筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
序
入学から十日も経たずミュンヘン大学哲学部から(1965年9月に)退学処分を喰った西尾幹二氏(以下、敬称略)らしく、西尾の狂史は、ことごとくロシア侵略隠しのマジック・ショー。2023年に上梓した『日本と西欧の五〇〇年史』は、ニーチェと同じ“反・歴史”“反・真実”の狂気を爆発させる分裂病患者・西尾幹二の、歴史を狂気で弄ぶ“アナーキー礼讃”の、六流文藝。
トリックスター西尾幹二の面目が躍如する『日本と西欧の五〇〇年史』は、「ヒトラーのホロコースト狂気50%、プーチンの侵略詭弁50%」で書かれている。卑俗的に言えば、“反米狂”玉城デニー&KGBロスケ鈴木宗男の共著を西尾幹二が代筆して仕上げたのが、『日本と西欧の五〇〇年史』。
この書は、2013~6年の三年半に掲載された雑誌『正論』の連載原稿十八本をまとめたもの。が、この十八本の雑誌論考は、この2016年にいったんお蔵入りした。それを2023年、既に歩行困難な体で七年ぶりに編集。2022年2月24日の“プーチンのウクライナ侵略”に興奮し応援したかった西尾幹二のスターリン崇拝の熱い情念が並みでなかったのがわかる。西尾幹二の評論は全て、ロシアに捧げる、ロシア世界制覇を祈祷する供物。西尾幹二は2024年3月、クリミア半島へのロシア侵略十周年を祝して、害毒本『日本と西欧の五〇〇年史』をプーチンに献上した。
“強度のKGBロスケ”を超える“五百%ロシア人”の西尾幹二は、ロシアのアフガン侵略の直前(1979年夏)、KGB第一総局お抱え対外宣伝家を「知識人」だと詐称し、KGBの対日宣伝本『ソ連知識人との対話』を出版した。日本でも1979年夏から “先見の警告”「ソ連の対外侵略は近いぞ」が騒がれ始めた。この「ソ連脅威」論を封殺するのが、当該本の西尾幹二の出版目的だった。日共特別党員・西尾幹二の、KGB第一総局への熱い忠誠は、ロシア人・鈴木宗男より一万倍も激烈。
なお、本稿は、現在執筆中の『“天皇殺し”西尾幹二の研究──ロシア聖者化の狂史と廃墟アナーキズム』(上下二巻)、に供するための論考である。
プーチンのウクライナ侵略“万歳”が迸る、西尾幹二の狂本『日本と西欧の五百年史』
西尾幹二は、西側諸国の米軍基地を一掃して、ロシアが世界中を侵略し制覇するのを幇助することに、その人生の全てを捧げてきた。“スターリンの息子”西尾幹二は、ベ平連の小田実や沖縄の玉城デニーと同類の反日・反米のアジテーター。尚、西尾幹二は、本郷時代、中核派に所属か?
西尾幹二は、1999年、日本共産党史観一色の『国民の歴史』で、天皇制廃止と反米闘争の烽火をぶち上げた。実際には2013~6年に書かれた『日本と西欧の五〇〇年史』は、同書の第二弾に当る。この書はまた、2007年2月、プーチンがミュンヘンで宣言した「これまでの米国とNATOへのおべっか外交を止める。これからは反米/反NATOの旗幟を掲げた対外政策に転換する」に連動しているようだ。プーチンは、ミュンヘン宣言がブラフでないことを示すため、2008年8月、グルジアの南オセチアに侵攻した。
すなわち、「2007年2月のプーチンの反米/反NATO宣言→2008年8月の露のグルジア侵攻→2013年5月に始まった、西尾幹二の旧題『戦争史観の転換──日本はどのように(米国に)侵略されたのか』連載→2014年3月のロシアのクリミア侵略」と、時系列化してみると、対米“罵詈雑言の誹謗”が満載の“西尾の狂本”『日本と西欧の五〇〇年史』の出版目的が見えてくる。
玉城デニーを超える西尾幹二の米軍基地反対闘争の過激度は、次の一文に明瞭。これ、ウクライナへの本格侵略直前のプーチンに協力して、米国にウクライナ支援をさせない対米牽制球の対米“罵詈雑言の誹謗”だった。狸穴のロシア大使館には、レフチェンコKGB中佐のような、西尾幹二と密に連絡を取り合っている、西尾を担当するKGB第一総局の将校が間違いなく存在する。
