筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
谷沢永一氏が名著『悪魔の思想』を出版した1996年2月から一年近くがたった同年12月頃か、私は「桑原武夫を“国賊ワースト12人”(備考)に加えなかった理由は何ですか」と尋ねた。谷沢氏の言い訳は何一つ覚えていないが、次の発言だけは今も思い出す。
「そう言えば中川先生の学敵は、桑原武夫が、丸山眞男に次いで二番目でしたナ」
「戦後日本の大学で、ルソーやフランス革命の批判・糾弾がタブーになったのは、“ジャコバン検閲屋”桑原武夫の仕業。彼は全国の大学を常に具に調べ、反ルソー&反フランス革命の教授や大学院生を片端から洗い出し、《大学から追放する/その論文を学会誌が受け付けないようにする》等、嫌がらせ工作を徹底的に行った。死ぬまでやっていた」。
(備考1)谷沢永一は、1995年の『こんな日本に誰がした──大江健三郎(北朝鮮人、日本共産党員)への告発状』に続き『悪魔の思想』を出版。槍玉に挙げたのは、大内兵衛、鶴見俊輔、丸山眞男、横田喜三郎、安江良介、久野収、加藤周一、竹内好、向坂逸郎、坂本義和、大江健三郎、大塚久雄の十二名。
(備考2)Wikipedia「谷沢永一」の『悪魔の思想』のパラに続くパラで、「つくる会の西尾幹二は共産党“特別”党員で、つくる会は全国の中学歴史教科書を日本共産党“史観”に統一させるのが目的」を警告すべく出版した谷沢氏の二著作に関する記述は真赤な大嘘。「西尾幹二」をわざと「藤岡信勝」に摩り替えているからだ。Wikipedia日本版の管理人四十人は、志位和夫が直轄する党籍ある共産党員。Wikipediaを占領した彼らは、共産党員やその協力者を美化する任務を遂行するスターリン型検閲部隊。共産党の前衛部隊ウィキは、西尾幹二の正体がバレないよう偽情報撒布に必死で狡猾。
反ルソー/反フランス革命の日本人学者は、明治時代に井上毅一名しかいない。大正時代もゼロ名。永い昭和時代もゼロ名。やっと井上毅を継承する二番目の学者が私。反ルソー/反フランス革命で起草した明治憲法から百七年を経て、1996年、『正統の哲学 異端の思想』が、反ルソー/反フランス革命という重要思想を日本国民に喚起したのである。
日本では井上毅/中川八洋以外に反ルソー反フランス革命の思想が不在である事実は、日本での共産党検閲がいかに徹底的かを如実に明らかにする。大学と学者を徹底的に検閲する世界三大ワースト国は、ロシア/中共/日本。日本では、自由な学問も自由な出版も存在しない。世界最凶悪な検閲機関・共産党によって、日本では超弩級の検閲が今も轟音を立てて大学と出版界を隅々まで席巻している。
私が三十年近く大学にいて耳にした一つに、ルソー批判/フランス革命批判を例にすれば、「共産党は、戦後数十年間にわたって全国の大学を具に調査。ために、修士課程の大学院生ですら、反ルソー/反フランス革命の考えを持つだけで一人残らず学外に追放された」がある。桑原武夫一派は、この共産党の凶暴な雁字搦め検閲に重畳し、さらなる検閲を峻厳に実施していたのである。
殺人快楽症ミシュレ『フランス革命史』を読む狂人は、世界でポル=ポトと“王殺し狂”桑原武夫だけ
私が、桑原武夫に驚愕をもって怒り心頭に発したのは、1968年、中央公論社が箱入りの『世界の名著』シリーズ37番で『ミシュレ』を出したことに始まる。これは中公バックスでは48番として再刊(1979年)。ミシュレなど、19世紀末からは、世界の誰も読んでいない。フランスですらソルボンヌ大学の極左教授が読むぐらい。グランゼコールのENAではゴミ扱い。20世紀にミシュレを読んだのは、カンボジア国民人口の四分の一以上(200~250万人)をたった四年間で殺したポル=ポトの他は、日本の“王殺しカルト教団”桑原武夫一派だけ。
