北朝鮮人化する“無学輩”八木秀次──日本を救ったポツダム宣言を貶める“新・国賊”

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋  

 最初に白状するが、三文評論家で「学者の業績ゼロ/影響力もゼロ」の “超ダメ男”八木秀次を批評するのは、野良犬に「お手」とか「待て」とかを躾・訓練しているようで、とても気が重い。が、ポツダム宣言という、昭和天皇が日本国の存立のためになされた“ご聖断”にかかわる、日本史上に稀有な最重大歴史を嘘八百で歪曲改竄する八木秀次のボロ雑文を「ボロ雑文だから」を理由に看過するのは、日本人である限り許されまい。また、戦後日本国を亡国の淵から再生された聖帝昭和天皇の欽命謹承を旨とすべき日本国民が誇りをもって果たすべき高貴なる義務に違背する恐れもある。

珍語「ポツダム体制」を振り回す“アホ馬鹿マヌケ大学教師”八木秀次の戦後史捏造  

 八木秀次は、口から出任せのトンデモ論考を『正論』2015年8月号に掲載した。そのタイトルは、全く意味不明な「ポツダム体制維持装置としての左派と憲法」である。このタイトルを読んで、八木が何を書こうとしているかが分かるものは、世界に一人もいまい。

 八木秀次は、“スーパー無学の非学者”である馬脚を現した。よほどのバカ大学のよほどのアホ学生でも“正しくポカーンとする”「ポツダム体制」なる語彙は、珍語奇語の類。が、憲法学も国際政治学も戦後政治史も、八木秀次にとってチンプンカンプン。八木秀次は、「憲法学者だ」と自称しているが、公明正大に言えば詐欺師レベルの詐称である。

 なぜなら八木の憲法学の知見は、有名私立中学を受験する小学校五/六年生程度。八木秀次は、人生に一度ぐらいは人間としての良心を持ったらどうだろう。「参議院議員になるためのステップとして教科書運動をやっている」とか「憲法学であれ何であれ、学問など権力にも名声に繋がらないからバカバカしく全然する気はありません」と、2006年に私に漏らした本心を正直にカミングアウトすべきだろう。

 語彙「ヤルタ体制」は、賛否や定義に関する相違・乖離に百論あるが、第二次世界大戦後の“世界秩序”を意味する、国際的にも、外交史や国際政治学の用語である。しかし、「ポツダム体制」という言葉など、世界のどんな偏頗な学界にも存在しない。

 ポツダム宣言は、日本に降伏を勧告し日本の戦後国内政体を占領期間(結果は六年八ヶ月間)拘束する条件の提示だから、当然、戦後の世界全体の秩序などとは次元を全く異にする。だが、八木秀次は、次のように書いている。これでは、開成中学や灘中学の“お受験小学生”も嗤うほかあるまい。

「戦後の国際秩序は当然、連合国が中心となって築かれた。これをポツダム体制と呼んでいる」

ポツダム体制の考え方は、国際連合の組織運営に顕著である。安全保障理事会では・・・」

「このようなポツダム体制の下で、日本は厳しい占領政策を受けることなった」(注1、238頁)。

 まず誰でもが失笑する、八木流お粗末ミスを挙げる。ポツダム宣言の受諾に従い、日本の占領政策において、ポツダム宣言も日本が準拠すべき規範の一つとなったが、ポツダム宣言は米国単独の起草。三巨頭がヨーロッパ問題を協議したポツダム会談とは何の関係もない。本来は、米国の首都ワシントンDCから発出すべきもので、「ワシントン宣言」と称するのが実態と合致する。

 ポツダム宣言には、英国と中華民国の署名があるが、両国首脳はトルーマン米国大統領からの電話に「了解」と返事しただけで、署名していない。写真でみる歴史文書ポツダム宣言にある両国の署名は米国政府の偽署で、これは7月26日の発出日の後に米国人が代筆した。

 要するに、八木秀次は、ポツダム会談とポツダム宣言とにいっさい相互関係がないのを知らない。ポツダム宣言がポツダム会談で議論されて発出されたと思い込んでいる。ヤルタ協定・ヤルタ秘密協定はヤルタ会談から生まれたが、これと同じだとトンデモ無知を無恥にも曝している。“アホ馬鹿マヌケ大学教師”とは、日本の文科系大学教授の惨たる劣化を世に警鐘乱打するための、谷沢永一先生の秀逸造語だが、この絶妙な形容句“あほ馬鹿マヌケ大学教師”は八木秀次にピッタリ。

 国際連合についても、全国の小学生が麗澤大学は八木秀次というお笑い芸人を教授にしていると訝しがること間違いなしの、八木流お笑いハチャメチャ歴史。国際連合憲章がサンフランシスコで五十ヶ国によって採択・調印された6月26日に国際連合は事実上の創設となった(発足は51ヶ国の批准を待って1945年10月)。つまり、7月17日~8月2日のポツダム会談は、国際連合とは全く関係ない。ポツダム宣言は7月26日だから、これまた国際連合とは全く関係がない。ところが、八木秀次にかかると「国連はポツダム体制」となる。「自動車は飛行機である」と主張する狂気に類するから、麗澤大学は、八木秀次をこれだけでも分限解雇しなければ、大学として責任を果たせまい。

