「大嘗祭は“新天皇のニニギノミコト同体化”神事」を一切報道しなかった全テレビ・新聞──次代の天皇制廃止を“共謀”せずして、この検閲報道・統制は可能か

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筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 11月14日の夕方から始まった大嘗祭に関するNHKその他の民法各局すべての大嘗祭に関する報道には、驚愕の余り絶句のし通しだった。ために、「大嘗祭は、(宗教組織への公金支出禁止を定める)憲法第八十九条《政教分離》に反する」との、暴力団の恐喝・難癖と同じ共産党(とその支配下の朝日新聞やTBS)の反・学問の嘘八百がマイナーな問題に見えた。

 理由は、NHK/テレビ朝日/日テレ/フジテレビ/TBSその他すべてのテレビから、語彙「ニニギノミコト」が、一度として流れてこなかったからだ。完全な情報検閲と共謀の歴史事実改竄(とそれへの共謀)が徹底的に実行されたのは瀝然。大東亜戦争の八年間、《超親日の蒋介石に対する戦争反対!》《日本にとって“友邦トップ三ヶ国”「英・米・蘭」に対する戦争反対!》の、常識ある一般国民の正しい声を罵倒して排除した新聞・雑誌の八年間の報道ファッシズムの狂気が、日本に蘇っている。“大衰退”止まない今日の日本は、これに加え、暗黒の体制に突入する気配を濃く見せ始めた。

第一節 大嘗祭は神武天皇から続く、新天皇“皇孫すめみま”同体化の神事

 今般の厳格かつ過激な報道検閲はテレビだけに限らない。翌15日発行の新聞すべてでも全く同じだった。例えば、「保守」を擬装する “赤黒(アナ&ボル)新聞”産経新聞は、次のような嘘報道を流した。産経新聞が、共産党とグルの“朝日新聞のチンピラ版”なのがあらわ。

 その見出しは、多少の見識があれば抱腹絶倒するアホ丸出しの「天皇と国民つなぐ祭祀、大嘗宮の儀」「《災害払う》 古代からの継承」。こんな漫画以下の、嘘八百の人民主義史観で、祭祀など一欠けらの匂いもない大嘗祭を根底から歪曲改竄するのは、産経新聞が、緩やかに時間をかける一世代後の天皇制廃止を狙う“反日・反天皇”のソフト共産革命新聞だからである。実際にも、社長以下、産経新聞の幹部社員の過半は“朝鮮総連”系の北朝鮮人ゴロツキ。日本人はほとんどいない。

嘘八百の大嘗祭論をぶち上げる“人民主義史観”産経新聞は、次代で大嘗祭廃止を狙う極左新聞

 だから産経新聞は、民族系を偽装する“隠れ共産党員”かつ血統が北朝鮮人の高森明勅(本名は「高明勅」)の、馬鹿馬鹿しい狂説を、大嘗祭の権威ある正しい学説だと強弁。故に、“悪の民族系コミュニスト”高明勅の言を借りた産経新聞の記事は、酔払いも酔いも醒める度外れの荒唐無稽一色。

天皇と民が、稲作を媒介として繋がるのが大嘗祭。全ての民の奉仕を象徴するという位置づけで、日本人が日本人としての同一性を御代ごとに確かめる祭儀ともいえる」(『産経新聞』2019年11月15日付け)

 高天原の水田を模した悠紀斎田/主基斎田で抜穂され、悠紀殿供饌の儀/主基殿供饌の儀に奉納された米は、新天皇の「皇孫 すめみま」化神事に奉納される品々の中心ではあるが、その一部。亀卜で選ばれた米作農家は、その村の全面的協力の下、半年間、緊張の重圧と光栄の感激を半々に丹精込めて収穫する。神事への奉納は、神事への奉納。それ以外でも、それ以下でもない。

 平成大嘗祭の“悠紀斎田の大田主”伊藤容一郎氏(秋田県)は、こう回想する。「冷え冷えとした夜十時、悠紀殿供饌の儀は終わりました。多くの人々に支えられて、これで悠紀斎田の大田主として自分の務めを果たせたと思うと、本当に心からホッとした気持ちになりました」(注1)

 また、主基斎田の大田主となった穴井進氏(大分県)は、「平成の大嘗祭『主基地方斎田』に選ばれました事は、まことに光栄の至りで身の引き締まる毎日でした。緊張の中でつつがなく斎行されました《前一日河原大祓の儀》《主基殿斎田抜穂の儀》《供納式》への奉仕は、全国を代表する重圧と責務を思いながら、この重儀に巡り会えた慶びを噛み締めました」と述懐する(注1)

 ところが、北朝鮮人アナーキスト/コミュニストのみが編集する、天皇制廃止を狙う産経新聞にかかると、さまざまな“お祓いの儀式”を経た“聖なる米”が、「天皇と民が、稲作を媒介として繋がる」手段に貶められる。「日本人が日本人としての同一性を御代ごとに確かめる」手段に摩り替えられる。“朝鮮総連の犬”産経新聞よ、アホ話もいい加減にしたらどうだ。

 新天皇お一人しかやり方を知りえない“秘儀中の秘儀”の大嘗祭が、どうして「日本人の日本人《同一性》の確認」になるのか。こんな奇々怪々なコリアン特有の妄言狂論を吐くから、高森も産経新聞も、日本人でなくコリアンだと、直ぐバレる。

 そもそも、こんなお粗末詭弁は、瞬時に瓦解する。現在、日本人の九割以上はコメの生産などとは無縁であるからだ。高森流《コリアン型人民主義史観》に従えば、日本人九割以上は天皇とは繋がらないことになるではないか。「“秘儀”大嘗祭への献納の米」を「民(=人民)の米」にしたいなら、この田んぼの稲を全国の日本人が総出で育てればいいとの、馬鹿げた話になる。いや、全国津々浦々の米農家から、スプーン一杯づつ米を集めて、新天皇に献納すれば済む話になる。

 なぜ、全国からたった二人の米作農家が選ばれ、聖なる米作りに全力投球するのか。その米は、擬制だが、高天原で天照大神その他の神々の手で作られた“天上の聖なる米”だからだ。一方、新嘗祭で供饌される米は、天皇を含めて現世の人間の手になる“地上の米”。また、降臨して頂いた、高天原の天照大神に供して、それをお食べ頂くもの。つまり、「大嘗祭のは、天上で収穫された米」「新嘗祭のは、地上で収穫された米」だから、双方の米は全く異なる。“斎(いつき=聖にして清浄)な田”と言う意味の「斎田」とは、天照大神や高天原の水田を指す。