著名な歴史家の古典と言えば、一般通念では、ギボン/ブルクハルト/ホイジンガー/ランケ/アクトン卿などの名著を指す。ミシュレなどマイナーな歴史家もどきの著など、世界の誰が読むものか。しかも、フランス革命史の古典と言えば、アクトン卿の『Lectures on the French Revolution』(1910年8月刊)などが、世界の学界の常識。私はこの初版本を時々、書庫から取り出してパラパラめくっている。英国の紙と印刷の技術は高く、赤茶けてはいるが、百十年も経っているのにボロボロではない。
フランス革命史でフランス人が書いたものならば、誰でも、トックヴィル『旧体制と革命』(前編、1856年)を挙げる。これは今でも世界中広くに読まれている。まさしく世界の名著。日本でも井伊玄太郎訳(講談社学術文庫)と小山勉訳(ちくま学芸文庫)の二冊がある。だが、“王殺し狂”桑原武夫は、大のトックヴィル嫌いで、『旧体制と革命』を排斥。桑原は日本の“カルト殺人教団の狂祖”なのだ。
1875年以降のフランスでは、トックヴィルを読んで、ミシュレを読む者を“気狂い”として排除する
私が、桑原武夫が学者ではなく、人民主義の殺人狂徒だと確信したのは、中公『ミシュレ』の冒頭の、桑原武夫の解説エセー「人民史家ミシュレ」を読んだ時。Stanford大学から帰国した1970年代。桑原エセー「人民史家ミシュレ」は、学術性を排撃しており、それだけでも異様。これが、ミシュレを「ビッグ」に見せる、桑原武夫得意のマジック・ショーの宣伝方法。
通常、学者は、同一テーマの著作が多々ある場合でそのうち一冊を選択しなくてはならない時、自分が絞っていった選択の思考過程に触れる。フランス革命に関する本は、歴史であれそれ以外であれ、全面否定と全面肯定に二分している。また、フランスでは、2月革命やマルクス『共産党宣言』の1848年頃を境に、全面肯定の思潮が全面否定する思潮へと逆流した。現に、前者の代表たるミシュレ『フランス革命史』は1847~53年の出版だし、それと真っ向から対立するトックヴィル『旧体制と革命』は1856年。両者は、この逆流が起きる、その交叉する時期に、ガチンコした。
一方、英米では1790~8年頃、反フランス革命一色で国論は統一された。だから、著名なアクトン卿の反・フランス革命史は、英国民にそれを再確認させるもので、啓蒙書ではない。バークが『フランス革命の省察』を出版した1790年時のような、「英国内にフランス革命“支持”者を一人も存在させるな」の緊張があったわけではない。
米国におけるフランス革命支持者の一掃は、アレグザンダー・ハミルトンが新聞で七回連載したタイトル「見解」の論文(1798年)で、ほぼ決着。英米は早々と国論を反フランス革命で統一しそれが国是になった。このことは、フランス革命支持者トマス・ペインの墓が、英国でも米国でも「ペインの墓を暴け!」の暴徒が多く、全ての教会が拒絶し存在しないことでも明白。米国初代大統領ワシントンの執務室には、ルイ十六世国王の油絵の巨大な肖像画が、八年間ずっと掲げられていた。
なお、日本で初めて、「米国では反フランス革命がほぼ百%の絶対多数である」との正しい事実を紹介したのは私。上記ハミルトンの論文「見解」の初紹介も、その一つ(注1)。ワシントン大統領を凌ぐ“米国建国の父”ハミルトンとは、保守主義者で反ルソー/反フランス革命の哲人。朝鮮戦争が始まった1950年、米国が直ぐ国挙げて反共国家に変貌したのは、1789年の米国建国が、王制主義者ハミルトンとワシントンによったからだ。王制主義と反共は、“不可分の双子の思想”。
(注1)中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』 、中公叢書、44~5頁。
