近づく北海道五百万人“地獄の大虐殺”──関東軍“GRUロスケ参謀部”が主犯だった“満州陰惨”を再現する北海道

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 日ソ中立条約に違背する1945年8月9日未明に始まるソ連軍の侵略に対し、170万人と推定される在満州の一般邦人は、満州帝国の実質的な政府である日本帝国陸軍・関東軍の非道の殺意から、日本国への無事送還すら可能だった保護を僅かも与えられず、地獄に叩き落された。つまり、“究極の遺棄”で遺棄された。

「関東軍は、一般邦人に救いの手を差し延べる余裕がなかったから遺棄せざるをえなかった」、ではない。関東軍は、一般邦人170万人が、ソ連軍や支那人暴民に「略奪され、レイプされ、殺される」地獄を観て愉快犯的に快楽したく、野獣のロシア兵や支那暴民の群れに、婦女子が中心の自国民を抛り投げたのである。極東ソ連軍の下部組織だった関東軍参謀部は、総司令官・山田乙三を除き、全員がロシアGRUの共産主義者。スターリンの命令以外の行動は一㍉もしなかった。

 が、戦後の日本の現代史学界は、自国民に対する“殺人とその不幸を快楽する”日本史上最凶の悪魔のカルト宗教団体である共産党が徹底検閲するファッシズム体制下にある。当然、彼らの先輩信者に当る共産主義者が参集していた関東軍参謀部の悪行を隠蔽してあげることは、大学の赤い現代史教授たちが、同一教団の信者として果たしている宗教的義務。これが、2024年現在の日本には、戦後七十九年も経っているのに、1945~8年の満州・一般邦人の地獄の惨状に関する学術論文が一本もない理由。こと現代史&古代史の領域に関する限り、日本には、“学問の自由”が一欠けらもない。現代日本は、正しくは共産党支配の“赤色を脱色したファッシズム体制”の国家。

 この事実は、別の視点では、戦後の三世代に亙り、日本人は、共産党によって、現代史を剥奪された(現代史を持たない)“無歴史の夢遊病者=非・人間”に改造されていることになる。このような日本を、海外から全体的に鳥瞰すれば、《日本人は、無歴史/捏造歴史を信仰する非・人間(=理想の「動物化した人間」)への改造を唱導したルソーの宗教書『人間不平等起源論』(1755年)を聖なる経典だと狂信し“歴史を持たない動物”に自己改造した民族》とか、《日本人とは、悪魔の宗教「ルソー教」の“世界随一の優等生”信者集団》とか、と言い換えられる。

「在満」邦人の酸鼻を超えた酷い歴史に精通せず、日本国の国防を論じてはいけない

「在満州邦人の酸鼻を超えた酷い歴史」を学術的に再生することを日本は、二つの事由で避けてはならぬ。第一。日本共産党とロシアKGB第一総局が闇に葬った大東亜戦争の歴史──例えば、「満州における1945~8年の邦人婦女子の阿鼻叫喚」など──に真実の光を照射せずに、日本国の主権は回復しないからだ。

 ロシアKGBに歴史を奪われている状態の現在のような放置は、日本が主権をロシアに譲渡してロシア占領に唯々諾々としている非・国民の行為。日本共産党とはスターリンを教祖とするロシア産カルト宗教団体であり、日本に侵略中のロシア侵略駐留軍。つまり、日本共産党の検閲のままに大東亜戦争の歴史を捏造し真実を隠蔽することは、ロシア産カルト宗教団体に日本国を全て投げ出している状態。日本とは、主権をロシアに譲渡した“ロシアの属国”“ロシアの半・奴隷国”である。

(備考)外交史・軍事史に関わる現代史学界で、共産党/KGBの配下にならなかった学者・有識者は、麻田貞雄/中川八洋/(ノンポリ変人の)秦郁彦/三宅正樹/三田村武夫など、凡そ学者五百名のうち十名もいない。

 第二。大東亜戦争とは、ロシアに使嗾されロシアの完全属国となった“非・日”日本が、アジアと日本国の共産化のために、《日本国民の生命と日本国の領土をスターリン様に捧げる》祖国反逆の戦争だった。仮にも日本の対ロ国防を論じたいなら、対ロ国防とは祖国をロシアから護ることだから、大東亜戦争の真相暴きは、対ロ国防の絶対的な大前提である。

 例えば、ロシア占領下の最重要歴史「満州における1945~8年の邦人婦女子の阿鼻叫喚」を、戦後日本は八十年も闇に葬ってきた。ロシアに関する歴史隠蔽・歴史偽造を放置したまま、日本の対ロ国防(祖国防衛)を考えるなら、それは超欠陥の歪んだものにならざるをえない。

 国防とは現実情況を素直に直視する現実対処。地底に埋められた歴史「満州における1945~8年の邦人婦女子の阿鼻叫喚」を地上に掘り出し光を当てない限り、これからのロシアの北海道侵略とこの侵略の態様は浮かび上がってこない。対ロ対中対鮮の北海道防衛の方策は、超デタラメなものにならざるを得ない。

 以下、日本共産党とロシアKGB第一総局が、八十年に亙り日本国民から奪った、日本国防に不可欠な歴史「満州における1945~8年の邦人婦女子の阿鼻叫喚史」を日の当たる場所に掘り起こすが、これなしに北海道防衛ひいては日本列島防衛を正しく考察できないからだ。

