筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
“蒙古皇帝”プーチン長門来訪は、(735年前の)未完の蒙古長門襲来の上陸侵攻成功
日本人の“歴史知らず”は、1980年代に入った頃から激しくなり、今や、自国に関わる基礎的な歴史知見が日本人からすっかり消えた。特に、1983年からの民族系の台頭は、嘘歴史を洪水のように垂れ流し、劣化しつづける日本人から常識的な歴史知見すら徹底的に奪うことに全力をあげた。この事は、真赤な創り話が満載の、日本人白痴化を狙う隔月雑誌『歴史通』を一例としてあげれば、証拠として充分だろう。
この情況は、プーチンが山口県長門市にやってくるとわかってからのここ数カ月、日本のどこからも、「すわっ、蒙古襲来(弘安の役、1281年)の再来だ!」と騒がないことで一目瞭然。そこで、お節介だが、国際的に教養でも世界第一級民族と見做されていた1960年代までの日本人なら、必ず新聞や論壇を賑わしただろう、蒙古襲来長門劫掠に関する歴史につき簡単に触れておきたい。
「弘安の役」における蒙古軍は、東路軍「4万人」と江南軍「10万人」からなる計「14万人」の(備考)、当時としては史上空前の対日侵略軍であった。朝鮮南端の合浦を発した東路軍は、朝鮮人の金方慶を総大将とする高麗部隊「1万人」とモンゴル人・支那人合同部隊「3万人」から構成されていた(備考)。東路軍「4万人」は「900艘」の艦船に乗り(備考)、対馬/壱岐を劫掠後、博多湾を制圧して上陸侵攻すべく、「志賀島」や「海の中道」を占領しようとした。ここで壮烈な争奪戦が行われ、敵将の洪茶丘が敗走している。
(備考)服部英雄『蒙古襲来』(山川出版社、2014年)は、これらの数字は誇張されているとする。本稿では、従来の多数説の数字をそのまま用いている。
さて、歴史に残る蒙古東路軍の長門侵攻劫掠だが、東路軍「900艘」のうち「300艘」が、長門国「土居浜(土井ヶ浜)」に、上陸する寸前の態勢で浜辺近くの海上に展開した、とするのが従来の多数説。服部は、「実際に上陸した」と解釈する(注1)。
住所が豊北町大字神田上の、「土井ヶ浜」の位置は、角島と山陰本線の長門二見駅の中間にある。この東路軍分遣隊は、結局、多少の戦闘をしたとしても、基本的には本隊が展開している博多湾の方に向かっている。なお、この分遣隊の長門侵攻目的は、土居浜を押さえ、次に豊浦の室津を押さえ、さらに南下して関門海峡を制覇することだっただろう。モンゴル軍が、関門海峡を制圧した後は、京都を目指すことに疑う余地はない。
鎌倉の執権・北条時宗は愛国心に燃える“武士の鑑”だが、その上、外交と軍略にも秀でていた。
時宗の外交の才とは、蒙古が提示する「講和」「友好」の国書を直ちに“騙し”と喝破し使者の首を刎ねる迅速な判断力の事である。後者の軍略の才とは、文永の役の経験から、急ぎ長府(現・下関市)に長門探題(外敵防衛司令部、1276年1月には北条時宗の弟「宗頼」が着任)を設置し軍備を大幅に増強したことに表れている。また、長門国の北に位置する土居浜もしくは油谷湾から南下して室津、さらに下関(赤間関)までの防衛には、長門国/周防国(以上は、現・山口県)安芸国(現・広島県)の地頭御家人に文永の役の後に早々と命じている。これに備後国まで加えている。門司関の防衛は、同じく、豊前と豊後の地頭御家人に命じている。時宗の関門海峡絶対防衛の姿勢は鞏固であった。
話を戻す。現在の山口県長門市は、蒙古東路軍の長門侵攻劫掠の「長門」とは地理的に一致しない。が、“侵略のロシア皇帝”プーチンが「長門市」で一泊すると聞いて、以上の1281年蒙古東路軍の長門侵攻劫掠を思い出さなかった者は、日本の知識人ではない。教養ある日本人ですらなく、下賤の無学な車夫馬丁に同じ。
