筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
本稿は、本シリーズの第十一章「一九四五年夏(十歳)で時計が止まった戦争狂の狂人」において、西尾幹二が十歳のとき書いた父親宛の手紙を精神医学的に分析解剖するに、比較として引用させていただく予定であったが、畏れ多くも今上陛下の宸記(しんき、ご日記)であるので、同一の論文内に並列的に記載するようなことは甚だしき不敬だと考え、別稿とした。
また本稿を、西尾十歳の気味が悪い手紙(第十一章)の穢れから遠くに隔離するに、コピー用紙で合計36枚になる第十二章/第十三章-1&2/第十四章を間に挟めば、この穢れを遮蔽できるようにも思えた。穢れはα線ではないから科学的な考えとはいえないが、読者は諒とされよ。
なお、読む順序だが、読者は、本シリーズ第十一章を読む前に、この第十五章を諳んじておくのを勧めたい。そうすると、西尾幹二の狂気が直ちに感知できる。
天皇陛下がお生まれになられたのは一九三三年十二月二十三日。昭和天皇の玉音放送の時点(一九四五年八月十五日)においては、十一歳であられた。すなわち、十歳の西尾幹二は、陛下とは同年代に括られる。
陛下は、この八月十五日、まだ皇太子であられたが、ご日記に次のような聖慮を記されておられる。
「昭和二十年八月十五日、…畏れ多くも天皇陛下が玉音で(ポツダム)宣言をご受諾になるといふ詔書を御放送なさいました。無条件降服といふ国民の恥を、陛下ご自身で御引受けになつて御放送になつた事は、誠に畏れ多い事でありました」
「今の日本はどん底です。それに敵(占領軍)がどんなことを言つて来るかわかりません。これからは苦しい事つらい事がどのくらいあるかわかりません。どんな苦しくなつてもこのどん底から這い上がらなければなりません。それには日本人が国体護持の精神を堅く守つて一致して働かなければなりません」
「今までは、勝ち抜くための勉強、運動をしてきましたが、今度からは皇后陛下(香淳皇后、今上天皇の御母上)の御歌のやうに、次の世を背負つて新日本建設に進まなければなりません。それも皆 私の双肩にかかってゐるのです。それには先生方、傅育(ふいく)官の言ふ事をよく聞いて実行し、どんな苦しさにも耐へ忍んで行けるだけの粘り強さを養ひ、もつともつとしつかりして明治天皇のやうに皆から仰がれるやうになつて、日本を導いて行かねばならないと思ひます」(注1)。
昭和天皇の停戦命令である「玉音放送」に憎悪感情を剥き出す、十歳の西尾幹二となんという相違であろう。すでに戦闘する兵力を消尽し、戦争続行は二千万人の死では済まない情況が、一九四五年夏の日本だった。しかも、翌一九四六年の年頭からは大量餓死すら始まる、食糧すら尽きた日本には、ポツダム宣言の受諾こそは日本国が存続するための細い蜘蛛の糸で、唯一の選択肢であった。
“神の見えない手”であったポツダム宣言とこの受諾に日本国滅亡を回避する奇跡を賭けた(英邁のレベルをはるかに越えた)天才・昭和天皇のご聖断に従い、苦難の道である日本国家の再建をご決意された十一歳の今上陛下の、真の英邁さとその高徳に、日本人ならば、誰しも感動と感涙を禁じえない。
だが、十歳の西尾幹二は、昭和天皇のご聖断である「玉音放送」に唾を吐き、「一億玉砕」になるまで日本は戦争続行せよ、と絶叫した。「一億玉砕」とは、当時人口七千万人の日本人が全員死ぬことであり、“日本民族の絶滅”のこと。ニーチェやヒトラーと同じ国家廃滅の狂気を、西尾幹二は十歳にしてすでに発症していたのである。
なお、歴史偽造に執念を燃やす西尾幹二に関する分析という、本稿のモチーフとは離れるが、上記引用文の掉尾には重要なことが示唆されている。今上天皇が、この八月十五日、「昭和天皇は、ちかぢか譲位されて連合国に処刑されるであろう」と覚悟されておられること。
「次の世」とは、“昭和天皇の後の御世(みよ)”という意味。すなわち、今上天皇は、昭和天皇の譲位(処刑)に伴い自らの践祚・即位が迫っていると考えておられた。この故に、敗戦と廃墟の日本再建は「まもなく天皇に即位せねばならない私の双肩にかかってゐる」との宸襟が記されたのである。「日本を導いて行かねばならない」も、皇太子の立場ではなく、天皇としての立場からのご決意なのは言うまでもない。
今上天皇の高い有徳については広く日本国民の知るところだが、実はIQが極度に高い天皇であられる。譬えとして不敬に相当するかも知れないのでかなり躊躇うが、解り易いので敢えて申し上げれば、通常の受験勉強が許されておれば、東京大学理学部へのご入学などいとも簡単な水準である。
戦後、日本のマスメディアがこぞって、今上天皇の高いIQに関して逆情報を流した事は、私の世代まではしっかと記憶しており、忘れることができない。この件で一度、清水幾太郎(陛下ご在籍時の学習院大学教授)に面と向かって詰め寄ったが、返事がなかった。
終戦と同時に“親米の保守主義”を擬装し、吉田茂首相に取入った隠れコミュニスト小泉信三(慶応義塾大学塾長)は、この逆情報宣伝撒布の黒幕の一人だった。小泉信三とは、(後年、日本共産党議長になる)野坂参三を親切に指導し、野坂にマルクス著『共産党宣言』(ドイツ語)を与えた、その張本人である。小泉の皇室尊崇は、見事な最高級の演技だったとみなしてよい。
とりわけ、小泉信三が無二の親友である加田哲二とともに、戦後、雑誌『新文明』を刊行し、「反米」と戦う“親米”を旗幟鮮明にしたが(注2)、これも演技濃厚と考えられる。加田哲二(慶応大学教授)は、戦前・戦中には、ナチズムばかりか、スターリンの計画経済に傾倒したコミュニスト系の経済学者(注3)。それがどうして終戦を契機に“親米反共”の論陣を張れるのか。
ともあれ、今上天皇『宸記』記載の、上記一九四五年八月十五日付け「ご日記」は、真正の日本国民ならば是非とも拳拳服膺して頂きたい。
(2014年8月24日記)
注
1、木下道雄『側近日誌』、文藝春秋、四八~九頁。
2、加田哲二「平和論と共産主義」「反米論」。それぞれ『新文明』一九五二年四月号/一九五三年十一月号。
3、ナチのイデオローグであるローゼンベルグの『ナチスの基礎』(白揚社)を監訳したのは加田哲二。加田が編著の『世界政治経済年報』(慶応書房)、あるいは加田著『東亜協同体論』(日本青年外交協会)『興亜経済の原理』(ダイヤモンド社)は皆、スターリン系の計画経済を指針としてまとめられている。