今上陛下・皇太子“殺し”を信条とする山本信一郎(宮内庁長官)を懲戒罷免しない安倍晋三の“犯罪”

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筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 2001年4月、宮内庁は天皇制廃止のレーニン型共産革命官庁へと変貌した。“札付きの共産党員”羽毛田信吾が宮内庁次長になったからである。羽毛田は、2012年6月1日に退官するまで、天皇制廃止の策謀を法的制度化するのに、前例のない悪知恵を絞った。大きく二つある。

 第一は、女性天皇・女系天皇の導入。2004~6年、天皇制を蛇蝎のごとく嫌悪する小泉純一郎・首相が血眼になって全力疾走した。これが2006年9月に頓挫すると、羽毛田信吾は女性天皇・女系天皇と全く同じだが外目には一歩引いた形の「女性宮家」を導入すべく、野田佳彦・首相を誑し込んだ(2011年10月)。野田は2012年に入るや「女性宮家」の制度化に猪突猛進した。結果は尻切れトンボになったが、羽毛田が震源の“共産革命語”「女性宮家」は、広く国民の間に浸透し、測り知れないレベルの思想的害毒を日本に遺した。

 羽毛田信吾「天皇制廃止ソフト革命」の第二番目の策謀が、簡略化・簡素化である。具体的には、儀式祭祀(墓)の三つを標的とした「簡素化・簡略化」革命が、2012年を境に一気に加速されるようになった。羽毛田信吾の、過激な天皇制廃止の執念と悪知恵は、見事に軌道に乗った。

 例えば、“陵の簡素化・簡略化”については、羽毛田が退官前の駆け込みで、「陛下の意向」だと “半・詐称”して、「火葬を含めた、葬儀と陵の簡素化」をぶち上げた。附記を参照されたい。

 ここでは“簡素化・簡略化は、天皇制廃止に繋がる共産革命”なのを、しっかと理解してもらうことにしたい。要は、「女性宮家に絶対反対」は皇統護持に必要最低限の国民の義務だが、これと同じく、「《簡素化》反対、《簡略化》反対」は天皇制度護持に必要最低限の真正国民の行動である。

“賢帝”光格天皇の二度の「大パレード」は、バジョット『英国憲政論』の七七年先取り

 光格天皇は、二度も壮麗かつ盛大な行幸「大規模街頭パレード(御列)」──当時の語彙では「路頭の儀」──を実践なされた。この事において、実に稀有な大秀才の天皇であられた。このような威厳や壮麗こそ天皇が為すべき“属性の義務”の一つだとご理解できる卓見とその実践において、光格天皇は、室町時代から衰微いちじるしく困窮にすら遭遇せざるを得なかった、それまでの皇室経済を大幅改善し、朝廷と幕府の関係を一気に朝廷優位の権威回復にベクトルを転換なされた。

 第一回パレードは、まさに“スーパー大パレード”で、当時の江戸幕府は唖然と仰天した。これをもって光格天皇は、幕府内で一気に警戒されると同時に尊崇も集めた。実際に、光格天皇を敬仰する徳川一門や譜代大名が急増した。第二回の“譲位パレード”に全面協力した京都所司代・大久保忠真(小田原藩主、のち老中職を二十年間。仙洞御所に「一升石」11万ヶを献上)や、内裏研究を助成した尾張藩主・徳川斉朝らは、これらの氷山の一角に過ぎない。

 1790年11月22日、数え二十歳になられたばかりの光格天皇は、天性の大秀才ぶりを発揮された。この日は、(三年前に火災で御所が焼失したため)仮御所とされていた聖護院から新造の御所への還幸である。それを、江戸幕府に対する威圧効果抜群のものへ、そして都中の一般国民が一気に皇室への尊崇を沸騰させるものへ、活用する事にした。新御所遷幸の、歴史的に記録される豪奢にして壮麗かつ大規模な街頭パレードは、こうして実行された。

 正装で供奉するもの約1500名、騎馬100頭以上。光格天皇がご座乗される鳳輦を肩に担ぐ駕輿丁が54名、鳳輦を四方向から引っ張る駕輿丁各6名に御輿長8名を加え32名で総計86名。

