対ロ外交交渉は、対ロシア“領土献上”への着実な道

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筑波大学名葉教授  中 川 八 洋

 1861年、日本は対ロ無交渉・無条約によって、対馬をロシアの強奪寸前から無事に奪還。これは、幕閣の中枢が親英・反露派になったことと大俊英・勝海舟の頭脳とが化学反応したことで可能になった、一種の偶然で奇跡。

 だから、この勝海舟の対ロ無交渉・無条約主義は、幕府の慣例とはならなかった。幕閣の反露派は少数だった上に、幕府政治は、紀元元年頃の神武天皇の御代に始まる大和朝廷以来の日本政治文化「先例重視」を慣行としていた。が、先例重視は、無思考・無賢慮と表裏一体。だから、川路聖謨が、1855年の日露和親条約で確立した「対ロ宥和路線」は、1861年の対馬奪還の成功事例を考慮することなく、何ら改変もされず唯々諾々と踏襲された。むしろ、日本の対ロ態度は、対ロ宥和“狂”川路聖謨に呪縛され、その枠内から一歩も出なかった。すなわち、幕末発祥の“日本病”「日本は対ロ属国」主義は、今に至るも治癒しない。今後も治癒しないだろう。

 表1の表現で言えば、日本が正しい「正」の対露外交に戻った1861年8~9月は奇跡の“一場の夢”だった。とすると、日本が、侵略ロシアの前線と邂逅した、1792年のラクスマン/1804年のレザノフに抗して、無交渉・無条約を貫いた(最上徳内が「得撫島に実効支配用の幕府小部隊を駐屯させよ」と1786年に建白したような、)正常な対ロ外交は、(得撫島だけには幕府軍の駐屯がなかった大ミステークを除き)樺太/宗谷/択捉島への駐兵という最も正しいやり方で1815年まで続いたが、これが最初で最後だったことになる。

表1;幕末日本の正(反露)と邪(親露)

(親英反露)、1861年

(反英親露)

安藤信正

水野忠徳

勝海舟

永井尚志(1854年)

*横井小楠は、親米反露。

*米国は、南北戦争中(1861年~)、日本を忘却。

川路聖謨(1855年)

小栗忠順(1861年)

榎本武揚(ハニートラップ第一号、明治に入るや対ロ売国奴性を満開に発揮)

*橋本左内はロシア崇拝狂。

*1861年に再来日のシーボルトは、ロシア「対日」諜報工作員。

 1862年からの徳川幕府は、対ロ政策を、1861年の勝路線を弊履と捨て、川路路線の対ロ宥和(「日本ロシアの属国」)主義に回帰させた。このことは1867年の「樺太島仮規則」に露わ。「樺太島仮規則」のような、“日本ロシア属国”主義は、米国が日本を占領した七年間(1945年8月末~)と吉田茂が総理の1954年12月末までの九年間のみ中断されたが、日本を骨の髄まで蝕み今に至る。

第一節“ロシアの属国”から“ロシアの奴隷国”へ;日本の狂気「百七十年」

 明治維新という、日本を害した方が多かった薩長の対幕府クーデタの、その罪過の一つは、樺太択捉島“防衛”の参謀本部だった会津藩をぶっ潰した戊辰戦争の犯罪性。また、心身ともロシア人だった榎本武揚を斬首しなかった薩長の不正義も、日本国を大きく毀損した。

 榎本武揚とは、「北海道共和国」をぶち上げたように、“KGBロスケの北朝鮮人”鈴木宗男と同じ「反日」の非・日本人(非・国民)。愛国者に満ちていた会津藩を潰し、敵国ロスケの“非・日”榎本武揚を重用した薩長藩閥の明治維新には、日ロ戦争直後の1906年に始まる、日本国を破壊し尽す、自国に叛逆する“狂気の国家”に日本を変貌させた“日本憎悪”革命感情が横溢していた。

 明治維新を日本憎悪教の反日革命にした原点には、“反体制テロリズム”水戸学や西郷隆盛/黒田清隆などの“反日”薩摩藩の日本“憎悪”感情とともに、1855年から猛炎と燃え続けていた川路聖謨の日露和親条約の働きがある。

 また、江戸期末から明治期末にかけて日本憎悪教の反日革命を、強大な地下火薬庫の水脈にして、昭和天皇銃殺と日本男児二千万人“皆殺し”を戦争目的とする(1937年からの)大東亜戦争へと誘導したのは、1917年以降のマルクス・レーニン主義の跳梁跋扈もさりながら、黒田清隆が主導した榎本武揚の樺太千島交換条約(1875年)の害毒も大きな役割を果たしている。

 日本国民は、《日本はロシアの属国》を国是にした二条約「日露和親条約」「樺太千島交換条約」の、その祖国叛逆と“猛毒”性を、決して軽視・過小評価してはならない。

対ロ宥和“狂”川路聖謨(1855年)を引き継いだ“明治の鈴木宗男”榎本武揚(1875年)

 1868~9年の五稜郭で、「北海道共和国」を旗幟に(薩長軍に盾突いたのではなく)日本国に叛逆した榎本武揚は、樺太をロシアに無償で献上する「対ロ“属国”外交」の役目で、1874~5年、ロシアのサンクトペテルブルクに派遣された。榎本を推薦した“樺太放棄論の巨魁”黒田清隆にとり、“無政府アナーキスト&対ロ売国奴”榎本武揚は、“日本固有の領土”である樺太を放棄する祖国叛逆者として最適任に見えたようだ。