「ソ連が解消(「崩壊」のことか?)して、これまでのソ連邦の圧力はいちじるしく弱くなったとしても、米軍は撤兵しない。世界中の基地を維持し続けている。日本の本土などでは米軍兵力は空っぽなのに、米軍基地は返還されない」(23頁、一部の脱字は補正)。
「(冷戦中は)アメリカのこの(在外基地を展開できる)特別な地位、特権的地位は余り意識されなかった。(しかし、1991年の冷戦の終焉から)二十年以上経って(2013年)、私は《これ(=在外米軍基地があること)はおかしいぞ》と思い始めている」(24頁、丸カッコ内中川)。
ロシアとは平均二十年を経れば、撤退したところに必ず再侵攻する。このことは、1992年3月脱稿の中川八洋『蘇るロシア帝国』が詳述。この著はまた、戦術核兵器を1991年12月にロシアに返還したウクライナはロシアから百%侵略されると、ウクライナへのロシア本格侵攻2022年の三十年前に、それを明快な理由を添えて警告した。が、鈴木宗男以上のロシア擁護論に生きる“スターリン狂”西尾幹二は、この二十年後のロシアの再侵攻を転倒し、逆立ち狂論(=ロシアは狼から羊になると永久に羊のまま)を上記のようにぶって、自らは恍惚としている。
米国には、1970~80年代、ハーバード大学リチャード・パイプス教授のように、私と同じ見解を持つロシア専門家が多かった。だから、レーガンが引退した1989年以降でも、中川‐パイプスの(世界トップで正確な)ロシア観は、米国国防省や米空軍などでは根強い思潮として残存した。(日本のロシア専門家は、小泉悠氏の如く、強度のKGBロスケで、大嘘つきしかいない)。
ポスト冷戦(=冷戦が終焉したと錯覚された)時代(1990~2013年)に、米軍が頑として前方展開(forward‐deployment)の海外基地機能を(駐留兵力は大幅に減らしたが)ソ連時代と同様に維持し続けたのは、正しい歴史知見「ロシアは再膨張・再侵略を二十年後に再開する」を、米国が私と同様に堅持した米国の知性と賢慮の結果である。ロシアが東欧侵略占領軍を1989~91年に撤退(撤退約束)したポーランドやバルト三国では、学説「ロシアは二十年後には再侵略する」に対し、ウクライナ侵略が本格化した2022年、尊敬をもって感謝した。
米国が前方展開の米軍基地を世界平和維持の秩序として重要視するのは、第二次世界大戦を発生させた、同盟国への陸軍力の前方展開をしなかったフランスの愚行を反省するからでもある。五十ヶ師団を有していた当時の“超・陸軍大国”フランスは1930年代、同盟国ポーランドやルーマニアに僅か陸軍三ヶ師団/一ヶ師団を駐留させるべきとの専門家の意見を排除した。この専門家の中には、英国のチャーチル下院議員がいた。チャーチルは英国陸軍士官学校卒。
が、フランスは、世界を席巻していた“陸軍力を軍縮せよ”の極左運動に屈し、陸軍部隊の前方展開に二の足を踏んだ。ヒトラー・ドイツが1939年9月1日、ポーランドに電撃侵攻した時、フランスは初めて「ワルシャワに陸軍三ヶ師団が空を飛んでいくことなど不可能!」と、絶叫し切歯した。
が、ロシアの世界侵略で人類が戦火で焼き尽くされるのを快感したい、“青葉真司一万人が集合した狂人”西尾幹二は、世界の多くの国がロシアやイスラム過激派に襲われないで済む、“世界の警察官”米国の軍事力の世界展開や、いつでも展開できる態勢維持が許せない。だから、米国がトランプのような“America‐First派”一色になり日米安保やNATOが解消されるのを、西尾幹二は志位和夫と同じく悲願とする。嘘八百“満載”の煽動本を出版し続ける西尾幹二の本性は、ミュンヘン大学が西尾幹二を罵倒した“醜悪な猿顔”の狂猿ではない。プーチンと同じ“獰猛な侵略”狂犬。
西尾;「大東亜戦争は米国の対日侵略。米国が非在なら日本は侵略されなかった」
『日本と西欧の五〇〇年史』のモチーフは、「①大東亜戦争はアメリカの対日侵略だった、②アメリカが北米大陸の東海岸の人口250万人の十三州のままであれば、米国は対日侵略ができなかった、③ロシアは満洲にも樺太にも侵略していない。1945年8月のロシアは、得撫島でロシア人入植者がラッコ狩りをしていた1760~90年のままだった」である。
