満洲邦人“虐殺”史の改竄は、これから起きる《北海道五百万人“虐殺”》対策をさせない油断戦法──菅義偉/鈴木直道/鈴木宗男は、満洲邦人“皆殺し”実行犯・秦彦三郎/瀬島龍三の生れ変り

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筑波大学名誉教授 中 川 八 洋

 犯罪者を隠蔽する歴史改竄の目的は二つ。第一。犯罪者の犯罪を隠蔽して、無罪放免にすること。1945年7月末、ソ連軍侵攻の十日前、満洲邦人を大連と営口の港に集める事前避難をしなかったのは、スターリンの命令で、満洲一般邦人「190万人前後」を“皆殺し”しようと、関東軍参謀長・秦彦三郎や作戦参謀・瀬島龍三が計画し実行したからである。大量殺人という、犯罪の中の犯罪。

 が、この血塗られた自国民ジェノサイド歴史について、戦後日本は決して暴くことをしなかった。正しい現代史研究をすれば、共産党から確実に大学を追われるからである。むしろ、「秦彦三郎、松村知勝、瀬島龍三、草地貞吾」らを庇う論文や評論あるいは単行本ばかりが発表された。犯罪者隠蔽は、戦後日本の現代史学界の主たる仕事だった。

 犯罪者を隠蔽する歴史改竄の第二の目的。犯罪者は同じ犯罪を何度も繰り返すから、この繰り返しを応援すれば、同じ犯罪を起こさせることができる。例えば、共産主義者「秦彦三郎、松村知勝、瀬島龍三、草地貞吾ら」の犯罪は、それを後継する共産党員・共産主議者は必ず繰り返そうとする。ならば、秦・瀬島の犯罪を隠蔽・歪曲して、その真像を炙りださないでおく協力をすれば、同じ犯罪が起きる確率はぐんと高くなる。

 満洲で1945~6年に起きたことを、もう一度、この日本列島で起こそうと考える共産党員・共産主義者にとって、満洲で1945~6年に起きた歴史は、現在の日本人の知る所となっては困る。レーニンを教祖とする現在の共産党員・共産主義者にとり、自国民“大量殺戮”というレーニン教“教義”に違反してまで、自国民“大量殺戮”をしないで済ますことは許されていない。

 以下、満洲1945~6年史を、満洲邦人の死者数推計に照明弾を撃ち込んで、これを明るみに出す。この狙いは、同種の犯罪が日本列島で確実に起きるのを事前に阻止したいからである。近未来の“満洲ジェノサイド”に対する予防対策を急いで採れ! と日本国民に訴えたいからである。

1、満洲邦人“被害者”数の推計方法で守るべき基本

 “在満”日本人総数の「確定している数字」「確定できる数字」を確認し、帰還した員数を引けば、ロシア兵や支那暴民に殺された日本人の被害者総数は正確に推計できる。が、この推計作業は、戦後日本は今に至る八十年間、日本共産党によって厳しく禁止された。だから現代史学界のどこを探しても学術論文「1945~6年の満洲邦人の被害情況」が一本もない。

 しかも、厚生省引揚援護局が普通の官庁なら、1950年代に、この作業を学界に代わって正しくしたはず。が、この作業を担当する厚生省引揚援護局は、KGB第一総局(戦争中はGRU)に直隷していた“大ロスケ”美山要蔵(終戦時、陸軍省官房長。大佐。8・14宮城クーデタ部隊の「参謀長」、阿南惟幾・陸軍大臣のトップ副官)が牛耳り続けた(~1962年)。美山要蔵は、スターリンを虚像「人道主義者」で包むべく、シベリア強制労働と満洲邦人の地獄情況を、ソ連の指示に従い徹頭徹尾に捏造した。

 例えば、美山要蔵は、シベリアに強制連行された日本人の正しい総数「107万人」から50万人を削り、嘘数字「57万人5千人」をデッチアゲた。シベリアから帰還した日本人総数は、正確に「47万2942人」。つまり、シベリアで殺害された日本人は、正確に「107万-47万人=60万人」。

