「ご即位パレード」を狂信共産党員・河西秀哉の人民主権論で讒謗報道したNHK──日本人の皇室敬仰は二千年間不変の自然感情で永遠

筑波大学名誉教授    中 川 八 洋

 NHKに対して高市早苗・総務大臣が、厳しく対応している。当然のこと。NHKの政治報道は、共産党細胞によって牽引・支配されており、日本国民を“暗黒の共産日本づくりの革命”に誤導するのを“社是”とする。日本が真に日本国たらんとすれば、「反・日本」のNHKそのものを存在させてはならない。言うまでも無かろう。

 その意味で、高市早苗のNHK対策は、むしろ生ぬるく甘すぎる。総務省は、NHKを解体(民営化)する方針を確固と持つべきだろう。また、その決断の実行こそが日本国の担当官庁として、総務省の当然の職責履行。総務省は、NHK解体民営化の責任を片時も忘れてはいけない。

(即位御列は午後3時。が)2時頃から共産党員・河西秀哉に“皇室讒謗”教宣させたNHK

 NHKは、パレード開始(午後三時)より一時間ほど前から、共産党員ゲスト三名と雑談する、実況放送とは言えない、全く不必要な「怪しげな」報道をしていた。まさにNHKらしい「他意がいっぱい」の生中継。その中心人物が、“パレード侮辱”“皇室讒謗”をぶち上げた、名古屋大学“札付き共産党員”河西秀哉

 つまり、NHKは、共産党員ゲスト三名に天皇制廃止の教宣(アジプロ)させるのを目的に、パレード前に奇々怪々な“詐称”「生中継」を企画したことになる。他の二人は、クリスマス・ソング「赤鼻のトナカイさん」を思い出す御厨貴。及び、無名の“お馬鹿”ハーフ・モデル(二十歳、共産党員活動家の娘?)

 御厨貴は、河西秀哉の革命同志と思われたくないのか、いつもと異なり、抑制気味だった。無名の女子学生ハーフ・モデルは、お馬鹿丸出しを免罪符に、皇室と天皇を尊崇する善男善女日本人に対し露骨な侮蔑的発言に繰り返していた。

 以下は、記憶に拠って文字化するので、videoをお持ちの読者に訂正をお願いする。コミュニスト河西秀哉は、次のような“一見あほらしい、お粗末雑談”で化粧した、実は「周到に計算された天皇制廃止の革命プロパガンダ」を嘯いていた。

「スマホを頭の上にかざしても許される事が、国民と皇室の距離感が縮まった変化である」

「これまでは天皇皇后陛下(昭和天皇や現上皇・上皇后陛下)が国民を元気づけられてこられた。が、令和の時代には、国民が新天皇・皇后両陛下を元気づける」

「これまでの皇室とは異なり、皇室から国民への一方通行ではなく、皇室と国民がお互いに発信し合う。つまり、国民は、皇室に受け身ではなく、能動的に動いている」

 実際にも、NHKの女性キャスター(名前を誰か教えて! 共産党員であるのは間違いない)は、ご即位祝賀パレードに熱烈に歓喜する“熱狂する”日本国民を揶揄し、「皇室と国民の距離が縮まった。皇室は国民に身近なものになった」と、悪意の黒煙が立ち昇る“反皇室・反日本国”の解説をした。

共産党は、皇室侮蔑標語「開かれた皇室」を、「国民との距離が無い皇室」に衣更え

 平成の御即位の時は、新聞をめくれば一目瞭然だが、共産党の“天皇制廃止スローガン”「開かれた皇室」が、大々的にキャンペーンされた。尊貴は、一定以上秘められていることを必要とする。著名寺院にある御宝の秘仏・ご本尊は、ほとんど開帳されることはない。故に、尊いのである。

 天皇・皇后・皇族と言う身位は、その身位から神秘なる尊貴を放たれるが故に、国民は敬仰する光栄を頂けるのである。雲の上に輝く太陽のような後光を放たれるが故に、お宮に参詣するのと同じ敬虔と清浄に、我々日本人が包まれるのである。

 日本国民が自然に湧き懐く、デカルト的な理性を超える敬仰の自然的感情という真理を、洗脳という犯罪的人為で破壊尽す、まさに“敬仰する自然感情=真理”を剥奪するために考案された、悪魔の麻薬語が、六文字スローガン「開かれた皇室」。この六文字魔語は、平成即位式の1990年には絶大な威力を発揮した。がしかし、共産党製六文字革命語「開かれた皇室」は、三十年の時を経て、いつしか色褪せ、その麻酔・麻薬効果は半減した。