さて、殺人鬼ルソー/ロベスピエール/サン=ジュストを崇拝する“フランス革命狂の精神異常者”ミシュレと、このミシュレを崇拝する“殺人快楽魔”桑原武夫の狂気ぶりを、垣間見ておこう。ロベスピエール/サン=ジュストは、6600万人のソ連邦内のロシア人等を殺しまくったレーニン/スターリンの先駆者。実際にもレーニンは、“(失敗しない)第二のロベスピエール”を自認した。頭の中はジェノサイドしかなかったロベスピエールが、仮にも「テルミドール10日」(1794年7月28日)にギロチン処刑されなかったら、2700万人フランス人を一人残らず殺害していただろう。ロベスピエールを狂信するポル=ポトは、800万人カンボジア国民全員を殺戮する予定だった。
次。桑原武夫も強度の殺人鬼だったのは、『フランス革命の指導者』(創元社、1956年)に収録されている彼の論考「恐怖政治の大天使サン=ジュスト」で明らかである。彼は“狂人”殺し屋サン=ジュストを悪魔とせず、逆さに天使と崇めた。桑原武夫は、人間殺戮狂“日本”一の非・人間だった。
フランス全土が赤い血に染まること自体が快楽だったミシュレは、ロベスピエールと同じく、「人民主義(=ルソー語「一般意思」は、神となった独裁者しか把握できないが、人民は神だから、人民は一般意思を知りうるとするミシュレのドグマ)を標榜し、この自国民大量殺人を正当化した。ミシュレと同一の精神異常を共有し、“殺人を快楽する” 血に飢えた桑原武夫は、自分と全く同じ狂気を持つミシュレの歴史もどきの狂書を、「人民史観」と名付けた(注2)。
(注2)中公バックス『ミシュレ』、28頁。以下、本文中の頁数は本書。
つまり、“王殺し/民衆殺し/他国侵略”を“無謬の神である人民の聖なる行為”と妄想して正当化するのがミシュレ。要は、ミシュレとは、ルソーを元祖とする、血が滴る大量殺人狂のカルト宗教を創唱したカルト殺人教団の教祖だった。それなのに桑原は、この殺人狂が書きなぐったカルト宗教文書『フランス革命史』を、さも学問であるかに読者を騙すべく、概説「人民史家ミシュレ」を書いた。
ミシュレは、ルソー『社会契約論』が提示した「一般意思」を敷衍して、「人民は神である」「神でなければ、不可能を可能とする偉大な革命(=世界転覆)はできない」「神たる人民こそが新しい世界をつくるのだ」と絶叫する(47頁)。この「人民」は、マルクス『共産党宣言』の「労働者 プロレタリアート」と全く同一。実際にも、ミシュレの「人民」もマルクスの「労働者」も、ルソーの“理想の人間”たる「野蛮な未開人」の別名。さらにルソーが『エミール』で自分自身を(フランス国民を好き放題に殺せる)絶対神に準えたが、このルソーの妄想「絶対神」を、「人民」や「労働者」と結合させたのがミシュレとマルクス。
津田左右吉とミシュレは瓜二つ。共に歴史家にあらず。共に王殺しが信条。共に「人民史観」狂。
ミシュレや桑原の脳内を、もっと覗き込みたいのだが、そんなことすれば、紙幅がいくらあっても足りない。話を本論に戻す。ミシュレ『フランス革命史』が歴史学でないことは、トックヴィルの『旧体制と革命』のほか、本屋でも売っている一般向けのフランス革命史を読めば、一目瞭然。例えば、左翼色が強いサイモン・シャーマの『フランス革命の主役たち』(中央公論社、原著1989年)と読み比べてすら、ミシュレの『フランス革命史』が歴史学の書でないのが直ぐわかる。フランス保守系ジャーナリストのルネ・セディヨが書いた『フランス革命の代償』を読めば、ミシュレが麻原彰晃に近いカルト教団の教祖に過ぎず、学者でないことが、もっと端的に伝わってくる。
ミシュレの転倒思考は、無答責であるルイ十六世国王を処刑したジャコバン党(ロベスピエール)の、血に飢えた最凶悪な蛮行に拍手を送ることで明らかだろう。ミシュレはこう言う。