 さらに八木秀次は、「ポツダム体制」──仮に「ポツダム会談」の校正ミスとしてあげても──が、一ヶ月以上も前には調印式が終っていた国際連合の基本機構、例えば、五大国が拒否権をもつ安全保障理事会の運営方法を決定づけた、という。漫画しか読めない“度外れの白痴”八木秀次の頭では、「ポツダム体制」は“ドラえもんの秘密道具”タイムマシーン力を持つらしい。なお、この「五大国が拒否権をもつ安全保障理事会の運営方法」は、1944年8~10月のダンバートン・オークス会議では決着がつかなかった。1945年2月のヤルタ会談でルーズベルトがスターリンに愚昧にも妥協したため、四ヶ月後の6月に採択された国連憲章の基本骨格が出来上がった。

 ほとんど精神薄弱児童レベルの八木秀次の嘘歴史は、これだけではない。国際連合憲章には、「ヤルタ会談→ヤルタ協定/ヤルタ秘密協定→ヤルタ体制」はいっさい関係していない。米国主導で国際連合が創設されていく過程で、米国側の代表は、(対東欧のヤルタ協定ではない)対日部分のヤルタ秘密協定については、その存在すら知らなかった。トルーマン大統領ですら、それを知ったのはポツダムに出かける直前の7月だった。狐すらびっくりの狡猾で鉄面皮な八木秀次は、「ポツダム体制」と書いたのは「ヤルタ体制」の単純ミスだったと、いずれ開き直るだろう。が、この開き直りをすれば、このように恥の上塗りになるだけだから、やめた方がいい。

ポツダム宣言とは無関係なポツダム会談で、米英ソ首脳が合意したのは何?

 ヤルタ協定&ヤルタ秘密協定については、八木秀次は論外だが、教養ある日本人なら誰でも知っているからここで補足するまでもない。が、ヨーロッパ問題を喧々諤々と論議したポツダム会談での米英ソの合意は、日本に全く関係しないこともあって余り知られていない。教養ある読者からは過剰な親切だとお叱りを受けるだろうが、ほんの少し触れておく。  

 順不同だが次のようなもの。①ドイツを四ヶ国分割占領する「ポツダム協定」が締結された、②ソ連がポーランドの西ウクライナを新領土として獲得する代償にポーランドにドイツのオーデル川・ナイセ川までの“東部ドイツ”を割譲させるとのスターリンの強欲提案を英国の反対を抑えて米国はソ連占領地内であるのを理由に最終決定を講和条約後に後回しする事実上の了解を与えた、③在英ポーランド亡命政府の消滅とソ連の傀儡ルブリン政権の事実上の容認、④ルーマニア/ハンガリー/ブルガリアの政府問題を先送りにしたことでソ連傀儡政権の事実上の承認、⑤ソ連が受け取る、ドイツの対ポーランド/対ソ連の法外な賠償の決定、等々である。   

 これらが明らかにするように、(ヤルタ秘密協定を除く)ヤルタ協定とともに、ポツダム会談で合意したもの/“合意後回し”のものの双方が、中級国家・ソ連をして東欧植民地を獲得させて一気に超大国へと飛躍・膨張させることになった。第二次世界大戦後に世界共産化の革命輸出と領土拡大におけるソ連のやりたい放題は、1989年の東欧解放とアフガン撤兵まで続いたが、この原点はヤルタ会談とその延長たるポツダム会談にある。

 米国のバーンズ国務長官はポツダム会談後に、スターリンの暴虐な態度に怒り、“反共・反ソ・反スターリン”を剥き出すようになる。が、バーンズは、ポツダム会談前半まで英国首相だったチャーチルに与して、自分の本音“反共・反ソ・反スターリン”を暴発させるべきであった。  

 ともあれ、ポツダム会談をチャーチルの主張通りにトルーマンが仕切っていれば、「ヤルタ体制」と言われる、1945年から1989年までの四十四年間の東欧の悲惨と呻吟はなかった。加えて“スターリンの息子”ナセル(エジプト大統領)のスウェーズ運河強奪もなかった。キューバ共産国家の誕生もなかった。エチオピアなどアフリカにおける共産国家のドミノ的な誕生もなかった。ただ、ポツダム会談が米国の対日降伏勧告ポツダム宣言にいっさい関係関与しなかった歴史の偶然(=神の見えない手)だけが、日本の僥倖となった。

 ポツダム宣言が日本を救った“神風”となった偶然は、二つあった。第一は、ポツダム会談が始まる直前の7月16日、日本の降伏にソ連の参戦を不必要にした“アラマゴードの原爆実験”が成功したこと。第二は、スティムソンやグルーそしてドゥーマンなど日本の皇室を守らんとした親日勢力が書いた「ポツダム宣言案」が、ワシントンを離陸する直前、トルーマンのポケット中にねじ込まれたこと。

 有馬哲夫が「ポツダム宣言も、グルーとアレン・ダレスの終戦工作から産まれたものだということだ。ポツダム宣言がなければ、戦争(日米太平洋戦争)の終わり方は、われわれ(日本人が)知っている(体験した)ものとは相当違う形になっていただろう」と述べるが、的を射ている(注2)。