 聖護院と内裏の距離は直線にして僅か2㎞だが、それでは街頭パレードにならない。光格天皇は(幕府や一般国民に)「見せる」街頭パレードを企図した。ために、わざわざ遠回りすべく、コースは聖護院からいったん東に向かいその後に直角に南下し、さらに西に直角方向転換して三条大橋を渡り、柳馬場通りを北上し境町御門から建礼門に向かっている。距離にして4㎞を越える。

 時刻と速度。行列は、先頭が午前8時に聖護院を出発し、行列の中央に位置する鳳輦が内裏に入ったのが正午頃。つまり、掉尾まで考えると四時間以上もかかっている。パレード時速はほぼ1㎞強。しんがりは、警備も兼ね、京都所司代の太田資愛(掛川藩主)であった。建礼門では、町人代表が裃で正装し正座してお迎えをした。

 そして、この街頭大パレードを記録すべく、大坂の絵師・吉村周圭に六曲一双の屏風絵を描かせている。むろん、1500名一人一人の顔と服をデッサンするので、行列の周りにくっ付きながら筆をとるアシスタント絵師は150名を優に超えただろう。ともあれ、この屏風絵があれば、その後、何かにつれて幕府側の要人に静かに見せるだけで無言の圧力(権威向上)になる。光格天皇の政治的判断力の高さは、尊号事件で論争した松平定信が小物に見えてくる。

 新内裏への光格天皇の「ド派手で大規模な“1790年還幸行列”」をふと思い出した時、二つのことが頭に浮かんだ。一つが、バジョットの『英国憲政論』。もう一つが、天皇は何をなすべきか/どうあるべきかの“天皇位”に対する意識や思想が、今上陛下は光格天皇と真逆であること。

 バジョットの『英国憲政論』をいくつか引用しよう。

「昨日の制度は、今日の制度として最上無類である。…尊敬を勝ち取るのに最も誂え向きのものである。昨日の制度だけが、この尊敬を受け継いでおり、新しい制度は、新しくこれを獲得しなければならないのである。人間の創った最も堂々とした制度は、最も古い制度である」

「英国の国体(憲法)は、歴史的な、複雑な、そして威厳ある演劇的部分をもっている。これは目には見えないが、絶大な力によって、被治者大衆を動かしている。その外観は、堂々たるゴシック時代の壮麗さを帯びて威厳をもっている」(以上、72頁)

「統治機構の威厳をもった部分は、機構に力を与えるとともに、その力を発させるものである。機能する部分(政府)は、その力を利用するに過ぎない。従って、統治機構のお飾り的な部分も必要性をもっている」

「民衆の尊敬の念を呼び起こし、これを保持する部分を、仮に威厳ある部分と呼ぼう」(以上、68頁)。

(備考)頁数は、『世界の名著』72、中央公論社。

 天皇制度(王制)の必要性と有用性を簡潔に論及した、実に見事な視点である。しかも、“天皇側が一般国民に対して(幹部分ではなく)枝葉の部分の制度はどうあるべきか”を示唆してくれる著作物は、二千年間もあったのに、実は日本にはない。日本には帝王学があるが、花園天皇の『誡太子書』のように、天皇の資質や徳性を高める/陶冶することに焦点を絞っているものばかり。

 桜の木に譬えれば、健康で病気をしない/虫がつかない桜の木に育つ事をもって帝王学としている。桜を観賞する者を惹きつけるには、花はどう美しく咲かせればいいか、若葉を美しく映えさせるにはどうするかなど、観賞者の心理をつかむことによって天皇制度そのもの安泰と永劫性を盤石にする思考や思想の理論は日本にはない。

 だが、光格天皇の1790年の大パレードは、満開の桜の花を一千五百本ほど同時に見せるがごとく、江戸時代の日本人に八百年以上の昔の平安時代の壮麗な美の絵巻物を眼前に繰り広げたのである。しかも、四時間にもわたって。

 この華麗なる美に包まれた「八百年以上の昔の平安時代の壮麗な美の絵巻物」を国民に提供できる光格天皇こそ、バジョットの言う「堂々たるゴシック時代の壮麗さを帯びて威厳」ある天皇だし、バジョットの言う「真の君主制になくてはならない神秘的な尊敬や宗教的な忠誠心が生じる感情」(67頁)を引き出せる天皇ということになろう。光格天皇は、バジョット『英国憲政論』(1867年)に先駆けること七十七年、『英国憲政論』の偉大な実践者であられた。 