「ルイ十六世国王が外国に救いを求めた事実を許すなら、祖国の不可侵性は永遠に傷つけられる。祖国は神聖だから、これを外国に売り渡すものは死ね!という信念が国民なのだ」(332頁)。
何と言う逆立ちの暴論だろうか。ルイ十六世国王は、フランス国とフランス国民を、垂直侵略者どもから救出し、本来のフランスを取り戻し国民の自由を擁護すべく、外国に一時待避せんとしたのである(1791年6月20日、翌日ヴァレンヌで捕縛される)。つまり、フランスは1789年から、フランス国民ではない“非・国民の侵略者”たる暴虐な革命勢力に侵略され占領されたから、この窒息したフランスを生き返らせるには、親仏の外国の軍事力で解放するしか、その手段は残されていない。元来のフランスに戻し、元来のフランス国民の自由と生命財産を守るに、外国の手を借りるのは、あるべき国家の緊急時の正しい外交方法である。
現に、ルイ十六世国王が、ベルギーかオランダに亡命し、翌1792年、そこから連合国の軍隊と共にフランスに戻っていれば、1814年の英国ウェリントン侯爵のパリ占領まで、二十二年間もの永きにわたる、ギロチンだけがフル稼働したフランスの阿鼻叫喚の地獄などなかった。つまり、ルイ十六世国王の一時外国避難こそ愛国行為。真の愛国者はルイ十六世国王で、革命勢力の暴民ではない。
これは、大東亜戦争を思い浮かべればよく分かろう。大東亜戦争を遂行した近衛文麿も帝国陸軍の幹部もみな、日本国民ではなく、スターリンを崇拝するロスケで“悪の非・国民”だった。つまり、日本は、“ソ連人&非・国民”近衛文麿/瀬島龍三/服部卓四郎/阿南惟幾らに日本国家を簒奪されていた。ために、元来の正しい日本国なら決してしない、親日の蒋介石を殺害する対支那戦争や対英米戦争を、スターリンの犬となって、つまりロシアの奴隷となって、狂った日本は遂行した。
太平洋戦争は、この意味で、米国が、“監獄”テンプル城に幽閉されている昭和天皇と“スターリンの奴隷”日本国民をソ連から救出するために自己犠牲を払った日本解放戦争であった。こう見てもいい。米国は、昭和天皇を奉戴して、“ソ連の属国”日本と戦い、昭和天皇を皇居に凱旋させたのである。戦後すぐ、昭和天皇は全国をご巡幸された。この時、一般国民のあの木霊する歓呼と歓喜の声は、「天皇陛下、お還りなさい」の絶唱であった。この光景は、米軍が昭和天皇を奉戴して米国本土から日本に還幸させたことで生じた光景に見えるではないか。日本国をスターリンから解放した米国マッカーサー元帥は、パリをジャコバン党(ナポレオンはジャコバン党党員)から解放した英国ウェリントン侯爵の再来であった。
侵略されている国家が、この侵略から祖国(パトリ)を救うに、友邦の力を借りるのは、国家主権の売り渡しではなく、国家主権を守るための正しき選択。現在、ゼレンスキー大統領が、米英やNATOの手助けでロシアの侵略から自国を解放せんとしているが、それが主権回復行為であるのを、何人も疑わないだろう。ルイ十六世国王は、ゼレンスキー大統領と同じことをしようとしたのが、この1791年6月20日の、俗にいう「ヴァレンヌ逃亡」であった。要は、国王が国家と国民のために、国王としての責務を果たすためのルイ16世国王の一時国外退避だから、これをミシュレのごとく犯罪者呼ばわりするのは、ミシュレこそフランス国を毀損する犯罪者=非国民だからである。
文明に対する蛮行であるルイ十六世国王“ギロチン処刑(弑逆)”を、「人民の勝利だ」「人民の正義だ」と、ミシュレがやんやと燥ぐのは、ミシュレがフランス国民としての愛国心を完全に欠く、侵略している「外国人=非国民」だからである。オルテガは侵略者を、外国からスペインの領土に侵入している水平侵略者と、スペインに生まれ育った血統スペイン人だが反スペインの垂直侵略者に分ける。ミシュレやルイ十六世国王を処刑したフランス人暴徒は、この垂直侵略者の典型。
