日本は1950~1年、憲法九条「国防軍設置」改正と“古代天皇テロリスト”津田左右吉の断罪を、国家永続のため絶対に避けてはならなかった──日本国民が、中川『神武天皇実在論』を必携し座右の書とすべき理由(Ⅵ)

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 日本は、頭部の上半分が斬り落ちた、脳・眼球・耳の無い巨大恐竜に譬えられる。残っている鼻で嗅いで食物を見つけてムシャクシャ食べ、“俺はまだ生きているゾ”と、迫る死期を気付こうとはしない。戦後日本が、このカタワ恐竜になるべく、みずから脳・眼球・耳を斬り落した最初が1950~1年。

 しかも、日本にとってかけがえのない人材の吉田茂と坂本太郎が、この張本人だから、怒りのやり場がない、何とも空しい戦後日本の再出発だった。その後の日本は、暗愚な愚行を積み重ねるばかりで、すでに七十年以上。今や日本は、未来へのいかなる希望も潰えて消えた。絶望の八方塞がり状態で、転落一途。

 話を戦後直ぐの日本に戻す。日本が決断一つで国家再生に国策のベクトルを正しく転換できる情況が、敗戦から僅か数年後の1949年10月&1950年6月、期せずして到来した。が日本は、暗愚と惰弱に耽り、この好機を意識してごみ箱に捨てた。この「情況」とは、毛沢東の中国共産党がシナ大陸を完全制覇し(1949年10月)、続いて北鮮が韓国に侵略を開始し(1950年6月)(反共の自由社会の国家として再出発した)日本を囲む周辺平和が消滅した事態日本にとっては天祐の発生を指す。

吉田茂のダレス“拒絶”と坂本太郎の滝川政次郎/山田孝雄“無視”の代償は、日本国滅亡の道?

 北鮮が韓国に侵略を開始した1950年6月25日、フォスター・ダレスは、たまたま日本訪問中だった。彼は、朝鮮戦争のあるなしに関わらず、日本の主権回復(GHQの解散・消滅)を1952年早期に行い、同年秋の大統領選挙の争点になるのを避けることをアジェンダとした。この時の日本側とマッカーサー元帥の意向等を踏まえ、ダレスは、翌1月、三点セットを手土産に再び来日した。

 三点セットとは、①対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)、②駐留米軍を占領軍から同盟軍に格下げした日米安保条約、③日本国憲法第九条を国防軍設置に改正、の三点。が、吉田茂は、第三点の憲法九条改正には猛然と反対。表向きは「日本の経済力は、戦災復興の途次にあるから、米国要望の“陸軍35万人体制”なんぞ無理」を屁理屈にした。が吉田の実際の本心は、復活した陸軍が直ちに“第二の2・26事件”を起こす(ソ連と通謀した)陸軍共産革命を恐怖したのである。

 この吉田茂の懸念は、半分ほど妥当。間違いとは言えない。例えば、服部卓四郎(&辻政信)は終戦直後から“主権回復後の陸軍クーデタで日本を共産国に革命する”ことをスターリンと謀議していた。そればかりか、スターリンは早々と1950年、朝鮮戦争開戦と同時、樺太の豊原に(シベリア強制連行から選抜した五万人以上の日本人赤軍を対日侵攻させる)司令部を設置した。スターリンの予定人事は、「瀬島龍三が参謀総長、松村知勝が総司令官」だった。

 さらに、1949年にシベリアから舞鶴港に帰還した旧・日本軍の将兵のほとんどは、赤化洗脳された赤ばかりだった。彼らは、1950~1年に樺太からの松村・瀬島“日本赤軍”の北海道侵攻に呼応して日本国内で大規模暴動を起こすことになっていた。1949年シベリア帰還組が大量に代々木で入党したことは、当時の新聞でもデカデカと報道されたから、周知だろう。

 この深刻な状況を知りながら吉田茂は、ダレスの要請「憲法九条を改正し、日本は強力な陸軍力を持て」を煙に巻き(次の屁理屈で)蹴った。A「再軍備は日本の自主経済復興力を不能にする」、B「日本の再軍備に反対する外国も危惧される」、C「日本国内で軍閥が再生する(=軍部クーデタが起きる)(注1、88頁、1月29日)

 一方、九条「国防軍設置」改正を日本に迫ったダレスの主張が次。第一。日本は自由社会の一員として国際貢献をしろ(注1、88頁)。第二。日米同盟における自国の役割を円滑に遂行できる国防軍の保有(注1、99頁)。第三。国内の共産勢力を軍事的に粉砕するだけの軍事力行使を米軍に頼らず、自分で的確・迅速にできるようにしろ(注1、97頁)。両名の主張を比較すれば、ダレスが正しく吉田が間違っているのは、明白過ぎよう。

