「古事記は偽書!」「その序は偽書!」と大騒ぐ“お遊戯会の幼稚園児”古代史学者を一人残らず解雇し絶滅させねば、日本国は歴史を完全に喪失する──日本国民が、中川『神武天皇実在論』を必携し座右の書とすべき理由(Ⅶ)  

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 千葉大学とは、2007年、100%盗作の著作を出版した廉で、教授・三浦佑之(当時61歳)を懲戒免職すべきにそうしなかった。まさに、犯罪を奨励するトンデモ国立大学。文科省は、千葉大学の文系学部全てを廃校に処分すべきである。赤字財政で日本経済の爆発的破綻が近づく今、税金節約は日本国の至上命題。有害文系学部の軒なみ廃校は急務。千葉大学を率先的にその第一号にしよう。

 この100%盗作の著作とは、三浦佑之の『古事記のひみつ』のこと。今や共産党員の賛助出版社に成り下がった吉川弘文館の出版。三浦佑之は、大学とは言えず直ちに全学を廃校すべき“アホ馬鹿教員と超アホ馬鹿学生の遊園地”成城大学卒の、不謹慎にも古事記を飯の種にする、劣悪なノン・フィクション作家。当然、学問など一㍉もできない。が、千葉大学は共産党からの指示で、学者以前のトンデモ三浦佑之を教授に採用した。通常なら助手にもなれない小学生レベル。

 もう一度言う。三浦佑之の『古事記のひみつ』には、独自研究した箇所は一ヶ所もない。古事記「序」を「偽書だ」と連発するだけで、1971年に出版された鳥越憲三郎の『古事記は偽書か』をそのまま100%盗作した著作以前。三浦佑之の悪質な犯罪者性を、言語道断で済ましてはいけない。

“盗作魔”三浦佑之よ、鳥越憲三郎が発表した以外の独自「発見」を、一つでいいから挙げてみろ

 共産党が戦後、天皇制廃止を狙って流した流言飛語である、“古事記偽書説”の系譜が次。

1951年の筏勲→1971年の鳥越憲三郎『古事記は偽書か』→大和岩雄『古事記成立考』(1975年)『古事記偽書説の周辺』(1979年)『古事記偽書説は成り立たないか』(1988年)→三浦佑之『古事記のひみつ』(2007年)→関根淳『六国史以前』(2020年)

 三浦佑之『古事記のひみつ』の初出は、その出版二年前、2005年1月28日の『古事記年報』第47号。これを読んだ時、かすかな記憶でどこかで読んだなと書庫を探したら、なんと三十四年前の1971年に朝鮮人・鳥越憲三郎が、朝日新聞社から天皇制廃止キャンペーンの一環で出版した『古事記は偽書か』の完全盗作ではないか。「内容が似ている」「半分は盗作だな」ではなく、文系学者の大犯罪である100%盗作。懲戒免職しなかった国立大学・千葉大学は、この犯罪の共犯者。

 脳内空っぽ三浦佑之のハチャメチャ出鱈目詭弁を、以下解剖する。その前に、古事記に関する基本的知見を、お浚いしておこう。

①古事記は、天武天皇(崩御686年)の御代、稗田阿礼が誦習した時点で完成とすべきもの。つまり、七世紀後半の「682年末の編纂」(注1)などとすべきもの。

 換言すれば、古事記の成立を、元明天皇に文字化版を上呈した712年の八世紀と捉えるのは、大いなる間違い。このことは、古事記が、甲乙二つの「も」音を区別していることでも明白。700年頃から、日本人の「も」音は一つになった。日本人の言葉は、それまでの88音が87音になった(現在の日本人は51音ではなく48音しか発音できない)

 稗田阿礼は、682年に28歳とすれば(注1)、その生まれは654年。当然、彼女の「も」音は甲乙の二つ。太安万侶が、稗田阿礼の発音した通り、甲乙の「も」にそれぞれ宛て漢字を宛てている。

(注1)中川八洋『神武天皇実在論』、278頁。

②古事記を我々が、岩波書店の日本古典文学大系などで読めるのは、真福寺や卜部家が書写していたお蔭である。それらは、712年から五百五十年もの歳月が経った、鎌倉時代の1260年代以降。五百五十年も経てば、書写時に、712年の原本とは異なる部分が多々発生する。書写する際の、書写者の自分への注意メモなども、そのまま原本文章かに紛れ込んでしまう。