 そこで共産党は、「開かれた皇室」と全く同じ麻薬だが、ラベルを貼り替え、新スローガン「皇室と国民の距離が縮まった(=縮めろ!)」に天皇制廃止標語を衣替えした。衣更えだから、衣の下の鎧は同じ。「開かれた皇室」と「皇室と国民の距離が縮まった(=縮めろ!)」は、全く同一。両者とも、皇室の尊貴を破壊し、国民が敬仰しない“引きずり降ろされた皇室”に心理的に革命するのが目的。

 この問題、バーク『フランス革命の省察』を紐解きながら、解剖のメスを入れる。が、その前に、NHK“アジプロ中継”問題から、朝日新聞の天皇制廃止詭弁キャンペーンに目を転じよう。

朝日新聞は、部落解放同盟・大澤真幸/北朝鮮人・原武史/共産党員・河西秀哉

 朝日新聞は、「即位祝賀御列の儀」に対する讒謗・誹謗を、革マル派の過激暴力革命家・大澤真幸を使って、翌々日の11月12日付けで“誹謗中傷”大奇弁を展開した。部落解放同盟に所属し、狂信的なルソー教徒の大澤真幸は、「皇室に対して日本国民は生まれた時から何となく存在してきた価値として共感を集めてきた」との前提を仮定し、次の天皇制廃止へのハーメルンの魔笛を吹いた。

「だが『何となく』支持するという空気は危険だ。空気が変な方向に流れた時に、誰も責任がとれない。我々にとって天皇とは何か。女性・女系天皇の是非や天皇の人権の問題・・・。」

「天皇制を続けるかどうか、続けるならどんな制度にすべきか。国民(「共産主義者と北朝鮮人だけが国民」―中川注)改めて考え、選ぶべきだ。」(『朝日新聞』11月12日付け、34面)

 一瞬アホらしくてコメントする気にもならない駄言と思ったが、天皇制廃止への血塗られた刃が潜む恐ろしい狂妄言説。日本国民としての「皇室護持」義務を果たすべく、批判する事にした。

 通常の正常な日本国民は、皇室や天皇制度を「支持する」ことはしない。狂っていない健全な日本人は、祖先が二千年以上も繰り返してきた通りに、皇室とは尊崇をもってひたすら奉戴する。支持・不支持から超然の、「初めに奉戴ありき」である。

 そもそも“奉戴すること”は、「支持すること」ではない。「支持」は、選挙で国会議員を選択する際の政治用語。皇室“奉戴”とは異次元の言語/異次元の行動で精神の作用。この意味で、大澤真幸は、言語を適切に使えない“言語錯乱の病気”を病んでいる。

 また、天皇制度は、「続ける」「改めて考え選ぶ」次元には無い。永遠に奉戴し続ける高貴なる義務を、日本国に産まれたと同時に、日本国民は歓喜においてひたすら履行するのみ。そこでは「考える」など、馬鹿げた隙間は存在しない。健全な感情は、デカルト的思惟を門前払い的に排斥する。

 だが、脳内が赤インクでいっぱいの大澤真幸は、天皇制度を、「止めようか」「続けようか」の選択肢がありうる、朝のランニングや毎朝飲む健康食品と同じだと錯誤する。マルクスとルソーで狂気に生きる“革マル派”大澤真幸は、健全な感情が形成されていない。その上、狂った思考しかできない。

 われわれ健全な普通の日本人にとって、皇室奉戴は自分自身の人格の一部である。皇室奉戴を通じて日本人は、人間としての健全な人格となる。天皇制度を護持するかしないかは、政治的選択の問題ではない。日本人が人間として健全になるか、野獣のような野蛮人になるかの、人格や人間性の問題である。

 なお、『朝日新聞』は、大澤真幸「妄言」を掲載した同日付け33面に、三万人が参加した11月9日の即位祝賀「国民祭典」における、万歳三唱の熱気について、これを罵詈讒謗で中傷している。この中傷記事では、北朝鮮人・原武史と共産党員・河西秀哉が登場。この記事の分析は、附記。

バーク:「《国王を敬仰する》自然的感情こそ、美徳と智慧を人間の精神に結合させる」

 私のような凡人の前座はここで引っ込み、真打の天才バークに登壇願おう。バークはこう語る。

(英国民は、気狂いどもが跳梁する革命フランスと異なり)感情全体を、相も変わらず産まれたまま丸ごと、ルソーなどの狂った凶悪イデオロギーに汚染されず、維持しています。英国民は神を怖れます。畏敬の目で国王を仰ぎ見ます。・・・・・貴族に対しては尊敬の眼で見上げます。なぜでしょうか」

