秋篠宮殿下の“壮麗な立太子パレード”が挙行されなければ、悠仁親王殿下の即位は99%あり得ず、天皇制度の廃絶が確定する  ──「次期天皇は、日本最後の天皇」の事態到来に無気力な日本人

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筑波大学名誉教授    中 川 八 洋

 光格天皇は、唯一、それまでの一千年続いた絶対先例、“紫宸殿で譲位・受禅儀式の同時挙行”をなさらなかった。そればかりか、両者を、仙洞御所と清涼殿と紫宸殿と、三ヶ所の儀場で執り行わられた。この先例無視の不可解な御決断に関する学術的研究は、当然に、これまで一つも無い。明治皇室典範が“譲位不可”を定めたため、譲位など決してないと考えられてきたからである。

第一節 譲位・受禅を三儀場にしても、譲位パレードを最優先された光格天皇の叡慮

 光格天皇のみ、平安時代からの数十ケースを無視して唯一例外的に、譲位・受禅の儀式を三ヶ所で執り行われた理由は、大規模にして壮麗な“ご譲位パレード”儀式を最優先されたことによる已む得ざる情況のためではなかったかと推定される。

 1817年、光格天皇は47歳であられ、現在の日本人体力でいえば二十五歳を加えると「72歳」に相当する。もし紫宸殿において「譲位・受禅の儀」「剣璽渡御の儀」を執り行えば、仙洞御所に還幸されるのは深夜になるため、体力的に無理と御判断なされたと思われる。現に、1817年3月22日、すべての儀式は午前0時半過ぎに終了した。ご起床の午前2時半頃からすれば22時間が経過した。

 現在の侍従長に当たる山科忠言(従一位、権大納言、筆頭議奏)は、午前2時には御所に参内し、御所住込み地下官人や女官を指揮し、7時の御出立の準備をさせている。

 さて、3月22日、光格天皇は、(おそらく午前2時半には起床され)午前7時に鳳輦にご座乗されて御所(御常御殿 おつねごてん)をご出立され、承明門を潜り、紫宸殿に行幸された。紫宸殿で剣璽に関する何らかの儀式を執り行われておられる。午後の新帝による剣璽渡御の儀式の前段に当たる。

 光格天皇の紫宸殿での剣璽渡御の儀式を仮に午前7時25~45分の二十分間とする。その後、紫宸殿南庭にて総勢807名が供奉する“前例のない大規模な譲位パレード(御列)”を隊列化して、午前8時に御列を出発させている。御列は、承明門を潜り、西北方向にある宜秋門に向かった。通常であれば、建礼門を通れば仙洞御所は目の前だが、それでは京都市中から集まった武士や町人の拝見者に「見せる」「魅せる」パレードにはならない。

 長さ五百メートルを超える御行列が、仙洞御所の唐門(正門)を潜り、その「御車寄」前にて光格天皇が鳳輦より下乗(「下御」)されたのはおそらく午前10時前であろう。パレード参列807名全員が仙洞御所の南側の広場に到着し揃ったところでしか、天皇の鳳輦からの下御はありえないからである。御列の先頭は9時半頃には仙洞御所内に着いているが、行列掉尾は午前10時前と推定される。

宣命文は当日起草。「譲位の儀」における儀式の慣行?

 仙洞御所には、内裏とは異なり、紫宸殿や清涼殿のような儀式を行える御殿がない。十分な参列者が侍立できる、それ相当に広い部屋もない。おそらく歌会などの催しをされる広間「弘御所」において、「譲位の儀」は執り行われたと思われる。ために、午後の紫宸殿での「剣璽渡御の儀」ならびに夕方からの「受禅の儀」(「饗宴の儀」や「院司《折紙》の儀」を含む)が執り行われた清涼殿/紫宸殿に参列した上級公家の総数に比すれば、極めて少ない。記録されている公家高官だけを挙げれば、「譲位の儀」では15名、「受禅の儀」では約80名。