注1;『日本外交史 27』、鹿島研究所出版会。頁数は本文。

(備考)ダレスはユーモアを解する紳士であった。だから、自分と吉田茂との1951年1月29日の諍いをそのまま、日米安保条約に書き込んだ。吉田の発言が、前文の「(国防軍と軍事力を有さない)日本国の“防衛”暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止すべく日本国は、日本国内に米国の軍隊を維持するよう米国に希望した」。ダレスの発言が、同じ前文の「米国は・・・侵略に対する自国防衛のため(可及速やかに国防軍を設置し)漸増的に自ら責任を負うことを日本に希望する」。

岳父が湯河原で襲われた2・26事件を思い出す私的恐怖を病み、国家百年の礎を捨てた吉田茂

  “米軍が駐留しているのだから2・26事件はもう起きない、吉田よ、案ずるな!”と、吉田茂の短絡的恐怖「国防軍設置→陸軍クーデタ」を何度も窘められたのは昭和天皇であった。また、昭和天皇はダレスに対し「貴君の考えは正しい」と激励された。が、吉田は、ダレスと昭和天皇が熱望する、憲法第九条改正による国防軍設置をせず、ただ朝鮮に出動してカラッポになったGHQ・米陸軍を代替する日本国内治安部隊の「警察予備隊」を「保安隊」にしてお茶を濁すことにした。

 吉田茂の、服部卓四郎らがいずれ蹶起するだろう「第二2・26事件」恐怖症は尋常ではなかった。岳父の牧野伸顕が、湯河原で河野大尉率いる八名の共産軍小部隊に襲われた1936年2月から、ダレス特使との戦後構想協議をした1951年1月までは十五年しか経っておらず、トラウマが残る可能性はある。が、この個人的なトラウマを国政の前面に持ち出したのは、「陸軍クーデタ→日本の再びのソ連の奴隷化」を未然防止する策とは言えず、吉田による“国政の私物化”でなくて何であろう。

 私は、このダレスの(日本のための)戦後構想を足蹴にした吉田茂の1951・1・29事件を思い出すと憤懣やるかたなく、ある時、吉田茂の直系・曽野明に次のように詰め寄ったことがある。曽野明は嫌な顔をするばかりで、一言も返事をしなかった。

一、クーデタの未然防止は、創設される新・陸軍に対して、米陸軍と同じく、徹底的な思想検査=共産主義者一掃をする体制をつくり実行することが、正道なやり方。「陸軍がなければ、クーデタなし」の吉田茂の策は、「癌を発病した患者を殺せば、癌を撲滅ができる」とする気狂い医者と同じではないか。

二、ダレス案は、GHQ憲法を主権回復の1952年4月28日でもって無効と宣言して、次なる憲法ができるまでの暫定憲法にすることだから、国防軍を明文で設置する新憲法が制定されるまでは、法律で準・陸海空軍を創設できる。これは、憲法上、何ら瑕疵を生じない。ために、共産主義憲法学者の「保安隊(→自衛隊)は違憲!」など、悪質&執拗な誹謗讒謗が発生しない。

 とまれ1951年1月、吉田茂がダレスの日本再建の三点セットのうち、その一本を切り倒したため、日本には今なお、「国防軍がない/軍人がない/軍法会議がない」“軍隊もどき”の“戦えない公務員”「自衛隊」しかない。これでは、いったん中・ロ・北鮮の攻撃があれば、日本は確実に亡国する。また、憲法九条第二項は、国を守る民族精神を違憲と定めるものだから、自民党すら共産党に与して日本の共産革命を進めて已むことがない。デジタル庁は全体主義体制化革命だし、子供庁は家族解体が目的の共産党官庁。LGBT法は日本から真善美と道徳を排斥するのが目的。全てマルクス『共産党宣言』を実践しているだけ。

1950年、坂本太郎も、滝川/山田からの「大噓つき津田左右吉を叩き潰せ!」の懇請を拒絶した

 なぜ本稿は、1951年1月の吉田茂&ダレスを回顧したのか。古代史学界のボス坂本太郎が、同時期の1950年、吉田茂と全く同一の過ちを犯したことを、クローズ・アップするためである。

 坂本太郎は1950年、(おそらく別々に)滝川政次郎と山田孝雄から、津田左右吉バッシングを中核に据えた、神武天皇の実在を闡明する著書を出せ! と懇請された。が、坂本太郎は、吉田茂がダレスの憲法第九条改正を拒否したように、滝川・山田の懇請・助言を拒否した。これは、それから七十年を経た今、皇室が気息奄々の淵源にもなっている。皇室の藩屏「公家」は一人もいない。旧皇族の復籍は今に至るもなされていない。皇統は危機に直面しているのに、かくも放置されたまま。