“モンゴル帝国の後継国”ロシア皇帝の戴冠式正装は、ニコライⅡ世までモンゴル服
次に、ロシア国とかロシア帝国と聞いて、「なんだ、13世紀の蒙古帝国/モンゴル帝国の後継国家か」とすぐさま連想しない評論家など、これこそ知識人の端くれにもならないエセ評論家である。ロシア帝国の発祥であるモスクワ大公国は1480年、“タタールの軛(=モンゴル帝国の苛斂誅求の収奪)”から解放されて建国されたとするのが、小中学校で習う歴史。だが、高校生以上で、間違いではないがこの不正確な歴史をもってロシア帝国史だと思うならば、余りの常識のなさに、ただ嗤うほかない。
モスクワ大公国は、モンゴル帝国の西を押さえるキプチャク汗国の「娘婿」イワン三世が建国した。そして、「母方」のキプチャク汗国(ヴオルガ川の首都サライ)を滅ぼしたが、キプチャク汗国の正統な継承国家であるとの意識を絶対的に有していた。ロシア帝国の皇帝の正統性は、モンゴル帝国の後継において、付与されていたのである(注2)。
それだけでなく、チンギスカンのモンゴル大帝国の全てを再興する使命を帯びているとの妄想的信念において、ロシアはこれまで精神におけるモンゴル帝国であったし、今もそうだし、これからの未来もそうだ。なお、ロシア皇帝に使われる「ツアーリ」とは、被支配民族がキプチャク汗国の皇帝に対する呼び名。
モスクワ大公国の民衆や奴隷状態の農民は、基本的にスラブ族の一つロシア人である。が、ロシア皇帝(ツアーリ)で、モンゴル人でない者、モンゴル人の血が入っていない者などいるのか。例えば、モスクワ大公国の第三代国王(=ロシア帝国の初代皇帝)イワン雷帝は、血統でいうならば、「ロシア人8分の1、モンゴル人8分の7」である。人類学的にはイワン雷帝は、モンゴル人に分類できても、ロシア人には分類できない。
そもそも、ロシアの皇帝の中で、戴冠即位式においてチンギスカン以来の正装であるモンゴル服を着なかったのは、ドイツ人の女帝エカテリーナ二世だけしかいない。最後のロシア皇帝ニコライ二世の戴冠即位式(1894年)における、皇帝・皇后の記念油絵が、インターネットでも見る事ができるから、とくと見てみよ。モンゴル服ではないか。
第一節 “対蒙古の勇者”北条時宗と“対蒙古(ロシア)の売国奴”安倍晋三
マクロ的には以上のように、ロシア皇帝とは、モンゴル皇帝と一直線につながる、その継承上にある。
では、ミクロ的に、現在のプーチン皇帝は、モンゴル皇帝の延長上に捉えることはできるのか。
まず、カルト宗教「共産主義」の信仰を国民に強制したソヴィエト・ロシア崩壊後に復活した、1992年に始まる新ロシア帝国は、世襲のロマノフ王朝の血筋ではなく、KGB第二総局の出身のエリート官僚から“皇帝”を選ぶ体制となったが、恐怖の国民弾圧監視の巨大官庁であるKGB第二総局は、直接的にはレーニンの腹心ジェルジンスキーの「チェーカー」から発展したもので、ソヴィエト・ロシアの延長上にある。
次に、「チェーカー」は、元を辿れば「チンギスカン→イワン雷帝」で発展していた(注3)、ロシア帝国に永く存在してきた“恐怖の国民弾圧監視組織”を母体に、それをレーニン流に100倍ほど極度に血塗られたものにしただけで、ロシア帝国の伝統を基本的には継いでいる筆頭国家行政機構。すなわち、KGB第二総局の頂点から”ロシア皇帝“となったプーチンの地位と正統性は、民族的には「モンゴル人」イワン雷帝に遡ることができる。
ということは、現在のロシア連邦が(バトゥが建国した)モンゴルのキプチャク汗国の後継である事とともに、プーチン大統領も新ロシア帝国の皇帝であり、また同時に1547年ロシア帝国の皇帝となったイワン雷帝と一直線に繋がる“新型ロシア皇帝”だと考えても学術的に間違ってはいない。つまり、新ロシアのプーチン皇帝は、チンギスカンの嫡孫バトゥに繋がっている。
