“ロシアの属国(1853~1916)”から“ロシアの奴隷国(1928~2019)”へと、百六十六年間、祖国に叛逆した日本──「日本の婦女子はロシア様にレイプされ殺されるべき女奴隷」(関東軍)

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筑波大学名誉教授 中 川 八 洋

 川路聖謨は、ペリー提督への嫌悪感情から「反米」を信条とし、(北に隣する)ロシアこそ日本国の友邦だと、日露提携・日露同盟を目指し、樺太(主権の半分)と得撫島の対ロ献上を決定した。樺太にはロシア人は(軍隊はむろん)一人も住んでおらず、百%日本領土だから、川路は樺太をロシアに献上したのである。得撫島は、最上徳内の1786年の探索以来、日ロが領有を争う領土で、「折半」ならまだしも、その全てをロシアに差し出すのは、国際法に照らしても全く不合理で異常の極み。

 が、川路聖謨の下田条約(1855年)路線は、その後の日本の対ロ政策を徹頭徹尾に呪縛した。朝鮮半島の権益と日本への安全保障の危機から、日本は日露戦争を敢行したが(1904~5年)、日本の親ロ一辺倒主義は、“反露の極限”日露戦争に勝利した途端、逆にひどくなった。

第一節 「米国は想定敵国」の日露同盟へ(1916年7月)。日露戦争後に狂った日本

(1)日本は、第一次世界大戦中の1916年7月、米国を仮想敵とする日露軍事同盟を締結した。これは、1854~5年、川路聖謨が夢想した反米・親露の究極の形態。“対ロ売国奴”川路聖謨が構想した狂気が、六十年の時を経て実現したのである。なぜ、このような(自国に刃する)馬鹿なことを日本はしたのか。“史上空前の対ロ売国奴”安倍晋三の長州の大先輩・山縣有朋が、「日ロ同盟! 日ロ同盟!」と大暴走した結果であろうか。

表1;1916年の日ロ同盟“推進”三人組を、現在に譬えれば・・・

山縣有朋(元老)

プーチンと27回会談し、「四島全てロシアに献上」に同意した安倍晋三。

石井菊次郎・外相

“ロシアの犬”鈴木宗男(北朝鮮人)

本野一郎・駐露大使

(白鳥敏夫に似た異常なロシア崇拝者)

鈴木宗男の盟友である元外務省・中級専門職の佐藤優(北朝鮮人)

それとも北方領土を(現在価格で六百億円を懐にして)ロシアに売った河野一郎(河野太郎の祖父)

 第一次世界大戦が勃発すると、強烈な反・英米の山縣有朋はこれに便乗し、「日ロ同盟を締結する時が来た」と大燥ぎ。1914年末、山縣有朋は井上馨(長州)/大山巌(薩摩)/松方正義(薩摩)を誘い、日ロ同盟「意見書」を首相・大隈重信(78歳、半分ぐらい老耄状態)に提出した。が、外務大臣の加藤高明は中道の常識人だから、トンデモナイと拒否。そこで山縣は、スキャンダルを創り、加藤を引責辞任させ、後任に腹心で“反米・親露”の石井菊次郎を据えた。

 結局、山縣有朋・石井菊次郎・本野一郎の三名の独断専行で、1916年の「日ロ同盟」秘密協約が、モスクワで調印された(条約ではなく、一ランク低い協定)。この秘密協約第一&二条は、「支那が日露いずれかに敵意を持つ第三国米国or英国を想定に支配される場合で、日露いずれかがこの第三国=想定敵国に戦争を起こした場合、他の一方は援助する義務を負う」というもの。

(注)『日本外交史』第十巻、鹿島研究所出版会、368頁。

 すなわち、この日露同盟では、「支那国に対する米英の支配は、戦争で排除すべし」を前提にしている。また、この戦争での日露の協力を義務付けているが、ロシアは決して日本に義務を履行しないから、“日本はロシアに一方的に協力する”との約定。

(参考文献)KGB第一総局に所属するエドワルド氏の『日露同盟の時 1914~1917年』は、参考になる? ならない?

(2)近衛文麿が開始した、1937年7月の蒋介石殺害戦争(日中戦争)及び1941年12月8日の対英米戦争(太平洋戦争)の二つは、いずれもスターリン命令の実行。が、この「スターリン命令」を「日ソ同盟」と読めば、驚くなかれ、両戦争は、1916年7月の日露同盟密約「第一条/第二条」に依拠し、それと符合している。近衛文麿は、(過激な共産主義者である問題をいったん脇に置けば)基本的には山縣有朋の生れ変りだった。

 なぜなら、蒋介石は英米を同盟国に、1937年7月からの日本の侵略に対し防衛戦争をし続けた。ために四年後、日本=近衛文麿は、英米に開戦(1941年12月8日)。この英米との戦争は、日ロ同盟の秘密協約の定め通りで、ロシアの脚本に従っている。近衛文麿(東条英機は近衛の戦争代行人)は、秘密協約をつくった山縣有朋になりきって、対英米開戦をしたのだ。

 スターリン・ロシアの、第一条「支那国との緊切なる利益」は毛沢東の中国共産党。が、英米ともに毛沢東とは敵対しておらず、ロシアが日本側に参戦する義務は生じない。ただ、1945年8月になり、毛沢東の中国共産党に支那全土を掌握させられると確信するや、スターリンは、日本を襲った。「日ロ同盟」秘密協約の「第三国=想定敵国」は、ロシアの頭の中では“同盟国”日本だった。

 日本は、1916年の日ロ同盟に従い1941年から米英と戦争したが、一方のロシアは、その想定敵国が、米英ではなく日本だったということ。ロシアと条約・協定を決して締結してはならないのは、ロシアが秘めている本心は、ロシアとの外交交渉中もしっかと秘匿されており、窺い知ることが全く不可能だからだ。人類史上特筆される“騙しの超・天才”チンギス・カンの末裔ロシアは恐ろしい。

幕末・明治初期の第Ⅰ期と日露戦争後の第Ⅱ期に分かれる“ロシアの属国”日本

 日本が“ロシアの属国”になったのは、疫病神“プチャーチン”の来航(1853年)以降で、「日露和親条約、樺太・千島交換条約、日露協約・秘密協約七本、韓国併合」の四つが、その代表。

表2;“ロシアの属国”第Ⅰ期の日本(1853~1875年)

川路聖謨の日露和親条約、1855年2月。ロシア人が一人もいない樺太がどうして「雑居」??? 得撫島は日ロの争奪戦中。

プチャーチンは日本に不幸を齎す疫病神。ディアナ号の破壊は、プチャーチン斬首の好機だった。北条時宗の元の特使“斬首”こそ外交の神髄。

黒田清隆の樺太放棄論→榎本武揚の狂気外交「8万㎢(樺太)と5千㎢(クリル)の交換」

榎本武揚はアナーキスト。オランダでハニー・トラップ。黒田清隆は(松岡と同じ)ロシアから巨額収賄?

 

表3;“ロシアの属国”第Ⅱ期の日本(1906~16年)

日露協約、1907~16年。秘密協約を併せ七本。第四次日露秘密協約の「仮想敵」は米国。1941年12月の真珠湾攻撃は、この履行と解せば、この日露同盟(第四次秘密協約)は、レーニンが1917年に破棄したが、実際は1941年まで生きていたといえる。

ロシアの目的は四つ。①日本をして北満洲に進撃させない。②日本をして満洲を「新・清国」にしようと発想させない。③英国がチベットから外蒙古に進出し権益を獲得するのを阻止し、外蒙古をロシアの完全な植民地にする。④日本の外交路線を、親・英米から反・英米に180度逆にひっくり返す。

韓国併合、1910年。王制主義者の伊藤博文は朝鮮王朝が廃止されるので、猛反対。ためにロシアは、伊藤博文は邪魔だとハルビンで1909年に殺害(駅舎の二階、カービン銃二丁)。ピストルの安重根は囮で、一発も伊藤に中っていない。

ロシアは、南進の「韓国併合」で、北満洲に北進するための日本の経済力・財政力を朝鮮半島に蕩尽させるべく、山縣有朋に命令。ウィルソン大統領の「民族自決」が世界を風靡中だったのだから、1919年のベルサイユ条約の調印と同時に、韓国を「朝鮮王国」として独立させるのが常識の常識。

日露戦争に勝利した瞬間、ロシアに洗脳され“ロシアの《夢遊病》人形”になった日本

 上記のうち、日露協約・秘密協約七本について、日本の現代史学界は、「これらが締結された」と、あっさりと触れるだけ。こんな記述では、満蒙の領域で日ロ両国が平和共存を求め多少の相互調停を行った一側面を言及したに過ぎず、一見、何の問題もないかに見える。しかし、これでは国際政治学ではない。小五から中一の学校教科書。

