“北方四島”奪還の好機を何度も棄てた“ロシア属国”日本

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 私が、“北方四島奪還の五条件”をひっさげ、全国を講演して回り出したのは、私を触発したロナルド・レーガンが1981年1月に米国大統領に就任したのがきっかけ。1983年末頃までは熱心に説いた。北方四島奪還の五条件とは、「北方四島を本当に奪還したければ、日本は、1に対ロ無交渉、2に対ロ無条約、3に対ロ国交断絶(=鳩山一郎が締結した「日ソ共同宣言」の破棄)、4に対ロ経済途絶(田中角栄が開始したシベリア開発協力の完全禁止ほか)、5に四文字魔語《日ロ友好》の禁止ならびにロシアとの文化/学術交流の禁止」。

 当時の日本人聴衆は、私の上記提言をかなり好意的に拍手してくれた。満州におけるロシア軍の蛮行と北方領土の不法占拠に対する怒りが常識の世代がまだ現役(65歳以下)だったからだ。

「1の対ロ無交渉・無条約」は、勝海舟と吉田茂に学んだ、私のかねてからの持論。だから、1980年にレーガンが大統領選挙の公約として“対ロ無交渉・無条約”をアメリカ国民に訴えているのをTVで聴いた時には興奮し、大いに鼓舞された。レーガンは、「アフガニスタンに侵略したソ連とは決して外交交渉をしない」「ソ連とは、核兵器に関するどんな協議もしない。条約も締結しない」と、アメリカ国民に訴えていた。

 イワン雷帝に始まる“ロシア対外行動五百年史”の研究者である私は、《ロシア民族は、条約で領土を決して返還しない》ことを熟知する、日本唯一人の学者。だから、私のみ、「1955~6年の対ロ交渉で鳩山一郎/河野一郎が散々な対ロ外交“大敗北”した主因は、対ロ交渉したこと自体」と、正しい洞察をなしえた。該博な歴史知見こそ、正しい対ロ政治判断を育てる温室である。

表1;偉大な対ロ無交渉主義者

勝海舟

1961年3月、ロシア軍艦「ポサドニック号」が対馬に占領目的で投錨。英国から対馬を守るためと大嘘。当初は親ロ派の日ロ同盟論者・小栗忠順(上野介)が外国奉行。小栗はロシアと通謀しつつかき回すばかり。“売国奴”川路聖謨と同じ外患罪の行為。親英派の老中・安藤信正が小栗を罷免し(8月31日)、親英派の水野忠徳を外国奉行に登用。英仏と同盟して対ロ戦争すら辞さない覚悟の水野は勝海舟を密使にポ号退去を画策した。結局、「安藤・オールコック英国全権公使・オリファント書記官・ホープ英国東洋艦隊司令官」が基本方法を合意し、「水野・勝」が精緻な策謀を立案。最後にホープ率いる英国軍艦二隻の対馬での恫喝に屈し、露艦は退散(9月19日)。安藤や水野や勝が長崎奉行所を排除して事を進めたのは、長崎奉行所は親ロ派が絶対多数だったからだ。尚、親米派の横井小楠が、この時、勝海舟にあれこれ知恵で協力。

吉田茂

ソ連政府代表部は、日本側がアグレマンを出さないので、職員は1954年末には(八百名以上→)七名に激減し、大使館の開設がなければ対日外交は、断絶寸前。首相・吉田茂は外務省に「ロシアと接触するな!無交渉を貫け。ロシアは必ず北方四島とクリルを引っ提げ、国交回復“お願い”と日本に土下座してくる」と厳命していた。吉田の炯眼は超一流だった。

レーガン大統領

ソ連軍のアフガン侵略を絶対に許さないレーガンは、ソ連との核戦争を辞さない姿勢を旗幟鮮明に掲げ、中距離核戦力の西欧配備と海上からの核トマホークによるソ連全土包囲網を完成させた。一期目の四年間(1981・1~)、ソ連との外交交渉を完全に断った。この結果、ソ連は1983年末、米国に白旗をあげ東欧解放を決断。対ロ無交渉と対ロ核軍拡が世界に平和をもたらした。

 背後の安藤信正(老中)と水野忠徳(外国奉行)の支援の下に勝海舟が交渉をいっさいせず、1861年、対馬を占領していたロシア軍艦を退去せしめた偉業について、(安藤・水野・)勝の“無交渉の交渉”こそ「正統な対ロ外交/唯一合理的な対露外交」だと説明した論文や著書は、日本の学界に一点もない。勝海舟の天才的な1861年対ロ“無交渉”外交を、明治維新政府は「江戸幕府がやったものだから」と無視し、後世に「学ぶな」と逆・教育した。安藤・水野・勝三人の共同偉業である“無血”ポサドニック号退去を勝一人で表象するのは、中学二年生の時に読んだ『氷川清話』の記述からの私の癖。

 また、戦後日本でも、首相・吉田茂の対ロ無交渉主義について、一言も言及されない。その学術的な分析は、私の簡単な説明を除き、本格的な論文が一本もない。レーガンが掲げた1980年の大統領選挙中の選挙公約「ソ連とは一切交渉しない」を聴いた時、私の脳裏の中で、対ロ外交の神髄“対ロ無交渉の交渉” が開眼した。そして、「勝海舟→吉田茂→R.レーガン」の三名が結びついた。中学二年生の1958年頃から、私にとって勝と吉田は憧れの外交官だった。

第一節 ロシアは侵略領土を、条約や話し合いでは万が一にも返還しない

 日露戦争講和のポーツマス条約について、日本では先入観的な大誤解が浸透している。この誤解とは、「日本はポーツマス条約で、米国のテオドア・ルーズベルト大統領の助力もこれあり、樺太の南半分を、やっとのことで奪還した」。これが現代史学界の通説。

