皇室の悠久を息吹く“生命の泉”『古事記』を、われわれ日本人に残して頂いた元明天皇の有難いご聖慮に心から感謝を捧げよう──日本国民が、中川『神武天皇実在論』を必携し座右 の書とすべき理由(Ⅷ) 

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 三浦佑之の“噴飯本”『古事記のひみつ』(吉川弘文館)につき、前稿で書き忘れたので、以下追加。

 三浦佑之は、太安万侶『古事記』上表文(序、712年)は、その玄孫(やしゃご)の多(太)人長が偽作したと、証拠ゼロのトンデモ捏造歴史を法螺吹いて騒ぐ、本物の狂人(139頁)。多人長は、嵯峨天皇の勅命で、『日本書紀』編纂から約百年たった812~13年、高位高官も出席する朝廷の公的な「日本書紀“講筵(講義)”」の唯一人の教授に抜擢された。

 『日本書紀』に関する“朝廷随一の学者”多人長は、平安朝廷の高位高官も列席する、インテリ平安貴族たちに『日本書紀』を講義した事実において、(『日本書紀』ではない)『古事記』など、多人長にとっても受講する高位高官の朝廷官吏にとっても、全く関係しない。だが、頭が幼稚園児より劣悪な“脳内空洞”の上に、錯乱の精神病を重く病む“気狂い”三浦佑之は、次のように述べる。

「太安万侶に仮託した《序》を偽造したのは、多人長・・・と考えられる。多(太)氏に・・・所蔵されていた古事記の権威化のために、序が必要になったからだ」(139~40頁)

「人長の偽文《序》を古事記に付け加えた理由を、私は古事記の権威化だったと考える」(134頁)

「人長の偽文《序》は、ほとんど無名の古事記を権威化することになった」(135頁)

 多人長が『古事記』講筵の勅任講師なら、『古事記』をかっこよく見せるため、「それまで上表文が無かった『古事記』に、ニセ上表文を捏造した」との三浦佑之のデッチアゲも、多少は騙せる屁理屈にはなる。が、平安時代の四百年を通じて朝廷官吏で『古事記』に関心を持った者は一人もいない。嵯峨天皇は、多人長に「日本書紀を講義せよ」と命じたのである。『古事記』を講義せよとは命じていない。また、多人長は日本書紀の専門家だったが故に、一人しか選ばれない教授に抜擢された。

 このような状況下で、①どうして唐突に、この講筵に無関係な史書『古事記』が出てくるのか。さらに、②どうして誰も関心がない/講義テーマでもない『古事記』に序をつける必要があるのか。また、③『古事記』には序がなかったという証拠など皆無。加えて、「ある」という珍説奇論の与太話を裏付ける証拠もない。ないないヅクシの「序」についての架空話、どうやって思いついたのだろう。④古事記は、政府=朝廷ではなく、天皇が直接管理する内廷奥深くに保管されている「秘仏」的なもの。それが、どうして一朝廷官吏の多人長の家に所蔵されていたのか。⑤・・・。

 上表文(=序)で明記されているように、『古事記』は太安万侶/稗田阿礼から元明天皇に上呈された。つまり、天皇が所有されているものを、臣下が自宅に所蔵することなど万が一にもありえない。それなのに、気狂い三浦は、この「序」が多人長の偽作だと詐称。

 しかも、偽作であろうと、この「序」に従えば、「古事記は、〈元明天皇→嵯峨天皇〉と、皇室内部で保管継承されている」のだから、これまた、多人長は万が一に所蔵していないことの証左。が、重度の精神分裂病・三浦佑之は、自分がデッチアゲた“お粗末”大嘘が論理破綻しているのが認識できない。精神分裂症には詐欺師は不向きな職業と言われるが、なるほどである。

 なお、三浦佑之が重度の精神分裂病であることは、140頁の11行目からの六行を、精神科の医者に見せて診断してもらえば、瞬時に証明される。百名の精神科医のうち百名が異口同音に「ひゃー、ひどい分裂病だ」と声を挙げるはず。

『古事記』は文字化の712年以降、奈良・平安時代を通じ、誰も関心を寄せなかった。何故???

