昭和天皇“暗殺”が政治の常態となった昭和前期、この“暗殺”を煽動した一つが、古代天皇“連続殺人鬼”津田左右吉の記紀“讒謗”学──なぜ私は、精魂込めて『神武天皇実在論』を上梓したか(Ⅲ) 

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 明治政府が、日本史上初の“天皇廃止狂の元祖”中江兆民のルソー宣伝・流布を容認し放置したことで、明治時代の日本に、活字階級に限るが、天皇制廃止or天皇への叛逆などの革命運動が公然と始まった。そして、日本国中に燎原の火となって広がった。日本開闢以来の日本国の根底を揺るがす事態の萌芽だった。

 しかも、ルソーという外来思想に続き、マルクスとクロポトキンが、次にマルクス・レーニン主義が陸続と日本に流入した。ために、大正時代に入るや、(新聞・雑誌を読む/本を出版する)活字階級から天皇制廃止の煽動家が、雨後の筍のごとく、日本列島ところ狭しと顔を出した。

 ①のち「ソ連共産党・日本支部長」となる河上肇、②フランス革命を日本に再現すべく“右翼偽装の仮面を被った凶悪コミュニスト”上杉慎吉、③古代天皇“連続テロル”で今上天皇テロルを国民に呼びかける津田左右吉などは、大正時代に劇的に増え続ける天皇制廃止“革命家”のほんの一部である。ここで僅か三名しか例示しなかったのは、本稿の紙幅の都合で、他はバッサリ割愛。

 これらに対して、のち内務省が、河上肇ら“コミンテルン(ソ連共産党)日本支部”だけが規制対象の治安維持法で、若干の対策(1925年の「特別高等警察」の設置)をとったほかは、明治時代と同じく、全員、放置された。ために、上杉慎吉や津田左右吉らは、大正時代と昭和前期、やりたい放題に天皇制廃止の真赤な革命をまっしぐら。

中川『神武天皇実在論』は百四年ぶり初の、古代天皇“連続殺人犯”津田への粉砕攻撃

 “反・歴史学の六流文芸評論家”津田左右吉が、神武天皇から開化天皇までの全九代と政務天皇・仲哀天皇・神功皇后の三代を架空の物語だと、実在天皇をバッタバッタとテロる血塗られた歴史偽造の『古事記及び日本書紀の新研究』を出版したのは、1919年。仮にも大正時代の半ばの日本人(活字階級)が、心底から天皇制護持だったならば、この1919年、轟轟たる非難と糾弾を、“新星コミュニスト”津田左右吉めがけて投げつけたはず。が、そのようなことは全く起きていない。

 津田『古事記及日本書紀の研究』は、文字「新」「び」を削除して1924年に再刊された。が、この時も何らの非難も糾弾も起きなかった。この事実から、日本は大正時代から活字階級の絶対多数が、天皇制廃止“容認”派になっていた、ことがわかる。天皇・皇室護持は、活字階級でない一般大衆の感情や常識が主力で支えられていた。この情況は、全国民を母数とした場合のみ、日本国民の絶対多数が天皇・皇室護持であるということ。活字階級では、天皇・皇室護持の精神は、大正時代に入ると、限りなく消えたということ。

 このことは、“悪魔のアナーキズム”水戸学の正体を暴いていよう。明治維新で「南朝の功臣」という屁理屈で授爵された輩は、所詮、利権屋的なゲス人間だった。これらの「南朝の功臣」も、水戸学を継承していると称する者も、大正時代には無数にいたが、一人も津田左右吉を批判していない。水戸学は、徳川幕府を倒壊させ、次に天皇制を廃止して日本を無政府のアナーキー社会に落とし込む狂気の極左イデオロギーだった。水戸学こそ、凶悪コミュニスト津田左右吉の仲間だった。

