バーク/ハミルトンの英米とは真逆に、ルソーとフランス革命を排撃しない日本は、明治維新から一貫して“天皇制廃止の狂気”を国是としている──なぜ私は、精魂込めて『神武天皇実在論』を上梓したか(Ⅱ)

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 私が初めて名前「バーク」と語彙「保守主義」を知ったのはStanford大学の某ゼミ。その教授が「保守主義はここでは扱わない。興味がある学生はバーク『フランス革命の省察』の精読から始めなさい」と述べた時。ゼミ終了後に図書館(開架式)に駆け込んで、生まれて初めてバークの著作を手にして、書棚の前で15分間ほどパラパラめくった。何が書いてあるのか、さっぱりわからなかった。

 私のバーク『フランス革命の省察』研究開始は、血飛沫を仏全土に吹き上げたフランス革命二百年忌の1989年夏。打倒フランス革命!の意気込みで、半澤訳と英文原著を付き合わせつつ、一行一行丁寧に読み込んだ。が、半澤の誤訳を完全訂正する作業になっただけ。85%ぐらいしか理解できなかったからだ。15%ぐらいは濃霧に包まれたまま。隔靴掻痒の感で一時退却。

 三年後の1992年4月1日から再び挑戦。この時は『正統の哲学 異端の思想』の執筆でもあったから、事前に五分野の関連知識を十分に充電した。第一はルソーとフランス啓蒙思想(十八世紀全体主義思想、シェイエスを含む)研究。第二はフランス革命史。第三はハイエク『自由の条件』『法と立法と自由』の丸暗記。第四はアクトンやベルジャーエフなどバーク系/その類似系の読破。第五はルソー直系の極左思想(ベンサム、トマス・ペイン、コント、ヘーゲルなど)の理解。

 一日15時間ほど丸三ヶ月以上かかったが書籍・論文約六百点を渉猟した。同年7月下旬、過労で半規管が壊れ、地球の地平線が45度傾いた。東横線や山手線など鉄道駅のプラットフォームが視覚上は45度傾いているので、線路に落ちる錯覚の恐怖にビクついた(8月20日頃に自然治癒)。が、この激過労の甲斐あって、バークの脳内も『フランス革命の省察(=フランス革命を全否定する)』も、透け透けに見えるようになった。バークとは、IQが大秀才の域を超えて遥か上空に聳え立っていることが鮮明に認識できた。アクトン卿やラッセル・カークが“天才の中の天才”と見做す理由も納得。

『仏革命の省察』はプライス博士を攻撃。が、日本には「中江兆民を日本から叩き出せ!」の声ゼロ

 私が日本初のバーク哲学入門書と言ってもよい『正統の哲学 異端の思想』を1996年に出版して、はや二十五年以上が経つ。『正統の哲学 異端の思想』は日本史上初めて、明治維新から跳梁跋扈する極左新聞や極左学者及び学校教科書の徹底した検閲により、極左の哲学・思想しか知らなかった日本人に、百三十年ぶりに衝撃をもって、保守主義や反共の著作が世界には多々存在している現実を知らしめた。この功績は大。

 が、『正統の哲学 異端の思想』のトップ目的“バーク哲学の日本普及”にはほとんど効果がなかった。これには私も愕然かつ憮然。一億日本人の99%は、反・保守主義の思考しかしない極左人に改造されており、バーク思想が日本人の血肉にならない土壌が堅く形成されている。

 このことは、バーク『フランス革命の省察』が、英国の極左(フランス革命信奉者)プライス博士批判から書き始めている(注1)のを読んだはずの知的な保守系日本人が誰一人、「明治時代の初期、フランス革命万歳論のルソー狂徒・中江兆民は、なぜ全く糾弾されなかったのか」「(天皇制廃止など当時の日本人にとっては大犯罪である以上)中江兆民は天誅されていいはずなのに、殺害されてはいないのはなぜか」等の疑問を抱かなかった事実に、明らか。