 極東(=日本と東アジア)の、より恒久的な平和のために、満蒙の地に英米を抱き込んで、ロシアの南下を阻止し、ロシアをバイカル湖以西に後退させる、ポスト日露戦争の対ロ追撃戦を、日本はなぜ、何一つしなかったのか、が問題だろう。平和は、(1938年10月1日のミュンヘン会談が典型だが)平和共存策からは決して産まれない。

 平和は、侵略国家ロシアを封殺してバイカル湖・イルクーツク以西に包囲encirclementした時、極東一帯にも到来する。しかも、この対ロ封殺・包囲は、水星から土星までの六つの惑星が一直線に並んだかのような、奇跡的に1905~1923年のみ可能だった。すなわち、「1905~23年」の一部である「1907~16年」の、七本の日露協約・秘密協約は、奇跡的に可能だったポスト日露戦争の対ロ追撃戦&(英米を満蒙に抱き込む)新・極東秩序づくりを、日本が目指すことが無いよう、ロシアがそれを阻むために仕組んだ高度で狡猾なロシアの対日“誑かし”作戦だったのだ。

 このロシアの対日“誑かし”作戦は、次の二つを考察すれば、浮かび上がってくる。

(1)七本の“有害協定”「日露協約・秘密協約」に現を抜かし、自滅の墓穴を掘った“狂”日本外交。

(2)1918~9年、日本が断固、決行すべきだった(満蒙からカムチャッカまでの)極東大外交”。

第一次日露秘密協約をケースに、上記(1)の分析

 1907年7月の第一次に始まる日露協約七本すべて、日本国を骨の髄まで害した。この意味で、「日本はなぜ、秘密協約を含め七本も締結したのか」、と怒る日本人は健全で正常である。

 ロシアは日本の北満洲への侵攻を恐れているのであり、この恐れを拡大させればさせるほど、ロシアの対日譲歩がロシア側から提示されるから、日本国として、「何もしない/ロシアと接触しない」のが、対ロ外交の神髄となる。この対ロ外交の大原理は、レーガンの対ソ無交渉主義が、ソ連をして東欧を解放させた(=西欧に返還させた)歴史事実で、明瞭に証明されている。

 つまり、“ロシアの対日懸念”「北満洲に侵攻するのではないか」を、より深刻に悩ませ恐怖を膨らませるのが、ロシアに戦わずして勝つ孫子の兵法。対ロ外交の極意。そもそも東アジアの安定のためには、ロシアが(バイカル湖以西に)極東から去ることが一番。それを逆さにも、「ロシア様、どうか満蒙にいて下さい」と同義の、満蒙における日露の平和共存策を条約にするなど、烏滸の沙汰。

 1907年時点、日本はひたすら、北満洲を南満洲に併呑する準備に邁進すればよかったのだ。これこそ東洋の平和の骨髄! 尚、北満洲への日本の侵攻準備がロシア側にできるだけ察知されない方が望ましく、この点からも、日本はロシアとの接触を極力減らすのが外交の常道だろう。

 さて、第一次協約の締結に至るきっかけは、親英の常識人・林董(ただす)外相を騙すべく、ロシアのイズヴォルスキー外相と凶悪ロスケ本野一郎・駐露公使(戦後の河野一郎をイメージせよ)が共謀して、林外相に稟請した電文(1907年1月19日付け)に対する、コロリと騙された林董外相の回訓に始まった(1907年2月2日、注)。        

(注) 『日本外交史』第八巻、164~200頁。

 本野一郎の請訓は、一言で言えば、「ロシアは、日本が北満洲に攻め込むのではないかと憂慮していますから、日本は《そんなことはしない》の保証を与えたがいいと思います」というもの。林董は、親英でも(昭和天皇や吉田茂のような)反露ではないから、ロシアとの関係では日本の安全保障を害する外交に堕ちる。日本の外交官は、反露と親英米の双方に立脚していなければ、務まらない。

 現に林董は、“ロシアの対日工作員”本野一郎の罠にかかり、ポーツマス条約があるから全く不必要な第一次日露協約だけでなく、日英同盟に違背する「第一次日ロ秘密協約」を遮二無二に締結していく。実際にも林董は常識一辺倒で、好機が到来する寸前でありながら。北満洲への侵攻の意図がなかった。国益のためなら対ロ戦争を辞さない前任の小村寿太郎の水準ではなかった。

 総括すると、1907年7月に締結された日露協約は二条からなるが、いずれも全く不必要。秘密協約を締結する口実としての「協約」だったことがわかる。秘密協約の方は、四条からなる。第一条は満洲を南北に分界する線のそれぞれの内側問題を日露は相互に尊重する、というもの。覚書の内容。それがどうして条約なのか? 

 第二条は、ロシアは日韓関係における日本の諸政策を尊重するという狂条文。ロシアは韓国とは無関係。不必要どころでない。ロシアに韓国問題に介在させてはならない。しかも、この条文で、次のマイナスが生まれるではないか。韓国問題に、ロシアには口を出す権利はあるが、日本のために《黙ってあげる》との恩を着せる解釈を可能にするからだ。まさに炎症を起こした盲腸条文。林董は削除しようとしたが、“ロシアの犬”伊藤博文が削除に反対し残った。

 要するに、1907年日露協約・秘密協約の全六条のうち、条約条文らしきものは、秘密協定の第三条たった一つ。これを日本に飲ませるのを目的に、ロシアは“ロシアの赤い犬”本野一郎を使って、日本を騙し、条約二本を締結させたのだ。秘密協約第三条は、「日本政府は、外蒙古におけるロシア国の特殊利益を承認し、該利益を損傷すべき何らの干渉をなさざることを約す」とある。

 が、日本の外務省は誰も、この「特殊利益」をロシアに問い質さなかった。1912年11月2日に首都クーロン(現在のウランバートル)で締結された露蒙条約第二条が規定する附属商務協定がリストする全17項目が、この「特殊利益」に当る。一部、紹介する。

●ロシア人は、蒙古各地で、居住移転、商業、生産、取引等に関する一切の権利を有する。

●ロシア人は、その取扱い貨物の搬入搬出につき、いっさいの課税を免除される。

●ロシア銀行は、蒙古で、支店を設ける。

●ロシア人は、蒙古で、土地を商祖し、または購買し得る。

●ロシア人は、蒙古政府と協商し、礦業、林業、漁業、その他の権利を享有し得る。

 (注)入江啓四郎『支那辺彊と英露の角逐』、ナウカ社、1935年、263頁。

 つまり、上記に抜き書きした五項目だけでも分かるように、蒙古は、ロシアの属国以下で、ロシアの植民地になったのだ。そして日本は、ロシアに、この残酷な蒙古支配を容認したのである。しかも、これ、国際法違反ではないか。国際法は、「条約は第三国を利せず/害せず」を絶対としており、日本に、《第三国モンゴルのロシア植民地化を容認する》権利などあろうはずもない!

 さらに、外蒙古では、このようなロシア圧政十年後の1921年3月、人民革命政権が樹立。外蒙古は、ソ連に次いで世界二番目の共産国になった。アジア共産化の前進基地となった。尚、三番目の共産国がスペイン(1936年、フランコ将軍が直ぐ潰した)。四番目が、国民が意識する暇もなく、対中戦争に引き摺り込む方策で共産国になった1937年からの日本。

(備考)河上肇の愛弟子・近衛文麿は稀代の共産主義者で共産革命の天才児。赤旗を振らず(日本国内では)血を流さず、日本に共産政権を樹立(1937年6月)、その後に国民を戦場で殺し捲った。日本列島を戦場にすれば(「本土決戦」)、七千万の日本人全員すら殺戮でき、日本民族を地球から一人残らず一掃できる。これが1945年8月15日の昭和天皇のご聖断までの近衛文麿の本心か。

 それはともかく、日本が1907年7月《ロシアの外蒙古の特殊権益》を認めたことは、五年後の1912年に外蒙古が主権を失い、ロシア植民地/共産国家に堕していったことに直結している。ロシアと締結するすべての条約は、必ず、日本を塗炭の地獄に誘い込み、また周辺国家をも不幸のどん底に突き落とす。日ソ基本条約(1925年1月)も日ソ中立条約(1941年4月)も、これを完璧に証明。

上記(2)の1918~9年、日本が断固決行すべきだった(満蒙からカムチャッカまでの)“極東大外交”

 ポーツマス条約で、日本の固有の領土「樺太北半」を日本に返還しなかったロシアに対し、日本は恨みをもって報復してこそ、日本は主権国家たりうる。これが逸脱してはならぬ対ロ外交の基本。樺太北半“奪還は、日本国の全世代が1855年以前の祖先に負うている、大和民族の責務である。

 しかも1918年3月、日本に棚から牡丹餅が落ちてきたような大幸運が訪れた。ロシア帝国がレーニンに革命され、レーニンがブレスト・リトフスク条約を締結し、ロシアが敵国ドイツに寝返ったからだ。これにより国際法は、日本に対ロシア“宣戦布告権”を付与。日本は、これを天祐(divine‐providence、神の啓示)とし、「満洲北半/沿海州とウラジヴォストーク港/樺太北半/カムチャッカ半島の北緯56度のクリュチェフ山より南およびコマンドル諸島の二島」を占領すべきであった。

