水戸学とは、“スターリン狂の戦争教理”を日本人の発意かに部厚く塗りたくり、日本国の滅亡を牽引した猛毒麻薬──“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(37‐2)

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筑波大学名誉教授   中 川 八 洋(2018年8月1日記)

 西尾幹二は、このところ、めっきり静かになった。人伝の話だと、幽鬼のようにやせ細り、自慢の“醜悪な猿顔”は、“干からびたカマキリ”に成り果て、そんなに長くはないという。が、それは困る。西尾幹二には、もっと長生きしてもらわねばならない。

 なぜなら、西尾幹二は、2019年5月1日に誕生する「小和田王朝」について、説明責任から逃避する姑息かつ狡猾な行動をせず、この5月1日に記者会見を開き、「小和田王朝の誕生を、絶対に許さないぞ!」と、自説を大声で主張しなければならないからだ。この記者会見は、西尾幹二が人生の最後に果たすべき、言論人としての最小限の義務だろう。

 有り体に言えば、西尾幹二とは、“幽霊”「小和田王朝」をデッチあげ(注1)、皇族に対しさんざんに(現刑法の名誉毀損罪に相当する)罵詈雑言を浴びせた“不敬の大罪”を犯した極悪人。旧刑法の不敬罪があれば、逮捕・死刑される以前に首吊り自殺せざるをえない大犯罪者。

 2019年5月1日に西尾幹二に対する大糾弾の嵐が起こるのは不可避だと思い込んでいるのだろうか、西尾幹二は今、一年後の大暴風雨から逃れるべく墓場の下の骨壺の中に逃げ込もうとしているようだ。が、それは余りに卑怯! 敵前逃亡! ではないか。

 重度の精神分裂病を爆発させ“皇族を殺したい”狂気から書いた『皇太子さまへの御忠言』(2008年9月)は、“世紀の不敬”事件。“不敬の大犯罪者”西尾幹二は、もっと長生きしてもっと生き恥を晒し、大量指弾の弾で体が穴だらけになりボロボロに朽ち果てる“処刑の情況”で、墓穴に入るべきが筋と言うものだろう。

 それだけではない。西尾幹二は、数十年にわたり読者を誑かし、自らの思想本籍を秘匿・隠蔽し続けた“仮面人生”を後始末する終活から逃げてはならない。具体的には、“ヒトラーのクローン”西尾幹二は、廃墟主義アナーキストである自分の正体を、骨壺の中に逃げ込む前に自ら明らかにすべきである。これは、言論人が避けてはならない社会的責任。

 本稿が、西尾幹二著『維新の源流としての水戸学』を解剖するのは、西尾幹二が自らの思想本籍“スターリン狂の祖国憎悪”を白状し易いよう、手助けしてあげるためである。

“有害イデオロギー”水戸学を除染すべく、『元旦詔書』を渙発された“聖帝”昭和天皇

 無教養人は同時に無責任人である。これは古今東西に万国共通。「困ったことだ」と嘆息する他ない。が、“半・無教養人”には、寛容であるべきでない。彼らは、国家に害をなすこと甚だしい“有害人”“有毒人”が多く、十分に警戒しないと、日本国は致命的な損傷を受ける。

 特に、煽動と洗脳を職業とする“半・無教養人”評論家/政治家は、国を亡ぼす魔力だけは絶大である。ヒトラーしかり、近衛文麿しかり、帝国陸軍のエリート将校しかり。平成時代でも、この種の有害人士は跡を絶たない。西尾幹二は、この好例。

 西尾幹二が『維新の源流としての水戸学』(2015年8月)を出版した目的は、「尊王」を宗教ドグマとした水戸学を礼讃して、自分の本当の正体“天皇制廃止のアナーキスト”を逆転的に糊塗して天皇制度護持派であるかに変装するため。西尾幹二は珍しく、本心を赤裸々に表に出して『皇太子さまへの御忠言』を出版したばかりに、自分が極悪の天皇制廃止狂であるのがバレ、ためにそれを隠蔽する包装紙として『維新の源流としての水戸学』を出版した。が、この『維新の源流としての水戸学』は、“恥知らずの半・無教養人”で“稀代のペテン師評論家”西尾幹二の面目だけが躍如する、お粗末きわめたひどい本。