第一節 満州邦人を地獄に叩き落した主犯は、関東軍“赤い参謀たち”──レイプと殺人と掠奪の“野獣”ロシア軍&支那人暴民は実行犯

 在満邦人の悲劇は、婦女子に対するレイプ/殺人/凍死・餓死、および男性に対するシベリアへの強制連行が顕著だが、①仮に関東軍参謀部が7月中に、奉天以南への避難をさせていたら、万が一にも発生しなかった。しかも、この常識的な避難をしていれば、8月15日午前零時のポツダム宣言の発効によって、大連と営口と旅順の三港から、170万人の邦人を順次、乗船させ、佐世保港&博多港に送還できた。仮に、この三港に「五千人収容の船舶が五十隻」ぶんあったとすれば、一度に二十五万人を運べる。一往復に十日かかるとし、10月下旬までに七往復170万人を完送できた。

 関東軍には国際法の邦人保護権が付与されているから、ソ連軍が8月15日以降も戦闘を継続している限り、これに対して防衛戦闘を継続できる。そればかりか、蒋介石の中華民国軍が、日本が邦人保護で死守している「奉天──営口──遼東半島(旅順・大連)」の三角形の防衛を肩代わりするから、ソ連軍は、この三角形「奉天──営口──遼東半島(旅順・大連)」には手を出せない。蒋介石の中華民国軍は連合国だから、同じ連合国のソ連は中華民国軍とは戦争ができないからだ。

 が、邦人保護の義務履行を(ポツダム宣言の上位にある)国際法から合法とされているにもかかわらず、関東軍はこの義務履行を放棄。8月23日頃、大連も営口も早々とソ連軍に明け渡した。ソ連は、その後すぐ営口を毛沢東に空け渡した。関東軍の両港の明渡しは、「ソ連軍に、邦人に対する“レイプ自由/殺戮自由”を容認する」のメッセージと同じ。実際にも、ソ連軍側はそう解釈した。

陸軍参謀本部は1941年11月、ロシア様の“満州全土占領”に協力を決定。秦と瀬島が担当に

 陸軍参謀本部や関東軍参謀部は「ソ連軍の満州侵攻をいつ」と判断? この問題について、「7月末頃」説や「秋」説など、参謀たちが喧々諤々と議論した痕跡を論じる無意味な論考が多い。これらの論考は、陸軍参謀本部が内心では「8月1日前後」と正しく推定していた事実の歪曲・改竄。

 このような大東亜戦争史に関する歴史の歪曲は、「陸軍参謀本部や関東軍参謀部が最も腐心したのは、ソ連の近づく満州侵攻を一般邦人や満州全土に散開する現場部隊に知らせないこと」だから、これを戦史・軍事史の論文として発表させないのが狙い。最重要な歴史事実は、東京の陸軍参謀本部は、日ソ中立条約の破棄通告より五ヶ月前の1944年11月、「ベルリン陥落/ドイツ敗北から三ヶ月後に、ロシアは満州侵攻」と正しく判断していたこと。これは、二つの人事から明白。

 陸軍参謀本部は、「宗主国のロシア様が、満州の全土占領を効率よく、かつ可能な限り無血でできるよう、①瀬島龍三をモスクワのソ連軍参謀本部に単独派遣し、満洲防衛で最も活躍すると目されていた②反共/反ロの陸軍中将・根本博を内蒙古に左遷した。いずれも1944年11月の決定。

(1)満洲防衛の最重要拠点ウスリー川正面の第三軍司令官(牡丹江)に、陸軍中将・根本博が着任したのは、1944年2月。が、僅か九ケ月後の1944年11月、根本博は、内蒙古の守備を任務とする小さな部隊「駐蒙軍司令官」に左遷された(帳家口)。根本博に第三軍を任せると、侵略ソ連軍が多大な損害を蒙るからだ。それでは「侵略して頂けるソ連軍様やスターリン様に申し訳ない」と、ロシアGRUに直属する、共産主義者将官・将校ばかりの陸軍参謀本部は考えたようだ。

 幸運だったのは内蒙古に入植していた日本人四万人。ソ連軍の侵攻を根本博の軍隊が食い止めている間に全員、列車で蒋介石支配の北支に避難でき、翌年には日本に帰還している。陸軍では稀有な反共反ロの根本はまた、陸軍では稀有な(ロシア人は嘘を吐く残忍残虐な民族だと正しく喝破する)ロシア文化に精通。その上、一般邦人と部下の将兵の生命の絶対重視主義を信条とした。

(参考文献)小松茂朗『四万人の邦人を救った将軍』、光人社NF文庫。門田隆将『この命、義に捧ぐ』、集英社。

(2)瀬島龍三のモスクワ派遣は、ロシア国防軍参謀総長の要請だろう。ロシアは、自分たちの満州侵略作戦プランに瀬島の助言と修正を欲した? とすれば、瀬島龍三に「行ってこい」と命じた陸軍参謀本部の参謀次長・秦彦三郎は、1944年11月時点、「ロシア軍はついに満州と日本に侵略してくれるぞ! 万歳!」と歓喜していたことになる。実際にも、陸軍は、ロシア軍の満州・日本列島占領後の日ロ同盟が前提の、対米“本土決戦”計画を、この頃から練り始めた。