 一方、英国では、バークの『フランス革命の省察』(1790年11月)が出版されるや、英国民の99%がバークに従い、フランス革命支持者を次々に襲った。1971年7月、酸素の発見者プリーストリー(非国教徒、唯物論)の家は、バーク系のフランス革命反対派に焼かれてしまった(バーミンガム暴動)

 英国民のフランス革命支持者への怒りは十九世紀に入っても収まらず、『人間の権利』の著者トマス・ペイン(1809年没)の墓がないのは、英国全土の全ての教会が拒否したからである。この英国を風靡する反フランス革命/反ルソーの思潮は、今も英国の国是。だから、二十世紀末のマーガレット・サッチャーのように、自国民の自由を破壊したフランス革命に狂奔したフランス人を、首相の立場で世界に向かって、「おバカさんのフランス人」と公然と軽蔑し嘲笑する(1983年)

 また、オックスフォード大学を初め英国中の大学図書館は、今でもルソー非難本/フランス革命非難本で溢れ返っている。私は、これら英国のルソー非難本の中で(日本でいえば中学生向きの)最も薄いパンフレットを翻訳して出版(注2)。英国では今でも、ルソーを嘲笑し激難しゴミ箱に捨てる教育を、このように小中学校から入念にしている。

英国は反フランス革命/反ルソーが国是。日本は明治維新=第二フランス革命で極左国になった

表1;保守主義の英国に対し、日本を極左国家に改造した明治維新という第二フランス革命

バークで反フランス革命/反ルソー一色の英国

国産フランス革命だった極左三藩の明治維新

【18世紀後半のフランスの狂気を叩く】

・ルソー/エルベシウスその他(注3)

・ジャコバン党

【フランス革命にイカレタ極左英国人叩き】

・プライス博士/プリーストリー/トマス・ペイン

【フランス革命を根絶せんとパリ占領までした英国】

・1814~8年のウェリントン侯爵のパリ占領

土佐藩は天皇制廃止と共産主義者の一大生産地】

・中江兆民/馬場辰猪/植木枝盛/幸徳秋水

【戦争狂アナーキスト西郷隆盛を生んだ薩摩藩

・西郷隆盛の叛乱は、東京を焦土にすること?

長州藩の狂人テロリスト吉田松陰は攘夷狂だけ?】

・共産党初代党首・河上肇は吉田松陰の直系

・吉田松陰/高杉晋作は重度の精神分裂症

 日本では、薩長藩閥の明治政府の自己美化プロパガンダが日本人の脳裏に深く浸透している。ために、明治維新が、ポスト日露戦争(1906年)以降から今日に至る、日本が共産主義一色になった原因の一つという最重大問題を直視しない。例えば、狂人テロリスト吉田松陰が、井伊直弼に斬首されなかったら、明治維新以後の日本の内政・外交はハチャメチャになっていただろうし、大正時代以降の日本赤化はもっと過激になっていただろう。

 明治維新の政府が、“幕末の狂気”「尊王攘夷」のうち半分の「攘夷」を全否定する“五ヶ条の御誓文”を発出したのはよかった。が、残りの「尊王」を否定する正常回復をしなかった。水戸学の「尊王」は、通常の概念である皇室尊崇を必ずしも意味しない。水戸学の「尊王」は、後醍醐天皇や南朝の皇統を尊崇することだから、北朝の天皇を廃絶する/誅殺する等、反・天皇を含意する怖いドグマ。

 だから、1868年の明治維新から1945年8月15日正午の昭和天皇の玉音放送に至る七十七年間の歴史を振り返ってみると、「尊王」が大きく変質したのである。実際にも、1905年の日露戦争の戦争勝利をもって、天皇への尊崇は、政府部内や軍部内ではピタと消えた。

 具体的に言えば、1906年からは、山縣有朋が天皇の上位に君臨して日本を独裁する支配者になっていた。1910年の韓国併合は、人数的にはごく少数派の山縣有朋と朝日新聞だけが推進したもの。しかも、皇太子・李垠の朝鮮国王即位を絶対としていた明治天皇の意向に抗したものだったことは、百姓上がりの山縣有朋が、残忍無礼にも明治天皇に対し「この老い耄れメ、うるさい!」と、天皇の宸襟を足蹴にして退けたことになる。