“既に日本領”樺太全島から「北半」を捥ぎ取ったロシアを「正当化」のポーツマス条約

 が、正しい条約解釈は、「日本は、日ロ戦争中に、日本国の“固有の領土”樺太を失地回復していたのに、ポーツマスで対ロ交渉をしたばかりに、日本領になっていた樺太全島の北半分を逆さにもロシアに捥ぎ取られた」である。なぜなら、日本は日ロ戦争中に樺太全島を軍事的に奪還。ポーツマスでの日露交渉中、日本は十全な軍事力を樺太全島に配置しており、ロシア兵は一兵もいなかった。つまり、ポーツマス条約を締結していなければ、樺太全島は日本領だった。ポーツマス条約とは、ロシアの“非軍事力の北樺太侵略”を是認する、日本の国益を害する逆立ち条約だった。

 また、1945年8月~のロシアの樺太侵略は、ポーツマス条約が無ければ、なかった可能性が高い。ポーツマス条約が、スターリンをして樺太侵略を誘発したと考えられるからだ。このように、1941年4月の日ソ中立条約を見るまでもなく、《ロシアとの条約は必ず日本を害し、ロシアとの無条約のみ日本を裨益する》は、日本人が拳々服膺すべき最重要な心得だろう。

 日本人はロシアを全く知らない“ロシア白痴”。ロシアの領土観は、十三世紀のチンギス・カンのまま。国境は無条約(軍事力の駐兵)で定めるロシア大原則は、八百年変わっていない。ロシアは、紙切れの条約で国境を定める近代欧米の国際ルールを、“役に立つ白痴”行為と蔑視している。

 つまり、ロシアが領土問題で条約を締結するのは、相手を騙すのに効果的であると判断した時。ポーツマス条約は、ロシアが樺太「北半分」を奪還し、かつ日本を対ロ油断させる麻薬効果が抜群だから、ロシアは締結した。樺太「南半分」を日本に渡すために締結したのではない。日本人の対ロ外交/対ロ観は、未熟な幼児の発想で、何から何まで逆立ちしている。

アラスカを米国に売却したのではない。バルカン半島支配権をアラスカと交換した露

 もう一つ、“ロシアと領土”に関する日本人の誤解を例示しておこう。「ロシアは財政不如意の時、領土を売却することがある」との、日本人の度し難い思い込み。

 この日本人の短絡的な思い込みは、ロシアが1867年(明治維新の前年)、アラスカを720万㌦で米国に売却した歴史事実を根拠にしている。しかし、ロシアは、クリミア戦争の敗北による疲弊と財政困窮から立ち直らせることを筆頭目的として、アラスカ売却をしたのではない。

 アレクサンドル二世皇帝は、アラスカ売却で手にした資金を、クリミア戦争(1853~6年)でボロボロになった陸軍力を再建し、精強なロシア陸軍に(オスマントルコ帝国が支配する)バルカン半島とザ・カフカ―スを所狭しと蹂躙させるのを目的に、ロシア経済全体の活性と再建に投下した。ロシアの領土的膨張/海外権益の大増強、これがアラスカ売却の第一目的だった。

 日本人は、ロシアのアラスカ売却をもって、「ロシアは財政不如意の時、領土を売却することがある」と、安直に短絡するのではなく、もっと正鵠を射た《ロシアは、アラスカをバルカン半島やアルメニアと交換した》と解すべきである。

 アレクサンドル二世皇帝のバルカン半島等への侵略が、1877~8年の露土戦争。彼のアラスカ売却1867年から十年目。クリミア戦争敗北から二十一年目。ロシアは、巨額な資金を手にしてから十年かけて精強な対外侵略力を再建した。英仏から蒙ったクリミア戦争敗北から二十一年目に見事に復活した。

 この露土戦争の成果は、ベルリン条約(1878年6月)で若干の下方修正になったが、ロシア領土とロシア権益の巨大な増大をもたらしたサン=ステファノ条約(1878年3月)に結実。アラスカが、これらのロシア新領土やロシアの新・権益の領土に化けたのである。ロシアは金欲しさからの単細胞的な領土売却など決してしない。あくまで、より重要な領土を獲得するために、その時点では価値の低い不毛の土地(備考)を交換的に売却するだけ。

 サン=ステファン条約とは以下(ベルリン条約による修正後)

(1)ロシアがオスマントルコから獲得した新領土;「アルメニア/ドブルジャ/ベッサラビア/アナトリア東部(バトゥミ/カルス/アダハン)」。

(2)オスマントルコから独立(ロシアの勢力圏);「ルーマニア(モルダヴィア+ワラキア)/セルビア/モンテネグロ」

(3)オスマントルコから捥ぎ取って自治権付与(ロシアの権益下);「ブルガリア公国/ボスニア・ヘルチェゴヴィナ」

 上記(1)だけでも、その価値は、当時は単なる毛皮の猟場に過ぎなかたアラスカと比較すれば数百万倍にはなろう。ロシアは、アラスカを「アルメニア/ドブルジャ/ベッサラビア/アナトリア東部(バトゥミ/カルス/アダハン)」と交換したのである。日本人は、ロシアのアラスカ売却の目的を代金欲しさなどと視野狭窄してはならない。

ゴルバチョフに「北方四島を二兆円で売れ!」と交渉した“世紀のお馬鹿”小沢一郎

 1991年3月、自民党幹事長・小沢一郎は、「北方四島を二兆円で売って欲しい」と、モスクワに出かけゴルバチョフと二回も会談。この二兆円、「北方四島が返還されるなら安い買い物だ」と、大蔵省も了解。が、ゴルバチョフは、「そんな話は、僕はしていない」と、相手にしない。小沢は「某政府高官から、ゴルバチョフからの話ですと東京で耳打ちされた」と文句を言ったが無しの礫。

 これ、当時の新聞も大きく報道した実話。当時の日本人は、「ロシアは財政破綻すると領土を売る。1867年のアラスカがその好例」と知ったかぶり。私は、唖然。

 アラスカ売却は、バルカン半島に侵略する陸軍力再建・精強化のための資金づくり。一方、1990年に世界が知るところになった、致命的なロシアの財政破綻は、公務員や兵士の給料が全く支払えない“唯の金欠”。《領土拡大の侵略用の金がない》事態ではない。ならばロシアは、決して領土を売らない。国民が窮乏しようが飢えて死のうが、為政者は全く気に留めないのがロシア政治。