 実際にも、明治維新以降、日本における皇室尊崇・皇統護持の正統な保守文書は、A明治時代に起草・制定された井上毅が主導した明治憲法&明治皇室典範(1889年)、B明治憲法“無効”宣言である「国体明徴(=無天皇&無国会)(1935年)を筆頭にマルクス・レーニン主義と同体化した皇国史観やその母胎の水戸学を全否定された昭和天皇1946・1・1元旦詔書、C中川八洋の皇位継承学七冊&記紀保守学一冊だけ。この“皇室尊崇・皇統護持の正統な保守文書”のあまりの貧困さは、いったい全体、どうして発生したのか。

 この現実の情況を見ると、スターリンの天皇制廃止命令書(1932年テーゼ)より十三年間も早い1919年に、津田左右吉が古代天皇をテロルしまくり天皇制廃止を早々と打ち出した前代未聞の行動は、新しい時流(=共産革命万歳の極左一色)が訪れる予兆に飛び乗ったと言える。どうやら、津田とは共産革命家として、鋭い嗅覚の持ち主だった。

 なお、記紀保守学の書籍は、那珂通世の論文などを除けば、私の新著『神武天皇実在論』一冊しかない。今や、日本古代史学界の95%は共産党員/北朝鮮人/帰化支那人だらけで、津田左右吉を「無謬の大学者」に崇める記紀讒謗学が古代史学界の学問(常識では「反・学問」)になっている。このような日本国にあってはならない、狂った古代史学を是正・正常化するには、記紀保守学を広める以外、いかなる他策もない。

 私以前に記紀を保守せんとした史学者は那珂通世一人。何とも寂しい限り。坂本太郎は、(未完成のまま死没してしまったが)日本書紀の720年時点での和訓み復元に取り組んだ立派な学者だったが、(間接的にはこれに貢献するが)“記紀の保守をせねば”の意識や精神は有さなかった。

“反共ビジネス屋”蓑田胸喜は、本当に反共だったのか?

 津田左右吉の記紀讒謗学に対し正面切って斬り込んだ学術専門書は、坂本太郎が書かなかったから、私の新著『神武天皇実在論』が、日本初で唯一の本。

 が、こう言うと、「そうではない。津田の天皇制廃止“狂書”を内務省に発禁処分させた蓑田胸喜こそ、記紀讒謗学への最初の糾弾行為であった」との批判が、大きな声で木霊してきそうだ。

 しかし、津田に対する内務省の行政処分も起訴&裁判も、結果は発禁(=販売禁止と絶版)の実態には結びつかなかった。蓑田胸喜の反・津田の動きは壮大な徒労に終わった。いや、(蓑田に焚きつけられた)内務省による出版法違反の起訴と裁判で(1940年3月~)、逆に津田左右吉は、刑務所帰りの暴力団幹部と同じく箔がつき、戦後、史学界で“無謬の大学者”に押し上げられ、その嘘八百のトンデモ捏造歴史が学界を支配し絶対定説になった。蓑田胸喜の行為は逆効果で津田左右吉の大応援団だった。さらに蓑田には、疑念とすべき問題がいくつもある。

 第一。蓑田胸喜は本当に反共だったのか。実際には蓑田は、反共で売名する/反共で大金を手に入れる“反共ビジネス”屋だったのではないか。

 第二。もしかすると、上杉慎吉と同じ狂信的コミュニストでありながら、表向きはその逆の「反共」を演技していた可能性もある。理由①。『蓑田胸喜全集』が、共産党の直営店「柏書房」から出版されており(2004年)、これは共産党が蓑田胸喜を共産主義者と扱っている証左。理由②。蓑田胸喜は帝大在学中、上杉慎吉が主宰する興国同志会(学生団体)のメンバーで、上杉から強い影響を受けている。

 第三。反共保守ならば、共産主義者に嚙みつく行動パターンを示すはず。つまり、本物の反共保守なら、“中道ノンポリ”美濃部達吉なんかにいささかの関心すら懐かないはず。が蓑田は、美濃部達吉を敵視し、喰らいついている(1935年)。これは、「明治憲法を破壊して無憲法・無国会・無天皇状態を作り出し日本をスターリン型独裁体制に改造する」、東大でもIQがずば抜けて高かった上杉慎吉“流”の日本共産化への賛同。つまり、美濃部達吉を生贄にすれば、明治憲法の空洞化に直行するが、この上杉型共産革命に蓑田は喜々と参画している。上杉型の共産革命にかくも共鳴する以上、蓑田胸喜の思想本籍は反共保守の真逆にある、と解する他ない。