《樺太は寒く、農業に適さないから役に立たない土地》としか思考できない南国育ちの黒田清隆は、日本国の国防など一㍉すら考えたことがない“反・国防”主義者。妻を日本刀で斬り殺した“非・人間”黒田清隆の不正常な領土観において、自分は日本国民だとの意識が溶解・消滅している“無国籍人”榎本武揚には何か強く共鳴するものがあったのだろう。

 尚、1875年、樺太アイヌが希望する漁業ができる移住地・宗谷を認めず、農業をすれば収入が十倍になると、嫌がるアイヌを江別市「対雁」(ついしかり)へ強制移住させたのも、黒田清隆の独断。幾人かの「開拓史」官吏は、“非・人間”黒田長官に抗議して辞職した。

 地理的に樺太から最も遠い薩摩藩は、樺太の対ロ国防上の戦略要地性など理解できなかった。戦争狂で放火狂の西郷隆盛が主導した戊辰戦争で、北方の領土防衛に腐心しその方策に熟知する会津藩を日本国が喪失したのは、日本国がロシアに侵略され放題になる素地を形成した。

 北方防衛を否定する西郷隆盛/黒田清隆などは、案の定、自らロスケとなり、祖国日本に牙を剥いた。長州藩は薩摩藩よりひどく、“反英の狂人”高杉晋作の弟子・伊藤博文/山縣有朋など、公然たるロスケが大量に輩出した。“史上空前の対ロ売国奴”安倍晋三も長州藩の末裔である。

 侵略国家ロシアから祖国日本をどう守るかに剣を磨く日本人だけが正常な日本国民。だが、薩摩藩・長州藩(オランダ系の大村益次郎を除く)・土佐藩には、これとは真逆の“反日”人士しかいなかった。“戦争気狂い”西郷隆盛の西南戦争(1877年、備考)で費やした明治政府・反乱軍双方の膨大な軍事力を、仮にも樺太に投入したならば、樺太全島からロシア兵を一人残らず殺害した上に、アムール川河口の軍事都市ニコライエフスクを日本国の前進基地にできた。

(備考) 「西郷隆盛の西南戦争とは明治天皇への叛乱だった」最重要な核心から決して目を逸らしてはいけない。また、西郷隆盛の直接的な目的は、徳川幕府の首都・江戸を焼き野原にしたかったのに勝海舟に阻止された、未完の東京“大火災”焼滅を実行すること。東京の全てが紅蓮の炎に燃えて灰になるのを快楽する放火狂の西郷隆盛は、ガソリンで三十六名を焼殺した京アニ事件の青葉真司と同じ精神病を病んでいた。

 また、明治時代初頭の「征韓論」ブームは、明治維新政府が「攘夷」を否定したため、幕府打倒の革命スローガン「尊王攘夷」に代わる新しい“革命・戦争スローガン”が本質。明治維新が暴力革命による政治権力奪取である本質において、レーニン革命後のトロツキー同様、暴力革命の輸出としての征韓論は必然的に発生する。この征韓論を“鎮静化する=潰す”に、征露の軍事行動こそ最高の薬。1872~3年、樺太露兵“退治”の樺太出兵をしていれば、西南戦争も無かった。「日本国領土・樺太を護り、西南戦争も未然消失させる」“万能の特効薬”は、“賢者”鍋島直正(閑叟)が主張した通り、樺太から軍事的に露兵を一掃する樺太出兵のみ。これはまた、ロシアがバルカン半島への大規模戦争を準備中で、容易に達成できた。

ロシアの樺太侵略は、川路聖謨の(樺太を日露雑居の地にした)「日露和親条約」の必然

 明治維新政府は、ロシアが、樺太に続々と兵員や囚人を送り込んでくる情況に大慌て。が、ロシアからすれば、“世紀の狂人”川路聖謨が日本人しか住んでいない純度百%の日本国領土を“日露雑居の地”だと、一般ロシア人の入植だけでなく、ロシア帝国の露兵の進駐&軍事基地づくりand囚人の流刑地としての活用、等を歓迎(受容)すると定めた、1855年の日露和親条約に沿った合法行動。

 つまり、日本の最も正しい外交は、日露和親条約の破棄。これが最高かつ唯一の完璧な解決策。しかし、黒田清隆ほか薩長の田舎暴力革命家たちは、「そんなことをしたら、ロシアと全面戦争だ!」と大騒ぎ。革命の武力集団に特有な”知なき、お馬鹿”という病気は、死んでも治らない。

 また、先例至上主義の武士集団には、条約の破棄という外交行動が発想できない。米国人の法思想では、“法の発見”(“法の支配”の一つ)が身についているから、先例主義が存在せず、信義に悖らない限りor相手が先に非法・無法の行動をした場合、条約破棄は日常茶飯。

 そればかりか、知も賢もない薩長の田舎侍たちは、ロシアとその国際情勢に全くの無知蒙昧。明治初期の1868~75年、ロシアは、オスマン・トルコ帝国への大侵略(1877~8年の露土戦争、バルカン半島のほとんどとザ・コーカサスのアルメニア等をロシアは獲得)を準備中。樺太侵略をしている暇も余裕も全く存在しなかった。