 では、なぜ1990年末からKGB第一総局は、嘘情報「ゴルバチョフは北方四島を売るかもしれない」を日本の新聞や雑誌で流したのか。第一は、①「北方四島に無血進駐せよ」の声が日本に撒き起こるのを事前封殺するため。第二は、ゴルバチョフは1991年4月に訪日し、日本から巨額の経済支援を獲得するに、②日本に日ロ友好ムードを醸成する“麻薬の嘘話”の打ち上げ花火。

 ①について私は、1990年10月頃から外務省に日参し、「日本は北方四島に無血進駐する好機が到来した。これを実行するに米国の国務省と国防省の協力が絶対に不可欠だから、米国にそう働きかけて欲しい」と説いて回った。私以外、「無血進駐」論を主張した者は誰もいなかった。

 1980年代のロシアはまだ、「日本人は劣等民族ではなく、中川八洋級が相総数いるはず」と日本人を過大評価し、それなりの用心をしていたようだ。が、東京KGB第一総局の1990年末の調査で、日本人の「北方四島無血進駐」論は“中川八洋たった一人”だと発見し、ロシアは相当に驚き、同時に笑い転げ小躍りしたに違いない。「日本は既に国家ではなく、完全な“ロシアの奴隷国”に成り下がっている」「日本人とは世界随一の劣等民族!」、と。

 しかも、ゴルビー自身も1991・4訪日を通じ、上記のKGB調査に同意。日本に「北方四島に無血進駐する好機だ。北方四島のソ連兵は給料未払いから一人残らず逃散している。太平洋艦隊の艦艇は一隻も稼働していない」の声がないのを確認したからだ。そしてゴルビーは、「北方四島は永久にロシア領として安泰だ」とほくそ笑み、対日蔑視観を強固にした。外務省が小躍りしながら進めたゴルビー訪日は逆噴射したのである。1990~91年、日本の対ロ外交は大敗北どころか、完全破綻。対ロ外交そのものが雲散霧消し、日本国の全体が“ロシアの奴隷国”へと転落したからだ。

 1991年3月、小沢一郎がモスクワで「北方四島のお土産が無ければ、翌4月のゴルビー訪日は認めない」と世界に宣言しなかった飛び抜けた日本の暗愚が、百年に一度の無交渉で北方四島“奪還”できる好機をぶっ飛ばした、だけではなかったということか。

ロシアと領土に関連する平和条約を締結した隣接国すべて、ロシアに侵略された。

 1920年代以降の「ポーランド、フィンランド、バルト三国、アフガニスタン、日本、その他」の諸平和条約/不可侵条約/善隣友好条約/中立条約を、網羅的にここにリストする予定だったが、本稿では省略する。

(附記)アラスカを買い、八~九十年先の米国の国防を護った“先見の天才”スワード

 アラスカを売却したロシアは、アルメニア等の新領土を獲得するばかりか、バルカン半島の膨大な諸地域を権益下に置いた。アラスカ売却はロシアの国力伸長に絶大に貢献した。一方の米国も、アラスカ購入によって、その対ロ安全保障を絶大に高めることができた。後者は、日本の国防の要「日米安保」の基盤を創り、日本をも裨益した。

 アラスカ購入の当初(1867年)、米国国務長官スワードSewardの評判は良くなかった。アラスカは単なる“不毛の冷蔵庫”で、経済的利益も安全保障上の利益ももたらさなかったからだ。が、アラスカから金が産出し(1899年)、次には石油埋蔵が半端でないことがわかると(1968年)、アラスカ購入はアメリカ国民から絶賛された。

 が、不思議なことに、《アラスカの価値は米国の安全保障に天文学的に貢献した》との、最も重要な評価が米国でも少ない。1944年秋からB29の日本空襲が始まったように、この年をもって、人類は長距離爆撃機の時代に突入した。このB29のコピーであるソ連のTU(ツポレフ)‐95が、運用が開始された1956年からアラスカに配備されていたら、1947年に始まる米国の対ロ包囲のパックス・アメリカーナは産まれていない。

 キューバ危機の1962年、仮にソ連が核弾道中距離ミサイルSS‐4&5をキューバに加えてアラスカにも配備していたら、どうなった? キューバは第三国だから、ケネディは外交でそれらを撤去せしめられた。しかし、アラスカはロシアの自国領土。米国は“万事休す”で詰んだ、かも知れない。

 そればかりか1970年代、ブレジネフのソ連は、バックファイア爆撃機とSS20を西欧諸国と日本を標的として配備した。このバックファイアが仮にアラスカに配備されていれば、米国は天才レーガンでも、ほとんど絶望状態に陥っただろう。

 米国と西欧と日本にとって、1867年のスワードの決断は救世主。スワードの先見力は天才。私は、スワードの銅像を東京の日比谷公園に建立したいと1980年代に何度か講演したことがある。誰か私の後を継ぎ、是非ともこれを成就して欲しい。日本国の安全保障は、スパイクマンが喝破する如く、米国が安全であって初めて成り立つ。米国領アラスカは、日本の守り神。

 尚、米国のアルーシャン列島はアッツ島まで。そこで日本こそが、(1905年と1918年に可能だった)同列島の「ロシア領」二島と軍港ペトロパブロフスクが在るカムチャッカ半島の先端とを、ロシアから引っ剥がして米国に譲渡すれば、日本の安全保障は鰻登りに高まる。検討すべき課題ではないのか。

第二節 「日英和親条約(→日英同盟)」「日米和親条約(→日米同盟)」は、元祖“日本の守護神”

 1850~60年代の幕末の日本は、その五十年前の1800年前後の日本とは、ガラリと様変わり。1800年頃の日本とは、最上徳内、間宮林蔵、近藤重蔵、伊能忠敬、林子平、会津藩など、第一級の愛国者たちに満ち満ちていた。対ロ国防の熱情が日本中、所狭しと漲っていた。