このミシュレの血塗られた狂気を共有する異常者は、日本人にも数多い。日本共産党員は全員がミシュレだし、このミシュレに傾注する桑原武夫一派もまたミシュレそのもの。彼らは皆、王殺しに狂喜する殺人鬼集団で非人間の極み。彼らは人間ですらないのだ。要は、日本共産党員や桑原武夫一派は、日本への垂直侵略者であって、微塵も一般通念の日本国民ではないということ。
さらにミシュレの『フランス革命史』を読むと、津田左右吉の『古事記及日本書記の研究』『神代史の研究』を読んだ時と同じ、何故か、戦慄する嫌悪感が体を包む。津田左右吉もミシュレも、王制への憎悪一色の“王殺しモナルコマキ”殺人鬼で、同一のテロリスト性を本性としているからだろう。
確かに、ミシュレも津田左右吉も、パトリへの愛国心を喪失しており、パトリが存在しない。それ以上に両人は、歴史学者としての職業にありながら、歴史学がからきし音痴の“歴史を愚弄する歴史ノン・フィクション作家”。ミシュレ/津田左右吉は、(歴史が全く無知蒙昧な)共産党員・半藤一利と(歴史の捏造・改竄が生き甲斐の)ニーチェ・ヒトラー主義のアナーキスト西尾幹二をブレンドした“グロテスクな歴史小説家”よりも、ナイフで人質の首を切り落とす凶悪テロリスト団体IS性を共通している。つまり、ミシュレ/津田左右吉は、国王殺害テロルや歴代天皇“連続テロ”そのこと自体を快楽し、この暴虐テロル自体を“(カルト宗教的な)浄化”だと愉悦する。
このように、ミシュレ『フランス革命史』の本質に迫真すると、この王殺し/天皇殺し(モナルコマキ)の系図が澎湃と浮かび上がってくる。
図;天皇殺し(モナルコマキ)の“悪魔の日本人”たちとその系統
山登り&世界旅行&交際ばかりの桑原武夫は学問業績まったくなし。なのに、どうして文化勲章?
私が谷沢永一氏に、桑原武夫を『悪魔の思想家』に加えてほしいと要請した時、谷沢氏は書誌学の大家だけあって、「中川先生の怒りは、次の六冊ですネ」と即答した。
①桑原武夫編『ルソー研究』、1951年。
②桑原武夫編『18世紀フランス』、1952年。
③桑原武夫編『フランス百科全書の研究』、1954年。
④桑原武夫編『フランス革命の指導者』上・下、1956年。
⑤桑原武夫編『フランス革命の研究』、1959年。
⑥桑原武夫責任編集『ミシュレ』、1968年。
このいずれでも桑原武夫が書いたのは序言や序章や概説のみ。これらの著作は全て、桑原の手足となった他の学者の作品。自分は学者としての仕事を何もせず、労せずして「大学者」かに売名する桑原の狡猾な業績カツアゲは、戦後日本の文系教授の中に比肩できる者は一名もいない。
この桑原のやり口は、翻訳でも同じ。ルソー『告白』もルソー『社会契約論』も、桑原は一切翻訳しておらず、実際の訳者は共訳者。ダランベールほか編『百科全書』での桑原の貢献した訳はたった六頁。420頁のうち2%弱。
桑原武夫には、この故に、京都大学教授では極めて稀な、専門書・研究書が一冊もない“学問業績ゼロ”の記録保持者になった。つまり、名声ばかりあってその実がない、クズ以下の国立大学教授が桑原武夫の実像なのだ。
『桑原武夫紀行文集』全三巻があるように、桑原は、年がら年中、世界を旅行し捲っては紀行エセーを書きまくっていた。その登山はプロ級で、この登山にかけた時間だけでも、桑原に学問などする時間は半分が無くなったはず。『桑原武夫全集』全七巻を見ても『桑原武夫集』全十巻を見ても、あるのは短編のエセーすなわち雑文ばかりで、学術論文と言えるものは全くのゼロ。
こんな学問業績ゼロの桑原武夫が、どうして文化勲章かと言えば、総理府賞勲局(現・内閣府賞勲局)が共産党員ばかりで、共産党の推薦で文化勲章の受賞が決まるからだ。桑原自身は共産党員ではないが、日本共産革命に多大に貢献したことで、共産党がご褒美を下賜したのだろう。