 加えて、この本でも西尾幹二は、常習癖の“度外れ”歴史捏造を吹聴する。「GHQは、文部省を通じて、指定本ごと(研究用に)各五部を没収し、各本の他の平均数千部は個人蔵書と公共図書の蔵書は許可する“市販禁止”にした」だけなのに、底なし狂気の大嘘つき西尾幹二にかかると、この「五部没収&市販の禁止」を、“数千冊全部を焚書した”との、白髪三千丈式の大嘘に入れ替えた。嘘事実捏造が日常の、重度の精神分裂病・西尾幹二の嘘つき狂気は、このように治癒が不可能なレベル。精神病院に収監するほかない。

 さて西尾幹二とは、水戸学が日本を益したと狂信する。絶句するほかない、異常な歴史知らずの典型。明治維新への熱情形成に影響した水戸学を、明治維新を評価する立場から少し評価する者がいるのは事実。この点では西尾幹二は普通で、「狂っている」とはいえない。

 が1930年代、水戸学がマルクス・レーニン主義と合体し、スターリン崇拝教へとヒドラ的に成長した歴史事実を直視すれば、水戸学を全面否定するのは、日本人が具備すべき、最小限の理性で知性であろう。ところが驚くなかれ、西尾幹二は、スターリン崇拝教に日本国民を洗脳した“誘い水”水戸学を「高く評価すべし」とアジっている。西尾とは、まさしく対ロ売国奴の国賊の極み。日本国民ではない。

 水戸学は、“二千万人日本男児殺害”も戦争目的の一つだった大東亜戦争を推進した、日本が永遠に糾弾すべき、残虐な狂妄思想である。ルソーやマルクスやレーニンの本と一緒に、日本から完全に一掃すべき。まさしく水戸学の諸書籍こそ、“焚書”されるべきだ。

 天皇奉戴が天皇殺戮へと、分裂症的に反転する“逆”慣性力を内包する藤田東湖や会澤正志斎の著作は、日本人をして祖国叛逆(反・国防)と天皇制廃止(天皇殺し)に駆り立てる“悪魔の狂本”であった。「攘夷」は、吉田松蔭らテロリストにテロを奨励する麻薬でしかなかった。「尊王」は、長野県松代での昭和天皇「処刑」(ポツダム宣言受諾により未遂)へと暴走していた。

 故に、天才級頭脳の昭和天皇は、敗戦の年(1945年)も暮れる12月、日本国から水戸学を全面排斥する一大決意をなされた。このとき、陛下の相談相手が、親英米の故に帝国海軍を追われた、海軍随一の大秀才・山梨勝之進(海軍大将)であった。1945年の山梨は、当時はまだ皇室が直接に運営していた学習院の院長だった。原案は、山梨とブライス(学習院の英語教師)の共同執筆で(マッカーサー元帥の了解を取るため)英語。『元旦詔書』渙発過程は、注2を参照されたい。

 「“祖国叛逆のドグマ”水戸学を絶滅せよ」と、昭和天皇が国民に訴えた声明書が、俗に「人間宣言」と称される、1946年1月1日公布の『元旦詔書』。『元旦詔書』が全否定した、「天皇をもつて現御神」「日本国民をもつて他の民族に優越せる民族」「(日本は)世界を支配すべき運命を有す」の文言を、しっかと読んでいただきたい。これらは、狂気丸出しの『国體の本義』(1937年)、『臣民の道』(1941年)、「(内閣)国體明徴声明」(1935年)の文言。

 しかも、『国體の本義』『臣民の道』「(内閣)国體明徴声明」は、水戸学の焼き直しで、そのコピペ。こんなこと指摘するまでもない。『国體の本義』『臣民の道』が、日本国民を“祖国叛逆の狂気の戦争”大東亜戦争に駆り出すための、“スターリン狂”一色の文部省教学局によるデッチアゲ本なのも常識だろう。