 この書写者の自分への注意メモだと目されるのが、『古事記』冒頭第一行目の「併(せて)序」の二文字(注2)。「序」は、平安時代以降の日本語の漢字だから、この二文字「併(せて)序」は、原文には無かった二文字である。そもそも天皇への上奏文に「序」などあろうはずもない。校注した倉野憲司は、二文字「併(せて)序」を復元してはならず、誤記として岩波書店版から削除すべきであった。

 また、太安万侶の元明天皇への上表文のタイトルかに一瞬、錯覚させる五文字「古事記上巻」も、上表文の前にあろうはずもない(注2)。五文字「古事記上巻」は、岩波書店版の50頁と51頁の冒頭にそれぞれ書かれるべきは自明。そこに移動させるのが校注者の仕事。倉野、しっかりしろ!

(注2)『古事記・祝詞』、岩波書店、42~3頁。

③大和朝廷とは、公的な政府を指す。“内廷”というべき皇室内部の組織とは、一応切り離されていた。舎人・稗田阿礼は天武朝から元明朝に至るまで一貫して内廷官吏。“宛て漢字の天才”太安万侶は、古事記の文字化作業時では内廷官吏。この太安万侶が、その後、大和朝廷で出世していくのは、『古事記』文字化の功績が評価されたからだろう。大和朝廷の「長」も、内廷の「長」も、共に天皇。天皇は、臣下の人事で両者間を移動させる大権を有していた。

(備考)古事記の上表文には、その時の太安万侶は内廷官吏だから官職がない。『続日本紀』養老七年七月七日条の死没記事では「民部卿」とある。712年以降、太安万侶は、朝廷官吏として出世した。

 古事記は、この内廷(天武天皇)での編纂。文字化も内廷(元明天皇)での作業。一方、日本書紀は、律令制定と同じ、朝廷の公式な政府事業。朝廷が、古事記と日本書紀の両者を編纂し文書化したのではない。古事記が日本書紀の編纂作業に一切供されなかったのは、「天武天皇→元明天皇」の私的な事業成果で、古事記が皇室の私物だからだ。唐からの特使も朝廷の何人も閲覧できる日本書紀と、臣下といえども閲覧不可の、名刹の秘仏と同じ皇室の私物たる古事記とを同一視するような無知蒙昧は、古代史学界から追放処分に付されるべきである。

小学校一年生より頭が悪い三浦佑之の人格は悪辣な犯罪者で、詭弁と捏造を喚き散らす与太者

 能力的に歴史学など無理な、IQゴミ以下が行くFラン成城大学卒が、飛びぬけて高度なIQと倫理的人格を要求する“推定をふんだんにしなければならない古代史”研究に関われば、三浦佑之のごとく“詐言のペテン師”にしかなりえない。現に太安万侶は、712年の上表文に、「古事記はずっと昔(中川は「三十年前」と仮定)の二十八歳の稗田阿礼の誦習」だと明記した。が、悪辣な嘘つき三浦佑之は、「古事記本文は、和銅五年(712年)よりも古いと考えることである」(注3、94頁、103頁)と、「ずっと昔(中川は「三十年前」)に編纂された」誰でも知っている事実を、俺様こそが発見者だと自慢する。三浦佑之は、月を初めて認識した三歳の童子が、「月は、僕が発見したンだ」と燥ぐ姿と瓜二つ。侮蔑する他はない。こんなお馬鹿に税金を給与で垂れ流した千葉大学は、公金不正流用の犯罪大学である。    

(注3)三浦佑之『古事記のひみつ』、吉川弘文館。以下の本文ページ数は、全て注3。

 また、内廷であろうと朝廷であろうと、天皇からの命令で編纂された歴史書を天皇に公的に上呈する時には上表文を付けるのは、当時の政治制度では決して欠いてはいけない当然のスタイル。古事記が文字化された時、上表文が必ず添付されている。当然、今に伝わる太安万侶のそれが太安万侶の作であることに疑いはない。

 が、大嘘つきの三浦佑之は、この当たり前の歴史事実を全否定すべく、この上表文を百年後の平安朝の偽作だと喚き散らす。偽作は上表文=序ではなく、三浦佑之の嘘八百暴論の方だ。

 以下、この脳内スッカラカンで歴史が全く分からない“超お馬鹿”三浦佑之の古事記“嘘歴史”デッチアゲの手口を、その主要な嘘の一部をABCDとリストしつつ、考察する。

A;七世紀後半に完成し文字化されていた古事記には、上表文(序)が添付されていなかった(90頁、94頁)

