筑波大学名誉教授 中川八洋
今から五十五年前の1960年、集団的自衛権と憲法第九条改正による国防軍設置の二つの政治問題は、日本国の一大争点だった。民族系の首相・安倍晋三は、五十五年前の日本では国民の六割が要望的な支持をしていた、前者の集団的自衛権問題の方だけだが見事に片付けた(2015年9月19日未明)。が、その直後、新ロシアの“侵略皇帝”に拝謁を賜わる「臣下」のごとく、ヒトラー手法の領土再膨張に狂奔する“バトゥの再来”プーチン露国大統領に走り寄って、抱きついた幼児そのものに喜色満面で叩頭した(ニューヨーク国連本部、日本時間9月29日未明、40分間)。
つまり、多重人格者である安倍晋三は、2015年9月19日までの三ヶ月間ほどは集団的自衛権問題で生粋の“20%岸信介の安倍晋三”だった。が、9月29日には“80%安倍晋太郎の安倍晋三”にがらりと瞬間移動した。安倍晋三の顔が、2015年の9月、このように、仮面を取り換えたかのように、岸信介から安倍晋太郎にめまぐるしく変化(へんげ)したのは、多重人格にしかできない瞬間移動の鬼技による。
安倍晋三の父である晋太郎は、150万人エチオピア農民を餓死で大量殺戮した凶悪な“赤色狂人”メンギスツを支援した西側唯一人の悪名高き政府高官。そしてまた安倍晋太郎は、当時の世界では日本国内だけの奇々怪々な現象“ゴルビー人気”を活用して一気に総理大臣になろうと、このゴルバチョフ共産党書記長に、「訪日の代価としてソ連に北方領土を貢ぐ」ことを約束した“世紀の対ロ売国奴”だった(注1)。
“北朝鮮人”谷内正太郎の操り人形となった“準ロシア人”安倍晋三
ニューヨークでの安倍/プーチン会談では、北方領土問題を口にしたのは安倍晋三の方だけ。プーチンは北方領土問題を口にする事は決してなかった。安倍晋三とは、何らかの精神医学上の病気があり、まさに三歳の幼児が母親に甘える仕草で、北方領土問題を“プーチンにおねだり”したのである。だが安倍晋三自身は、これほどひどい三歳児型の行動を恥ずかしいと思わない。安倍晋三には、日本民族の矜持がない。
キプチヤク汗国を創建した“バトゥの再来”を髣髴とさせて、“チンギス・カンの末裔”プーチンは、十三世紀のモンゴル帝国の感覚のままに、周辺国との交際はその国の軍事力の強弱からしか考えない。すなわち、日本側が北海道の軍事力を十倍強にするとか、非核三原則を撤廃し米国の核兵器の日本領土上セット・アップが可能になるとか、軍事態勢の全面強化を安倍晋三がした場合のみ、ロシア側は「これは大変だ」と妥協を申し出て日本への領土返還を考える。
だが、安倍晋三とは、北朝鮮から拉致被害者一人の奪還もできないほど、生来の“外交白痴”。そんな“馬鹿以下の白痴”に等しい昆虫脳で、沖縄本島の五倍の面積のある国後・択捉島の奪還などできるはずもない。
しかも、モンゴル・キプチヤク汗国の継承国家ロシアに手向かうべき対ロ外交は、日本人なら、「北条時宗→小村寿太郎→吉田茂」の系譜にあるもの以外、万が一にも有効力をもち得ない。ところが安倍晋三の対ロ外交の知見は、これとは真逆で、プーチンの指揮下にある谷内正太郎や“100%ロシア人”森喜朗から学んだ。
谷内は血統が北朝鮮人で、ロシアSVR(旧・KGB第一総局)指揮下の対日工作員である。そればかりか、この谷内が今、安倍にぴったりと日々接触しているのである。また、両親の墓をシベリアに建立した森喜朗とは、ロシアとの関係に限るが“完全なロシア人”であり、日本人意識が一欠片もない(「附録」参照)。
そして、それ以上に怖ろしい経歴が安倍晋三にある。日本の戦後外交史に悪名を遺す“対ロ売国奴”安倍晋太郎の息子であること。安倍晋太郎が外務大臣として北方領土をロシアに貢ぐ売国外交をしているとき、この安倍晋太郎の秘書官だったこと。安倍晋三が、対ロ観や対ロ外交で、最も影響を受けた三名を表1に纏めておく。
表1;安倍晋三の対ロ観・対ロ政策の形成・立案に影響を与えたワースト・スリー