西尾幹二に関し、産経新聞や西尾ファンは、西尾幹二が鉄格子付きの精神病院を脱走中なのを知らないようだ。パール・ハーバーを奇襲し対米宣戦布告したのは日本。なのに、ニーチェと同じ“世紀の狂人”西尾は、米国が先に東京を奇襲して日本全土を焼け野原にしたと信じている。
また、1941~5年の日米間歴史を論じるに、1789年に連邦国家(十三州)米国は誕生すべきでなかったと、黒魔教の呪術師になり切って米国“非在”を祈祷する。“重度の分裂病”西尾幹二は、歴史と妄想の間を行ったり来たり。西尾の歴史は、妄想の一部。
重度の分裂病・西尾幹二は、「ロシアは満州や樺太に侵略していない」「1945年8~9月の日ソ戦争などなかった」と信じている。が、産経新聞社は西尾幹二を精神病院に強制入院させる社会的責任を果たさない。産経新聞社の記者が無学歴な赤い嘘つきゴロツキばかりが原因。“ロシアKGBの犬”産経新聞社を、朝日新聞社と一緒に閉鎖しなくては、日本国の国家廃滅は避けられない。非国民が編集する産経の雑誌『正論』は、朝日新聞社『AERA』より凶悪な“反日”。廃刊が急がれる。
西尾;「ロシアは18~9世紀の北方侵略も1945年の満洲/樺太侵略もしなかった」
西尾幹二は、「京アニ」三十六名殺害の青葉真司より重度の狂人。ロシア人は得撫島でアイヌを奴隷にしてラッコ狩りもしたが、あくまでも北海道への侵略拠点としての得撫島侵略だった(1766年)。この1776年から、ウクライナのクリミア半島を侵略併呑した2014年に至る“ロシアの侵略250年史”は「全く存在しない」と、西尾幹二は主張するからだ。
『日本と西欧の五〇〇年史』で西尾幹二は、大嘘「大東亜戦争は米国の対日侵略だった」「《日本がパール・ハーバーに奇襲し、米国に戦争を仕掛けた》は嘘で史実でない」を仮構し、「これまでの日本や世界の大東亜戦争に関する歴史は、転倒し、《日本が米国に戦争をしかけた》ではなく《米国が日本に戦争をしかけた》に大転換すべきだ」を主張する。『日本と西欧の五〇〇年史』の原題が「大東亜戦争史観の転換」なのは、大東亜戦争の正しい歴史を百八十度“真逆”の真赤な嘘に転換せよ、の意だからである。
このように正しい歴史を真逆にする西尾流“大妄想”嘘歴史の捏造に、①史実「日本のパール・ハーバー奇襲/日本の対英米宣戦布告文/昭和天皇の開戦詔書」等を抹殺するだけでは不十分で、②ソ連の1945年8月の満洲・樺太侵略を抹殺しておかねばならない。これが、『日本と西欧の五〇〇年史』で、西尾幹二が日本列島の北方では、世紀の大嘘「1766年~、得撫島ラッコ狩りやラッコの毛皮売り以外でロシアは何らの軍事行動もしなかった」(→「況や、1945年の満洲・樺太侵略などするわけないだろう」)をぶち上げた理由。
西尾は、この嘘を読者に摺り込むべく、次のように同一内容を七回も繰り返す。学術的な本では、繰り返しは決してしない。仮にしても二回が上限。七回の繰り返しは学術書ではなく煽動書の証左。
●「ロシアは、鉄砲や火器とは関係なく、なんとあの小動物ラッコの毛皮が欲しくて、・・・(日本の)北の海にチラホラ立ち寄って来たのでした」(410頁)。
●「ラクスマンやレザノフは軍艦仕立てだったが、来航目的は、日本の貴族(?)にもラッコの毛皮を買ってもらいたい、広東でラッコの毛皮を売りたいから取り次いでほしい…と言った、誠に慎ましい平穏な要求を携えてきたのである」(389頁)。←ラッコ毛皮は、江戸でも京都でもふんだんに売られていた。
●「ラクスマン、レザノフが求めてきた通商は何ともはや、微笑ましいラッコの毛皮貿易」(388頁)。
●「1792年、ロシア人ラクスマンが漂流民・大黒屋光太夫を伴って、根室に通商にやってきた。ただ単にラッコの毛皮交易の話だったに違いない」(383頁)。
●「十八世紀後半からの(日本の北方近海で出没する)ロシア船の動機が、日本人もラッコ毛皮を買わないか、支那大陸にもっと売りたいので協力して欲しい、というようなことだったと、名だたる幕閣たちは気づいていたのだろうか」(378頁)。