 しかも美山は、厚生省引揚援護局の政府公式数字(1959年)として、シベリアで殺された日本人を「57-47=10」ではなく、「57万人―47万人=7万人」にする。レイテ島で日本人将兵十万人を餓死処刑させた張本人らしく、“唯物論の狂人”美山要蔵は日本人の死者など石ころ以下。その数などどうでもよく、「60万人→7万人」へと改竄のし放題。

(注1)1959年版の厚生省引揚援護局『満洲・北鮮・樺太・千島における日本人の日ソ開戦以後の概況』、42頁。

 ただ、厚生省にも当初は良心的な官僚がいたようで、2000年にクレス出版が復刻した、『続・引揚援護の記録』(1955年刊)は、アグレマンが出ず1952年頃から機能不全に陥ったソ連大使館が「日ソ共同宣言」によってその対日工作活動を再開したのは1956年11月だから、KGBの事前検閲が無かったからだろう、正しい数字「約107万人」を記載しているクレス出版の復刻版、24頁)

 数字「107万人」は、米国の諜報機関がベリア内務省の強制収容所関連文書から、1946年、盗んだ正確な数。米国はこの数字「107万人」or「105万人」を用い、「シベリア抑留の日本人を帰還させよ」とスターリンに迫った。スターリンは、1948~9年、共産主義者に洗脳したかなりの数の日本人を返還したが、これは米国政府の圧力のお蔭。最終的に47万人が戻れた。これは、親日トルーマン大統領の努力の成果である。

 尚、1945~6年、収容所に収監される前に病気(チフスなどの伝染病)になった日本人はロシア国境の満洲や北朝鮮側に連れ戻され遺棄され、病院ゼロ/日本人ゼロの荒野に野晒しのまま死んだ。美山要蔵が手にした、ソ連内務省がつくった、国境で野晒しのまま死んだ病気の日本人の数が、「病弱者逆送一覧」というタイトルで前述の厚生省文書に収録されている(39~40頁)。その数「4万2550人」。ロシアがシベリア強制連行した日本人総数は、「107万+4万2550人=111万人強」に修正されるべきだろう。

 良心的な官僚がいた1955年から四年後の1959年、厚生省引揚援護局のボス・美山要蔵は、シベリア帰還者数の政府公的確定数字として嘘数字「約57万人」を、鉛筆舐めて捏造し(注2)、米国政府から提供された諜報情報「107万人」を禁止した。

(注2) 同上、厚生省引揚援護局、20頁。

 なお、学界と新聞・雑誌・出版界は、ソ連に命令された通り、“世紀の殺人快楽症”美山要蔵の犯罪を隠蔽すべく、彼の名を“徹底”秘匿した。最残虐な党籍ある日本共産党員四十人が管理人の、日本版WIKIは美山に関する「項目」を削除した。美山要蔵の名は、同僚のGRU/KGBロスケ瀬島龍三と同程度に糾弾されるべきだから、瀬島と同程度に広く日本人に知られているのが当り前。

 が、昭和天皇の銃殺も計画していた8・14宮城クーデタ―の「参謀長」美山要蔵(阿南惟幾の高級副官)を、日本人のほとんどは知らない。靖国神社を潰す目的で、A級戦犯の靖国神社合祀を最初に発案した男が美山要蔵であることすら、日本人は知らない。靖国神社の宮司・松平永芳は、8・14宮城クーデタ時を含め、一貫して美山要蔵の子分だった。1978年10月、松永永芳は美山要蔵の命令を履行すべく、犯意あらわに昭和天皇を騙し、A級戦犯を靖国神社合祀した。

※拙著『昭和天皇と靖国神社』参照。

 なお、靖国神社が祀る「神」となるリストは明治憲法の規定により天皇が裁可。戦後もこれは慣習として踏襲されていた。昭和天皇を憎悪し昭和天皇殺害狂の“平泉澄系のコミュニスト”松永永芳は、そこで、A級戦犯者の名前を上手く隠して昭和天皇に差し出し、その裁可を得た(1978年)

2、帰還した在満邦人の数

 満洲から帰還した邦人数は「127万1479人」。これ、正確な数字。内訳は、蒋介石の軍港・葫蘆島から「約105万人」、ソ連占領の大連から「22万5954人」。厚生省『引揚と援護三十年の歩み』92~3頁、102頁。