B;この上表文を書いたのは、(太安万侶の曽孫と目される)多人長(おおのひとなが)で、813年(弘仁四年)か、その直前だろう(139頁)。太安万侶ではない(113頁)。これによって、誰が編纂したか分らないが、七世紀後半にできていた、つまり百年間以上も埋もれていた古事記が、権威をもって初めて表舞台に出てきた(109頁、135頁)

C;古事記が日本書紀と並んで存在する(同時に編纂される)ことなど、決してありえないし、説明も決してできない(90頁、95頁、117頁、118頁)

 つまりCは、次の意味。現在のわれわれが手にしている文字化された古事記は、天武天皇が日本書紀を国家事業として編纂すると大極殿で宣言した681年3月17日以前に存在していた。

D;『続日本紀』の天武紀には、古事記編纂の記述がない。つまり、古事記の「序」が言う、天武天皇の古事記編纂命令などなかった。これはまた、「序」が嘘を述べていることになる(97頁)

 何ともお粗末で悍ましい歴史捏造であることか。実際の真相は、次のようなものだろう。これは、私の想像・仮定でもあるが、広く普遍的に共有されている無意識の常識であろう。

 天武天皇は、大和朝廷として日本書紀の編纂をせよと命じた681年3月の直後、内廷の方で、自分流の皇統譜の研究作業──複数説が無造作に集められている帝紀と旧事を“より真実に近い皇統譜一本”に絞る勉強会──を開催した。これは、682年12月まで、約一年半ほど開かれた。この研究会には、現在の宮内庁書陵部の幹部職員を動員したと想像すればわかり易いが、帝紀・旧事を管理する官吏のうち優秀なもの数名を召集。そして、研究が進むごとに、天武天皇は稗田阿礼に朗誦でテープ起こしができる形で、記憶させた。

 この私の想像・仮定がそれ相当に合理的だろうことは、次の現実を想像すれば納得できよう。天武天皇は、日本書紀の編纂のため朝廷内の漢文の達人数十名を集め、その作業を開始させたが、最初の二年間は、支那や新羅からの暦学の“外国人教師”の下で、彼らはみっちり暦学を叩き込まれていた。つまり、帝紀・旧事の史料は、最初の二年間では、編纂官たちはまだ使っていなかった。

 現実にも、「720年-681年=39年」と、日本書紀の編纂には、約四十年の歳月がかかった。編纂作業の最初の二年間は、編纂準備で忙殺され、編纂そのものにはまだ手がついていないはず。つまり、これら漢文の達人たちは、帝紀・旧事の史料などに目を通す段階ではなく、これを内廷で使用していても、彼らの作業を妨害することにはならなかった。

 すなわち、古事記の研究会は内廷、日本書紀は朝廷で、それぞれ同時に進行した。この二年間に限れば、前者は編纂作業をしており、後者は編纂前の基礎学問の習得や編纂作業の方法の研究に忙殺されていたから、重なり合う部分は全くなかった。朝廷(=政府)と皇室内の内廷は、このように指向も作業アジェンダも全く異なっていた。両者のそれぞれの仕事は、同時進行しても、問題一つ生じなかった。

 蛇足。内廷官吏には祭祀関係者が多く天照大神やそれ以前への尊崇が強度だった。ために、内廷における天武天皇の帝紀・旧事の史料研究会では、自ずと神代史の研究に比重が傾いた。室町時代以降に古事記研究が本格化したが、それらは大中臣家や卜部家など伊勢神宮や神道関係者においてなされた。古事記が、日本書紀と異なり、天照大神の故地である高天原=伊都国の原初の宗教を濃く記録していた特性のためである。

 話を戻す。681年3月から天武天皇崩御の686年までを、上記以外の様々なケースで想像しても、古事記編纂作業と日本書紀編纂作業とは、文句なしに両立する。が、IQが幼稚園児より悪く分裂症もひどい三浦佑之は、「律令国家の建設を進める天武天皇が、全く別な二種類の歴史書をつくろうと考えることなどあり得ない」(117頁)と高飛車に、当時の朝廷や天武天皇の行動を身勝手に妄想しては規定する。

 準天才級の飛び抜けた頭脳をお持ちの天武天皇は、結果として古事記を編纂されたが、天皇直属の研究会が、当初から古事記編纂を目的にしていたかは、むろん定かではない。偶然の可能性もある。だからと言って、三浦のように、古事記の編纂をもって、「唯一の歴史を持とうとする天武天皇の意思とも矛盾してしまう」(117頁)と難癖を付けるのは、三浦佑之がヤクザや暴力団の類だからだ。

 相互に参照などしていないのに、皇統譜で日本書紀と古事記の間には何一つ齟齬も乖離はない。唯一のより真実に近い歴史に整理したいとの天武天皇のご希望は、まさに日本書紀と古事記によって叶えられている。準・天才の天武天皇の炯眼と行動は、凡人の域を超えていた。

三浦佑之の分裂病“大妄想”「古事記は681年以前に人知れず編纂され存在していた」は怖い!