 また、米国大統領ウィルソンの欧州平和十四ヶ条(1918年1月)及び1919年6月28日に締結のベルサイユ条約により、「民族自決」が世界の流行になったのも、日本にとって天祐。前者に便乗して朝鮮人の「韓国独立」(1919・3・1蜂起)に日本こそが積極的に賛同し、日本国を毀損する“弊害山のごとし”韓国併合を止め、韓国に対し、皇太子・李垠を国王と戴く王制復古を断行する好機だったからだ。その後に日韓が対等な同盟国となれば、さらに極東の平和は盤石になっただろう。

 具体的には以下の通り。これが極東に平和と秩序を齎す、真正の東アジア‟新秩序”である。

A;ロシアと締結した、1907~16年の「日露協約・秘密協約」七本の破棄通告。

B;第一次世界大戦中の1918年夏までに、満洲北半を軍事占領し(1931年の満洲事変を十三年ほど前倒し)、満洲全土を「新・清国」として清帝国を復活する。清国の新・首都は満洲族の旧都・奉天に置き、ここに皇帝溥儀の居城を北京の紫禁城に模して可能な限り威容を誇る巨大なものにして皇帝溥儀に献上する。尚、辛亥革命により、1912年2月、皇帝溥儀は退位し、清国は滅亡。1918~9年は、この1912年から僅か六年余しか経っておらず、大義「清国の“遷国”」は十分に世界が理解しただろう。

Cロシア嫌い張作霖(奉天に盤踞)を、皇帝溥儀の勅任官「沿海州総督」にし、その拠点を満洲東北にある都市チャムス(佳木斯)に移す。①満洲皇帝・溥儀の清国政府とトラブルを起こさせないためだし、②沿海州に在満支那人五百万人~一千万人を移民させるに(在満支那人の人口は1800万人を上限として、超えた人口は全て沿海州)、それらと人脈がある張作霖は何人にも代え難い。匪賊“殲滅”戦にも張作霖は有効。

D;日本は、日露戦争中になしておくべきだった、帝国海軍の軍港ウラジヴォストーク上陸占領を遅ればせながら敢行し、帝国陸軍はウスリー川沿岸から沿海州制覇の軍事作戦を遂行する。レーニン革命でロシア軍は崩壊しており、そう困難ではなかった。とはいえ事態の変化には予測し難い部分もあるから、可及速やかなスピード(破竹の勢い)で沿海州を完全占領できるかが成功の鍵。

 1921年頃にはレーニン系の赤軍パルチザンが台頭してくるので、1919年中にアムール河の河口一帯(ニコライエフスクその他)の占領も完遂しなければならない。ハバロフスクについては、包囲にとどめ、時間と軍事力の消耗を強いる占領はしない。しかし、ハバロフスク以南については完全かつ鉄壁に占領し、この地のロシア人全員をアムール川北岸以西に移住させ、満洲から移住させる支那人と入れ替える。そして、沿海州南半には、張作霖の軍を広く薄く万遍なく貼り付ける。「新・清国」皇帝・溥儀は、沿海州をロシアが強奪した北京条約(1860年)の破棄を高らかに宣言する。

 張作霖の沿海州総督府をウラジヴォストークに建設。「新・清国」皇帝溥儀と「総督」張作霖は、軍港ウラジヴォストークの英国“貸与”の外交交渉を開始する。軍港ウラジヴォストークの英国“貸与”は、日露戦争で日本を助成した英国への御礼でもあるが、ロシアの再南下を防止する砦でもある。

(備考)十九世紀末、大英帝国の衰亡は著しく、日清戦争の余波で威海衛の租借権を得た英国は、1898年、財政難から軍港建設を断念し、威海衛を清国に還付。既に完成しているウラジヴォストークなら、英国は日本から快く受け取り、新・清国との間に租借条約を設定しただろう。

E;日本は、奉天とハルビンの間にある長春に満洲統監府を置き、満洲の「新・清国」を保護国とする。1932年に創った満洲帝国のごとき、マルクスの共産社会を夢想した「五族協和」策は排除。住民票主義で国籍法の無い国家を「先進的」とは笑止千万で、崩壊と背中合わせのアナーキズムではないか。「新・清国」では、「五族協和」の代わりに国籍法を施行し、「新・清国」の国民は、人口百万人の満洲族のみとする。日本人は、財政負担と治安を担当するから、第一種外国人。朝鮮族・モンゴル族・支那漢族を第二種外国人とする。両者の間には、居住権や永住権で差異を設ける。

F;朝鮮については、1919年3月1日の民衆蜂起に呼応し朝鮮を独立させ「朝鮮王国」とする。「皇太子・李垠の即位式→朝鮮王国政府の発足→朝鮮独立宣言→日本の朝鮮総督府の解体」すべてが、この1919年中に実行される。満洲統監府の官吏は、解体消滅する朝鮮総督府の官吏が移動するので、日本側は余分の財政出動は不必要。また、併合した朝鮮の近代化のためにジャブジャブと垂れ流されていた日本国民の税金(1910~45年の三十五年間で、現在価格に換算して150兆円)は浮くので、これを沿海州制覇の軍事費に転用する。「満洲の新・清国」建国費用と沿海州制覇の軍事費で、日本国民に課される増税は無い。

(備考)私は、朝鮮人の1919年「3・1蜂起」を天祐だと支持する。同様に、支那の1919年「5・4運動」も日本にとって天祐だったと考える。日本の「1915年1月の対支21か条」は、経済的進出を軍事力で補強するなど、反・経済のトンデモ狂気。「5・4運動」を好機に、日本は対支21ヶ条を破棄し、対支経済関係を見直すべきであった。私は“支那人は危険”だと考えており、漢族とは経済関係を持つこと自体、基本的に日本の国益を害すると考えている。政治経済に亙って、支那との関係は極力淡く薄いのが、日本国の安全である。

G;モンゴル連邦の創設。モンゴル人は、モンゴル本国の他、支那国内の「内モンゴル」とロシア帝国内の「ブリャート共和国」の三つに分かれている。この三ヶ国・地域を糾合し、民族自決を大義名分に、1919年に「モンゴル連邦」を創設する。この「新モンゴル連邦」の後見国に、モンゴルを英国の影響圏下におき、ロシアの南下を阻止し支那漢族の北上を防ぐため、日本は英国を推薦する。

 実は、日本こそ、1907年の日露協約で、英国の勢力圏下に置くこともできたモンゴルからの英国追放を永久化した元凶。「モンゴル連邦づくり」と英国後見国は、モンゴルの自由回復に最も確実な唯一の方策だったが、親露一辺倒に日本が、それを破壊した。

カムチャッカ半島南端の占領→ニコライエフ港“虐殺”賠償の代物→米国に譲渡

(次のHのみ、1918~9年ではなく、1920~1年の日本の対ロ外交)

H;カムチャッカ半島南端の奪取(=北緯56度の標高4750ⅿクリュチェフ山より南。コマンドル諸島の二島を含む。港ウスチ・カムチャックがロシアの最南端となる)

 沿海州や樺太北半の奪還は、清国や日本が“固有の領土”を奪還する行動。これらは、国際法上、仮に百点満点でないとしても、容認される六十点以上はあり、合法の範囲。が、ペテロパブロフスクなどカムチャッカの半島の南端は、ネルチンスク条約以降に、ロシアが開発したもの。ロシア常習の外交手段を含む侵略で外国から奪った領土ではない。

 日本が、1918年3月のブレスト・リトフスク条約に基づき、この地を占領するのは、日本の権利。特に、第一次世界大戦後のロシアとの取引に活用すべく、1918年夏、いとも簡単に無血で手に入るカムチャッカ半島南端を日本は占領しておくべきで、これこそは主権国家の当然の行動だった。

「無血で獲得できた」の根拠は、1917年11月のレーニン革命で、ニコライ二世皇帝は何を勘違いしたのか、自ら退位し、ロシア帝国は全土がアナーキーとなり、ロシア軍はことごとく自壊したからである。

 カムチャッカ半島南端の奪取が、ロシアとの取引の材料になる好機が、僅か二年弱で訪れた。アムール川河口の都市&港ニコライエフスクで、在住の日本人と駐留日本兵の七百三十人以上がことごとく、レーニン直属の赤軍=共産パルチザンに、陰惨に殺戮された事件が発生したからだ。この損害賠償に、代物「カムチャッカ半島南端」はロシアにとり最小限ですむ好都合なものだった。またレーニンにとり、ロシア国内での白軍との内戦こそ優先すべき問題だから、1920年、日本に「カムチャッカ半島南端」を渡し、ロシア東部から邪魔な日本軍を追い出して、レーニン系革命集団に掌握させる方を選択したはずである。

