シベリア強制奴隷労働(のスターリン命令)承諾者は、種村佐孝/阿南惟幾/近衛文麿──瀬島龍三は「107万人」シベリア連込み実行犯

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筑波大学名誉教授    中 川 八 洋

  “ロシアの「対日」大犯罪”シベリア強制連行・大量殺戮をうやむやにすべく、周到に仕組まれた“1991年4月ゴルビー嘘数字”拡散工作の後、この“世紀の非人道犯罪”の更なる隠蔽の念押しの一環で、エリツィンのロシアが仕掛けた対日謀略(偽情報撒布)の一つが、1993年、“KGB直轄”産経新聞に命令して実行された、斎藤六郎対瀬島龍三の八百長論争の大キャンペーン。

斎藤の誤読“虚報”を報道し、瀬島に反論させ、トルーマン米国大統領に責任転嫁する“産経の狡猾”

 本稿では論及順序を、「斎藤《誤読》虚報」(「附記」参照)からではなく、時系列を逆にする。斎藤への「反論」の形で瀬島龍三が公然と書いた真赤な捏造嘘歴史は、ロシアKGBが隅々まで支配する日本の学界に劇的に深く浸透した。そこで、まず、瀬島“真赤な捏造歴史”から俎上に乗せる。1993年12月1日付け『産経新聞』に掲載された、瀬島「産経エセー」である。瀬島は、こう書いた。

「シベリア抑留の原点(嘘1)は、1945年8月23日の国防委員会に基づく、スターリンの次のようなワシレフスキー元帥に対する秘密指令である。《極東/シベリアの環境下での労働に適した日本軍捕虜50万人を選別する》。・・・」

「この背景には、(嘘2)スターリンが望んだ北海道の北半分の占領をトルーマン米国大統領から断られたという事情があったのである。それは、八月中・下旬の米ソ秘密外交文書から窺い知れる」(注1、丸カッコ内中川)

 瀬島龍三は、旧帝国陸軍の中でも際立つトップ大秀才だけあって、「産経エセー」で、真赤な嘘をさらりと二つ捏造。第一の嘘。「シベリア強制奴隷労働」は、1945年1~2月、モスクワを単独訪れた瀬島龍三に、スターリンが直接命令したのではないか。瀬島は、この重大事実を隠蔽するため、1945年8月18日の、トルーマンの北海道北半「ソ連占領」拒絶に対する、スターリンの「しっぺ返しのシベリア強制奴隷労働」という、余りに馬鹿げすぎる荒唐無稽な歴史偽造をぶち上げたと考えられる。

(備考1)瀬島は、GRUロスケ秦彦三郎(東京の陸軍参謀次長)と共謀し、モスクワに重大な密命を帯び、(ロシアに入る外交官並びに軍人は“ふたり一組”が絶対ルールなので)1944年12月25日、アリバイづくりのため多くの目撃者がいる、東京駅を「最上健」と一緒に発ち、モスクワには1月21日から2月5日頃まで滞在している。日本大使館は、前半一週間については把握しているが、後半の一週間については、シベリア鉄道で日本に帰国したと思い込んだ。が、瀬島が帰路ウラジヴォストークに着いたのは2月11日。モスクワ周辺の某所から列車に乗ったのは2月5日頃。なお、東京駅を出る時に一緒だった満鉄社員で偽名「最上健」は、満洲里からシベリア鉄道に入った直後、列車から引きずり降ろされ、ソ連側に拘禁された模様だが、その後は全く霧の中(備考2)。

 つまり、1945年1月下旬から2月上旬の一週間、日本側の誰にも知られず瀬島龍三は、単独で二つの重大な仕事をしたようだ。第一の仕事は、ソ連軍の満洲侵攻の具体的プランをソ連地上軍参謀部で協議。ソ連軍の主力がモンゴル・トムスクから興安嶺を越えて怒涛の如く満洲に襲い掛かることを知り、それに協力すべく、実際に瀬島は同年7月、関東軍参謀となり、関東軍の興安嶺側配備を希薄にした。第二の仕事は、スターリンに直接呼ばれ、日本敗北後、捕虜の関東軍将兵全員をシベリア奴隷労働に使役する旨を通告され、その協力に同意したと推定される。もしそうなら、これは密約