 瀬島の回想によると、モスクワ単独出張は、1944年1月に秦彦三郎から指示され、12月25日に東京駅を立ち、満洲の関東軍総司令部で打ち合わせをし、チタからモスクワに入っている。日本への帰国が2月11日。ということは、瀬島はモスクワに単独で二週間以上滞在している。瀬島は、『AERA』1994年8月15日~22日号では、佐藤尚武大使への軍事状況説明を兼ねたクーリエ(伝書使)を仰せつかったと回想するが、大嘘。クーリエは二人一組が絶対で、単独では行かせない。また“ナホトカからのシベリア鉄道乗車”が絶対で、満洲経由のクーリエは許されていない。

「満州全土をソ連様にできるだけ無傷で献上する」「シベリアに百万人以上の日本人男児を奴隷として送り込む」のを任務とした日本の現場トップが、秦彦三郎と瀬島龍三。だから、秦は1945年4月7日に陸軍参謀本部から、関東軍総参謀長となって、満洲に赴任。瀬島も同じく7月1日、関東軍に移動。この7月1日は、陸軍参謀本部がソ連軍の満州侵攻を「8月1日前後」と想定していたのを裏付ける。侵略ソ連軍との窓口は“瀬島龍三ひとり”とするが、日ソ間の了解だったろう。

 尚、秦と瀬島コンビは8月19日、ソ連軍とのジャリコーワ停戦の日本側代表。両名は、これでもって、任務「満州全土をソ連様にできるだけ無傷で献上する」「シベリアに百万人以上の日本人男児を奴隷として送り込む」の総仕上げをした。

(備考)百万人以上の日本人男児をシベリアで奴隷にするのをスターリン/ベリヤと約束したのは近衛文麿。これを陸軍内部に広めコンセンサスにしたのが種村佐孝・大佐。秦と瀬島はこれらの現地“実行犯”。

(3)瀬島龍三に関する学術研究は、現代史に絶対に欠かせないにも拘らず、共産党の命令で学術論文が一本もない。一般雑誌の評論なら、瀬島スパイ説は数多く発表されている。が、不思議なことに、秦彦三郎については、評論すら皆無。秦彦三郎とは最も恐ろしいGRUロスケの一人だし、秦彦三郎こそは満州の一般邦人を殺しまくる日本側の最高司令官だったのに。秦彦三郎を歴史の闇に埋めた共産党と在日ロシアKGBの検閲の凄さは、想像を超える。

①ソ連軍は8月9日午前0時に満州への侵攻を開始。国際法が定める自衛権により、侵攻開始と同時に反撃の戦争に突入するのが守る側の正しい行動。なのに、秦彦三郎は、六時間にわたり反撃の命令をださなかった。ソ連軍の奇襲をより効果たらしめ、前線の関東軍部隊を壊滅させるべく、関東軍全体に対ソ防衛戦争をさせなかったのである。『戦史叢書 関東軍2』、395~7頁。『昭和史の天皇 第五巻』、183頁。

②ソ連軍の主力が怒涛と押し寄せた興安嶺山脈の麓に位置する、内モンゴルに陣地構築をもって布陣していた第107師団に、「そこはソ連軍様の侵略コースだから、退いてあげなさい」と、第107師団を“さまよえる師団に成れ!”と命令したのも秦彦三郎。

(4)“日本人殺しを目論む狂気”「現地部隊に対ソ防衛戦の準備もさせない」「このためには、一般邦人に避難もさせない」を正当化する、関東軍GRUロスケ語がスローガン「静謐確保」。実際にも「静謐確保」は、「静かにしていればソ連軍は来ない/侵略してきても優しい侵略となる」「つまり、一般邦人も非武装で、何でも“はい、はい”と言えば、ロシア兵は丁重に扱ってくれる」と、現実を百八十度逆に転倒した、在満邦人を殺し尽すための“悪魔の麻薬語”。この血塗られた「静謐確保」を造語した交戦規則にしたのは、陸軍参謀本部のようだが、私は、犯人をまだ確定できていない。仮に、朝枝繁春としておこう。

 秦彦三郎は当り前「侵略ソ連軍に対し、防衛戦闘せよ」を下達するに、六時間も躊躇う演技をした。この嘘演技を正当化する有効な魔語が交戦規則「静謐確保」だった。「静謐確保」の悪魔性は、これによって(本来は7月中旬に出すべき)一般邦人に対する避難命令を8月9日まで出さない悪魔の行政を可能にした。

 “一般邦人がまだ避難しないからソ連軍はまだしばらくは侵略してこない”との致命的な勘違いを現地部隊全体が犯す錯覚剤の散布でもあった。このように、GRUロスケ語「静謐確保」が、満州全体の日本人の全てに、病気「弛緩と油断」を感染させたのである。

(5)共産主義者とは、教祖レーニンを崇拝する以上、レーンと同じく自国民大量殺戮を快楽するのを宗教信条とする。共産主義者の秦彦三郎や松村知勝/瀬島龍三/草地貞吾/朝枝繁晴らが、在満の一般邦人170万人を一人残らずロシア軍に殺戮させることを計画していたのは、別に驚くに値しない。関東軍が在満邦人を野獣ロシア軍の坩堝に遺棄したのは、彼らは在満邦人が阿鼻叫喚の地獄で殺されるのを快楽したかったからだ。侵略ソ連軍の総司令官ワシレフスキー元帥への関東軍参謀・草地貞吾の上申書8月26日、秦・参謀長と山田総司令官の決裁済み)は、この証拠の一つ。