 が、“対ロ属国の超おバカ”日本は、訳が分からぬ非合理なシベリア出兵をしているくせに、1918年、カムチャッカ半島南端を占領しなかった。以下は仮定の話。私の構想は、「カムチャッカ半島南端の占領(1918年7月)→ニコライエフスク大虐殺(1920年3月)でロシアに対日賠償義務が発生→ロシアは賠償としてカムチャッカ半島南端(代物)で日本に支払う(1921年3月)→日本はこれを米国に譲渡し米国アラスカ州にする」。尚、この時、日本を不信する米国は日英同盟の破棄を迫っていた(実際の破棄は1921年12月13日)。この米国の日本不信を軟化させ、米国を日英同盟維持に戻すには、新軍港と二つの島の譲渡は特効薬だったろう。

(備考1)ニコライエフスク虐殺事件とは、1920年3~5月の丸三ヶ月間で、居留民とシベリア出兵の小部隊のほぼ全員に当る日本人730人以上が、レーニンの指導下で“残忍さ世界一”赤色パルチザンに虐殺された事件のこと。虐殺のやり方はクルトワ他『共産主義黒書』が収集したレーニンのそれ。共産主義者が悪魔より悪魔なのがわかる。ユダヤ系ロシア人グートマンの著『ニコライエフスクの日本人虐殺』の一読を薦める。

(備考2)アリューシャン列島での米国領はアッツ島まで。残る二島はロシア領。日本が後者を米国に譲渡すれば、全アリューシャン列島が米国領。また私は、「ウラジヴォストークを英国海軍の基地、ペトロパブロフスクを米国海軍の基地にし、日本国をロシアの侵略から防衛する防波堤にする」戦略が持論。

シベリア出兵ほか、レーニンを殺害しない“四ヶ国”革命干渉戦争の杜撰と逆噴射──正常が喪失し大迷走ばかりだった大正末期・日本の対ロ外交

 上記の「中川1918年“満洲戦略”“樺太戦略”“沿海州戦略”」を、実際の歴史「シベリア出兵」と比較されたい。1918年夏に始まったシベリア出兵は、「チェコ軍団の救出」を口実にした、対レーニン「革命干渉戦争」だが、実際には白軍はことごとくレーニンに残虐に殺され、レーニン共産体制は確立し、スターリンへと引き継がれた。

 この革命干渉戦に、英仏日米の四ヶ国が参加。しかし、この四ヶ国の参謀総長も司令官も、一堂に会したことはなく、テンデンバラバラ。つまり、この革命干渉戦争の目的が、ロシアの解体なのか、それともレーニン共産政権の打倒(その代りに王制主義の白軍を据える)のか、それすら定めなかった。

 レーニンの赤軍とは、ベトナム戦争のホーチミンの北ベトナム軍と同種だから、ベトナム戦争と同じく、簡単に打倒できない。少なくとも、次の①②のような構想無しに、対レーニン干渉戦争など粉砕されるのを肝に銘じるべきだ。

①ムルマンスクからロシアに突入した英仏軍は、レーニン/ブハーリン/トロツキー/スターリンその他の共産党幹部を皆殺しに専念する。

②ウラジヴォストークから東シベリアに突入した日米軍は、沿海州を白軍のサンクチュアリー(聖域)とする。そのためには、沿海州のロシア人を全員追放し、1858年のアイグン条約以前の清国・沿海州に戻す。

 この後者②を実現するに、「沿海州の住民をことごとく支那人にし、ロシア人ゼロにすること」が絶対。具体的には一千万人に近い支那人を沿海州に移住させることになるが、これができるのは張作霖だけである。また、張作霖に権威を与えることができるのは、清国皇帝の溥儀だけである。

 満洲を皇帝溥儀を奉戴する「新・清国」にし、張作霖は溥儀から「沿海州総督」に勅任してもらえば、張の権威が生まれる。このように、1918年の夏から冬に、清国を満洲に“遷国”する私の構想は、レーニン共産政権を潰す私の遠大な構想と一体。沿海州が清国(&支那人の領土)となれば、白軍は、安全に司令部をここに設置できる。そして、白軍はバイカル湖の東「ウラン・ウデ」に、その政府を樹立し、ロシアを東西に分断する。

 このウラン・ウデ白軍政権を背後から支えることができるのは、ノウハウを持つ英国のみ。そのためにも「モンゴル本国(外モンゴル)、内モンゴル、ブリャート共和国」を合邦させ、この新モンゴル連邦を英国の勢力圏にしておくのが、日本のあるべき外交だった。

 具体的には、1907年に仮に日露が秘密協約を締結するなら、外蒙古へのロシア「支配力」を排除する(or外蒙古は日英露三ケ国の共同勢力圏)と定めるべきだった。が、日本は逆走。ロシアの言いなりに、《外モンゴルはロシアの植民地》と認定し、英国がここに(チベットからの延長で)参入する機会を永久に葬り去った。1907年の日本は、五年前に締結した1902年の日英同盟をゴミ箱にポイ捨てした。当時のアジアの平和は、“英国の知恵とそれに従う日本の軍事力”の協調さえあれば、達成できた。なのに、日本は、このような卓抜した外交見識を欠如していた。

 話を戻す。シベリア出兵の日米連合軍ができた“ロシア解体”は、最大限で「沿海州」「ブリャート共和国」の二か所だけ。しかも、この二か所ですら困難を極め、容易ではない。現に、日本は七万人という大兵をシベリアに送りながら、レーニン赤色政権も倒せず、ロシアから一地方も引っ剥がせず、手ぶらで退却。ニコライエフスク港で虐殺された七百三十名以上の日本人犠牲者の賠償金すら一円もとれなかった。

 これらは、1906年に始まる山縣有朋(≒安倍晋三)/本野一郎(≒河野一郎)ら、日本政府を蝕む凶悪ロスケ集団が、日本に真当な対ロ政策を立案させない素地を作った結果である。1918年~、巨大な軍事費をどぶに捨てたシベリア出兵という愚を犯し、日本が極東平和のためになすべき、皇帝溥儀の満洲清国を建国しなかったツケは、僅か二十年後の1937年7月、スターリンの命令で日本は五十万日本人を殺した、蒋介石の支那への“侵略ごっこ”に明け暮れる、世界一の腐敗国家に成り下がっていった。

(蛇足)レーニンの共産ロシアにムルマンスクから突入した英仏軍がなすべき筆頭は、レーニンらの殺害だったはず。第二が、白軍に安全な拠点を提供すること。それは、ポーランドから一人残らずロシア人を追放して、ポーランドに白軍司令部を置くこと。第三に、英仏軍と白軍は、ウクライナをロシアから解放する戦争をなして、キーウに英仏烏三ケ国と白軍が連合する、総合的な軍司令部を設置することだった。が、英仏軍も白軍勝利に不可欠なロシア解体(=ウクライナの独立)の戦略がなかった。白軍司令部の安全地帯づくりもしなかった。

第二節 共産主義に洗脳され自国民を大量殺戮する“ロシアの奴隷国”になった日本──(大東亜戦争の)レイテ島/パプア・ニューギニア/ノモンハン他の作戦目的は日本人屠殺

 1923年2月(ヨッフェ来日)から1925年1月(日ソ基本条約調印)に至る、強烈なレーニン崇拝者で過激コミュニスト後藤新平は、外務省を飛び越えて、強引にソ連との国交回復というトンデモ対ロ政策を専断的に強行した。これによって、1926年から大量のインテリ日本人は“麻薬”共産主義思想を吸飲して踊り狂った。「帝大卒の官吏・新聞記者」「陸軍士官学校卒の軍人」に、この赤い狂気が蔓延り、日本は非・日本へと改造された。それまでの日本人の“親ロ狂”は、“ロシア崇拝のカルト信者”となり、日本人の対ロ狂気度は一段と悪化した。

 ロシアに日本の固有の領土や海外権益を献上する“親ロ狂”という病気に犯されていた日本人は、1926年を境に、自国民(=日本人)を大量に殺戮してロシア様に生贄で捧げる究極の狂人・日本人へと変貌した。日本中が狂気一色になった。自国を愛せない“対ロ売国の狂愚集団”「川路聖謨/黒田清隆/榎本武揚/本野一郎/伊藤博文/山縣有朋」から、オウム真理教の狂妄信者より凶悪な“スターリン型自国民殺人鬼集団”「近衛文麿/辻政信/服部卓四郎/阿南惟幾/瀬島龍三」への大変貌である。前者は日本を“ロシアの属国”にし、後者は日本を“ロシアの奴隷国”にした。

 “ロシアの属国”から“ロシアの奴隷国”への転換は、1926年を境に、大量の日本人がロシアの共産党本部を総本山とするカルト宗教「共産主義」の信者に改宗したのが、原因。祖国日本の存在を忘れ、ロシアを宗主国以上の「神の国」と崇める“非・国民”に自己改造した一億日本人とは、一億“擬似ロシア人”になったのである。