 なお、上杉慎吉の(フランス革命「国民主権」の援用)「天皇主権」説も「天皇即国家」説も、美濃部達吉の平凡な明治憲法学説を断罪し、明治憲法の破壊である「天皇の権能の停止→天皇制廃止」を一気に達成しようとした、血が滴る悪魔語。上杉慎吉流の「天皇に天皇制廃止の暴力革命を使嗾させる」革命術を分析した論文が、日本に一本だけある。中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』、中公叢書、192~200頁。本ブログの読者は一読されたい。

 第四。蓑田が、私と同じく「津田左右吉は共産主義者である/天皇制廃止狂徒である」と本心から思っているのなら、なぜ、1939年末ではなく、津田が『古事記及日本書紀の研究』を再刊し&全面改定版『神代史の研究』を出版した1924年時点で、津田攻撃をしなかったのか。1939年末とは、美濃部達吉が1935年に貴族院議員を辞し、翌年に暴漢に襲われ重傷を負った、この三年後だった。蓑田は、美濃部叩きで味を占め(売名と金を手にし)、二匹目のドジョウを求めて、津田叩きをやっただけではないのか。

(蛇足)上杉慎吉は、河上肇と並ぶ、先駆的な日本の共産革命家。が、この事実を認めないIQが極度に低い日本人は実に多い。上杉の二人の息子は、父親の洗脳教育で党籍ある共産党員になった。上杉の愛弟子の宮沢俊義は、フランス革命原理主義の極左憲法学者で学説が上杉と瓜二つ。上杉が共産主義者でないなら、宮澤俊義も共産主者でないことになる。日本は、こんなこともわからない馬鹿ばかりになった。

“反共演技の天才”近衛文麿は、スターリン直結のNKGB工作員&河上肇の愛弟子

 さて、津田左右吉に話を戻そう。津田左右吉は騙し上手で、相当な狸親父だった。彼は終生、「私は天皇制廃止論者ではありません。皇室を敬愛申し上げております」と、心にもない嘘を言い続けた。皇室を敬愛するなら、完璧に正確な歴史事実の記録文書(皇統譜)たる記紀に対し、讒謗と罵倒をこれでもかこれでもかと投げつけ真赤な嘘歴史を捏造することなど、万が一にもしまい。

 が、現実に1911年、天皇制廃止狂の幸徳秋水に対し、死刑が厳正に執行されたことは、天皇制廃止の極左人士に衝撃を与えた。それ以来、天皇制廃止を公然と口にする天皇制廃止論者は激減し、河上肇や三木清など極少数になった。おそらく天皇制廃止が活字階級の過半を風靡した大正時代・昭和前期時代、それを広言する者は1%程度だったろう。99%は、各自まちまちに“天皇制廃止論者ではありません”の偽装や演技に工夫した。このことは、上杉慎吉の高度な“転倒偽装”を思い出せば、十分だろう。

 また、ゴリゴリのマルクス・レーニン主義のGRUロスケ平泉澄のように、平然とマルクス史観を捩った皇国史観を振り回す強者もいる。あるいは、養嗣子・井田正孝(陸軍中佐、陸軍省軍務局)が昭和天皇を監禁脅迫する“8・14宮城クーデタ”に参画した(注1)、その父親である井田磐楠(男爵、貴族院議員)は、スターリン崇拝のGRU工作員で強度の共産主義者だったから、近衛文麿らがスターリンの命令で作った偽装組織「国際反共連盟」(1937年4月設立)の理事長に就任した。共産主義者が上着「反共」を着て大通りを闊歩する光景こそ、大正・昭和前期の日本における普通の光景だった。

