大東亜戦争は、“スターリンの奴隷国”日本の祖国叛逆──棄民どころか、一般邦人“皆殺し”に暴走した関東軍

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筑波大学名誉教授 中 川 八 洋

 大東亜戦争八年間は、通常の戦争と見做しては説明がつかない。奇々怪々と狂気が踊る戦争だったからだ。戦争以外の目的で大爆走した、祖国叛逆の悍ましい戦争だった。スターリンに祖国を献上するための戦争、それが大東亜戦争の本質。こんな狂った戦争、人類史上に類例がない。

満洲一般邦人に対し、避難命令もソ連軍の侵攻“戦況”も、関東軍は断固として発出しなかった

 満洲に対するソ連軍侵攻の開始は8月9日午前0時。が、関東軍は、その前にもその後にも、一般邦人への避難命令を一度も発していない。関東軍は、一般邦人を暴虐なるソ連軍兵士の餌食にすべく「棄民」した。この「棄民」の結果は、一般邦人が阿鼻叫喚の地獄でのた打ち回ることになる。

 最後は“皆殺し”されるに至る。が、関東軍が「棄民」決行をした目的は、この「一般邦人が阿鼻叫喚の地獄でのた打ち回る」のを見て快楽したかったからだ。

 次に、関東軍は、ソ連軍の侵攻状況(戦況)を一般満洲邦人にラジオで伝えるべきに、それすら全く行わなかった。これは、在満邦人が、どこに避難するのがより安全か、そこに到達する安全なルートはどれか、の判断ができないようにするためである。レーニンを教祖と礼拝する気狂いがたちが中枢を牛耳る関東軍は、避難民がより多く殺されるのを快楽したかった。

 井上卓弥『満洲難民』は、「(首都の新京、侵略三日目の)8月11日になっても、ラジオなどで、公式に状況が報じられることはなかった」(注1)、とわれわれに伝えてくれている。

 尚、この8月11日、新京では空襲警報は発令された。空襲警報は行政庁(消防署)の所管。軍はいっさい関与しない。新京の消防署は、8月11日にはまだ機能していたのがわかる。また、関東軍は高射砲部隊に対し、「ソ連軍様の爆撃機を損傷してはならない」と、一発の弾丸も撃たせなかった。

第一節 日本人を《虫けら》に扱った、スターリン直属の“ソ連軍”関東軍

 一般邦人に対し関東軍は、避難命令も「戦況」伝達もしなかった。この関東軍の冷酷・残忍さは、190万人前後がいた在満一般邦人のうち「軍人の家族/高級文官の家族/満鉄社員の家族」だけを「人間」に扱い、他の一般邦人は「虫けら」に扱い“遺棄する=殺されようと保護しない”と決定していたことと符合する。関東軍の中の高級軍人の中で、一般邦人の保護を苦慮しそれを作戦に組み込んだのは、後宮淳・陸軍大将(第三方面軍司令官、うしろく・じゅん)一人。この問題から論じよう。

Ⅰ、国滅びる時、軍の任務は国民の生命保護──根本博を継ぐ、後宮淳・陸軍大将

 最も常識的で最も正常な作戦は何だったかは、この作戦から数ケ月が経った後知恵で判断すればいい話。1945年8月19日、関東軍はソ連軍にジャリコーヴォで降伏した。国際法に従い、ソ連軍が邦人への攻撃を止めた8月31日に関東軍は降伏したとの仮定でも構わないが、最適な軍配備はどうあるべきだったかは、この8月19日や8月31日の事態から容易にわかる。軍事行動の是非は、結果が全てである。

 後宮淳・陸軍大将は、第三方面軍の全力を連京線(「大連‐新京」間の満鉄線)の沿線地区に結集し、来攻するソ連軍を邀撃する決意を固めた(注2、414頁)。これ、百点満点の作戦。後宮淳・陸軍大将は、この作戦を、一般邦人の保護第一から演繹した。これも称讃されるべきだろう。

 満洲帝国は、皇帝溥儀が8月18日に退位して崩壊した。国家防衛を第一任務とする軍隊の任務は、国家崩壊後は国民保護が第一。つまり、後宮淳・大将は、8月10日の早朝、八日後の事態を見据えて(先見的に)軍を正しく配備したことになる。戦史叢書は、次のように記述している。

「後宮大将は、新京より南における、多数居留民(膨大な数の満洲一般邦人)保護を特に重視し、第三方面軍としては極力、居留民の前方に立ちはだかり、少なくとも軍民は共生共死たるべしとの考えを抱懐していた」(注2、414頁)

 実際にも関東軍参謀部が泥縄式に決めた、《満鮮国境に近い通化・臨江を要域として長期持久戦》など、「8月15日に昭和天皇の停戦命令=玉音放送、8月18日の満洲帝国の崩壊」において、ナンセンスを超えた、突拍子もない愚策かつ危険な狂策。後宮・大将の軍配備を百点とすれば(注2、413頁)、《満鮮国境に近い通化・臨江を要域として長期持久戦》はマイナス九百点か。

 が、戦史叢書『関東軍2』は、GRUロスケの“赤い狂人”西原征夫の作だけあって、次のように逆立ちした有害な大法螺に転倒している。

(参謀部の方針に従い、後宮はいやいやながら第三方面軍の主力を通化に後退させることにしたが、それがまだできない8月15日に終戦となり)第三方面軍にとって、15日の終戦は千万に一つの僥倖であった」(注2、417頁)

 正しい政府公刊の戦史なら、「15日の玉音放送により後宮は、スターリンに内通していた関東軍参謀部の《居留民“皆殺し”》が目的の“通化への主力軍の退却”に、結果として与しなかった。ために、後宮は“自国民殺人鬼”軍人にならず、真当な日本人であり続けられた」と書いているはず。一方、戦史叢書の著者・西原征夫は、一般邦人を殺戮の地獄に落とすことこそ正しい対ソ戦だと転倒する赤色狂人。