 三浦佑之は、不敬も甚だしく、天武天皇を「分裂症だった」と罵倒する。このところを引用する。

「日本書紀《天武紀十年》の記事と古事記《序》の記事は、どちらか一方が嘘を吐いていると考えるしかなかろう」「もし同じ人間が、この二つの事業を同時進行で行わせたとしたら。命令者である天武と言う人物は分裂症だった」(118頁)

 天武天皇を「天武」と呼び捨てした挙句に、天皇を「人物」とまで貶め、さらに「分裂症だ」とは、血塗られた共産党員・三浦佑之の恐ろしい本性が爆発している。日本書紀《天武紀十年》の記事も太安万侶の古事記《序(上表文)》の記事も、どちらも真実を今に語り継いでくれている。前者は、唐帝国の遣使を含め大和朝廷の全官吏が閲覧できる公式歴史である。後者は、内廷の天皇・皇族だけが閲覧する皇祖皇宗の歴史。双方が存在することによって、日本国の歴史がより豊かにより正確により美しくなっている。

 われわれ日本国民は、古事記と日本書紀という二つの史書をわれわれに残された偉大な天武天皇にただただ感謝するばかりである。三浦佑之は、高市早苗に嚙みついた北朝鮮人・小西洋之に実に酷似しそっくり。三浦佑之と小西洋之は、ともに日本国から追放しなければならない。

 さて、三浦佑之は、いったい何を言いたいのか。「太安万侶の上表文は、偽書だ! 偽書だ!」と喚くように、古事記は681年以前に人知れず存在していた民間の文学的古典であるべきだと言いたいのである。大和朝廷や皇室と無関係な文学作品が天から降ってきたとの仮構“嘘歴史”を信仰する、狂人の願望に現実を強引に改竄したいのである。

 確かに、この三浦の願望は、三浦の狂人度が尋常なレベルをはるかに逸脱することを示している。なぜなら、古事記とは、帝紀と旧事を下敷きに複数ある説から一本に絞る、天武天皇の撰録。それを、文字も読めない/帝紀・旧事も所有していない/巨額の資金もない民間人が、人知れず編纂できると言い放っているから、三浦佑之は鉄格子の精神病院に収監されるべき、重症の狂人。

 例えば、三浦は次の現実が想像できない。元明天皇は、稗田阿礼が暗誦していた古事記を文字化するに、今の価格で二億円ぐらいの予算を使われた。この資金がなければ、古事記が万が一にも世に出ることはなかった。このような高額な金を誰が出したかを提示することなしに、「元明天皇と太安万侶と稗田阿礼の三名によって古事記が世に生まれ出た」以外のいかなる説も妄説・暴論であり狂気なのは自明。が、三浦佑之は、平然とこの狂気の言説を吹聴して已むことがない。 

 三浦佑之は何一つ歴史を知らない。だから、「当時の紙の価格は、A4一枚が五千円から一万円すること」「古事記文字化での清書要員六名程度が必要」「宛て漢字の専門家(助手)も三~四名が必要」「さらに、帝紀・旧事の記述とのチェックをする者が五名以上」など、相当な費用がかかることを想像しない。三浦佑之は、六流学者以下と言うより、暴力団より質が悪い与太者の極み。

 三浦佑之の歴史知らずを、もう一つ。内廷の作業だから古事記編纂は、『続日本紀』に記載されることはない。が、三浦は歴史学者でないから、こんなことも知らない。ほとほと呆れ果てる。

 無知と狂気だけしかない三浦佑之は、古事記を天から降ってきた文学作品であって欲しいと、矢鱈目鱈、明白に確定している歴史を改竄・捏造してそれを追い求める。一方、劣化し続ける日本人は、この狂人の狂気の戯言を学説であるかに感心して読んでいる。日本国は腐ったイワシの墓場となって、既に死滅している。 

(2023年5月18日記)

 

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