 つまり、僅か五十年で、徳川幕府だけではなく、日本全体に腐敗・退嬰もしくは劣化・退化現象が起きたのだ。その一つに、日本国の固有の領土をロシアに無償で割譲する対ロ主権放棄を定めた、“日本はロシアの奴隷国です”を誓約する“狂気の条約”日露和親条約(下田条約、1855年2月7日調印)がある。1800年前後の日本人なら、プチャーチンと交渉すること自体を、初めから拒絶している。いや、プチャーチンを斬り殺している。北条時宗は、対日侵略する元の使者「杜世忠」を斬り殺したが(1275年)、これが正しい対ロ外交のモデル。

 尚、英国スターリング海軍少将が長崎に入港したのは、プチャーチンを捕縛し、彼が乗艦するディアナ号を撃沈するため。川路聖謨とは、反・外交に暴走した日本最凶“対ロ売国奴”の嚆矢。

 猛毒な下田条約の延長上に、①1945年8月~の満洲と樺太の地獄の悲劇は起きた。近衛文麿・松岡洋右が締結した日ソ中立条約とは、まさに《第二の日露和親条約》だった。②日本人が家鴨やガチョウとして屠殺同様に二万人も戦死傷させられたノモンハン戦争(1939年)も、下田条約から遺伝した悪性の癌だろう。③史上空前のロスケ近衛文麿が独断で開始した1937・7蒋介石殺害戦争(=日中戦争)は、下田条約によって日本がロシアの奴隷国になった、その延長上に起きている。

 日本の現代史学界は、奇天烈を超えて赤い狂気を爆発させる。日本の安全保障を天文学的に高めた日英和親条約に関して、研究が一本もないからだ。学校教科書でも全く言及していない。が、一方、日本の主権と領土の一体化がロシアに剥奪された日露和親条約の方は、論文も言及もトラックの荷台から零れ落ちんばかりに大量。日本とは“完全なロシアの奴隷国”なのが一目瞭然。

“偉大な外交官”水野忠徳の名を知らない、一億“非国民”に成り下がった日本人

 共産党支配の、日本の赤い学界が検閲・抹殺した日英和親条約について、日本の固有の領土をロシアに献上した“日本の害敵”日露和親条約と比較しておこう。日本人とは、《益を排し、害を採る》“転倒の外交”を是とする、狂人ばかりとなった赤い脳の劣等民族。この比較をすると、日本人のこの特性が鮮明に浮かび上がる。

 日本人とは、自国毀損に興じる転倒思考しかできない。だから、日本が誇る“偉大な外交官”水野忠徳の名前を誰も知らない。また、日本国の安全を高めてくれた“日本の恩人”英国海軍軍人スターリング海軍少将やブロートン海軍中佐の名前すら、“恩知らず”日本人は誰ひとり知らない。

表2;日本を絶大に益した日英和親条約、日本を“ロシアの属国”にした日露和親条約

日英和親条約(水野忠徳←→スターリング)

日露和親条約(川路聖謨←→プチャーチン)

・1854年10月14日、長崎で調印。日本を裨益すること無限だった、1902年の日英同盟の原点となった条約。

・対馬を占領中のロシア軍艦「ポサドニック号」を無血で退去せしめた、勝海舟の外交偉業(1861年)も、水野の条約があって可能となった。

・オランダの助言を大切にした水野とは逆に、“傲慢な対ロ売国奴”川路はオランダの意見を排斥した。水野忠徳は最上徳内/勝海舟と並ぶ、江戸幕府三大ベスト外交官の一人。

・日本の国益を心底から考えるオランダの知恵を排除すべく、“傲慢な対ロ売国奴”川路聖謨は長崎ではなく下田で交渉し、思い付きと妄想の暴走外交を恣にした。

・川路聖謨は、オランダの知恵と情報を排した上に、最上徳内と間宮林蔵の「得撫島・樺太“日本領土”確定」行動をゴミに扱いポイ捨て。

・1953年のクリミア戦争の勃発で、北方海域のロシアは英仏海軍から逃げ回っていた。が、川路は、この幸運な状況をゴミに扱いポイ捨て。

 幕末日本の外交は、の日露和親条約(1855年2月)の日英和親条約(1854年10月)の二つが拮抗。これを対比的にまとめたのが表1。日英和親条約の立役者が、日本側が長崎奉行・水野忠徳と永井尚志(英国側は「提督」と呼んでいる)。英国側が海軍少将J.スターリングStirling。スターリングは、1854年9月7日、四隻の軍艦「ウィンチェスター」「エンカウンター」「スティックス」「バラクータ」(英国「東インド・支那艦隊」所属)を率いて、長崎に入港。

 水野忠徳は、僅か五週間後の10月14日、日米和親条約とほとんど同じ日英和親条約を、スターリングと締結した。スターリングのロシア脅威論(「ロシアは樺太・得撫島への侵略意図を持つ」ほか)に賛同してのことか否かは不明だが、この新条約が、英国と交戦中のロシアを敵視することは承知していた。水野は、「日本は親英・反露の外交策を採れ」のオランダの献策を、諒とした。幕末の徳川幕府で、勝海舟に次いで英才だった水野忠徳のなした英断は、祖国に多大な貢献をなした。この日英和親条約こそ、五十年後の1902年の日英同盟へと繋がっているからだ。

(参考)スターリング海軍少将の先駆者、ブロートン海軍中佐

 1796年、ブロートン海軍中佐が艦長の、英国プロヴィデンス号が、北海道の噴火湾を遊弋し虻田に上陸した。翌1797年には、同号は、室蘭の絵鞆に入港。これは《北海道は英国の勢力圏》だとロシアをビビらせ、ロシアの侵略を北海道北方周辺に追いやり、北海道の対ロ防衛に貢献した。

 具体的には、ブロートン海軍中佐の北海道・虻田/絵鞆への上陸は、1972年ラクスマンの根室・松前上陸に対抗する英国海軍力のプレゼンスとして働いた。ロシア軍艦の南下を阻むイギリス軍艦の日本周辺“遊弋”は、このように日本国の安全保障に大いに裨益した。

