第一大隊は8月20日、真岡町からすでに1.2km退却し、荒貝沢の谷に野営。

 無能で無気力な樋口季一郎・陸軍中将が第五方面軍司令官の陸軍は、ロシア軍は北緯50度の日露国境から陸路で南下するとし、主力が海上から上陸作戦で行う当り前を想定から排除した。常識でもわかるロシア軍主力の海上侵攻を想定していれば、海軍から機雷を調達して樺太西岸の港に万遍なく設置し、ロシア軍上陸を三日間ほど遅らせ、もっと多くの避難民を北海道に送り届けていた。ユダヤ人“救出”の樋口季一郎の人間性や人格を脇に置けば、軍人として樋口は三流以下のクズ。“反共・反ソ・ロシア通”根本博中将という本物の一流軍人と比較すれば、明瞭ではないか。

 ③青酸カリを服毒した真岡郵便電信局の電話交換手十名(うち一名は蘇生)の、その服毒時間は8月20日午前6時半~7時の間。第一大隊がロシア軍と荒貝沢で交戦する二十四時間以上も前。が、上記碑文は、真赤な創作「上陸ロシア軍部隊と日本軍が、この港で交戦した」を法螺吹いている。

 真岡侵略のロシア軍は真岡港に午前6時頃から続々と上陸。郵便局は港から徒歩十分だから、午前6時半頃にはロシア兵が郵便局前をウロウロ。これが郵便局内から窓を通してよく見えた。そして、年長の高石ミキがまず服毒し、次々と続いた。二名の女性は服毒しなかった。

 が、上記碑文は、「砲弾の炸裂に恐怖して服毒した」と嘘小説が創作されている。郵便局の前には艦砲射撃の砲弾は落ちていないし、窓ガラスは一枚も壊れていない。ロシア兵からの集団レイプに恐怖し屈辱を拒否し誇りのために自死した。職に殉じたのではなく、節に殉じたのである。

 ④戦争が九名の若い日本人女性を服毒自殺させたのでない。ロシアに日本を侵略させたことが、彼女たちの青酸カリ自死の唯一の原因。つまり、彼女たちの尊い死はわれわれ日本国民に、「ロシアとは、決して中立条約/不可侵条約/平和条約を締結してはならない」との戒めを遺した。

 我々が、彼女たちの自死を真に哀悼するならば、稚内公園の「九人の乙女の碑」を樺太真岡町に移設する事。このためにも“日本固有の領土”樺太を奪還し、真岡町をロスケが一人もいない日本国民で繁栄する町に復興しなくてはならない。日本人よ、「九人の乙女の碑」の前で、樺太“奪還”を誓おうではないか。

昭和天皇御製(昭和43年)「樺太に命を捨てし たおやめ(手弱女)の 死を思えば胸迫りぬる」

第一節 ロシア軍の“樺太侵略・樺太併呑”と樺太“悲惨”

 ロシアが侵略した樺太は、満洲に比すれば、陰惨さが少しマシだった。満洲の地獄を一千度の灼熱地獄とすれば、樺太の地獄は三百度の火炎に包まれた事態で済んだ。この差異は、峯木十一郎(第88師団長)が、軍事能力的には劣等だが、スターリン崇拝者で占められ一般邦人”殺し“を快楽した関東軍参謀部とは百八十度に異なり、避難民保護を軍事作戦の中核にしたからだ。

 例えば、第一大隊の仲川隊長は、8月20日、真岡から避難する町民に対して、軍の糧食や被服を支給し、豊原方向への避難を指導している。一方、満洲では、百七十万人と推定される一般邦人が一人残らずソ連軍に殺戮され/餓死・凍死で死ぬよう、関東軍全体に一般邦人への手助けを禁止した。つまり、第88師団では師団長や将校が、ほとんどGRUや共産主義者ではなかった。

 それでも峯木は、極度な“ロシア白痴”で無能だったから、ロシア軍の北緯50度の国境線からの陸路侵攻はあくまでも陽動作戦=従作戦で、ロシア軍の主作戦が「真岡上陸→豊真街道→豊原占領」だとは、すぐには直覚できなかった。即ち、真岡や本斗や恵須取など西岸の港“防衛”の機雷封鎖が日本側の主たる作戦とあるべきに、第88師団は機雷を一ヶも保有していなかった。

 尚、GRUロスケと目される樋口季一郎は、8月9日~21日では全く安全だった豊原に一度も飛ばず、樺太の現地戦況を視察しようともしなかった。この、GRUロスケの“怪しい軍人”樋口季一郎の暗愚と無能ぶりを(1)(2)で紹介しておこう。

(1)8月22日午後12時10分の停戦協定の締結は、“スーパー暗愚”樋口季一郎の異常な誤判断

 軍事知見に欠ける樋口季一郎は、ポツダム宣言の停戦を無視し侵略し続けるロシアと「停戦しても停戦にはならない」と考える知力すら無かった。だから、第88師団に対ロ“現地停戦”を命じ、これが、さらなる一般邦人の虐殺に繋がるとは予想しなかった。しかも、樋口季一郎が停戦を決断したのは8月21日。樋口は、自分で沈思・周到に考えたのではなく、GRUで凶悪な共産主義者・朝枝繁春の満洲からの8・21脅迫電報に吃驚し従っただけ(戦史叢書『千島・樺太・北海道の防衛』、509頁)

 実際にもロシアは、この停戦協定の成立をもって、“樺太の日本人のロシア奴隷化”を日本側が了解したと解した。そこで、「お前たち日本人よ、これからは“新しい支配者”ロシアの奴隷だ。樺太から出ていくことは許さない」を日本人の骨の髄まで叩き込むため、見せしめで、停戦協定締結から五時間後の午後3時30分~4時20分、豊原駅前に集まっていた避難民五~六千人を目標に、航空機九機から「爆弾六発、焼夷弾二十発」を投下した。五百名ほどが死傷した(仝上、戦史叢書、510頁)。ロシアのこの“恐怖による統治”方式は、十三世紀にチンギス・カンが日常に実行したやり方。ロシアとは、チンギス・カン政治・軍事を踏襲する十三世紀の超・野蛮国。