 1937年7月7日に始まる大東亜戦争八年間は、教祖スターリンを崇めて、日本人の生命すべてと日本の経済力・産業力のすべてを、《神であるロシア様》に供犠する一億総自殺(←本土決戦)であり、日本国死滅への狂騒だった。実際にも、1945年4月になると、麻薬スローガン「一億玉砕」に頭をやられた日本人は一億総自殺へと暴走し始めた。日本で例外的に、日本民族の生存と日本国の再生に希望をお持ちだったのは、“天才”保守主義者の昭和天皇お独りだった。

 要するに、大東亜戦争とは、教祖スターリンに命令された一億日本人が、喜々として死地に向かう、地獄の三途の川だったのだ。スターリンが吹くハーメルンの魔笛に、日本人は、正気を失った鼠のように、溺死すべく次から次に底なし川に飛び込んだ。

 親日トルーマン大統領のポツダム宣言とヒロシマ原爆に日本国“生存”の活路を見出された天才・昭和天皇のご聖断によって、日本国は死滅から救われた。この昭和天皇のご聖断に抗し、昭和天皇を暗殺し本土決戦を継戦せんとしたのが、ソ連人の阿南惟幾・陸軍大臣であり、その8・14宮城クーデタだった。このクーデタを咄嗟の機転で粉砕したのが、武器を持たず、手ぶらで説得して回った田中静壱・陸軍大将だった。田中静壱・陸軍大将の銅像が、皇居前広場に建立されていない。これは、日本人が恩知らず/歴史知らずだからだ。この忘恩の天罰で日本は必ず滅ぶ。

 また、1937~45年、スターリン命令「日本人よ、皆、死ね!」に、日本人全員がスターリンの宗教信者だから金縛り状態だった。1945年8月末、日本の厚木飛行場に着陸したマッカーサー元帥こそ、日本人をこの狂気「スターリン教」から解き放ってくれた神風だった。が、日本人は、日本を再建したマッカーサーに感謝もしない。日本はこの恩知らず天罰で必ず滅ぶ。日本人が自国の亡国を回避したいなら、マッカーサー元帥/ウィロビー少将/キーナン検事/フェラーズ准将を一緒にした銅像を、皇居前広場に急ぎ建立すべきである。

(備考)神風は日本に計三回吹いた。蒙古襲来時に二回、次が日本救出の太平洋戦争。太平洋戦争をしてくれた“対日無関心派”ルーズベルト大統領にも、日本は感謝を忘れていけない。当時の米国ではトランプと同じアメリカ・ファースト派が優勢で、日本の東アジア席捲の侵略行為なんかほっとけが多数意見だった。

“ロシアの奴隷国”となった日本の“日本人皆殺し”の狂気を証明する諸歴史の解剖

 日本は、1926年頃から本格的に共産国に自己改造する革命に没頭した。1932年の5・15事件以降の日本は、完全な共産国家で、日本の外交も国防政策も全てスターリンの命令通りになして、自分の頭で考える日本人は一人もいなかった。しかも、河上肇、津田左右吉、金田一京助、石川啄木、後藤新平、上杉慎吉など、日本中に共産主義者が暴発的に叢生したのは、レーニンのロシア赤化革命の1917年11月直後の大正時代だった。日本は、1920年のニコライエフスク港“大虐殺”の賠償を棚上げしてまで、緊要性など全く皆無なのに、レーニン崇拝“狂”後藤新平の暗躍で、ソ連と国交回復する日ソ基本条約を1925年に締結した。これまた大正時代だった。

 そして、この日ソ基本条約こそ、日本が“ロシアの奴隷国”になった、最初のターニング・ポイントだった。その後の日本は、ロシアに命じられた奴隷状態を、凄惨なレベルへと突き進めた。表4は、このリストである。

表4;“ロシアの奴隷国”になった共産国家・日本(1925~45年)(ロシア産カルト宗教「共産主義」を吸飲した以降)

1、ソ連命令の日ソ基本(国交回復)条約、1925年。*

レーニン崇拝“狂”後藤新平(強度の共産主義者)の専断独走による締結。

2、張作霖爆殺、1928年。反共反ソの張作霖は、スターリンのアジア共産化に、蒋介石と並び障害だった

スターリンは、列車の天井に黄色火薬の爆発物を隠し満鉄とのクロス地点で爆殺した。スターリンに依頼された河本大作は真犯人になりすまし、ロシア犯行を隠蔽した。

3、スターリン命令の三クーデタ(5・15/2・26/8・14)及び1935年の国体「明徴」宣言(=日本をソ連型独裁国家に革命せよ!)

これら三クーデタがスターリン命令なのは明白。だが、日本の現代史家はひた隠す。昭和天皇の1946年元旦詔書は、1935年の「国体明徴」を全否定する国民向けメッセージ。昭和天皇は人間宣言などされてはおられない。

4、スターリン命令の国際連盟脱退、1933年3月。

スターリンに使嗾され、日本は日英同盟の代替「国際連盟」から脱退し、英国の知恵&英国との連携を失った。

5、日独伊三国防共協定、1937年。

日本には昭和天皇以外、反共は一人もいなかった。防共は「共産化」の転倒語。本当に日本が防共を欲していれば、反共の蒋介石/米国と協定を締結している。

6、日独伊三国同盟、1940年10月。

スターリン命令の日ソ中立条約、1941年4月。 *

この二条約締結で日本は、日本の国益に違背する、反・英米の逆・外交にのめり込み、遂には友邦・米国と開戦するに至った。松岡の反米イデオロギー(補注)と近衛のスターリン崇拝の合体が、日本を破局に転落させたのである。

7.スターリン命令の大東亜戦争(1937年7月7日~45年9月2日)

ソ連のスターリンが日本に命令した、日本の“祖国叛逆”戦争。支那大陸を毛沢東に渡し、昭和天皇を殺害し、日本民族を皆殺し、日本全土をスターリンに献上する。

8、スターリン命令のノモンハン戦争、1939年。

スターリンの命令で、関東軍参謀部は、日本人将兵「2万人殺し」の対ソ敗北戦争を演技した。

9、スターリンの命令で、「米国との停戦」仲介をソ連に依頼。*

(本心から対米和平を日本が考えていたら、スウェーデンorスイスに仲介を依頼している。ラジオで日本が直接「ハル・ノートを受諾する」と流す方法もあった)

阿南惟幾の「本土決戦」は、ソ連軍を日本列島に導入して、日ソ共同の対英米戦争を構想。こんなことをすれば、七千万人日本人のうち最低で二千万人、おそらく四千万人以上が、「戦死、戦場死、餓死、病死」している。また、在日ソ連軍は対米戦争には興味はなく、日本人虐殺と日本の産業施設のロシアへの移送に精を出している。

10、百七万人が連行され六十万人が死亡のシベリア強制労働&殺戮された満洲一般邦人三十五万人。

「日本人男児はソ連国の奴隷だ。働け!日本人女性はロシア人の性奴隷だ。日本人乳幼児は飢えて死ね!」は、陸軍大臣・阿南惟幾ほか帝国陸軍の絶対信条。

(備考) *印は“対ロ外交の絶対規範”無交渉・無条約主義に真っ向から違反する、ウルトラ“反日”外交。

(補注) 日独伊三国同盟と日ソ中立条約を締結した外務大臣・松岡洋右の思想本籍

 外務大臣・松岡洋右が、日独伊三国同盟と日ソ中立条約を締結した理由ははっきりしない。首相・近衛文麿の命令だから当然の外交だが、何かしっくりこない。理由は、近衛文麿と白鳥敏夫は共産主義者で、日独伊ソ四ヶ国同盟体制で全世界の共産化を夢想する、スターリン直属の「ソ連人」だから、近衛と白鳥が、その前段階の日独伊三国同盟と日ソ中立条約を推進した理由は明らか。が、松岡洋右は、ウルトラ反米だが、共産主義者ではない。

 以下は、松岡洋右の頭の中を永年覗き込んできた私の仮説。即ち、松岡洋右は、ユーラシア大陸にナチ・ドイツとスターリンのロシアと日本が結合した、巨大なランド・パワー「ユーラシア連合」を妄想していたのではないだろうか。この巨大なランド・パワー「ユーラシア連合」をもって、米国を畏怖させ、当時の世界秩序「パックス・アングロ・アメリカーナ」を崩壊させる構想を模索していたのではないか。

 松岡洋右は近衛文麿「東亜新秩序」に賛同している。松岡の“巨大ランド・パワー”「ユーラシア連合」による反「パックス・アングロ・アメリカーナ」が、近衛文麿「東亜新秩序」に近似するから、これも不合理性は見えてこない。このような松岡洋右の妄想は、スパイクマン地政学を反転させた、“転倒”スパイクマン地政学のようなものか。

 スパイクマンは、ユーラシア大陸の中枢を占めるロシアを封じ込めるために、アメリカは英国と日本と海軍同盟をもって“ロシア包囲”をしなければならないと米国政府に説いた。パール・ハーバー奇襲の直後の1942年春である。スパイクマンは、ポスト第二次世界大戦の米国の三ヶ国同盟に、ドイツを含めることも構想していた。スパイクマンは、巨大ランド・パワー「ユーラシア連合」をいかに阻止するか、いかに潰すかを先見していた。