 さらにロシアは、英国と中央アジアにおける勢力圏抗争中。相当な軍事力を現在のアフガニスタンの国境まで、攻めて攻めて攻めまくっていた。タシケント攻略は1865年、サマルカンド攻略は1868年。このようにロシアは、1864年から1876年までの十四年間で、ブハラ・アミール国(1868年)/ヒヴァ汗国(1873年)/コーカンド汗国(1876年)を征服。この時期は、ロシアが樺太への侵略行為を恣にしていた時期と一致。

 尚、ロシアのアフガンとの国境クシカ(1885年)やアスハバル(1881年)攻略は、1877年の露土戦争後。一方、英国は、植民地化した英領インドの権益を守るべく、中央アジアを突破してインドに侵入する勢いのロシアを阻むべく、アフガンを攻略しアフガンの北辺をもって英露の国境とした。1878年11月の英国のアフガン侵攻(「第二次アングロ・アフガン戦争」)が、これ。1881年まで、英国はアフガンに駐留し続けた。

ロシアの戦争は一正面が原則、三正面はしない。日本の樺太侵攻の大勝利は簡単

 さて、明治政府があたふたした、樺太へのロシアの侵略は、実際にはたわいもない小部隊。日本が、軍艦十隻ほどをアニワ湾に遊弋させ(砲艦外交)、兵員二千人を上陸させれば、ロシア兵たちは蜘蛛の子が散る速さで、全軍、ニコライエフスクやペトロパブロフスクに逃げ帰っただろう。1861年の勝海舟の対馬奪還と全く同じ遣り方を踏襲すればよかっただけ。

 そして、この樺太の完全掌握をもって、日本が日露和親条約の廃棄を宣言すれば、この瞬間、樺太は日本領土として盤石なものとなった。が、新政府の樺太政策は、斬り殺すのは女房しかできない、《ロシアが怖い、ロシアが怖い》“恐露病の臆病男”黒田清隆が牛耳っていた。

 明治期のロシアの樺太侵略と日本の対抗は、ロシア陸軍少佐が率いる露兵五十人が函泊(ハッコトマリ、アニワ湾に面した海岸の村。久春古丹〈「楠渓」とも表記、「大泊」〉の北側に隣接)に上陸した1869年6月24日に始まった。ロシア兵部隊は直ぐ、兵舎を建て、道路を開鑿した。

 問題を複雑にしたのは、英国公使パークスがロシアから巨額の賄賂を手にしたのか、真赤な嘘「ロシアが樺太全島を事実上占領した」「アニワ湾のロシア部隊は二千人だ」とかの法螺話を新政府幹部に吹き込んだこと。これにより、主流だった樺太“派兵”論者グループは、ガタガタになった。樺太出兵論は、明治初期の“賢人”鍋島直正をトップに、丸山作楽/木戸孝允/大久保利通/副島種臣などだが、薩摩藩の大久保は寝返った。黒田清隆と犬猿の仲の副島種臣は少しふらついた。

 そうこうするうちの1870年5月、“対ロ売国奴の巨魁”黒田清隆が、「(北海道・樺太)開拓使次官」になった。黒田は、翌1871年1月、驚倒するような内容「無用の地に軍事力を使用してはならぬ。樺太放棄こそ上策」という(秋月俊幸『日露関係とサハリン島』、197~8頁)、「上書」樺太放棄論を政府幹部に提出。

 樺太を「無用の地」と断じるとはいったい何だ。米国本土を守るアラスカと同じ立場の樺太は、北海道防衛の前哨基地。北海道を本格開拓し経済発展させるなら、なおさら絶対保持すべき領土が樺太ではないか。

 樺太は鎌倉時代、津軽安藤氏が(「金」から亡命人を使って)白主に土城を建造しているように、日本人は古くから樺太とは往来。“オリジナル秋田産”の土師器の北海道で生産された土器を「擦文土器」と言うが、これは樺太からも発見されている。九~十三世紀、石狩川その他に住む日本人商人が、樺太と往来していた証拠。

 さらに陰険さが人一倍のダーティ黒田清隆は、外務大臣・副島種臣が清国に条約締結で出かけている留守を狙い、1873年5月、樺太放棄論の建白書を提出。太政官(内閣)はこれを受理。内容は二年前の上書と同じ(全文が西鶴定嘉『樺太史の栞』251~5頁に収録)

 黒田清隆の詭弁は、北海道は開拓すれば農業生産から大いに利潤を挙げられるが、漁業と石炭だけの(1870年代の)樺太では経済的な価値がない、というもの。樺太の戦略的要地としての価値は、北海道だけでなく日本列島をも守っているから、その価値は無限大。つまり、黒田は、経済の指標など領土の価値評価とは次元を異にするのに、ひたすら詭弁を弄して攪乱するばかり。

 しかも、この1873年とは、大規模な対トルコ全面戦争を開戦する1877年の四年前。ロシアは国力を総動員する準備の真最中。また、中央アジアで英国と勢力圏の覇権争いで、ここでの軍事力の消耗も相当なものになっていた。つまり、1877年以前のロシアには、樺太に投入できる軍事力は陸軍一千名を超えることは全く不可能だった。