偉大な明治憲法を護るため、美濃部達吉の「天皇機関説」を擁護された昭和天皇

 昭和天皇は、明治憲法を歪曲や捏造をするだけでなく、それを全面破壊せんとする1930年代の異常な国政紊乱・国情騒乱を、いたくご軫念されることしきりであられた。

 1930年代の共産革命の一つは、明治憲法を破壊することだった。この方法の一つとして、明治憲法が天皇を国家の一機関と定めているにもかかわらず、スターリン狂のエリート将校が跋扈する陸軍省と水戸学系の右翼(南朝の忠臣だった家系を自慢する“痴呆男爵”の菊池武夫・貴族院議員ら)とス―タリン狂の赤い文部省教学局の三者は、朝日新聞と共同して世論を煽り、ルソー暴力革命論が淵源の「天皇主権」説に水戸学をブレンドした「国體明徴の政府声明」を、“木偶の首相”岡田啓介に迫り、「天皇機関説」の美濃部達吉を糾弾させた(1935年8月3日と10月15日の二度)。「国体明徴」声明とは、明治憲法を破壊・停止し、祖国日本をスターリン型独裁国家に改造する共産革命運動だったのだ。

 日本国民の自由を擁護し、天皇制度を護持する明治憲法こそ、日本国の自由の砦であった。故に、日本を護るべく,昭和天皇は、常識一辺倒で凡庸な憲法学「天皇機関説」を擁護せよと、岡田首相に指示した。が、轟轟と真赤な火と燃える新聞攻撃に、岡田啓介は耐えきれず、赤い霞が関官僚と赤い三宅坂軍人と赤い朝日新聞の三者に屈した。

“スターリン教の経文”『国體の本義』『臣民の道』と“自爆テロのカルト宗教”水戸学

 1930年代の水戸学の“犯罪”につき、多少の補足説明をしておこう。結論を先に言えば、“マルクス・レーニン主義のデフォルメ”だった『国體の本義』『臣民の道』「大東亜共栄圏」はすべて、伝染病ウィルス「日本脳炎=スターリン狂」を水戸学で増殖・培養した赤い毒薬。

 この故に、“日本脳炎の狂書”『国体の本義』や“日本脳炎の狂スローガン”「大東亜共栄圏」などで洗脳された日本人は、「日本脳炎=スターリン狂」の重患者になった。“スターリン狂の重患者”日本人の大量発生である。祖国叛逆の“悪魔の戦争”「蒋介石殺害戦争」「対英米戦争」から祖国日本を守るべく、これら「反日」戦争を拒絶し粉砕する倫理や愛国精神や常識知が、日本人の頭からスッカラカンに消滅してしまったのは、伝染病(スターリン狂)に罹患して重病人になったからである。

 こうも言えよう。1926年から神田の本屋街で飛ぶように売れに売れた、マルクス/レーニン/ブハーリン/スターリンの翻訳書は、「日本脳炎(スターリン狂)ウィルス」を保菌する「ウィルス感染源の豚」だった。会澤正志斎らの水戸学や平田篤胤らの国学は、この「ウィルス感染源の豚」のウィルスを、日本人に伝染され易くする、上記の猛毒書/猛毒スローガン製作の“変換ロジック”だったことになる。

 まさに水戸学は、媒介動物のコガタイエ蚊そのもの。“変換ロジック”「コガタ赤イエ蚊の水戸学」こそ、陸軍エリート将校や帝大卒の官僚たちの赤い狂気の要望に応え、“スターリンの命令”「日本と東アジア全域を共産化しろ」(=「日本脳炎ウィルス感染源の豚」に感染させろ)を、『国體の本義』『臣民の道』「大東亜共栄圏」という、過激な復古調を謳う、民族主義で厚化粧した“魔本”or“魔スローガン”に変身させた秘薬であった。

 つまり、水戸学とは、日本国にとって最凶の有害思想(=凶悪伝染病を媒介するコガタ赤イエ蚊)だから、高濃縮殺虫剤を撒いて撒きまくって絶滅しなければならない。それにはまず、ゴミ捨て場の蝿の大発生のようなマルクス・レーニン主義の大ブームに連動し、大正時代末から爆発流行してきた「国體論」を潰すこと。「国體」論の殲滅こそは、日本国を正しく健全に再構築するに絶対不可欠な道なのだ。