畏れ多いことながら、光格天皇の「貢献」を破壊する、「簡素化」主義の今上陛下

 翻って今上陛下は、畏れ多いことながら、光格天皇とは真逆であらせられる。儀式重視の光格天皇に対して、儀式軽視の今上陛下。平安時代への回帰をモットーに伝統重視の光格天皇に対して、儀式の「簡素化」という名の、“儀式破壊”と紙一重の“儀式軽視”が日常の今上陛下。光格天皇とは余りに対照的。余りに相違がありすぎる。    

表1;畏れ多い事乍ら、光格天皇の御事蹟を全否定される今上陛下

 今上陛下はなぜ、光格天皇が最重視された“譲位パレード儀式”を踏襲しようともせず、弊履のごとくに無視され廃止なされるのだろうか。譲位パレードを実施するか否かは、皇室のこれからの運命を決定的に左右する。それほど重大な儀式である。儀式軽視や儀式破壊は、天皇制度不要論を爆発的に醸成する。が、今上陛下は“経費節約の方を、天皇制度消滅より価値を置かれておられる”と奏上申し上げざるを得ないのは誠に無念でございます。

 また、譲位・受禅の儀式は、平安時代から30回ほどを数える。そのいずれも、同日に行われている。今般初めて、「譲位が4月30日、受禅が5月1日」と、別の日にわざわざ分離。しかも、「譲位」ではなく、「退位」である。神武天皇から連綿の万世一系「王朝」を125代でいったん終わらせる共産革命なのは丸見え。5月1日、新しい王朝が「国民の総意」で始まったと擬制するためである。

 問題は、この天皇制廃止の策謀を見抜けるか否かではない。問題は、伝統に従っていれば、このような策謀が自然に排除されるのに、伝統に従わないが故に、畏れ多い事ながら、不敬を顧みず奏上申し上げれば、今上陛下は天皇制廃止の役割を担っておられることになります。マンドヴィル/ヒューム/ハイエクが喝破してきたように、確立した伝統には不可知なあらゆる叡智が凝集しており、人智の及ぶところではありません。伝統に正しく従って「退位→譲位」「譲位日は5月1日」とせよ、と安倍晋三総理と山本・宮内庁長官に命じるだけで、天皇制廃止の策謀は一瞬で吹き飛んでしまうのです。畏れ多い事ではありますが、このことを叡慮されますよう、恐懼しつつ奏上たてまつる次第です。

 伝統重視、それこそが、暗黒と嵐の太平洋上ですら、小舟の天皇制度と皇室を、未來に安全かつ安定的に導いてくれる唯一の羅針盤であり、唯一の探照灯でございます。

総勢807名“ご譲位大パレード”コース「紫宸殿南庭→宜秋門→建礼門→仙洞御所」

 今上陛下のご譲位に伴って必ず実行されるべき“譲位パレード”の先例は、ちょうど二百年前の1817年(旧暦)3月22日に行われた。現在の暦では4月上旬頃であろうか。ご譲位パレードについて、顔から血を滴らせる“悪魔の共産党員”山本信一郎(宮内庁長官)が、恐るべき真赤な虚偽「そのようなパレードは無かった」と政府部内と国民に撒き散らした。が、正しい歴史事実は、次の通り。

 まず午前7時、120名の駕輿丁が担ぐ鳳輦が御所(御常御殿)に到着し、光格天皇は紫宸殿に直行された。7時半頃、光格天皇は紫宸殿の殿上にこの鳳輦ご座乗のまま南階を上られ、次に殿上で出御され、十五分間程度の①剣璽に関わる何らかの儀式をなされた。午前8時、紫宸殿南庭に集合した総勢807名の大行列に出発をご命じになられた。

 御列は、そのまま南に直進し承明門・建礼門を通れば短時間で仙洞御所に着くのに、そうはせずに、承明門から逆に北上し宜秋門(唐御門)から内裏の外に出た。壮麗・華美な大パレードを京都市中から参集した武士・町人・僧侶に「拝見」させるためである。この②“ご譲位大パレード(=「路頭御列」という)”は、宜秋門通りを南下し東へ左折し建礼門通りを亀の速度で進んでいる。行列の速度を時速750㍍から1㎞と仮定。