「130万人(170万人の間違い)の一般居留民のほとんどは満州に生業があり、希望者はなるべく残留して貴軍に協力させてほしい。ただし、老人・婦女子は、内地か元の居住地に移動させて頂きたい」(白井久也『ドキュメント シベリア抑留』、岩波書店、273頁)

 上申書の日付から、葛根廟の惨劇8月14日や麻山“婦女子集団自決”8月12日がソ連軍の暴虐な襲撃によって起きたのを充分に知った上で、草地は上申書を書いている。ということは、草地貞吾は、葛根廟事件や麻山事件がさらに一千回ほど満州全土で繰り返されるのを期待していたことになる。(参考文献)大櫛戊辰『殺戮の草原』、東葛商工新聞社。中村雪子『麻山事件』、草思社。

KGB橋下徹は、「ロシア様、皆殺し自由です」と、一般邦人を満州に遺棄したGRU関東軍の再来

 この草地貞吾の一文を読んだ者は、小学生四年生以上なら誰でも、“穢多非人の気狂い”橋下徹を思い出したに違いない。ロシアがウクライナに侵略した2022・2・24の直後から、橋下は「ウクライナは防衛戦争などせず、対ロ即時降伏して国民の命を護れ」と、フジTVとtwitterで、大音声でガ鳴りたてた。無学無知な“殺人快楽症”橋下徹は、ロシアは抵抗しなかった者に対しては抵抗した者よりもはるかに容赦なく殺戮する民族というイロハ歴史を知った上で、この煽動をした。ともあれ、GRUロスケ草地貞吾は、この引用文で、二つの狂気を噴き出している。

 第一。草地は自分が残虐な人非人であるのを隠さず、「関東軍は一般邦人をいっさい保護しません。在満邦人を遺棄します」とロシアに闡明している。このような自国民への殺意と憎悪こそ、共産主義者の宗教的な属性なのだ。

 正常な軍人つまり正常な人間なら、「関東軍は、国際法に沿って、邦人保護の義務を履行する」「よって、大連と営口の二港および係留されている船舶は、これら邦人が内地に送還されるまで関東軍が管轄する。また、この送還業務が終了するまで武装解除に応じない」とソ連側に通告する。

 実際に根本博は、内モンゴルの入植日本人四万人を、8月15日は過ぎていたが、ロシア軍と戦闘しつつ、列車に乗せ、蒋介石が支配する安全な港まで送っている。これが、国際法が付与する“海外軍隊の邦人保護権”である。また根本博は、数回にわたるロシア軍からの武装解除要求を拒絶し、最終的に蒋介石側の軍隊に投降し、そこで武装解除した。将兵の命を守るためである。

 第二の草地貞吾の狂気。1945年8月26日、草地貞吾は満州・新京にいた。当然、在満一般邦人が生業を失い、また満州で邦人が生業を営める可能性など皆無になった惨状を知り尽くしていた。それを逆さに「残留させる」「元の職業で生きていける」とは、明らかに殺人鬼のスーパー殺意。

 しかも、北満の開拓農民たちは“乳児は殺し、妊婦は青酸カリで自殺させ、老人は草叢に遺棄・・・”して、鉄道のあるハルビンを目指し逃避行していた。また、彼らは支那暴民やロシア兵に略奪されレイプされ殺されていた。これらについて現地報告が山と積まれている関東軍総司令部にいながら、GRUロスケ草地貞吾は、意図的に真逆な転倒事実を捏造していたのである。

 要するに、“田舎のドアホ村長”山田乙三を除き、全員が共産主義者だった関東軍参謀部は、一般邦人を阿鼻叫喚の地獄で殺戮されているのが快感で堪らなかったのである。「自国民大量殺害をすればするほど、未来に到来する共産社会がバラ色になる」は、レーニンの教義。スターリンに直属していた関東軍は、このレーニン教を奉戴して、広域のアジア・西太平洋戦争を遂行していた。

蒋介石との講和交渉を1944年11月に始めなかった、陸軍中枢の赤い狂気と残忍

 現在の日本に喩えると、志位和夫・田村智子の“日本共産党の化身”だった、スターリン直隷の陸軍参謀本部と関東軍参謀部が、仮に普通の日本人から構成されていたら、ソ連軍が満州に侵攻すると確信した1944年11月以降、日本はどのような対満洲/対支那政策を採っただろうか。テニアン/サイパンが陥落した1944年夏をもって、幣原喜重郎が構想したように、「対米降伏を直接米国と交渉する」のが王道だが、このケースをいったん脇に置き、対満洲/対支那政策に焦点を当てる。

 また、次のA&B二ケースに分けて考察する。Aは、1944年11月から直ちに満洲国存続の方策に取り掛かるケース。Bは、1945年8月9日午前0時に(それ以前の対ソ政策の非に)初めて覚醒し、消滅前の満洲国を一時的に延命し一般邦人の保護に走るケース。

(A)日本が“ドイツ降伏後にソ連軍が満州に侵攻する”と確信したのは、1944年11月。仮に陸軍参謀本部と関東軍参謀部が普通の日本人から成っていたら、在支の日本陸軍105万人を全て満洲に転進させるべく、蒋介石の中華民国との戦争を即時中止し、これと講和しただろう。1937年7~8月の(日中戦争“絶対反対”の)石原莞爾を、七年ぶりに復活させる策と言ってもよい。