 そして、1906年以降の明治政府部内では、明治天皇のご意向よりも、山縣の暴虐的な恣意が罷り通った。明治維新直後に布告された1869年の四民平等が、百姓・山縣をして、明治天皇と同格かそれ以上にしたのである。ルソーのドグマ「平等」は、秩序破壊/国家崩壊/国民破滅の確実な一里塚であることを、山縣有朋こそ証明したことになる。

 なお、日本が韓国併合をすれば朝鮮は独立国家でなくなるので、元首の王様を戴くことはできず、自動的に王制廃止となる。山縣有朋とは、「吉田松陰→高杉晋作→山縣有朋」と流れる長州藩アナーキズムの嫡流で、強度の王制廃止論者。要は、韓国の王制を廃止する勢いで、天皇制廃止(or天皇を“木偶の坊”にする)を政府内に胎動させる革命家だった。大逆事件の幸徳秋水らの逮捕は、韓国併合と同じ1910年。幸徳秋水一派は山縣有朋の朝鮮王制“完全廃止”に呼応し、“ならば日本も王制廃止だ!”と意気込んだ形跡がある。仮にそうなら、山縣有朋と幸徳秋水の間には、以心伝心の繋がりがあったのだろう。

 水戸学の「尊王」の極左イデオロギーについて、もう一例。1930年代に入るや水戸学を高々と掲げ皇国史観を吹聴していた平泉澄は、GRUロスケ阿南惟幾・陸軍大臣と組んで昭和天皇を監禁脅迫するクーデタを1945年8月14日の深夜に決行した。水戸学の「尊王」では、北朝の昭和天皇を銃殺することすらドグマの実践だから、痛痒を感じることはない。水戸学が“北朝の天皇殺し”の狂思想である事実を軽視してはならない。

 さて、中江兆民がルソーを美化し宣伝しまくっていた明治維新初期に、話を戻す。

士農工商の廃止(四民平等/1869年)、農工商の苗字許可(四民平等/1870年)、穢多非人の解放(1871年)、秩禄処分(1873年)、廃刀令(1876年)

 米国は英本国から独立・建国した十四年間の歴史(1775・4~89・4)を“アメリカ革命”と称する。が、この言葉では、似ても似つかぬフランス革命と同一視する深刻な間違いが起きるので、日本では使用すべきではない。日本では、アメリカ独立戦争の1775年4月~1783年9月(英国の独立承認)、及び本格的な建国作業の1983年~1789年4月(ワシントン大統領の就任)を一緒にして、“米国の独立・建国史”と呼称すべきだろう。

 さて、ここでアメリカ独立・建国史を取り上げるのは、日本の明治維新と比較して、明治維新がフランス革命と半ば酷似する極左革命であったことを明らかにしたいからである。日本の明治維新は、アレクザンダー・ハミルトンらによって保守主義を貫いた米国の独立・建国史とは真逆の、皇室が二千年間守り通してきた保守主義の“法”を破壊した、極左アナーキズム革命であった。

 米国の独立派は独立戦争にあたって、十三邦から、独立反対の王党派royalist(備考)を追放した。彼らの土地財産はいったん没収された。しかし、“建国の父”ハミルトンとワシントンは、1789年の新生国家・米国の誕生の際、王党派の財産をすべて返還した。独立戦争に加担しなかった王党派に対するいかなる差別も行わなかった。また、膨大な戦費の借金が残っていたが、それを土地への課税強化では行わず、関税や酒税でコツコツと返済した。

(備考)独立戦争に参画した13邦の指導層は王制派monarchistが圧倒的な過半数であった。独立戦争を拒否した王党派royalistとこのmonarchistを峻別すること。

 つまり、1775年の独立戦争以前の十三邦のイギリス人は、1789年に門出した新・独立国家のアメリカ人となったが、身分と財産と生活様式にはいっさい変化がなかった。相違は13が13となり、その上に連邦・中央政府ができただけ。これは、ハミルトンとワシントンが、「国家の政治体制が大変革する時、国民の社会権(財産権や身分や従来から有する様々な権利)に僅かな変化があっては、安定と秩序が最優先に要求される新国家の基盤に揺らぎが発生する」と考えたからである。ハミルトンとワシントンは、バークと同等もしくはそれ以上の政治天才だった。