 平安時代の四百年もの朝廷では、古事記は存在しないも同然だった。高位高官の公卿から地下(じげ)官人(「下級官吏」)に至るまで、『古事記』を読んだ形跡は皆無。古事記に言及した痕跡が、次の数点に見える。が、これらは『古事記』の存在を知っている者が“平安朝廷にいた”ことを裏付けても、一般通念上の「古事記を読んだ」とする証拠にはほど遠い。

a、904年の「公望私記」

b、936年の「日本書紀私記」

c、950年前後の「本朝月令」

d、981年の「琴歌譜書」。

e、1010年前後の「政事要略」。

(注1)「古事記研究史年表」『古事記大成 第一巻』、1956年、平凡社。

 すなわち編纂(712年)後の、『古事記』の歴史で、我々が学的に関心を持つべき事柄は、奈良・平安時代の朝廷官吏が、五百年以上に亙り、『古事記』を一顧だにしなかったのは何故か、という歴史学上の問題。これ以外の『古事記』平安時代の歴史など、存在しまい。

偽文《序》を付け加えても誰も読まない『古事記』を権威化させるって、いったい何?→三浦は狂人

 ところが、頭が殊の外おかしい三浦佑之は、上記に引用したごとく、「古事記の《序》は、百年後の812~3年頃、太安万侶の玄孫・多人長が書いた偽作である」「人長が偽作した目的は、古事記に権威を与えるためだった」と、嘘八百の戯言を捲し立てる。これが全くの三浦による歴史偽造なのは、この《序》があろうとなかろうと、古事記は、712年の編纂後、五百五十年間以上、奈良・平安時代の朝廷官吏からそっぽ向かれて一顧だにされなかった事実において明白。

 三浦佑之は自ら嘘つき狂人であると自白している。学者でないとも告白している。このことは、三浦が、「『古事記』の《序》は多人長が書いた/太安万侶は書いていない」を示す証拠を、一つも提示していないことに明らかに過ぎよう。

 また、上記に引用した、三浦の絶叫「権威化」という三文字が、精神分裂病の画家ムンクが画いた「叫び」を思い出させる、狂人特有の絶叫スローガンなのも、嘘つき三浦の狂気のひどさの証左だろう。「《序》を付け加えると『古事記』の権威が上がり多くの人が読み、《序》がなければ権威が無く、誰も読まずに埋もれてしまう」など、珍論奇論のデッチアゲではないか。

 太安万侶の上表文(序)があっても尚、奈良朝・平安朝の朝廷官吏は、『古事記』にそっぽを向き続けた。『古事記』は文字化から五百五十年間、徹頭徹尾、埋もれ続けた。この厳然たる歴史事実に、正史『日本書紀』とは異次元の、“偉大な美しき史書”『古事記』の真のレーゾン・デートルが潜んでいる。

『古事記』文字化の“宛て漢字の天才”太安万侶は、『日本書紀』編纂には、いっさい関わっていない

 閑話休題。平安時代の書『日本書紀私記』に記載されている、間違った記述に一言触れておこう。

 その中に、819年の「弘仁私記」が収録されている、「弘仁私記」の記述に、“日本書紀は、舎人親王/太安麻呂(「万侶」の誤記)らが、勅を受け賜りて撰する”とある。これは、おそらく多人長の作だろう。人長は、自分を権威づけるため嘘歴史をでっちあげた、と推定できる。なぜなら、太安万侶は、以下にリストする根拠において、日本書紀には一切かかわっていないのが、証明されるからだ。

 人長は、812~3年、日本書紀を講義する際、自分の権威を高めるため、自分の高祖父・太安万侶が日本書紀の編纂にも加わっていたとの作り話を吹聴したようだ。これが、『国史大系 第八巻』収録の『日本書紀私記』の中に組み込まれている「弘仁私記」に記録されたと考えられる。

 太安万侶が、『日本書紀』編纂にいっさい関わっていないのは、次のABCDEで明らか。

A;『日本書紀』編纂を命じた天武天皇紀に、太安万侶の名前がない。

B;太安万侶の宛て漢字の流儀と、日本書紀のそれとは余りに相違する。漢文主義の『日本書紀』編纂グループから太安万侶一派は完全に排除されている。煙ほども関与させられなかった。これは、宛て漢字の用法から明快に明らか。