 大嘗祭における新天皇は、これら皇祖神の神々に供饌・共食の形をとられる。が、多くの史料を正確に精査すると、高天原に里帰り(天孫昇臨)された新天皇は、天照大神その他の神々から、「お帰り、ニニギノミコト。さあ、たんと召し上がれ」と勧められ、高天原「産」の聖なる米(神饌)をお食べになっておられる。新天皇は、悠紀殿・主基殿では、皇孫ニニギノミコトで、日向三代の初代になられる。

 一方、新嘗祭は、天照大神に天上より降臨して頂き、地上の米を差し上げ、食べて頂き、五穀豊穣を祈る儀式。両者は、完全な真逆。似たところが全く無い。

 悠紀殿・主基殿が茅葺のみすぼらしい建屋でなくてはならないのは、弥生時代中期、皇孫ニニギノミコトが御誕生された時の産屋を模すからだ。両殿にお入りになる新天皇が沓を召されてはならないのは、このためである。新天皇陛下の沓が、両殿のベビー・ベッド(寝座)の脇に先におかれているのは、このためである。新天皇は、沓が履けない赤ン坊=皇孫ニニギノミコトを擬制されておられる。

岡田説が大嘗祭廃止に好都合だから、産経新聞は“隠れ共産党員”の大嘘付き岡田荘司を重用

 “隠れ共産党員”岡田荘司(國學院大學)は、羽毛田以来、長官が歴代“札付きの過激共産党員”である宮内庁に頻繁に出入りする奇怪な人物。一世代後を目指し時間をかけた、大嘗祭廃止革命に大暴走中の宮内庁と、この革命の秘策を謀議するためだろう。大嘗祭廃止は、真赤な嘘「大嘗祭は“新嘗祭の拡大版”に過ぎない」が、国民の常識となれば可能。なぜなら、「大嘗祭は、新嘗祭と同じ、皇居内に常設の神嘉殿で挙行すればいい。24億円を倹約し内廷費で賄いうる」となるからだ。

 また、天性の詐欺師・詐言師である岡田荘司は、口から出任せの大嘘・詐言を、速射砲のごとくに撃ちまくる特技をもつ。上記の産経新聞に語った大嘘は、次の主張をしたのと全く同一。この事実において、岡田荘司が、真面な人間ではなく、詐欺犯罪的な、学者以前の法螺吹きプロなのがわかる。

真赤な大嘘1;大嘗宮の悠紀殿・主基殿は、「かつての天皇の居住空間」を再現したものである。

真赤な大嘘2;柏の葉にご飯を盛るのは、「柏の葉っぱ」がかつての天皇の食器だったからだ。

真赤な大嘘3;陛下の御祭服の絹が粗いのは、かつての天皇の衣服だったからだ。日本では、弥生中期(備考)には絹布が生産され、ニニギノミコトの衣服は絹製品であった。

(備考)史料は、悠紀殿・主基殿が弥生中期の建造物なのを明確に証明する。また、大嘗祭で使用される食器の一部が弥生中期なのも、学術的に証明される。

 第一回大嘗祭を斎行された神武天皇(備考)の悠紀殿・主基殿は、一千年間を経た平安時代前期までは、正確に弥生中期の産屋を再現した。規模を含め神武天皇の悠紀殿・主基殿の建物は、平安時代の史料を用いれば、今でも正確に神武天皇のそれを再現できる。濡れ縁もないし、床も土の上に敷きしめた茅の束の上に竹の簀の子を置いただけ。産婆のほかは出産する女性が一人横になる広さしかないのは、極めて小さな産屋だからだ。居住生活できるスペースなど、全くない。

 一方、天皇の皇居とは、初代・神武天皇のそれですら相当に大掛かりな規模。これは、紀元後200年頃の、第七代孝霊天皇の皇居であろうと推定される「纏向まきむく遺跡」からも明らか。悠紀殿・主基殿の坪数は、天皇の御所(居住空間)の数百分の一以下。要は、大嘗祭の悠紀殿・主基殿の原型の、紀元前150年~100年頃の弥生時代の村々(現在の「村」よりはるかに小さく、数十軒で構成)に一屋づつ建っていた産屋と、「かつての天皇の居住空間」とは、規模(数百倍以上)も質も全く異なる事ぐらい、小学生でもわかる。

(備考)通説「大嘗祭は天武天皇・持統天皇が創始した」は、“大嘗祭潰し”のため、歴史学会が真赤な嘘を定説にした捏造歴史。大嘗祭は、天武天皇よりはるか以前から、皇族(100~200名)と側近臣下のみで斎行する“秘儀”即位式故に、神武天皇以来一貫して一般国民には秘匿した。が、壬申の乱で勝利したとはいえ、圧倒的な勢力を有する天智系と“皇位の正統”を争う事態を迎えた天武天皇は、天智系から「偽帝!」との非難と武力叛乱を回避すべく、「朕は、大嘗祭を斎行した」旨を公表した。軍事力優勢の天智天皇側の多くの豪族は心理的にたじろぎ、「対天武天皇の叛乱」は未然に鎮静化した。

 岡田荘司の大嘗祭潰しの真赤な嘘垂れ流しプロパガンダは、これら物理的な「モノ」に限らない。神饌共食や衾(ふすま)を被(かぶ)る所作を通じて、新天皇がニニギノミコトに化身する神事を、“災害が無きよう祈る祭礼・祭祀に摩り替える、真赤な法螺話創作を吹聴する。

 古来から伝わる天皇の資格を得るための伝統“秘儀”神事と、天皇として国民の平安を祈る祭礼・祭祀とは全く異次元で別。天皇として国民の平安を祈る祭礼・祭祀については、新天皇陛下は、皇居内「吹上御所」近接の賢所や、伊勢神宮に行幸されて親拝(親謁)なされる。一方、悠紀殿・主基殿には、そのような祭祀・祭礼をする場所は設けられていない。祭具が一つもない。神職がいない。つまり、祭礼・祭祀は全く行われていない。が、隠れ共産党員で嘘つき常習癖の岡田荘司は、読者騙し/国民騙しで、次のように「語る」。「語る」ではなく「騙る」が正しいか?