●「ロシア使節ラクスマンとかレザノフとかは軍艦で来たけれど、内心ではラッコ毛皮貿易の拡大を求めていた。ロシアは、・・・遠く広東貿易に参入したいと願っていた。彼らは物資補給地としての、さらにラッコ毛皮の新市場としての我が国の開国を求めていた」(378頁)。
●「日本は、1770~80年代、北太平洋でロシアとイギリスが俄かに急激な速さで日本列島の近辺に迫るに至った理由がラッコという小動物の毛皮の獲得と交易にあったことも全く気が付いていなかった」(372頁)。←1796年、英国プロヴィデンス号(艦長はブロートン海軍中佐)が、北海道の噴火湾を遊弋し虻田に上陸した。翌1797年には、同号は、室蘭の絵鞆に入港した。これは《北海道は英国の勢力圏》だとロシアをビビらせ、ロシアの侵略を北海道北方周辺に追いやり、北海道の対ロ防衛に貢献した。ロシア軍艦の監視が狙いのイギリス軍艦は、ラッコに一欠けらの関心もなかった。西尾の嘘歴史は白髪三千丈。
まず、ラッコに関する正しい歴史。ラクスマンやレザノフは、接触した日本側にラッコ毛皮を口にしたことがない。江戸時代、ラッコ毛皮は「北海道/千島・北方領土のアイヌ→日本人商人→江戸や京都の商店」でふんだんに売られていた。日本の商人は、国後島の「泊 トマリ」に運上屋を開き、大量のラッコ毛皮を米/酒/木綿布などと交換。尚、ラッコはアイヌ語。漢字では「猟虎」と表記する。
一方のロシア人は千島アイヌ(チリホイ島以北)や得撫島アイヌを奴隷にして、「毛皮税」を課して実態的には代物無しでラッコ毛皮を没収し、サンクトペテルブルグ等で高く売却した。ロシア国内のラッコ毛皮需要は極めて大きく、海外に売る必要も余裕もなかった。千島アイヌは残虐なロシア人を避けるべく得撫島や択捉島に逃亡してきた。
さて、良心が一かけらもない“分裂病の狂人”西尾幹二の歴史偽造の極め付き。ラクスマンもレザノフも、日本を軍艦=軍事力で脅し、「最初は通商、次に領土侵略」を目的に日本に来航した。しかし、“五百%ロシア人”西尾幹二は、このありきたりの事実を、徹頭徹尾に隠蔽し歪曲する。
また、“侵略の天才”ロシアは、十八世紀の半ばには、①ロシアがオホーツク海全域を制覇する、②そのために、先ず二大“戦略的要衝の地”得撫島と樺太をロシア領とする、を対日外交のトップ方針に据えた。現に、レザノフは部下のフヴォストフに、樺太クシュンコタン(1806年10月、文化三年)、択捉島シャナ(1807年5~6月、文化四年)、利尻島・礼文島(1807年7月、文化四年)の三ヶ所を襲えと命令した。日本人を恐怖で畏怖させロシアに従わせることを狙ったのである。だが、この歴史事実を隠蔽したい“大嘘つき”西尾幹二は、レザノフが首謀した“フヴォストフの三露寇”を隠蔽する。
1、樺太クシュンコタン“寇略”。
二回目の襲撃(10月24日)を例にすると、三十数名のロシア兵が、運上屋の番人四名を捕え、米六百俵と雑貨を掠奪し、家屋11ヶを放火し、漁網と船すべてを焼き払った。
2、択捉島シャナ“寇略”。
択捉島のシャナには幕府会所があり、弘前藩と南部藩(盛岡藩)の藩兵と幕府部隊とが駐屯。この幕府部隊には最上徳内がいた。ここを襲撃すべく上陸してきたロシア兵に対して、駐屯地の司令(戸田又太夫)は、話し合いで退去せしめんと通詞(川口陽介)に白旗を掲げて接触させようとしたが、問答無用と猛攻撃され総退却となった。戸田又太夫は退却の途次、切腹した。ロシア兵は、シャナ幕府会所の倉庫内の米、酒、雑貨、武器を略奪し倉庫に放火。
3、利尻島・礼文島“寇略”。←略
話を西尾幹二に戻す。“フヴォストフの三露寇”は、私は中学二年生だった1958年に学んだ。つまり、西尾幹二も知っている、ごく平凡な日本近世史。が、西尾幹二は、江戸時代のロシアはラッコ毛皮を日本に売りつけること以外、何もしなかったと、荒唐無稽な大嘘をデッチアゲる。