北朝鮮人で過激コミュニストの“反日狂”中野剛志と仲良く共闘する八木秀次  

 八木秀次が振り回す非・学問の珍語「ポツダム体制」にうんざりしながらもその出所はどこかなと思案していたら、“朝鮮人による朝鮮人のための朝鮮人の月刊誌”『WiLL』に、福島瑞穂と並ぶ札付き北朝鮮人で過激コミュニスト中野剛志もまた珍語「ヤルタ・ポツダム体制」を振り回していた。中野のトンデモ論考も、八木と同じく意味が全く不明な「日本を封じ込めるヤルタ・ポツダム体制」(注3)。蛇足だが、『WiLL』の編集長・花田紀凱は、ヒトラーと難波大助を崇拝する朝鮮人アナーキスト(テロリスト)で、本名は田紀凱。中野剛志は、ヴェブレンとデューイを飲み込んで金日成を凌ぐ激越な共産主義者になった北朝鮮人。

 中野剛志のは2015年5月26日発売の雑誌で八木秀次のが7月1日発売の雑誌だから、時間的には、八木論考は中野論考を読んで下書きに用いることはできる。むろん、そうだとする証拠もないし、そう推定する合理的根拠もない。が、完全に間違っている基本趣旨が両者同じなのは何故か。  

 八木も中野も、おそらく、平泉澄を教祖とするカルト宗教「皇国史観」の狂信者・田中卓が創ったハチャメチャ語「ヤルタ・ポツダム体制 YP体制」を使っているようだ。田中卓が造語した意味不明な珍語奇語「ヤルタ・ポツダム体制」は、劣等無学な民族系のゴロツキ・ならずもの達の経文の一つだし、彼らの仲間同士で身分証明書の役割を果たしている。

 在日の北朝鮮人が屯する偽装民族系団体は、日本人に偽装する便利語としてこの珍語を愛用的に振り回す。中野剛志は、民族系を偽装した北朝鮮団体C.S.のミスターMとは北朝鮮人同士の誼から昵懇。この悪の絆から、「反日」運動への悪用を思いついたのか。  

 平泉澄は、強烈なスターリン崇拝のマルクス・レーニン主義者で、スターリンを「後醍醐天皇」、共産革命家を「楠正成」に置換するレトリックを編み出し、マルクス・レーニン主義を「皇国史観」と名付けた。そして、昭和天皇を暗殺することに人生の全てを賭け、平泉の弟子である阿南惟幾・陸軍大臣らに、1945年8月14日深夜から15日未明にかけての宮城クーデターを決行させた。これは、昭和天皇を監禁脅迫して“ポツダム宣言の拒絶”を内外に闡明する詔勅の渙発を狙ったもの。だが、もし昭和天皇が抵抗拒否された場合、昭和天皇を銃殺する予定だったのは間違いなかろう。  

 そして、田中卓とは平泉澄の最後の愛弟子で、天皇制廃止を悲願とする偽装右翼の巨魁。晩年、女系天皇/女性天皇論を日本共産党と共同キャンペーンしたが、田中卓は実は“完全無欠のコミュニスト”だから、不思議ではない。ポツダム宣言に異常な憎悪をぶつけ呪うのも、ポツダム宣言の受諾によってソ連軍の日本列島侵攻占領と昭和天皇銃殺(=天皇制度の廃絶)が吹っ飛んだ恨みからである。  

 生来の性悪な田中卓は、ポーランド人や日本人が怨嗟する「ヤルタ体制」に目を付けた。これに、自分が呪詛するポツダム宣言をくっつけると、ポツダム宣言に感謝している国民の大多数で一般日本人を「反・ポツダム宣言」に反転・洗脳できる、と。しかも、高校中退レベルの低級愚劣な“クズ人間の集団”民族系は、「ポツダム宣言」と「ポツダム体制」の峻別などできないから必ず混同するはずだ、と。そこで、田中卓は、「ポツダム宣言」を「ポツダム体制」に変造し、スリの早業で摩り替えた。

 田中卓の犯罪は図星。「ポツダム宣言」という歴史的な実体と空無で非実の「ポツダム体制」とを錯覚的に同一視する、精薄児レベルの“アホ馬鹿マヌケ大学教師”八木秀次が現れた。そして、田中卓が算段した通り、田中卓の魔語に洗脳された八木秀次は、日本人ならば、特に皇室尊崇の念が高い真正の日本人ならば、神棚にあげて拝むべき「ポツダム宣言」を、「ポツダム体制」という摩り替え言葉で罵倒的に誹謗した。

 かくも日本国の天皇制度を擁護した“神風”「ポツダム宣言」(=昭和天皇のご聖断)を讒謗・糾弾する八木秀次とは、新種で畸形の国賊/非国民である。“新・国賊”八木秀次を、日本国から急ぎ北朝鮮に追放しなければならない。八木秀次の凶悪な伝染病から次代の日本人を守らねばならない。

“評論界をうろつく野良犬”八木秀次の珍語乱造癖は、日本を害する情報公害  

 八木秀次は、「ポツダム宣言」と“騙し語”「ポツダム体制」の相違が分からないだけではない。国際政治史の“スーパー白痴”八木秀次はまた、「サンフランシスコ体制」という奇天烈な珍語を振りかざす。英米日の空母と戦艦の上限を定めたワシントン海軍条約などを一纏めにした「ワシントン体制」という、第一次世界大戦後の“太平洋の国際秩序システム”を指す学術用語はある。が、珍語「サンフランシスコ体制」など、内外ともに学界にはない。  