 尚、先述の朝枝繁春(中佐。参謀本部の関東軍担当。戦後、日共に入党し党籍を自慢し威張っていた)の、樋口を恫喝した脅迫電文が次。

(おい!樋口よ)自衛行動に名をかりて戦闘を続くる時は、爾後満洲及び北東方面の将兵は名状すべからざる痛苦に遭遇すべし」(仝上、戦史叢書、509頁)

 この電文、ワシレフスキー元帥(対日侵略総司令官)が朝枝に命令したもの。樋口がGRUロスケだとすれば、GRUとしては上席である朝枝が、「(おい!樋口よ)GRUの仕事もしっかりやれ!」の電文を送ったことになる。こう解釈した方が、全体的には整合する。

(2)「三船遭難」は8月22日早朝。峯木師団長に「停戦協定は直ちに中止!」を命じなかった樋口

 樋口季一郎は度し難い“無能”将軍。留萌沖での樺太引揚船三隻へのソ連潜水艦二隻の攻撃は8月22日午前4時半に始まり、日本人1708名が溺死・爆死。この事態を樋口は、樺太で停戦交渉が始まった午前10時半より前に掴んでいた。樋口が、通常の司令官で正常な人間なら、直ちに樺太師団に停戦交渉を「中断せよ」と打電している。樋口季一郎には「通常」「正常」が無かった。

 小笠原丸へのソ連潜水艦の魚雷攻撃は、8月22日午前四時半に始まり、小笠原丸は、ソ連潜水艦の魚雷を一発喰らって沈没。第二新興丸(海軍の特別砲艦)は、午前五時過ぎに船尾を雷撃されたが、浮上したソ連潜水艦と交戦しこれを撃破。ソ連潜水艦一隻がこれにて沈没し(備考)、ために留萌港に入港できた。泰東丸は、午前十時ごろ、残るもう一隻のソ連潜水艦の魚雷攻撃で沈没。三船の被害は、ほとんど婦女子で1708名が死亡。

(備考)戦後しばらく経って、あるダイバーが、ソ連潜水艦の証拠となるその残骸を海底で発見した。が、連絡を受けた日本政府は、ソ連潜水艦だとわかる残骸物の引き上げを拒否した。

 四隻目「能登呂丸」の被害も忘れてはいけない。同船は避難民を迎えに樺太に向かう宗谷海峡で、ソ連軍機三機の攻撃で轟沈。これは午後三時。つまり、停戦協定調印の三時間後だった。

 この「8・22引揚げ船四隻への国際法違反の暴虐な攻撃」は、停戦交渉にやってくる日本側に「引揚げは認めない。引揚げは樺太全島強制収容所の囚人となった四十万日本人の脱走!」を肝に銘じさせるロシア流の他民族支配のやり方。避難する日本国民の生命を守るには、停戦せずに自衛行動を続けるしかない。ポツダム宣言に従った停戦はロシア軍が遵守すべきで、日本側から現地停戦を持ち出してはいけない。

 尚、樺太の第88師団本部(特に鈴木康生・参謀長)も第25連隊長(山澤饒・大佐)も、良心ある通常の人間で軍人としても正常だった。樺太師団には、このような軍人兵士が(戦闘能力を別とすれば)多数を占めていたので、樺太・日本人口四十万人のうち約十万人が(もっと迅速にやれば二十万人“疎開成功”になったが)、8月24日までに北海道に脱出できた。

 一方、満洲には一般邦人が170万人以上いたと推定できるが、悪魔の関東軍参謀部は、三つしかない港「旅順、大連、営口」の三港すべてをさっさとソ連軍に渡し、一人の日本人も満洲から脱出させなかった。生き残っていた満洲の一般邦人105万人(170万人の六割)を救出したのはマッカーサー元帥と蒋介石。日本政府も関東軍も彼らに手を差し伸べることはなかった。

 話を戻す。樺太では8月25日にロシア占領部隊(海軍歩兵三ヶ大隊、1600名)が大泊に上陸し、これをもって、日本側による日本人避難“行政”は終焉した。尚、この25日、大泊に集結していた避難民2万人はロシア兵の掠奪暴行で阿鼻叫喚の地獄図になった。

 結果論だが、樺太と北海道の日本軍は全力を挙げ8・25のソ連軍「大泊」上陸部隊と死闘し、大泊に集結の二万の日本人を引揚船に乗せ北海道に送るべきだったことを考えれば、ロシア軍との現地停戦協定は(仮に締結しても)8月26日以降でなければならなかった。私が樋口のポストなら、ポツダム停戦違反のロシアとは万が一にも現地停戦協定は締結していない。9月2日の戦艦ミズーリ甲板上での日本降伏=終戦まで、自衛戦闘を続けさせている。

(蛇足1)日本政府は未だ、ソ連側も認め確定している、国際法違反の残忍・暴虐な二隻のソ連潜水艦を「国籍不明」として「ソ連」に修正していない。歴史の改竄と嘘歴史の宣伝を自民党政府が率先垂範して行った。“ロシアの奴隷”自民党政府は日本国の名誉を棄損しその安全保障を破壊するのを国策の中核に据えてきた。日本国は亡国一直線だが、当然。「日本国は滅び地球から消える」のは、もはや時間の問題。