が、読者諸君!ラクスマンやレザノフに関し真赤な大嘘をぶち上げる西尾幹二の虚言病に驚いている暇はない。西尾幹二は、大東亜戦争は、日本国が「蒋介石の中華民国、米国、英国、蘭、豪州」の五ヶ国に先制的に開戦した「日本が起こした戦争」なのに、「米・英・仏・蘭・露が、束になって日本を襲った戦争」だと大改竄する。読者諸君!西尾幹二ほどの大嘘つきに、人生でそうメッタに出会うことはない。『日本と西欧の五〇〇年史』をオレオレ詐欺から身を護る訓練だと思って熟読しよう。
嘘歴史「大東亜戦争は米英蘭仏露が日本を束になって襲った戦争」を嘯く西尾幹二
私は2002年の頃、西尾幹二に直接、「歴史学は、歴史のより真実に迫る学的探究。文学ではないから、思い付きや改竄などすべきではありませんと」と注意したことがある。すると西尾幹二は、渡部昇一の評「西尾幹二は咬み付き狂犬」の形相で私を睨み付け、ヤクザ口調で、「中川さん、歴史は物語だよ(真実や真相なんて糞喰らえ!小説と同じだよ)」と言い放った。
ニーチェは歴史と人間を憎悪し、人間から歴史を剥奪して、人間を“歴史無きヒト”に人格を改造せんとした。どうやら西尾幹二は心底からの“ニーチェの生れ変り”。歴史を憎悪し、歴史学を破壊するのが、西尾幹二の人生をかけた評論活動の全てだからだ。西尾幹二は、『日本と西欧の五〇〇年史』をこう結んでいる。「大東亜戦争は、江戸時代に我が海域に立ち現れた英国、露、仏、米国、そして(江戸時代に)唯一の外交交渉があったオランダが、最後にとうとう束になって、日本に襲い掛かってきた事件ともいえる」(404~5頁)。エッ、エッと、目が飛び出す狂史妄言の極み。
西尾幹二は、小学校五年生の日本史・世界史の知識もない気狂い。だから西尾幹二は日仏間には戦争は存在しなかった初歩歴史すら知らない。1940年6月にフランスは、ナチ・ドイツに占領され外交・国防権を有さない傀儡ヴィシー政府となった。ために、仏領インドシナはヒトラーの「了解」一言で、一瞬で日本の無血占領地。フランスと日本とに戦争など起こっていない。
また、大東亜戦争で、日本は宣戦布告をせず「蒋介石の支那、豪州、オランダ」の三ヶ国に戦争をしかけた。よって、日本が批准した1928年のケロッグ・ブリアン条約により、日本は、この三ケ国に対しては侵略戦争をしたことになる。だが、西尾幹二は、大東亜戦争の交戦相手国から、「蒋介石の支那、豪州」を外している。つまり、西尾幹二は、交戦国「中華民国/豪州」を省き、無関係なフランスを加えている。西尾幹二とは、大東亜戦争の交戦相手国すら知らない“世紀の狂人”。
西尾幹二が『日本と西欧の五〇〇年史』を書いた動機は、「江戸時代の国際情勢の延長上に大東亜戦争が起きた」という創作話をデッチアゲたかったからだ。大東亜戦争は、レーニン『帝国主義』を指針に、スターリンが河上肇の愛弟子・近衛文麿に命じて、アジア共産化が目的の戦争として始まった(1937・7・7)。毛沢東は、そう喝破している。つまり、グローバルな暴力共産革命が、大東亜戦争の核心的本性。
西尾幹二は、どうしても、大東亜戦争の歴史の真相を隠蔽したいのだ。日本共産党「特別」党員・西尾幹二にとり、スターリンは拝跪すべき神。スターリンの悪虐非道を隠蔽するのは宗教的な信仰義務。だから、スターリンが(日本を奴隷国にして)牽引したアジア太平洋域の共産化を目的とする大東亜戦争を、この戦争責任を全て米国に転嫁する詭弁として、大航海時代からの“太平洋への欧米諸国の浸出”に牽強付会するマジック・ショーを展開した。『日本と西欧の五〇〇年史』は、読者を誑かすペテン師の似非学問で、学問とは程遠い講談調の小説。
また、ニーチェ・ヒトラー型の廃墟アナーキストなのに、西尾幹二は、谷沢永一が喝破したように、強度なマルクス・レーニン主義シンパ。大東亜戦争がマルクス・レーニン主義イデオロギーの産物である事実を何としても隠蔽・改竄したい情念から、西尾幹二は、大東亜戦争を、欧米のキリスト教や大航海好きなど無関係な問題にすり替えている。大東亜戦争の歴史をより真実に近づける学問研究ではない。真赤な嘘に転換するための舞台装置づくりが、西尾幹二の「五〇〇年史」の狙い。
米国の太平洋戦争は「日本攻略」ではない。昭和天皇を救出する自己犠牲の戦争