「現代と比べ厳しい環境にあった衣食住の環境下で、陛下が、自然が鎮まる(災害が起きない)よう祈られる。近年は国内でも災害が続くが、日本国中に住む人々の祈りを天皇の立場で共有する所に現代的な意味がある」。

 なんとも絶句する奇説珍論の妄言。新天皇として決意表明(=御告文、誓詞、注3)が、異次元で異質な「祈り」とは、いったい何の底意からか? 岡田とはバカか、それともワルか。大嘗祭の要は、あくまでも神饌・共食。これは、多くの史料に明記されている常識。つまり、“マイナーの中のマイナー”御告文(こうもん)など、大嘗祭においては無視すべきもの。そう教示してこそ専門家だろう。

 ところが、今般の「大嘗祭」テレビ報道の異様さの一つが、これ。非公開で誰も知りえない/また無視してよい御告文を意図的に大きく取り上げた。専門家と詐称する輩までテレビで解説する始末。NHK、フジテレビ、テレ朝その他が一斉・異口同音に、「《災害よ、起きるな》と、新天皇陛下は祈られるはずだ」との、嘘八百の憶測を振り撒いた。誓詞である御告文に「祈り」などあるはずがないではないか。が、無知を装う真赤な嘘「御告文は、御祈り」というアジ宣伝を、「無教養なテレビ・新聞だな」と、軽視し、等閑視してはいけない。

 テレビ新聞が全社一丸と談合・謀議して、いっせいに、大嘗祭を“災害鎮めの祈祷”に摩り替えたのである。これは、「大嘗祭をせずとも、神嘉殿でいいではないか」の論を醸成するための、下地作り。つまり、これからの大嘗祭廃止の時限爆弾の一つとして、周到綿密に謀議・考案された革命の一種。

 大嘗祭を五穀豊穣を祈祷する祭祀である新嘗祭と同一視させ、「新嘗祭と同じく神嘉殿で行えば、悠紀殿主基殿の建設費約20億円弱を倹約できる」と思い込ませる、偽情報洗脳操作と同種同類のもの。天皇制廃止の共産革命の一翼として、大嘗祭潰しの「対国民」情報洗脳工作は、かくも、着々と進められている。

テレビ新聞が超マイナー「御告文」を“大宣伝”。「ニニギノミコト」の検閲“無報道”と表裏一体の策謀

 以上、民族系に対する“共産党の洗脳別動隊”産経新聞を簡単に解剖したが、産経新聞とは共産党に与し共産革命の「“天皇の皇孫ニニギノミコトとの同体化”という大嘗祭の本義を完全抹殺する」洗脳宣伝をなす確信犯の“犯罪新聞”。これから私の世代以下になると、三文字「大嘗祭」を聞けば、即座にニニギノミコトの天孫(皇孫)降臨を連想した、普通の日本人は消えてしまうだろう。

 この時、「大嘗祭なんか要らない」「神嘉殿で新嘗祭と同じでいいんじゃない」と、テレビ新聞から流れる大キャンペーンが日本中を覆い尽くす。しかも、この洗脳された錯誤に、もう一つの重大な大嘘「公費投入の大嘗祭は、憲法第八十九条の《政教分離》規定に違背し、違憲である」との大キャンペーンが加わる。このため、大嘗祭の維持は困難を極めるというより、消滅・絶滅が、もはや不可逆か。

 本ブログの読者諸兄は、大嘗祭について、最も簡潔で最も正確な記述の拙著『天皇「退位」式は皇統断絶』の附章「大嘗祭の死滅を狙う、神嘉殿“代用”と言う狂説」を(注2)、もう一度拳々服膺し、大嘗祭護持に奮闘されたい。大嘗祭を経ていない天皇に対しては、必ず「半帝」との罵詈讒謗が集中砲火され、天皇制度は、必ずそこで終焉する。

悠紀・主基殿の「茅葺を板葺」「篝火を電気灯篭」は安倍晋三/菅義偉/山本信一郎の大嘗祭潰し

 ところで、新聞やテレビに映る大嘗宮の全景の風景から、茅葺であるべき悠紀殿・主基殿を板葺にしたままなのがわかった。岐阜県や富山県には、藁葺のプロ職人はたくさんおり、しかも費用がかかるものではない。500万円あれば可能である。とすれば、茅葺をわざと板葺にしたのは、天皇制廃止を心底で燃やす、共産党と同じコミュニストである“安倍晋三/菅義偉/山本信一郎トリオ”が、半ば面白半分に半ば確信犯的に、天皇制廃止をねらってセットした時限爆弾の一つと考えられる。

 両殿は茅葺で外見をみすぼらしくしなければ、弥生時代中期の水田耕作村の産屋にはならない。茅葺でなければ、高天原のニニギノミコトがお生まれになった産屋である両殿の、最重要な擬制事実がぶっ飛んでしまう。堤防に(人間が気付かない)イタチその他の小動物の横穴が貫通すれば、2019年に起きた関東一円の河川堤防決壊のような事になる。「蟻の一穴なんとやら」である。悠紀殿・主基殿が茅葺でないならば、それは天上の高天原ではないから、新天皇がニニギノミコトして天上に“天孫昇臨”することができない。板葺きは、地上の建物を意味する。

 なお、平成の大嘗祭では、悠紀殿・主基殿・廻立殿の三つとも伝統に正しく従い、茅葺であった。廻立殿は、地上で新天皇が(天空の悠紀殿・主基殿に上昇飛行される力を与える)天の羽衣をお召しになられる所なので、板葺きでも構わない。が、擬制として、天空に一世一代に唯の一度だけ忽然と現れ、忽然と消える悠紀殿・主基殿は、大嘗祭の本義において茅葺は死守すべきもの。絶対に。

 また、今般も(秘儀を映すことの問題がある)新天皇陛下が廻立殿から悠紀殿に向かわれるところがテレビ放映された。そのテレビ画像が、平成大嘗祭に比し余りに明るく、変だなと思った。幄舎の方角から撮影した「建物群」の一部光景を観て、氷解した。薪を燃やす篝火は存在せず、篝火よりはるかに明るい電気灯篭が、至る所に設置されていた。

 篝火を破壊的に一掃した“安倍晋三/菅義偉/山本信一郎の共産主義トリオ”の伝統破壊の執念には目を覆う。弥生時代中期に電気などあるはずがない。が、サイコパス狂人・安倍晋三は、「弥生中期の日本では電気もLED電球(灯篭の中)もあった」と嘯いて平然。安倍晋三は日本国民でない。