(蛇足2)朝日新聞は8月22日になると、陸軍輸送船「対馬丸」にただ乗りした沖縄県の小学生「疎開児童」が米軍潜水艦に撃沈され大量の溺死者を出した「1944年8月22日」を大キャンペーンする。米国と戦争中に九州から沖縄に兵器をピストン輸送していた陸軍輸送船の帰路に小学生を乗せるなど烏滸の沙汰。これら児童の親を“我が子殺害幇助(過失致死)”罪で全員逮捕し、懲役三年の可罰をすべきだろう。

 また、これら保護者が、沖縄県北部の安全な森の中に宿舎と学校を建ててやるから、そこに疎開させよと指示する県知事の指導を拒否して福岡県に疎開させることにした理由は、子供の食費がタダになるからだ。食費倹約の沖縄県人の乞食根性が我が子を殺したのである。8月22日の追悼は、留萌沖引揚船三船のみにすべきである。無賃乗車(乗船)/無銭飲食の刑法犯罪の実行者を追悼してはいけない。

(3)避難民に機銃掃射し続けたロシア軍――「塔路/須取町→路町/内町」道路の地獄図

 2022年2月~、ウクライナへのロシアの侵略が始まった当初、ロシアは集合住宅や商業ショッピング・モールそして列車を待つ避難民が群がる駅を標的にミサイルをぶち込んだ。ロシア軍は、被侵略国の領土を犯す時、一般住民に対しても容赦ない殺戮を行う。このロシア民族のジェノサイド文化は、日本が1945年に満洲と樺太で体験した。満洲の葛根廟事件は、この典型。

(樺太の1945年の地図をここに挿入)

A、侵略ロシア軍の樺太西岸の制圧と上陸が本格化したのは8月16日から。「8月15日午前0時に発効したポツダム停戦」から丸一日の後。西岸上陸の嚆矢は、8月16日未明、ロシア軍の塔路に対する艦砲射撃/航空機による爆撃と焼夷弾“投下”で始まった。午前6時頃には、町が灰燼と化した。その後、ロシア兵が一斉に上陸。ロシアは、山間に避難した一般人に対しても無差別銃撃・爆撃を繰り返した。

B、塔路のすぐ南に隣接する恵須取町への艦砲射撃と爆撃は8月16日午後4時に始まった。翌17日の午前中からロシア軍が続々と上陸した。町は既に灰燼に帰していた。

 なお、塔路と恵須取からの“最初の避難地”上恵須取も、17日夕方には空爆で廃墟になった。

C、塔路と恵須取の二町の住民が蒙った悲劇は、16日夕方から本格化した彼等が避難する道路で襲いかかった。仮数字だが「塔路からの避難民は2万人以上、恵須取からの避難民を1万人以上」とすれば、これら三万人以上の避難民は、上恵須取から分かれる二道路「内恵道路」「珍恵道路」のいずれを選択しても地獄に遭遇した。荷物を抱えて山道をよろよろ歩く、主に子供ずれの女性集団を、30分間隔で、ソ連機が機銃掃射や爆弾を投下したからだ。そのたびに死傷者が出るし、逃げ惑うことによって母子が離れ離れになる悲劇が起きた。

『樺太終戦史』362頁に、8月18日夜に上恵須取を発ち、内恵道路を選択した尾崎・恵須取支庁長の回想がある。「日中は30分おきぐらいの空襲で森林に逃げ込んだりするうちに、母親が子どもを見失うことが多く、私自身、親とはぐれた子ども二人を拾って内路に着いた」。

 上掲書363頁に金沢正信(恵須取の住民)の手記の一部が引用されている。

「《これをやるから、誰か私を連れて行ってくれ》と老人が札束を握って雨の中で叫んでいた。誰も振り向かない。老人は札束を手にしたまま路傍で死んだ」。

「教科書一冊を小脇に抱えた小学一年生ぐらいの子供がとぼとぼ歩いていた。親とはぐれたのか親に捨てられたのか。この子も疲れ果て、道端に眠るように死んだ」。

「赤ン坊を背に括り、泣きじゃくる三歳ぐらいの子を叩き引っ立てて歩いていた母親がいた。子供はふらふらと足を滑らし谷底に落ちていった。しかし、母親はそのまま歩き去った」。

「道端に赤ン坊の死体があった。母親に捨てられたその死体は泣いて泣いて死んでいったのだろう、瞼を腫らし、体に掛けられた布を小さい右手で握っていた」

D、珍恵道路(殖民道路)に係る体験談も引用しておこう。塔路町出身の大類弘子(当時十三歳)は、こう思い出す。弟二人/妹三人の六人兄弟の長姉。8月20日、珍恵道路の中布礼でのこと。

「中布礼の川渕で休憩した。・・・私も川でおかっぱ頭をジャブジャブ洗った。その時、重苦しい爆音・・・四機が北の林の上(に現れ)、私はとっさに弟・敏和(三歳)を抱くと傍の掘立小屋に駆け込んだ。母と弟・昭(十歳)らはドロ柳の木立に逃げて私を呼んだ。先頭の一機は・・・迫っていた。・・・一機また一機と風を切る音とともに爆弾が落ち、四発目は、母たちのいる柳から十数メートルの道路に落ち(た)。・・・母の体を起こすと、乳の下から血がゴボゴボと音を立てて吹き出した。破片が肩から胸に抜けていた。母に抱かれていた美智子(一歳)と傍にいた孝子(六歳)も死んだ」

「私が抱いていた敏和は額を破片で削がれて泣いた。唇がコブシ色に変わり、白蝋のような顔に真赤な血が流れた。私の手の甲も細かい破片だらけ。・・・弟・昭と、三人の遺体を・・埋葬しようとすると、男の人が埋めてあげるから早く逃げなさいと言ってくれた。私は昭と貴美子(六歳)を促し、敏和を抱き、先に出発した人を追った。間もなく、敏和の容態が変り、泣き声がしなくなった。・・・せめて母の傍に埋葬してやりたいと思ってまた道引き返した。・・・私たち三人が北(上恵須取)に還る流れに追いついたのは夕方・・・」(上掲書、366頁)