 “スーパー出鱈目”八木秀次は、1951年9月8日にサンフランシスコで調印された「対日講和条約」を「サンフランシスコ体制」だと名称変造している。学問の世界と無縁で、一度も学術論文を書いたことがない教科書運動家=政治運動屋だからだろうが、「サンフランシスコ講和条約」を「サンフランシスコ体制」に変名変造するのは甚だしい偽装表示、糾弾・指弾は免れない。

 条約は条約。体制(=世界システム)は体制(=世界システム)。だが八木秀次は、学問の世界から逃亡して評論界をうろつく野良犬の特権なのか、条約締結なら何でも「体制」に短絡できると思いこむ。八木に、学者の最低の規範「学術用語の変造や偽装表示は許されない」を説いても無駄だろう。野良犬に躾が無駄なのと似ている。ちなみに八木秀次の奇妙奇天烈な珍解説は、次のもの。   

ポツダム体制が崩壊した後に形成され、日本が属した新たな国際秩序を一般にサンフランシスコ体制と呼んでいる」   

「米・英・仏がサンフランシスコ体制を形成し、ポツダム体制の柱がソ連となった」(注1、241頁)

 「ポツダム体制」は、世界史上どこにも存在したことがない幽霊で幻覚だから、崩壊しない。むろん、ソ連がその「柱」になることもできない。ポツダム宣言を米国が勝手に発出したと激しくなじったスターリンがどうして「柱」なのか。八木秀次とは、精神病院で緊急治療が必要な罹患者のようだ。  

 サンフランシスコ講和条約締結と同時に、主権回復を目前にした日本は、米国と「日米安保」と称される同盟条約を締結した。日米同盟条約は、ヨーロッパのNATO条約(1949年4月調印)、米韓同盟条約(1953年10月調印)、その他の数本の軍事条約とともに、膨張するソ連の勢力圏を「ヤルタ会談(→ヤルタ協定/ヤルタ秘密協定)+ポツダム会談=ヤルタ体制」の内側(=ほぼ拡大ハートランド内)に封じ込める前線の役割を担うこととなった。

 このように、広域の世界秩序に関連する「ソ連封じ込め体制」とか「NATO体制」とかに限った二文字「体制」の使用方法なら学術的に理に適う。が、いったい、「サンフランシスコ体制」など、何の意味だかさっぱり分からないトンデモ語。学者になれなかった“野良犬”八木秀次が垂流す、超杜撰なハチャメチャ論考など、有毒物質の公害と同じだろう。ユスリ/タカリの編集長・小島新一が創る『正論』は、今や、廃刊こそが日本国のためになる情報公害雑誌となった。

麗澤大学は、憲法学も含め無知蒙昧で“アホ馬鹿教師”八木秀次を分限解雇せよ!

 さて、話を変える。八木は「俺様は、憲法学者だ」と詐称している。が、八木にとって憲法学は、火星語で書かれているのか、実はチンプンカンプン。だから、八木秀次は、憲法学者の資格となっている“憲法学の教科書一冊”が書けない。憲法学でも“アホ馬鹿マヌケ大学教師”、これが八木秀次の正体である。これは、以下の事実からも簡単に証明される。  

 宮沢俊義をボスとして極左学界をリードした戦後日本の憲法学は、1945年9月以降のGHQ(=米国)とはいっさい無関係であった。なぜなら、GHQの進駐する前の「戦前」、宮沢は東京帝大法学部の授業で天皇制廃止を公然とアッピールしていた。宮沢俊義は、明治憲法の天皇条項である第1条~第3条を授業したことはないが、これはGHQ以前である。  

 その前任の上杉愼吉は、強度の社会主義者兼ルソー系のアナーキストで、天皇による明治憲法破壊=天皇制廃止を公然と唱道した(拙著『正統の憲法 バークの哲学』第4章、中公叢書)。これらはすべて大正時代である。とすれば八木に従えば、GHQもポツダム宣言も大正時代の歴史ということになる。八木の歴史時系列の欠如と憲法学史・憲法思想史の無知は、やはり白痴のレベル。

 序に蛇足。北一輝も、上杉愼吉に似た、天皇による日本のレーニン型共産革命を考えた。上杉愼吉や北一輝の革命方式は、成功と同時に天皇が銃殺される“天皇特攻自殺型革命”である。

 話を戻す。憲法第1条には直接言及していないものの、文脈的には八木はどうやら、日本の憲法学者が「左傾化した」「天皇制廃止狂になった」のは、GHQ製の戦後の日本国憲法が制定されたことが原因だとの、真赤な嘘話をデッチアゲている。具体的に、この『正論』論考で八木が言及している憲法条項は第9条と第96条だけだが、これらを「ポツダム体制の置き土産/維持装置」と断定し、日本の極左憲法学者の原点だとするからである。

 だが、日本の極左憲法学者の原点は、上杉愼吉や宮沢俊義で明らかのように、大正時代からの東京帝国大学法学部である。1945年より遡ること三十年前からである。その頃から、東京帝大では、「日本を社会主義化する/共産主義の国家にする→天皇制度を廃止する」が基本理念として横溢していた。

 東京帝大キャンパスの外でも、天皇制度の廃止命令がスターリンから日本共産党員に対して「コミンテルン32年テーゼ」として日本に闖入した。が、日本における天皇制度廃止運動は、1932年以前にとっくに始まっていた。天皇制度廃止の幸徳秋水の大逆事件(1910年)は、その嚆矢。大正時代に入ると、天皇制度廃止の社会主義革命/共産革命は、知識層界では大きなうねりとなっていた。