 遼東湾に臨む葫蘆島からの「105万人救出」は、「マッカーサー元帥/蒋介石/カソリック教会」の三者がなし、日本政府は一㍉も貢献しなかった。関東軍は、ソ連軍に在満邦人を“皆殺し”させる予定だったから、秦彦三郎と瀬島龍三らは、満洲に三つしかない港「旅順、大連、営口」を、早々と1945年8月23日にソ連軍に渡した。結局、蒋介石が造りかけの小さな軍港「葫蘆島」が、日本に繋がる唯一の港になった。また、日本の敗戦で、蒋介石軍は奉天まで進駐し「奉天──葫蘆島」間の鉄道を抑えていた。この蒋介石が押さえる港と鉄道が、満洲邦人の祖国帰還という奇跡をもたらした。

 マッカーサーは在日カソリック教会からの要請もあり、葫蘆島に小部隊を駐屯させ満洲邦人を帰還させることに全力を挙げた。その小部隊の隊長が親日のKenyon(ケニヨン)少佐(注)。葫蘆島に対しソ連軍も中共軍も攻撃しなかったのは、米軍のこの小さな部隊のプレゼンスによる。“恩知らず”日本政府は、ケニヨン少佐への勲章授与をしていない。

(注) 『満蒙終戦史』、672頁。

 尚、NHKドラマ「どこにもない国」の原作『満洲 奇跡の脱出』(丸山邦昭著)は、葫蘆島からの邦人救出を正確に記録。著者の父親が、満洲を脱出しマッカーサーのGHQに掛け合った丸山邦雄。丸山邦雄は、日本が誇るべき真正の英雄。丸山邦雄がいて初めて127万人の命が救われた。

 葫蘆島からの乗船は、1946年5月7日に始まった。一方、GRUロスケ関東軍が早々と手渡してソ連軍の支配下になった大連港からは、マッカーサーの執拗な圧力でソ連は、やっと半年後の1946年12月8日から乗船を認めた。大連港からの引揚船も全て、米軍が提供した。日本占領が米国でなければ、親日マッカーサー元帥が総司令官でなければ、在満日本人「170万人以上」は皆、死んで、日本人は一人も帰還していない。また、米軍は、葫蘆島や大連から博多港や佐世保港に着岸した引揚船の日本人を歓迎すべく、禁止していた日の丸を桟橋に掲揚させた。引揚船の日本人は日の丸を見て、みな泣いた。米軍は、日本国を救った神風だった上に、天使だった。

3、「190万人前後」と推定される、ソ連侵略開始時の在満“一般邦人”数

 1945年8月8日時点の、関東軍・満洲軍の軍人以外の日本人の人口の推計は、厚生省はむろん、どの民間団体のも正確とは程遠い。満洲における被害者数を意図的に低く見積もるのは、ロシアKGB/日本共産党の圧力が凄まじかったことが最大の原因。が、そればかりではない。a統計のとり方や統計表に関する基本的素養に欠くズブの素人が纏めたことも、無視できまい。

 また、b満洲国は日本の傀儡国家だったため、日本は満洲国を“主権ある外国”とは扱わず、頭ごなしに日本の国策を実行した。日本人が満洲国への入国時、パスポートを提示しないのも、この一つ。また、国籍法の無い満洲国とは、奇々怪々な、住民主義の非・国家。当然、満洲国籍を取得した満洲国在住の日本人は一人もいない。

 “赤い気狂い”関東軍が私物的に領有した伽藍洞の似非国家が、満洲国。そこでは、スローガン「五族共和」「王道楽土」が満洲国の理念的な指針で国家の体裁を取り繕う規範だった。満洲国はマルクス『共産党宣言』の「プロレタリアートに国境はない」を信奉するカルト宗教国家だった。

 ために、“関東軍の民政代行”満洲国政府は、日本側から(国家が専管すべき)多くの事柄について知らされなかった。例えば、満洲国への入植である満蒙開拓団についてすら、満洲国政府は“半ば聾桟敷”。ソ連軍侵略直前の満洲“一般邦人”の人口推計に、満蒙開拓団の員数確定は欠かせないが、満洲国政府は、仕事をサボったからでなく、情報がないために彼らに関し超・杜撰な数字しか持たなかった。