「大嘗宮の儀」の「宮」を削り「悠紀殿主基殿の儀」とし、産屋を「宮」とする“大嘗祭改竄”を排除せよ

 そもそも大嘗祭の本義は、高天原の産屋において、①新天皇のニニギノミコトへの同体化と、②そこから下界への天孫降臨の再現。「宮」とすれば、何かしら神道の神社を連想させる。しかし、大嘗祭には、神道は煙ほども存在しない。神道が発生するはるか以前の弥生時代中期の産屋をもって、(同じく神道発生以前の紀元後五十年頃の)神武天皇の即位儀式を踏襲したのだから、当り前だろう。

 とすれば、現在の歴史捏造/事実歪曲の「大嘗宮の儀」は、「悠紀殿・主基殿の儀」か「天孫降臨の儀」かのいずれかに訂正すべき。歪曲の一文字「宮」は、歴史捏造/事実歪曲。必ず禁止すべき。

葉薦の上を白綾の浅沓(あさぐつ)お召しは、大嘗祭“違背”。陛下に強制した菅義偉は引責辞任せよ

 本稿をほとんど書き上げ、資料を再チェックしている時に気づいた大問題がある。新天皇陛下が裸足ではなく、浅沓を御履きになれておられる事件。これには腰を抜かした。暫く頭が真っ白になった。何故なら、ニニギノミコトはお生まれになられたばかりの赤ん坊で、新天皇陛下が沓を召されることは万が一に許されない。明治天皇まで、歴代天皇は全て御裸足であられた。大正天皇については未調査だが、昭和天皇は白色の「おしとうず」と言う足袋に似たものをお召しになられ、沓は決して召されなかった。先帝陛下も同じ。

 特に、悠紀・主基の両殿から下界(=廻立殿)への還幸こそは天孫降臨の再現。新天皇は「真床覆(おおう)(ふすま)に包(くる)まられて天(あま)下られる」から(注4)、沓など、もっての外だろう。

 テレビ・新聞が大嘗祭報道で、大嘗祭の根幹たる語彙「ニニギノミコト」を完全抹殺し葬り去ったことと、この「浅沓お召し事件」は偶然ではない。「皇孫ニニギノミコトへの同体化」という大嘗祭の根幹を破砕して、大嘗祭を新嘗祭と同一化すべく、コミュニスト・トリオ安倍・菅・山本が謀議し、新天皇に対し畏れ多くも脅迫し、「浅沓をお召しなされよ!」と、激しく命令・強制したと考えられる。

第二節 日本国憲法「政教分離」の定めは、ワシントン『惜別の辞』が母胎

 天皇制廃止を狂信する“スターリンの化石”朝日新聞は、“ゴリゴリ共産党員”横田耕一の言説を大宣伝し、“大嘗祭は憲法違反だから、公費支出はしてならない(→挙行してはならない)”と、天皇制廃止の共産革命を真赤な嘘で包んで大キャンペーンしていた。

 大嘗祭は、「悠紀・主基殿の儀」だけでも(建設費の高騰で)19億円。「大饗の儀」まで含めるとトータルで24億円。とても内定費で賄える金額ではない。つまり、大嘗祭の費用を公費で賄わないとすれば、必然的に廃止となる。共産党/朝日新聞/憲法学者(共産主義者が98%を占める)がこぞって、“大嘗祭(への公費支出)は憲法違反!”をがなり立てるのは、これが狙い。

 一方、大嘗祭を斎行されていない天皇は天皇として未完成の“半帝”。次の段階で、「“半帝”なんか要らない」の中傷をキャンペーンし、究極的に天皇制の廃止に追い込む。これが、“反日・非国民”朝日新聞や共産党の共産革命アジェンダ。

横田耕一ら共産党系憲法学者の「大嘗祭は憲法違反」は、共産党の天皇制廃止革命の詭弁。

 横田耕一は、次のように述べた。『朝日新聞』の見出し「大嘗祭 議論無く踏襲」は、ここから。

「大嘗祭は宗教儀式。国が公的性格を認め、公費を出したり、公務員を出したり、と深く介入することは、憲法違反の疑いが非常に強い。平成の代替わり時から指摘したことで、改めて議論を尽くし、見直すべきだったのに踏襲された」(注5)

 共産党活動家で“過激派”横田耕一らしく、何ともアホらしい真赤な嘘と狡猾な詭弁をでっち上げる。まず、われわれが確認しておくべき事実は、「大嘗祭には、いかなる宗教もいっさい存在しない」こと。大嘗祭は、宗教不在である以上、宗教儀式でありえない。富士山が百回爆発しても、大嘗祭は宗教儀式にはなりえない。

 では、頭が悪い上に精神が腐りきっている横田耕一に尋ねる。「大嘗祭の、どの部分が宗教である」と、具体的に指摘せよ。指摘できないではないか。宗教を示す事柄が一つも存在しないからだ。

 大嘗祭とは、神武天皇から続く二千年以上の歴史をもつ、日本古来の即位式。天武天皇創案の唐風即位式もそうだが、即位式は、その本性において、布教その他を伴う宗教にはなりえない。

 なお、天武天皇は、神武天皇以来数百年間、秘儀であるが故に対国民において秘密にしていた伝統を破り、(秘儀「大嘗祭」を公開したのではないが)その存在をご公表なされた。天武天皇は、全国規模では優勢な弘文天皇側勢力の仇討ち(報復)武力蜂起を先制的に鎮圧すべく、“朕はすでに大嘗祭を斎行した(=朕はすでに「皇孫(すめみま あまみま)」である)”旨を公表された。大嘗祭を斎行した天武天皇と、大嘗祭を斎行されていない(崩御された天智天皇を剣璽渡御で践祚された)弘文天皇=半帝の、天皇の資格としての差異を、広く全国に衆知させ、「壬申の乱」の終息を図ったのである。

 このように大嘗祭は、神武天皇から続く、全員が天照大神の血を引く皇族間において(泣く子も黙る最終の)“天皇の絶対資格を付与する即位式”。つまり、大嘗祭は、皇族間における皇位の争いを不可にする「皇孫ニニギノミコト同体化」儀式。剣璽渡御儀式より上位にある、皇位の正統性を付与する最高レベルの儀式である。

 話を、脳内が赤インクしかない横田耕一に戻すとしよう。大嘗祭には、神官が立ち会わない。大嘗祭には祭具が一つも無い。大嘗祭には「祈り」や祝詞が無い。御告文とは、決意表明の誓詞。「祈り」とは全く異質。だから、御告文という。そこで、もう一度、横田耕一に尋ねる。大嘗祭に「宗教」を示すものがあると強弁したいなら、一つでいいから、提示されたい。