 一方、田舎の無教養武士が俄か権力者となった薩長土の藩閥政府は、真面な国家づくりの基礎知識などなかった。経済や産業の西洋化=近代化は先進国の模倣だから思想など要らないが、政治制度はそうはいかない。反・体制アナーキズム水戸学による“王政復古”だけは形の上では作れたが、それ以上は、相当な知識があってもアポリアの洪水。

 欧米型の議会を設け、天皇を“君臨すれども統治せず”の立憲君主制度にする方向に進んだが、それが完成する1889年以前に、日本はルソー的平等に腐食する猛毒のアナーキズムに人知れず深く犯されてしまった。これは、士農工商の廃止(四民平等、1869年)、農工商の苗字許可(四民平等、1870年)、穢多非人の解放(五民平等、1871年)、秩禄処分(1873年)、廃刀令(1876年)など、明治政府が性急に過激な社会権の大変革を次々にしてしまったことで起きた深刻な情況(補遺参照)

 日本の武士階級の廃止は、フランス革命が血塗られた蛮行で強行した王制度の廃止や貴族制度の廃止に相当する。指導者層を大多数の平民と対等にすれば、社会全体が劣化し、無知と傲慢が満開するばかりの平民という無能者・無法者が、国家を牛耳るに至る。最下層の殺人鬼や凶悪な暴力団からなるジャコバン党が国家を簒奪した革命フランスと基本的には似た、救い難い政治情況が、明治日本に早々と発生したのである。

 明治維新と革命フランスの相違。後者は直ちに王制廃止したため、一気にギロチンが荒れ狂う恐怖政治の全体主義体制が訪れた。一方、日本は、天皇と旧藩主の華族でトップ層を形成し、政府全体を旧武士階級の子弟で運営したため、武家時代の武士の規範が明治時代の秩序と道徳を担い、約四十年間近くの1905年までは、かろうじて日本は国家として機能した。つまり、明治維新とフランス革命は、四十年間のタイムラグという相違を生んだが、このタイムラグを捨象して観察すると、ほとんど同類の革命となった。明治維新から七十年後の1930年代になると、日本は、1789~1815年のフランス革命そっくりになった。

 このことは、昭和天皇を脅迫して木偶の坊に化し、日本国をスターリン体制にする5・15クーデタ(1932年)や2・26クーデタ(1936年)、あるいは昭和天皇を監禁脅迫する目的の8・14クーデタ(1945年)を思い起こせば十分だろう。中江兆民が王殺しを人類初に提唱したルソーを喧伝してから(1883年)五~六十年後に、理論通り、ルソーが染み込んだ日本は、フランス革命を再現した。

 バークが、「政治制度は保守しても革命・変革を決してしてはならない。そんなことをすれば国民の財産・生命が破壊され自由が剥奪される」と、1790年に英国民に警告した。フランス革命勃発から百五十年を経た1945年8月、日本は国土の多くを失い、国民の生命四百万人の犠牲と主要都市の廃墟の中で、バーク思想の正しさを証明したのである。

天皇制廃止で暗躍した学者は明治時代に大量発生。薩長土の藩閥政府は“準ジャコバン党”政権

 話を明治時代に戻すとしよう。フランス革命は、ルソー/ヴォルテール/エルベシウスその他が、凶悪アジ文書を大頒布し、フランス人の多くがこれに洗脳されて、周到な計画と準備の下に始まった(1789年)。そして明治維新とは、超ノロノロのフランス革命だったとすれば、それは国産アナーキズム水戸学にはフランス革命と同種のイデオロギーが内在し、またルソーの流入を通じてフランス革命の“悪魔の思想”がじわじわと明治日本人の頭を蝕んでいたからだ。