 以上の引用文からでも、避難民を殺し捲るロシア民族の残虐・残忍さは、理解できただろう。

(参考1)第五方面軍のトップに、関東軍総司令官の山田乙三・大将に並ぶ“際立つ無能軍人”樋口季一郎・中将を据えたのは、陸軍省軍務局や陸軍参謀本部が、北海道にソ連軍を無血で侵攻させたい意図があったことを示唆する。この問題は、第五方面軍参謀長の萩三郎(過激なGRU工作員か?)、第二十七軍司令官とその参謀長、第七師団長とその参謀長、らがGRUか否か/共産主義者だったか否かを精査すれば判明する。

 ところで私は、樋口季一郎とは、(反ナチだが親ソ容共のルーズベルト大統領の同類で)反ナチだがスターリンに通謀したGRUロスケではなかったかとの疑いを払拭できない。

 樋口は、8月9日~21日、樺太師団に一ヶの武器も送らなかった。これ、通常は決してありえない。例えば、第88師団には対戦車砲や高射砲が一基もなかった。「国境から南下するロシア軍阻止には前者が必要」「西岸の港“上陸作戦”からの当方の被害最小化には機雷と高射砲が絶対に必要」なことぐらい、ロシアの侵略開始8月9日の時点、誰でも痛感する。

 が樋口は、8月9日、「西岸へのソ連軍の上陸作戦はありえない」と、(本心とは異なる?)逆さ想定を第五方面軍の正式結論とした。だから、海軍がまだ厖大に所蔵していた機雷を8月9日に入手し、これを11日に塔路/恵須取/珍内/久春内/真岡/本斗/大泊の港に(当方の船の航路を残し)敷設するのが西岸の港“防衛”戦のイロハなのに、樋口はしなかった。また、“軍事要衝の地”上恵須取/逢坂/豊原に高射砲部隊を展開するのは常識だろうに、樋口はこれもしなかった。

 特に、樋口の異様で不審な極めつけ行動は、19日頃までは安全に行き来ができた南樺太の南部に、樋口もその参謀長も一度も視察しなかったこと。こんな異常行動は、樋口がロシアの樺太占領に間接的に協力していないなら、決してありえない。樋口はポーランド駐在中に、ロシアのハニートラップに引っ掛かったのか? ロシア語に堪能な樋口季一郎は、ロシア軍の北海道“無血占領”を“歓迎”協力する、その責任者として、第五方面軍司令官に抜擢されたと考えられる。

 なお、中共の対日偽情報工作員「孫向文」(新筆名は「東雲国芳」、支那人の日本国籍取得者のほとんどは怪しい)が出版した漫画本『陸軍中将・樋口季一郎の決断』は、嘘が余りに多すぎる。この漫画の狙いの筆頭は、最重要事実“北海道を護ったトルーマン米国大統領”の抹殺か。東雲国芳は、中共が日本で暗躍させている、日米離間工作と日本人“対中共・油断”心理戦部隊の一人だろう。

 なお、中国共産党が日本に派遣している支那人工作員は、「石平/蓮舫/金美齢/東雲国芳」等。

(参考2)第五方面軍の中で例外的に“優秀な軍人”堤不夾貴・中将が、第91師団長として占守島防衛を担当。この人事は、占守島が、米軍が(日本北東部での)最初に上陸する地点と目されていたことと無関係ではなかろう。陸軍の優秀軍人にリストできる、硫黄島防衛の栗林忠道や沖縄防衛の牛島満は“親米の大東亜戦争反対論者”だったから、「米軍と死闘させて殺しておこう」がスターリン直属の帝国陸軍中枢部の人事方針。堤不夾貴も牛島や栗林と同様に米軍に殺させる積りだったのではないか。尚、私の“堤中将の内心の思想”研究はまだ途次だから、これは仮説。

第二節 樺太“奪還”の法理

 四文字「北方領土」は、1953~4年、吉田茂系の外務官僚の造語。彼らが「南樺太、北方四島、クリル諸島(=「千島諸島」)」の三つを包括する言葉「北方領土」を考案したのは、この三つとも奪還するぞ!の意気込みからである。が、三つそれぞれの、国際法上の法的地位は異なっている。当然、奪還の方策もそれぞれ異なる。

 北方四島に関しては、日ソ共同宣言を破棄すれば、全ての障害物は消える。そして、無血進駐すれば、百%完璧に日本領土に戻せる。一方、南樺太は、アポリア的に難解かつ複雑。クリル諸島は、北方四島と南樺太の中間の苦労をすれば、日本領に戻る。表1は、この差異をまとめたもの。

表1;北方領土のそれぞれの法的地位

北方四島、固有の領土

日ソ共同宣言を廃棄すれば、その瞬間、日本に帰属すべき日本国の固有の領土。ロシアの不法占拠である駐留ロシア軍を排除し、日本の陸自が新・駐屯地として移動すれば、これをもって解決する。いかなる条約/いかなる交渉も、不要。有害の極み。