(注2)古事記の漢字表記の原文を理解する基礎知見の涵養には、最低でも次の二論文は読まれたい。小島憲之「古事記の文章」及び武田祐吉「古事記の訓法」、『古事記大成 第三巻』、平凡社。

C;『日本書紀』編纂は、積極的に古事記や太安万侶一派を排除している。これは、『日本書紀』に『古事記』の言及が一ヶ所もないこと、あるいは両者の編纂方式はほとんど真逆であること等で明らか。例えば、日本書紀は、当時の現代史と考えるべきもので、代が進むごとに詳しくなっている。

 簡単に言えば、日本書紀は、天照大神以前の神話の部分は極めて少なく、この部分に大きな比重を置く古事記とは対照的。つまり、古事記は遠い祖先の話に比重を置いた、弥生時代の原・日本人である皇室の祖先を崇拝する祖先崇拝教が色濃い。もっと直截的に言えば、我々から見ると神話にしか見えない部分が多いが、『古事記』は神話を神話とせず、“歴史”だと認識している。

 が、こうした『古事記』の歴史観はどうも皇室の内部ですら、“神武天皇→天武天皇・元明天皇”をもって終了したようだ。元正天皇以降では、朝廷官僚はむろん天皇・皇室も、皇室の祖先やその歴史に対し、何か大きな思想変化(歴史観の変貌)をしている。壮大・華麗なる平城京が建設され、また唐帝国に並ぶ完備した律令制度が完成したことが、また国史『日本書紀』が完成したことが、『古事記』的な歴史観を萎縮的に衰退させたと考えられる。

D;『日本書紀』の編纂は、681~720年の約四十年もかかっている。一方、『古事記』の編纂は、天武天皇が直接編纂したもので、それは681~2年の約一年半で完成したと、私は推定。また、太安万侶が、これをテープレコーダーのごとくに丸暗記=朗誦していた稗田阿礼の朗誦通りに文字化したのが、711~2年。約四ヶ月強でそれを成し遂げられたのは、太安万侶が『古事記』編纂を一切しなかったからである。

 仮にも、太安万侶が『日本書紀』編纂の方にも関わっていたら、太安万侶は、『日本書記』編纂グループから、711~2年の約四ヶ月強、離脱したはず。が、このような離脱は、決してあり得ない。天武天皇の命令である国家的事業から抜け出すことなど、朝廷官吏としては天皇への叛逆行為だから、万が一にもできない。太安万侶は『日本書紀』編纂から初めから除外され、参加していない。

E;711年時点、太安万侶は、稗田阿礼と同じく内廷官吏で朝廷官吏ではない。当然、『日本書紀』編纂に参画できない。しかも、天才的な宛て漢字の達人ながら、太安万侶の内廷における仕事は、今の宮内庁で言えば雅楽寮のチーフではなかったか。

 多(=太)氏は、古くから歌舞管弦を内廷でつかさどる職掌を家伝とする。しかも太安万侶は、北畠親房と同じく多才な才人。「宛て漢字では当代随一の達人」「官僚としては一流」「軍人としても一流」「歌舞管弦の部局を引率する長としてもベテラン」と考えられる。太安万侶が軍人でもあるのは、死没時の書紀の記事に、軍人のみに与えられる勲功「勲五等」が記載されているからだ。

 これは推定だが、太安万侶は、壬申の乱で、天武天皇側で大活躍した軍人・多品治(おおのほんじ)の息子ではないのか。また、重要無形文化財だった宮内庁楽部楽長の多忠麿(1994年に死没)は、1270年間も代を重ねた“太安万侶の直系”。太安万侶が、稗田阿礼が朗誦する『古事記』の文字化を命令されたのは、天才的な宛て漢字の大達人だったことが一番の理由だが、内廷の歌舞管弦部局で、稗田阿礼が太安万侶の部下だった関係も考慮されたのではないか。“暗記・記憶の天才”稗田阿礼は、内廷の歌舞管弦部局では、美声を誇る一種の歌手だった?

古事記が朝廷で五百五十年間も無視されたのは、推古天皇以降の“朝廷・内廷の分離”の必然!