 表2はこの一端を例示したもの。植木と幸徳はルソーの王殺しの信奉者だし、馬場はフランス革命万歳のトマス・ペインに頭をやられた変人・奇人。そして、なんといっても、明治から大正時代にかけて、日本の古代史学界は大きく天皇制廃止の革命運動学に政治化し、学問の真実追究など脇におっぽり投げられ始めていた。久米/白鳥/喜多/津田/橋本らは、河上肇のように広言しないだけで、天皇制廃止を信条としていた。

表2;ルソーが明治日本人を蝕み、天皇制廃止が大きく蠢き始めた明治日本

天皇制廃止の“スーパー極左”学者

天皇制廃止の“スーパー極左”文筆家

・久米邦武(1839年~)、河上肇の大先達

・中江兆民土佐藩、1847年~)

・白鳥庫吉(1865年~)、甥はスターリン崇拝狂

・馬場辰猪土佐藩、1850年~)、『天賦人権論』

・喜田貞吉(1871年~)、部落解放の超・極左

・植木枝盛土佐藩、1857年~)、『ボルグを殺す』

・津田左右吉(1873年~)、天皇廃止・古代史学者の神話的な大ボス。共産党のお気に入り

・幸徳秋水土佐藩、1871年~)、『社会主義神髄』『帝国主義』『翻訳・共産党宣言』

・河上肇(1879年~)、日本共産党初代党首

・石川啄木(岩手県、1886年)、『一握の砂』

・橋本増吉(1880年~)

・平塚らいてう(1886年~)、日本共産党員

注4;植木枝盛の『ボルグを殺す』は、『バークを殺す』の名前表記ミス。

皇位継承学の元祖は井上毅、記紀を保守して皇室護持は那珂通世が元祖、・・は内藤湖南が元祖

 このように赤化が日増しに進む明治時代にあって、保守主義に基づく正しい古代史学を毅然と守らんとする、良心的な歴史学者もいた。が、那珂通世と内藤湖南など少数だったが。

 那珂は、1888年に「日本上古年代考」、1897年に「上世年紀考」を世に発表した。日本書紀の神武天皇“即位”が660年遡り過ぎなのを明らかにした著名な論文。これは、学界では100%定説になった(注5)

 また、神武天皇のご即位の時期は、ほぼ西暦紀元頃と、那珂は推定した(注5)。これは学術的に最も歴史事実に迫っており、私は素直に感動した。当然に絶大に評価されるべきもの。が、学界はこれを黙殺し、文部省も徹底無視。そればかりか、この黙殺と無視作戦は、年々強化され、那珂通世の学問業績それ自体が存在しないかのように無視することが慣行化した。

 学界も文部省も、1910年の幸徳秋水の明治天皇暗殺未遂に与しており、天皇制廃止に直結する嘘歴史「神武天皇が存在しない」を推進しているのである。どうやら、1910年代に、この“逆走”推進が始まったようだ。方法は二正面作戦。正面攻撃は、津田左右吉に露骨な「神武天皇は実在しない/皇室がでっちあげた小説よろしい物語だ」の大プロパガンダをさせた。これは、1919年以降、燎原の火のごとく学校や大学で広まった。背面攻撃は、GRUロスケが支配していた文部省が音頭を取って1940年に「二千六百年祭」を全国規模で開催し、神武天皇の即位を紀元前660年に戻した(注6)。那珂通世の学問を全否定したのである。

 仮にも「紀元前660年に神武天皇が即位」とすれば、この時には前漢も後漢もまだ支那には存在しないから、神武天皇自体も実在しないということが、瞬時に確定する。特に、皇室のレーゾンデートルは、前漢鏡を国産化した天照大神の八咫鏡だから、「神武天皇は即位時に八咫鏡を奉戴した」が、瞬時に真赤な嘘となるからだ。

 さらに、伊勢神宮だけでなく、皇室の祖先の高天原も日向三代も真赤な捏造嘘歴史になってしまう。そこは、前漢鏡だらけの地だからだ。前漢が存在しない時代なら、前漢鏡も存在しない。