 しかも、ロシアは、スターリンが第二次世界大戦で欧州を侵略している間は極東では静謐を維持したように、戦争は一正面主義が原則。二正面は稀。三正面の戦争は決してしない。この故に、バルカン半島/ザ・カフカ―スの対トルコ戦争を第一正面とし、中央アジア制覇を第二正面とする当時のロシアは、第三正面になる日本との戦争は断固と回避している。とすれば、「今こそ樺太に出兵すべき時」と主張した鍋島閑叟や丸山作楽の主張が正しく百点満点だった。1873年の丸山作楽の黒田清隆への怒り爆発は真理だった。国益を最高度に達成する正義だった。

「軍事力による侵略」の余力がない時、ロシアは「外交による侵略」で侵略を完遂する

 日本では困ったことに、「外交は平和志向、軍事力は反・平和的」と、幼児的な先入観が一般的。一方、ロシアでは、日本とは真逆で、外交も、軍事力と全く同じ侵略の手段だと認識されている。

 ロシアは、侵略とウォッカが唯一の楽しみという殺伐と凶暴の野蛮国。ロシアは十三世紀のチンギス・カンのモンゴル帝国のままだから、ロシアの対外政策・行動も十三世紀モンゴルのまま。また、ロシアの侵略の領土拡大の手段は、チンギス・カンが発明した通りに、“謀略、外交、軍事力”の三つ。十五世紀以降の世界史を紐解くと、これは世界でロシアだけで、英米は軍事力一つしかない。

 ともあれ、2022年に始まるプーチンのウクライナ侵略は、五百五十年前のイワン雷帝や、イワン雷帝以降の歴代“侵略のロシア皇帝”のそっくり生き写し。プーチンの対外行動に、エカテリーナ二世皇帝やアレクサンドル二世皇帝との相違は発見できない。ロシアの伝統的な政治文化「外交は、軍事力に代わる侵略手段」は、ロシアが存続する限り永遠不滅である。

 が、日本では、川路聖謨以降、ロシア政治文化の「外交は、軍事力に代わる侵略手段」を逆さに誤解する“ロシア音痴”や“対ロ売国奴”が主流で多数。現在では私一人を除き、日本人の99.9%。だから、ドアホの日本人は、日本が対ロ外交をすれば、つまりロシアを外交の場裏に引きだせば、ロシアの対日軍事力の使用(=侵略)を自制させると思い込んでいる。「川路聖謨(1854~55)→外国奉行・竹内保徳(1862)→函館奉行・小出秀実(1866~7)→黒田清隆(1870~73)→榎本武揚(1874~5)」の、幕末期・明治初期のワースト”対ロ売国奴“五人は、“逆さロシア観”「ロシアは、外交をすると侵略を止める」のカルト的な狂信者たちだったが、こう理解できる日本人は、今では私一人。

 ロシアからの軍事侵略を阻止する方法は、対ロ交渉を決してしない事。現に、1786年の最上徳内の得撫島探査から樺太“日本駐兵部隊”撤退の1815年までの丸三十年間、幕府は対ロ外交をいっさいしなかった。だから、この間のロシアの寇掠は、1806~7年の一度きり。それは、1853年の攻略「久春古丹への前進砦の築造」まで、日本の北方は(1807年から)四十年以上も平穏だったことを意味する。

 そもそも、1853年に始まるプチャーチンの対日外交&条約の要求は、ロシアがクリミア戦争で極東海域でも英仏に一方的に攻撃され、日本に対して軍事力が使えない特殊情況に対応した、軍事的侵略の代わりの外交的侵略。また、ロシアの目に見える軍事侵略より、ロシアの目に見えないinvisible外交侵略の方が、日本にとってはるかに危険。が、1853~5年の江戸幕府で、こう体得できるのは勝海舟だけだろうが、1823年生まれの勝は31歳で、幕府ではまだ下役。

 1854年からの川路聖謨の狂った対ロ外交交渉は、案の定、軍事的には決してロシア領にはなりえなかった樺太と得撫島を、ロシアに献上した。樺太における日露雑居とは、樺太を共同主権領土にすることで、ロシア領とも認めること。また、日露雑居なら妥当な判断だった得撫島をロシア単独の領土としたのは、これまた得撫島の対ロ献上以外の何ものでもないではないか。

 樺太・得撫島の二島を条約で獲得した外交侵略の大成功によって、一海軍中将にすぎない爵位も無いプチャーチンは、一気に伯爵に叙せられた。「膨大な戦費はゼロ、一兵卒の命も失わない」で、ロシアは八万㎢の樺太とオホーツク海を制する得撫島(1450㎢、沖縄本島の1.5倍)を獲得した。即位したばかりのアレクサンドル二世皇帝は小躍りし、「プチャーチンは神的な天才」だと莫大な財産も与えた。

百%日本領土の樺太全島をなぜ二分し、ロシアに北緯50度以北を献上しなければならないのか

(1)「樺太全島は純・日本領土だから、ロシアは出て行け!川路が締結したトンデモ日露和親条約は破棄する!」と通告すれば万事が解決したのに、この樺太を北緯50度で分割し、南樺太に住む日本人とアイヌの生産活動・生命・財産を守らんと、江戸幕府は、1862年、愚かにも対ロ外交交渉に走った。これが、外国奉行兼勘定奉行だった竹内保徳のサンクトペテルブルク談判(1862年8月~)