 次代の皇位継承は、悠仁親王殿下お一人になられてしまっただけでない。皇室に対する侮蔑や讒謗は日々、山をなし、皇室軽視どころか天皇を部下扱いにするのが、歴代総理と内閣の常習。御陵を観光に活用する大阪府の暴走を止めんとした政治家も国民も皆無。二千年間続いた我が日本国民の皇室尊崇・天皇奉戴の正しき精神は、まさに消えんとしている。もうじき消える。

 話を1950年の坂本太郎に戻す。1949年、古代の歴代天皇を殺しまくった“歴史捏造狂の気狂い”津田左右吉は、あろうことか、天皇から文化勲章を授与された。天皇制廃止勢力の一つ総理府賞勲局が、「天皇制廃止に貢献すると文化勲章がもらえる」前例を作り、次代の若い学者を天皇制廃止に走らせるため、効果てきめんの誘導剤に活用したのである。

 また、学界にうごめいていた津田左右吉叩きの動向を、先制的に粉砕するためでもあった。文化勲章受賞者を、文化勲章を受章していない平凡な学者が叩くのは、世間の目ではかなり異様で、跳ね返りの傲慢行動にしか映らない。

 しかし、この文化勲章受章で、津田左右吉のトンデモ嘘歴史が定着するのは必定であった。真正の愛国者だった滝川政次郎と山田孝雄が焦ったのは当然だろう。両名は、ために1950年、坂本太郎に津田“叩き”の本を出してくれと懇請したのである。

 が坂本は、自分の主たる学問研究「日本書紀の和訓み復元」に専心したいのと、古代史学界が(津田左右吉派と坂本太郎派に)真っ二つに割れるのを回避する方を選んだ。要するに坂本太郎は、滝川と山田の必死の愛国懇願を、ケンモホロロに拒否した。この1950年の坂本太郎の滝川/山田への態度と、1951年1月の吉田茂のダレス(「日本は国防軍を持て」)への態度とはほぼ同一。いずれも、私的理由に拘泥して、天下国家の行く末を犠牲にした。

 具体的に言えば、1951年の吉田茂の傲慢な愚行によって、日本の国防態勢は、徹頭徹尾いびつなものになった。日本の国防体制は、極めて困難な状態を恒久化しただけであった。現に、活舌芸人・安倍晋三は大仰しく「集団的自衛権が行使できるようにする」と鳴り物入りで安保法制を国会通過させたが、これは日本の国防体制の正常化を1%ほどやったに過ぎず、99%は手つかずで、従来の大欠陥のままであった。

 なぜなら、安倍晋三の空疎な安保法制の立法なんぞしたところで、日本は、憲法第九条第二項がそのままだから、英国や豪州と同盟条約を締結することはできない。歌舞伎役者の安倍が、安保法制でほんの少し改善したのは、米国との同盟関係に対して、共産党支配の内閣法制局が「集団的自衛権は認めない」と頑強に挿入していた棘の何本かを抜いただけ。結局、「集団的自衛権は、日本国は行使できない」は、昔通りに残ったまま。憲法第九条に国防軍設置を明記しない限り、日本が世界平均の通常の国防体制を手にすることは微塵もできない。

 同じく坂本太郎も1950年、“歴史の偽造狂の狂犬”津田左右吉を放任することを決めた。このため、その後の日本古代史学界は、共産党の天皇制廃止“革命勢力”が占拠する所となり、真赤な嘘学説「皇室は神武天皇ほか数多くの嘘天皇をデッチあげた」を定説化した。これはまた、学校教科書の基本記述となった。つまり日本では、次代の日本人が、学校で嘘、嘘、嘘を洗脳され、皇室尊崇の精神を腐蝕的に剥奪されているが、この悍ましい現況づくりに坂本太郎は一役買ったのである。天皇制廃止勢力に加担したともいえる。

 1950~1年、日本では反共保守の吉田茂とやや保守の良識人・坂本太郎の私的利害優先(=国家的見地の忘失)によって、共産党の亡国への体制づくりが飛躍的に進捗した。日本の亡国は、もはや避けられない。

津田左右吉“糾弾”無き神武天皇実在論は、ウィスキーの入っていない水割。無効・無意味・無駄

 神武天皇をはじめ、古代の初期歴代天皇が史実として全員、実在されることは自明に過ぎて、議論すること自体、学術的に奇々怪々。が、戦後日本では、古代史学界が共産党の独裁的支配され、また“歴史偽造狂の狂人”津田左右吉が神格化されたことによって、“自明な史実”「神武天皇をはじめ古代の初期歴代天皇は、史実として全員、実在される」が抹殺的に抑圧され、口にすることすらできなくなった。このため、戦後日本で、神武天皇実在説の学者を挙げろと言われると、表1のごとく、たった四名しかいない。四十名ではない。