①満蒙開拓団の人口

「満蒙開拓団」は、三グループの総称。その員数は三グループ総計。1945年8月8日現在のその人口数は、開拓団「24万2300人」、少年義勇隊「2万2800人」、報国農場「4900人」。総数にすれば「27万人強」。うち死者は推計で「7万8500人」。つまり、生きて祖国の土を踏んだのは「19万人」。葫蘆島からの帰還が「14万人」とすれば、残り「5万人」は朝鮮北部からになる。

(注)加藤聖文『満蒙開拓団』岩波書店、218~9頁。その他の文献。

②ソ連軍侵攻十ヶ月前の1944年9月末「国勢調査」

 満洲の日本人は、『満洲国史』785頁によれば、満洲国政府の国勢調査(1944年9月末)で「166万2234人」としている。但し、この数字は「軍人、軍属、その家族は含まない」とある。が、この数字は、満洲国ではなく、日本国である関東州(旅順と大連)の日本人「22万9千人」(1945年6月末現在)を含んでいる。『満蒙終戦史』、443頁。

イ、軍人は全てシベリアに連行されたから、軍人を除くその家族は、1945・8・8時点の満洲邦人となる。軍属の多くは、実態としてはシベリアに連行されているが、ソ連軍の関東軍が武装解除した8月19日をもって軍を解雇されているから、理論的には一般満洲邦人に含める。その家族は当然、1945・8・8時点の一般満洲邦人。

ロ、満蒙開拓団の員数について、『満蒙終戦史』444頁は、満洲国政府の国勢調査の数字で、「19万6739人」とする。が、満蒙開拓団については、戦後、各県が送り出した員数と帰還した員数を詳細に調査し「27万人が入植」は確定数字。満洲国政府がこれを「19万6739人」と、7万人も少なくした原因は何か。正確な数字を日本政府から渡されなかったからが第一の原因推定。第二の原因推定は、満洲国政府の国勢調査後1944年10月~1945年7月の十ヶ月間に7万人の満蒙開拓団の追加入植があったからかも知れない。

 ともあれ、「166万2234人」に7万人を追加補正し、1945・8・8時点の満洲一般邦人数をまず、「173万人以上」に正すべきだ。

ハ、が、この数字には、「軍人、軍属、その家族」は含まれていない。これらの数字は、防衛研究所戦史室の図書館所蔵の資料から発見できるかもしれないが、私には、その時間がない。そこで、仮定数字で補正しておく。軍人は逃亡兵を除き全員シベリアに強制連行されたので、その妻子は満洲に取り残され、在満一般邦人となった。

 基地内官舎に住んでいた家族持ち日本人将兵は、関東軍や満洲国軍では割合で言えば極めて少なかった。関東軍を例とすれば、現地・日本人女性と結婚した下士官兵などを含めても、関東軍70万人のうち4%程度だったと仮定する。これは世帯数にして2.8万を意味する。平均子供二人ならば、妻を含めて「三人×2.8万人=8万4千人」を在満一般邦人に加える必要がある。

 次に軍属。軍属は武装解除の8月19日に解雇され、その日をもって純・民間人。上は航空機メーカー派遣の整備指導技術者から下は基地の電気・配管工や土建業者などの軍属が、関東軍にどれほどいたかは防衛研究所の戦史室図書館で調査せねばならない。が、ここでは一万人と仮定し、各世帯の平均家族数が五名とすれば、「5万人」。

ニ、1945年3月10日の東京空襲以降、都市部の日本人は地方に疎開するのが普通になったが、空襲が全くない満洲に「安全だから」と疎開した世帯がかなりの数いる。約一千世帯として、五人家族なら「5千人」。

4、在満一般邦人の死者推計は「187万−127万−ソ連拉致20万=40万」から

 以上のイ、ロ、ハ、ニ、を足し算すると、ソ連軍侵攻時に満洲にいた一般邦人の数は「173万人以上+8.4万人+5万人+5千人=187万人以上」となる。このほか、8月6日のヒロシマ原爆の衝撃で、「満洲だけが安全」だとの神話が広がり、支那本土の日本人もかなりの数、満洲国に移住した。