 この対ロ交渉の成果は当り前のゼロ回答。ドアホ竹内は巨額の外遊費用をドブに捨てただけで、手ぶら還り。ロシアは外交交渉をする場合、その領土を奪取するのが目的。これ以外はしない。川路が樺太を雑居=「五十%ロシア領」とした以上、ロシアは「樺太は百%ロシア領」にする以外の対日交渉はしない。しかも、竹内の相手は、沿海州を清国から奪いロシア領にした北京条約を締結した“辣腕の外交官”イグナチェフ(外務省アジア局長)。イグナチェフから見れば、竹内保徳は幼稚園児。

 序。当時の樺太と竹内・イグナチェフ談判の内容を少し。日本最初の樺太での建造物は鎌倉時代に津軽安藤氏が築城の(亡命「金」人に創らせた?)「白主の土城」。また、日本人の樺太との往来は平安時代の九世紀から盛ん。日本人商人が食糧入れで持ち歩いた(オリジナル秋田県製の)北海道産土師器(共産党員の考古学者は、わざと「擦文土器」と名付け、日本人製の事実を隠蔽)が樺太南部でも発見されているからだ。さらに、共産党員の考古学者たちは悪魔の本領を発揮して、架空の「擦文人」を捏造。680年から(アイヌの毒矢でジェノサイドされる)1230年までの五百五十年間、日本人が北海道に大量に入植・農業していた歴史を抹殺する騙し語が、「擦文人」「擦文文化」「擦文土器」。

 さて、この1862年時点。樺太西岸での日本人最北端は、久春内(北緯48度)と幌子谷(ホロコタン、北緯50度)の間にあるウシュロ。ここに武士も駐在していた。江戸幕府が北緯50度に拘ったのは、樺太アイヌが一定規模で住むほぼ北限だったことと、国境がこの線でない限り、北からアニワ湾に侵略するロシアに対して、防衛の最小限の縦深が取れないからだ。

 いや、この北緯50度での国境設定ですらナンセンス。1945年8月、ソ連軍は北緯50度ラインから一気にアニワ湾まで雪崩込み樺太全土を占領している。川路聖謨の対ロ崇拝病に罹患した竹内保徳とは、樺太全島は日本固有の領土だとイグナチェフに詰め寄る以外に対ロ交渉の方法がないことに気が付かなかった。反・川路の剣を振らない日本人は、どいつもこいつも劣等以下であった。

 なお、この交渉で、イグナチェフは「北緯48度ならいいよ」と騙しの妥協を演技した。竹内・イグナチェフ談判は決裂したが、談判の概要を記録した覚書を交換。が、狡猾なイグナチェフは「日本側は北緯50度で…と主張」の文から、この「北緯50度」をこっそり削っている。田辺太一はこれを正しく指摘。『幕末外交談一』東洋文庫、212頁)

(2)1867年、サンクトペテルブルクに乗り込んだ函館奉行の小出秀実は、竹内保徳よりさらにお馬鹿。ほぼ“外交白痴”だったからだ。樺太はロシア領だと解せる“スーパー対ロ売国”「樺太仮規則」を締結したからだ(3月)。小出の帰国後(同年5月)、日本(幕府)は慌てて、この破棄をロシアに通告(同年6月)。が、「樺太仮規則」は、ロシアから莫大な賄賂を懐に入れた?“薩摩のならず者”黒田清隆の樺太放棄論(1871年、1873年)に繋がっていく。 

 ロシア崇拝“狂”小出秀実は、イグナチェフ「北緯48度線で分割」論を信奉する強度の対ロ売国奴。ロシア外務省アジア局長ストレモウホフは、小出の申し出を逆さにとり、①樺太はロシア領である、②樺太と得撫島(プラス三島)の交換ではどうか、と逆提案。そして、協議の概要をそのまま日ロ間の条約にした。これが仮条約の「日ロ間樺太仮規則(日露樺太雑居仮条約)」。川路の“日本、ロシアの奴隷国”日露和親条約をさらに日本不利に悪化させた代物。開いた口が塞がらない。

 要するに、対ロ交渉をする度に、「川路の日露和親条約(1855・2)→竹内の対露交渉の覚書(1862)→小出の日露樺太雑居仮条約(1867・3)」と、《樺太はロシア領》だと日本側が徐々に容認していく過程になっている。

 小出の日露樺太雑居仮条約(1867・3)は、日本側は小出の帰国後(1867・5)に慌てて破棄通告したが(1867年6月)、ロシアは、そんなことおかまいなし。ロシアとしては「破棄は認めない」と開き直ればいい話。小出の日露樺太雑居仮条約の第一条は「樺太はロシア領」とも読めるから、ロシアは1867年6月、アニワ湾のトーフツ湖畔(ブッセ湾)に軍艦一隻を横付けし、兵員六十名を上陸させ兵舎と基地の建設を開始。さらにロシアは、これを一気に兵力三百人の大隊規模にし、ついにロシアの対日戦争準備基地の一つができた。