 世界共産化を夢想する“過激共産主義者”近衛文麿/白鳥敏夫に、“非・共産主義者”松岡洋右が同調するのは、上記の分析ならば説明がつく。とはいえ、松岡洋右は、“スターリンの密使”森恪に洗脳され国際連盟を脱退し、(スターリン→)白鳥敏夫・朝日新聞に煽られ日独伊三国同盟を締結した。英雄気取りのナルシズムが濃厚な松岡外交が“共産主義者の犬”だった事実において、徹底糾弾されねばならない。

 昭和日本は“ロシアの奴隷国”だったことは、日本軍がロシア(スターリン)の命令に従い、大量の日本人を、家畜の屠殺と同じ扱いで屠殺した歴史に端的に明らか。要は、表4‐7/表4-8/表4-10を白日の下に晒せば、その瞬間、日本が“ロシアの奴隷国”だった事実は、十分すぎるほど証明される。

関東軍が計画的に露兵に日本治婦女子を殺戮させた、満洲一般邦人の阿鼻叫喚の地獄図

 表4‐10の「満洲一般邦人に対する惨殺」については、別稿で論じているので、ここでは深入りしない。が、日本が“ロシアの奴隷国”だった端的な証拠なので、その視点から核心をほんの少し。

 満洲一般邦人に対して、ソ連軍の満洲侵略が始まった1945年8月9日午前零時の、その前にもその後にも、関東軍はいっさい避難命令を出さなかった。関東軍が一般邦人を殺し尽くす予定だったことは、余りにも明白。尚、避難命令は(関東軍がうんともすんとも何に発しないため)各現地の行政当局が、かなりタイミングを失して自分たちの判断で出した。

 そればかりか、関東軍参謀部は、全域の関東軍の各部隊に一般邦人の避難を手助けしたり、ソ連軍に襲われていても救出の武力行動をしてはならない、との命令を下達している。関東軍は「ロシア様、日本人婦女子をどうぞ好きなだけレイプして下さい/好きなだけ殺してください」をソ連軍側に伝達したのは間違いない。証拠の文書すら発見されている。

関東軍は、日本兵二万人を“戦死戦傷”させるべく、スターリンの命令でノモンハン戦争を実行

 1939年のノモンハン戦争について、最も的を射た分析は、“ソ連のスパイ”第二十三師団長・小松原道太郎に焦点を当てた、米国インディアナ大学教授・黒宮広明の論文(未邦訳、注)だろう。“侵略(領土膨張)の天才”スターリンが、関東軍内GRU工作員に命令した戦争が、ノモンハン戦争だった。この核心を衝く視点がないノモンハン戦争の分析は、エンジンのない高級車のようなもの。クックス博士の名著『ノモンハン』(朝日文庫)も、残念ながら、この範疇の一つ。

(注)黒宮広明、“The Mystery of Nomonhan,1939”、Journal of Slavic Military Studies、2011年1月16日号。

 スターリンは1939年年頭、二つの目的から、「日本人将兵二万人を屠殺せよ」と、五名のGRU工作員に命じた。磯谷廉介(関東軍参謀長)/服部卓四郎(同、作戦参謀)/辻政信(同、作戦参謀)/稲田正純(東京の参謀本部作戦課長)/小松原道太郎。磯谷廉介は、戦後すぐ日共に入党した。

 スターリンのノモンハン戦争の目的は、A「満洲国に侵攻する百万人部隊を駐屯させる巨大基地タムスクの建設と《ボルジア──タムスク間の鉄道敷設のための実験データ収集」、並びにB「イメージ《ソ連軍は圧倒的に強い》を日本側に植え付ける」の二つ。いずれも百点満点で達成した。

 日本側のノモンハン戦争に関する研究は、ノンポリで共産党系ではない秦郁彦を含め、水準に達しない。なぜなら、これらの研究は、①スターリン製の謀略戦争だった最重要事実だけでなく、②満洲国をスターリンに献上することを決めている関東軍側に、国境防衛の意識などからきしなかった事実と、③ハルハ河の戦場が「ソ連側は榴弾砲を大量に並べることができる百㍍高い高台、日本側は百㍍低い上に塹壕が造れない砂地」だった事実、について言及していないからだ。

 満洲国と外蒙古の国境は、農耕の満洲族と遊牧のモンゴル族の間で古くから定まっていた。この国境は、ノモンハンの街から西に少し行った尾根。関東軍測量部もこれを国境だと認定している。この関東軍測量部の地図は、防衛研究所に保存されている。

 つまり、大嘘「国境紛争」は、スターリンと関東軍参謀部が口裏合わせた八百長のデッチアゲ。満洲族とモンゴル族が相互に視認できる尾根(本当の国境)を国境とせず、そこから五十㎞ほど下った低地で、農耕に適さない砂地の中にあるハルハ河を国境にするなど、モンゴル族・満洲族が発想するはずなかろう。

 また、日本側の研究の不可解は、第二十三師団の将校で「ノモンハン戦争は何か変だ、裏がある」と気づいた者はことごとく自殺を強要されて口封じされた事実を知りながら、これを深く考察していない。例えば、第二十三師団の参謀長・大内孜(大佐)が辻政信か小松原道太郎に射殺されたが、この殺人事件を掘り下げた論文が一本もない。「日本兵を二万人殺すのが目的だな」と、大内孜が小松原に詰めよったから殺されたのは自明ではないか。

 上記の簡単な要点指摘からでも、ノモンハン戦争とは、「日本はスターリンの命令なら何でも“はい、はい”で、日本の将兵の殺戮でも躊躇しなかった」、日本が“ロシアの属国”だった歴史事実を暴く重大な証拠の一つである。

張作霖“爆殺”事件はロシアが主犯。GRU河本大作は“真犯人隠し”の身代わり

 表4‐2にリストした張作霖“爆破”事件は、直接的には、日本が“ロシアの奴隷国”だった好例とはいえない。とはいえ、1928年の張作霖“爆殺事件で、ロシアのテロを日本が身代わり犯人になることは、日本みずからが、世界に「日本はテロ国家です」と宣伝することで、国益を重大に損傷する。また、ロシアに向かうべき在満“支那人の恨み”を、日本が濡れ衣で背負い込むことになる。

 が、1928年から今に至る約百年、「犯人は、河本大作でない」は物理学的に証明されているにも拘らず、学界を中心に偽情報宣伝「犯人は、河本大作だ」が執拗に続いている。読むに堪えない秦郁彦の『陰謀史観』(2012年刊、新潮新書、148~66頁)も、この一つ。学界は意図的に、次の①以下の最重要事実を排斥する。張作霖が乗った列車は、機関車二輌の後に、装甲一等車三輌(軍部隊)、貴賓車、麻雀卓のある展望車、食堂車、寝台車、高射砲まで装備した軍部隊が配備された十三輌、という合計二十輌の連結。

 このうち天井爆破が「貴賓車、展望車、食堂車、寝台車」の四輌。焼けたのは「展望車、食堂車、寝台車」の三輌。事故直後の写真を分析すると、「四輌の天井の破壊は、天井の爆発が原因」「満鉄の鉄道橋の橋桁(ガード)の落下に拠る損傷はほとんどない」と断定できる。

①「四輌の天井爆破」と、河本大作らの満鉄・鉄道橋「橋桁(ガード)爆破」は、同時に起きている。これは物理学的に、両者が連携していない限り偶然には発生しない。私は、永年、この疑問が解けなかった。が、2005年、ユン・チアンらの『マオ』が邦訳出版され、次の箇所を読んだ時、この疑問が一瞬にして解けた。「張作霖爆殺は、スターリンの命令に基づいて、ナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけた」(301頁)

 スターリンが、A「出発前の北京で四輌の天井に爆発物を設置させ」「事件現場に近づくや、時速40㎞以上から時速7kmにスピードを落とす工作員を機関車の運転席に忍び込ませ」「現場主任の工作員を装甲一等車輛の一つに待機させ、満鉄線とクロスする地点で、後続する四輌の天井爆薬に点火させ」、同時にB「犯人になり替わる日本側に、列車が爆発した瞬間に満鉄・鉄道橋の橋桁を下部で爆破させる」「物的証拠をわざわざ残させる」のを命じた場合、AとBの同時爆発は可能。

 要するに、張作霖は天井“爆発”で殺されたのだから、張作霖爆破の主犯はスターリン。河本大作の橋桁“爆発”は、車輌の天井爆発を隠蔽するための囮ということ。

②ロシアの暗殺は、実行犯と囮犯を使い、実行犯をわからないようにするのが基本。例えば、伊藤博文がハルビンで殺されたが、ピストルしかもっていない安重根は囮で、実際の実行犯は駅舎の二階からカービン銃で撃っている。憲政記念館に、安重根が発射した六発の弾丸のうち一発が展示されている。が、これ、伊藤博文の随員の靴底から発見されたもの。安重根の前には儀仗兵が背中向きで並んでおり、安重根はその隙間から撃ったために、射角が低く、仮に伊藤博文に中っても、伊藤のふくらはぎがせいぜいであった。 