そして、「弘安の役」と歴史が名付ける日本侵略を命じたクビライもまた、チンギスカンの嫡孫で、バトゥとは従兄弟(いとこ)である。とすれば、1281年夏の蒙古襲来と2016年12月のプーチン長門来訪とをアナロジー的に比較することは、理に適っている。以下、北条時宗と安倍晋三とを比較するが、この比較は突飛なものものではなく、論理的に妥当なものである。そして、プーチン大統領を“ロシア皇帝”と見做すだけでなく、竿頭一歩を進めて“蒙古皇帝”と見なす事こそ、現ロシアの真像/神髄に迫ることができる。
日本国の防衛のため、侵略に直結する通商関係を拒絶すべく、モンゴル使者を斬首した北条時宗
『孫子』第13章は、誰でも知っているように、「用間篇」である。「用間」とは、間諜(スパイ、情報工作員)をいかに用いるかという意味。スパイとは、諜報(非公然インテリジェンス)や防諜/対抗諜報(非公然カウンター・インテリジェンス)をする者をいう。情報工作員とは、流言飛語の非公然もあるが、ほとんどは公然と偽情報を流して敵国の判断を狂わせることを専門とする、いわゆるプロパガンディスト(嘘情報宣伝洗脳専門家)のことである。
『孫子』を21世紀の今日でも対外政策のバイブルとしている国はロシアで、これについては世界の多くの国際政治学者が指摘している通り。『孫子』は、間諜を5種あるとし、その第一を「郷間」、第二を「内間」としている(注4)。
安倍晋三を“プーチンの犬”に洗脳した、ロシアが駆使した日本国内に放っている「郷間」「内間」は、具体的に言えば次の諸士。まず、「内間(首長周辺の政府官僚)」は、谷内正太郎/飯島勲/相当数の外務省官僚/相当数の経産省官僚で、数十名に上るだろう。
ロシアが日本国内で暗躍させている「郷間(民間人)」は、鈴木宗男/東郷和彦/岩下明裕/袴田茂樹/木村汎/下斗米伸夫/相当数の朝日新聞記者/相当数のNHK記者/相当数の産経新聞記者などで、200名を軽く超えるだろう。
さて、北条時宗だが、勇猛果敢であるだけでなく、十八歳で執権になったほど頭脳は明晰で、何ごとであれ適格な判断力は群を抜いていた。1275年、前年の「文永の役」の対日侵略に失敗した蒙古のクビライは、再度の侵攻準備として「和親(友好)」関係の締結を促す使者五名を派遣した。この使者は、長門国の豊浦室津に上陸した。時宗は、この五名を幕府の鎌倉に入れず、その手前の現在の藤沢市の「瀧口」で、問答無用と斬首を執行した。
時宗にとって蒙古帝国の皇帝クビライの意図は透け透けに見え、「和親や通商関係をもつことが、逆に蒙古の対日侵略に直結する」と判断した。つまり、「モンゴルからの和親/通商関係の申し入れを断固拒絶する姿勢こそが、日本国の恒久な防衛と安全に資する」と、時宗は判断したのである(時宗25歳、注5)。ロシアへの経済協力が日本の国益だと逆立ち思考する、即ち、ロシアに日本侵略を誘う“スーパーお馬鹿”安倍晋三の度し難い狂気の痴愚は、時宗との比較だけでもはっきりする。
頼山陽は1832年作『日本政記』巻之十一で、時宗のモンゴル使者斬首につき、こう書いている。現代語訳を引用する。
「元寇は、元の使者を殺しても来るし、殺さなくても来る。何故ならば、クビライの志は、我が国(日本)を併呑しようとするのである。…外藩と称して礼物を収めさせ、もし少しでも思うようにならないと、力攻して痛めつけようとする」
「我が国の朝廷の議論では、南宋の君臣がしたように、仮に元と和議を結んで近くの災いを免れることであり、後の大患を知ることがない。士民ともども南宋の将兵のように、優柔にして防衛の決心がつかなかった。然るに、時宗だけは、まだ南宋の前例は知らなくとも、よく後の大患を慮ったのである。《早く絶交の意を示して、来寇を速やかにさせた方が防ぎやすい》と。そこで、元の使者を斬って、決して恐れていないことを示し、もって前年の壱岐・対馬に来寇して、わが良民を苦しめた怨みに報い、後日の迎撃の決意を示した」