西尾悪書402頁に、「日本はハワイ王国とともに、十八世紀後半からようやく各国(←正しくは「ロシア一ヶ国」)の侵略標的となり、最終的にアメリカに攻略された(←正しくは「救出された」)」との、突拍子もない、トンデモ嘘歴史が記述されている。
日本国の領土「日本列島、樺太、国後・択捉・得撫島」に、十八世紀後半から侵略の牙を磨き続けたのはロシア一ヶ国しかない。米英仏蘭は、日本に対し通商と友好国の絆づくり以外の領土的な意図を僅かも有さなかった。薩英戦争も下関四ヶ国戦争も、“狭量偏頗なアナーキズム”水戸学の「攘夷」思想“潰し”に限定していた。日本の国益に違背するものは何一つなかった。
水戸学こそ日本の国益を害する狂気だった。井伊直弼が敢行した“狂人テロリスト”吉田松陰の斬首には、何らやましい非合理性はない。井伊直弼の時代錯誤すぎる“尊王攘夷のテロリスト”撲滅方法には眉を顰めざるを得ないが、彼の対外政策は基本的には間違っていない。
また、大東亜戦争の米国とは、(「本土決戦」による)日本自身の国家滅亡/日本民族の餓死から日本を救った日本民族の恩人だった。また昭和天皇を(阿南惟幾らの赤色クーデタの)銃殺から救った日本の救世主だった。ロシアはその逆。大東亜戦争の掉尾で、満洲や樺太で日本人を虐殺し続けた。また、日本の領土を奪取し続けた。一方、米国は日本の領土を一㎡も奪わなかった。戦費・戦死の賠償要求もしなかった。米国は、対日領土欲ゼロの上に一貫して親日で紳士以上であった。
そもそも、大東亜戦争は、スターリン(ロシア)の奴隷国日本が、スターリンの命令で、アジア共産化(「大東亜共栄圏」はこの隠語、尾崎秀実の検察供述)を目標に、日本人の生命と日本の全産業力をロシアに献上する戦争だった。最終的には、日本列島全土と日本民族の一億の血をロシアに献上して、日本を地球上から消滅させる戦争だった。
(1)ポツダム宣言とヒロシマ原爆があと少し遅れたら、昭和天皇はGRU阿南惟幾・陸軍大臣らの叛乱“赤軍”に銃殺され、日本列島全土はソ連軍に占領され、日本人婦女子はことごとくロシア人にレイプされ殺戮されていた。この日本が堕ちる地獄は、1945年8月~の満洲が証明している。
尚、長野県松本に、1944年春に建設が着工された昭和天皇の拘置所が偽装名「御所」で残っている。昭和天皇の銃殺は、この「御所」の前庭で執行される予定だった。日本列島へのB29空襲は1944年10月に始まり、半年前の1944年4月時点、天皇が疎開する必要を誰も発想していない。
すなわち、天皇を殺され日本国が酸鼻に廃滅する直前情況から、日本を救出したのが米国。米国がタッチの差でロシアの占領前に日本を占領した幸運によって、皇居も全国の神社仏閣も“悪魔の祖国叛逆”大東亜戦争の難から生き残ることができた。昭和天皇ご聖断は、グルーとユージン・ドーマンが「昭和天皇が軍事法廷で処刑されるのを何としてでも避けねば」と、“昭和天皇を救いたい”一心で起草したポツダム宣言を米国が発したからこそ起きた“日本史上に最高の奇跡”だった。
(2)大東亜戦争の戦争目的がスターリン命令“一億日本人を皆殺しせよ”だったことは、「A 日本兵二万人殺害を目的に、小松原道太郎・辻政信・服部卓四郎が遂行したノモンハン戦争」「B 関東軍全員に、《一般邦人を絶対に助けるな》を通達していた、1945年8月~の関東軍の満洲邦人“ジェノサイド”方針」「C スターリンに日本人男児百万人以上を奴隷として供出すべく、シベリア強制連行に協力した関東軍参謀部」の三歴史を想起するだけでも、十全に明らかではないか。
(3)大東亜戦争のうち対英米戦争を「太平洋戦争」と言う。この太平洋戦争の米国側の戦争目的は“(無意識の)日本救出”だった。このことは、GHQが、餓死・病死寸前の満洲邦人百五万人を、蒋介石の“創りかけ軍港”「葫蘆島」から博多港や佐世保港に引揚げさせた事例に表徴されている。
(参考)日本兵二万人を“戦死戦傷”させるべく、ノモンハン戦争を実行した関東軍