 小出の日露樺太雑居仮条約は、空前絶後のトンデモ条約。①第一条から第三条に、交渉時のロシア側の主張をそのまま書き、②第四条で日本側がこの三ヶ条に不服の場合、従来通り(日露和親条約の通り)に「樺太を日露雑居としていいよ」との、宗主国が奴隷国に一方的に下賜した命令書になっている。これ、条約ではない。

 小出は第一&三条を認めないと主張したのだから、条約なら第一&三条は存在しないはず。交渉の実際は、第四条の記述通りだから、第四条だけなら条約ともいえよう。尚、第二条は第四条に含まれている。むろん、この「第四条だけの条約」なら、条約にする必要がない。小出は交渉決裂の通りに、条約無しで帰国すべきだった。

 が、日本の政治文化では、手ぶら帰りには厳しい非難が待ち受ける。非難回避のため、どんな内容でも条約を締結する方が無難。鳩山一郎の1956年「日ソ共同宣言」は、まさにこの典型だった。《対ロ無条約が日本の領土を守り/日本の領土を奪還できる》絶対真理は、ここにも露わだろう。小出秀実の日露樺太雑居仮条約(1867・3)の第一&三条は、以下。

第一条 両国の間にある天然の国界「アニワ」と唱ふる海峡をもって両国の境界となし、樺太全島をロシアの所有とすべし

(第二条 右の島にて今まで日本に属せる漁業等は今後とも総てこれまで通りその所有とすべし)

第三条 ロシア所属の「得撫」は、その近傍にある「チルボイ」「フラットテルボイ」「プロトン」三小島と共に、日本に譲り(日本が)全く異論なき時は日本の所領とすべし

『日本外交史第一巻 幕末外交』、鹿島研究所出版会、165頁)

 小出秀実がどうしても文書をもって帰りたいのなら、協定や条約ではなく、交換公文方式を採るべきだった。この交換公文は、次のようなもの。

第一条    ロシアは、樺太はロシア領であると主張したが、日本側はこれを拒否した。

第二条    ロシアは、樺太をロシア領と日本側が認めるなら、得撫島とその周辺の三小島を日本に譲ると提案したが、日本側はこれを拒否した。

第三条    日本は、北緯48度線で樺太を両国で分割する国境とすると提案したが、ロシア側はこれを拒否した。

第四条    拠って日露両国は、樺太に関し、1855年の日露和親条約のまま「日露雑居」とすることを再確認した。

祖国を害した三“対ロ交渉官”「川路聖謨/竹内保徳/小出秀実」を比較採点する

 幕末日本が、全く不必要な三度に亙る対ロ交渉を行い、挙句に有害この上もない条約を二つも締結した。不平等条約どころでない日本国を自ら侵略した条約を締結した川路と小出の、祖国日本への未曾有の毀損(天下一の大罪)は許されるレベルでない。斬首して獄門に晒すのが正当な処分で、それ以下はありえない。そこで、まず、この三名の対交渉・条約締結を採点して比べておく。

表2;劣等&有害“対ロ交渉官”「川路聖謨/竹内保徳/小出秀実」の採点

川路聖謨、マイナス900点

*日露和親条約、1855年

竹内保徳、プラス30点

*対ロ交渉、1862年

小出秀実、マイナス1100点

*対ロ交渉、1867年

樺太にはロシア人は一人もいなった。得撫島は、1786年以降、日露の争奪戦の島。ロシアもまだロシア領と確定していないと認識。また、下田交渉の1854年時点、得撫島のロシア人は海上に英仏の軍艦を見て、一人残らずペトロパブロフスクに逃散した。

略、上記記述を参照のこと。

略、上記記述を参照のこと。

1、条約を締結する理由が全く存在しなかったのに、締結。

2、ロシア人に樺太への雑居権を付与したのは、日本領の敵国ロシアへの献上と同じ。

1、日露両国には合意できたものが一つもなく、交渉は決裂。故に、竹内は無条約で帰国。この外交行動のみ評価できる。故に、プラス30点。

1、日露両国は何一つ合意できず、無条約の手ぶら帰国が絶対原則。が、条約を締結。

2、条約に「樺太はロシア領」と読めるハチャメチャ条文あり。

第二節 “史上空前の対ロ売国奴”安倍晋三を死刑に処さなかった日本

 日本の明治維新は、《日本はロシアの属国》を国是にする新国家を建設した。この事は、総理大臣の初代~三代に、札付きの対ロ売国奴「伊藤博文(1885~8、1907~16年の日露協約四本・秘密協定三本の元を創った)、黒田清隆(1888~9、1873年の樺太放棄論)、山縣有朋(1889~91、1910年のロシアの命令「韓国併合」を断行)」が就任した事実で明らか過ぎよう。

 自国毀損に暴走する日本の異常は、1789年に北米大陸に誕生した米国の初代大統領ジョージ・ワシントン/二代大統領ジョン・アダムスが屹立した保守主義者で愛国者だった、“理想の正常”を出発点にする米国政治と比較するとよくわかる。米国は、領土とその勢力圏・影響圏を建国以来、着実に拡大し続けてきたし、第一次世界大戦からの“世界一の超大国”の地位は今も変わらない。

 一方の日本は、明治維新以来の対外膨張も国際的地位も、大きく膨らんだ風船が一気にペシャンコに潰れた時に似て、1945年8月に大転落・大縮小した。1906年以降の日本が極端な《ロシアの属国》《ロシアの奴隷国》《共産国・日本》を選択したからであり、結末は必然であった。