 先帝の光格天皇は、紫宸殿での剣璽渡御の儀式(の前段部分)を早朝に終えていたので、新帝も剣璽渡御の儀式(後段部分)を紫宸殿で行ない、剣璽渡御の儀式は紫宸殿のみ。分離されていない。

 紫宸殿での「剣璽渡御の儀」のため、剣璽が仙洞御所から内裏に還御しなければならないが、それは午後2時直前。とすれば、「譲位の儀」は、宣命文起草その他の準備を含め、午前10時半から午後1時半の間だろうと推定。

 尚、マイナーなことだが、光格天皇の「譲位の儀」では、譲位の宣命(せんみょう)文をこの儀式の直前に仙洞御所で起草した。ために、「譲位の儀」は、午前10時半過ぎに開始されたようだ。

光格天皇と新帝・仁孝天皇は別個に、紫宸殿で「剣璽渡御の儀」を挙行

 3月22日の剣璽の動きは、次の通り。なお、剣璽は天皇と同格であり、敬語は全く同じ。

1、午前7時、御常御殿から光格天皇と共に、承明門を潜り紫宸殿に渡御。ここで剣璽に関わる儀式

2、午前8時から午前10時までの間、光格天皇のパレードと共に、仙洞御所に渡御。

3、午後2時直前、剣璽は仙洞御所をご出発され、建春門を潜り紫宸殿の日華門を通って南庭に入り、紫宸殿の西側からいったん清涼殿の「夜御殿」に仮奉安。この剣璽の内裏還御に当たり、仙洞御所から清涼殿まで筵が敷き詰められている。かなりの規模の行列で、「行幸のごときであった」と記されている。

4、「譲位儀式終了」の報をもって、皇太子は東宮御所(「御花御殿」)から清涼殿「昼御座 ひのおまし」にお出ましになられている。 譲位儀式の皇太子名代・正親町大納言は、東宮御所で、そのご命令を何らかの儀式をもって、午前9時前には給わる。

5、午後3時過ぎ、剣璽は新天皇とともに清涼殿より紫宸殿に遷幸。

6、紫宸殿にて「剣璽渡御の儀」。午後3時半過ぎから午後5時半の間と推定。

7、「剣璽渡御の儀」の終了と共に、公卿以下の相当数が供奉して、剣璽は紫宸殿から御常御殿に遷幸。紫宸殿から御所までは、筵を敷きつめる。

8、御所に還御された剣璽は、「剣璽の間」に何らかの儀式をもって最終的に安置。午後6時と推定。

光格天皇による“譲位・受禅の儀”儀場は、「紫宸殿➙仙洞御所➙紫宸殿・清涼殿」

 光格天皇・皇太子のご譲位・ご受禅の儀式は、表1に示すように、「パレードの儀(路頭の儀)」を含め、大きくは四つからなる。四つの儀式の最後が、上皇の院庁の人事(院司 いんのつかさ)発表。そして、四儀式終了後に、関白が仙洞御所の光格上皇に「全て終了」のご報告。続いて、左大臣等も儀式の無事終了を上皇に賀す「お祝い」の奏上。そして、最後の最後になるのが、院庁の長官(「別当」)に任命された右大臣が「立派に勤めを果します」と畏み奏上。時刻は深夜零時を過ぎ、ほとんど午前1時に近かったとある。

 光格天皇は、ご起床が午前2時半とすれば、実に22時間ほど(何度も着替えておられるが)正装であられたことになる。天皇は、相当な体力をお持ちでないと、その“位”に伴う行為をこなすことが難しい。              

表1;1817年3月22日の、四儀式とその儀場

 表1にある「折紙」とは、上皇の希望人事を書いた人事辞令要望書。院庁の長官に右大臣、副長官に花山院中納言、局長クラスに権中納言/源中納言/四辻中納言、部長クラスに三名の四位別当。全体で17名を、光格・新上皇は、新・天皇(関白が代行)にご希望されておられる。上皇には朝廷の人事権はなく、折紙を通じて天皇に指示されるのが慣行。