 ウィンストン・チャーチルに優る、天才級頭脳を天稟とされた昭和天皇の『昭和21年元旦詔書』渙発の御決断は、真正の国體を再建するための苦渋のご聖断であった。

 なお、1930年代に猖獗した“悪魔の戦争”煽動スローガンや戦争ドグマ教本を、表1に纏める。大東亜戦争(蒋介石殺害戦争+対英米戦争)がスターリンの対日命令の祖国反逆戦争だったことは、表1から直ぐに氷解しよう。

表1;1930年代の戦争ドグマにおけるレーニンの革命ドグマとスターリンの対日工作

『国體の本義』

明治憲法の全面破壊と天皇のスターリン化。「現御神」はスターリンを理想像とするソ連共産党語。

『臣民の道』

日本をソ連型独裁体制に改造すべく、まず日本国民をボルト・ナットに改造。

「大東亜共栄圏」

 “東アジア全域の共産化”を意味する隠語として、“スターリンの稚児”近衛文麿が造語。結果は180度逆。日本は、大東亜“貧困”圏となった。

「皇国史観」

「マルクス発展史観」の偽装語。平泉澄は昭和天皇暗殺が生涯の信条。

 蒋介石殺害戦争

スターリンの命令。毛沢東と共謀し全支那を中国共産党に貢ぐ代理戦争(1937年7月~45年8月)。日本では、日支事変とか日中戦争という。

 対英米戦争

レーニン『帝国主義論』の実践。敗戦後にソ連軍に日本を占領させ、共産日本の誕生。尾崎秀実は、検事に、このソ連プランを全てばらした。

徳川宗家体制を破壊したごとく、昭和天皇の立憲君主体制破壊に暴走した水戸学

 水戸学とは、自分が戴く体制を破壊する狂気の“叛逆”カルト宗教。自傷自殺に誘う自爆テロリズムの“狂”教義。このことについても、多少は触れておかねばなるまい。

 桜田門外で“徳川幕府の大老”井伊直弼を襲撃し暗殺したのは(1860年)、同じ徳川幕府を支えるべき御三家の水戸藩の藩士たち。形式的には脱藩して浪士身分だが、彼らは水戸学と“攘夷論の巨頭”徳川斉昭を信奉していた、水戸藩の優等生藩士であった。

 彼らは、カルト宗教の狂った経文「尊王攘夷」を奉じ井伊大老を暗殺する事が、宗家の徳川幕府を倒壊させ、それに連座して水戸藩自身も自爆的に消滅するのを知りつつ、無理心中のこの滅亡を“大義”だと狂信した。つまり水戸学にかぶれた者は、幕藩体制の頂点に立つ徳川宗家・徳川一族全体が「失墜→自壊→廃滅」となるのを目指したのである。自殺自滅に誘う麻薬をイデオロギー化した宗教的カルト信条の教理が、水戸学の本性だった。この狂信の故に、彼らの「攘夷」は、“国益”からの考慮を初めから排除し、衝動的テロリズムに終始した。

 1858年(安政五年)の「安政五ヶ国条約」は、孝明天皇の勅許なしに、井伊大老が職権で調印した。だが、産業と軍事力を西洋化=近代化する必要は喫緊で、そのための日本の開国は国益からして選択をあれこれ詮索する余裕はなかった。(安政の大獄のやり方には問題があるが)井伊直弼の「開国」決断それ自体は何ら間違っていない。だから、十年後(1868年)、明治天皇は「五箇条の御誓文」で、井伊直弼外交を継承し「攘夷」否定の宣言を発された。

 井伊大老の「反・攘夷=開国」が間違いなら、明治天皇や維新政府の「開国」も間違い。井伊大老を暗殺して明治天皇を暗殺しなかった水戸学の狂信者は、二重基準のご都合主義。

 それどころか七十年後の1935年、昭和水戸学は、「国體明徴声明」をもって「尊王」も捨てた。「国體明徴声明」は、“天皇は全体主義国家のロボットたれ”の宣言。そこには、天皇への尊崇など一欠けらも存在しない。現に歴史は、水戸学の「尊王・攘夷」から生まれた「国体明徴」が、新興カルト宗教“天皇殺し”の狂気の呪文だったことを明らかにした。この「国体明徴」において、昭和天皇の暗殺をも視野に、「昭和天皇よ、スターリンたれ! さもなくば監禁するぞ」、の2・26事件が、半年も経ずして、翌年2月に起きているからだ。