「領土が毟り取られる、ロシアとの領土交渉」を証明した“川路聖謨の再来”安倍晋三

 幕末に《日本はロシアの属国》を深化させた“対ロ売国奴”「川路聖謨→竹内保徳→小出秀実」は、明治初期の“対ロ売国奴”「黒田清隆→榎本武揚」に一直線に連結している。さらに日本は、ロシアのアジア支配の大拡大に奉仕するため、日露戦争勝利直後から、「伊藤博文→山縣有朋→近衛文麿」と、ロシアの命令通りに、日本国自身を毀損して祖国叛逆の国家滅亡する道を選択した。

 戦後日本は、(対ロ主権回復や共産主義者に対する弾圧など)日本国の正常化に粉骨砕身し、日本の再生に尽力したGHQの米国占領が七年間で終わるや、一気に“ロシアの属国”に戻った。1955年、鳩山一郎と河野一郎は、「ロシア様、再びロシアの奴隷になりますから、国交回復して下さい」と叩頭。結果、ロシアの命令通りの「日ソ共同宣言」に署名した(1956年10月)。これで日本は、1786年の最上徳内から1815年までの会津藩の樺太出兵の丸三十年間、日本中に漲っていた対ロ国防の熱情と精神に立ち返るチャンスを永遠に失った。

 代わりに、1955年~2019年9月の戦後六十四年間を、「日本はロシアの属国」「日本はロシアの奴隷国」にした「鳩山一郎/河野一郎→田中角栄→安倍晋太郎→森喜朗→安倍晋三」という、対ロ売国奴の首相たちが日本国を恣に切り刻む対ロ主権放棄が日常の“半国家”に日本を貶めた。日本国が対ロ軍事防衛主義対ロ無交渉主義を国是とする、真に主権ある独立自存の国家に立ち戻ることは、もうあるまい。日本の亡国一路はスピードを益々上げ、暗黒の奈落の一歩手前。

 それはともかく、川路聖謨の再来&“史上空前の対ロ売国奴”安倍晋三の、2013~19年の二十七回に及ぶ対プーチン“日本国奴隷化”外交は、日本国の国益と尊厳を限りなく毀損した。安倍晋三によって、“日本はロシアの奴隷国”との醜態を世界に晒した。安倍晋三に対し適用されるべきが正義の、外患罪の死刑orそれに代わる処断を主張しない日本人とは非・国民である。

2013年4月に開始の安倍晋三の対プーチン“土下座外交”は、川路聖謨が憑依!

 江戸時代に始まる、我が国の対ロ外交は二路線。路線の一つは、清国とオランダ以外とは交易しない鎖国政策の援護もあったが、“対ロ無交渉・無条約主義”。この路線の命は、短かった。ラクスマンが根室/松前に来航し交易を要求したのを蹴った1792年から、勝海舟の英国軍艦二隻“派遣”で対馬を奪還した1861年までの六十九年間で幕を閉じたからだ。

 もう一つが、ペリー提督の来航で日米和親条約を締結した1853年以降、江戸幕府が鎖国を止め開国へと舵を大きく切ったことで、“北方の獰猛な羆”ロシアを、対日領土欲が全くない米、英、蘭、仏と同列に扱う非差別で、日本国を毀損する“対ロ土下座の、対ロ条約至上主義”路線。これは、プチャーチンの長崎来航(1853年)→川路聖謨の日露和親条約締結(1855年2月)で始まり、安倍晋三2019年9月5日“対プーチン抱き付き演説”に至る、百六十六年間も続いた。今後も変わることは無いだろう。

 《ロシアは対日侵略(領土奪取)の意図があるから気を付けろ、英米蘭とは同等に扱うな》と、オランダは日本に親切に絶えず助言してくれた。が、日本人でこれに耳を傾けた者は、林子平や勝海舟など僅か。林子平は一流の人材だから、“法螺吹き男爵”ハンペンゴロ(ベニョフスキー、カムチャッカ脱出1771年)の長崎オランダ商館宛ての手紙を正しいと見抜いた(『海国兵談』序文、1786年)。一方、工藤平助は二流男だから、オランダの「ロシアには気を付けろ」をフンと嘲笑った(『赤蝦夷風説考』)

 さて、日本国を毀損する路線である“対ロ土下座の、対ロ条約至上主義”における、(現時点の)最初と最後は、川路聖謨と安倍晋三。この両名の比較は、今後の日本が対ロ外交を正常化するか否かを測る羅針盤。表3は、その簡単な比較。 

表3;安倍晋三は、川路聖謨の嫡流的な継承者

安倍晋三(プーチンと2013~9年、27回)

川路聖謨(プチャーチンと1854~5年交渉)

有害で全く不必要な日露平和条約の締結(日米安保条約に代わる日ロ同盟が、安倍晋三の宗教的信念。安倍はこの条約締結のためなら、四島もいらない/北海道のロシア献上も辞さないを方針とした。安倍は、“北海道への侵略基地”択捉島の軍事インフラを日本国民の税金で整備する対ロ経済協力相のポストまで創設。安倍は三千億円をプーチンに貢ぎ、秋田・山口県に配備予定のイージス・アショアを潰した。安倍の日露平和条約を締結したい一心は、スーパー狂気以上だった。