「心の中で、《何故そうなのか》と考える前に、自然に心がそのように動かされるからです。これ以外の感情は、嘘偽りで、英国民の自身の心を腐敗させ、英国民の根本的道徳を損ない、英国民を“道理に適った自由”に対する不適合者にしてしまう」(注1)

 バークはまた、11月10日に日本国民がこぞって天皇皇后両陛下の即位パレードに熱狂した、全国の一般国民がそれを“共感”した事について、こう語っている。

「英国の思想家・知識人の多くは、共通の偏見(備考)を退けるどころか、そうした偏見の中に漲る潜在的智慧を発見するからです。彼らは、偏見の上着を脱ぎ棄て“裸の理性”の他は何も残っていない(=大澤真幸のような、ルソーの「平等」を狂信する狂気の理性)よりも、理性を伴った偏見(=自然的感情)を継続させる方がはるかに賢明だと考える」(注2)

(備考)「偏見」とは、「自然に心がそのように動かされ、畏敬の目で国王を仰ぎ見る、そんな自然的感情」を指す。

 バークは、“国王を敬仰する偏見”をもって、「時効の制度は改変してはならない。王制の永遠化という正しい不変の政治真理の基盤になっている」に、限定しない。バークは、偏見が人間が持つべき美徳とか知恵とかに人間の精神をカップリングさせてくれる、と説く。天才の中の天才の洞察力は、凡人のレベルでは到達できない。

「危急に際しても、偏見(国王を敬仰する自然的感情)は即座に機能します。人間の精神を、予め確固たる智慧と美徳の道筋に従わせておいてくれるからです。危急に対処する際、偏見こそが、懐疑や謎解きや不決断で躊躇させ遂には抛り出すようなことを阻むのです。偏見が、美徳を人間の習慣にしてくれるのです。偏見が、脈絡のない支離滅裂な行動を抑制してくれるのです」(注2)

日本民族の日本国消滅(天皇制廃滅)を妄想の河西秀哉はなぜ、「象徴天皇制」を騒ぐ

 さて、11月10日の御即位パレードに罵詈讒謗を浴びせるべく、NHKが登壇させた“共産党員の猛毒ワル”河西秀哉に話を戻そう。河西秀哉は、六流学者にも括れない劣悪な准教授。名古屋大学・共産党細胞が合格とした河西の博士論文は“少し分厚いエセー”の類。何らの学術性も皆無、という噴飯物。日本の大学では、共産党員と北朝鮮人は、どんなひどい論文以下でも、直ぐ博士論文が認められる。

 河西秀哉は、高校の時から、共産党民青で「うたごえ運動」を担当していたようだ。それはともかく、河西秀哉は、近現代「天皇制度」史に関する“共産党歴史捏造三羽烏”の一人。この分野での“共産党歴史捏造三羽烏”とは、「冨永望/松尾尊兊/河西秀哉」を指す。冨永望の『昭和天皇 退位論のゆくえ』も松尾尊兊『戦後日本への出発』も、嘘歴史と言うより、捏造歴史/改竄歴史のオン・パレード。日本はせめて、かつての常識「歴史学界から共産党員を一掃追放しなければ、国滅ぶ」ぐらいは復権しておく必要があろう。

 冨永望については拙著『徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇』第六章、松尾尊兊については同じ『徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇』第八章、で分析している(注3)。これらを読めば、河西秀哉の歴史捏造手法が、容易にわかる。また、河西秀哉の特段に昵懇な先輩には、森暢平や吉田裕ら、札付きの共産党員ばかり。北朝鮮人の原武史とも仲がいい。

 さて、NHKの「11・10」中継報道で、「象徴天皇制の研究者」と何度も紹介されていた河西秀哉には、確かに、それを冠する本が二冊ある(2010年、2018年)。両書とも学術性ゼロの粗雑なエセー集。歴史学の書には括れない。しかし、一橋大学の“共産党員細胞のボス”吉田裕は、同一カルト宗教団体の信者同士の“褒め合い”露わに大絶賛した書評を、共産党機関紙『しんぶん赤旗』2018年7月15日付けに掲載(2018年の方)

 さて、河西秀哉の著作はすべてエセーの類。学者の作品と見做すに程遠い。とても批評できるシロモノではない。プロの一流歌手ならすぐ批評できるが、素人のど自慢大会の出場者の歌を批評するのが困難なのと同じ。それでも無理を押して、ほんのさわりを以下、述べる。