谷内正太郎は血統が日本人でないからか、日本の領土など、ロシアでも中共でも周辺の欲しい国に全部くれてやれが信条の、“売国奴一直線の反日人士”である。だから、新聞記者の質問に次のように答えている。
「私は三・五島でもいいのではないかと考えている。北方四島を日露両国のつまずきの石にしないという意思が大事だ。面積で折半すると、〈3島+択捉島の20~25%〉(という3・5島)だから、実質は四島になる」(注2、丸カッコ内は毎日新聞社)。
「つまずき石」にしたのは、南樺太や国後・択捉島そして千島列島(=クリル諸島)に日ソ中立条約に侵犯して侵略した“侵略国家”ロシアである。侵略した日本の領土をロシアが無条件で返還した時に初めて、日露両国の「つまずき石」が消える。日本が自国の領土をロシアに妥協的に一部でも割譲するならば、次は、日本は北海道を割譲する破目に必ず追い込まれる。
択捉島の80~75%をロシアに割譲することは、四捨五入すれば、日本の択捉島喪失と同じで、「3島返還論」である。「実質3島」となることを「実質4島」だと詐称して日本人騙しに狂奔するのが谷内正太郎。谷内が金正恩と同じ北朝鮮族と考えれば、納得しよう。
主権国家は自国の固有の領土にしがみついてこそ、国際社会から尊敬され、世界の中の日本になれる。だが、日本人の血が流れていない北朝鮮人・谷内正太郎は、日本人に国家意識・国民意識を欠如した「“地球市民グローバル・シチズン”になれ」とまで言い放った。日本人に人間性の根本を形成する民族的矜持や愛国の精神を自ら喪失しろと、呼びかけたのである(注2)。今般の9月29日の安倍/プーチン首脳会談に先立ち、安倍側の情報すべてをロシア側にリークしたのは谷内正太郎(9月24日、注3)。
序に、1980年代以降、外務省の主要な北朝鮮人外交官を表2にまとめておこう。
表2;1980年代以降の外務省の主要“北朝鮮人”外交官
安倍晋三よ、“売春婦的な対ロ媚び語”「解決」を使うな! 正しく「奪還」と言え!
安倍晋三総理は、「北方領土の帰属問題の解決」と言って、決して「北方領土を奪還」とか「ロシアに返還させる」とは言わない(注4)。この異様な言葉に、「これはオカシイぞ、変だな」と怪訝に思う日本人がいない。日本人は、日本人ではなくなっている。
裏に国民騙しが秘められた言語「北方領土の帰属問題の解決」は、中曽根内閣の外務大臣・安倍晋太郎ら、日本人ロシア工作員や「ロシア人化した日本人」たちが、1980年代の後半以降、「北方領土放棄」へと日本人を洗脳すべく考案した対日洗脳語。
二文字「奪還」には、明快に「四島が返還される」という意味がある。が、「帰属問題の解決」ならば、面積が「四島無条件一括奪還」の7%にしかならない「二島」の返還でも「解決」だから、四島の奪還を断念する意味を強くする。
そもそも「四島が日本国に帰属している」から、不法占拠している侵略国家ロシアに返還要求をするのであって、それを日ロ間で「帰属を論議する」とは、国際法的には「北方領土=帰属未定の“無主の地”」となる。また、「50%返還でも7%返還でも、帰属問題の解決」だから、「帰属問題の解決」という言葉は、北方領土をロシアに無償譲渡する売国奴性が濃厚。
1955年から「南樺太を含む〈北方領土〉奪還」に馴染んできた「(私のような)ロシア・ウォッチャー六十年」には、「四島に限定した北方領土問題の解決」など、喉に止まった異物のような違和感しかない。この奇天烈な言語は、日本人を蔑視し日本人からすべての領土を奪う「日本のロシア属国化」のための対日本人洗脳魔語。
1955年、私が十歳のとき(備考)、「北方領土」と言えば、南樺太、国後・択捉島、得撫島、千島列島(=クリル諸島、注記参照)を意味する言葉だった。ロンドンで交渉を始めるに際し、現在と違って愛国心を漲らせ教養ある外務省外交官たちが、南樺太まで奪還しようと造語したのが「北方領土」である。「北方領土」の原義には、愛国心がある。
