筑波大学名葉教授 中 川 八 洋
1861年、日本は対ロ無交渉・無条約によって、対馬をロシアの強奪寸前から無事に奪還。これは、幕閣の中枢が親英・反露派になったことと大俊英・勝海舟の頭脳とが化学反応したことで可能になった、一種の偶然で奇跡。
だから、この勝海舟の対ロ無交渉・無条約主義は、幕府の慣例とはならなかった。幕閣の反露派は少数だった上に、幕府政治は、紀元元年頃の神武天皇の御代に始まる大和朝廷以来の日本政治文化「先例重視」を慣行としていた。が、先例重視は、無思考・無賢慮と表裏一体。だから、川路聖謨が、1855年の日露和親条約で確立した「対ロ宥和路線」は、1861年の対馬奪還の成功事例を考慮することなく、何ら改変もされず唯々諾々と踏襲された。むしろ、日本の対ロ態度は、対ロ宥和“狂”川路聖謨に呪縛され、その枠内から一歩も出なかった。すなわち、幕末発祥の“日本病”「日本は対ロ属国」主義は、今に至るも治癒しない。今後も治癒しないだろう。
表1の表現で言えば、日本が正しい「正」の対露外交に戻った1861年8~9月は奇跡の“一場の夢”だった。とすると、日本が、侵略ロシアの前線と邂逅した、1792年のラクスマン/1804年のレザノフに抗して、無交渉・無条約を貫いた(最上徳内が「得撫島に実効支配用の幕府小部隊を駐屯させよ」と1786年に建白したような、)正常な対ロ外交は、(得撫島だけには幕府軍の駐屯がなかった大ミステークを除き)樺太/宗谷/択捉島への駐兵という最も正しいやり方で1815年まで続いたが、これが最初で最後だったことになる。