「もし後世に、万が一にもクビライのごときものに遭ったなら、必ず趙・南宋が姑息な手段をとって国を失ったことを戒めとし、時宗をもって手本とさせたい」(注6)。
北条時宗が、1275年に《早く絶交の意を示して、来寇を速やかにさせた方が防ぎやすい》と考えたが、その通りに、蒙古は1281年に艦船4400艘/14万人の大軍で来寇した。そして日本はこれを完璧に邀撃・撃退した。北条時宗のこの明哲な対蒙古外交をそっくり踏襲したのが、1902年の外務大臣・小村寿太郎の対ロシア(=モンゴル帝国)開戦の決意であり、1904年2月に開戦し翌年大勝利した。
北条時宗とは真逆に進んだのが、1932年の親日家「リットン卿」の国際連盟調査団に叛旗を翻して以来、1941年に中立条約を結んだ“逆走の昭和日本”の十四年間だった。結果は、残虐凶暴なロシア=モンゴル帝国が、満洲において日本人婦女子を阿鼻叫喚の地獄で大量殺戮するのを拱手傍観する羽目に陥った。
“侵略国家の甘言”「経済関係の発展が両国の和平の道」など真赤な嘘であるのは、考える以前に明らかなこと。ロシアが「友好」とか「親善」とか「善隣」とかを口に出して近づいた国で、ロシアに侵攻されなかった国などない。
ロシアの間諜(対日工作員)を処断せず、逆に重用し近未来に日本を亡国に導く安倍晋三
日本国の安全に責任を持っている総理職の職務すら自覚できない“プーチンの犬”安倍晋三が仮に覚醒して、日本が産んだ“天才外交官”北条時宗を真似るとすれば、クビライ蒙古帝国の使者を瀧口で斬り捨てたように、12月15日、“侵略の蒙古皇帝”プーチンを長門市で殺害するのが最高の策なのは言うまでもない。が、これは今般いったん考えないことにしよう。外交的に得策とは必ずしもいえないからだ。
代わりに、プーチンが日本国内に放っている「内間」と「郷間」を、長門市のプーチンの目の前で斬首する策はいかがだろう。例えば、「内間」の代表として谷内正太郎と飯島勲の二人を、「郷間」の代表として鈴木宗男/東郷和彦/岩下明裕/袴田茂樹/木村汎/下斗米伸夫の六人の首を刎ねれば、政敵殺人を日常とする悪鬼プーチンだから(注7)、日本国を残忍なロシアの仲間だと心底から尊敬し、直ちに北方領土をすべて即時返還するだろう。だが、この策は、今や21世紀であって、鎌倉時代ではないから時代錯誤も甚だしい。そもそも刑法の殺人罪に抵触する。
やはり、刑法第81条の外患罪に基づく、ロシア対日工作員(間諜)に対する処罰を可能とする法律を制定するのが王道。刑法第81条は、「外国と通謀して日本国に対する武力を行使させたものは、死刑に処する」とある。この「行使させた」を「行使させた、もしくは行使させる」と改正し、「死刑」を「死刑、もしくは懲役三十年」に改正する。むろん、この時、削除中の刑法第85条を復活する。
そして安倍晋三は、12月15日、プーチンに、北条時宗のモンゴル帝国使者斬首のエピソードを語り、その中で刑法第81条に基づく立法をしたい旨を、さらりと独り言的につぶやくことだ。これが、婉曲で柔らかな外交的圧迫というもの。外交は心理戦である。
第二節 “対ロ売国奴”河野一郎と安倍晋三、いずれがより重罪か
かつて外交官の曽野明に、ロシアから確実に北方領土を奪還する方法は、次のABC三心得を守り、この三心得から万が一にも逸脱しないことだと説明した時、曽野明が「その二番目は、親父(「吉田茂・総理」の事)の持論で、中川君は本当に“吉田茂の生まれ変わり”だ」と言った。
A 北海道をハリネズミ以上の重武装の要塞化する。
B ロシアとは決して外交交渉をしない/平和条約は決して締結しない。
C 「北方領土からロシア軍を撤兵させ、そのあと陸上自衛隊を進駐させる」形の領土返還とする。
「北方領土+千島諸島」の全面無条件返還の直前までロシアを追い込んでいた吉田茂・総理