 恐らく秘密協定の体裁での、この日中講和条約では、その発効をナチ・ドイツの敗北の日と定めるだろうから、実際には1945年5月7日をもって、105万人の支那派遣総軍が一気に山海関を超えて北上し、満州全土に展開する。こうなれば、スターリンは「8月1日前後」の対満洲攻略を断念せざるを得ない。満州帝国も一般邦人も完全に無事。従前と何ら変らない状態が継続する。

 このケースでは当然、満洲国の崩壊は無いし、スターリン・ルーズベルトのヤルタ秘密協定も無効化する。加えて、親日・親米の蒋介石の仲介で日米戦争も、ドイツ降伏に続いて終了した可能性も高い。沖縄戦は5月20日頃には中断されただろう。広島/長崎の原爆投下はむろんない。

(B)1945年8月9日午前0時のソ連軍の侵略開始に、陸軍参謀本部と関東軍参謀部が対ロ属国の非を悟り、陸軍が正常な日本国の軍隊に回帰した場合。このケースでは、日本陸軍の対ロ観がコペルニクス的に正常化し、“対ロ属国化の魔語”「静謐確保」は即時に廃棄される。また、「7月上旬に対満洲侵略の兵站基地チタとタムスクを猛爆しておくべきだった」などの反省や後悔がなされるなら、近衛文麿の北支への四ヶ師団派兵(1937年7月7日)に始まる、“日本の狂気”八年戦争に対する日本人の反省、すなわち日本人の“良心・良識の回復”が始まる。

 ともあれ、このケースでは、関東軍は、その軍事行動を二点、①一般邦人の保護と内地への送還、②皇帝溥儀の無事な東京行幸、に集中する。この二点を達成する方策は、ただ一つ。

 蒋介石の中華民国軍に関東軍が無条件停戦をなし、蒋介石軍を奉天まで招き入れ、関東軍の指揮を蒋介石軍の隷下におく。現地部隊の裁量権内の対蒋介石“無条件停戦”は、8月9~10日の二日間で十分。蒋介石軍の満州司令部の奉天設置も、雑駁なものであれば、8月20日頃には完了しただろう。

 蒋介石軍は連合国でソ連軍も連合国だから、蒋介石が日本から「奉天──山海関──遼東半島・遼東湾」の三角形の地を受け継いだら、ソ連は手も足も出ない。この三角形の中にある営口/大連/旅順の三港が、“親日”蒋介石の占領地となれば、日本人居留民の内地送還は、蒋介石が安全に遂行してくれただろう。

(C)だが、関東軍参謀部も陸軍参謀本部も日本政府も、AもBもしなかった。日本は一心不乱にソ連様に叩頭し、侵略ソ連軍の命令にひたすら「ダー、ダー」を連発するのみ。関東軍参謀部や陸軍参謀本部は、瀬島龍三/松村知勝/秦彦三郎らを見てわかるように、GRUロスケばかりだった。

 また、日本政府を事実上支配していたのは、昭和天皇を拘禁し拷問し場合によっては銃殺を予定していた、独裁者の阿南惟幾・陸軍大臣。スターリン崇拝のGRUロスケ阿南惟幾は、1945年4月以降、日本人二千万人を殺戮することになる本土決戦以外は何一つ、思考の枠内には存在しなかった。昭和天皇の8・14ご聖断が無ければ、日本は最悪の亡国を迎え地球から消滅していた。

第二節 北海道五百万人“殺戮”を狙う、菅義偉/鈴木宗男/鈴木直道

 1944年11月~1945年9月2日(戦艦ミズーリ号での降伏調印式)の日本で記憶されるべき陸軍軍人と言えば、次の四名か。親英米だからと早々と左遷されていた山梨勝之進以外に、これと言った人材がいない海軍は、山本五十六を見れば端的だが、欠陥人材のゴミ捨て集積場だった。

A、本土決戦を粉砕して日本民族が死に絶えるのを防いだ田中静壱・陸軍大将と近衛師団長の森赳・陸軍中将。

B、内モンゴルの張家口でロシア軍と戦い、日本人四万人を救った根本博・陸軍中将。

C、占守島の日露漁業の若い女性工員四百名をロシア軍と戦い守った、堤不来貴・陸軍中将(第91師団長、幌筵島)

(備考)持て囃される樋口季一郎は、ユダヤ人を救うなど立派な人格者だが、軍人としては凡庸。樺太・千島防衛にも、これといった功績はない。北海道を護ったのはトルーマン大統領で、樋口季一郎は無関係。

 戦後日本の現代史学界には、田中静壱森赳根本博堤不来貴に関する学術論文が一本もない。例えば、最低でも二千万人の日本人が戦場死・戦死する本土決戦を潰した田中静壱についてすら、その研究は厳しく禁止された。これは、逆に本土決戦を推進した阿南惟幾に言及した学術論文が無数にあるのと、余りに対照的すぎよう。

 すなわち日本の現代史学界は、《日本国に裨益した軍人は抹殺せよ》《日本を亡国もしくは赤化するのに貢献した祖国叛逆軍人を褒め称えよ》を、絶対ルールにした。そればかりか、このルールに違反した学者は全員、大学から追放された。