(注1)中川八洋『小林よしのり《新天皇論》の禍毒』、オークラ出版、220~6頁。

 1928年の張作霖爆破から1945年8月15日の玉音放送までの十七年間の日本で、反共は昭和天皇のほかは吉田茂や若干名の内務省官僚ぐらいで、限りなくゼロ名に近かった。親英米ですら幣原喜重郎ら僅かしかおらず、反共と同じく、絶滅危惧種になりつつあった。1945年9月2日にGHQが日本で占領行政を開始したが、これによって竹山道雄や福田恒存や私のような保守主義者が初めて呼吸できる“正しき日本”がかろうじて復権した。米国は、多くの若者の犠牲を払って、日本国をスターリンの奴隷状態から解放すべく、神風となって日本に上陸してくれたのである。

 そもそも張作霖は反共反ソだったから、スターリン派遣のGRU/NKGBの工作員に爆破殺害された(四両目の天井に爆弾を設置、河本大作はこれを隠蔽する身代わり犯人)。蒋介石も反共反ソだったが故に、彼を殺害する一点を戦争目的としてスターリンと近衛文麿と毛沢東が共謀し、北支那四ヶ師団派遣(1937年7月)で始まる日中戦争を起こすことにしたのである。八年間の大東亜戦争も、反共・反ソ・反ナチ・親英米の昭和天皇を銃殺し天皇制度を絶滅させる目的で遂行された。

 1945年9月2日以前のこのような日本に、反共人士がいるなどあり得まい。仮に、いたとしても、反共を標榜することは殺害される危険が大だから、誰も口にすることは決してなかった。蓑田胸喜の「反共」が心にもない大嘘なのは、言挙げするまでもないだろう。

 なお、近衛文麿の天才的な「反共」演技については、中川八洋『近衛文麿とルーズヴェルト』(PHP)を参照されたい。

幕末~1946年、保守主義は、井上毅らの明治憲法と昭和天皇の元旦詔書のみ

 先に、以下のことを述べた。

「明治維新以降、日本における皇室尊崇・皇統護持の正統な保守文書は、A明治時代に起草・制定された井上毅が主導した明治憲法&明治皇室典範(1889年)、B明治憲法“無効”宣言である「国体明徴(=無天皇&無国会)(1935年)を筆頭にマルクス・レーニン主義と同体化した皇国史観やその母胎の水戸学などを全否定された昭和天皇1946・1・1元旦詔書、C中川八洋の皇位継承学七冊&記紀保守学一冊、だけ。この“皇室尊崇・皇統護持の正統な保守文書”のあまりの貧困さは、いったい全体、どうして発生したのか」。

 上記Bについては、おそらくあまり聞いたことがないだろうから、ほんの少し触れておこう。昭和天皇が、敗戦の翌1946年の元旦に渙発された詔書は、悪質な共産党と朝日新聞が、嘘ラベル「人間宣言」を張り付けたことにより、今では本当に「人間宣言」だったかに錯覚している日本人ばかりになった。三島由紀夫もまたしかり。彼の作品『英霊の声』に、「などて、すめろぎは人間(ひと)となり給ひし」があるが、この人間(ひと)は1946年の元旦詔書のことを指している。保守ではない“純粋民族系”三島由紀夫は、未熟で浅薄な人物だった。天皇殺しを生涯のアジェンダとした“赤いゴロツキ”林房雄との交流を含め、三島由紀夫の作品と行動の過半は日本国を害すること甚だしい。

 昭和天皇の1946年元旦詔書は、「岡田内閣の国体明徴声明(1935年)と文部省の『国体の本義』(1937年)を破棄せよ」&「“スターリンの犬”で“真赤な共産軍”帝国陸軍が専断した、1932年以降の日本の内政/外交/対外軍事行動を全否定せよ」と、保守主義者・井上毅が起草した明治憲法への回帰を日本国民に訴えた日本国再生宣言であった。国体明徴声明が明治憲法破壊を目的としたものであるのを、天才の昭和天皇は喝破されておられた。