 古事記と日本書紀は、漢字表記の決定的な方法の相違についていったん目を瞑っても、史書としての特性の相違は、これまた極めて顕著。顕著な相違には主に二つある。第一。神代の記述で、古事記は相当な分量を割く。一方、日本書紀は、神代の記述に量的にも比率的にも、かなり抑制的。第二。日本書紀は、第41代・持統天皇まで記述。しかも、後の代になればなるほどその分量が多くなる。明らかに、当時の現代史を兼ねた史書。

 一方、古事記は、日本書紀とほとんど変わらぬ元明天皇の御代に編纂されたのに、実質的には第23代・顕宗天皇で終わっている。第24代・仁賢天皇から第33代・推古天皇までの記述は余りに簡単で、編纂していない。しかも、顕宗天皇と仁賢天皇は兄弟で、ともに飯豊青皇女が摂政をされたと考えられるから、片方のみ編纂し他方を編纂しないのは、不可解の限り。

 やはり、古事記は編纂者が天武天皇お一人しかおらず、また天皇だから、編纂を途中で打ち切ることができた。第24代・仁賢天皇から第33代・推古天皇までは、おそらく天武天皇が「後は、稗田阿礼に任せる」と仰せになられたのだろう。が、稗田阿礼に編纂などできるはずもない。かくして、最後の十名の天皇の条は、ほとんど無編纂となった。なお、古事記が推古天皇を掉尾にしているのは、古事記編纂が下敷きにした『帝紀』『旧辞』が、推古天皇で完結していたからである。

 また、天武天皇としては、第34代以降は天皇ごとの実録が既に順調に編纂されており、自分が研究=編纂する必要などないとご判断されたに違いない。すなわち、『古事記』編纂は、初めに「第34代以降は、しない」が決まっていた。

 さて、古事記が奈良時代・平安時代を通して、朝廷官僚たちに無視された理由を探索することは、歴史学者なら避けてはならない重要テーマ。が、私の知る限り、この分野の研究論文は一つもない。日本の古代史学者に、史家の素養がある者が皆無ということ。お寒い限り。

 この歴史学的に重要な問題に対する、私の暫定的な意見が次。

①日本書紀は日本国政府(朝廷)が編纂する公的な国史。が、古事記は皇室内部(内廷)の私的な皇統譜or天皇・皇族・臣下の歴史。後者に対して、朝廷(政府)官僚がみだりに閲覧することは制限されるし、朝廷官僚の方も自制する。

②律令(大宝律令→養老律令)の制定や平城京の建設は、朝廷と皇室内廷の近代的な分離を促進した。かつて紀元後600年頃まで、つまり推古天皇の御代までは朝廷と内廷とは混然一体だったが、この状態が、元正天皇以降、がらりと様相を変えた。朝廷と内廷の分離は、朝廷の官吏全体に、前者の日本書紀と後者の古事記に対する区別意識を、必然的に齎した。

③この観方が合理的なのは、皇室の臣下の間で古事記への関心が発生するのが、朝廷(天皇)の政治権力が武家政権にほとんど剥奪された“承久の変”(1221年)以降であることでも証明されていよう。しかも鎌倉時代以降、古事記への強い関心を持つ者は、皇室の祭祀関係者。このことに、問題の核心がある。天皇の政治権力の大幅な弱体化(喪失に近い)が、古事記への熱い思いを発生させた原因だからだ。

 具体的には、1266年、大中臣定世が古事記の上下巻を書写。卜部兼文は、1268年、花山院通雅が所有する古事記中巻を書写し校注。大中臣定世は伊勢神宮祭主。卜部兼文は神祇権大副(じんぎのごんのたいふ)で、1270年、最古の古事記研究書『古事記裏書』を著す。

 この両名の職業で一目瞭然だが、天皇・皇室の政治権力の没落的大縮小の事態に遭遇し、天皇・皇室制度を悠久に護り抜くには、皇室の祭祀を護り抜かねばならない現実を直視して、古事記研究が始まった。確かに、日本書紀は、司馬遷の『史記』やデーヴィッド・ヒュームの『英国史』と同種の純然たる史書。が、古事記は、史書であるだけでなく、皇室に新たな生命を吹き込む魔訶不可思議な聖なる音楽を奏でている。神道関係者が、仏典に対置して、古事記を神典(=道の経とするが、なるほどと納得できる。