 なお、スターリンは、ソ連軍が日本列島全土に進駐占領した後の、日本のソ連傀儡政権の独裁者に、瀬島龍三を据える予定だった、と考えてよい。その時は、野坂参三/徳田球一/宮本顕治らは御払い箱で粛清(殺害)されただろう。1945年5月以降に東欧諸国に次々と樹立された共産党政権の独裁者は全員、それまでの各国共産党指導者ではなく、スターリン子飼いの「在ソ」共産主義者。北鮮の金日成も、朝鮮の共産主義者たちが全く知らない人物だった。地元産の共産党指導者がそのまま独裁者になったのは、毛沢東ひとり。

(備考2) 「最上健」は、ウラジヴォストークで帰路の瀬島と合流し日本に帰国したか否か、瀬島は語らない。偽名パスポートなので、ソ連側が殺しても、外務省は追跡できない(救出できない)。瀬島は、ソ連に入った所で「最上健」をソ連に殺害させるため、不必要な偽名にしたものと思われる。そもそも「クーリエ二人組」制度は、外交官か軍人に厳格に限定されている。満鉄社員でほとんど新入社員の民間人「最上健」は前代未聞。瀬島は、東京駅で見送りに来た人々に、「私服の軍人」か「新入りの外交官」かに紹介したはず。

種村起案の四月「戦争指導大綱案」は、二月二十二日立消え「戦争指導大綱」とは、がらりと異質

 「日本人の大量労働を、スターリンのロシアに提供する/献上する」ことについて、瀬島龍三と昵懇だった種村佐孝(参謀本部戦争指導班長)が、参謀本部&陸軍省の正式文書「戦争指導大綱・陸軍案」の草稿を起案したのは、1945年3月末~4月冒頭。この文書は、4月18日までに梅津参謀総長&阿南陸軍大臣の決裁を終えている(注2)。つまり、種村が「戦争指導大綱」を研究開始したのは、1945年3月。瀬島がモスクワから帰任した2月24日以降。注目するに値する。

 種村「戦争指導大綱・陸軍案」の中にある文言「速やかに徹底せる対ソ外交を行ひ、戦争の遂行を容易ならしむ」の(注3)、八文字「徹底せる対ソ外交」が、日ソ軍事同盟の締結を意味していることは、専門家筋の定説。が問題は、“どうやってスターリンに日ソ同盟条約を締結させるか”の方策。これについて陸軍はどんなプランを考案していたかの資料や論文を、私は不勉強で見たことがない。

 なお、1945年「戦争指導大綱案」には二つある。注意のこと。一つは2月22日に立ち消えになったもの。もう一つが、この種村佐孝起案。双方の差異は、注4。この隠語的表現「徹底せる対ソ外交」、スターリンが欲している「領土の割譲」「奴隷労働力の提供」で、日ソ軍事同盟条約締結は可能だとの、ほぼ全員がGRU工作員だった陸軍参謀本部のコンセンサスを指すと考えてよい。このことは、近衛文麿・酒井鎬次が1945年7月13日に書き上げた「スターリンへの和平交渉要綱案」及びその「解説」から推定できる。

 この近衛・酒井「要綱案」の「解説」に、領土は、南樺太と得撫島以北のクリル諸島をロシアに割譲するとあるから(241頁、注5)、満洲の対ソ割譲は(書くまでもなく)自明と言うこと。また、「労務を提供する」とも明記している(239頁、注5)。和平後の米国や蒋介石がそのようなものを欲しないのは誰でもわかるから、「労務提供」がソヴィエト・ロシアに対してなのも自明。