 博士論文の一部をなす、河西秀哉のエセー雑文集『近代天皇制から象徴天皇制へ』から漂うのは、三名の狂信的マルキスト/共産主義者の影。地球放浪者の人生で「自国」がなかったベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』、やっと2012年に95歳で死んだ“マルクス主義の化石”エリック・ホブズボームの『創られた伝統』、マルクス狂アルチュセールの研究者で「国民国家」解体論/「国民」破壊主義を信条とし“非・日本国民”の旗幟に生きた西川長夫の『国境の越え方』。

 つまり、『想像の共同体』『創られた伝統』『国境の越え方』をブレンドした土壌から芽を出した“擬装と畸形の天皇制廃止論”の河西秀哉『近代天皇制から象徴天皇制へ』の背後をまず先に捉え、後に対象作品「内容」のミクロ考察をしないと、正確に的を射た把握はできない。

 「国民国家など、イマジネーション(想像)であって実態ではない」とするアンダーソンの仮構と(マルクス『共産党宣言』のドグマ通り)「国家や民族に伝統など不在」「ナショナリズムはいずれ消える」のホブズボームのマルクス狂信を信奉する以上、河西秀哉は、“民族国家”である日本国の存続はあり得ないと妄想しているし、この妄想・幻想において“天皇制度の消滅”を祈祷していることは間違いない。そして、過激な国境破壊主義者の西川長夫とは、自らが日本国籍を有することを自己嫌悪する(サイードと同様な)“国家意識が完全に消えた生来の地球放浪者”だから、この西川に共鳴する河西秀哉が、日本国も日本国民も消えた“多民族が雑居共生の日本列島”を夢想しているのも間違いない。

 このように日本国が解体され多民族の雑居共生する地球の一部となり、日本民族の文化も精神も蒸発した情況においては天皇制度など廃滅しているが、これを理想だと妄想する河西秀哉は、なぜ、(消えていく、いずれは存在しない)「象徴天皇制」なる五文字を、鉦や太鼓でぶちあげるのだろうか。

 「象徴天皇制」と言う五文字に、河西秀哉が、究極の「天皇制廃滅」の五文字を観想していることは間違いなかろうが、これ以上の分析は本稿の任ではない。以下、割愛。

共産党語「象徴天皇制」は、人民主権論に基づく”天皇制廃止一歩手前“革命標語

 ただ、河西秀哉には、もう一つの政治的目的があるように思える。健全なる日本国民ならば、警戒するだけではなく、この政治的目的での著作活動・言論活動をする河西秀哉を早急に粉砕し始末するのが賢明というものだろう。

 五文字魔語「象徴天皇制」は、共産党系の憲法学者が流布せしめた、国民を天皇制廃止に向かわせるため、「元首ではない、象徴に過ぎない」と天皇を貶める革命語。1987年までは、「象徴天皇」と言う語彙は、一般の日本人が知らない、共産党の周辺だけの特殊語だった。このことについては、拙著『徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇』第七章を参照されたい(注4)

 しかも、「象徴天皇」とか「象徴天皇制」など学問的には成立しないから、憲法学的に容易に粉砕でき一掃できる。そうならないのは、真っ当な憲法学者が私一人しかおらず、共産党系&宮澤俊義系の憲法学者が学界の九割を超える超絶対多数であるため。さらに、憲法学解釈を学問ではなく、選挙の当落と同じ、多数決で決める日本の野蛮的惨状を“咎める/慨嘆する”一般日本人もゼロという事態も現実。

 話を河西秀哉に戻す。共産党は、用心深い革命組織。どんな些事でも安易な安心はしない。五文字魔語「象徴天皇制」は、一気に平成時代に日本で定着させるのに成功した。しかし、嘘憲法学からの捏造であることにおいて、この成功には安心できないと考えている。そこで共産党は、歴史学的にもこの嘘で塗り固めておこうと考え、河西秀哉に、「歴史学的な嘘を、重ね塗りせよ」と命じたのではないか。

 こう背後関係を推察すると、大学一年生が書いたかのような粗雑限りない低級劣悪エセー集に過ぎない、河西秀哉の「博士論文もどき」に基づく“お粗末”書籍が、NHKを動員してまで全国宣伝された理由が少しは氷解してくる。

 