 もともと、後期水戸学の「攘夷」は、(先駆者・藤田幽谷を除き)骨の髄までカルト宗教の呪文・経文の類。故に、彼らの「攘夷」は、国防の視点も国防の精神も完全に欠いた“国防不在の極み”。国家の存続など、水戸学イデオローグの視野には、初めから存在しない。

 もし、水戸学が現実に立脚した通常の国防から演繹した国家安全保障上の“攘夷”ならば、当然に、林子平/間宮林蔵/近藤重蔵/最上徳内らを尊敬し、対ロ防衛の参謀本部だった会津藩を重視するはず。だが、水戸学のいかなる書物も、それらに言及した文言は一字もない。表2にある水戸学の関係書に、対ロ国防論も、そのために命を懸けて樺太と得撫島・択捉島を探検した“日本国防の先達者”の名前も、一字すら言及されていない。

表2;国防否定主義の水戸学は、祖国破壊に盲狂・盲進する畸型アナーキズム

 カルト宗教呪文「尊王攘夷」

対ロ国防アッピール/対ロ国防の先駆的行動者

藤田幽谷『正名論』、1791年。

藤田幽谷『水戸藩主・徳川斉修への上書(二本)』、1823~4年。

*幽谷には国防意識が僅かにあり、ファナティックさは開花寸前の蕾。が、国防でない宗教狂信「攘夷」教の元祖なのも事実。

会澤正志斎『新論』、1825年。

藤田東湖『弘道館記』、1837年。

藤田東湖『弘道館記述義』、1847年。

 

 

 

 

 

工藤平助『赤蝦夷風説考』、1781~3年。

林子平『海国兵談』、1791年。

桂川甫周『北槎聞略』、1794年。

間宮林蔵『東韃紀行』『北蝦夷(樺太)図説』、1810年。

近藤重蔵/最上徳内が択捉島に「日本国の標柱」、1798年。

富山元三郎/深山宇平太が得撫島「日本国の標柱」1801年。

会津藩は、侵略するロシア軍艦を排除すべく、樺太クシュンコタンに兵600名を出撃(直ぐに200名増員)、1808年。

間宮林蔵、樺太の奥地まで探検/間宮海峡を発見、1808年。

会津藩・白河藩、相模/房総に対ロ防衛の砲台築く、1810年。

江戸幕府「(国防からの)異国船打ち払い令」、1825年。

 具体的な例を挙げる。薩長討幕軍が、対ロ国防のノウハウすべてを蓄積していた“日本の対ロ国防の参謀本部”松平容保の会津藩・鶴ヶ城を焼き払ったのは(1868年、戊辰戦争)、薩長討幕軍が国防否定の水戸学に汚染され、それが維新の志士たちの中核思想だったからだ。“戦争狂の気狂い”西郷隆盛や“私利私欲一筋の権力亡者”山縣有朋は、この氷山の一角。本当の“尊王”なら、“尊王の模範”松平容保を、薩長の藩主や島津久光より数段に崇め仰ぐべきだ。

 日本が、明治時代から北海道・樺太・択捉・国後の防衛を軽んじて来たのは、会津藩消滅が決定的に影響している。“コガタイエ蚊の水戸学”の悪影響も極めて大きい。

 朝鮮へのロシア南下を阻止する日露戦争で勝利しながら、1906年に入るや、日本外交が、180度逆の対ロ宥和一辺倒に転じたのは、山縣有朋や伊藤博文ら“日本最悪の国際政治音痴”長州藩が外交を主導するようになったからである。まさに不必要な戊辰戦争を決行したことが、日本をして“狂気の祖国叛逆戦争”大東亜戦争に走る遠因の一つを形成している。

 そもそも「攘夷」とは、我が国の領土を外国の侵略の牙から守ること。ならば、日露和親条約で樺太と得撫島をロシアに割譲する“日本随一の対ロ売国奴”川路聖謨を、「攘夷」教の後期水戸学を狂信する幕末水戸藩の志士たちは、1854年2月に暗殺していなくてはならない。川路聖謨を誅殺せずして、その逆に国際政治と国益を透見していた“真の愛国者”井伊直弼の方を暗殺した“逆立ち行動”は、日本脳炎ウィルスを媒介する“コガタイエ蚊”水戸学の狂気が転倒して、尋常でなかったからである。