 建礼門と対峙する側に、(所司代が提供設置した)「筵が敷かれた拝見桟敷」が設けられ、ここに数千人以上おそらく一万人前後の武士・町人・僧侶が拝見に集まった。皆、正装。町人は一帳羅を着ている。拝見席は幅250㍍/7列と算定。1㍍につき二人座ると仮定。この場合、正座で拝見できるのは約3500名。その後方に立ち見で約5000名を仮定。この日、大内裏の蛤御門など三つの門を、一般人に開放。

 紫宸殿南庭から、宜秋門経由で、仙洞御所の小御所までの距離は約1500㍍。時速1㎞なら所要時間は一時間半。時速750㍍なら二時間である。二時間かかったと仮定すれば、光格天皇が仙洞御所・御車寄の前にて鳳輦から出御されたのは午前10時。一時間半の行程であれば、午前9時半。

図;光格天皇ご譲位パレード

 ③譲位儀式は、午前10時から午後1時の間の一時間半ぐらいか。正確な時間は不詳。儀場は、仙洞御所内の弘御所(公式会議場)。参列する公卿ほか公家の数は意外に少ない。皇太子の名代は正親町大納言。正親町大納言は、紫宸殿の東階に見立てた小御所から儀場の弘御所に歩んだ。

 剣璽渡御の儀のため、光格天皇と共にあった剣璽は、午後2時頃、仙洞御所の唐門から内裏の建春門を潜り抜け内裏内に入り、天皇行幸御列とほぼ同じような“御列”で遷幸される。いったん清涼殿(「夜の御殿」)に仮奉安される。これより前、皇太子は、東宮御所(御花御殿)から清涼殿に遷幸されておられる。

 この清涼殿にて、関白が賀を奏して始まる④受禅の儀が執り行われた。具体的な記録が両天皇『実録』のいずれにもなく、詳細は不明。ただ、譲位儀式における皇太子の名代・正親町大納言の復奏や、宣命文に対する何らかの儀式を新天皇がなされたと推定できる。

 午後3時半過ぎ、清涼殿「夜の御殿」に仮奉安の剣璽が、新帝とともに紫宸殿に遷られる。約100名の堂上公家がこれに従い、移動する。そして、紫宸殿にて、➄剣璽渡御の儀が執り行われる。

 その終了とともに、剣璽は担当する公卿以下が前後を供奉して、御常御殿に遷幸し剣璽の間に奉安される。この間、新帝は清涼殿に戻られ、その“昼の御座”に御される。⑥御常御殿「剣璽の間」での剣璽奉安儀式を担当した公家も、むろん紫宸殿の公卿たちも、次々に清涼殿に戻る。

 清涼殿・東廂で、⑦饗宴(饗餐)の儀が執り行われるが、午後7時頃(酉半刻)には始まったと仮定して、間違いはないだろう。

 最後に執り行われる重要儀式が、⑧院司「折紙」の儀で、紫宸殿で執り行われる。これは、関白が清涼殿から抜け出し、仙洞御所に参上し、光格上皇から“院庁に勤める公卿7名/殿上人10名の希望人事名簿”(=これが「折紙」に書かれている)を給わり、紫宸殿南庭の承明門に戻り、“何らかの声を出し”、これに呼応して清涼殿・東廂に集合していた公卿・殿上人がいっせいに紫宸殿・南廂に移動。新天皇も紫宸殿の殿上の座に着かれる。折紙を回覧して、ここに名前が記されたものは南階から南庭に降り、紫宸殿に御される新天皇に向かって「この人事命令を恐懼して受けます」の意を示すべく、承明門辺りで拝舞する(殿上座の新天皇に向かって、公卿7名が右一列、殿上人10名が左一列の二列)

 この後、院庁の「長官」になる右大臣は、代表して仙洞御所に参上し、任命されたことへ御礼と新職務への決意を上皇に奏上する。この時すでに時間は深夜を過ぎ、午前1時に近かったとある。

 纏めれば、1817年3月22日の譲位・受禅の儀は、概ね次の八儀式で構成されていたようだ。

表2;ご譲位パレード優先が、譲位と受禅を別儀場にするほかなかった原因?

*印は光格天皇が臨御。・印は仁孝天皇が臨御

譲位パレードを全面抹殺した山本信一郎“世紀の大犯罪”は、新天皇毒殺の殺意?