英仏ペトロパブロフスク・カムチャッキー上陸戦(1854年8~9月)の歴史を抹殺する日本

 ロシアKGBの完全な支配下にある日本の現代史学界は、日本の国益を致命的に損壊したプチャーチンと川路聖謨を逆さに持ち上げる。その一つに、英仏の連合艦隊が1854年8~9月、「ペトロパブロフスク・カムチャッキー上陸戦」をなした重要歴史を幕末外交史から抹殺する、歴史の隠蔽がある。日本の中高『日本史』教科書は、この重大な歴史を全く記述していない。

「ペトロパブロフスク・カムチャッキー上陸戦」では、英仏軍艦六隻に対し、ロシア側は二隻しかなく、圧倒的な戦力格差がありながら、英仏軍は上陸作戦に失敗し退却。この英仏軍の敗北は、日本側が米国の三~五倍の戦力を有しながら敗北したミッドウェー海戦を髣髴とさせる。

 1855年5月、英仏軍は陣容を立て直し、再攻略戦をすべくペトロパブロフスクに突入。が、蛻の殻。ロシア軍の守備隊も一般ロシア人も、1855年4月、英仏軍の再攻撃を見越して、アムール川の河口ニコライエフスクに避難してしまっていた。得撫島にいたロシア人猟師「入植集団」も一人残らず、1854年夏にはペトロパブロフスクに引揚げ、得撫島のロシア人はゼロ人だった。

 このようにロシアが英仏軍に一方的に攻められている情勢下で、このロシアと外交交渉する馬鹿は、世界広しと言えども一ヶ国も存在しない。なのに、“対ロ売国奴”川路聖謨は、クリミア戦争中、英仏海軍が捕縛せんと追いかけている“お尋ね者”プチャーチンと、下田で逆立ち外交交渉。

 川路聖謨がプチャーチンを捕え英国に突き出せば、交渉自体がぶっ飛ぶし、英国は日本に恩義を感じ、万事解決。これほどまで常軌を逸していた川路聖謨は、精神異常者ではなかったか。江戸城の開城の日、寝たきりだったにせよ、川路はピストル自殺。これも全く解せない。狂人の行動。

日本人の外交力の先天的欠如は、ペトロパブロフスク攻略「方針」の不在に明らか

 カムチャッカ半島のロシア軍港「ペトロパブロフスク・カムチャッキー」に言及したついでに、日本はなぜ、このロシアの対日侵略策源地を叩き、占領して日本領土にしなかったのか、という問題にも少し触れておく。なぜなら、ロシアの日本侵略の嚆矢は、1806~7年の“レザノフ‐フヴォストフの三露寇”だが、フヴォストフの軍艦は、ペトロパブロフスク・カムチャッキーから出撃し、ここに逃げ帰った。

 軍港「ペトロパブロフスク・カムチャッキー」が無ければ、この“文化の三露寇”は無かった。露寇の再発を防止する方法は、軍港「ペトロパブロフスク・カムチャッキー」を日本領にするか、日本が占領・領有した後、米国に譲渡すれば済む話。しかし、この常識的な発想が、日本人から生まれない。

(備考) 尚、松前藩は、アイヌが居住している所までが日本領と考え、カムチャッカ半島の南端にはアイヌがいたから、松前藩はそこも日本領土だと主張していた。幕府は松前藩の主張を知っていた。

 しかも、日本がカムチャッカ半島の南端を占領できるチャンスは二回巡ってきた。一つは、1905年の日露戦争でロシア・バルティック艦隊を撃滅した直後(5月17日~)。二回目が、1918年3月のブレスト・リトフスク条約でロシアが敵(ドイツ)側に寝返った直後から第一次世界大戦終了(同11月)まで。

 が、日本は外交や国防において度し難い脳天気な民族。敵の策源地「海軍基地」を攻撃し占領する、通常の発想が全くできない。これは、ロシア・バルティック艦隊を撃滅した直後の1905年5月、ロシア太平洋艦隊の巨大な軍港ウラジヴォストークをいとも簡単に占領できたのに、日本はそれすらしなかったことで明らか。親日家コリアン安重根は、日本がウラジヴォストークを占領しないのを切歯している。常識であるべき「ウラジヴォストークを占領せよ」が安重根一人とは、日本民族は情けない。

(参考) レザノフが首謀者の“フヴォストフの三露寇”

 “侵略の天才”ロシアは、十八世紀の半ばに、「オホ-ツク海域をロシアの内海にするためにも、二大戦略要衝の地「樺太得撫島」をロシア領にする」「択捉島を日露間の緩衝地帯とする」との日本侵略の方針を確立。この方針に沿って、レザノフは、部下のフヴォストフに、樺太クシュンコタン(1806年10月、文化三年)、択捉島シャナ(1807年5~6月、文化四年)、利尻島・礼文島(1807年7月、文化四年)の三ケ所を襲えと命令した。日本人を恐怖で畏怖させ、日本人を底から逃散させて領土を奪取する、ロシアの伝統的な侵略方法。

1、樺太クシュンコタン“寇掠”

 二回目の襲撃(10月24日)を例にする。三十数名のロシア兵が、運上屋の番人四名を捕え、米六百俵と雑貨を掠奪し、家屋11ヶ所に放火し、漁網と船をすべて焼き払った。

2、択捉島シャナ“寇掠”

 択捉島のシャナには幕府会所があり、弘前藩と南部藩(盛岡藩)の藩兵と幕府部隊とが駐屯。この幕府部隊には、最上徳内もいた。この会所を襲撃すべく上陸してきたロシア兵に対して、この駐屯の司令(戸田又太夫)は話し合いで退去せしめんと通詞(川口陽介)に白旗を掲げさせ接触させようとした。が、ロシア側は問答無用と攻撃を開始。日本側の駐屯部隊は総退却となり、戸田又太夫は、この退却の途次、切腹した。ロシア兵は、シャナ幕府会所の倉庫に保管されていた米、酒、雑貨、武具すべてを掠奪し、その後に放火した。

3、利尻島・礼文島“寇掠”←略

“ロシアの侵略達人”に操られ、川路聖謨は1855年、「樺太」「得撫島」をロシア献上

 日本の北方が侵略の未曾有の危機に直面したのは、1853年。皇帝ニコライⅠ世が1853年4月23日(西暦)、勅令「樺太を軍事占領せよ」を発したからである。しかも、この勅令には「樺太には外国人の居住を認めてはならない(純粋にロシア人だけの島にせよ)」とあった。日本人は樺太から追放するor皆殺しする、という意味(秋月俊幸『日露関係とサハリン島』、68頁)