 関白が夜遅く清涼殿を抜け出し仙洞御所に赴き折紙を光格上皇から拝受し、「承明門の外で簡単な儀式」をして、紫宸殿に急ぎ戻ったのは、「院司《折紙》の儀」を紫宸殿で新天皇の臨御において行うためであった。院司に命じられた公家は、紫宸殿の南階を降り南庭を通り抜け、承明門の外側で紫宸殿に向かい公卿一列/殿上人(四位と五位)一列になって、新天皇に拝舞して退出した。

第二節 秋篠宮殿下に皇位継承を絶対にさせないと定めた、天皇制廃止法「特例法」

 以上は、前稿と前々稿の補足である。光格天皇は、譲位・受禅の御代替わりをもって、「朝廷-幕府」関係を劇的に変革させようとした。実際にも、光格天皇の御聖慮(狙い)はずばりと的中して、幕府に対する朝廷の権威は急騰した。実際にも、とりわけ、ご譲位パレードの威力は想像以上のものとなり、光格天皇ご譲位の1817年から僅か五十年後に幕府は倒壊した。光格天皇の政治的才能は、畏れながら“すごい”の一語に尽きる。

 さて、ここからが本稿のモチーフ。特例法によって、天皇制廃止は次期天皇を最後とすることで、そう遠くない近未来に決行される。確度は99%。すなわち、秋篠宮殿下の即位もその皇子・悠仁親王殿下の即位もまずありえない。特例法がそう定めているからだ。以下、改めて、その要点を記す。本稿のモチーフである第三節を理解するに不可欠な基礎知識だからだ。

 第一は、秋篠宮殿下は、皇太弟=皇太子ではない。これは“秋篠宮殿下に皇位継承させない”と定めたに等しい。皇太子でなければ、皇室典範第11条が定める自動的な践祚・受禅はできず、皇室会議がその皇位継承につき再審議できる。皇室会議は、定員十名中、皇族は二名で事実上オブザーバーである。なぜなら、皇室典範は、三分の二以上で決すると定めているからだ。

 すなわち、七名の非皇族の臣下が談合すれば、皇嗣である秋篠宮殿下の皇位継承第一位の順位を下げることができる。脅迫して皇族から追放することも可能である。そして、菅義偉・官房長官や山本信一郎・宮内庁長官は、矯激な共産主義者であるから当たり前だが、この凶悪な犯意をもって、秋篠宮殿下を「皇太弟」としなかったのである。

 こんなことも知らない一般国民とは、無責任な愚鈍階級に過ぎない。また、日頃、皇室尊崇を売りにして政治団体活動をする日本会議もまた、極度な無学無教養ぶりを剥きだして、この天皇制度の廃止を定めた特例法に驚く事すらできない。皇嗣は、「皇位継承第一位」を意味する抽象名詞。皇太子/皇太孫/皇太弟のように、皇位継承第一位の、不可侵の“位”を示す語彙ではない。すなわち、「皇嗣」と「皇太子/皇太孫/皇太弟」とでは、その地位は、天と地ほどに異なる。

 菅義偉と山本信一郎と内閣法制局の“共産党三羽烏”は、現在の皇太子を最後に天皇制を廃止すると定めた特例法を起草した。特例法は、安倍総理が国会で無風・無議論で通過させたいとの本末転倒で危険な要望が公言されていたから、つまり特例法は国会で審議なしで原案通り国会を通過すると定まっていたから(=特例法を、天皇制度廃止法にしていても糾弾されない/修正されないのが事前に定まっていたから)、菅義偉と山本信一郎と内閣法制局の“共産党三羽烏”は、皇太子を皇室典範補遺(=特例法)で禁止的な不在にすると定めた。これによって、次期天皇をもって天皇制度は消滅するほかなく、天皇制度は次期天皇で終焉する。特例法は、そう明記していると解釈されるからだ。

 しかも、この皇太子の禁止と不在を制度化すべく、実際にも宮内庁法を改悪し、「東宮職」を全廃した。秋篠宮殿下は「東宮」でないと、宮内庁法は特例法をダメ押し的に条文化した。要するに、これらの法文規定で、秋篠宮殿下を“奇語妄語”の「皇嗣殿下」と呼ぼうとも、秋篠宮殿下は所詮、その第一位皇位継承権を皇室会議がいつでも剥奪できる一宮家に留めおかれたのである。