 要は、近衛・酒井の「スターリンへの和平交渉要綱案」及びその「解説」から、阿南陸軍大臣が同意した種村佐孝の「戦争指導大綱・陸軍案」の「徹底せる対ソ外交」の具体的中身が、おのずと浮かび上がり、その輪郭を現す。すなわち、ロシアへの奴隷労働力の提供は、陸軍が1945年4月18日には正式決定したものを、同年7月13日の近衛・酒井の「和平要綱案」が追随したと解しうる。「戦争指導大綱・陸軍案」も「近衛和平要綱案」も、スターリン8月23日「50万人強制連行」命令の前。スターリンは、日本の「戦争指導大綱・陸軍案」「近衛和平交渉要綱案」に基づき、その実施をワシレフスキー元帥に命じたことになる。

 なお、瀬島龍三と種村佐孝とは昵懇で、毎日でも会っている仲。そればかりか、種村佐孝は、近衛文麿邸に入り浸っていた。

 瀬島龍三は、日本人将兵のシベリア強制奴隷労働はスターリンの8月23日ワシレフスキー元帥への命令が「最初だ」などと、見え透いた嘘をつき、陸軍「戦争指導大綱」&近衛文麿「対スターリン和平交渉要綱案」を隠蔽したのである。以上の事柄を、表1に時系列的にリストした。

表1;シベリア強制奴隷労働(殺戮し放題)は、表向きは、「日本側の対ロ提案」に擬装

種村佐孝は、“大量殺人鬼”辻政信の奇人性と似た精神異常者で、その行動は奇々怪々であった。

 ソ連軍の満洲・北鮮侵略の開始の直前、8月5日、GRUロスケ種村佐孝は、(参謀本部や陸軍省のエリート将校は、好き放題に自分自身の人事を行うことができたので)朝鮮軍参謀部の参謀になり、北鮮に飛び、8月9日の開戦とともに、日ソ両軍が対峙する戦場で自らソ連軍側にゆっくりと歩いて逃亡した。事前打ち合わせが無ければ、戦場だから機関銃で蜂の巣になる。種村とソ連軍とは、ツーカーの関係であったのが、これでよくわかる。

 ソ連軍に加わりたく、わざわざ、ソ連軍占領下の満洲に戻ったGRUロスケの朝枝繁春も、種村と行動が全く同一。両名は、“俺様は、ソ連赤軍の将校だぞ”と意識していただけでなく、実際に、ソ連軍で「参謀」に扱われた。

 蛇足。喜んでシベリア抑留された朝枝、種村、瀬島、志位正二(志位和夫の伯父)ら十一名は、ウランバートルにあった日本共産革命リーダー養成所の、ラストロヴォフ教官の「特別学生」で同期。朝枝は帰国後、日共に入党した。志位正二の正体は、ラストロヴォフ亡命事件(1954年)で発覚したが、日本の法的不備から逮捕をうまく逃れた。しかし、志位は、1973年シベリア上空で、ロシアKGBに毒殺(口封じ)された。草地貞吾は、ラストロヴォフが教官の、この日本共産革命リーダー養成所の「学生」には選ばれなかった。頭が悪すぎ使えないとみられたようだ。

北海道北半要求は、ヤルタ秘密協定の相手国・米国へのプラスα要求。トルーマンは即座に拒否

 さて、瀬島龍三の嘘2を検討する。

 スターリンは、8月16日、“対日開戦の代償としての対米密約”ヤルタ秘密協定にはない、プラスαの、北海道北半の占領を米国トルーマン大統領に要求した。トルーマンは、同18日に拒絶を回答した。が、講和会議で帰属を定めるという条件付きで、日本領土である全クリル諸島の暫定的“占領”を認めるとの妥協を、拒絶回答に添付した。