 この軍事的な樺太占領の実践者が、“侵略の海軍軍人”ネヴェリスコイ(海軍少佐)だった。また、軍事的占領と同じ外交的領土獲得も同時並行的に進めるロシアは、“騙しの大名人”プチャーチン(海軍中将)を日本に派遣した。ネヴェリスコイとプチャーチンの双方に命令を同時に出していたのが、“侵略の準・天才”ムラヴィヨフ(イルクーツクの東シベリア総督、1847年~、陸軍少将)

 日本二千年史にムラヴィヨフ級の外交官は存在しない。勝海舟や小村寿太郎など日本トップ外交官ですら、ムラヴィヨフからすれば小学六年生。尚、先述のニコライⅠ世の勅令もムラヴィヨフ作。

 プチャーチンとネヴェリスコイは、「“対日侵略の皇帝”ニコライⅠ世→“侵略の準天才”ムラヴィヨフ」の命令を忠実に実行する、双発爆撃機の右と左のエンジンのような関係でシャム双生児。「ムラヴィヨフ/プチャーチン/ネヴェリスコイ」を“ロシア「対日」侵略達人の三傑”という。①この三名に対し精通し恐れる謙虚さと覚悟を持たない傲慢不遜な輩は、対ロ交渉など決してしてはいけない。

 特に、“羊のお面を被った狼”プチャーチンと対峙する日本人は、プチャーチンにネヴェリスコイを重ね、②「プチャーチン=非軍事的ネヴェリスコイ」と見做す人間力の持ち主でなければならない。①と②の資質を全く持たない、というより、むしろ①と②を全否定する、日ロ提携論の川路聖謨は、根本において対ロ交渉に向かない、最有害な反・外交官だった。

 川路聖謨のロシア観は、のちの橋本左内とそっくり。(弾圧の仕方には眉を顰めるが、弾圧自体は正しかった)井伊直弼が“安政の大獄”で橋本左内を斬首したように(1859年)、川路聖謨も1853年時点で斬首しておくべきだった。川路こそ、日露和親条約で外患罪の重罪を犯した史上空前の大犯罪者。川路を斬首しておけば、日本の“固有の領土”「樺太」「得撫島」を“残虐な敵国ロシア”に貢いだ下田条約など産まれなかった。川路聖謨がこの世にいなければ、樺太も得撫島も、今なお日本領であり続けている。

“獰猛な羆”ネヴェリスコイには目を瞑り、“チチェーリンの先達”プチャーチンと踊り狂った川路聖謨

 海軍大佐ネヴェリスコイの極東シベリア“侵略”遂行における辣腕は、舌を巻かざるを得ない。彼の業績をいくつか挙げておく。

1、日本の領土たる樺太へのネヴェリスコイの侵略。これは二か所。一つが、間宮海峡側の久春内(北緯48度)に「イリインスキー哨所(砦)」を建設(1853年8月)。ここには、兵士を駐屯させなかったから、「中断」したようだ。が、いずれ大型の軍港になる「イムペラートル湾」のほぼ対岸の砦だから、「放棄」ではない。イムペラートル湾は、後年、軍港「ソヴィエツカヤ・ガヴァニ」になり、今に至る。

 もう一つが、アニワ湾に面した久春古丹(のちの「大泊」)の日本人部落のすぐ傍の、「ムラヴィヨフ哨所(砦)」の建設。この建設は、クリミア戦争勃発10月5日の二週間前、1853年9月19日に始まった。尚、このロシア砦は相当に本格的なもの。ロシア国旗を掲げ、運び込んだ大砲は八門。また、駐屯兵士は六十九人(上掲、秋月、80頁)

 驚くべきことに、幕府は直ちに派兵してロシア兵を排除すべきに、その軍を送らなかった。1806~7年の露寇の時と何という違いか。徳川幕府には腐敗と惰弱が横溢していた。日本は敵国ロシアの属国でいいではないか、の転倒外交が風靡していた。

 一方のネヴェリスコイだが、クリミア戦争中だから英仏海軍にいつ襲われるかわからないと判断し、八ヶ月後の1854年5月18日、大砲八門と全駐屯兵士をイムペラートル湾に撤収した。

2、この樺太侵略から三年前の1850年8月、ネヴェリスコイは、アムール川の河口に、ニコライエフ哨所を建設し、さらにこれを町に発展させた。ニコライエフは大きく発展して、清国の沿海州“攻略”と日本の樺太“攻略”の司令部的な基地へと発展する。樺太は、カムチャッカ半島のペトロパブロフスクとニコライエフから挟撃される態勢になった。

 沿海州は実際にも、この数年後の1858年、露清の共同統治の地となり、1860年には北京条約で、ロシア領になった。続いてロシアは、沿海州防衛の砦として対馬をロシア領にすべく、1861年春、軍艦「ポドリヤック号」を侵入させ、「畑は作る、兵舎は作る」したい放題の寇掠を行った。

3、現在の軍港「ソヴィエツカヤ・ガヴァニ」の前身「イムペラートル湾」は、ネヴェリスコイの部下の海軍大尉ボシェニヤックが発見(1853年5月)。が、ここに直ぐ哨所を建設したのは、ネヴェリスコイ。樺太のムラヴィヨフ哨所(砦)づくりは、この発見から僅か四ヶ月後。ネヴェリスコイの仕事は速い。

シーボルト事件で反日・親ロ化した日本(1828~55)。“外交の師匠”オランダの復活は1855年~

 想像に絶する“スーパー対ロ売国奴”川路聖謨の、プチャーチンとの1854~5年“逆立ち”外交には、ただただ唖然。それは外交ではなく、 “日本はロシアの属国”を確定した対ロ叩頭だった。