クリル諸島(千島諸島)。地理学上の「千島列島」と相違し、日ロが条約で定義。固有の領土ではないが、正当に日本国領土に戻った。

・日本はサ条約で、四十五ヶ国に対し“放棄”した。ために、この地は“無主の地”(=帰属未定地)になった。

・ロシアはサ条約から離脱したので、日本は放棄しておらず、日露間に限り“日本領土”。

・ポツダム宣言では、日本に帰属する「諸小島」。

・日本領土と考える米国の主導で、日本帰属に戻すので、さほど困難ではない。

南樺太、固有の領土

・日本はサ条約で四十五ヶ国に対し“放棄”したため、この地は“無主の地”(=帰属未定地)になった。

・ロシアはサ条約から離脱したので、日露間に限り“日本領土”。

・ポツダム宣言では日本国領土とはしていない。

・1945年の米国では、「南樺太=日本領土」論は少数意見でゼロではなかった。ダレスは(ロシア領にするのが嫌で堪らないのに)日本領土とすることを、なぜか躊躇った。

《南樺太/クリル諸島の日本帰属》に関するダレスの方針は、どうしてぶれたのか

 (チャーチルは怒ってボイコットし宿舎に居たため)ルーズベルトとスターリンだけで合意されたヤルタ秘密協定を(2月11日午後、30分間)、サ講和条約の成立と同時に無効化するのをダレスは密かに図っていた。しかし、「小諸島」という表現でポツダム宣言が琉球列島/小笠原列島と共に“日本の領土”と定めたクリル諸島を、ダレスは、あえて日本に放棄させた。サ条約第二条C項の奇天烈な文言「放棄させた」がそれ。が、重大なこの問題を分析した論文を、私はほとんど見つけられなかった。

 ダレスが、半年前の1951年3月31日に公表したサ条約骨子案でも、「南樺太に対し、権利・権原・請求権は放棄される」とあるが(注)、クリル諸島への言及は“ない”。即ちダレスは、3月以降に、それまでの「クリル諸島=日本領」を変更し、「日本はクリル諸島を放棄」を思いついている。  

(注)西村熊雄『日本外交史27巻 サンフランシスコ平和条約』、103頁。なお、西村は白鳥敏夫の残党組。

 ダレスがサ講和条約で、最も腐心したのは、次の四分野。しかも、この順序。

1、ソ連をサ講和会議に参加させ、最初からのボイコットを避けること。

 このダレスの方針は、当時の日本で朝日新聞や雑誌『世界』が大キャンペーンしていた、「ソ連が参加する全面講和でなければ、日本はサ条約を調印するな。サ講和会議の単独講和に絶対反対!」から、逆に理解できるだろう。当時の日本のメディア媒体は、共産党とソ連の命令に従い、さも“米国一ヶ国しか参加していない”かに日本国民を騙すべく、妄語「単独講和」を連日、垂れ流した。ソ連とその衛星国(ポーランドとチェコ)の三ヶ国がボイコットしても95%参加だから、正確な言葉は「絶対多数講和」。つまり、朝日新聞や雑誌『世界』は、語彙「絶対多数講和」を「単独講和」に改竄し、日本国民の頭を狂わせんとした。

 もともと共産国と平和条約など締結してはならない。つまり、ソ連/ポーランド/チェコがボイコットしてこそ理想。新聞・雑誌の全てが共産主義者に牛耳られていた1951年の日本では、正常なマスメディア報道は一文字も存在しなかった。

2、ダレスの原案「日本国に対する大東亜戦争被害国の賠償請求を全て放棄させる」は、基本的に貫かれた。日本の経済を急ピッチで再建して、共産ロシアと対立できる強力な反共国家に成長させるには、日本国の産業施設が賠償で解体撤去されるようなことは絶対に回避しなければならない、とダレスは考えた。しかし、フィリッピンやインドネシアからの要望で、サ条約には第14条という賠償条項が加わった。それでも、日本の戦災復興と経済発展を阻害するレベルとはならなかった。親日ダレスの対日“寛容”には、ただただ感謝、感謝、感謝。

3、日本国の国防。吉田茂が憲法第九条第二項の改正を拒み国防軍設置を否定したため(注)、米国軍隊の駐留と日米同盟条約でそれを代替するしかなく(一種の保護国化)、ダレスはこれに相当に苦慮した。ダレスの(国防軍の設置を拒否した反軍主義の)吉田茂への怒りは本物だった。「クリル諸島の放棄」は、吉田茂への懲罰を兼ねていた可能性もある。

(注)西村熊雄『日本外交史27巻 サンフランシスコ平和条約』、86~92頁。

4、日本国の領土の範囲。

 さて、サ条約第二条C項の「放棄領土」に、ダレスが唐突に「クリル諸島」を加えた理由の第一は、上記1のソ連をサ講和会議におびき寄せるbite(餌)にするためだろう。サ条約案で「クリル諸島は日本領」とすれば、ソ連はサ講和会議に参加していない。ソ連は、「日本は樺太/クリル諸島を放棄する」とあるから、文字「放棄」を文字「ソ連領」に改正するぐらい、いとも容易だと参加した。

 問題は、ダレスが、サ条約の調印・発効後に、クリル諸島に関するbite用「放棄」を白紙に戻し、「日本領土」にするアジェンダで、どんな方策を立てていたか、である。一つは、米国が占領をしている琉球列島/小笠原列島の返還と一緒に、ロシア占領の千島諸島を日本に返還させようとの考え。琉球諸島の返還は1972年、小笠原列島の返還は1968年。が、これも何となくすっきりしない。ダレスは他策を考えていたかもしれない。

 問題は、南樺太。ダレスは日本に放棄させたが、かといってロシアにも渡したくないのが、ダレスの本心。私の仮説だが、ダレスは南樺太の将来の帰属先を決めかね、「帰属先未定をほぼ永久に続ける」が方針ではなかったか。それは、「南樺太の帰属先=未定に、日本が不満なら、日本人自身が考えろ!」と同じこと。つまり、「日本は一人前に独立しろ」の叱咤激励。仮にこれがダレスの方針だったとすれば、私は、素直にダレスへ感謝する。