 日本の知識層に共産革命を煽動する『改造(=「共産革命」のこと)』の創刊は1919年。しかも、これを読まない(理工系を除く、法文系の)東京帝大生の方が少なかったのが実情だった。そもそも、河上肇の『貧乏物語』の出版は大正6年の1917年で、レーニンのロシア革命の勃発と同時であった。摂政宮であられた昭和天皇が天皇制廃止のテロリスト難波大助に狙撃されたのは、1923年の大正12年であった。『赤旗』の創刊も大正12年だし、“非合法”日本共産党員の堺利彦の逮捕も大正12年である。真像を隠蔽するための美化名称「大正デモクラシー」の本当の正体は、「大正コミュニズム」だった。そして、「大正デモクラシー」=「大正コミュニズム」が東京帝大法学部の基調となっていた。

 東京帝大を中核とする、天皇暗殺すらアジェンダに載せる日本の天皇制廃止イデオロギーは、昭和時代に入ると、陸軍の中枢を跋扈するエリート軍人の間に広く蔓延するに至った。天皇制廃止を含意する、日本をスターリン型計画経済体制に革命すると宣言した『陸軍パンフレット』の陸軍としての公式出版は1934年。1936年の二・二六事件は、『陸軍パンフレット』の実践である以上、昭和天皇の暗殺は当然の予定だったろう。実際にも、レーニンの1917年ロシア革命を踏襲した二・二六事件の指揮はソ連大使館内(GRUかNKGB)からなされており、二・二六事件はスターリンの命令だったのは想像に難くない。

 近衛文麿らが、何でもない盧溝橋事件を口実に「陸軍四ケ師団の対支出兵」で開戦した大東亜戦争は、この1937年7月7日から1945年9月2日までの「八年二ケ月」に及んだが、その戦争目的は何であったか。第一は、ソ連軍を日本列島に侵略占領させること──これを偽装語で「本土決戦」という──。第二は、昭和天皇を銃殺すること。1944年春から着工した“長野県松代の大本営”は、昭和天皇と皇后陛下を軟禁する“オープン刑務所”として構築された。「空襲を避けるため」は真赤な嘘口実。空襲は1944年10月からで、着工の4月時点、陸軍参謀本部/陸軍省の中でB29と本土が空襲されることを予測したものは一人もいない。第三は、計画経済を導入し共産主義者の独裁者を戴く“日本人民共和国”に仕上げること。第二に関して、前述した阿南陸軍大臣と平泉澄が首謀した“宮城クーデター”において、昭和天皇を監禁し、場合によっては銃殺する陸軍中枢の叛乱・国家簒奪が決行されている。  

 このように天皇制廃止が、大正時代からの日本のエリート層の実態だった1945年8月の日本に比すれば、第1条に天皇条項を掲げる日本国憲法GHQ案(1946年2月)は、米国こそが良識ある正しい日本国民に代行して、風前の皇室=天皇制度を復活的に維持したもの、と正しく解すべきだ。  

 天皇制度の擁護と温存を条件としての対日降伏勧告であるポツダム宣言を、戦後日本の極左憲法学者の天皇制廃止イデオロギーの原点だと牽強付会する八木秀次の頭は、白痴病を超えて重い分裂病を併発している。

詭弁と嘘で憲法学を愚弄する“無頼漢”八木秀次を大学の教壇に立たせていいのか  

 八木が“憲法知らず”の無学輩なのは、憲法第96条に関し、八木がデッチアゲる次の嘘で十全に明らか。  

96条の改正要件があまりに厳しいためであり、改憲阻止に必要な三分の一以上の議席を〈ポツダム体制(=ポツダム宣言、GHQ)〉の置き土産でもある左派(左翼のこと?)が占めていた」(注1、カッコ内中川、243頁)。  

 八木秀次は、GHQ製の日本国憲法が制定から六十九年が経ちながら改正されないのは、「GHQ=米国は、自分たちが起草したGHQ憲法が改正されないよう、第96条の改正条項を意図的に厳しくした」との、全くの嘘偽りをデッチアゲる。“共産党の別動隊”民族系が、“十八番”とする米国への誹謗中傷の一つでもある。八木秀次も民族系の馬鹿げた憲法学改竄に唱和している。

 だが、日本国憲法の改正要件は、他国の憲法に比して特段に厳しいとは言えない。特に、当の米国憲法と比較すれば、実に緩やかで日本が改正し易いよう配慮した跡がはっきりとしている。また、実際に起草者のGHQ民政局でもこの通りのことが議論されている。

 米国憲法の改正要件は、その憲法第5条で定められている。改正の発議は、上院・下院ともに議員の三分の二以上となっている。日本国憲法も、改正発議は、米国憲法の定めをそのまま丸写ししたので同一。ところが、第二の要件になると、米国の方が、日本の軟性とは異なり、硬性であるから厳しい。全米五十州のうち四分の三以上、つまり三十八州が承認しなければならないと定めている。一方、日本国憲法では国民投票で、しかも投票した有権者の過半数でいいのである。「四分の三以上=七五%以上」と「半分以上」、何れが軟性か硬性かは言うまでもないこと。