 要するに、赤い害虫軍人を持て囃すのが、日本の歴史学界。巷間の民族系の諸士も同じ。例えば、昭和天皇暗殺未遂の阿南惟幾の墓参りに訪れる、いかがわしい「右翼」(愛国演技に長けた、日本を憎悪する北朝鮮人たちが正体)の何と多いことか。

 ところで、上記の四名をリストすると、日本国を安全かつ盤石にする表1の妄想が浮かぶ。が、日本の現実はこの逆。安倍晋三/菅義偉/鈴木宗男/鈴木直道ら対ロ売国奴が日本国を牛耳ってきた/いるからだ。八年間の総理の座にあった安倍晋三は一貫して、プーチン・ロシアの領土膨張“”に協力するロシア侵略“共演者”だった。安倍晋三が2014年、プーチンのクリミヤ半島侵略に歓喜した事実and/orこの侵略に対しプーチンにご褒美で三千億円をプレゼントした事実などは、安倍晋三がロシアの北海道侵略を心底では熱烈渇望していた証拠であろう。

表1;理想の日本政治家

田中静壱

内閣総理大臣

森赳 

警察庁長官

根本博

防衛大臣

堤不来貴

北海道知事

小野寺信

外務大臣

表2;“二十一世紀”日本政治家は、反日極左のロシア人ばかり

安倍晋三

安倍家“共産主義者”三代目、近衛文麿の生れ変り狂信的KGBロスケ、日本民族を憎悪し日本を移民大国にする共産党系“共生”狂徒。北海道“対ロ献上”狂。

菅義偉

法政大学で共産党に入党、アイヌ利権のボス、北朝鮮人三世、ルソー/マルクスの家族解体論の狂信者で「子ども庁」設置、剣璽十七時間半剥奪など天皇制廃止。

鈴木宗男

2008年、日本初の狂説「アイヌは北海道の先住民族」を法螺吹いた北朝鮮人。北方四島と北海道をロシアに献上する詭弁を垂れ流すKGBロスケ一路。

鈴木直道

北海道五百万人を皆殺しして、ロ中鮮の占領地にする怖しい計画を推進している北朝鮮人で共産党員。“嘘歴史の巨大倉庫”白老ウポポイで何かを画策している。中共の北海道“国土爆買い”は、鈴木直道が中心となって推進。北大のロシア軍駐屯地化も、鈴木直道が絡んでいる。

近衛文麿らの“国民騙し”「ソ連仲介の対米講和」と同じ、安倍晋三の対ロ27回対談

 “悪魔の祖国叛逆”安倍晋三は、日本と東アジア全体を共産化すべく対中戦争/対米戦争に日本を引き摺り込んだ、日本一の残忍なNKGBロスケ近衛文麿の再来。八年間に及ぶ安倍晋三の悪行/悪政をホンの一部を列挙しても、次のように限度がない。

a「北方四島の対ロ献上」

b「北海道の無防備化を進め、北海道に侵攻する前線基地『北方四島』のロシア軍基地の強化」

c「脱原発による日本経済の衰退と、共産革命の温床づくりである国民の貧困化の促進」

d「中共の赤い支那人を大量に移民・帰化させ、北海道/新潟県を一斉武力蜂起で占領させる」

e「人気取りのため田中角栄のバラマキ福祉を真似て推進し、『日本の財政破綻→経済破壊』をきたす」

 以下は、上記aとbを取り上げる。近衛文麿の「対ロ日本属領化」「支那大陸の完全赤化」「満州をソ連に献上→ソ連は毛沢東に移譲→毛沢東は満州を拠点に支那全土を制圧し蒋介石を追放」の歴史を、安倍晋三は再現せんものと、安倍流の対ロ属国外交を推進していた。

 実際にも、例えば、スターリン・近衛文麿の共同対日謀略「1945・5・7~8・8」を、プーチン・安倍晋三も共同で「2013・4~2019・9」にそっくり繰り返している。安倍晋三には、近衛文麿と同じく、一欠けらも日本人の意識がない。心身ともにロシア人の安倍晋三は、ロシア人として、またプーチンの代理人として、日本憎悪/日本人憎悪を噴出させ、日本領土の対ロ献上に全知全能を傾け、六年半も爆走したのである。

 1945年5月7日~8月8日、ロシア軍158万の大軍事力が、ヒトラー・ドイツの降伏で役割を終えたヨーロッパ戦線より極東に転送された。この三ヶ月間「1945・5・7~8・8」に日本がなすべきことは、まずは、①蒋介石と急ぎ講和し、支那に散らばる日本軍105万人を全て満州に転進させ配備すること。②次に、朝鮮南部に展開する日本陸軍を朝鮮北東部に集中・展開すること。さらに、③樺太の北緯50度に北海道の部隊を濃密度に配布すること。場合によっては、④兵站基地チタとタムスク(外蒙古、ノモンハンの向かい側)を、7月下旬、先制爆撃すること。

 7月25日、ソ連大使館の婦女子がこぞって山形県酒田市からソ連に向け出港した。ソ連軍の対満/対日“侵攻”が旬日のうちあるのは自明。ならば、この7月末、ソ連侵略軍の軍事力の数分の一を破壊する大規模な爆撃を(チタとタムスクに)先制的に敢行するのは、軍事合理性に合致しよう。ソ連はまた、「日ソ中立条約を延長しない」「廃棄する」と4月5日に通告してきた。これは日本に対する宣戦布告と同等なものと見做すべきであった。“やられる前にやる”は、戦争の常道。