③張作霖の列車は、時速40㎞以上。ところが、この爆殺現場を通過する時に限り、時速10km以下で7kmぐらいか。これは連結している各車輛の事故後の位置から算定できる。機関車の運転手に「スピードを落とせ」と脅迫できるのは、運転席に工作員がいた時のみ可能。

④天井爆発なのは、爆発した車両の車輪や車台がいっさい破壊されていない事から、容易に断定できる。さらに、レールが全くの無傷であること、及び、どの車輛も脱線していないのも証拠。

⑤河本大作が爆薬を仕掛けたのは、京奉線の下り車線の真上にある満鉄鉄橋のガード(橋桁)の下部と断定できる。京奉線のレールに損傷を与えていないところからすると、橋桁の三つのブロック鉄材は上に飛びあがってから落下している。

(備考)上記の①~⑤をまとめるに、加藤康男の『謎解き「張作霖爆殺事件」』が収録している写真や図が参考になった。感謝申し上げる。尚、儀我誠也・少佐は張作霖と同じ展望車にいたのに、爆発の直前、二輌前の装甲一等車に移動している。「ロシア《張作霖暗殺》が満鉄線とのクロス地点で実行」を事前に知っていたからだ。儀我誠也はGRUに所属している。

『文藝春秋』1954年12月号「私が張作霖を殺した」の執筆者は東京日日新聞主筆・阿部眞之助

 張作霖“爆殺”犯人をどうしても「ロシアではない」の嘘歴史を捏造・定着させたいロシアは、戦後もその策謀を止めなかった。その典型が、『文藝春秋』1954年12月号に掲載された、河本大作かに偽装した捏造文書「私が張作霖を殺した」。

 河本大作は、中国共産党の太原「戦犯」収容所で1953年8月に病没(備考)。幽霊であるまいし、この原稿を書けない。これを追及された文藝春秋は窮して、二年後、「この原稿は、河本大作の妻の弟・平野零兒が書いた」と弁明。が、共産党員・平野零兒もまた、1954年時点、中国共産党の収容所にいるから、この原稿を書けない。平野零兒の釈放・帰国は1956年。

 この捏造記事を書いたのは、東京日日新聞の主筆・阿部眞之介。文体をチェックすれば直ぐ判る。阿部眞之助に依頼した文藝春秋社の男が上林吾郎(共産党員)。これほどの偽造文書を捏造までして、ロシアが首謀した張作霖“爆殺”の犯人を、どうしても日本人に仕立てあげねばならない理由は、私はイマイチよくわからない。

(備考)日本共産党の虚偽情報の宣伝機関「wiki日本語版」は、河本大作の死没年を「1955年8月」と二年遅らせている。上記『文藝春秋』誌のニセ記事と関係しているようだ。

「磯谷廉介の遺族が発見」と詐称する「河本大作の書簡」も、荒唐無稽で笑止千万な偽造文書

 偽造文書と言えば、もう一つある。まず『現代』に発表され、その後、日本共産党の出版社(柏書房)が出した『支那通一軍人の光と影――磯谷廉介中将伝』(2000年刊)に収録された、河本大作の磯谷あて手紙。47~50頁。文体が河本大作のそれではないし、使用されている語彙のいくつかが戦後日本の日本語。私は笑ってしまった。

 尚、共産党本部には、偽造文書製作部があり、そこで捏造される文書の数は数知れず。機会があれば、私の手元にあるのをいずれ発表したい。

大東亜戦争を惹起せしめ、満洲・樺太へのソ連軍侵略を誘引した日ソ基本条約(表4‐1)

 吉田茂が、「ソ連とは交渉をするな! ソ連とは条約を結ぶな! そうするとソ連は必ず、北方四島だけではなく、《千島=日露間の定義「クリル」》も手土産に、国交回復して下さいと頭を下げて持ってくる」と、外務省に厳命したのが、1951年9月~54年12月。が、鳩山一郎は、吉田茂が1954年12月に退陣した後の総理の座に着くや、直ちに「(病気が深刻で、寿命も短い)俺様が北方領土を奪還して、日本政治史に名を残したい」と、(猛反対する吉田一派の外務官僚を抑え込んで、)1955年春、対ロ“領土奪還”交渉をおっぱじめた。

(備考)当時の外務省用語「北方領土」は、“南樺太、北方四島、クリル諸島(日露間の定義で千島)”を指す。

 この六十年前の“スーパーお馬鹿”鳩山一郎と同じく、2013年春、「俺様は、プーチンと仲がいいから、首脳同士の信頼で、北方四島ぐらいチョチョイのチョイで返還させて見せる」と大法螺を吹いて、二十七回もプーチンとデートし、最後には「北方四島は要らない。北海道もあげる。代わりに自分の面子を立てて日露平和条約を締結して欲しい」とプーチンに土下座したのが“前代未聞の対ロ売国奴”安倍晋三。安倍晋三は、鳩山一郎の対ロ売国を繰り返した“世紀の祖国叛逆者”。

 が、上には上がいるもので、この鳩山一郎/安倍晋三より、質の悪い対ロ売国奴がいた。それが、“凶悪なレーニン崇拝狂”の共産主義者・後藤新平。後藤新平は、二度も脳溢血で倒れ、もう永くはないと覚るや、レーニンの後継者スターリンに会いたく、モスクワ詣でをし(1927・12~28・2)、念願のスターリンとの首脳会談の夢を果たした(1928年1月7日)

 後藤新平がスターリンに語ったのは、「東アジアからの英米の追放」「蒋介石では支那のあるべき政権ではない」「東アジアは、共産国家のソ連&赤い支那&共産国家を指向する日本の、三ケ国が連携して平和秩序を構築すべし」であり、これは近衛文麿の、大東亜戦争を正当化する“国民騙しのスローガン”《東亜新秩序》に結実する、近衛文麿(←河上肇)の1918年12月論文『英米本位の平和主義を排す(=日本はソ連との共産主義連帯を目指せ)』と同じもの。公式「近衛文麿=後藤新平+河上肇」は、日本現代史の最重要な真実。

 また、レーニン狂の共産主義者・後藤新平は、レーニンの共産革命を明治維新と同じものだと捉え、共産党員を“維新の武士”に準えていた。鈴木貫太郎の発言「スターリンは西郷隆盛のような人物」(1945年4月)は、日本の政界ではさほど珍しくない妄言。後藤新平が、この妄語の発祥源。

レーニンの目的;「“世界の孤児”から脱出&革命で破壊された経済再建→日本との国交を急げ!」

 レーニンの1917・11・7共産革命は、「軍事力で抵抗する諸白軍の殲滅」「一般民衆の反・共産党“蜂起”に対する残虐無比の大虐殺」「革命干渉戦の白軍支援で侵入した四ヶ国の排除」等で、ロシア経済を、原爆投下直後のヒロシマのように荒廃させた。革命五年目の1922年からのレーニンの筆頭仕事は、ロシア経済の再建だった。

 が、ロシアは、共産主義の故に“世界の孤児”。欧州の諸国は(ドイツを除き)対ロ経済関係を事実上ボイコット。そこで、天才レーニンは、ドイツと日本に照準を合わせ、この二ヶ国を利用しロシア経済の再建を図ることにした。ドイツとは、イタリアでのジェノア会議を利用し、ラパロ条約締結。日本とは、レーニン狂の狂信的な共産主義者・後藤新平を“対日本”工作員に、日ソ基本条約を締結。日ソ基本条約は単なる国交回復の条約ではない。恐ろしい三目的を秘めた対日“侵略”条約だった。

 以下、日ソ基本条約の三目的を考察する。“天才”ロシア外交は、侵略外交以外の性質を有さない。ロシアと条約を締結した国が必ず滅ぶのは、ロシアとの条約には、侵略を受容する/歓迎する麻薬がどっぷりと埋め込まれているからだ。

 日ソ基本条約の解剖に移る前に、1923~5年「後藤新平+外務省」の対ロ“日本奴隷化”外交を、レーガン大統領の1980年~84年《対ロ“世界の孤児化”促進外交》と比較しておこう。1979年12月末のソ連軍のアフガン侵略によりロシアは、世界中から総スカンを喰らい、世界の孤児になった。レーガンは、この好機を見逃さず、ロシアの“世界の孤児”化をさらに促進する、世にいう「レーガン──R・パイプス」の《対ロ無交渉・無条約》外交を展開した。これは、1980年の大統領選挙中からのレーガンの公約。レーガンは、1984年末まで、対ロ接触を厳格に自制した。