 問題は、この当り前の数字「在満一般邦人数は187万人以上」が、戦後日本の出版物に全く存在しない異常。殺された一般邦人の数を少なく見せるトリックとして、在満の一般邦人数を過度に低くする犯罪者的で意図的な人為的操作が、徹底的になされたからである。この数字人為操作は、大学では満洲問題の教科書的に扱われる、権威ある『満蒙終戦史』(1962年刊)『満洲国史』(1970年刊)でも露骨。腰を抜かすレベルで数字の捏造が行われている。

『満蒙終戦史』『満洲国史』出版の中心人物は、鈴木宗男の大先輩KGBロスケで、教条的な共産主義者の平島敏夫(1956~1974年に自民党参議院議員)。“レーニン系の過激極左”平島敏夫は、KGB第一総局と日本共産党の支配下にある財団法人「満洲同胞援護会」の会長を永く務め、両書は、この財団が編集し発行した。

 コミュニスト平島敏夫は、麻薬的な抽象スローガン「王道楽土/五族共和」がエネルギーとなって「理想の共産社会」を創出するというカルト狂気の信奉者。こんな狂気に基づく満洲国は、万が一にも通常の国家にはなりえない。“五族の共生”によって「ユートピア社会」が誕生するなど、精神病院の狂人と同じではないか。要するに、平島敏夫は、満洲国を創るのでなく、正常な常識人には奇々怪々すぎてさっぱりわからない、満洲ユートピア(桃源郷)を創りたいと考えていた。

 このような“気狂い”平島敏夫ばかりが、満洲国の建国に携わった。だから、満洲国では国籍法が制定されず、「満洲国籍」や「満洲国民」が存在しなかった。日本人は、満洲国に入国する時、パスポートもビザも必要なかった。

 私は、満洲引揚者たちが満洲時代を懐かしんで満洲国歌を歌うのを聞いたことがない。満洲国歌などあったのだろうか。満洲国旗についても同じ。満洲国旗は、蒋介石の中華民国の旗を変造デザインしたもの。私は、寿命十三年間半の満洲国関連の多くの写真を見たが、日本人が満洲国旗を振っている写真を見たことがない。満洲で振られている国旗が日の丸のみという光景は、解せない。日本は国際連盟で「満洲国は主権国家だ」と主張した以上、この光景は許されない。

「一般邦人“死亡”三十五万人を、半分に作為しろ」は、ロシアKGBが美山要蔵に命令か?

 さて、『満蒙終戦史』『満洲国史』の数字改竄やそのトリック方法の種明かしをしよう。

 その前に脱線。上記のような狂気を信仰する気狂い共が満洲国の建国を推進していたのだから、気狂いの彼らが、実際の日本人死者数を半分にする歴史捏造など何でもないだろう。気狂いの妄想「五族協和の国」は、ロシアを加え「六族協和の国」にするに何ら障碍はあるまい。次に、この「六族協和の国」を「赤いロシア一族協和の国」にすることも、何ら躊躇いはなかろう。

 満洲国を支配した関東軍参謀部に、精神《満洲国を護ろう》が皆無だったのは、GRU工作員だったからだけではない。満洲国は、国家ではなく共産主義者達の妄想「ユートピア社会」で、“空無”=“非在”だったからだ。“空無な非在”では、“日本の権益”防衛であっても、守る気は起きない。

 話を戻す。美山要蔵が独裁的に書き上げたと言われる、1959年の厚生省引揚援護局『満洲・北鮮・樺太・千島における日本人の日ソ開戦以後の概況』は、口から出任せ嘘八百の嘘数字のオンパレード。この嘘の一つが、満洲一般邦人の死者数「17万人」(30頁)

 この嘘数字「17万人」について、上記公刊の厚生省文書は、何らの根拠も示していない。ソ連大使館のKGB第一総局プロ偽情報屋と共謀して捏造したものだからだろう。この嘘数字「17万人」の嘘根拠が、1959年から十一年が経った1970年の、平島敏夫が出版した『満洲国史』785頁にあった。そこには、厚生省とそっくり数字「死者17万人」がある。この数字は、「原案はロシアKGB→美山要蔵の厚生省引揚援護局→平島敏夫の満蒙引揚者援護団体」のルートで伝搬か。