 井上毅「明治憲法/明治皇室典範」と昭和天皇「1946年元旦詔書」を合本すると、バーク『フランス革命の省察』に相当する、日本国の偉大な保守主義の経典になる。元旦詔書の起案者は、帝国海軍随一の親英米派で突出した大秀才だった山梨勝之進・海軍大将。山梨は、海軍から左遷され学習院院長だったことと、学習院の英語教師ブライスがGHQに勤務する親日ヘンダーソン中佐と昵懇になったことから、突然、この「元旦詔書」が発出された。このあたりの経緯は、(竹山道雄の娘婿で保守主義者の)平川祐弘『平和な海と戦いの海』、新潮社、208~52頁を参照のこと。

 「昭和21年元旦詔書」は、次のように述べる。これを読んで、「『国体明徴』声明の全否定だ!」「『国体の本義』の全否定だ!」と直ぐに洞察できない三島由紀夫とは嘆かわしい無教養人だった。

「朕となんじら国民との間の紐帯 tiesは、終始、相互の信頼と敬愛 mutual trust and affection とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに生ぜるものにあらず」

「天皇をもつて現人神 the Emperor is divineとし、かつ日本国民をもつて他の民族に優越せる民族にして、しいて世界を支配すべき運命を有すとの、架空なる観念に基づくものにあらず」。

 「国体明徴声明」も『国体の本義』も、天皇をスターリンに置き換え、日本をソヴィエト体制に置き換えた“日本国は、第二の《理想社会》ソ連であるべきだ”の、狂気の主張。要は、日本が絶対神である“不死の独裁者”を戴く全体主義国家だとする、神懸かりご神託と言える。国体明徴声明は、「日本国における統治権の主体は天皇一身にあるとするのが、日本国の国体の本義だ」とする。が、これ、狂気のご神託。読むに堪えない。

 美濃部の平凡な明治憲法解釈の一つ「天皇機関説」は、伊藤博文名義の井上毅の『帝国憲法義解』通りだから、スターリン崇拝から演繹されたご神託“神聖なるわが国体”に比すれば、それに悖るのは必然となる。また、スターリン狂のドグマ“万邦無比なるわが国体の本義”を基準とすれば、正しい憲法解釈は過(愆)ったものとならざるを得ない。間違いを正解とすれば、正解が間違いとなるが、これが天皇機関説事件の核心。

 が、明治憲法第四条は「天皇は(三権の)統治権を総攬する(=統合される)」として、決して「統治権を占有する」とか「統治権を執行する」とはしていない。現に、第五条は、「天皇は帝国議会の協賛をもつて立法権を行う」として、天皇の権能は“立法の主たる権能機関”国会に制限され、(三権の一つ)立法権の直接行使を禁じられている。

 特に、明治憲法第五十五条は決定的で、国体明徴声明のデッチアゲ「統治権の主体が天皇にまします(=万邦無比のわが国体)」を全否定する。「すべて法律勅令その他の国務に関する詔勅は、国務大臣の副署を要す」と定めているのだ。スターリンやヒトラーのごとく、自分の署名一つで全ての法律・命令を制定公布していた独裁体制とは対極にある憲法、それが明治憲法だった。

 先述の「昭和21年元旦詔書」すら、内閣総理大臣・幣原喜重郎だけでなく各国務大臣がしっかと署名・花押している。天皇の詔書すら、天皇個人が渙発することはできなかった。これが明治憲法なのだ。美濃部達吉の憲法解釈は優劣の評価はあろう。が、正誤評価なら、「正」でしかなかった。

 ならば1935年の国体明徴声明は、何を狙ったのか。明治憲法の廃止、この一点であった。国体明徴声明が言う「国体」は、明治憲法が破壊尽くされ、スターリン型共産国になった日本を指していた。つまり国体明徴とは、「明治憲法を破棄しスターリン型共産国に日本国を革命せよ」の謂いだった。