1939年のノモンハン戦争について、最も的を射た分析は、“ソ連のスパイ”第23師団長・小松原道太郎に焦点を当てた、米国インディアナ大学教授・黒宮広明の論文(未邦訳、注)だろう。“侵略(領土膨張)の天才”スターリンが、関東軍内GRU工作員に命じた戦争がノモンハン戦争だった。この核心を衝く視点がないノモンハン戦争の分析は、エンジンのない高級車のようなもの。クックス博士の名著『ノモンハン』(朝日文庫)も、残念ながら、この範疇の一つ。
(注)H.Kuromiya,The Mystery of Nomonhan、1939,Journal of Slavic Military Studies,2011年11月号。
スターリンは1939年年頭、二つの目的から、「二万人の日本人将兵を屠殺せよ」とGRU工作員五名に命じた。磯谷廉介(関東軍参謀長)/服部卓四郎(同、作戦参謀)/辻政信(同、作戦参謀)/稲田正純(東京の参謀本部作戦課長)/小松原道太郎(第23師団長)。磯谷廉介は、戦後すぐ日共に入党。
スターリンのノモンハン戦争の目的は、「A 外モンゴルに満州国に侵攻する百万人部隊を駐屯させる巨大基地タムスクの建設と《ボルジア──タムスク》間の鉄道敷設のためのデータ収集」「B イメージ《ソ連軍は圧倒的に強い》とのを日本側に植え付ける」の二つ。いずれも百点満点で達成された。
日本側のノモンハン戦争に関する研究は、ノンポリで共産党系ではない秦郁彦を含め、水準に達しない。なぜなら、これらの研究は、①スターリン製の謀略戦争だった最重要事実だけでなく、②満洲国をスターリンに献上することを決めている関東軍側に国境防衛の意識などからきしなかった事実と、③ハルハ河の戦場は「ソ連側の陣地は榴弾砲を深夜、盲撃ちしても日本兵に中る百㍍高い高台、日本側は百㍍低い上に塹壕が造れない砂地」だった事実に言及していないからだ。
満洲国と外蒙古の国境は、農耕の満洲族と遊牧のモンゴル族の間で古くから定まっていた。この国境は、ノモンハンの街から西に少し行った尾根。関東軍測量部もこれを国境だと認定している。この関東軍測量部の地図は、防衛研究所に保存されている。
つまり、「国境紛争」は、スターリンと関東軍参謀部が口裏合わせた八百長で捏造。満洲族とモンゴル族は相互に視認できる尾根(本当の国境)を国境としていた。なのに辻政信らは、そこから数キロ㍍以上も西に下った低地で砂地の中にあるハルハ河が国境だと、嘘国境をデッチアゲた。
また、《第23師団の将校で「ノモンハン戦争は何か変だ、裏がある」と気づいた者はことごとく自殺を強要され、口封じされた》史実を、日本人の研究者は誰でも知っている。が誰ひとり、これを考察しない。例えば、第23師団の参謀長・大内孜(大佐)が辻政信か小松原道太郎に射殺されたが、この殺人事件を掘り下げた論文が一本もない。大内孜が小松原に「日本兵を二万人殺すのが目的だな」と詰めよったから殺されたのは自明なのに、なぜ論文にしないのだろう。
上記の簡単な要点からでも、ノモンハン戦争が「日本は、スターリンの命令なら何でも“はい、はい”で、日本の将兵の殺戮でも躊躇しなかった」“日本はロシアの奴隷国だった”歴史事実を浮き彫りにする。しかし、ノモンハン戦争に関する論文は、どれも奥歯にものが挟まった物言い。不可解。
西尾幹二の超・狂説「大東亜戦争はローマ法王のポ/ス世界分割(1494年)の延長上」
オウム真理教の麻原彰晃について、多くの日本人は「狂暴・残虐な気狂いだ」と、侮蔑を超えて危険視する。ならば、麻原彰晃より百倍も千倍も狂っている“世紀の狂人”西尾幹二に対し、最高度で侮蔑し危険視するのが真当というものだろう。
(1)無学無教養な“知の野蛮人”西尾幹二の世界史は、物理学のイロハ「重力」を否定して空中遊泳ができると信じた麻原彰晃にそっくり。1917年にレーニンが発明したマルクス・レーニン主義に頭をやられた赤い指導者が世界に叢生することによって、1920年頃から“二十世紀の世界《無秩序》”が誕生した。が、西尾幹二はこの情況を地球からすっぽり消して、空白にする。