 三種の神器のトップ神器“前漢鏡(国産)”を初代神武天皇は神宮に奉戴していたと記述する記紀を編纂したのは現皇室。が、前漢が存在する前に神武天皇が即位したとすれば、この記紀の記述は真赤な嘘の垂れ流しになる。那珂通世の学説を復権せずして、神武天皇の実在を証明することは、かくも明らかにできない。那珂通世の学説を正しいと宣言しない限り、皇室の信用それ自体、完全に棄損される。が、脳内劣化して空洞で、白痴になった日本人は、これすら理解できない。

 今般の私の『神武天皇実在論』が、那珂通世“復活”を前面に打ち出したのは、神武天皇の実在という正しい歴史を復権するに絶対条件だからである。この意味で同書は、百三十五年ぶりに那珂通世を復活させた古代史学の専門書なのだ。百三十五年とは、那珂の論文「日本上古年代考」が1888年で、私の『神武天皇実在論』が2023年だからである。

表3;皇室護持三学問のうち、二つを復権した中川八洋『神武天皇実在論』

皇位継承学の系譜

皇室護持のための記紀「保守」学

天皇制廃止が目的の邪馬台国・九州説を粉砕する学

井上毅(1843年生)

  ↓

中川八洋

那珂通世(1851年生)

  ↓

中川八洋

内藤湖南(1866年生)

  ↓

 多数

  ↓

中川八洋

明治皇室典範から中川皇位継承学・第一冊目『皇統断絶』(2005年)まで116年

那珂の「日本上古年代考」(1888年)から中川『神武天皇実在論』まで135年

湖南論文「卑弥呼考」(1910年)から中川『神武天皇実在論』まで113年

 

 もう一人の重要な歴史学者が、内藤湖南である。「邪馬台国は九州にあった」など、戯言ならまだしも、学問なら妄言・暴言に過ぎない。なぜなら、「邪馬台国」とは、和語“大和の国”の支那国の宛て漢字だから、「邪馬台国」は「やまとのくに」としか訓めない。だが、これを「ヤマタイコク」と、日本は学校教育でもトンデモ嘘読みさせる。天皇制廃止のためなら嘘を擦りこめ!である。

 一方、「やまとのくに」と当り前に訓めば、大和朝廷の皇后クラスの女性皇族が『魏志倭人伝』の「女王=ひめみこ」となる。卑弥呼は「ひめみこ」の宛て漢字だから、ヒミコと訓むことはできない。

 これはまた、大和朝廷が魏帝国(220~65年)と外交関係を持っていたことになり、大和朝廷が三世紀前半には北部九州をも統治下に置く確固たる統一国家だったことが判明する。が、この正しい歴史が『魏志倭人伝』によって判明するのは、天皇制廃止勢力にとって、どうしても困る。

 なぜなら、「大和朝廷は三世紀後半以降に誕生した」と、事実を二百五十年ほど遅らせないと、神武天皇から少なくとも第九代開化天皇までを紙上テロルして抹殺する政治的歴史改竄ができなくなるからだ。「大和朝廷は、邪馬台国の後に出現した」とか「大和朝廷は、魏帝国が滅んだあと、邪馬台国が東遷した国家」等の政治的創作の嘘歴史にすれば、皇室の祖先である「神武天皇~開化天皇」は消え、皇室はどこの馬の骨かわからぬ人物から生まれたとなり、その由緒ある皇統史をぶっ壊せる。

 これが、天皇制廃止勢力は暴言・妄言の類「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を執拗にがなり立て続ける理由である。現在は、共産党が組織的に指揮し、暴言・妄言「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を、大学だけでなく、学校教科書の定説にデッチアゲている。これは明治時代から執拗で、共産党員のハシリ久米邦武や水平社系の喜田貞吉はこの巨頭だった。今もその悪影響は衰えていない。

 この故に、古武士の面影のある内藤湖南が当り前な「邪馬台国・大和説」を、大逆事件と同じ1910年に発表した時、白鳥庫吉とその子分・橋本増吉は、ヒステリックに内藤潰しに躍起となった。我々正しき日本国民は、学問的な真実追究においても、天皇制廃止勢力を粉砕する世襲の義務においても、内藤湖南の「邪馬台国・大和説」を旗幟鮮明に高々と標榜して、“反・学問”の赤い暴論・妄言「邪馬台国・九州説」を跡形もなく粉砕しなくてはならない。私の『神武天皇実在論』第三章は、この粉砕するための学術的方法も、明快に提示している。天皇制廃止の嘘歴史は、学問の世界から一掃せねばならない。