 さて、“悪魔の共産党員”山本信一郎は、式部職や書陵部の職員なら知っている上記の“光格天皇ご譲位大規模パレード”をどう改竄したか。山本信一郎作『譲位・受禅の儀式史料を大改竄しよう』(表向きの真赤な嘘ラベル『歴史上の実例』)によれば、創作の核心は次の一文。

光格天皇は、譲位儀当日、内裏から鳳輦に乗り、上級官人約80人の供奉で仙洞御所へ移られ・・・。この際、築地塀内の公家や所司代の関係者からお見送りを受けたもので、公衆に披露する御列(パレード)ではない

 “公衆に披露するための巨大パレード”が、どうして「公衆に披露する御列(パレード)ではない」と逆さまになるのか。“パレード参列”がどうして「お見送り」になるのか。「総勢807名」という重要数字を、なぜ抹殺するのか。「堂上公家」を、通常用いることない奇語「上級官人」に摩り替えた他意は何か。

表3;国民が根本的に誤解すべく、山本信一郎が作為した大改竄・大歪曲

 山本信一郎は、なぜこれほどに空前絶後の虚偽レポートを、安倍晋三を騙すために内閣に提出し、その後、国民を騙すためにインターネット上に公開したのか。いや、その前に、宮内庁内部で,これほどの嘘を部下に書かせることができたのか。

 書陵部や式部職には『光格天皇実録』『貞観儀式』を正確に読める職員がいくらでもいる。人伝によれば、山本信一郎は部下に檄を飛ばし、『貞観儀式』『光格天皇実録』などジャンジャン改竄しろ、と激しく命令したという。その際、山本信一郎が宮内庁の関係職員に発した言葉が次だという。

「天皇制度は次期天皇(徳仁親王・皇太子殿下)で終わる」

俺の長官在任中に実現させて見せる

「秋篠宮殿下が即位されることなど、万が一もない」

「悠仁親王殿下の即位など空想も空想。現実には全くあり得ない」

「宮内庁も、遠からず消えている」「宮内庁がなくなるから、史料改竄/儀式破壊など恐れるな!」

「天皇制は廃止される。『貞観儀式』『光格天皇実録』は重要史料ではなく、ただの紙屑になる!」

「紙屑を改竄して、何か都合が悪いのか!!」

 上記の発言の中で、特に気になったのは二番目。それは、新天皇が山本信一郎・宮内庁長官の在任中に崩御されるとの謂いだから、「現皇太子殿下を即位後に殺害する」の決意表明ではないか。つまり、山本信一郎・宮内庁長官は、新天皇に対し「毒殺」or「事故死」を準備していることになる。

警視庁・皇宮警察は、山本信一郎とその周辺を、直ちに家宅捜査せよ!

 警視庁と皇宮警察は、山本信一郎に関して、緊急に二つの措置をとる必要がある。第二番目が京都大学法学部在学中(1969~73年)、「天皇なんか殺していいんだぞ」「天皇を殺したいな」等、山本信一郎の発言を、同級生等から収集すること。少なくとも京都府警の公安部に山本信一郎のファイルがあるので、それを取り寄せ、首相の安倍晋三に直接届ける事。決して、山本信一郎の“天皇制廃止同志”で凶悪コミュニスト菅義偉とは接触しない事。

 第一番目は、山本信一郎の自宅や周辺に対する家宅捜査をすること。様々な物的証拠が発見されるだろう。パソコンの押収が有効なのは、釈迦に説法。

安倍晋三よ、山本信一郎を直ちに懲戒罷免(免職)せよ!それとも安倍晋三も一味か

 天皇制度にとって、祭祀と儀式は命である。儀式が伝統と先例に沿っていなければ、このことによって天皇制度の基盤が揺らぎ崩壊する。山本信一郎は、この故に、譲位・受禅の儀式を絶滅させて破壊しようと企て、現実に平然と実行している。山本信一郎が長官として決裁し、内閣に提出した資料『歴史上の実例』(2月20日付け)は、まさにこの一端を暴露した証拠である。

 皇室と天皇制度を維持し守ることが宮内庁の職務で、その一つが宮内庁法第七条の定める「儀式」である。式部職に課せられたこの「儀式」の職務をこなすに、『貞観儀式』ほか数多くの歴史史料は史料ではない。公文書であるし、法規である。これが宮内庁と他の省庁との違いである。