 尚、平島敏夫の財団「満蒙同胞援護会」は、引揚者の救援ではなく、元来は、反ロ一辺倒になるべき満洲引揚者を、逆さに“ロシアの忠犬”に改造するのを活動のトップに据えた洗脳機関。以下、『満洲国史』485頁の嘘数字「17万人」に関する、行間から読み取れる“ゾッと戦慄するお笑い”嘘根拠(ベラボウ法螺話)を紹介する。

a、ソ連軍が侵攻して十ヶ月後の1946年5月、住民数に関する国勢調査(デッチアゲの嘘)を満洲全土で行った。皇帝溥儀の満洲国“民政”政府は、1946年5月時点、ソ連軍侵攻の前と全く同じく、平穏無事に従来通りの行政を維持していた。

b、この新しい国勢調査では、満洲国の日本人住民数は145万人だった。1944年9月末現在の166万人より「21万人」少ない。そのほとんどが死んだのだろう。実際にも、この国勢調査で家族が「死んだ」と申告した数が合計で「17万4千人」。「消えた21万人」との差「4万人」は、きっと外国の北鮮にでも移動したのではないか。

「ソ連軍侵攻後でも、皇帝溥儀の満洲国行政が続いていた」など、呆れ果てる戯言。こんな大嘘を吐く以上、別の大嘘も吐いているはずだと、平島敏夫の作品『満蒙終戦史』をチェックした。やはり、トンデモ大嘘があった。「東北地方日本人救済総会(長春=新京)」が調査した」との大嘘が、それ。

 飢えと病気と寒気に苦しむ避難民に食料や薬を見つけるのに寝食を忘れて没頭している、長春の慈善団体「東北地方日本人救済総会」が、1946年4月1日現在の満洲全土の国勢調査をした、など、真赤な作り話なのは幼稚園児でもすぐわかる。

 すなわち、同書446~8頁の、言外に漂わせる架空の国勢調査で、1946年4月1日現在の在満日本人を「145万人」と作為するが、この捏造「145万人」は、葫蘆島/大連から救出された「127万人」との差を縮め、一般邦人の死者を何としてでも「20万人以下」に捏造するためのトリック数字。ソ連軍侵略前の満洲一般邦人数は「190万人前後」が真実に近い。この数字に基づけば、満洲からの救出「127万人」は確定数字だから、シベリアに男狩りで連行された一般男性20万人と北鮮経由の帰還組10万人弱を除けば、満洲で殺された日本人は「35万人前後」と推計できる。

 これを半分にデッチアゲるには、ソ連軍侵攻前の在満邦人を極力低くしなくてはならない。この「半分にデッチアゲ」で大活躍した対ロ売国奴の偽情報本が、純正KGB製『満蒙終戦史』。以下、その内容を少し紹介しておく。

①「ソ連軍侵攻の1945・8・9に、在満邦人数を国勢調査した」とは、『満蒙終戦史』の編集者達は正常なのか。精神病院に強制入院させねばならないレベルの狂人ではないか。ともあれ、この“大嘘”国政調査をぶち上げて、『満蒙終戦史』が捏造した恣意的な数字が「在満邦人数155万人」(444頁)。これで、邦人死者数を「166万人-155万人=11万人」少なく作為している。

 そして、“KGBの対日工作本”『満蒙終戦史』は、「在満邦人数が一年未満で11万人減」となったのは、「外国に移動その他の事情」だとする。が、事実は逆。“満洲は安全”だと、1945・3・10の東京空襲以降、在満邦人数は増え続けているからだ。

②“嘘だらけ”『満蒙終戦史』は、その445頁で、一ヶ月半後の1945年9月末に、上記の「155万人」は「142万人」になったと、さらに口から出まかせの改竄数字を提示している。ソ連軍が殺しまくり一般邦人が逃げ回っている時、どうやって国勢調査をするのか。バカバカしくて読むに堪えない。

 しかも、この「155万人-142万人=13万人」の人口減は、北鮮などに避難・疎開したからだと屁理屈を強弁している。言葉「避難」「疎開」は、元の住居に戻るとの意。満洲邦人は家も家財も何もかも捨て、ひたすら日本列島を目指して彷徨った。避難や疎開をした日本人は一人もいない。