 翌1936年2月26日のクーデタ『蹶起趣意書』も、「国体」をスターリン型共産国の謂いにしているし、レーニンの世界共産化ドグマ「ミール」を皇室語「八紘一宇」に置き換えている。「・・・は、万世一神たる天皇陛下のご統帥のもとに・・・終に八紘一宇をまっとうするの国体に存す」の文言は、それ。つまり、世界共産化をする政治体制に日本は革命しなくてはならない、の檄が蹶起趣意書だった。

 続いて、この翌年1937年、文部省教学局の赤官僚は、『国体の本義』を出版し、全国民に頒布した。頒布・宣伝方法は、ヒトラーの『我が闘争』を模した。

 『国体の本義』は、明治憲法の破棄と不在化を究極の詭弁を弄して国民を煽動し、明治憲法が遺棄されて、スターリンと化した独裁者・天皇か、独裁党に命じられるままのロボットになった天皇か、いずれかの天皇を担ぐ共産全体主義体制への革命を煽動する政治宣伝文書。そこでは、「スターリンと化した独裁者・天皇か、(赤い帝国陸軍や近衛文麿の大政翼賛会など)独裁党の言いなりロボットになった天皇を担ぐ」“日本の政治”を、“日本の国体”だと嘯いている。

 『国体の本義』第二編第四章「祭祀と道徳」の冒頭に、「我が国は、現御神(あきつみかみ)にまします天皇の統治し給ふ神国である」という文言がある。これは、昭和天皇がいたく逆鱗された文言の一つ。『昭和21年の元旦詔書』で、昭和天皇は、これを真っ向からご否定・糾弾された。 

 『国体の本義』については、いずれ改めて本格的に分析した論文を発表する予定だが、この論文の骨子は既発表。タイトル「『元旦詔書』は、《国体を絶滅せよ》声明」で、中川八洋『徳仁<新天皇>陛下は、最後の天皇』(2018年)の“あとがき” 348~57頁として収録している。

古代天皇“連続殺人”の津田の嘘歴史は、「昭和天皇を殺せ」を煽動し“8・14クーデタの元凶”に。

 『昭和21年の元旦詔書』を手に取ると、私は素直に感激が身を包む。井上毅起草の『明治憲法』『明治皇室典範』と共に、『昭和21年の元旦詔書』は日本保守主義の経典で、その精神を顕現するからだ。そして、この『昭和21年の元旦詔書』が渙発できたのは、マッカーサー元帥のGHQが日本占領中だったお陰。米国が太平洋戦争で、“真赤な共産軍”帝国陸軍を叩き潰して解体してくれたお蔭。寝ても覚めても「スターリン、スターリン」だった、共産主義思想に占領されていた、1928~45年の日本を、いったんは明治日本に戻してくれた米国の多大な犠牲とその親日一色の対日政策には、本当に感謝しても感謝し尽くせない。

 日本の1928~45年の十七年史は、「反共反ソの張作霖爆破(1928年)→5・15クーデタ(1932年)→国体明徴声明(1935年)→2・26クーデタ(1936年)→『国体の本義』出版(1937年3月)→大東亜戦争(1937年7月7日~1945年8月15日)→8・14宮城クーデタ」であるように、全てスターリンの手に操られて日本が踊り狂った十七年であった。そして、日本をして“スターリンの奴隷”“ソ連の犬”に改造・誘導したのが、無数の“極左の「右翼」団体だった。吉田茂は、代筆した「近衛文麿上奏文」(1945年1月)で、右翼と呼ぼうが共産主義であると、彼らの正体を喝破している。

 なお、学界では、これら“極左の「右翼」団体”を、「国家主義団体」or「国家社会主義団体」と呼ぶ。例えば、レーニン系無政府主義者・大川周明の猶存社などは、この一つ。

 内務省の東京帝大卒の反共官僚たちは、これら“極左の「右翼」団体”が標榜するイデオロギーが共産主義であることを、見抜いていた。かなり数多い調査分析レポートが残されている。なお、国家主義とは全体主義を指すから、分かり易くするため、私は事実通りに表現し、「右翼偽装の共産主義団体」としている。