 それでも米国は、これまで、無数の憲法改正をなしてきた。つまり、憲法改正が米国にできて、日本ができないのは、憲法の改正要件規定の問題ではなく、日本における政治情況や政治風土の問題だということ。しかし、八木秀次は、他国の改正要件と日本のそれとを比較する、通常の憲法学者いや学部学生一年生でもする、このような簡単なチェックすらしない。代わりに、論壇謀議を図って北朝鮮人や共産党シンパを自宅に招いて接待に努める、堕落の暗躍だけが八木秀次の日常。

 そして、八木が書いた雑文は例外なく、パブロフの犬のごとく、何でもかんでも米国の所為にして日本人を知的劣化と人格的腐敗に導かんとする有害プロパガンダ雑文ばかり。加えて、その屁理屈は、荒唐無稽な口から出任せの嘘八百。

 笑止を堪えて、上記の八木流プロパガンダを再度引用すると、「かつて日本は1950年代に憲法第九条改正を試み総選挙をしたが、改憲の自民党は国会議員の三分の二にならず、第九条死守の社会党ほかが議席の三分の一以上を占めた。これは、ポツダム宣言受諾によって日本に進駐したGHQが、社会党などが三分の一以上になるようにしたからだ」、と。

 戦後史について教養ある日本人が、これを読んで「失笑した」のか、それとも、八木を頭の中で描いて「この嘘つきめ!」と拳を振り上げたのか、私は知りたい。私の場合、うすら寒い八木流詭弁を読んだ時、「こんなトンデモ嘘つき男を教壇に立たせている大学があるとは!!」と絶句した。

 社会党など第九条改正反対派議員が衆議院の三分の一を占め、改憲の自民党は60%を超えるのに67%には届かなかったのは事実。だが、「社会党などが33%以上の議員となるよう第九条改正反対派をGHQが育成した」との、八木秀次の真赤な嘘フィクションには心底から腰を抜かした。

 ウィロビー少将を筆頭にGHQによる執拗な左翼弾圧によって、本来、日本の国会議員の「三分の二以上」を占めるはずだった左翼勢力が半減して「三分の一」になったのである。GHQのレッドパージ(共産主義者の官庁からの追放、1950年1月)や二・一ゼネスト中止命令(1947年1月31日)や、あるいは読売新聞の共産党簒奪(「読売争議」)でのGHQのMP投入(1946年)などを思い出せば十分ではないのか。GHQの反共政策/社会主義・共産主義運動弾圧があって初めて、ポストGHQにおける社共政権誕生をかろうじて防止でき、ぎりぎりで自民党が過半数を掌握する政局ができたのである。

 昭和天皇は、GHQ占領軍が去った後に、日本は再び、五・一五事件/二・二六事件/大東亜戦争時代のような社会主義者/共産主義者が跋扈する政局に戻るのではないかと“ご宸念”されGHQの占領延長を画策されておられる。このような昭和天皇の御心労は杞憂ではない。大東亜戦争中、帝国陸軍参謀本部や関東軍参謀部など陸軍の中枢のポストはことごとく、共産主義者エリ-ト軍人に独占的に占められていた事実でも明らかな、これこそが昭和前期史の本当の真実である。

 ところが、八木秀次は、1950年代後半の社共など日本の左翼勢力が三分の一を超えていた原因を、学術的に正確な「大正時代に始まった濃厚に共産主義を礼賛する日本政治の左翼傾斜の遺産」とせず、荒唐無稽にも“180度逆の嘘話”「GHQの置き土産」に摩り替える。八木秀次の異常な虚言癖/嘘つき癖は、佐村河内守タイプか、小保方晴子タイプか。

朝日新聞など左翼におべっかを振り撒く、キャバ嬢なのか節操なき八木秀次

 八木秀次は、上記の引用文中で、“左翼”とすべきところを「左派」という言葉を用いている。社会党や共産党などの政党を「左翼政党」と表現しても「左派」とはしない。左派/右派は、この左翼政党内のサブ種分けで、例えば「社会党左派」などとする。これは小学生でも知っている通常語彙だから、“アホ馬鹿マヌケ大学教師”の八木秀次でも知っている。

 では八木秀次はなぜ、言葉「左翼」を用いず「左派」に摩り替えたのか。答えは簡単。現在の左翼勢力への阿諛であり、おべっかである。八木は常々、「僕が〈つくる会〉の会長になったら、朝日新聞の非難は消えるだけでなく、協調的関係になりますよ」と言っていた。八木秀次には「保守」がひとかけらもない。日本人の魂が“道端に捨てられた鰯”のように腐って消失した、ただの権力亡者が八木秀次である。こんなこと、どうでもいい話。八木の憲法第九条論を垣間見よう。こう言っている。

「左派(左翼のこと?)は、現在もポツダム体制の“維持装置”である憲法第9条を盾にして…」(注1、243頁、カッコ内中川)。

 八木は、この意味不明な一文で、国防軍の保有を禁じる憲法第九条は、ポツダム体制(=GHQ占領)の維持装置である、と言いたいようだ。全くバカバカしい。間違いや嘘がバレバレではないか。

 憲法学者を詐称する詐欺師らしく、八木は、簡単にはバレナイ嘘を考え付いたらどうなのか。八木秀次のIQは低い。憲法第九条は、占領開始から半年の1946年2月に、共産党シンパが多かったGHQ民政局が起草した。GHQは、その対日政策をコペルニクス的に転換するのは1948年夏だから(注4)、日本が、「主権喪失の被占領下では憲法を制定してはならない」“憲法の大原則”を盾に憲法制定に1948年夏まで、二年半ほど拒否し続けていれば、サンフランシスコ講和条約の発効と同時に明治憲法がそのまま復活しただろう。