 国防に逆走し、国防を破壊する水戸学ゆえに、水戸学を触媒として生まれた『国體の本義』その他の教理「国體」は、1930代の日本を“国防を転倒した、反国防の戦争”に駆り立てたカルト呪文でもあった。大東亜戦争の戦争目的は、昭和天皇の銃殺/日本国民の男児二千万人殺し/日本産業の廃墟/ソ連軍の日本列島全土の占領など。すなわち、大東亜戦争は、日本国の滅亡を戦争目的とした戦争であった。

 このように “気狂いども”が起こした大東亜戦争の究極は、昭和水戸学が目指した通りの日本国の廃墟だった。昭和水戸学が師と仰いだ会澤正志斎/藤田東湖/吉田松陰らは、日本国の廃墟を道連れの自殺願望を心底で燃やした“自己破滅型アナーキスト狂人”だったから、この日本国の廃墟は、水戸学が生んだ当然の帰結と言える。会澤正志斎の『新論』ほか“chauvinismeの奇書”は、国家を大いに害しても、僅かも益することは決して無い。

「狂気の昭和」は、スターリン狂蔓延の源ルソー排撃をサボった「明治の怠惰」が主因

 昭和天皇は、明治時代を極めて正常な政治・外交が行なわれていた時代だと回顧し、その逆に、大正時代に入ってからの、特に昭和前期の日本の政治・外交に対しては、嫌悪以上の強度な全否定が基調のお考えをお持ちであられた。

 外交は、明治天皇の聖慮に反した韓国併合(1910年)を平然と強行する(個人的利権の欲得から)山縣有朋(明治の元勲、陸軍元帥)の専断するところとなり、これが天皇を無視する陸軍の恣意的な対外行動の暴走の端緒となった。これはまた、大正時代末期から陸軍内に奔流となって流入する社会主義思想・共産主義思想と結合して、国家の外交権を簒奪し暴走する“真赤な共産軍”としての帝国陸軍が1930年代にでき上った、その元凶でもあった。

 大正時代以降の、日本を転落させた外交・政治の逆走と喧騒は、1917年11月のレーニンの共産革命成功に始まるマルクス・レーニン主義の日本人知識層汚染だけが原因ではない。明治時代に堅固な思想基盤を構築していれば、1920年代からのレーニンやブハーリンやスターリンやデューイの大量流入に対し、これを排除する保守主義バネが機能したはず。

 明治時代の日本が、思想・イデオロギーの正常化を等閑視し、後年、自らの首を絞めることになったが、その筆頭は何と言っても、中江兆民のルソー思想輸入に対し、これを阻止し滅菌・浄化することをいっさいしなかった無為と怠惰(アパシー)に尽きよう。

 次が、水戸学を“用済み”の有害思想として抹殺しておく賢明さがなかった事。これは、ジョージ・ワシントンやアレクザンダー・ハミルトン等の米国の建国の父たちが、独立戦争に“在アメリカ大陸の入植者・英国人”を駆り立てる方策としてジョン・ロックを用いながら、1783年に十三邦の独立達成が成るや豹変し、ジョン・ロックの思想を米国から徹底排撃した智慧とは真逆。1783~9年、建国作業する米国は、ジョン・ロックをゴミ捨て場に遺棄し、代りにブラックストーンの学説に従い、デービッド・ヒュームの絶対重視に転換した。このような米国人の賢明な保守主義は、薩長土の低い知的レベルが特性の、いわゆるゴロツキ田舎武士たちには存在しなかった。

 ジョン・ロックには政府改変の革命思想が内包されており、新しい米国政府にとり、ブーメラン的に自爆用爆弾となると判断された。水戸学は、ジョン・ロックよりはるかに過激な、ルソー的な革命ドグマ。が、明治政府は、水戸学を徹底弾圧し排除し日本から根絶しておかない限り、明治維新が構築した近代日本の体制そのものを、水戸学が木っ端みじんに爆破する、とは洞察できなかった。