(備考)1945年8~9月の米国は、①「国後/択捉/千島諸島」は、ポツダム宣言の「諸小島」であり、日本領土だと認識していた。②しかし、俗語と国際法上の名称を区別できないアホバカ軍人(マニラに来た陸軍の降伏軍使)の誤情報から、「国後・択捉は《南千島》で、クリル諸島の南部」とも誤解した。すなわち、米国国務省内に、「国後/択捉/千島諸島は日本の領土」と「国後・択捉のみ日本の領土」の二説が混線した。スターリンのみ、日露間の条約定義「クリル諸島」は、“得撫島以北で、国後・択捉を含まず”と正しく理解していた。

 この、トルーマンの不必要な添付で、スターリンは「シメタ!」と、8月28日、追加侵略部隊を国後・択捉侵攻に急行させた。国後・択捉で、9月5日まで戦闘が続いたのはこのため。③なお、民主党のトルーマンは“むかつく”ヤルタ秘密協定をサンフランシスコ講和条約で公式に破棄しようと考えており、ために共和党&反共・反ソのフォスター・ダレスを講和会議の米国代表にした。ダレスは、1951年秋、対日講和条約を批准する上院で、「この講和条約でルーズベルトの対スターリン《ヤルタ秘密協定》が、名実とも死んだ」と説明した時、上院の議場は万雷の拍手に沸いた。それはトルーマンの“1945年4月からの悲願”が達成された瞬間でもあった。

 この米ソ間の北海道北半要求の拒絶が、どうしてシベリア強制奴隷労働に早変わりするのか。瀬島龍三の荒唐無稽な歴史捏造は(上記引用の嘘2)、歴史捏造で印税を稼ぎまくった“世紀の大嘘つき”西尾幹二もびっくりのレベル。

 それはともかく、スターリンは、初めから想定内「北海道北半占領要求のトルーマン拒絶」の代償として、まだ兵を進めていなかった国後・択捉の占領(=国際法を否定するロシアにとっては「領有」)という大ボーナスを手にした。スターリンの対米「8月」外交は大勝利になった。スターリンの日本人シベリア強制奴隷労働力の獲得は、対日「1~7月」外交の大勝利だった。

1945年8月のジャリコーヴォではなく、「同年1月のモスクワで」なら、瀬島龍三“密約”はありうる。

 少しばかり、1945年8月19日のジャリコーヴォにおける、敗戦側の秦彦三郎・関東軍総参謀長/瀬島龍三・参謀らと、戦勝側のワシレフスキー元帥らとの、停戦交渉について触れておきたい。なぜなら、帰還したシベリア強制抑留者を中心に、「シベリア強制奴隷労働は、瀬島龍三とワシレフスキー元帥との密約だ」との、お門違いの間違いが広く蔓延しているからである。

 シベリア強制奴隷労働の計画や遂行は、No.2のベリアが独裁する内務省グラーグの所管であり、軍は関係できない。また、ロシアでは軍は官制的には内務省より下。命令されたことをするだけ。ワシレフスキーは、107万人の日本人男児をシベリア鉄道に乗せ、命令された通りの収容所に降ろすのが職務。それ以上のいかなる権限も持っていない。

 一方、瀬島がワ元帥にジャリコーヴォにおいて命令され、即座に了解したのは、(樺太と千島を除く)関東軍70万人と男狩りの一般邦人20万人のシベリア強制連行を抵抗されずに円滑に運ぶべく、「うまく騙せ」一点の実行だけであったろう。実際に秦や瀬島らは、「ポツダム宣言第九項に基づき、日本に帰還することになった。ソ連軍側の指示に従い、列車に乗れ」を、各師団長に通達・命令した。

 なお、ジャリコーヴォでの停戦交渉について、ワ元帥の通訳(「副官」ではない)を務めた“日本語達者”コワレンコの回想は、その概要を伝えている。ミクロには虚偽が多々あるが、マクロでは瀬島より嘘がはるかに少ない。瀬島は事実の根幹を完全隠蔽しなければならないが、コワレンコは戦勝国側として自分を美化・英雄化するだけで済むからである。用心して読めば、役に立つ(注6)