総理の吉田茂は、1954年のまだ政権から追放される以前、「もうしばらくすると、ロシアの方から、南樺太だけははっきりしないが、北方領土(=当時は、四島および千島列島および南樺太の全てを含む)を即時無条件返還したいと申し出てくるぞ」と側近に語っていた。吉田茂のこの推測は数学の解のように正確なものだった。
ロシアはサンフランシスコ講和条約の調印を拒否して退場したため、日本との間に平和条約がなく、1952年4月29日以降のソ連政府代表部はソ連大使館になれず不法組織となっていた。この状態は、外交官扱いのソ連政府代表部の職員は、アグレマンの期限が切れれば帰国せざるを得ず、しかも補充されないから、1954年12月時点ではついに七名になっており、1955年中にはほぼゼロ名になることが確定していたからだ。
つまり、対ロ外交では準天才級だった吉田茂は、「ロシアは、一日も早くソ連大使館を設置して、外交官(ほとんどがKGB第一総局の対日工作員)を大量に送り込みたいはずだから、必ず『北方領土を直ぐ無条件で返還するので、代わりに国交回復をさせていただきたい』と申し出てくる。しかも、それは既に秒読み段階だ」と判断していた。確かに(1952年4月時点)800名もいたソ連政府代表部は、不法組織になっただけでなく、その職員は(1954年12月時点)10名を割っていた(注8)。
なお、ロシア民族には、国際法とか“法の支配”とかは、いっさい存在しない。権力の命令が法秩序の全てである。このように自生的秩序を欠如するため、一般にロシア民族は“紛争における法的な処理”は発想できず、未開部族と同じく物々交換がそれを代替する。だから、「北方領土の返還←→ロシア大使館の設置(=国交回復)」という物々交換が、外交交渉で敗れた場合/外交交渉をしてくれない場合の、ロシアの腹積もりとなっていた。
ロシア民族を知り尽くしていた吉田茂は、こう透視して、ロシアに対する無交渉・無条約主義だけが、確実に北方領土を得撫島以北の千島列島を含めて容易に奪還できると確信していた。また、ロシア側も、吉田茂が1956年まで総理大臣であり続ければ、北方領土を得撫島以北の千島列島を含めて返還せざるを得ないと諦念していた。
ところが、日本に不幸が舞い降りた。この重要な1954年12月、吉田茂が政権の座を追われることになったからだ。しかも、その後釜が、“スーパー外交音痴”鳩山一郎。
案の定、総理になるや、鳩山は、自分の名声を後世に残したい一心から、日ソ平和条約締結と北方領土の奪還を大声で自分の政治の最優先テーマだと宣言した。そして、ロシア工作員で共産主義者であるという理由で外務省から馘首されていた“札付きの赤”杉原荒太を顧問にした。安倍晋三が“ロシア人”鈴木宗男を顧問にしているが、安倍は鳩山一郎そっくりで瓜二つである。
その後、鳩山一郎は、この杉原によって、“不法組織”ソ連政府代表部の最後の七名の一人ドムニツキー(ベリア系のNKGB将軍)の操り人形になった。1955年1月以降の日本の対ロ交渉は、すべてロシアの言いなりになるほかなかった。鳩山が調印した「日ソ共同宣言」は、日本側の言い分はゼロ%で、ロシアの最終目標「ソ連大使館が設置できる国交回復」及び「北方領土はいっさい返還しない」を100%その通りに書いたものとなった。吉田茂の無交渉・無条約という最高の外交は、“お馬鹿”鳩山一郎と“ロシア人”河野一郎によって無惨に打ち砕かれて、日本は自滅した。
(現在価格で)六百億円を手にすべく、北方領土をロシアに売ったコミュニスト河野一郎
戦後すぐ、マルクス『資本論』ばかりを読み漁っていたコミュニスト河野一郎は、生涯にわたって、自分を日本国民だと考えたことはない。ひたすら総理になりたいとの野望一心で、共産党への入党も(戦後初の衆議院選挙での)共産党からの出馬も断った。“非・日本国民”河野一郎にとって自分の「敵国」である日本の領土などロシアに呉れてやっても惜しくなかった。詳しくは、『撃論』第七号の拙稿「“売国奴三代”河野太郎を日本から追放しよう」(注9)を参照されたい。