(附記)即位祝賀「国民祭典」における“万歳三唱の熱気”に対する、朝日新聞の罵詈讒謗

 11月12日付け『朝日新聞』33面に、見出し「《陛下万歳》 何度も」という、新天皇陛下への「万歳三唱」を罵倒的に誹謗する、『朝日新聞』のアクドイ女共産党員が書いたトンデモ記事があった。正常な新聞なら、「皇居前広場における11月9日の祝賀奉祝“国民祭典”で、参加した三万人が感激と歓喜の余り、皇居正門石橋にお立ちになられた両陛下に対し、万歳三唱を16回も連呼した」と、事実をありのまま報道する。

 だが、この悪意いっぱいのトンデモ記事の見出し後半は、「感想は《不気味》」。つまり、朝日新聞は、我を忘れて「万歳三唱」が止まらない善男善女日本人を、何か得体の知れない犯罪予備軍であるかに讒謗する、「朝日新聞こそ犯罪新聞」の正体をさらけ出した。

 「感想」とは、「三万人国民祭典」をテレビ視聴しただけの、参加していない者(天皇制廃止を目論む非・国民)がSNSにupした声を指す。世論調査で集計された、統計学的に“有意の国民の声”ではない。つまり、各表現は、一億三千万人のうち数人か一人。この数人か一人を、朝日新聞は、さも国民の数百万人や一千万人を超える声だと詐称したことになる。朝日らしい針小棒大化の情報操作。

 なお、朝日新聞が挙げたSNSの声とは、①「子供が気味悪がっている」②「なんか戦前ぽくって、すごく怖かった」③「即位はめでたいけれど、別の言い方ないの」他。簡単にコメントをしておこう。

 ①について。“子供にどんな教育(躾)をしているのか。親が日本人でない証左ではないか”。②について。“戦前の万歳三唱を知っているということは、1945年時点、十二歳前後だから、現在八十六歳前後。それが、なぜ、二十歳前後の言葉遣いなのか。これは明かに朝日新聞等の創作”。③について。“在日と共産党員のみに限り「万歳三唱」に違和感・嫌悪感を懐くことは承知。だから、「万歳三唱に反対」等ならば、SNSの声としてありうる。が、表現「別の言い方ないの」は、実に不自然。この朝日新聞「女共産党員」記者の自作自演の可能性が高い”。

 さて、ここで、札付きの天皇制廃止の大学教員が二人登場する。一人は、共産党員・河西秀哉。もう一人は、北朝鮮人の原武史。原武史のコメントは「お二人(天皇・皇后両陛下)の受け止めを考えず、いつまでも万歳を続ける様子が異様だった」。異様なのは、思想も人格もひん曲がっている原武史、お前だろう。「両陛下もまた、感極まって万歳三唱を止められない皇室尊崇の真正日本人の万歳三唱を、嘉賞なされた」と、なぜ素直に推測できない。原武史は朝鮮人だから、古来から天皇が国民に対して無限の愛を注がれることがわからない。

 例えば、1931年11月19日の夜、鹿児島湾を南下する軍艦「榛名」の甲板から指宿の山々に篝火、海岸には薩摩半島の村人が総出で松明を掲げて奉送しているのを、昭和天皇は、御みずから望遠鏡で発見し、そのまま暗闇の甲板に直立不動で御挙手・敬礼され続けた。むろん、真暗闇のなか、村人から陛下の尊影は見えない。陛下もまた村人の姿を捉えることはできない。が、片や松明を振り、片や敬礼挙手、これこそは、日本国における、古来から二千年間変わらぬ天皇と国民の心(精神)の絆を表徴する(注5)

 河西秀哉は、「万歳三唱十六回」の美徳を、「戦前のような天皇の権威を高めたい保守派の思いが、あの長い時間の万歳に表れている」とほざいた。馬鹿丸出し。天皇の権威を高めるには、憲法第一条を「天皇は日本国の元首であり、日本国を代表する」と改正すること、これしかない。この時、英米が自由を守るべく断固として排斥する“全体主義の癌細胞”「国民主権」を、日本も排除する。万歳三唱は、感激と歓喜の感情表現。それ以外は何も無し。つまり、河西とは、事実歪曲捏造に暴走する“天皇廃止の狂・運動家”だと自白した。

 

1、エドマンド・バーク『フランス革命の省察』、みすず書房、110頁。

2、同上、111頁。

3、中川八洋『徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇』第六章/第八章、ヒカルランド。

4、同上、第七章「学問的に成り立たない“革命スローガン”象徴天皇」。

5、木下道雄『宮中見聞録』、日本教文社、80~5頁。            

(2019年11月13日記)

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