次に西尾幹二は、この空白に、1920~30年代からすれば四百五十年も昔の「1494年のトルデシリャス条約(ローマ教皇のアレクサンデル六世の勅裁)による、ポルトガル・スペイン間の地球分割の境界画定」を埋めこむ(140頁~)。こんな馬鹿げた狂論は、戯言「昭和天皇の1945年8月ご聖断は、応仁の乱の終焉の踏襲」などと同類。が、重度の分裂病を病む西尾幹二は、そうは思わない。
「米国の第一次世界大戦以降の帝国主義的グローバリズムは、ローマ教皇のポ・ス地球分割の境界画定から真直ぐに繋がっている」←いっさい繋がっていいない。無関係も無関係だからだ。
「米国の意図するグローバリズムは、インド洋沿岸に創られた、かなりの数のポルトガル植民地を繋ぐ“ポルトガルの鎖”に、なんと似ていることか」(142~3頁)。←全く似ていない。近似性もない。
(2)米国のトルーマン大統領の“ソ連帝国の膨張を封じ込める、ユーラシア周辺国と米国の軍事同盟締結”は、スパイクマン博士の著作『America’s Strategy in World Politics』(1942年)に従ったハートランド包囲網づくり。それが、どうして全く無関係な1494年のトルデシリャス条約の延長上なのか。西尾の言辞はみな、「ミカンはスイカだ。両方とも果物だからだ」に類する暴論の連続爆発。
また、1948年頃までのトルーマンは、「イラン北半への侵略、ギリシャやトルコの併呑」などロシアが領土膨張すれば、原爆をモスクワに投下する予定だった。トルーマンはこれら原爆投下の緊張から、原爆忌避病を病み、1951年4月、マッカーサーが26発の原爆を、満洲の中共軍百万人、及びハバロフスクのソ連極東戦域軍司令部に投下したいと申し出たのを理由に、原爆を供与する代わりに、マッカーサーを解任した。
西尾幹二は、「上記トルーマン/マッカーサーの米国は、ソ連と勢力圏の境界画定をしている」と逆さに大妄想している。が、1494年のポルトガルとスペインは、ローマ教皇が定めた縄張りを相互に尊重し合い、米ソ間のように原爆投下も辞さない敵対関係/戦争する関係の逆。西尾幹二は、敵対関係とその逆の敵意ゼロの平和共存関係を、分裂病の症状からなのか、区別しない。
国際政治学や外交は、国家間の「敵対か、友好か」の認識を出発点とする。「敵対か、友好か」の区別ができない西尾のような分裂病罹患者は、国際政治学や国際政治史を論じてはならない。
(3)西尾幹二は分裂病の狂人である上に、無知の野蛮人。現に、西尾の“米国知らず”は度外れで、天井がない。米国は純粋な英国人が建国し、英国人以外は一人もいなかった。アレクザンダー・ハミルトンの母親がフランス系だったのが例外。つまり、米国の建国に関わった99%は、英国から入植した富裕な大農園主。大農園主でない移民は、A.ハミルトンただ一人。米国の建国時は、英国人入植者と移民とは峻別され、移民は国政に関わることができなかった。ハミルトンは例外。
また、米国の建国に関わった英国人入植者は皆、マグナ・カルタを“法”(法律の上位法)とするコーク卿『英国法提要』第一巻とブラックストーン『英国法釈義』を座右の書とするインテリのみで、例外は一人もいなかった。彼らの間の意見の相違は、デモクラシーを受容するか否か。ジェファーソンとB.フランクリンは、デモクラシー支持だったから、ジョージ・ワシントンは毛嫌いし、両名をフランス公使で追放し、その間に、米国憲法を起草した(1788年)。ジョージ・ワシントンは、“やや左翼”ジョン・ロックも嫌悪し、独立宣言にあるジェファーソンのロック的な言説すべてを排斥した。
このように、「マグナ・カルタ→コーク卿→権利の章典」までの、英国“憲法思想”を奉戴する英国人入植者しかいなかった米国の建国だから、そんな所にポルトガルやスペインの思考や歴史が一㍉でも入るスキがないし、誰も知らない。ところが、妄想と思い付きで嘘歴史を書きまくる“気狂い”西尾幹二は、「米国の第一次世界大戦以降の帝国主義的グローバリズムは、1494年のローマ教皇のポ・ス地球分割の境界画定とまっ直ぐに繋がっている」などと、決してあり得ない法螺話を吹聴する。西尾幹二を、鉄格子のある精神病院に強制入院させねばならない。
つづく。
(2024年10月27日記)