北方領土を日本が捨てなければ、北海道の貧窮に苦しむ漁民が永久にオホーツク海の北洋漁業に出漁できない日ソ漁業協定を、河野一郎が独断で先に締結した理由は、日本側を北方領土放棄に追い込むためである。この結果、鳩山一郎は、何でもかんでもロシアの言いなりになって日ソ共同宣言に署名するか、手ぶらで日本に帰国せざるかの岐路に立ち茫然となった。功名に焦って愛国心がない鳩山一郎は、前者を選択した。1956年10月だった。
なお、この日本騙しの策略で河野一郎は、「日露漁業」等のオホーツク海での漁業私企業を通じ、(ロシアからのご褒美である)当時のカネで20億円を手にした。ロシアは、この「20億円」を日本の漁業会社に違反操業させて稼がせて河野一郎に渡すよう命じ、自らの懐を痛めてはいない。
表1;“対ロ売国奴”河野一郎より百倍ひどい“史上最凶の対ロ売国奴”安倍晋三
なぜ日本は、1961~78年、1989~96年、北方領土への無血進駐をしなかったのか
日本人の政治家は、今の外務省の外交官もそうだが、ロシア工作員にリクルートされていなければ、ロシアについて全く無知の“お馬鹿”しかいない。なぜなら、ロシアの侵略した領土の返還方式を全く知らないからだ。この度外れの無知において、日本人は“お馬鹿”というより、「日本人=白痴」と見做した方が、適格に的を射ていよう。
ロシアは、侵略地を返還する場合、黙って返還する。交渉で返還することは原則的にない。ロシアは、国際法に則って何事も処理する米国や英国ではない。13世紀のモンゴル帝国のままのロシアは、自国軍隊を撤兵させ、それを固有の領土だと主張する隣国が陸軍部隊を進駐させるのを見届けるのをもって、領土返還の儀式を終了したと考える。この事は、1989年夏のアフガニスタン全土のアフガニスタンへの返還をみればわかるだろう。ロシアは外交交渉でアフガンから撤兵したわけではない。条約で撤兵したわけではない。
あるいは、同じ1989年11月、ロシアは東欧諸国を解放するに、ヤルタ協定の締結相手国である英国と米国と交渉しなかったし、条約を結んだわけではない。ロシアは、「東欧が主権を回復したいというから」「われわれも新思考で対処したい」等と、勿体ぶったド派手演出で、ただ“撤兵する”旨を宣言しただけ。この時、撤兵の条件ではなく、“撤兵をできるだけ早くするため”との屁理屈で、「東欧侵略ロシア軍部隊の将兵の住宅建設費用」と「撤兵費用」を西ドイツからがっぽり召し上げただけ。無交渉・無条約が、ロシアの領土返還の基本的やり方で、これ以外をロシアは知らない。
要するに、ロシアは侵略した領土を正当化するために条約や協定を欲するけれど、手放す時は条約や協定を徹底的に嫌悪し排斥する。理由は二つ。第一は、そのようなものは再侵略する時に障害になるからである。第二は、神に孕まれた無謬のロシアに、恥ずかしい領土放棄の証拠文書など存在してはならないと信仰しているからである。
日本の外務省も政治家も、このロシア民族の基本行動を知らないから、ロシアが「北方領土を返還するので、どうぞ進駐して下さい」のシグナルだった、1961年から1978年の十七年間に及ぶ、北方領土の完全非武装化時代を、日本はフイにした。私は、東大在学中(1963~67年)、旧帝国陸軍の親英米系の元将校たちに、なぜ陸自は無血進駐をしないのかと説いて回ったが、皆、ただポカンとして無反応だった。日本人がロシア民族の対外行動パターンを熟知していた時代は、小村寿太郎・外務大臣の引退をもって消えたのである。