                                              (2023年4月11日記)

 

1、半澤孝麿訳のバーク『フランス革命の省察』、みすず書房、14頁、16~9頁。そこで言及されているプライス博士の著『祖国愛について』は、共産党員・永井義男が邦訳している。『祖国愛について』、未来社、1966年。

2、渡部昇一監訳・中川八洋解説『絵解き ルソーの哲学』、PHP研究所。

3、上掲『フランス革命の省察』、109頁、140~1頁、271頁。

4、本文に既述。

5、中川八洋『神武天皇実在論』、144~8頁。

6、同上、第Ⅰ部第五章。

 

補遺;この秩禄処分や廃刀令に触れたついでに、間違い著しい通説「これらに不平と怒りに沸き立った武士が、武士階級“滅殺”を図る明治政府に対して武装蜂起し、征韓論に敗れた西郷隆盛をシャッポにしたのが、1877年の西南戦争の勃発の主因」を批判しておこう。武士階級の不平・不満は事実。西郷が政府部内「征韓論」論争で敗れたのも事実。が、西郷隆盛が西南戦争を指導した本当の動機も目的も、これらの諸事実とは関係しない。

 1877年の西南戦争は、会津藩潰しの戊辰戦争中の1868~9年、いやそれ以前から西郷隆盛が構想していた、江戸市中“焼き尽くし”計画の実行であった。天才・大村益次郎の1869年の西南戦争対策(遺言)で事なきを得ただけ。“狂人戦争屋”西郷隆盛が、必要性もない戊辰戦争をおっぱじめて会津藩と長岡藩を破壊尽くしたのも、この“江戸市中焼き尽くし”の邪魔になるからであろう。

 もともと西郷隆盛の征韓論も、韓半島征討に向かう巨大軍隊の総司令官となった瞬間、この軍隊を江戸(「東京」と改名)市中“焦土”化に使う、騙しの征韓論だったろう。西郷隆盛が秘めた江戸市中“焼き尽くし”を喝破し、それを阻止したのが、(江戸無血開城の)1868年4月の勝海舟と1869年末の大村益次郎の二人。幕末日本が生んだ最高の愛国者・英雄は、(会津藩主・松平容保とともに)IQが突出して高かった勝海舟と大村益次郎の二人に尽きる。坂本龍馬などは私利私欲の詐欺師の臭いがプンプン。

 大村益次郎は、戊辰戦争の共同参謀総長だったことで、いったん勝海舟に阻止された江戸市中焼き尽くしを西郷隆盛がまだあきらめていないのを知ったようだ(1869年年頭?)。大村は暗殺テロに襲われ瀕死の今際の際で(1869年末)、「数年後に西郷が鹿児島で蜂起し、東京を火の海にする戦争を実行する」「鹿児島を出立する西郷隆盛“叛乱”軍を粉砕するためには、砲弾生産を現在計画の四倍にせよ」「造兵廠の建設は予定の東京を止め、鹿児島に迅速に輸送できるよう大阪にせよ」等を言い残した。大村益次郎の部下と弟子はこの遺言を100%励行した。彼らも西郷隆盛の真意を知っていた? (注)これについて簡略な概史を知りたい者は、司馬遼太郎『花神』下巻を参照のこと。

 さて問題。新首都の東京を焼き尽くした後、西郷隆盛は、明治天皇をどうする積もりだったのだろう。北海道への配流などを計画していた? この問題、学的な推測可能域を超えるので割愛。

附記;この連載で、私の新著『神武天皇実在論』は、わざわざ中川八洋『神武天皇実在論』と著者名をつけている。林房雄のスーパー悪書『神武天皇実在論』と区別するためである。一日でも早く“天皇制廃止の極左本”後者を日本から一掃して、『神武天皇実在論』と言えば、私のだけを指すようにしたい。そうすれば、いちいち私の名前を冠する手間が省ける。

 

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