 女性宮家を創設し、愛子内親王殿下を形式的であれ宮家当主とするだけで、秋篠宮殿下の皇嗣は一瞬にして揺らぐ。その時、秋篠宮殿下の皇位継承順位を下げるだろうことは、火を見るより明らかなこと。もし、秋篠宮殿下がこれに抵抗すれば、皇室会議が同殿下の皇族の身位をすぐさま剥奪するだろう。少なくとも特例法は、そのように定めている。悠仁親王殿下が御即位される可能性は、1%以下であろう。

第三節 立太子儀式の中パレード最優先した時のみ、皇位を継承できる秋篠宮殿下

 この特例法の定めを転倒させる方策が、ただ一つだけある。光格天皇の叡慮に学ぶこと。すなわち、天皇制度が強制消滅される危機から脱する智慧は、唯一、光格天皇のみから授けられ、他策はないと覚悟する必要がある。

 光格天皇は、“中世・近世の君主”というより“近代の君主”であられた。一般国民の尊崇心とか忠誠心とかを政治的に重視するなどということは、それ以前の天皇にはなく、まさに時代を先駆する天皇であられた。日本最初の“近代的な君主”は、明治天皇ではなく、実は光格天皇というべきであろう。現実にも、明治維新後の日本を西洋化に牽引し英国ヴィクトリア女王を範とした明治天皇には、光格天皇の影が濃くちらついている。

 特例法が秋篠宮殿下の皇位継承権を剥奪する準備法である事実は事実として、今、日本国民はしっかと直視する必要がある。オーストラリアの駝鳥のごとく、危機に面して目をつぶっても危機は去ってはくれないし、危機を回避することもできない。

 すなわち、秋篠宮殿下の皇位継承権第一位を不動にして不可侵の盤石にする、そのための特例法の非法を粉砕できる方策を採ればいいのである。それはまず、国民がこぞって秋篠宮殿下は「皇太弟」であると確信する事。また、国民が一致して解釈「皇嗣殿下=皇太子」を常識と化しておく事。問題は、国民にそう確信させ、そう常識化させる方法などあるのか、に尽きよう。

 答えは、ある。それが、立太子パレード。天皇・皇室のパレードは、英国の王室でも同じだが、国民との精神的・感情的つながりや絆を形成し、かつ決定的に鞏固にする。これを日本で最初に発見し最初に実践したのが、1790年の光格天皇であったし、1817年の光格天皇であった。

 秋篠宮殿下が、1952年11月に挙行された、父帝・今上陛下の立太子パレードを再現されれば、国民にとって秋篠宮殿下は皇太弟であると確信しそれが常識となる。この確信と常識が、特例法に潜ませた猛毒薬物「天皇制廃止特効薬」を浄化する。

 ちなみに、今上陛下が成人の十八歳になられた1952年11月10日の立太子パレードは、馬車三台という荘厳にして華麗なパレードであった。その光景写真は、たまたま私が所蔵しているものをあげれば、『朝日新聞 夕刊』1952年11月10日付けや『週刊朝日』1952年11月30日号などにある。

 この立太子パレードのコースは、渋谷の仮・東宮御所を御出発になられ、青山通りを赤坂見附に向かい、内堀通を虎ノ門へ、そして警視庁前から祝田橋、最後が皇居・正門石橋/二重橋を渡り仮宮殿であった。

 秋篠宮殿下は、この父帝・今上陛下と全く同一の立太子パレードを、馬車かオープンカーいずれでも結構ですが絶対に挙行されますよう、畏れ多くも恭しく恐懼しつつ、切に言上申しあげる次第でございます。序に、『朝日新聞』1952年11月10日付けの写真を図1、『週刊朝日』1952年11月30日号の写真を図2に掲載しておこう。

図1;『朝日新聞 夕刊』1952年11月10日付け

図2;『週刊朝日』1952年11月30日号

(8月31日記)

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