 さて、ルソーだが、“日本のアナーキスト第一号”中江兆民の影響力は想像以上に大きく、明治時代、旧武家出身の知識人層の頭を広く深く汚染した。“日本のアナーキスト第二号”幸徳秋水も、“日本のコミュニスト第一号”植木枝盛も、中江兆民のルソー狂気を吸飲したスーパー極左人士。

 ルソーの狂説は、大正時代に入ると、師範学校で、デューイ(備考)とともに生徒への必須授業で刷り込まれた。これが、ルソーとデューイが戦後日本の極左革命集団・日教組の中軸思想となり、マルクスと合体して猛威を揮った主因である。(高等小学校卒で入学するので)14歳から19歳の教師の卵がルソーとデューイを刷り込まれた結果、戦後日本でマルクス主義が猖獗した時、教師となっていた彼らは、ルソーの後継者マルクスやレーニンに瞬時に染まった。GHQ占領時代に始まる日教組の暴威は、大正時代に育てられていたのである。

(備考)デューイ哲学とは、ダーウィンの進化論を逆立ちさせた「退化論」に、レーニン主義をブレンドしたもの。デューイ教育学が退化教育になっているのは、この思想において当然。ユートピア共産社会をイメージした「道具主義pragmatism」を意図的に「実用主義」と誤訳し、何か高邁な思想かのごとくに煙に巻くのは、師範学校の教師全員を真赤に染め上げようとした東京高等師範学校の先駆的コミュニスト教授たちの陰謀だった。米国では、デューイpragmatismは、ルソーやベンサムらとともに、完全に排除されている。

井上毅/伊藤博文/金子堅太郎の明治憲法は二十年後、その停止論が東大と国会の基調となった

 反ルソー/反フランス革命の井上毅の明治憲法=英米系憲法学を180度逆にした、大正時代以降の東大の憲法学は、学術的な修正や解釈が許される範囲を大きく逸脱し、明治憲法をやりたい放題に歪曲・改竄を恣にするようになった。東京帝大の穂積八束は、偏向いちじるしい純粋民族主義者だった。同じく東京帝大の筧克彦は、古神道の宗教家で憲法学から逸脱した神がかり状態のどう見ても気狂いで、“狂人”平田篤胤に酷似する非・学者だった。

 それどころか、これら明治憲法“歪曲”の穂積八束や筧克彦が穏健に見えるほど、凶悪でスーパー過激な共産革命家が、東大の第一講座の憲法学者として登壇した。偽装右翼で強烈なルソー狂信のコミュニスト上杉慎吉である。

表3;戦前戦中の民族系三タイプ

 

代表的人物

備考

純粋民族系

穂積八束、蓑田胸喜

 

民族系擬装(偽装右翼)の凶悪共産主義者

上杉慎吉、平泉澄、平野義太郎

文部省“赤色官僚”の『国體の本義』は、共産革命“煽動”本。

無見識・超軽薄な“ロシア操られ組”の民族系

平沼騏一郎(“スターリン直結GRU工作員”太田耕造の操り人形)

戦後の1980年以降に台頭した日本会議は、これ。

 明治憲法とは、日本の伝統や慣習を踏まえつつも、英米ベルギーなどの憲法を渉猟した国際水準第一級のものだった。表4に示すように、ルソーとフランス革命思想を徹底的に排除した、英米の保守主義憲法に系譜するものだった。巷間や学界で流布している謬説とは真逆に、明治憲法は、プロイセン王国憲法の影響はほとんど受けていない。ビスマルク帝政憲法とは、いっさい関連がない。

表4;日本では極めて異例の、保守主義者のみが集合した明治憲法の起草者と協力者

 