 以上を纏めれば、1993年7月の斎藤六郎“誤読”虚報から、1996年4月の「斎藤・瀬島論争」へのコワレンコ「判決書」までの登場人物「斎藤六郎/瀬島龍三/コワレンコ」は、ロシア属国・日本を舐め切ったロシアKGBの脚本に従った見事な“八百長三人芝居”をやっていたことが鮮明。その舞台を提供したのが、KGBが所轄する産経新聞と共同通信社。これ等の偽情報に振り回される日本人は、結果、シベリア強制奴隷労働で殺された60万人英霊の無念を引き継ぎ対露“復讐”を誓う倫理道徳の精神を、自ら腐食させ破壊し消し去った。代わりに、厚生省の嘘数字「5万5千人」を信じ、ウソ墓詣をして外貨をロシアに貢ぎ、それでもって幕引きを図っている。倫理も道徳も人間の心も失った一億日本人は心底から、ロシアの奴隷になったというより、それ以下のロシアの家畜に成り果てた。

 現に、“敵国人ロスケ”安倍晋三は、日本国の領土すべてロシアに献上し、日本人のロシア家畜化を進めているが、一億日本人の中で私以外、安倍晋三に怒る正常な日本人はもう一人もいない。

ワシレフスキー元帥への草地貞吾/朝枝繁春「ゴマスリ上申書」の、斎藤六郎の誤読はKGB命令

 斎藤六郎の馬鹿げた誤読を、1993年7月5~6日、『産経新聞』を筆頭に、NHKや『朝日新聞』等は、(共同通信の記事として)在京のKGB東京事務所からの命令に唯々諾々と大々的に報道した。日本の新聞・テレビで、ロシアKGB第一総局の命令に抵抗し、日本国民騙しを潔しとしない、主権国家の矜持とか報道の自由を守ろうとする、健全性がある普通のマスメディアは、1933年の国際連盟脱退以来すでに八十六年間、“ロシアの属国”日本国には一社も存在しない。

 小学校卒の斎藤六郎が欣喜して騒ぐ、「シベリア強制抑留は、侵略ソ連軍と関東軍が密約して起きた、その証拠を発見したぞ」の“証拠”だと詐称する文書二点は(注7)、中学一年生が読んでも、シベリア強制抑留とは一切関係が無い。いずれも、在満洲の一般邦人を、関東軍は野良猫・野良犬同然に満洲に棄民するとの誓約書で、関東軍の将兵についても同様に満洲に棄兵するとの提案書。

 なお、この二文書は、草地貞吾・朝枝繁春が“三流ロスケ”で、“超一流ロスケ”瀬島龍三や“一流ロスケ”美山要蔵/服部卓四郎/松村知勝と異なることを示す。草地・朝枝は、ロシア満洲占領が一時的で、満洲をすぐさま毛沢東の中共軍に渡すことも知らない。それでも、この二文書は、東京の陸軍省・陸軍参謀本部の、満洲邦人の棄民/在満洲日本将兵の棄兵と言う、地獄の閻魔様より残虐な非人道性を明らかにする。また、「大東亜戦争は、ヒトラーのユダヤ人殺戮を規模百倍に拡大した、一億日本人皆殺しが戦争目的だった」事を証明する証拠ともなっている。

 さて、ここで問題。斎藤六郎は、本当に誤読したのだろうか。それともロシアKGB第一総局が「誤読した振りをしろ」と斎藤に命じたのだろうか。私は、後者だと考えている。

 1991年ゴルビー来日以降のロシアKGBは、シベリア強制抑留に関する“実際の歴史事実”「1945年1月~7月の、《スターリンの命令→瀬島龍三→種村佐孝→近衛文麿》」を徹底隠蔽するため、まずは“架空の嘘歴史”「1945年8月19日、関東軍と現地ソ連軍が密約して、強制奴隷労働をすることになった(文書を発見)」に摩り替える偽情報を日本に流す。これはまた、瀬島龍三に反論させ、“世紀の捏造”「シベリア抑留は、トルーマンに責任がある」を宣伝させることができる。