 宗教とは、信仰や教義の布教を伴う属性が絶対。これが無いものを、「宗教」とは言わない。また、特定の宗教団体が関与していないものは、「宗教」とは言わない。また、一般に、祭壇や経典の無いのを、通常は「宗教」とはしない。

 天皇の伊勢神宮/賢所ご親拝・親謁は、神道が関与しているので、強引無理に“宗教行為である”との強弁も成り立ち得よう。が、大嘗祭は、神道をも完全に排除している。紀元後ゼロ年から50年頃の神武天皇の御代に神道はなかったからだ。神道以前のいわば「古俗的な伝承」儀式である。だから大嘗祭には、どこから見ても、宗教に類するものが見当たらないのである。

「皇孫ニニギノミコトの産屋に新天皇“昇臨”」「504回の箸」「寝座で横になる」「廻立殿への帰還」

 大変畏れ多いので、これまで語らなかったが、大嘗祭における新天皇は、大きく四つの所作をなされる。いずれも、宗教色が皆無。

 第一。廻立殿での沐浴において湯帷子(ゆかたびら)すなわち「天の羽衣」をお召しになられる。これは祭服に御着替えになる時には脱ぎ棄てられるが、これによって天空を飛ばれる力を得る。廻立殿から悠紀殿・主基殿への廊下は、新天皇が載られる空中の「雲」の航路。廊下で天皇の歩みに合わせてその直前に敷き、天皇の後では直ぐ巻き取る“葉薦 はごも”が、この「雲」。

 湯帷子や葉薦を、仮にも宗教だと言うのであれば、横田耕一とは、三保の松原の「天の羽衣」伝説を宗教だと主張する気狂いということ。また、雲に載って月に帰る「かぐや姫」の小説『竹取物語』を、キリスト教の『新約聖書』と同様な宗教上の経典だと、横田耕一は主張していることになる。天皇制廃止や共産主義の信仰者に“気狂い”以外はいないが、この公理を横田耕一は立証した。

 第二。神饌・共食に際し新天皇は総計504回も箸を取られる。昔、大嘗祭の研究をした時、畏れ多い事ながら、脳裏に浮かんだのが、サントリー・ホールで指揮者に従って弓を504回引くヴァイオリン奏者の姿であった。なぜなら、新天皇は、傍に仕える采女の指示で、両殿でそれぞれ二時間近くは箸で神饌を皿十ヶ(両殿それぞれ)に盛り付けなされておられる。畏れ多い事ながら、これはまるで「采女が指揮者、新天皇はヴァイオリン奏者」の情景と同じで、それを連想したのである。

(備考) 神座側の皿が十ヶも並べられているのは、ニニギノミコトの皇祖母・天照大御神、皇祖父の高皇産霊命、皇母の「たくはたちぢひめのみこと」、皇父の「あめのおしほみみのみこと」ほか、高天原の神々が御来訪されておられるからである。

 さて、前世が丹頂鶴だったのか頭が赤い横田耕一に尋ねる。京都の有名な料亭で、料理をお客の皿に箸で盛りつけている女将は、宗教行為をしているのか。

 第三。新天皇は「寝座」で横になられ、「衾」を被られる。お生まれになられた直後の、皇孫ニニギノミコトになられる儀式である。これ、祭祀ですか。この明白な非・祭祀のどこが、宗教なのか。祭具はどこにある。祭壇がどこにある。神職者がどこにいる。宗教は、一㍉すら匂いも香りもしていない。

 第四。新天皇は、両殿からご退出されて二度、廻立殿に戻られる。この時も天皇は“葉薦”=「雲」に載られる。これこそが、天空から地上への帰還であり、大嘗祭のクライマックス。何故なら、これが、天皇が降臨された皇孫ニニギノミコトに同体化された最終フェーズで、天孫降臨なのだ。

 以上でわかるように、大嘗祭の挙斎をもって、「天皇・皇室は伝説・伝承やお伽噺を信じられておられる」との、不敬な揶揄は可能である。が、狂論「大嘗祭は宗教」は、暴力団の恐喝や殺人の類。狂気で猛毒化された重大な事実歪曲捏造の上に重ねた、恐ろしい誹謗讒謗。想像を絶する。

宗教ではなく夢&幻だから、悠紀・主基殿は忽然と現れ忽然と消える。その一般見学を禁止せよ!

 悠紀殿・主基殿は、明治天皇までの大嘗祭では、一週間前に着工し、五日間で建設し、大嘗祭が終わったその日の午前中に数時間で解体した。現在のように、数カ月間も建設にかかる神社風の「悠紀殿・主基殿」は、大正の大嘗祭から。私は、神社の建物に似た、現在の異様な悠紀殿・主基殿に絶対反対。憮然が止まらない。せめて茅葺は絶対に守らねばならない。原初の悠紀殿・主基殿通りに、もっと背の低い小ぶりなものにしなければならない。

(備考)伊勢神宮が建立されたのは、第11代垂仁天皇の御代である297年。皇孫ニニギノミコトの産屋が紀元前100年頃だとすれば、四百年後。この間の木工用の鉄製大工道具は、天と地ほどに差異がある大発展をした。悠紀殿・主基殿に四百年間後の「伊勢神宮オリジナル」や七百五十年後の天武朝時代の伊勢神宮をイメージし摸倣するとは、大嘗祭の本義への冒瀆。大嘗祭潰しの下心なしに可能か。大嘗祭を開始された神武天皇の御代、現在の神社らしきものは不在。これらの歴史事実に、もっと忠実であってしかるべき。

 しかも、悠紀殿・主基殿は、仮構上の高天原のニニギノミコトの産屋。現実のこの世に存在するのはおかしい。あくまでも、夢や幻だと幻視すべきもの。とすれば、今般の令和「大嘗」が、皇居東御苑で数カ月かけて建設され、それを多くの人が見学できるようにしたのは、大嘗祭の本義に悖る。また、「悠紀殿・主基殿の儀」終了の11月15日の早朝から直ぐに解体せず、11月21日から12月8日まで一般見学に供し、三週間も地上に晒すとは、これほどの大嘗祭“冒瀆”があるだろうか。