 アンドロポフ共産党書記長(KGB議長をも兼務、KGB第二総局出身)は、ロシアの世界の孤児から脱却すべく、東欧六ヶ国の西欧返還を決心した。この東欧六ヶ国の返還は、実際にはフランス革命二百周年1989年の11月7日(レーニン革命記念日)に行われたが、その決定は1983年12月だった。(パイプス教授の助言ではあるが)レーガンが喝破したように、ロシアは孤立を打開したい時、十三世紀モンゴル帝国の作法である、領土を献上する。

 日本がシベリア出兵を止めた1922年から丸五年の1927年まで、対ロ無交渉を貫いていれば、ロシアは北樺太を無条件で日本に献上し、「国交回復」を土下座し泣いて日本に頼んでいる。吉田茂の無交渉の厳命を撥ね退けた鳩山一郎が、北方領土“奪還”の好機をごみ箱にポイ捨てしたが、後藤新平は、鳩山より悪質。なぜなら後藤は、北樺太をロシア領のままにしてあげ、日本の領土に決してならないよう、意識して対ロ交渉を開始したからだ。

三つのロシア対日侵略準備を潜めた、ロシア製“日本「自爆」装置”日ソ基本条約の解剖

ロシアの対日侵略準備A;日本を共産化革命に誘導する、日本人に対する“洗脳・煽動の基地”ソ連大使館の設置。

 1917~25年の日本で、共産国ソ連を知る日本人は、外務官僚ではなく、反共・反露の内務官僚(全員、東京帝大法学部卒)で、彼らは猛然と日ソ基本条約に反対した。が、共産主義者・後藤新平とコリアン東郷茂徳の売国奴コンビは、遮二無二に「ロシアの経済再建のため/(陸軍が保障占領中の)北樺太の対ロシア無償返還のため」に、同条約の締結(1925年1月)に暴走した。

 条約阻止に失敗した内務官僚たちは慌てて、コミンテルン(ソ連共産党)の日本支部「日本共産党」を杜撰にしか弾圧できない“ザル法”治安維持法を制定(1925年4月)。が、ソ連は狡猾で、河上肇・三木清・小林多喜二などの党員を抱える日本共産党は一種の囮で、97%以上の日本人共産主義者は共産党には入党しなかった。ソ連大使館のNKGB/GRU東京事務所は、日本人共産主義者をロープに繋いだ犬に扱い、一人づつ様々な工作を命じては、それを実行させた。

 1941年には、「(南原繁ら)帝大の大学教授、(企画院、農林省、商工省の)霞が関官僚、(尾崎秀実ら)新聞記者、(瀬島龍三ら)陸軍エリート将校」で、GRU工作員の日本人共産主義者は、二千名になった。これら共産主義者たちは、日本の政府・陸軍・情報の中枢を、完全に簒奪した。

 この簒奪を防止する方策は、「敵性国家“通謀”規制法」の制定だが、治安維持法一本鎗の反共(だが視野狭窄)の内務官僚たちには、そのような知見が全く無かった。結局、スターリン命令の“祖国叛逆”大東亜戦争で、米国に救出されるまで、日本は日本人を(シベリアや満洲での惨殺死を含め)四百万人以上を、スターリンのロシアのために殺し捲った。

ロシアの対日侵略準備B;革命で荒廃したロシア経済の再建と強国ロシアの再生のため、対ロ奴隷になった日本。

 中学二年生の時(1958年)、日ソ基本条約の目的は、国交回復(帝政ロシアの日露間条約・協定の処理、債権・請求権の処理、・・・)だけ、と習った。しかし、1970年頃に購入した『日本外交史』全三十二巻の中の第十五巻を読んで(53~114頁)、全く話が違うではないかと憤慨した。なぜなら、この日ソ基本条約で、日本はニコライエフスク港大虐殺の賠償もとれず、②北樺太から手ぶらで撤兵し、③挙句にソ連に代わって北樺太の石油開発をしてあげ、さらに④帝政ロシア時代に日本がロシアに持つ債権や請求権(政府分だけで三億一千万円)を放棄したからだ。

 これでは、⑤ソ連は樺太石油から毎年タダで厖大な外貨を獲得できソ連経済の立て直しに使える。しかも、ロシアは1943年、日本の対米戦争の戦況が悪くなると、樺太の石油採掘施設すべてを接収し、日本を北樺太から追放した。南樺太への侵略準備であった。

 何と言うことない、ソ連は、⑥日本への侵略のための準備として日ソ基本条約を締結し、ソ連の軍事力増強に一路邁進。極東ソ連軍の軍事力の方が、満洲の関東軍より優勢になったのは1936年。日ソ基本条約から、僅か十一年後。日本は、ロシアに日本と満洲を侵略させるために日ソ基本条約を締結したことになる。“敵性人士”後藤新平は、初めから、これを狙ったのだろう。

ロシアの対日侵略準備C;米国&英国を仮想敵国にした1916年7月「日露秘密協約」を継承する日ソ基本条約。

 1925年の日ソ基本条約は、1916年の日露秘密協約を継承し、1941年の日ソ中立条約に直結している。単純化して言えば、「1916年の日露秘密協約」=「1925年の日ソ基本条約」=「1941年の日ソ中立条約」である。日ソ中立条約を、“反米狂”松岡洋右は、スターリンが1941年4月に突然モスクワで提示したと誤解しているが、実はロシアは1926年に、それを日本政府に提示している(注)。ロシアにとって、三十年が日本人の一年に当る。日本人は「1941年-1926年=十五年」だから昔の話と考え1926年の日ソ中立条約の提案などすっかり忘却。一方のスターリンにとっては半年前に日本に渡した条約案に松岡洋右が署名したと考えている。

(注)『日本外交史』第十五巻、114頁。

 日露戦争でロシアが日本に敗北した最大の原因は、英米が日本に加勢したからである。ロシアは、この事実を深く反省し、1907年7月の第一次日露協約から1916年7月の第四次日露秘密協約に至るまでの七本の日露協約は全て、日本を英米から分断decouplingするのを目的としている。1925年の日ソ基本条約も、日本をして英米と分断させるのが、その主要な核心事項。実際にも、後藤新平と“後藤の腹心”ソ連課長・東郷茂徳(備考)は、日本の主たる連携国を英米からロシアに移動すべく、日ソ基本条約の締結を推進した。

(備考)鈴木宗男と佐藤優の盟友で“稀代の対ロ売国奴”東郷和彦は、父・東郷茂徳の親ソ一辺倒主義の下で育ち、KGB第一総局に直属している。東郷茂徳は、1945年8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾に賛成したため、中道常識派かに誤解されているが、この御前会議の一瞬のみ、東郷茂徳はそうしただけで、日頃はスターリン贔屓だった。この御前会議で、親スターリン東郷茂徳と海軍では稀有なGRUロスケ米内光政が、何の風の吹き回しか、昭和天皇側に附いた。これ、偶然。

 要は、川路聖謨を誑かした1855年の日ロ和親条約から今に至る百七十年間、ロシアは、日本を英米から分断し、日本を“ロシアの属国”“ロシアの奴隷国”にすることに集中している。これが、ロシアと条約を締結すれば、必ず、日本が“ロシアの属国”or“ロシアの奴隷国”になるメカニズム。

1918~22年、日本は何をなすべきだったか

 ①北満洲に侵攻占領し、満洲全土を、北京から皇帝溥儀が“遷国”した「新・清国」とする。

 ②カムチャッカ半島南端を軍事占領し、いったん日本領土とし、次に米国に譲渡する。

 ③満洲から沿海州に支那人五百万人以上を移民させ沿海州を奪還し「新・清国」の領土にする。④北樺太の(ニコライエフスク港“大虐殺”の賠償を支払うまでの)保障占領を1927年末まで継続する。

 これら①②③④をしていれば、必然的に後藤新平が日露関係に介在してくる余地は無く、日本を(将来を含め)致命的に害した日ソ基本条約は、この世に生まれなかった。

日本人をいくら殺しても日本は賠償要求をしない前例→満洲とシベリアでの大虐殺の遠因

 日ソ基本条約は、人倫の道に重大に違背する反・正義(=無法の極み)の条約。また、日本人殺戮を奨励する犯罪容認の“悪魔”条約だった。なぜなら、日ソ基本条約は、ニコライエフスク港“大虐殺”に対する、当然の賠償を求めず、日本自らそれを否定した。

 この結果、ロシアは「日本は自国民の命に対して、何らの愛惜も持たない野獣民族」だと理解。そして、「日本人をいくら殺し捲っても構わない」がロシアの対日観として定着した。実際、鳩山一郎は、1955年、シベリアに強制連行され凍土のシベリアで殺戮された日本人男児六十万人の命の賠償はしなくていいよ、と早々とロシア側に通告。結局、シベリアで死んだ日本人は日本政府から石ころに扱われ、北方領土も返還されなかった。日本人でロシアと外交交渉する輩は、安倍晋三がその典型だが、皆、顔から血を噴き出している悪魔。真面な人間は一人もいない。正常な人格をもつ日本人なら、最上徳内や勝海舟のように、ロシアとは決して交渉しない。   

(2024年11月30日記)

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