2月下旬、ヤルタ秘密協定を、小野寺信の電報で了知していた参謀次長・秦彦三郎

 しかも、陸軍参謀本部は、2月23日頃、米ソ間のヤルタ秘密協定(2月11日)の内容とスターリンの誓約「ドイツ降伏三ヶ月後に対日侵攻する」を、小野寺信・スウェーデン駐在武官から秦彦三郎への電報で知った。が、GRUロスケ秦彦三郎(参謀次長)らは、この電報を握り潰した(岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電』、新潮社、16~8頁)

 このように陸軍のトップは、「スターリンの対日・対満侵攻は8月1日前後」は、確度百%の確定情報だった。なのに、陸軍省も参謀本部は、これを隠し、嘘八百の偽情報「侵攻は来年の2月頃だろう」を流し、これを陸軍参謀本部の多数説にした。参謀本部や陸軍省内にまだ少しは残っている対ロ防衛派は完全封殺された。

《ソ連様には、対日奇襲が成功し無傷で満州全土を占領されますよう》は、陸軍の中枢を独裁する阿南惟幾/秦彦三郎/瀬島龍三/美山要蔵/種村佐孝らの信条で執念だった。大東亜戦争の戦争目的の最終段階「満州全土のソ連占領→日本列島のソ連占領→七千万人の日本民族“皆殺し”」は、1944年11月頃から始まった。加えて、彼らが「スターリン様」と歓喜したヤルタ密約は、彼らの意気をさらに高揚させ、ソ連軍の満州占領“協力”を一層過激化した。

 日本国の生存を左右する最重要情報「ヤルタ秘密協定」の小野寺信からの電報すら、GRU軍人に握り潰された日本国とは、日本国がスターリン崇拝者達に簒奪されて、日本は日本ではなくなっていた状態といえよう。日本列島も、満州に続きソ連軍に占領され、日本民族は皆殺しされる寸前だった。これを逆転させたのは、「ポツダム宣言/ヒロシマ/ご聖断」で米国が進駐したからである。日本は地獄寸前で米国に救出された。トルーマン大統領は、日本救出の神風だった。昭和天皇の神力が、米国と言う神風を日本列島に引き寄せたのである。

巨大な侵略基地タムスク秘匿は、新京・奉天ソ連軍“電撃占領”への関東軍の協力

「ソ連は、満州に1945年7月末ごろ、怒涛の如くに侵攻するだろう」と、関東軍は予測していた。また、関東軍はこの事態を今か今かと心待ちにしていた。関東軍は、外蒙古のタムスクに集結している百万人のソ連軍の大部隊を知っていたから、関東軍があっという間に瓦解すると踏んでいた。

 ところで、関東軍には「ハルビン特務機関」と通称される「情報部」(諜報機関)があり、外蒙古については、この関東軍情報部の「ハイラル支部」が担当した。が驚くべきことに、関東軍のいかなる史料からも、タムスク基地に関する諜報記録が一文字も出てこない。例えば、西原征夫『全記録ハルビン特務機関』(毎日新聞社)のどこにも、タムスクに言及した記述はない。私が調査した限りだが、他の資料・文献にも、タムスクの記述はない。

「タムスク基地やタムスクへの兵站輸送に関しては諜報してはならない」「仮に諜報しても記録してはならない」「それについて密告してきた亡命モンゴル人は、射殺して口封じせよ」が、関東軍参謀部から通達されていたのではないか。チタから分枝するタムスクへの新しい鉄道は、ノモンハン戦争の翌1940年から建設が開始され、1944年に完成した。

 スターリンが計画し服部卓四郎/辻政信/小松原道太郎に命じた、戦場(ハルハ河)指定の“日本兵を二万人殺戮するノモンハン戦争”の目的の一つは、この鉄道建設のベストルートの確定であった。

 話を戻す。チタには数名の関東軍の諜報将校が駐在しており(原田統吉はこの一人)、この新規の鉄道建設は十分に知っていたはず。なのに、この鉄道についての記録が全くない。この異様な事実と、1945年7~8月にタムスクに集結した兵員百万人の大部隊に対する防衛態勢の構築を関東軍がいっさいしていなかった事実とは符合する。私は、原田統吉に直接インタヴューして、シベリア鉄道の本線で東に向かう兵器・兵員について聞いたことがある。ついでにタムスクへの鉄道に話題を振ると、「知らない」と返事された。

 が、モスクワやヨーロッパ戦線から極東に転進させられてくる膨大な兵器・兵員、すなわち「兵員158万人、戦車・榴弾砲ほか約六千輌・門」の三分の二はタムスクに向かい、原田統吉らが調査したウラジヴォストークに向かうシベリア鉄道本線の方は三分の一だった。タムスクへの兵員・兵器輸送に関する諜報を関東軍が厳しく禁止していた理由の一つは、この情報統制で、蒋介石との講和の緊急性に目が覚めない、すなわち日本側を油断させるに効果的な、満洲侵略ソ連軍の兵力を三分の一に低く算定できるからだ。しかも、この隠蔽した三分の二の軍事力が、想定外の興安嶺山脈の方角から突撃してくるのだから、防衛する劣勢部隊は一瞬で粉砕される。