天照大神に至る神話は皇室にとり神話ではなく“歴史”。『古事記』の神話こそ天皇の起源の“歴史”

 この問題を、元明天皇(661~721)が711年、三十年前の682年に稗田阿礼が諳んじた天武天皇が“編纂”された『古事記』を、なぜ文字化したのか、の推定作業を通じてもう少し掘り下げる。

(1)その前に、天武天皇が皇室の歴史『古事記』を自ら編纂されたが(681~2年、仮定)、それは別な目的からの“意図せぬ偶然”ではなかったか、について一言。天武天皇は、「日本書紀を編纂せよ」と、最高責任者に川島皇子(天智天皇の第二皇子)と忍壁皇子(天武天皇の皇子)を任命したが、この両名および他の編纂官たちに、史書のあるべきモデルとして『古事記』を編纂し稗田阿礼に朗誦させ、「よく聴いて、“国家的大事業”国史の編纂に励め!」と発破をかけるのが目的ではなかったかと、私は推定している。

 実際にも、681年3月から選別され集められた約百名の“前期・編纂官”集団は、683年から、稗田阿礼が朗誦する『古事記』を、何度も視聴したと考えられる。なお、稗田阿礼の朗誦には、かなりの数の雅楽師たちによる伴奏があったのではないか。平家物語の語りと琵琶の伴奏と同じ。

(備考)三十九年の歳月(720-681=39)を要した書記編纂は、大まかに言えば二世代の編纂官から構成されるから、前期と後期に分かれる。前期のトップ責任者が、川島皇子(薨去691年)と忍壁皇子(薨去705年)。後期のトップ責任者が、舎人親王(天武天皇の皇子、735年薨去)である。

(2)元明天皇は、皇太子・草壁皇子の妃の頃から、何度も稗田阿礼の『古事記』朗誦を視聴し、いつも相当な感動に心を揺さぶられたのではあるまいか。711年時点、元明天皇は老境の入り口の50歳になられ、稗田阿礼は当時では老婆の域の57歳(654年生と仮定)となり、元明天皇は、稗田阿礼の迫る引退と共に『古事記』が消滅するのを痛く惜しまれた。また、次期天皇の聖武天皇(711年当時10歳)にも是非とも聴かせたいとお考えになり、その文字化を決断されたと考えられる。

(3)古事記は単なる史書ではない。むろん文学などでは万が一にもありえない。古事記がかなりの分量を割く「神話」は、天皇・皇族にとっては「神話」ではなく、それは正しく“皇室の祖先の歴史”である。江戸時代頃から日本人は(備考)、火付け強盗殺人“常習者”デカルトそっくりに、不可知への謙虚さを喪失した、物事をただ理知的に見る愚か者が増え過ぎていないか。

(備考)江戸時代のデカルト的な極左人士には、橘守部/山片蟠桃/上田秋成/石田梅岩/安藤昌益などがいる。安藤昌益は、河上肇の先駆者で、国産の日本共産主義者。

 これは私の反省だが、法隆寺を見学した時、私は法隆寺を建築工学的な視点で感動し、また銅造薬師如来坐像を美術として鑑賞して感嘆したのを思い出す。が、このような視点も感動も「間違っていた」「狂っていた」ことを、今は深く反省している。

 なぜなら、我々は法隆寺の境内に入った直後から、七世紀の仏教徒の信仰心で、法隆寺を拝み、薬師如来坐像に跪いて礼拝すべきであった。涅槃の境地で心の平安を祈るべきであった。『古事記』も同様である。我々は、『古事記』が皇室にとって“崇高で聖なる歴史”なのだと、敬虔な尊崇の念をもって奉持して読むべきだろう。元明天皇に共振共鳴して手にすべき“高貴で神秘な史書”、それが『古事記』である。

(4)古代史家の私は、坂本太郎の教示「初期古代天皇の実在は、日本書紀はダメで、古事記からのみ証明できる」に従い、『古事記』上巻を重点的に研究してきた。上巻は、皇孫「ににぎ尊」降臨の箇所(注3)から、鮮明に史実の記録になっている。神話と史実が混交する、その直前までの上巻の三分の二とは一線を画している。