 尚、満洲国政府は、毎年10月に国勢調査を行った。が、満洲国政府は1945年10月には跡形もなく地上から消えていた。国勢調査をしたのなら、きっと幽霊が代わって行ったのだろう。

③ロシア数学者は世界一流。なのに、一般ロシア人は数字に弱い。数字操作はKGB第一総局の工作員も得意でない。だから、KGB製『満蒙終戦史』は、すぐバレる数字改竄ばかり。満洲で殺害された一般邦人は、「187万人以上―127万人―シベリア強制連行20万人―北鮮経由の帰国者10万人弱=30万人」を出発点として、これら数字の精度をあげていく作業以外をしてはならない。研究の中途にある私は、この「30万人」が正確には「35万人以上」になりそうだと確信できる段階にあるが、発表はまたの機会にしたい。少なくとも厚生省の「17万人」は、正しい数字を半分にしている犯罪であることを強調しておく。

5、シベリア“大殺戮”や在満邦人“殺人坩堝”を歴史から抹殺した美山要蔵の犯罪

 美山要蔵と言えば、南方軍参謀として、マニラにいた山下奉文に対して、レイテ島作戦を強制した男で悪名高い。レイテ島で米軍と戦っても、マニラのあるルソン島防衛ができるはずもないから、全く無意味きわまる作戦。山下奉文がこのトンデモ作戦を当初、拒絶したのが常識的。が、最後に、美山は、南方軍の最終命令だと、山下に飲ませた。山下奉文が、この時、美山要蔵を射殺し日本の癌を除去しておけば、山下も多少は日本国に裨益したものを。

 レイテ島作戦では、日本側が日本兵十万人を餓死させ殲滅したから、米軍は戦わずして即時勝利。この餓死した日本兵十万人のほとんどは、関東軍から引き抜いた精鋭部隊。満洲に侵攻するソ連軍様をできる限り無傷で迎えるため、関東軍の精鋭部隊を事前に殲滅しておくのが、レイテ島作戦だった。これを起案したのが、東京の陸軍参謀本部の瀬島龍三。瀬島龍三と美山要蔵は、スターリンが賞讃して已まない“ロシアの寵児”。

 美山要蔵とは、日本人を殺して殺して殺しまくることだけが人生の、“悪魔の化身”だった。シベリアで餓死・凍死・病死した日本人「60万人」を「7万人」に入れ替えた美山の行為は、日本人「53万人」の抹殺ではないか。53万人を紙上テロルしたのである。満洲邦人約35万人が満洲で殺されたとすれば、これを17万人とすることは、18万人を紙上テロルしたのである。

 大東亜戦争中の最凶悪・残虐な陸軍将校三大ワーストと言えば、「辻政信、瀬島龍三、美山要蔵」か。が、このような人間性ある正しい学問的視点は、戦後日本の現代史学界にはない。日本共産党が正常な学者を徹底的に迫害・追放し、あるべき学問姿勢を根こそぎ破壊・滅殺したからだ。

 美山要蔵の悪魔性が大爆発している一例は、1959年の厚生省文書で言えば、29頁の文。これには、開いた口が塞がらず唖然(私は、この文書を厚生省の引揚問題担当の職員から貰って、1980年に初めて読んだ)。ソ連領内の収容所に至る輸送中に伝染病に罹患した日本人は、死体扱いで、列車からポイ捨てされた。行軍で移動中であれば、道端に打ち捨てた。それを美山要蔵は、「ソ連は病院に入院させた」との真赤な嘘を法螺吹いている。

 尚、この文は、1946年、《病気になった拉致日本人を鉄道沿線に次々に捨てているのは国際法違反だ!》と詰め寄る、モスクワの米国政府の交渉団に、ソ連が米国代表団に手渡した反論文であろう。美山要蔵は、米国政府→GHQから貰った、ソ連がデッチアゲた“騙しの真赤な嘘話”を、「ソ連は人道的な国です」の嘘宣伝をしたく、厚生省文書29頁に挿入したようだ。