 「大嘗の建設費に公金を投じたから、一般国民の見学に供すべきだ」との宮内庁の屁理屈を額面通りに納得したら、共産党の天皇制廃止に与することになる。共産党の支配下にある宮内庁は、「大嘗祭とは、新天皇の皇孫ニニギノミコト同体化神事である」最核心事実を徹底的に隠蔽・抹殺する歴史改竄を遂行する官庁。「大嘗の一般見学」という“反・大嘗祭&反・天皇制度”行動は、この重大歴史を抹殺する革命。つまり、狂った錯覚「大嘗と常設の神嘉殿とはほとんど変わらない」を一般国民に擦り込むことが、「大嘗の一般見学」の狙い。なお、「宮」の一字は、絶対に削除すべし。

政府の特定宗教団体への「助成/弾圧」禁止の米国とフランス革命の「国家の無宗教化」とは真逆

 さて、宗教と全く無関係な大嘗祭を「宗教だ!」とがなり立てる朝日新聞・共産党は“狂気の嘘つき犯罪者”。「宗教的であるけれど…」と口ごもる自民党政府は、謬論の汚染から脱却できない“矮小な馬鹿”。前者は「大嘗祭への公金支出は違憲だ!」と、暴力団もびっくりの脅迫をキャンペーン。後者は憲法第二条「世襲の皇位継承」を持ち出し「憲法違反ともいえない・・・」と、半ば共産党に屈伏。

 だが、憲法第二十/八十九条は、政府の特定宗教団体への助成(布教の助成)を禁じるもの。なんらの宗教性が皆無で、かつ宗教団体の祭祀でもない大嘗祭に、米国の“国是”「政府と特定宗教団体の分離(国教制定の禁止)」を、“そのまんま”移動してきた日本国憲法第二十/八十九条が全く無関係なのは、瀝然にすぎ、議論以前。

 ではなぜ、共産党・朝日新聞は“狂気の真赤な嘘”「大嘗祭は宗教だ。故に、大嘗祭への公金支出は違憲だ!」とがなり立てるのか。日本国憲法の解釈を、日本国憲法とは何の関係もない、1789年夏に始まるフランス革命の革命ドグマに摩り替えたからだ。犯罪的なスーパー憲法改竄。つまり、1947年に施行された、米国の「政府と特定宗教団体の分離」規範を、1789~94年のフランス革命の狂気「国家から宗教の完全一掃」「国民の宗教信仰の剥奪と無神論者化への改造」に、共産党・朝日新聞は大改竄している。そして、共産党員が牛耳る内閣法制局は、これに与している。

 憲法第二十/八十九条を、トンデモナイ“悪魔の嘘解釈”「国家からの宗教の完全一掃、および国民の宗教信仰剥奪と無神論者化への改造」で吹聴した嚆矢が、宮澤俊義であった。宮澤は、1954年、「日本国憲法は、国家から宗教を分離し、国家の非宗教化(ライシテ)を定めたものだ」と講演し、翌1955年出版の『全訂日本国憲法』に、それを書き込んだ。

 何と宮澤は、フランス語「ライシテ」を使い、1946年のGHQは1789年の仏ジャコバン党だった、と言い放った。かくして、米国が「特定宗教団体への政府助成の禁止(=これが正しい「政教分離」の定義)」を定めた憲法第二十/八十九条が、一気に革命フランスの狂気「国家からの全ての宗教の排斥・抹殺」「フランスを無神論国家に改造」と同義になった。『全訂日本国憲法』で宮澤は、憲法第二十条を、次のように大歪曲した。

「国家があらゆる宗教から絶縁し、全ての宗教に対して中立的な立場に立つこと、すなわち宗教を純然たる《わたくしごと》にすることが要請される。これが国家の非宗教性(laïcité)の原則または政教分離の原則といわれるもの」

「憲法第20条が、かような国家の非宗教性を要請することは、第一項後段『いかなる宗教団体も、国から特権を受けまたは政治上の権力を行使してはいけない』や第三項『国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない』から、明らか」(注6)

 馬鹿馬鹿しい。特定宗教団体と政府・国家機関の癒着・結合の禁止の定めが、どうして、国家全体の無神論化(=非宗教性化)になるのか。米国は、「理想国家は、敬虔かつ熱心に宗教を信仰する国民により構成されるべきだ」と考え、そのために国家が特定宗教団体のみに肩入れするのを禁止したのである。国家の宗教性化を促進するための不偏不党の方針である。つまり、宮澤俊義は、憲法第二十条を百八十度逆に改竄した。

 宮澤俊義の犯罪「憲法第二十条の百八十度逆“大改竄”」を見抜けないのは、米国とは宗教重視国家の現実すら知らない日本人の無知による。以下、“宗教重視国家・米国”を理解するに、アメリカ国民が今も尊崇して手放すことが無い、最重要な米国古典文書を垣間見ることにする。

憲法第八九条「政教分離」は、ワシントン『惜別の辞』を想起し、正しい解釈の原点に日本は戻れ!

 米国初代大統領ジョージ・ワシントンは、二期八年をもって(1797年3月に)大統領職を去るにあたり、半年前の1796年9月17日、『惜別の辞』を新聞発表した。ワシントンは、「米国が王制ではなく、選挙による政府popular Governmentをもって運営する以上、有権者が美徳横溢の道徳的国民で無い限り健全な国政はできない」「国民が道徳的人間であるためには、宗教の規範や信仰が不可欠」だと、米国民に、“美徳に生きよ”“宗教的信仰に熱心かつ敬虔たれ”と訴えたのである。また、宗教と道徳とが愛国心の支柱だとも訴えた。その一部を、次に書きだしておこう。

・「『国民が宗教的規範を信条とせずとも、アメリカ全土に道徳が満ち満ちることは可能National morality can prevail in exclusion of religious principle』など、経験に照らし理性的に思考すれば、全く期待できない」。

・「『道徳が宗教の信仰なしに維持されうるmorality can be maintained without religion』など、仮定としても想定できない」。

・「国家の政治的隆盛を導く国民の気質や習慣の中で、『宗教と道徳こそ、絶対不可欠な最重要なものReligion and morality are indispensable supports』」。

 宗教重視と道徳重視、これこそが米国の神髄。ワシントン『惜別の辞』は今も、マグナ・カルタやコーク卿の法の支配と共に、米国憲法精神の根幹をなしている。だが、日本の憲法学界は、宮澤俊義系であれ、共産党系であれ、“血塗られた無神論の狂気”革命フランスを目指しており、日本国憲法の解釈改竄・解釈捏造を常習とする。