(備考)ポツダム宣言が、日本の領土を「北海道、本州、四国、九州、その周辺の小諸島」とし、南樺太を排斥していることについて一言。仮に日本が1922年のニコライエフスク港の虐殺の賠償で北樺太を領有し、また、「外地」を意味する「樺太庁」ではなく“内地”「樺太道」にして「樺太知事」を設置していれば、ポツダム宣言は「日本の領土は、樺太/北海道/本州/四国/九州」となっていただろう。私は、1981年、ある樺太引揚げの元官吏に、1935年以降速やかに “樺太道”にしなかったのはなぜかと聞いたら、彼は、内地になると外地手当てが無くなり給料が減るからだと答えた。1935年の南樺太奪還三十周年で、樺太を北海道と同じ「樺太道」にしておけば、ポツダム宣言起草者グルー元大使は、樺太を日本領に含めていただろう。グルーの離日は1941年12月。樺太の内地化は1942年5月からで、グルーが知る由もない。日本人の行政の抜本改革は蝸牛より鈍く遅くタイミングを逸する。

南樺太の日本帰属はカイロ宣言が認める。ロシアはポ宣言「加盟」でカイロ宣言の履行義務を負う

 樺太は、日本人商人が平安時代から往来し、鎌倉時代には白主に城を築城するなど、日本の固有の領土としての歴史を有する。江戸時代末期には、樺太への日本人居住者は四千人を超え、主に漁業関係者と商人であった。この事実を頭に叩き込んで、ダレスの遺言「樺太は、日本人が自分で考え、自分で奪還しろ」に沿って、この問題を考察しよう。

 南樺太奪還のための作業は二つ。①国際法からの考察と②軍事力投入に関する考察。前者①は、カイロ宣言が中核。カイロ宣言とは、米英華の三同盟国はA基本理念「自国のためには利得を求めず、また領土拡張の念も有しない」を旗幟鮮明に誓約し、次に、次の三つを日本に課した。

B「1914年の第一次世界大戦以降に日本が奪取・占領した太平洋上の全ての島を日本国から剥奪すること」。

C「満洲、台湾、澎湖島の、日本が清国から盗取したすべての地域を中華民国に返還させる」。

D「日本国は、暴力及び強欲により日本が略取した他の全ての地域から駆逐される」

 最重要な核心は、このカイロ宣言は、カイロ宣言には加盟しなかったロシアも履行義務を有すること。それは、ロシアは1945年8月8日にポツダム宣言に加盟したため、ポツダム宣言の第八項「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」によって、ロシアはカイロ宣言の履行義務を負うからである。即ち、ロシアはカイロ宣言の基本理念「自国のためには利得を求めず、また領土拡張の念も有しない」を忠実に履行しなくてはならない。

 この「ポツダム宣言に加盟⇒カイロ宣言の履行義務」に照らせば、ロシアは対日侵略戦争の正当化根拠をポツダム宣言に置いているから、ロシアは領土拡張してはならないことになる。つまり、ロシアが南樺太を領有することは、ポツダム宣言/カイロ宣言に違背する最凶悪な不法占拠ということ。

 “日本の固有の領土”樺太の南半分は1905年のポースマス条約でロシアから返還されたから、この日本の再領有は、1914年以降の日本を断罪する上記Bには抵触しない。Dは、1837年7月~の大東亜戦争で日本が獲得した仏領インドシナ、フィリッピン、マレー半島やシンガポール等を指し、南樺太は全く無関係。Cは中華民国関係で、ロシアは全く無関係。

 すなわち、サ講和会議からのロシアの離脱により、日本はロシアには南樺太を放棄しておらず、日ロ関係に限り南樺太は日本領土なのが確定。また、カイロ宣言も、「南樺太はロシア領では断じてない」と定める。両者を合体すると、「南樺太は日本領」は、日ロ関係ではより絶対的だと言える。

北方四島への無血進駐を声高に叫んだが、「樺太はモスクワ裁判で」と主張した1990~1年の私

 さて、南樺太の軍事的奪還。その核心は、どうすれば最も日本側の被害最小化でそれを達成できるかである。以下、“1990~1年の私”の思索過程を紹介するのは、この問題が実に大変に難しいことを理解してもらうため。私は、1990~1年、将校を除きロシア兵がゼロになった北方四島への陸自の無血進駐を外務省などで説得して歩いたが、樺太への無血進駐は、決して口にしなかった。

 樺太については、「ブッシュ大統領よ、ニュルンベルグ裁判を模したモスクワ裁判を開廷せよ。場所はモスクワではなくポーランドのワルシャワ・・・・・」の主張の中に潜めて、直接“奪還”論を主張しなかった。モスクワ裁判が仮に開廷されれば、フィンランドにはスターリンが奪ったペッツアモ港や、ドイツには東プロイセンのカリーニングラードなどが返還される。私は、これに便乗し、樺太を奪還しようと考えたのである。

 直接の奪還は選択肢にはならないと思料したのは、1990~1年頃、樺太のロシア軍の空軍基地・地上軍基地では、兵士の給料未払いでその過半が脱走してアルバイトで食いつないでいるが、日本の陸自が樺太に上陸すれば、直ちに部署に戻ると考えたからだ。むろん、上陸前に、ロシア軍の基地は対空・対艦ミサイル基地を含め、全てを空爆やミサイルで破壊するが、少なくとも、小火器で武装した在樺太のロシア男性や脱走ロシア兵「数万人」がゲリラ戦を展開するのは目に見ている。

 北緯48度線まで占領するに、陸自十万人のうち五千人の戦死傷は避けられないだろうと推定。結局、北方四島“無血”奪還のようなケースは樺太には適用できない、と結論。また、このような進駐は、爾後二十年間は持続できることが基本だが、これは北方四島では可能でも、樺太では極めて困難。

 現実には、日本が1992年に樺太を五千人の戦死傷を出して北緯48度線まで占領しても、財政破綻から立ちあがったロシアは1995年以降、西岸から大量の援軍を上陸させ、逆に陸自が樺太から叩き出される。要は、「在樺太のロシア人を全員沿海州に追放して、二十年間は安泰な樺太奪還にする軍事行動の完遂は至難の業」。少なくとも当時の私は、そのプランづくりにお手上げした。

 が、2022年2月からのウクライナの自国領土奪還の死闘を観て、われわれ日本人も樺太奪還をもっと真剣に考え、実行に移すべきだと考え直すようになった。

会津藩士の偉大な樺太防衛(1808年)を思い起こして、今一度の樺太“武力奪還”を!