 主権喪失の占領下において、そもそも被占領国は、国防軍を保有できるのか。国防軍と諜報機関は、主権国家に固有の機関であり、この双方は占領軍が代行するのは当然。これは、国際法に照らしても順当な措置である。すなわち、憲法第九条は、GHQが占領するために作文したのではない。日本が主権を喪失したことに伴う当然の条文である。正確に言えば、元来は、占領軍と被占領政府との間が締結する占領条約の代用品的なものである。

 このように、八木の主張「ポツダム体制の維持装置である憲法第9条」は、国際法の陸戦法規や国防軍に関する常識を欠如する無学輩の犯すお粗末な間違いに過ぎない。第九条が今まで改正されなかった責任は全て、主権回復後の日本側にある。具体的には、1952年4月28日の主権回復後に、なぜ日本人はGHQ製憲法を破棄して新しい憲法をつくるか、明治憲法の復活をしなかったか、が唯一の問題点ではないか。

 この理由には大きく二つあることは衆知だろう。第一は、「旧・帝国陸軍とは共産主義者軍人が支配していた」ことを知る吉田茂が、「国防軍の一つ陸軍が復活すれば、赤い旧軍の共産主義者軍人が復帰して必ずやソ連と通謀して共産クーデターを起こす」と懸念し、断固反対を主張したからである。“35万人の日本陸軍”を再建しようと考えていたフォスター・ダレスは、吉田茂の反対に憤慨し吉田が言い放った「陸軍を復活させるぐらいなら、米国に日本の国防を全面的に託した方がいい」の通り、日米安保条約を起草した。旧・日米安保条約の前文は、吉田が1951年1月にダレスに語った言葉をそのまま記述した。第九条改正を拒絶した吉田茂へのダレス流“戯れ的しっぺ返し文”である。

 岸信介が、憲法第九条の改正をにしても安保条約の改定がだと順序を誤ったのは、旧・日米安保条約の前文が「余りに屈辱的である」ことへの憤慨からで、本性が民族主義の岸信介らしい感情過剰のミステークである。軍事同盟条約は、国内法と異なり、その運用は条文などに拘束されず拡大解釈や適当解釈が許される。が、“国際法音痴”岸信介は、目くじらを立ててしまった。

 1950年代後半、第九条改正が国会で賛成が三分の二とならず阻止された第二の理由は、社共を始め日本の左翼・極左勢力の絶対反対運動の強烈さにある。「ソ連軍を日本列島に招き入れて日本を共産化する」は、彼らのイデオロギー上も譲れない信仰だった。しかも、日本共産化を国内革命ではなく、外部の軍事力で達成する考え方は、1989年の東欧解放までは、日本の左翼政党と学界における絶対多数意見として根強く支配的であった。

 私の個人的体験だが、1960年代/1970年代になっても丸山眞男はそうだった。1975年に神奈川県知事になった長洲一二もそうだった。ソ連東欧学会の東欧学者は、1980年代に入ってもソ連の対日侵攻を固く信じていた。学会でこれらの東欧学者の会話を耳にしては、私は何度も唖然とした。

 関嘉彦と「ソ連軍侵攻時の自衛隊」を論争した森嶋通夫(ロンドン大学教授、経済学者)もこの典型で、次のようにキャンペーンした。これはつとに有名な話。ソ連がアフガニスタンに侵攻する直前だったが、ソ連KGB第一総局とも接触が濃密だった森嶋通夫は、アフガンの次にソ連軍が“ザ・ネクスト”として北海道に侵攻する計画も知らされていただろう。1979年の『文藝春秋』誌にこう書いた。

「万が一にもソ連が攻めて来た時には、自衛隊は毅然として秩序整然と降伏する他ない。徹底抗戦して玉砕して、その後に猛り狂うたソ連軍が殺到して惨憺たる戦後を迎えるより、秩序ある威厳に満ちた降伏をして、その代わり政治的自決権を獲得した方が、ずっと賢明だと私は考える」(注5)。  

 このようなエセーが二十万部の購読数を誇る『文芸春秋』誌に掲載されることは、ソ連軍の対日侵攻事態を荒唐無稽な絵空事とせず現実的だと考える日本人が相当数に上り、しかも、侵略してくるソ連軍を熱烈歓迎する読者層もかなりの数に上るということだろう。

 が、八木秀次はどうやら、この「対ソ非武装=ソ連軍日本侵略熱烈歓迎」は、GHQ製の第九条から形成されたと言いたいらしい。つまり八木は、無知をいいことに、本末転倒の、因果関係を逆にした“逆立ち詭弁”を展開している。

 大東亜戦争時から日本では、「ソ連軍日本侵略熱烈歓迎」が、陸軍内では、密かというより公然の基本的軍事方針となっていた。このことは、1943年夏以降の関東軍参謀部の方針だった事実で明らかだし、1944年頃から陸軍参謀本部が煽動する“一億玉砕”も“本土決戦”も、この「ソ連軍日本侵略熱烈歓迎」から生まれた戦時国策であった。