北方四島“対ロ献上”の安倍晋三を支持した、超・暗愚な豚並み日本人の非・国民度──安倍晋三の北海道“無防備化の麻薬”日ロ平和条約に反対しなかった日本人

 日本の現代史の大学教授はことのほかIQが低く、学的には水準以下。その上、共産党員か共産党の犬か、のいずれかが98%を占める。だから、彼らの論文や解説は、完全なお門違いか、百%の間違いばかり。例えば、1945年4月~7月末のソ連仲介の対米講和に関わる日本の対ソ交渉を、この表の偽装看板通りに、全ての学校教科書も学界論文も、日本は「ソ連仲介の対米講和」を目指していた、と嘘八百の解説している。

 日本政府は、「ソ連仲介の対米講和」の名目で、ソ連の参戦を阻止する対ソ外交交渉をしていたのが事実。それは、米国との講和をせず太平洋戦争を継続し本土決戦をするためだから、「対米講和」とは百八十度逆。対米講和を拒絶するためソ連と協議することを、GRU転倒語で「ソ連仲介の対米講和」と言っただけ。

 そもそも《ソ連の参戦を防止したいのなら、米国と講和すれば瞬時にそれは達成できる》から、米国と停戦を直接交渉するか、既に申し出があったスウェーデンを介するのが、対米講和の王道であろう。現実には7月26日、米国の方から、ポツダム宣言という停戦条件が提示された。私は、1945年4月に米国に向け、「ハルノートを受諾する」と宣言し、対米停戦交渉を始めるべきだったと考えている。こうすれば沖縄戦は中断され、ソ連の対日/対満洲の侵攻は無かった。

 米国がポツダム宣言を発出したことで、対米停戦は日米が直接交渉することになった。ベストの情況の出現。しかも、ポツダム宣言は、日本を“ソ連の属国”に組み込む策謀に変質していた「ソ連仲介の対米講和」という名前での日本の対ソ交渉をぶっ飛ばしてくれた。ポツダム宣言は、まさに日本国と国体を守り抜いた神風だった。日本人よ、ポツダム宣言に拝跪して感謝を捧げよう。

 戦後日本の赤い学界は、ソ連様に忖度するかソ連様からの命令に「はい、はい」で、表看板「ソ連仲介の対米講和」のトンデモ対ソ交渉を糾弾する正常な学問を、徹底的に排除した。ために、「ソ連仲介の対米講和」のような反・国益の対ロ交渉が、何度も繰り返され、今に至る。現に、安倍晋三の対プーチン“日本は奴隷になります”外交は、「ソ連仲介の対米講和」の繰り返しではないか。

表3;ソ連に何でも貢ぐ屁理屈「ソ連仲介の対米講和」を繰り返した“狂人”安倍晋三

ソ連参戦阻止が目的の対ソ土下座外交だった、昭和天皇騙しの「ソ連仲介の対米講和

北方四島をプーチンに貢ぎ、「日露平和条約を締結した首相」の名声欲しさの売国奴・安倍

鈴木貫太郎首相&東郷茂徳外務大臣。が、実際は、阿南惟幾陸軍大臣のやりたい放題。

KGBロスケ安倍晋三首相が独裁し、外務大臣が事実上不在だった安倍内閣の八年間。

1945年4月~7月26日の丸三ヶ月。

2013年4月~2019年9月の六年半。

1945年5~7月、ソ連軍158万人が満洲を包囲。これを日本に気付かせない“隠蔽”の舞台演劇が、「ソ連仲介の対米講和」の対ソ交渉。

2014年3月、クリミヤ半島を侵略。続いて侵略軍事力輸送のケルチ大橋を建造。

日本人百万人以上を奴隷として提供する/沖縄を譲渡する/樺太を譲渡する/・・・。

三千億円(ロシアが誘致した日本企業の肩代わり弁済)を献上(2016年12月)。北方四島を譲渡すると私的レベルだったが約束(2018年11月)

結果は、満洲・樺太にソ連軍が怒涛と侵略。スターリンと共謀の阿南惟幾の大演劇「ソ連仲介の対米講和で対ソ交渉をすればソ連参戦は阻止できる」の嘘がバレたが、糾弾の余裕なし。

史上空前に反日極左の“日本の恥晒し”ロスケ安倍晋三は、北方四島を貢いでも「平和条約を締結してくれない」プーチンに、ラブコールで土下座。これが、2019年9月の最後の会談。

 日本人の家鴨や豚並み劣化は、スターリンの命令で、大東亜戦争を八年間もやった“夢遊病者的な暗愚性”に顕著に証明されていよう。「ソ連仲介の対米講和」を、この表看板通りに鵜吞みにして、この交渉が日本人に、ソ連軍158万人の満州包囲を気づかせない、スターリンの「日本人を眠らせろ!」作戦だと気づかないのは、日本人の“スーパー暗愚”度が天文学的だからだ。

 それから七十年。日本人の劣化はさらに一段と進み、家鴨/豚から蝉やカナブンと変わらぬまでに堕ちた。例えば、2013年4月、安倍晋三は「北方領土の解決(正語「奪還」でない)!」「平和条約の締結!」をド派手に掲げ、プーチンと交渉を開始した。この時、「北方四島のロシア献上になるぞ」「北方四島のロシア軍の増強のためのインフラ整備を日本国民の税金負担でさせられるぞ」と正しく予見した日本人は、私を除き一人もいなかった。日本人は、家鴨や豚以下に成り下がっている。

 (つづく)

(2024年8月20日記)

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