 現に、“ロシアKGB新聞”産経新聞社は、北海道を守ったトルーマンにシベリア強制奴隷労働の責任を転嫁する“瀬島龍三流の真赤な嘘偽りを訂正削除せず、ロシアKGBの命じるまま、そのまま収録した『幾山河』を、彼の「産経エセー」発表直後から社あげて執筆し、1995年12月に出版。

 次に、以上の1993年~5年までの、日本国内での侃々諤々の“シベリア強制抑留をめぐる責任のなすり合い情報合戦”の後、厳かに「真相はこうだ」と、コワレンコは大裁判官かのごとく「判決」を日本に下す。このコワレンコ「判決文」が、丸ごとKGB組織に組み込まれている共同通信社が出版した『沈黙のファイル』。それは、瀬島龍三『幾山河』出版のすぐ四ヶ月後、1996年4月であった。

 

1、瀬島龍三『回想録 幾山河』、産経新聞社、224頁。瀬島「産経エセー」全体は、221~4頁。

2、種村佐孝『大本営機密日誌』、芙蓉書房、281頁。

3、『終戦工作の記録』下、講談社文庫、141頁。

4、1945年の新・戦争指導大綱案には二つある。その考えは全く異なる。2月22日に立消えた「戦争指導大綱案」は、吉田茂が1945年1月に代筆した『近衛上奏文』(近衛文麿は一文字も書いていない)が指摘したのと同じ趣旨の「日本、スターリンのソ連、毛沢東の中共の三ヶ国で、米国との戦争を継続して勝利する」を前提。一方、四月の種村佐孝案は、表向きは意味不明な隠語「対ソ外交徹底強力推進」一本槍。この間、ドイツの敗北は濃くはなっているが敗北しておらず、海外軍事情勢に変化なし。瀬島がモスクワから帰任し、参謀本部に戻った2月24日が、最大の変化であろう。なお、両「戦争指導大綱案」は、佐藤元英『御前会議と対外政略3』、原書房、116~20頁を参照のこと。

5、仝上、239頁、241頁。

6、『沈黙のファイル』、共同通信社、164~180頁。

7、二文書の骨子は、“斎藤六郎の同志”白井久也の『ドキュメント シベリア抑留』(岩波書店、271~4頁)に収録されている。293頁まで読むと、斎藤誤読を擁護する白井の破綻した詭弁が面白い。

(附記)スターリン命令「50万人の日本人奴隷労働力」は、「50万人の拉致・強制連行」ではない

 厚生省は、ロシアKGBから命じられるままに、シベリアに強制連行された日本人数を50万人減らし、同時に「殺戮」死亡日本人数を56万人減らす、歴史改竄のトンデモ嘘数字を、政府公式数字にデッチアゲた。この数字改竄に当り、厚生省は、スターリンの「8月23日50万人・・・」を崇拝し拝跪している。

 スターリンは、「日本人50万人の奴隷労働力調達」を命令したのであって、命令されたベリア内務省は、死亡率50%や銃殺率10%等を加算して、ワシレフスキー元帥に「107万人拉致」を命じたのである。「107万人の強制拉致連行」が無ければ、「50万人奴隷労働力」の確保はできない。

 

参考1;前稿で「山下静夫は、KGBロスケ画家」と指摘した。が、もう一人のKGBロスケ画家・木内信夫を指摘し忘れていた。木内の作品は、舞鶴引揚記念館に展示されている。舞鶴引揚記念館は、在京ロシアKGBが背後で運営する“《日本殺し》対日平和工作”拠点の一つ。その収蔵資料は図書館的に保存せねばならないが、日本は国益上、舞鶴引揚記念館を直ちに閉鎖する必要がある。同館がユネスコ2015年「記憶遺産」登録となったのは、プーチンがユネスコに命じた結果ではないか。

参考2;日本の総理には、KGBが多すぎないか。

表2;日本の総理の過半は、敵国人ロスケか、過激社会主義者

(2019年10月16日記)

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