「米国のペリー提督は粗暴。露のプチャーチンは紳士」→「日本は親ロ反米を国策とし日ロ同盟が指向されるべき」だと短絡妄想。“日本国領土”樺太/得撫島の対ロ献上は日ロ提携への日本の心意気だと自画自賛する妄想狂。この異常妄想から、プチャーチンの要求通り、樺太と得撫島を対ロ献上すると定めた日露和親条約に、川路聖謨は盲判で調印。日露和親条約は全く不必要で締結する理由は一㍉も見当たらない。川路の有害&不必要な条約締結は、安倍の有害&不必要な日露平和条約の締結“熱”に伝染した。

日本国と日本人に憎悪感情をもつ敵国人ロスケ。“第二スターリン”のプーチン拝跪教

敵国ロシアに対する無制限な迎合主義。日ロ提携/日ロ同盟を指向するロシア崇拝教

プーチンの露骨な対日軍事侵攻の姿勢と準備が見えないふり=平和ボケ演技。プーチンの命令「北方四島“軍事化”インフラの日本負担/イージス・アショア潰し」の実行もこれ。

ロシア人が一人もいない樺太を「日露雑居」とは、「新規の、兵士や囚人のロシア人の樺太入植を歓迎する」との意味。これを条約で定めるなど、正常な思考をする通常の人間ならできない。

人格破綻(サイコパス)の狂人。ナルシシズム狂。

現実のロシアを転倒妄想する川路は、精神医学的な重い病気を病んでいたようだ。

 安倍晋三の日露平和条約への拘りは、麻原彰晃に対するオウム真理教の信徒と同じで、一種のカルト狂信。一方、川路聖謨も、ロシア人ゼロ人の樺太を「日露雑居」とする不可解な妄想をしたが、この妄想、何らかの狂気がない限り、産まれない。また、得撫島にもロシア人は一人もおらず、そんな領土をロシア領とする理由も、どこにも存在しない。川路聖謨は、狐にとり憑かれていたのか。

 安倍晋三の日露平和条約“熱”と川路聖謨の日露和親条約“締結”とは、有害かつ無用であるのを逆さに転倒した大逆走で瓜二つ。川路聖謨と安倍晋三は一直線で繋がっている上に、どうもクローン的な同体。川路は短銃の銃弾で死に、後者はプーチンが放ったスナイパー拳銃のガリウム弾が心臓に当り死んだ。両者の死に際の酷似は、対ロ姿勢の酷似の延長上に起きたようだ。

 なお、安倍晋三は、精神分裂病も躁鬱病も病んでいない。が、2019年9月5日のウラジオ安倍演説は百%気狂いのそれ。これを分析した、2019年9月15日に上梓した私の論考を、本稿の掉尾にリンクしておく。尚、次のABCDを、もう一度繰り返しておきたい。

A、安倍晋三は2013年4月、「俺様は天才だから、北方四島を奪還する」とド派手に日本国民に宣言してモスクワのプーチンの下に出かけた。日本唯一人のロシア専門家である私は、「ロシアは外交交渉や条約では領土を返還しない。軍事的圧力に屈したとき、撤兵で返還する」「対ロ交渉をすると、北方四島返還が北海道ロシア献上に必ずエスカレートしていく」と警告した。が、日本中の誰も、私の警告に耳に傾けた者はいなかった。

B、2018年11月、シンガポールでの第25回目の“安倍・プーチン”密会で、プーチンは「国後・択捉島は返さない」「日米安保条約を破棄するなら、色丹島ぐらいは返してやろう」と、最後通牒を安倍に突き付けた。安倍晋三が正常な人格なら、「俺を、2013年4月から五年半も騙したな」と、プーチンに怒り狂ったはず。が、安倍晋三は、ションボリ帰国。成蹊大学というFラン大卒の“スーパーお馬鹿”安倍晋三には、自惚れの傲慢とナルシズムのみ満ちているだけで、愛国心が一㍉㌘もなく、プーチンに対する公憤が起きないのだ。

C、プーチンは2018年12月、「北海道はロシア領」だと高らかに宣言。「アイヌはロシア国民で、アイヌは北海道の先住民族だからだ」を、その理由にあげた。そして安倍晋三は、これに反論するのではなく、逆にこれに同意し、北海道はロシア領を法律にしてあげた。半年後の2019年4月、「アイヌは北海道の先住民族」と第一条で明記したアイヌ誇り尊重推進法を制定したからだ。安倍晋三は、北海道の対ロ割譲をプーチンに法律をもって確約した。

D、川路聖謨は、純・日本国領の樺太をロシア領とした(共同主権)。一方、“史上空前の対ロ売国奴”安倍晋三は、北海道の対ロ献上を確約する法律まで制定し、それを巨大建築物「白老ウポポイ」で表徴して上げた。徹頭徹尾、《日本はロシアの属国》《日本はロシアの奴隷国》である証拠づくりに驀進したのが、悪魔ですらたじろぐ、“日本憎悪教の悪魔宣教師”安倍晋三であった。

 

プーチンの靴を舐める“敵国人ロスケ”安倍晋三、ついに発狂──満洲/樺太をスターリンに献上した“赤魔”白鳥敏夫が憑依した?(ゼミ講義、2019年9月15日記)

 

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