 他の省庁ならば、【歴史史料は、遵守すべき法規かつ公文書】など、万が一にもありえない。だが、皇室2000年の歴史がそのレーゾン・デートルを顕現する以上、宮内庁にとって歴史史料は絶対的法規であり、依拠すべき公文書である。

 財務省が公文書毀損もしくは改竄で処分されたが、今般の山本信一郎の『貞観儀式』『光格天皇実録』の大改竄事件に対して、安倍晋三が懲戒免職を仮にもしない選択肢は、国家公務員法ならびに宮内庁法において、存在しない。安倍晋三が、総理として真っ当であるか否かは、いや「安倍晋三は、“極悪な反・皇室狂”山本信一郎の同志で天皇制廃止が秘めた信条である」が間違った噂に過ぎないと証明したいなら、山本信一郎を懲戒免するほかなかろう。   

(附記)今上陛下の質素(節約)主義が、共産革命「簡素化」「簡略化」と複合し、天皇制廃止を加速 

 2001年4月に羽毛田信吾が宮内庁次長に就任して以来、今日に至る、儀式、皇位継承、その他重要な皇室伝統に関わる制度的変革はすべて、いったん全面否定し、白紙にしなければならない。理由は、2001年4月からの制度的変革すべてが、天皇制廃止あらわな“改悪”革命だったからだ。このままでは天皇制廃止は阻止不可能になる。なお、羽毛田次長以来、表3の三名の長官は皆、学生時代は民青の活動家で共産党員である。

表4;宮内庁“共産党員長官”三羽烏──“共産党員”事務次官から次長を選ぶのが制度化した

 なお、女性天皇・女系天皇・女性宮家は、皇位継承の部門。譲位・受禅・立太子等は、儀式の部門。大喪や陵は、儀式&重要な皇室伝統の部門。

 ここでは、陵問題に少し触れておこう。羽毛田が、両陛下のご意向「陵の小規模化を望んでいる」と“半・詐称”して、葬儀の簡素化をぶち上げたのは、羽毛田が退官する一ヶ月前の2012年4月26日であった。“半・詐称”だと断定できるのは、両陛下は羽毛田信吾から徹底的に嘘情報を注入されて、この洗脳状態でこのご意向を漏らされたからだ。そのようなものを“ご意向”と言わない。

 両陛下騙しを朝飯前にやってきた羽毛田信吾が洗脳したのは、新聞報道「両陛下は、今後の天皇陵の用地の余裕がない事への懸念も示された」だけからでも明白ではないか。『朝日新聞』2012年4月27日付け。何故なら、八王子市の武蔵野陵墓地は47万㎡であり、昭和天皇陵・香淳皇后陵の4300㎡なら、百ヶも建造できる面積がある。もともと武蔵野陵は一千年間ぶんの天皇皇后の陵として大正時代に宮内省が購入したものである。それなのに、凶悪な共産党員の羽毛田は、数年に亘って両陛下に、「武蔵野陵は、とても手狭です」という真赤な嘘を吹き込でいた。

 さらに羽毛田は、「合葬すれば、面積が節約できます」とか「火葬にすると面積が節約できます」とも刷り込んだ。皇后陛下が「合葬?それを是非お願いしたいわ」と口にしたのを、これ幸いと記者発表した。だが、持統天皇が天武天皇と合葬されたケースを後で知り、“天皇でもない、皇族の血を継いでいない民間人が天皇と合葬などとんでもないこと”だとやっとお覚りになられ、皇后陛下は後任の風岡典之に取り消しの記者発表を頼む大失態を演じてしまわれた。このように羽毛田は、天皇・皇后や他の皇族が国民の顰蹙を買うよう、さまざまな策謀を巡らしてきた。

 そして、この2012年4月の火葬/大喪の礼/陵の簡素化キャンペーンが切っ掛けになって、「簡素化」が皇室を呪縛することになった。スローガン「簡素化」「節約」の恐ろしさは、“究極の簡素化”が天皇制廃止であるように、天皇制廃止をすれば最高の節約ができる/最高の簡素化ができる“転倒解決”に逢着することにある。現実に、2012年から僅か六年しか経たない2018年の今、譲位・受禅・立太子の儀式に「簡素化・簡略化」の嵐が吹き荒れ、天皇制度の基盤を溶解する突き崩しが本格化した。この問題、稿を改めて後日、徹底論及する。

(8月22日記) 

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