(1)日本は、1905年に樺太全島を占領した。が、ポーツマス交渉で、北半分をロシアに奪われた。日本は、(あの大秀才の小村寿太郎ですら)ロシアが得意とする外交侵略に完敗した。

 同様に1922年、ニコライエフスクの大虐殺の賠償支払いの代償として、陸軍は北樺太を保障占領した。が、北樺太の石油欲しさの(ロシアに頭をやられた、自国民を憎悪する)海軍が、陸軍の保障占領を水泡に帰した。北樺太が日本領になれば石油も日本産になるのに、これが脳内狂気の海軍にかかると、「石油か、賠償獲得か」の詭弁の沼に嵌りこむ。そして、石油の方が賠償より価値が高いとなる。

 ともあれ、この二ケースの樺太占領は、二十年間以上の持続可能性が確固たる占領だった。これは、それぞれ1925年まで/1942年までを想定すれば、一目瞭然。この期間、ロシアは樺太の軍事的奪還が不可能だったことは明白過ぎよう。樺太は江戸時代以前から父祖の地、日本はいったん占領し主権を回復したら、一㎡たりとも手離してはならない。

(2)もう一つ、我々日本人が忘れていけないのは、1808年の会津藩の樺太防衛部隊の威風堂々たる出撃と駐兵。中村惠子『江戸幕府の北方防衛』169頁によれば、樺太詰・日向隊「260名」と樺太詰・北原隊「330名」の計約600名が、樺太の久春古丹に、1808年4月19日に到着したとある。これが日本の正規軍の樺太出撃の嚆矢である。私は、中学生の頃、白虎隊の話と樺太出撃の話には胸躍り、会津藩への尊敬が体を熱く包んだ。今も、この感情、少し、残っている。

(3)「1905年の樺太全島の占領、1922年の北樺太の保障占領」に続いて、日本は再度の樺太を武力奪還する準備に入ろうではないか。南樺太はロシアとの関係では日本領である。放棄した四十五ヶ国とは個別に「放棄」を「日本領」に修正する条約改定をすれば済む。

 そして、北樺太についてジェノサイド賠償の代物弁済として接収しよう。「シベリア強制連行で日本人将兵が60万人、満洲で一般邦人35万人」がジェノサイドされたのであり、この非道ロシアに対する賠償請求を忘れてはいけない。忘却は、道徳にも法的正義にも悖る。

(補遺) 間宮林蔵“樺太探検(1808~9年)”は、日本人商人“樺太交易”の開始から一千年後

1、日本人が樺太と往来し始めたのは、日本人商人たちの交易が最初で、八世紀末から九世紀であろう。当時の北海道に移民した(主に青森県と秋田県出身の)日本人とその子孫は、十万人をはるかに越え二十万人前後か。

 彼らの中からは富裕層も生まれ、二百名以上が乗れる外洋船舶まで保有し、渤海国と貿易までした者もいた。『日本後紀』810年の条に、この北海道の外洋船が遭難し津軽海峡を東に流され、宮城県気仙沼に辿り着いたとの記録が残っている。

「渡島の狄(北海道の日本人)二百余人、(一隻の船に載って)部下(所轄)の気仙郡に来着す。陸奥国の管するところにあらず(北海道の日本人は出羽国の国司の所管である)。帰り去れと命令す。狄ら云う、『時これ寒節、海路越え難し。願わくば来春をまちて本郷(故郷)に還らんと欲す』と。これを許す。留住の間、宜しく衣糧を給うべし」。

 北海道日本人に関して、全員が共産党員のアイヌ専門家は、「アイヌが北海道の先住民族だ」を強弁すべく、真赤な嘘歴史「北海道には室町時代以前には日本人はいなかった」を捏造する。この捏造のための詭弁の一つが、北海道に移住した日本人を「日本人」とせず「擦文人」だと捏造・改竄。共産党の嘘語「擦文人」は、歴史事実の正語「日本人」を抹殺するための詐欺言語。

 擦文土器=土師器は、北海道だけでなく、もともとの原産地「秋田県/青森県」の平凡な土師器。石狩川に移住した秋田県の土師器職人がそれを北海道で広く普及させただけ。陰険な偽情報流布のカルト宗教団体・共産党は、縄文土器から「縄文文化」「縄文人」の学術語が生まれたのを真似て、この擦文土器をもって「擦文文化」「擦文人」などのトンデモ嘘語をデッチアゲた。「擦文文化」など狂語の極み。当り前の学術表現「秋田・青森の農村文化」に糺すべきだ。アイヌの家と詐称されているチセは、この時代の石狩川以南の日本人農家の家のパクリ。アイヌ特有の家ではない。尚、留萌など、石狩川以北に住む日本人は、縄文時代人と同じ竪穴式に住んだ。

 例えば、満蒙開拓団は、長野県や熊本県などから移住した日本人の男女若者で構成されたが、彼らを「満蒙人」とは言わない。「日本人」だから「日本人」。あるいは、開拓団ごとに創られた小学校では、「日本の国定教科書」が使われたが、これを「満蒙の教科書」とは言わない。あくまでも「日本の教科書」。秋田県オリジナル土師器が北海道に広がっただけだから、学術的には、擦文土器とは言わずに、「北海道産土師器の普及」と称すべきが、正しい学問。