 ということは、戦後GHQ占領による当然の第九条が、それより前の戦時中のこのトンデモ戦時国策を生んだのではないことは自明となる。この祖国反逆の戦争目的は、第九条よりもGHQの進駐よりもはるか前、1930年代からスターリンに注入され陸軍トップ軍人を中心にエリート日本人の頭に深く浸透していた思想によって形成されたのである。森嶋通夫も、丸山眞男も、長洲一二も、1980年代の東欧学者も、阿南惟幾・陸軍大臣に代表される1944~45年の陸軍中枢が共有していた暗黙の大東亜戦争基本方針を、GHQの進駐にかかわらず、ひたすら堅持し続けていただけである。

 すなわち、第九条が八木流嘘話「GHQ占領行政の維持装置」なんかではないのは当たり前だし、八木流無根拠憶測「主権回復後の日本で猖獗する“第九条を奉戴する極左勢力”は第九条から生まれた」説は、大間違いの危険な暴説である。

第九条論争史を知らずに妄言・暴言を弄ぶ八木秀次に憲法改正を語らせるな!

 このことは、第九条を金科玉条と信仰し奉戴する日本の極左勢力とその第九条との関係を探索すれば分かること。例えば、社会党の戦術スローガン「非武装中立」なる詭弁が、第九条改正と国防軍保有を阻止するに実に効果絶大だったことを思い起こすがよい。「非武装」とは自衛隊解散の意で、「中立」とは日米安保条約の破棄の意だが、こんな非現実的で国際法・中立法規違反のトンデモ「非武装中立」論を真正面から論争すると、いつしか第九条改正問題が脇に追いやられるのは、どうしてだろう。

 北朝鮮人・土井たか子の「非武装中立」は最も有名だが、「非武装中立」とは「ソ連軍日本侵略熱烈歓迎」の別名であった。このことは、土井たか子の前任・社会党委員長だった石橋政嗣との対談の席で、社会党員の小林直樹・東大教授(憲法学)がさらりとばらしている(注6)。

 だが、改憲を党綱領で掲げる自民党国会議員を見ればわかるように、「非武装中立=ソ連軍日本侵略熱烈歓迎」という核心を衝いて、「非武装中立=第九条改正阻止の特効薬」絶滅に取組む政治家など一人もいなかった。一般の日本人でも、私以外は一人もいない。

 要するに、「第九条改正=国防軍を持とう」運動やアッピールは、過去それなりに存在したが、第九条改正=国防軍創設を阻止する真っ赤な有毒・有害イデオロギー「第九条を守る」を粉砕せんとする運動や理論となると、私を除き、戦後日本では誰も何一つとしてしなかった。

 このほど惰弱な国防軽視/国防忘却は、安倍晋三を中心とする民族系国会議員の派閥「創生日本」においても顕著である。安倍晋三を始め「創生日本」は一度として、「第九条を守る」イデオロギー/政治勢力を粉砕すべきだの議論などしたことはない。それに向かった行動を起こしたこともない。

 現に、安倍晋三が第一次政権の座にあった2006年、北朝鮮人・太田光が『第九条を世界遺産に』を、北朝鮮人・土井たか子/佐高信が第九条に拘っての『護憲派の一分』を出版したが、安倍は共産党とグルになって日本国の国家解体である地方分権/地方主権ばかりに精を出し、無関心に徹した。要するに、総理職にあった“人気至上主義者”安倍晋三は、第九条改正という日本国の至上命題が左翼勢力に封印的に粉砕されている危機的情況を、無為において間接支援したのである。

 真に日本国を外敵から防衛せんとする熱情の愛国心は、既に日本人から消滅して久しい。とりわけ、“最凶悪な祖国叛逆”であった大東亜戦争八年間を肯定する“新・国賊”民族系は、八木秀次を見ればすぐ分かるように、教養も知識もゼロの無学漢であるばかりか、大正時代から徐々に形成された「ソ連軍日本侵略熱烈歓迎」というエリート日本人の「非・国民化」情況を、全く無関係なGHQ製第九条と米国に責任転嫁する“クズ人間の中のクズ人間”たちである。

 戦後七十年経った日本国は今、左には第九条改正(=国防軍創設)を阻止せんとする共産党&(旧社会党の残党組といえる)在日北朝鮮人たちの「日本国破壊ウィルス」の猛毒、右には何でもかんでも米国に責任転嫁して無為を貪る“人格腐敗集団”民族系の「高い伝染力の日本人堕落促進ウィルス」、この双方のウィルス挟撃で滅びへと真っ逆さまに堕ちている。日本の亡国は間近。

(2015年8月記)

注  

1、八木秀次「ポツダム体制維持装置としての左派と憲法」、『正論』2015年8月号、頁は引用文中。  

2、有馬哲夫『スイス諜報網の日米終戦工作』、新潮選書、281頁。有馬が『Voice』2015年9月号に書いた論考「ポツダム宣言は日本の罪を問うていない──碧い眼の天皇崇拝者が皇室を残すために考えだしたもの」も、高く評価される。後者の論考にある「ポツダム宣言案の作成者はドゥーマンで、スティムソンはその改訂者」を私は知らなかった。学術的に大変貴重な発見である。

3、中野剛志「日本を封じ込めるヤルタ・ポツダム宣言」『WiLL』2015年7月号。  

4、中川八洋『昭和天皇と靖国神社』、kindle版、第5章第2節、参照のこと。  

5、森嶋通夫「新〈新軍備計画論〉」『文藝春秋』1979年7月号、112頁。  

6、小林直樹・石橋政嗣「非武装中立をいかに進めるか」『月刊社会党』1984年1月号。

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