津田左右吉も1949年に文化勲章を受勲。これは古代天皇を殺しまくって天皇制廃止に大貢献した功績を共産党が讃えたものである。金田一京介も文化勲章受勲者(1954年)。戦前・戦後一貫してソ連と通謀し、北海道と東北をソ連に献上するため“嘘アイヌ史”を書きまくった、金田一京介の強靭な非国民ぶりを、共産党が賞讃し労ったのである。
附記;トックヴィルのフランス革命論
フランス革命批判・糾弾の圧巻は、バークの『フランス革命の省察』及びその後死没するまで書かれた数々の重要論文(1791~6年)で、合計すると、日本の出版社編集では全三巻分になる。次が、ハミルトンの新聞連載「見解」。私は、この翻訳出版をする暇がなく、今、深く後悔している。この二名に続くのが、トックヴィルとアクトン卿。
トックヴィルは、ギロチンのフランス革命が周期的に蘇生するので、処刑されるのを覚悟しての出版。最初のは、偽装タイトル『アメリカの民主政治』でカムフラージュし、しかもフランス革命批判の部分「下巻」は、上巻・中巻を1835年に出版してから五年の間を置き 1840年に刊行した。
日本で、トックヴィル『アメリカの民主政治』の執筆目的は、アメリカの政治制度論ではなく、フランス革命の批判をモチーフにしていると、最初に指摘したのは私。その後、私以外でそう指摘する者はいない。“おバカ共産党員”宇野重規の『トックヴィル 平等と不平等の理論家』などは、私の指摘の後なのに、間違いだらけのトックヴィル論を嘯いている。バカは死んでも治らない。
トックヴィルは結核を発病し、余命いくばくもないのを知り、死刑になってもよいとフランス革命批判本を公然と出版した。これが『旧体制と革命』の前編で1856年。後編は病気が悪化して死没(1859年)したので、存在しない。以下、その概要。
(1)『アメリカの民主政治』下巻の第四編。
この第四編にある「平等は、事実上、二つの傾向を作り出す。第一の傾向は、人々を独立に導き、そして人々を突然に無政府状態にまで推し進める。第二の傾向は、もっと長いもっと潜在的に、しかし確実な道によって、人々を隷従に向かって導く」(注3、512頁)が、ハイエクの『隷従への道』のタイトルになった部分。
(注3)井伊玄太郎訳『アメリカの民主政治』下巻、講談社学術文庫。
ハイエクは、フランス革命の核心を、バーク同様、「平等→全体主義体制→個人の自由の喪失と国家への隷従」だと喝破した。そして、ナチ・ドイツもレーニン/スターリンのソ連体制も、このフランス革命を再現しそれをより凶暴化させたものだと正しく把握した。
つまり、人間個人は、自らの自由・生命・財産の保障・保護のために、“慣習に基づく不平等”に頑強に拘泥する方が得策。だが、一般大衆は、夏の夜の誘蛾灯に群がる虫のごとく、自由も財産もすべてを失う平等を求める。そして、屍体状態になるに等しい“国家の奴隷”になる方を選択する。
かくハイエクは感動し、トックヴィル『アメリカの民主政治』下巻第四編を読んだ。本ブログの読者諸兄も再読されたい。LGBT法案を隠れ共産党員・稲田朋美が強引に立法せんとするのは、日本を共産化するため。平等は必ず自由を逼塞させ、日本国民をして自由なき国家奴隷に貶める。「フランス革命→レーニンのソ連→ナチ・ドイツ&大東亜戦争下の日本」で経験済みだが、日本人は懲りないようだ。日本の亡国は間近い。
(2)『旧体制と革命』。
この訳本は、講談社学術文庫とちくま学芸文庫の二つがある。ここで、両書の差異は論じない。本ブログの読者は好きな方を読まれたい。ただ、両書とも、その訳者解説などには間違いが多く、合格点にははるか遠く及ばないことに注意の事。
(2023年5月1日記)