ロシアが領土問題の無交渉・無条約を旨としている以上、その返還の合意と儀式は「平和的撤兵と平和的進駐」以外の方法などある筈もないではないか。日本が北方領土を奪還できるチャンスは、上記の東欧解放の時、再び廻ってきた。1989年頃から国後・択捉島の軍事力はみるみるゼロとなり、これは1996年まで確かだった。この七年の間に日本が進駐すれば、エリツイン大統領などロシアは苦々しく思うだろうが、拱手して傍観したのは間違いない。
日本が南樺太も千島は占守島まで含めて、北方領土を完全奪還できるチャンスは必ず来る。このために、絶対に日露平和条約だけは締結してはならない。
安倍晋三よ、長門市で、プーチンに「日ソ共同宣言」の廃棄を通告せよ
北方領土を奪還するための日本の方策は、1956年の河野一郎のような対ロ売国奴の暗躍などで自壊的にハチャメチャになっている。河野一郎の次は、1973年の田中角栄。続いて1980年代に入るや、「安倍晋太郎→小沢一郎」などが掻き回してしまった。
そして、2013年4月からは、河野一郎以上の“対ロ売国奴”安倍晋三が、これまた我が国の対ロ外交を全面破壊した。この情況にあって、日本の対ロ外交を再建する方策は、一度原点に戻ってリセットするほかない。すなわち、1954年12月に戻ることである。
ロシアは、米英と異なり、手続きのルールがないので、仕切り直しをすると当方が主張すれば、それで済む。対ロ外交は、郷に入っては郷に従えで、ロシア民族の対外行動と対称性symmetryを根本とすべきである。また、ロシア民族の文化からして、ロシアが困惑したり恐怖を感じたりしたとき以外に、ロシアは決して妥協しない。ロシアを妥協に追い込む方策は、日本の次の宣言こそがもっとも有効ということだ。
即ち、安倍晋三が、プーチンに対し、鳩山一郎が1956年10月に調印した「日ソ共同宣言」を廃棄すると通告することである。この通告は、両国の大使館閉鎖になるため、プーチンは必ず真っ青になる。
何故なら、ロシアの大使館は外交機関ではない。KGB第一総局(SVR)が管轄するその東京支局で、あくまでも謀略機関である。そもそもロシア外務省も、KGB第一総局の下部機関で、自由社会の外務省とは似て非なる組織である。そして、ロシアにとって、国後・択捉島と西麻布のロシア大使館のいずれが重要で価値が高いかと言えば、圧倒的に後者。つまり、ロシアは、ロシア大使館を堅持するためなら、その交換として国後・択捉島を必ず返還する。
(2016年12月12日記)
注
1、服部英雄『蒙古襲来』、山川出版社、407頁。
ところで、従来の蒙古襲来に関する専門書/研究書の代表は、相田二郎『蒙古襲来の研究』、吉川弘文館、か。私は、中学二年生(13歳)の時、この著を読んで暗記した。そして、博多湾の百道原(現在は「西新」という)や姪浜、あるいは今津などに遺る防塁の史跡を詳細に見て回った。生の松原の防塁跡は、まだ発掘作業が始まっていなかった。
2、杉山正明『モンゴル帝国と長いその後(興亡の世界史)』、講談社、287~92頁、などを参照の事。
3、リチェルソン『剣と盾―ソ連の情報戦略』、時事通信社、3頁。
4、『孫子』、岩波文庫、148~50頁。
5、川添昭二『北条時宗』、吉川弘文館、141頁。
6、頼山陽『日本政記』、白川書院、218~20頁。
7、アルカディ・ワスクベルグ『毒殺―暗殺国家ロシアの真実』、柏書房、などが参考になろう。
8、正確な数字「800名」の資料が見つからないので、本稿ではソ連が表向き公表した数字「500名」が記載されている資料、久保田正明『クレムリンへの使節』、文藝春秋、14頁、を引用する。「占領中、五百人ものの人員を擁して活発な活動を展開したソ連政府代表部も段々と本国に引き揚げていき、当時は十名足らずが細々と働いているに過ぎなかった」。この「五百名」だって異常に多すぎる。彼らは政界・官界・労働界・教育界など日本のあらゆる要所にロシア細胞を構築した。
9、『撃論 第七号』、75~7頁。