表1;神武天皇実在説の学者は戦後四名のみ

滝川政次郎、小論文三本。

植村清二『神武天皇』

坂本太郎、津田左右吉批判の構想、注2

中川八洋『神武天皇実在論』

1952/53/58年。55~61歳

1957年、56歳

1985年、84歳

2023年、78歳

津田左右吉非難ゼロ

津田左右吉非難ゼロ

津田左右吉を激難

津田左右吉を激難

説得力きわめて薄い。実在を証明せんとする情熱は称讃できる。

実在説? 不在説?

読んでいて、はっきりしない。

1950~7年なら年齢的にも一流の実在論&津田潰しになった。

1980年代に出版すべきだったが、今では老いの愚痴か。

 

 

古事記を重視

古事記と外国史料と考古学を重視

 また、享年87歳で没した坂本太郎が、自分の死期が迫るなか、本格的な津田左右吉“批判”を構想するが中川八洋『神武天皇実在論』、252~8頁)、これを仮に彼が50歳台に入った1950~7年頃に一冊の本として出版していれば、その後、神武天皇実在説の古代史学者が、十名以上、輩出しただろう。それは、津田左右吉を粉砕したか、少なくとも少数意見には叩き落しただろう。

 表1の四名を比較すると、学術的論及の仕方一つで、神武天皇実在を証明できるかorできないかの岐路があるのが分かる。津田左右吉の学説(正しくは「狂説」)を徹底的に叩き潰す学的作業をするか否がこれ。中川や坂本のやり方のみ、“史実”神武天皇実在を証明できるということ。

 なお、この四名の学者以外の本を、学術的に言及する価値がない。特に“ペテン師コミュニスト”林房雄とその信者・宮崎正弘の著作物は、日本に存在させてはならない有害な噴飯物。なぜなら、わが皇室は、伊勢神宮の“ご神体”八咫鏡で明らかのごとく、前漢鏡と密接に絡んで発生している。すなわち、前漢帝国の誕生は紀元前202年だから、皇室の誕生は、紀元前202年以降である。前漢鏡が仮に楽浪郡からもたらされたなら、紀元前108年以降である。紀元前220年以前に、皇室の起源があるとするのは、殺人鬼的な犯罪者しか発想できないキワモノ狂説に過ぎない。

 もう一度言う。日本国の皇室は、弥生時代中期にその起源をもつ。この意味で、皇室の起源を、法螺吹きよろしく、縄文中期だとするのは、ペテン師か狂人だけ。林房雄とその狂信的弟子・宮崎正弘は、これに該当する。「弥生中期は縄文中期」とか「紀元前四千年から二千年の日本の縄文中期に、紀元前220年以降の前漢や楽浪郡があった」とうそぶく林・宮崎は、正常の域にはない。鉄格子のある精神病院に収監されるべき重度の狂人。世紀の大ペテン師・林房雄の狂気の詐欺論文については、中川『神武天皇実在論』「第Ⅲ部第四章」で論じている。必ず読了されたい。

日本の国防“正常化”に国防軍設置は不可欠。皇室の安泰と悠久に津田左右吉”一掃“は不可欠

 皇室が風前の灯のごとく衰微の一途を辿っている。この憂慮すべき事態に、日夜、懊悩する日本人がほとんどいなくなった。津田左右吉の「神武天皇~第九代・開化天皇までは存在しない。皇室がデッチアゲた物語である」「成務天皇/仲哀天皇/神功皇后もまた、実在しない」などの“暴論狂説”が日本人の脳内に浸透し、日本人が無自覚の天皇制廃止狂徒になってしまったからである。

 しかし、日本人が、真正の日本国民であろうと自覚するなら、あるいは人間として倫理道徳的に気高くあろうとするなら、自らの祖先の歴史が真実であることに命を懸けねばならない。民族の歴史からすべての嘘や捏造を排斥することに命を懸けねばならない。

 この高貴な絶対規範にみずからを再度置き直した時、われわれの祖国・日本と日本国民にはじめて未来が拓けてくる。正しい史実である“実在する神武天皇”を、日本国民が建国の父として改めて奉戴し直す時、衰亡し続ける日本国に再生の兆しが生まれる。このためにも、全ての日本国民は、中川『神武天皇実在論』を拳々服膺して、神武天皇に関する真実の歴史に覚醒しなくてはならない。

(2023年5月13日記)

 

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