備考;北方領土奪還こそは、祖国日本への自分の天命ではないかと子供心に自覚したのは、1956年11月1日、首相の鳩山一郎が羽田に手ぶらで帰国した新聞記事と写真を見た時で(注5)、私は十一歳(小学校6年生)だった。
「北方領土」が、国後・択捉島と北海道の一部である歯舞・色丹を限定的に指す「四島」の意味に再定義されたのは、コミュニスト海部俊樹が首相の1991年4月で、追放される八ヶ月前に訪日したゴルバチョフ共産党書記長と会談してからである。この1991年4月とは、サンフランシスコ講和会議の1951年9月からすれば一世代以上が経った四十年後だった。
日本人は、日本語を二~三十年毎にがらりと変える性癖がある。が、自国領土の条約上の言葉を変えてはいけない。外交上の言葉も変えてはいけない。
だが、日本人は固有の領土の名称を変え、千島列島とは全く関係のない国後・択捉島を「南千島」とした。九州を西・山口県と称するのと同じ戯れ言葉の類。領土の名前を勝手に変更する日本人とは、日本国の主権を守ろうとしない最低の民族である。
つまり、ロシアが、大東亜戦争の大敗北にうちひしがれた日本に対して、常習の“火事場泥棒”で侵略した「北方領土」に関し、日本人は“日本人ロシア工作員”やロシアに一本釣りされた政治家たちによって、徹底的に情報操作され続け、洗脳されてしまった。 その結果が表3。サンフランシスコ講和会議の1951年から、レーガン大統領の対ソ巻き返しの1980年前半まで確かに日本国民のエリート層の常識的な語彙として生きていた、表3の四言語①②③④が、1990年前後から突然に消滅した。
表3;領土だけでなく言葉までロシアに奪われた日本
安倍晋三は、鳩山一郎/田中角栄の狂愚を繰り返す“おバカ型の対ロ売国奴”
安倍晋三がプーチン大統領に弄ばれている様は、安倍晋三というおバカ鼠が、狡猾で獰猛な猫に襲われ食べられる前に、この獰猛な猫とじゃれあって遊んでいる光景を思い浮かべれば、イメージ的にほぼぴったりだろう。
ロシア人は、日本人や米国人とは異なって、外国人を決して信じないし友人にすることは無い。とりわけ、エリートになればなるほどロシア人は外国人への警戒と猜疑とが鋭利さを増して強度。これは、ロシア民族のエリートがもつ最小限の資格でもある。
安倍晋三が「プーチン大統領に、騙されている/洗脳されている/操られている」事は、安倍晋三がロシアに完全に騙された鳩山一郎や田中角栄の失敗の研究をいっさいしない事実からも裏づけられる。先達の騙され方を精査・研究もしないで、「俺様は、1955年から六十年ぶりに、日本に彗星のごとく現れた、天才的対ロ外交ができる政治家だ!」と妄想する安倍晋三とは、何らかの精神医学上の疾患が重篤で、プーチン大統領はこれを徹底的に利用している。妄想癖者を操るのは、赤子の手を捻るより容易い。
ロシアは、侵略した領土返還を要求する外国に対して、三つの情報操作=謀略を徹底的に行なう。ロシア民族には、表面に見える外交交渉で外交をする文化が無い。ロシア外交は、あくまでも水面下での“外交外の外交”が主体である。“外交外の外交”が、ロシア外交の99%を占める。
ロシアの外務省には、外交の権限が全く与えられていない。あくまでもKGB第一総局(=SVR)が外交すべての全権を握っている。またロシア外務省自身、KGB第一総局(=SVR)が所轄する、その下部機関である。ロシアの対外行動・対外政策にかかわる国家機関について、この程度のイロハ的知識ももたない“おバカ”安倍晋三など、プーチンから見ればまさしく三歳の童子以下。操るのに、手間隙かからない。
先述の三つの“情報操作=洗脳の謀略”とは何か。 第一は、「出口論」を刷り込むこと。鳩山一郎と田中角栄が刷り込まれた「出口論」は、安倍晋三にもそっくり刷り込まれている。
表4;「先」と「後」を逆に信じさせる洗脳術は、天才外交民族ロシア人の特技