 日本を1789年の血塗られた革命フランスに退行・野蛮化するに、日本国憲法を正しく解釈されては困る。そこで、全国の憲法学者98%と内閣法制局は、戦後一貫して、日本国民を米国に関する“全盲の無知”に閉じ込めるべく、米国「政教分離」の教範「初代大統領ワシントンの《惜別の辞》」の授業も翻訳も厳しく検閲し隠蔽した(参考参照のこと)。上記の三行翻訳は、『惜別の辞』宗教部分の一部邦訳でしかないが、事実上の本邦初(注7)

 なお、宗教重視国家の米国では、政府部内でも宗教性が強く要請される。この事は、連邦議会に専属牧師がいることや、ドル紙幣に「IN GOD WE TRUST 我々は神を信じる」が印刷されているのを思い出せば一目瞭然。また米国では小学校一年生は、星条旗に向かい「ONE NATION UNDER GOD 神の下にある一つの国家」との誓約を教育されるように(備考)、米国において神を信じることは、国民の義務。逆に、無神論者は徹底的に危険視される。無神論者の権利制限でもある“共産主義者規制法”の厳格な履行は、米国社会が無神論者を“殺人予備群”と見做す健全な視点とも関連がある。   

(備考)アメリカ全国の小学校すべて、各教室には星条旗が一本づつ掲揚されている。

(参考)

 日本の憲法学者は、長谷川正安/杉原泰雄/辻村みよ子/奥平康弘ら、共産党員が過半。共産党員ではないが共産主義者の宮澤俊義/樋口陽一らが、残りを占める。これら二グループで、日本の憲法学者の98%。民族系を擬装する八木秀次や百地章も、密かに前者の共産党員憲法学者グループに繋がっている。「日本の憲法学者はみな共産主義者で、天皇制廃止が信条」と考えておけば、間違わなくて済む。

 彼らは、この天皇制廃止を目標に談合し、米国製「政教分離」から生まれた日本国憲法第二十/八十九条を、1789年フランス革命の政教分離(=国民を無神論者に改宗させ国家を無宗教化する)に摩り替える捏造解釈し、それを学校教育、特に大学で学生に刷り込む洗脳に全力投球してきた。既に七十年以上の洗脳教育が日本全土の教育機関で緻密にかつ大規模に実行され、今に続いている。

 オウム真理教の信者を公安調査庁が監視しているが、お門違いも甚だしい。監視するなら、狂気フランス革命の“大量殺戮の無神論カルト”を美化し称讃し洗脳教育する、悪魔のカルト宗教のサティアンと化した、日本全国の学校全てを監視すべきではないのか。オウム真理教のカルト性など、学校教育における「政教分離」教育の“スーパー狂気(=空前絶後のカルト)に比すれば、子供騙し。

政府へのフランス革命「政教分離」=「無神論」の強制要求こそ、“悪魔のカルト宗教”の日本簒奪

 バークもハミルトンもワシントンも、何故に目くじら立ててフランス革命思想の撲滅に躍起になったか。そこに、王制廃止のドグマと狂気を見たからだけではない。この三名が最も激しく「抵抗せよ!反撃せよ!」と、英米の国民に向け、フランス革命ドグマ流入を水際で阻止せよと訴えた最大の理由は、フランス革命が産んだ「政教分離 ライシテ」という“狂気の無神論”にあった。

 日本人は、キリスト教国における無神論とは、“空前絶後の残忍非道な、悪魔のカルト宗教”なのがわからない。ギロチン「フル稼働」狂のロベスピエール、6600万人の自国民殺戮のレーニン/スターリン、自国民人口の四分の一(200万人)をたった四年間で殺したカンボジアのポル=ポト、人民公社化と文化大革命を含み死没するまで最低8500万人の支那人を殺した毛沢東、自国の農民婦女子150万人以上を餓死処刑したメンギスツ(エチオピア)は、すべてルソーを教祖と崇拝狂信する“無神論+α”(=通常「理神論」とされる)の狂気の信者たちである。

 つまり、フランス革命の中核部分をなした「原初ライシテ」(「原初・政教分離」)こそ、その後の人類史を、血塗られた人民大量殺戮の世紀に変貌させた“悪魔のカルト教義”であった。フランスにおける「1789年の原初ライシテ」と「1905年の政教分離法(ライシテ法)」との相違は、注8。

 フランス革命の「原初ライシテ」は、ルソーの王殺しドグマと同時に、革命勃発の爆発物だったヴォルテール無神論をもって開始される。それは、フランス全土からの「教会堂の一掃、神父の一掃、修道院の一掃、聖器の一掃」であり、既成宗教やその施設が完全にフランスから消えた、狂気の“無宗教国家フランス”の創設であった。実際に教会や修道院が次々に破壊され、多くの神父や修道女が殺害され、聖器はことごとく没収され海外に売却されたり通貨に鋳造されたりした。セディヨ『フランス革命の代償』に、簡単な記述がある(注9)

 ヴォルテール「ライシテ」は、国家からの宗教の完全撲滅で、“無神論者の国民からなる反・宗教国家”の創設。が、ルソーの“無神論+α”型「ライシテ」は、教会堂ゼロ/修道院ゼロ/神父ゼロ/聖器ゼロの“無宗教のフランスづくり”に留まらない。反宗教/無宗教国家になった所を一気に一転させ、独裁者(人間)を「神」だと拝跪し奉戴する、国家全体のカルト宗教国家化(修道院化)に改造するからだ。そして、「神」となった独裁者に、人民(=信者)全員に対する殺戮自由の権能を与えた。この血塗られたカルト宗教国家の“悪魔の教典”が、ルソーの『エミール』と『社会契約論』である。

(備考)日本では、カルト宗教の宗教経典『エミール』を、驚くなから、学校教育で「教育書だ」と真赤な嘘を刷り込む。『エミール』を公立学校で教えている教員は、憲法第八九条により即時免職されるべきだ。

 ロベスピエールは自分が「神」になった儀式として、1794年6月8日、現在エッフェル塔が立つシャンヌ=ド=マルスの丘で、「最高存在の祭典」を挙行した(注10)。「最高存在」とは、独裁者の恣意的意思をさす。独裁者の恣意的意思を「神」とするので、宗教学ではこれを「理神論」に分類する。

 人民殺戮無制限の全能の「神」ロベスピエールの生れ変りとして、“二十世紀ロシアの「神」”レーニンは、自国民大量殺戮システムを完成させた。だから今も、“不死の神”としてレーニン廟に祀られたままである。レーニンから、この「神」の地位をバトン・タッチしたのが、スターリン。