(注3)『古事記 祝詞』、日本古典文学大系、125頁の11行以降、岩波書店。

 ということは、筑紫日向三代の史実性は明白。ならば、それを地図上にプロットできるはず。中川『神武天皇実在論』16~7頁の図1が、二千年前の歴史をほとんど正確に再現できたのは、『古事記』上巻の筑紫日向三代の記述を、素直にそのまま解読したからである。

 これからの私は、『古事記』に対し、ダブル・トラックの姿勢で臨みたい。「史学者としての私」と「真正日本人としての私」のダブル。前者では、これまで通り、『古事記』から徹底的に史実を探してそれを摘出する作業を続ける。一方、後者では、『古事記』は悠久の皇室の“生命の源泉”だと観想された元明天皇に共振共鳴して、信仰心をもって『古事記』を“神秘なる史書”と敬仰する高邁なる精神を昂ぶらせる自分。

赤い舌が百㍍の共産党員・家永三郎は、『古事記』に罵詈雑言を浴びせ“嘘歴史の捏造”に大爆走

 話を、“嘘歴史《捏造》狂”三浦佑之の狂言暴語「古事記の権威化」問題に戻す。共産党員・古代史学者は、津田左右吉を教祖として、その低級下劣な人格者集団というより、殺人鬼より怖い凶悪な犯罪者性をフル稼働させ、嘘八百の偽り歴史を日本国民にぶち込んで日本国の死滅を快楽するジェノサイド集団。

 皇室内部専用の史書『古事記』は、一身専属的に天皇・皇族に所蔵される、我々日本国民とは全く無関係な“皇室の神聖な宝”である。故に、仮にも、この『古事記』に対し暴論罵倒を投げかけることは、“他人の私物への器物損壊”と同じ、“信仰の自由”“信条の自由”に対する迫害行為である。“悪魔のカルト宗教団体”共産党が主導する“赤い共産ファシズム”の狂気の暴力である。

 例えば、津田左右吉の愛弟子の一人・家永三郎は、「昭和天皇を絞首刑に!」を叫び続けた顔から血が滴るスターリン系殺人鬼だが(注4)、百㍍の赤い舌をペロペロ舐めながら、次のような嘘八百トンデモ嘘をぶち上げる。三浦佑之が、“大嘘つき”家永三郎の後継者なのがよくわかる。

(注4) 家永三郎『戦争責任』、岩波書店、1985年。

「古事記の撰録が、天皇政府の支配権を強化するための観念的支柱たるべき期待に基づいて行われた」

「古事記の原資料の主要部分である神代説話その他が、天皇の統治権を正当化する意図のもとに構作せられた」

「律令国家における天皇の統治権が、(『古事記』を通して)「神代」以来の伝統を回顧することによって権威づけられていた」(注5)

(注5)家永三郎「古事記の需要と利用の歴史」『古事記大成 第一巻』平凡社、211頁。

 天皇・皇族しかご覧になってはならない皇室内部専用の“皇室の祖先の歴史書”『古事記』が、どうして日本国とか日本国民とかと関係するのか。『古事記』は、名刹の秘仏と同じく、初めから皇室から門外不出の私物として編纂されたもの。我々日本国民が『古事記』を今、読めるのは、皇室の私物を特別に閲覧できる栄誉の特権を与えられたからである。当然、「読まさせて頂きます、光栄です、有難うございます」と、『古事記』を頭高くに拝して(奉持して)読むのが、日本国民でなくとも、普通の人間が普通に見せるべき礼節であろう。

 が、凶悪な共産党員で“王殺しの狂人”家永三郎は、皇室における祖先崇拝と不可分の史書として皇室内部だけで密かに読まれてきた『古事記』を、「天皇政府の支配権を強化する道具」とか「天皇の統治権を正当化するため」とか、矢鱈目鱈に荒唐無稽なデマを花火大会よろしくぶち上げる。 

 共産党員・古代史学者は、米国と同じく、発見され次第、直ちに懲戒免職に処して、日本は日本の国史を日本国民の手に急いで戻さなければならない。それができなければ、日本国の滅亡は避けられない。

(2023年5月26日記) 

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