(備考)こんな露米日の三ヶ国約束などどこにも存在しない。が、田中角栄は信じていた。いったい誰が吹き込んだのか。私が当時聞いた噂では、朝日新聞の某記者と末次一郎だという。
そもそも、ロシアには、民族文化として、お土産のお返しをする習慣は存在しない。支配下の他民族から貢納があると、必ず「これを貢納したのだから、さらに貢納できるはずだ。もっと貢納せよ!」と、要求がエスカレートする。日明貿易のような、日本の貢納に支那の皇帝が“お返し”する支那民族とも全く異質である。ロシア民族には、他民族への強奪(収奪)文化しかない。お土産を渡すと「別のお土産を、さらに寄越せ!」と強奪がより過激になる。これが、過去五百年間のロシア対外史が明らかにする、ロシアの対外政策・行動の基本特徴。
第二に、ロシアは、対ロ交渉をする日本の首相を、ロシア工作員たちや日本のマスコミに充分に洗脳させ、交渉以前に“ロシアの操り人形”に仕上げる。この仕上げ前には、表に見える外交交渉はしない。
表5; 日本の首相をロシアの言いなりに洗脳したロシア工作員たち
(備考)?は、外務省の現役局長以上か、退官後の元外交官。まだ特定できず。
第三は、日本の首相の対ロ外交を、米国から分断decouplingする。鳩山一郎も田中角栄も、米国の助言をいっさい無視した。自惚れでしかないこの対米傲慢が、彼ら自身の自滅と日本の国益喪失の主因となった。 今、安倍晋三は、対プーチン行動で米国の助言をほとんど無視して、鳩山一郎/田中角栄の愚行をそっくり繰り返す寸前で右往左往中。安倍晋三が、北方領土をすべてプーチンに貢ぐ可能性と危険は、日々高くなっている。(つづく)
【お知らせ】
テーマ「プーチンに操られ北方領土をロシアに貢ぐ安倍晋三」の第一回は、この辺でいったん筆を擱く。この連載は十回を予定している。
【注】
1、『朝日新聞』1990年1月16日付け。安倍晋太郎はモスクワでゴルバチョフに「八項目」提案を行った。この「八項目」の第八番目にやっと北方領土関連が出てくる。が、それは「択捉島への元島民の墓参要求」のみ。つまり、安倍晋太郎は、領土返還を要求しなかった。北方領土返還を放棄したとゴルビーは理解した。
2、『毎日新聞』2009年4月17日付け。九面。
3、『朝日新聞』2015年9月25日付け。パトルシェフ安全保障会議書記はKGB第一総局(=SVR)の将軍。対日謀略工作も担当している。
4、安倍首相は、2月7日に東京都内で開催された「北方領土返還要求全国大会」で挨拶した際、「北方四島の帰属問題を解決して平和条約を締結するとの基本方針に従い…」と発言した。「北方四島を奪還する/返還させる」とは言わなかった。『朝日新聞』2013年2月8日付け。
5、『朝日新聞(夕)』1956年11月1日付け。一面。
【注記】
ここにもう一つ。外国からの言語操作ではなく、日本人自らが言葉を変えたとんでも ない不祥事件を忘れてはいけない。日本人とは、自国の領土に無関心な、天性の主権喪失心理が常態の異様な民族である。
それは、「千島列島」という固有の日本語を自堕落に定義変更してきた自傷事件ともいえるもの。プチャーチンに媚びた川路聖謨の下田交渉以前の、十八~九世紀の江戸時代、政府の公式言語として、「千島列島」とは、知理保以島から占守島に至る18の小島を指した。「千島列島」は、「国後島/択捉島/得撫島」の三島を全く含まないし、無関係。江戸時代の日本人は、「国後島/択捉島/得撫島/千島列島」と呼んでいたのである。この呼び方は、基本的に明治時代ではずっと受け継がれてきた。要は、江戸時代と明治時代の日本には、「北千島」「南千島」という日本語はない。
「北千島」「南千島」という珍語が造語されたのは、大正時代のようである。北海道庁に保存されている関連文書をすべて捲れば、このような日露条約に違背するトンデモ言語をいつ使うようになったかがわかるが、暇がなくて、この作業をまだしていない。