 しかも、川路聖謨は、日本周辺に発生した国際環境の劇的変化をいっさい考慮しなかった。前年1853年とは、ロシア対日軍事脅威が爆発的に増大した年。またロシアは、1853年10月からのクリミア戦争で英仏の交戦相手国。ロシアとの条約締結など、誰だってクリミア戦争後にする。が、川路聖謨は正常者の域には無い狂人だったからか、クリミア戦争中にプチャーチンと条約を締結した。

 尚、「1853年のロシア対日軍事脅威の顕著な増大」とは、①樺太占領の皇帝の勅令、②イムペラートル湾の海軍基地化、③樺太・久春古丹に「ムラヴィヨフ哨所(砦)」の建設、などを指す。しかも、後者②③の二つは、川路の耳に入っていた。

 日本の領土=主権をロシアに献上する川路聖謨の“日本はロシアの属国”主義に、怒りかつ難詰し、止めようとした正常な上位者が、江戸幕府内で水戸藩主・徳川斉昭ひとりだった。この事実は、《日本をロシアの侵略から護るぞ》の対ロ国防重視派が日本中に満ち満ちていた1800年前後の日本が消滅&転倒してしまったことを明らかにする。

 ロシア脅威論の最上徳内/間宮林蔵/近藤重蔵/伊能忠敬/林子平/会津藩が日本の主流だったが、その潮流は1820年代に突然、消えた。日本国全体に共有されていた健全なロシア脅威論が細々なものになった原因は二つしか考えられない。1828年のシーボルト事件と1825年の「新論」人気からのテロリズム「尊王攘夷」(後期水戸学)の隆盛。

 シーボルト事件は、異様を極める事件処理が行われた。伊能忠敬の弟子でロシア脅威論の高橋景保が国家機密の地図を外国人に渡した以上、獄死は已むを得ないが、死体を斬首する猟奇的な処刑方法は、幕府は何か狂気にとり憑かれていた。また、シーボルトの国外追放は順当な処分だが、過剰な連座で妥当性ゼロの、蘭学者やオランダ語通詞を軒並み大量処分したのは、理に合わない。カルト的な集団ヒステリー「オランダ締め出し/蘭学の禁止」が背後にありそうだ。秦新二の『文政十一年のスパイ合戦』を読んだが、シーボルト事件の謎は深まるばかり。

 シーボルト事件で、日本への親切なオランダ直言「外交は親英反露を採れ」が否定的に排除されるようになった。幕府内に日ロ提携論(川路聖謨ほか)や日ロ同盟論(小栗忠順ほか)が隆盛した。

 オランダが日本国内で半分ほど復権するのは、親英派・水野忠徳が長崎奉行時代に決定していた、長崎海軍伝習所(勝海舟は一期生)が実際に動き出した1855年10月以降である。つまり、1828~55年の長きに亙り、日本はありのままの国際情勢を知る/正しく判断するという当り前から、自らを隔離した(盲聾になった)。1854年の年末から僅か二ヶ月足らずの交渉で締結され日露和親条約は、長崎海軍伝習所が設立され、オランダが少し復権してくる直前の駆け込み条約だった。

 また、尊王攘夷の「攘夷」は危険なカルト呪文でテロ讃美の経文。このことを攘夷論の薩長は知っていた。だから、薩長は、明治維新になるや、急いで《五ヶ条の御誓文》で「開国」(「井伊直弼の復権」とも解せられる)を宣言した。「攘夷」をゴミ箱にポイ捨てしたのは、攘夷論で討幕を果たした薩長である。尚、煽動家で“三流以下の学者”藤田東湖や会沢正志斎の著作など読むに堪えない。『新論』など山本太郎や福島瑞穂が書いたのかと勘違いするほど低級な戯文。

 プチャーチンに奴隷の如く不必要にも叩頭し、日本をロシアの奴隷国にした川路聖謨を難詰したのは、例外的に徳川斉昭だけ。斉昭は、日露和親条約に限り、水戸学的ではなく、国際政治学的/国際法的だった。斉昭がまとめさせた豊田天功の『北島誌』(1854年8月脱稿、『水戸学大系』第四巻)は、学問的に見事な領土考察。川路聖謨は、この著を老中・阿部正弘を通じて渡された。が、頭が狂っている川路聖謨はフンと無視。川路聖謨は、敵国ロシアの回し者だったのか、日本国の領土を憎悪した。

“宗主国の特使”プチャーチンに跪く“売国奴”川路聖謨──祖国反逆の下田交渉

 吉川弘文館が出した、川田貞夫『川路聖謨』の裏表紙に、“対ロ売国奴”川路聖謨について、歯が浮くような逆さ賛辞が宣伝されている。吉川弘文館は、社長以下、KGBロスケと日本共産党員が繁茂する、ほとんど敵国ロシアの出版社。

「川路聖謨は、ロシアの国境画定要求を巧みに処理し、寸土を譲ることなく、日ロ和親条約の締結を成し遂げた幕府吏僚の俊英」。

 この吉川弘文館の宣伝文句は、余りに転倒の巧言。川路聖謨は、樺太が一人のロシア人も住んでいない純度百%の日本国領土であるのを現地調査(備考)までして確認した後、八万㎢という樺太を《“日露雑居の地”=共同主権の地》にした。どんな狂人でも、自分だけの土地(不動産)だと確認した後、これを欲しいと言ってきた隣人に対し、「では共同保有で登記してあげよう」と、一種の不動産放棄などしない。

 この川路の狂気の日露和親条約は、十三世紀に日本を襲った元のモンゴル大軍に対し、九州を《日本・モンゴルの雑居の地》とする条約を締結するのと全く同一ではないか。川路聖謨を狂人だと見做さない日本人は、自らを白痴か狂人であると自覚されたい。

 また、こんな馬鹿げた日露和親条約に怒ったのが斉昭一人とは、徳川幕府には真面な日本国民がほとんどいなかった、ということではないか。1850年代の徳川幕府は、僅か五十年前の1800年前後の最上徳内/間宮林蔵/近藤重蔵/伊能忠敬/林子平らが活躍していた“美徳の愛国心に満ちていた時代”とはうって変って、惰弱と祖国叛逆という、“精神の退嬰”に覆われていた。