(参考文献)

 1、内務省警保局『国家主義運動の概要』、原書房。

 2、『国家主義運動 1&2』、現代史資料4&5、みすず書房。

 戦前日本の共産革命十七年史は、A「反共保守の人物は一人も生かしておくな」、B「日本国を共産化する革命成就のためには、まず支那大陸を毛沢東に支配させ共産化しよう」、C「日本国の共産化はソ連軍に日本列島を無血占領させるのがもっと手っ取り早い(=本土決戦論)」が、トップ優先国策だったのを明らかにする。

 Aは、幸徳秋水の明治天皇暗殺未遂の大逆事件(1910年)から始まった。この幸徳秋水を継いだのが津田左右吉。津田左右吉は、「天皇のご存在こそ、日本共産化の最大の障害」「天皇を次々に殺していけば、最終的には天皇を失った日本は共産化する」と考え、古代天皇を次々に処刑せよのメッセージを、日本人に広く周知させようとしたのである。

 津田左右吉が『古事記及日本書紀の研究』で、神武天皇から開化天皇までの九代をまず殺害し、次に政務天皇・仲哀天皇・神功皇后を殺害しているのは、津田流の天皇テロル狂「さあ、次は大正天皇を殺せ! それに続いて昭和天皇も殺せ!」のメッセージだったのだ。そして、実際にも、この津田左右吉の天皇テロル狂は、1926年から日本で荒れ狂うマルクス・レーニン主義の大風靡と合体し、また日本人が吸飲し易くなる糖衣錠剤「水戸学」がブレンドされて、日本人「活字階級」の頭を徹底的にレイプしまくった。

 こうも言えよう。津田左右吉の“古代天皇《軒並みテロル》嘘歴史“が“赤い巨大機関車”となり、帝国陸軍共産主義“狂徒”派をして、「反共反ソの張作霖爆破(1928年)→5・15クーデタ(1932年)→国体明徴声明(1935年)→2・26クーデタ(1936年)→『国体の本義』出版(1937年3月)→大東亜戦争(1937年7月7日~1945年8月15日)→8・14宮城クーデタ」という狂気の大暴走に駆り立てた、と。

 一方、反共/反ソ/反ナチ/親英米の“日本のバーク”昭和天皇は、元旦詔書で「フランス革命狂の上杉慎吉→国体明徴声明→『国体の本義』」を断罪された。これには、津田左右吉の『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』が含まれていない。中川八洋『神武天皇実在論』は、“日本保守主義の金字塔”昭和天皇『元旦詔書』を補佐して、津田左右吉『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』の断罪・粉砕・抹殺に向かって、日本国民に「突撃せよ! 粉砕せよ!」と指し示す、“古代史歴史学の指揮杖”なのだ。

 諸兄には、昭和天皇『元旦詔書』と中川八洋『神武天皇実在論』を両手に、祖国を皇統護持の“保守主義の精神”で満ち溢れさせるべく、“悪魔の天皇テロル狂書”津田『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』を、剣を抜いて切り刻んで日本から影も形もなく消滅させて頂きたい。仮にも“悪魔の天皇テロル狂書”津田『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』が、日本から葬り去られないとすれば、狂気の赤い革命「反共反ソの張作霖爆破(1928年)→5・15クーデタ(1932年)→国体明徴声明(1935年)→2・26クーデタ(1936年)→『国体の本義』出版(1937年3月)→大東亜戦争(1937年7月7日~1945年8月15日)→8・14宮城クーデタ」が、これからの日本で繰り返され、日本国は滅び、地球から消える。                          

 中川『神武天皇実在論』が、精魂込めて津田左右吉“捏造歴史”に筆誅を加えているのは、学問における真実探求という学者の良心もさることながら、偉大で高貴なわが皇統の護持に嘘と狂気の捏造歴史が腐蝕剤的な害毒をもたらす以上、これを排撃するのは、この日本国に生を受けた日本国民としての世襲の義務だと痛感するからに他ならない。 

(2023年4月17日記)

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