少なくとも、国後島・択捉島を「南千島」と間違った総称名を用いてはならない。あくまでも国後島・択捉島と正しく呼称すべきである。トンデモ珍語「南千島」など、今後は、厳格に禁止して日本語から完全一掃する必要がある。
【附録】 “対ロ売国奴”森喜朗を育てた父親は“100%ロシア人”
森喜朗は、二〇二〇年東京五輪組織委員会の会長だが、新しい国立競技場はコスト問題で白紙、エンブレムも盗作問題で白紙と、すこぶる評判が悪い。
だが、本来は、森喜朗への引退勧告は、北方領土問題で国民あげて糾弾的にすべきであった。むろん、今からでも遅くはない。このエセーを読んだ読者は、森喜朗に「二〇二〇年東京五輪組織委員会会長」を辞任して石川県根上町の郷里に隠棲せよ、の手紙を送りつけて頂きたい。
なぜなら、祖先から御預かりして子孫に相続していくために、現世代の日本国民が命を捨てても守りぬかねばならない、我が日本国の崇高にして聖なる固有の領土を、森喜朗は、こう言った。まず、その一つ。
「四島を特別区域として双方で運営していく(共同管理にする)」(2014年2月20日、福岡市、毎日新聞主催)。
とんでもない暴言の極みではないか! なぜなら、それでは主権はロシアにもあり、日本の固有の領土を回復し得ない。また、ロシアの1945年8~9月の侵略を容認することになり、“犯罪国家”ロシアの犯罪を法秩序で治められるべき世界に放置することになる。森はまた、この一年前、モスクワの国際関係大学で、こう講演した。この大学は、KGB第一総局や外務省のエリート養成をする大学で、まさに日本人を騙し日本人を洗脳する謀略の基礎を叩き込む教育機関である。
「プーチン大統領の北方領土〈引き分け〉解決と私の〈ノーサイド〉解決は一致しています。【四島一括返還】なら“日本の勝ち/ロシアの負け”で〈引き分け〉ではないので採用できません。歯舞・色丹だけの二島返還なら“日本の負け/ロシアの勝ち”だから、これもダメです。【四島一括返還】だけれども、ロシアは1㎡の領土を日本に譲っていない方式が、勝ち負けのない解決です」(2013年2月22日)。
何ということか。共同管理/共同主権のことではないか。かつてプチャーチンが、す でに日本の領土(日本人入植者四千名、ロシア人入植者ゼロ名)となっていた樺太を侵略せんとして「共同主権」を申し込み、“外交白痴”川路聖謨が騙され、それを言いなりに認めた下田条約(1855年)方式ではないか。
日本固有の領土から「共同主権」に格下げされた樺太は、その後、ロシア政府が軍部隊やならず者を投入して徹底的に樺太日本人住民への放火・掠奪を実行し、これに音をあげた日本が逃げ出した。それが(国後と択捉は千島ではないので含まれない)不毛の千島列島5千平方㎞と樺太の約八万平方㎞の交換である(1875年)。
要するに、森喜朗は北方四島を「形式的に日本の領土、だが実態的にはロシアの領土」とすることをプーチンに約束したのである。つまり実態的には、国後・択捉鳥をロシアにタダで差し出すと約束したのである。森喜朗とは“世紀の対ロ売国奴”で非国民の極み。日本は、「日本国民」ではない森喜朗を国家反逆罪で絞首刑に処すべく立法を急がねばならない。
かくも森喜朗が、「日本は、ロシアの属国でいい」「日本は、ロシア国の一部でいい」と考える“完全な対ロ売国奴”となったのは、「レーニン/スターリンのロシアこそ我が祖国」と信仰した父親の森茂喜がそうなるよう育てた成果である。森茂喜は、日本最長記録の町長(1953年~89年の三十六年間、石川県根上町)で有名だが、生涯に亘りソ連/ロシアを祖国と考えた“純度100%のロシア人”だった事の方がもっと有名。
森茂喜の墓は、遺言に従い、森喜朗が、シベリアのイルクーツク市の近郊にあるシェレホフ市に純日本風で造った(2000年)。喜朗の母親も分骨されて一緒に眠っている。
(2015年9月30日記)