A、川路聖謨は、報告「樺太には一般ロシア人は一人も住んでいない/ロシア兵も一人も駐屯していない」(備考)を無視しただけではない。1806~7年の“フヴォストフ三露寇”を忘れ、ロシアは、あの粗暴な米国のペリー提督と異なり、何と紳士的な国であるかと敬仰した。時には(演技で)卑屈さも見せるプチャーチン一人の態度が、ロシア国民の全てだと短絡した。三歳の幼児と変わらない。

(備考)幕府は、プチャーチンとの交渉に備えるべく、1854年4月、旗本の堀利煕と村垣範正を樺太探索に出立させた。6月に樺太に到着し、四ヶ月間ほど調査しロシア人ゼロ人を確認。堀はそのまま函館奉行となり、村垣は11月に帰京し、その旨を川路に報告した。尚、村垣は、1861年の対馬問題時の函館奉行で、小栗派かも知れない。

B、1854~5年、得撫島にいたラッコ猟の出稼ぎロシア人猟師は、一名残らずペトロパブロフスクに逃亡。得撫島にはロシア人はゼロ人だった。つまり、得撫島は国際法に言う無主の地だった。その帰属は係争国の協議で定めるのがルールだから、クリミア戦争後に協議するのが通常の外交。が、狂人・川路聖謨は、「得撫島のロシア人はゼロ」という最重要事実を、プチャーチン側に立ち、「知らない/言わない」事にした。ロシアと通謀していた川路は、外患罪の重大犯罪者だった。

C、さらに川路聖謨とは、歴史を重視する国際法と乖離し、歴史を無視する野蛮人だった。だから、得撫島の帰属をめぐる日ロ間交渉では日本側の切り札となる、最上徳内の諸外交的な行動について、いっさい知らない事にして無視した。川路には、日本の領土をロシアから護るという精神も知も存在しなかった。愛国者の井伊直弼が、川路聖謨を気嫌いする理由は、ここにもあろう。

 なお、1786年、幕吏で初めて得撫島を探査した最上徳内は、「得撫島は幕府が若干の部隊を駐兵させるだけで日本国領に確定する」と国際法的に正確な判断をなしていた。

D、川路聖謨の反・外交官性は、①外交の鉄則「遠交近攻」がわからぬこと。「遠い英米蘭は日本の友邦、近いロシアは日本の主敵」が発想できないのは、日本国に対し愛国心がないからだ。

 また、相手国の良し悪しを交渉時の態度(粗暴さ・上品さ)で判断するとは、まるで女子小学生。態度粗暴なペリーは小笠原諸島への領有権主張を直ちに引っ込め、日本の領土をいっさい要求しなかった。一方、上品で(レーニン時代のチチェーリン外相を髣髴させる)プチャーチンは、日本国の領土たる樺太と得撫島という領土の領有権を要求した。川路は、米国、ロシアのそれぞれの要求中味を吟味せず、交渉時の立ち居振る舞いだけを考慮した。

プチャーチンや川路聖謨を称える日本人は皆、ゾルゲや尾崎秀実の称賛と同じくKGB系売国奴

 日本では、日本国領土を重大に損壊した川路聖謨やプチャーチンに対し非難する真面な学術書や論文が皆無である。これは、川路聖謨やプチャーチンを論じる学者が全員、KGBロスケだからである。例えば、『開国――日露国境交渉』の著者・和田春樹は北朝鮮人で札付きKGBロスケ。

 日本における反日から称賛される転倒の川路聖謨評は、ゾルゲや尾崎秀実に対する非難がか細い現代史学界の情況と軌を一にする。日本は1855年2月7日、下田で“ロシアの属国”になったが、この“日本はロシアの属国(奴隷国)”主義は、日露戦争戦勝後、山縣有朋/近衛文麿/阿南惟幾に引き継がれ、戦後は鳩山一郎/河野一郎/安倍晋三へと、脈々たる日本の大河になってしまった。

(国外追放前は)反露”のシーボルトが大絶賛した“第一級の探検家・外交官”最上徳内

 さて、「得撫島は日本領土」は、江戸時代の1786年、最上徳内が初めて提唱した。それは、江戸幕府の中で一つの常識を形成し、1801年の旗本の富山元三郎と深山宇平太らの「天長地久大日本属島」の標柱建立へと繋がっていった。尚、富山と深山は、得撫島のロシア人に直接、「島から退去されたい」と説得すべく、渡島した。

 最上は、日本国領土の得撫島が(ロシアに蚕食されていないかどうか)心配で、1791年に二度目の探索をした。1786年の探索では、ロシア人猟師「入植者」は全島から全員が去っていた(1782年)。即ち、1786年時点、「日本人ゼロ、ロシア人ゼロ」だったのに、徳内が第二回目の得撫島に渡島した1791年、1788年前後に「ラッコ猟」猟師や鞣し業者たちが大量入植した跡を発見。1786年に幕府への「日本の武装部隊を駐屯させて得撫島を実効支配せよ」の建白が、全く無視されていたのを知り愕然。

 最上徳内の1791年の得撫島探索に触発され、松前藩も、翌1792年に得撫島探索をした。が、松前藩は駐屯部隊を派遣しなかった。1795年には、かなりの人数のロシア人が入植したから、徳内の1791年の憂慮は、杞憂ではなく的中。尚、富山と深山が「退去せよ」と説得したロシア人とは、この六年前1795年に得撫島に入植したロシア人。

 要するに、当時の幕府や松前藩の見識は、日本人が居住している択捉島までは日本領土で、それより北はどうでもいいではないか、が主流だった。国防上の視点からの領土観がないのである。米国国務長官スワードは、アラスカを1867年に購入した時、アラスカに米国人は一人もいなかったが、米国本土を護るに、アラスカは(アラモの砦のような)前方“砦”として価値があると判断した。日本人が住み活動している択捉島を護るためにも、その前方の得撫島を自国の緩衝地帯にしておくとの国家安全保障の常識が、最上徳内/富山元三郎/深山宇平太のようには、日本人の中には育っていなかった。今も育ってない。日本人は、劣等民族である。

(2024年11月10日記)

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