筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
明治維新政府は、“尊王攘夷の水戸学イデオロギー(アナーキズム)”で出現した以上、フランス革命のジャコバン党に半ば酷似する極左政府にならざるを得ない。フランス革命は一気に王制廃止に走ったが、明治政府も“緩やかな天皇制廃止”を進める無意識の革命路線を内包していた。
“王制主義者の三傑”伊藤博文/井上毅/金子堅太郎による明治皇室典範の制定(1889年)は、水戸学“排除”の天皇制度尊崇派による産物。が、日露戦争に勝利するや、皇室典範を支えるべき政界・官界では天皇・皇族を蔑ろにする風潮が次第に濃くなった。天皇・皇室を尊崇する精神と“井上毅の皇室典範”を護る精神は同一のはずだが、いずれも政府内部では軽視が基調になった。
明治維新政府における天皇制廃止のリーダーは山縣有朋。山縣は、幸徳秋水1910年5月“逮捕”の大逆事件と同じ1910年8月、天皇制廃止の狼煙を揚げた。これ、国民の猛反対を無視した韓国併合1910年8月の強行のこと。山縣にとり、李朝の王制度の廃止は、日本の天皇制度廃止のリハーサルだった。
だから山縣は、韓国併合反対の伊藤博文が妥協案で示した“韓国併合の最低条件”「韓国は大日本帝国内の自治国、李朝の王は『副王』」を断固と認めなかった。「朝鮮の王制度の廃止」は日本国に逆輸入されて必ずや「日本の天皇制度廃止」を誘発することに目を付けた山縣は、(朝日新聞と組んで)韓半島全域を日本国の領土・国民に併合した。天皇制制度の消滅も期待して韓国併合を進めたということ。
また、朝鮮人を日本人と平等に扱えば、日本人の朝鮮人化(劣化)というブーメランも起きるし、朝鮮人の日本“大量移民”も発生する。国会議員も朝鮮人だらけとなる。これも“反日の巨魁”山縣有朋の狙いだったろう。幸徳秋水の処刑は1911年1月。日本は、この時、“天皇制廃止と私利私欲の権化”を罪状にして、山縣有朋も処刑しておくべきだった。