基本思想

参考;中川八洋について

 伊藤博文

アレグザンダー・ハミルトン系の憲法思想と王制主義

伊藤博文に次ぐ、日本のハミルトニアン第二号

 井上毅

「反ルソー/反フランス革命」の、日本の保守主義者第一号。ロェスラーは憲法起草の盟友。反・水戸学。

日本の「反ルソー/反フランス革命」第二号。反・水戸学。

 金子堅太郎

バーク『フランス革命の省察』に傾倒したバーキアン第一号。日本初の共産主義者・植木枝盛が噛みついた。反・水戸学。

日本のバーキアン第二号。日本共産党に攻撃される毎日。

 グナイスト

ドイツでは稀有な、親英の“英国憲法の大学者”。

英米系憲法思想の研究者

 ロェスラー

ドイツ・バイエルン州出身の御雇い外国人。反ルソー/反フランス革命の憲法学者。井上毅とは、思想の同志。プロシャ嫌い。

日本からルソー思想を排撃しようと四苦八苦して、すでに六十五年。

備考;ロェスラー『仏国革命論』は、1884年刊行。

 中江兆民/幸徳秋水の正統な後継者で、「右翼」擬装の過激コミュニスト上杉慎吉は、25歳で東京帝国大学法学科の助教授になり(1903年)、あっという間に出世し政界・軍部の寵児になったルソー狂徒。同じ極左信条の山縣有朋は熱烈な上杉ファンで、上杉に様々な協力を惜しまなかった。“常識一辺倒の中道憲法学者”美濃部達吉は、「右翼」擬装の凶悪共産主義者・上杉慎吉から、人生を翻弄されてしまった。

 明治時代の初期、“ルソー教の悪魔”中江兆民に対して「死刑」の処断をせず、また英国のようなルソー排撃のイデオロギー闘争を国挙げて行わなかったことが、大正・昭和前期に、日本をしてレーニン/スターリン崇拝を蔓延させる、極左思想のみを受容し歓迎する狂った思想基盤を日本国内に形成したのである。

 上杉慎吉や赤い文部官僚の『国體の本義』が企図し祈願した通り、大東亜戦争の主目的の一つである“明治憲法の破壊”は、1947年2月、GHQの極左集団ホィットニー民生局一派によって完遂された。が、GHQのこの左翼グループですら、王制主義者ジョージ・ワシントンが建国した米国思想に強く影響されており、大東亜戦争のもう一つの主目的「天皇制度の廃止」だけは断固として拒絶し、逆にその温存にあらん限りに奔走した。

 要するに、日本人にとり外来思想のルソー教とマルクス・レーニン教(スターリン教)と並び、純国産の水戸学は、大東亜戦争の大敗北と廃墟の1945年8月が証明したごとく、日本国を奈落の亡国に突き落した三大“悪魔の思想”である。

 なお、大東亜戦争の“負の遺産”ルソー主義とマルクス・レーニン主義は、戦後日本では、断罪されるどころか逆に戦争の敗北をバネに戦前以上に猛炎を上げて猖獗し、21世紀の今も日本を蝕み続けている。世界に例を見ない常軌を逸した安倍晋三の、共産社会への日本改造に他ならない“スーパーばら撒き福祉”も、日本をして破滅的亡国に大驀進のスピードを加速させる劇薬の一つだが、これも共産主義思想から生まれた赤い日本政治の一つ。

 ルソー主義とマルクス・レーニン主義をこれほど蔓延らせた、媒介動物コガタ赤イエ蚊にほかならぬ水戸学の害毒と残滓は、その卵一つも生かさないよう、念には念を入れた滅菌除染をしない限り、日本国が地球上から消えるに、あと三十年はかかるまい。

 

1、西尾幹二「雅子妃のご病気と小和田王朝」『WiLL』、2009年10月号。

2、『毎日新聞』2006年1月1日付け。木下道雄『側近日誌』、文藝春秋。平川祐弘『平和な海と戦いの海』、新潮社。ほか。

3、『国體の本義』は、1930年に東京帝大国文学科を卒業して文部省に入った(高等文官ではない下級官吏)“日本一の無責任男”志田延義が下書きした。志田の戦後は、文学一筋。『俳諧と歌謡』『梁塵秘抄評解』『奥の細道評釈』『日本歌謡圏史』『文学史・文学論』など、その分野で著作を多く残した。が志田は、日本を亡国に導いた『国體の本義』を下書きした反省を一言も残さなかった。

 なお、GRUに所属するソ連工作員の平泉澄は、“天皇殺し”ドグマを偽装する方法として、「コミンテルン32年テーゼ」に水戸学を濃くブレンドし隠し、血生臭い「皇国史観」をデッチアゲた。文部省GRU細胞が出版した『国体の本義』は、平泉澄のこの皇国史観でさらに赤化毒/日本亡国毒が強力になった。

 

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