 「神」スターリンを狂信する信者だった近衛文麿と帝国陸軍の共産主義エリート将校は、日本人将兵二千万人殺戮が目的の“祖国反逆の狂気”大東亜戦争をおっぱじめた。つまり、大東亜戦争とは、「ルソー→マルクス→レーニン→スターリン」の無神論「ライシテ 政教分離」のドグマの信仰(狂信)をひたすら実践するカルト宗教信者の自傷行動であった。

 日本は、スターリンの国内大量殺戮を、海外戦場大量殺戮に変更しただけ。自国民大量殺戮の大東亜戦争も、スターリンの自国民大量殺戮『収容所群島』も、ルソーの「ライシテ 政教分離」の実行であり、全く同一。共産党が「戦争反対」を口にするなら、まず、“殺戮の魔笛”であるフランス産「政教分離」を叩き潰して、一滴も日本に存在させないことが先決だろう。

政教分離(ライシテ)を鉦や太鼓でがなり立てる無神論者・共産党議員への給与は“最凶の憲法違反”

 血塗られた無神論の実践に誘導する思考麻酔薬「ライシテ 政教分離」とは、かくも残忍非道な、カルト宗教の凶悪ドグマである。フランス革命史に精通していた宮澤俊義は、「ライシテ 政教分離」の持つ日本共産革命の霊験あらたかなハーメルン魔力を利用せんものと、「ライシテ」とは真逆の米国産「憲法第二十条」を、改竄解釈をもって、1789年フランス革命の「原初ライシテ」に摩り替えた。

 そして、一九五四年から二世代を経た今に至る六十五年間、スリ犯も及ばぬ速さで宮澤俊義のこの摩り替えを憲法学界は誰でも知っていたのに、憲法学者のほぼ全員が天皇制廃止の共産主義者ゆえに、宮澤俊義の大改竄の嘘解釈を金科玉条としたのが、“人類史上最低の狂国家”日本である。フランス革命の「ライシテ 政教分離」を参考にするなら、この「ライシテ 政教分離」が血塗られた既成宗教絶滅の狂乱となり、個人の信教の自由剥奪となった、歴史の愚行を教訓とするのが正常な国家。だが、日本は、そのような正常とはいっさい無縁の狂国家である。

 特に、政教分離「ライシテ」が、独裁者崇拝のカルト宗教に反転した歴史を、日本は、何度も反芻すべきだろう。そして、隣国の北朝鮮では今でも、ルソーの『エミール』を奉じて、独裁者崇拝のカルト崇拝の宗教国家なのを認知したらどうだ。また、既成宗教を尊重し、官庁や教育界における宗教性を推奨する米国こそ、個人の信教の自由が保障されている現実も直視したらどうだ。

 蛇足。米国の(共産党の党活動やその運動にかかわった公務員は即座に免職となる)共産主義者規制法は、米国型の「正しい政教分離」からも導かれた立法なのを、日本人は忘れてはならない。

 話を日本に戻す。共産主義者で構成される政党は、共産党にしろ、社民党にしろ、立憲民主党にしろ、経典『レーニン全集』『マルクス・エンゲル全集』を狂信するカルト宗教団体である。宗教経典を持つ以上、それらは、まさしく宗教上の組織で、宗教上の団体である。

 とすれば、日本国憲法の第八十九条に従えば、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用/便益/維持のため、支出し・・・てはならない」なのだから、共産党/社民党/立憲民主党の国会議員・地方議員を初め、それらに属する官庁に勤務する国家/地方公務員への給与支給は禁止されている。つまり、彼らへの給与支払いは、憲法第八十九条違反である。

 これが、正しい米国的「政教分離」の法解釈である。もう一度いう。憲法第二十条/八十九条に正しく準拠すれば、宗教性が皆無の大嘗祭には憲法に違背するものはなく“合憲”を論じる以前。しかし、「大嘗祭は違憲だ」と革命テロ的“狂言”を吐く共産党/社民党/立憲民主党の、議員を含めた公務員に対する給与支払いは、憲法第八十九条違反である。早急に免職にするか、給与の支払いを全面中止すべきか、いずれかの処分をすべきである。これが、米国産「政教分離」条項である憲法第二十/八十九条の唯一に正しい解釈。これを実行してこそ、“正しい憲法遵守”である。

 

1、天皇陛下御即位奉祝委員会『平成の御即位』、1991年6月刊、32頁。

2、中川八洋『天皇「退位」式は皇統断絶』、附章「大嘗祭の死滅を狙う、神嘉殿“代用”と言う狂説」、ヒカルランド。

3、御告文と言えば、誰でも思い出すのが、大日本帝国憲法の発布に伴う、明治天皇の御告文。それを必ず読まれたい。六法全書にも収録されている。御告文とは“決意表明の誓詞”であって、万が一にも「“祈り”でない」、ことが直ぐわかる。

4、『日本書紀 上』、日本古典文学大系、岩波書店、156頁。

5、『朝日新聞』2019年11月15日付け、二面。

6、宮澤俊義『全訂日本国憲法』、日本評論社、239頁。

7、日本でも邦訳があるかに誤解されるのは、『原典アメリカ史 第二巻』に「28 ジョージ・ワシントン『告別の辞』」があるため。だが、これは超ミニ抄訳で、全訳ではないし、邦訳とすら言えない。また、新聞発表1796年9月17日を「11月17日」に間違うなど、かなり杜撰。なお、上記訳は、The Writings of George Washington vol.35, US Government Printing Office に収録されているのを使用した。

8、1905年ライシテ法は、フランス革命時の“フランス全土の無宗教化”を、官庁と教育機関だけに限定したことにおいて、格段に正常化した。また、 “個人のキリスト教信仰”すら禁止したフランス革命の血塗られた蛮行を反省し、個人の信教の自由を尊重するに至ったのも正常化。が、特定宗教を助成したり布教したり弾圧したりしない限り、官庁であれ教育現場であれ、宗教的であることを推奨する米国とは、まだまだ相当な開きがある。フランスは狂気フランス革命の残滓から、充分には脱却していない。

9、ルネ・セディエ『フランス革命の代償』、草思社、168~73頁。

10、無神論者ロベスピエールが「ライシテ」革命成功において「神」となった儀式が、絵画で今に残っている。例えば、多木浩二『絵で見るフランス革命』、岩波新書、96頁。

                                      (2019年11月19日記)

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