「患者の中、輸送に堪えない(歩けない)者は途中の病院──例えば、黒河(黒河省の省都)および不城子(牡丹江省の一都市)の病院、グロデコーヴォ病院、ポセット病院、イズベストコーワヤ病院、ブラゴエシチェンスク中欧病院、第1218病院、各地の市民病院等──に収容された」

 だが、美山は次の行で、ほとんど真実「これらの日本人はその後死亡し、又は、そのまま消息を絶った(者が多い)」と書いている。無人の荒野を走る鉄道の沿線や行軍する道のその道端に捨てられた歩けない病人がどうやって生きていくのだ。輸送中に病気になった者の99%は、死んだ。

 また、ロシアが囚人(日本人戦場捕虜は囚人扱い)を病院に入院などさせないことも、美山は百も承知。当時のソ連では病院に入院できる者は、共産党の中堅幹部以上で、ロシア人庶民すらかなわぬことぐらい、美山は知っていた。

 さらに、黒河の病院は、日本人医師・看護婦が8月9日に脱出し、その後、支那暴民が徹底的に掠奪し、病院は廃墟となっていた。どうやって入院させるのだ。不城子の病院について、私は情報をもたないが、ここは乞食同然になった日本人“難民”で溢れかえっていたのではないか。腸チフスや赤痢に罹患して歩けない日本人を治療することは、これら難民日本人にはできない。要は、病院が機能していた可能性は完全にゼロ。むしろロシアは、これら伝染病に罹患した日本人を日本人難民の群れにおっぽり出し、日本人難民を伝染病で大量に殺そうとしたのではないか。

 また美山要蔵は、GHQ経由か、狸穴のソ連政府代表部のGRUから直接か、「病弱者逆送状況一覧」を受け取っている。そして、それをそのまま1959年厚生省文書に収録。それを私が簡潔に書き直したのが表1。

表1;ロシアの収容所から逆走された伝染病罹患の日本人の運命

逆送ルート

時期

危険ゴミとしてポイ捨ての日本人

ロシア→満洲・敦化

ロシア→満洲・延吉

1945・9下旬~46・4下旬

1945・11上旬~12上旬

約5500人

約150人

ロシア→満洲・牡丹江ほか

1945・10中旬~12中旬

約8500人

ロシア→満洲・黒河

1945・11中旬~46・4上旬

約1400人

ロシア→北鮮・古茂山

1946・6上旬~7中旬

約2万4千人

ロシア→北鮮・興南

1946・7下旬~8上旬

約3千人

    計

 

約4万2550人

 この表1を見た時、私は驚きの余り、跳び上がった。「日本人が一人もいない/建造物が一つもない」黒河の荒野に、伝染病に冒されほとんど歩けない日本人が逆送で野晒しされることは、そこで凍死・餓死するのみ。つまり、やっと列車に乗降できる病人の死体処理場として、黒河の駅周辺が選ばれたのがわかる。穴に落ちる所までは歩かせる“生き埋め殺人”と同じで、ロシアでは一般的な重病人処理方法の典型。

 すなわち、美山要蔵は、「俺たちロシア様は、これほど殺人大好きな反・人間なのだ」と自らばらしたベリアの内務省が作成した表をそのまま日本政府の公文書に収録した。美山要蔵が、血も涙もない生来の人非人なのは、この収録一つでわかる。

 尚、古茂山については、ある日本人の目撃談を、1981年頃に読んだ。その資料はどこかに紛失してしまい、今は手元にない。記憶を辿り、以下、論評する。この古茂山には、小野田セメントの石灰石の採石場があり、かなりの数の朝鮮人労働者用の宿舎があった。ソ連軍は、ここを、シベリアに輸送する前の日本人将兵の待機場所にした。

 この表1の数字「2万4千人」の正確さは判らないが、目撃談に拠ると、実際に大量の病人が逆送されてきたが、栄養失調がひどく、次々に死んで回復者はほとんどいなかった、らしい。そしてソ連は、逆送したと同数の、新たな日本人をシベリアに連行していった、と回想していた。

 つまり、病人と健康者との入れ替えのための逆送だった。「人道的な病気治療のための逆送」とする美山要蔵の記述は、白髪三千丈の嘘八百ということ。

(つづく)

(2024年9月1日記)

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