 さて、この北海道産土師器=擦文土器が樺太でも相当数、発掘された。それは、いわば“使い捨て食糧リュックサック”。樺太で毛皮や海産物を買い集める日本人商人は、食糧をアイヌから入手できない時のために、土師器に腐らない食糧を入れて従者が肩に担がせていた。この従者は帰路では買った商品を背負うので、土師器は全て樺太で捨てた。擦文土器と称される北海道産土師器から、樺太に相当数の日本人商人が往来していたのがわかる。 

 間宮林蔵は、1808~9年の探検で、樺太と大陸との間は海峡(シーボルトが間宮海峡と名付けた)で、樺太は島だと確定したが、これは日本人(北海道商人)の最初の樺太渡航から、ちょうど一千年後であった。

2、樺太・白主の土城“築造”は、1250年前後と推定される。実際の築城は「金」王朝からの亡命「金」人の子供達だろう。この土城は、ツングース系の女真族が建てた金王朝の「城」の特徴である土塁中心の城に酷似している。金王朝がモンゴルの元に滅ぼされたのは1234年。ために相当数の「金」の王族/貴族及びその従者や一般人が、青森県の十三湊に亡命してきた。

 彼らとその子供たちは、モンゴル「元」に対する恐怖から、「元」モンゴル兵団が樺太に渡島してその北端から南下し北海道を襲うかもしれないと恐れた。彼らは、十三湊を拠点に北海道にも諸権益を持つ津軽安藤家に協力(船と工事労働者の提供、資金は自前)を頼み、モンゴル兵の南下を探索する“前方”砦forward fortressを築城したと考えられる。

 この砦は、対モンゴル防禦戦をする戦闘用の城ではなく、アラモの砦と同じく、監視が専門の前進砦。モンゴル兵に襲われたら直ちに北海道に避難できるよう、船着き場を土城の西側に建造している。十三世紀後半に九州を二度も襲ったモンゴルの「元」帝国は、実際にもアムール川河口まで進出していた。しかし、蒙古軍は、ギリヤーク人の縄張りである樺太「北端」の北緯53度以北に留まり南下しなかった。

(備考)漢文が全く読めない“似非学者”中村和之なる人物は、白主“土城”は蒙古が樺太を一気に南下して築造したと嘯く。チンギス・カンの蒙古帝国はユーラシア大陸を所狭しと席捲したが、持参するパオ以外は、倒した敵民族の建物を活用する、草原を疾駆する騎馬軍団だから、いかなるタイプであれ、城は一つも建造しなかった。中村和之の論文・著作は全て嘘だらけ。拙著『侵入異民族アイヌの本当の歴史』、224~34頁を参照されたい。

 蛇足。津軽安藤家が居城とした十三湊の福山城も、十世紀半ば、渤海国(698~926年)からの、おそらく一万人を超えると思われる亡命人たちが築城。日本の城とは全く異質なのは、この理由。津軽安藤家が、福山城を居城としたのは1229年。築城から三百年近くが経っており、相当な修理をしたようだ。尚、渤海国と日本は大変に仲がよく、「叔父=日本、甥=渤海国」の関係だった。渤海国の対日交易の複数の港の一つが十三湊。

3、“世界第一級の探検家”間宮林蔵の樺太“踏破”

 樺太を「島」と断定した最初はラッカに先に着いた松田伝十郎で、1808年6月。ラッカからは大陸の対岸も黒竜江の河口も望見でき、目視で「樺太は島」を確定できる。間宮林蔵が単独で、緯度的には黒竜江の河口より北になる、樺太のナニオーまで踏破したのは翌1809年5月。ここからだと、さらに「樺太は島で、大陸とは繋がっていない」ことが瀝然。が、間宮はこれで満足せず、大陸側から樺太を観ることを試みた。ノテトから、大陸に渡り黒竜江を遡行しデレンに設けた清国の満洲仮府を見学し、その後、黒竜江を河口へと下航し、河口から大陸の東岸に沿って南下し、樺太の向かい側から樺太のワゲー(北緯52度10分)に渡り、ラッカ岬に至り、そこから出発点のノテトに到着している。

 つまり、間宮林蔵は、三つの方角から「樺太は島」を確認。一流探検家とはこうあるのかと、私は感嘆しきり。尚、間宮林蔵は、樺太にも黒竜江河口にも“ロシア人の非在”を確認。これは、ロシアが清国とのネルチンスク条約(1689年)を守ったから、そうなっただけ。が、清国が1840年の阿片戦争を境に衰退し始めると、ロシアは1850年に黒竜江の河口ニコライエフスクに入植し、1853年に樺太に軍”駐屯地“を建設した。間宮林蔵の“単独”黒竜江探検は、このロシア極東進出より四十年以上も前だった。 

(ここに、1808年の樺太の地図 を挿入)

4、和語「カラフト」の由来、露語「サハリン」の由来

・「サハリン」は、ツングース語で黒龍江を「サガリン・ウラ」と呼び、その東にある海に浮かぶ大島=カラフトを「サガリン・アンガ・ハタ」と呼んでいたのを、ロシア人が「サガリン島」と省略したのが語源だろう。

・樺太は、宗谷で樺太アイヌと交易していた日本人商人が樺太アイヌを外国人の意で「からひと」(「唐から」は外国、「ふと」は「人ひと」の訛り)と呼んでいたのが語源だろうと、高橋景保(幕府天文方)は推定している。

・樺太は“日本固有の領土”である以上、日本国民は《樺太》と呼称し、侵略者ロシアの語彙「サハリン」を絶対に排除し、使用してはいけない。

                                            (2025年1月12日記)

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