 西原征夫は、関東軍の将兵は全てスターリン様に献上する日本人奴隷だから、対ソ戦で戦死・戦傷させず全員を無傷のままソ連様に献上すべきである、を信条とした。だから、後宮のように一般邦人を護るためにソ連軍と死闘を尽くすことは、西原にとっては、許され難いスターリンへの叛逆に他ならなかった。GRUロスケ草地貞吾も、西原征夫と全く同じことを露骨に叫んだ。後宮大将と関東軍参謀部の確執を紹介した、富田武『日ソ戦争 1945年8月――棄てられた兵士と居留民』(2020年刊)は、草地貞吾の「在留邦人なんかソ連軍に殺されてしまえ!」を収録している。

「後宮大将は、関東軍総司令部に対し、①《築城もされていない、弾薬・糧秣も集積されていない通化に立て籠もることはできない、②(通化に退却し)居留民の保護を放棄するのか》と主張した」

「草地貞吾主任参謀は、後宮大将に何度も電話をし、《在留邦人はいま涙を呑んで見棄てるべきだ》とまで述べた」(注3、208頁)

 通化への関東軍総司令部の退却は、満洲国を護るためではなかった。(通化には司令部機能など構築されていないから)司令部の機能を不全にし、関東軍全体を盲聾にして右往左往させ、在満邦人の保護をいっさいさせないことを目的にした“悪魔の策謀”だった。後宮大将の作戦のみが、関東軍の中で唯一無比に常識に適い正常だった。

 国家の軍隊とは、領土・国土を護るor奪還する時には、それに専念すべきだが、国家が崩壊した時or崩壊が旬日に迫っている時には、国民の生命を守ることに専念する義務を課せられている。8月9日の百五十万人を超えるソ連軍の侵略が開始した時、「満洲国は守れない」「持久作戦も叶わない」ことは誰の目にも明らか。だったら、関東軍の軍事作戦は自国民保護を最優先すべきで、これこそ軍隊や軍人のなすべき当然のことであった。

  “スターリンの犬”関東軍は、反共反ソの卓抜した軍略家の根本博・陸軍中将を北支派遣軍に左遷した。一方の根本博・中将は、左遷された1944年11月の直後から、内モンゴルで侵攻するソ連軍を迎え撃つ対ソ作戦を、《居留民保護》一点に絞り準備した。だから、8月9日からのソ連軍の侵略を阻んで、担当する域内に住む日本人四万人を一人残らず天津の港に送り届けることに成功した。これは根本博の約十ヶ月間に亙る周到な邦人保護作戦の成果。根本博は軍人の鑑(注4)

スターリンが強制連行した170万ポーランド人の中、11万人をソ連から脱出させたアンデルス将軍

 もう一例を挙げる。ポーランド・アンデルス将軍が、スターリンに拉致連行されたポーランド人「170万人」(注5)のうち、割合では少ないが、11万5千人をソ連から脱出させたことは、第二次世界大戦における“軍人の美しい歴史”として、多くの史家の心を魅了した。私も日本唯一の保守系・現代史「史家」として、アンデレス将軍の『An Army in Exile』(邦訳「裏切られた軍隊」、注6)は、軍人論として、ド・ゴール『剣の刃』。ゼークト『一軍人の思想』と並んで愛読している。

 ヒトラーのバルバロッサ作戦に肝を潰したスターリンは、ポーランド占領中(1939・9~41・6)にソ連に拉致・強制連行したポーランド陸軍将兵「25万人」(注7)のうち、殺されずに生き残っているポーランド将兵をもってポーランド亡命政府が対独戦用のポーランド陸軍を創ることを容認した。尚、スターリンは、このポーランド占領中、ポーランド人「170万人」(注6)をソ連に強制連行した。

 ソ連占領中にソ連に拉致されていたアンデルス将軍が、ソ連に抑留中の将兵をもってポーランド陸軍部隊を編成する責任者となり、七万人のポーランド部隊を編成した。これに加えて一般ポーランド人四万四千人も引き連れ、計十一万四千人のポーランド人をソ連からペルシャ経由で脱出させた(1942年3~9月)。パレスチナを通過する時、アンデルスは、ポーランド系ユダヤ教徒四千人のその地での入植を認めた(注6)

 一般ポーランド人四万四千人を救出・脱出させたアンデルス将軍の偉業は極めて重要。このアンデルスの行為は、ソ連占領下の満洲から一般邦人を脱出させなかった関東軍とは、際立って対照的ではないか。

 ただ唯一の例外として、一般邦人の満洲脱出を可能にしただろう作戦に着手した後宮淳・陸軍大将だけは、アンデルス将軍と同じ立派な人間性を有していた。後宮は、第三方面軍の戦力すべてを新京以南の満鉄線周辺に逃げ込んだ一般邦人を護ることに投入せよと、8月10日早朝、自分の諸部隊に命令した。この作戦は、1945年8月満洲の作戦としては百点満点でベスト。後宮が、参謀部の妨害を排して、この実行を最後まで貫いていたら、満洲の一般邦人は、「大連、旅順、営口」の三港から、次々に日本へ帰還しただろう。

 一言で言えば、後宮“満鉄線死守”作戦とは、新京を頂点としてそれぞれ営口と大連とを結んだ細長い三角形を、一般日本人の聖域とする作戦。この三角形の中に逃げ込んだ日本人は必ず「助ける/助かる」ようにする作戦。この後宮作戦がもたらす果実は二つ。

 第一。この細長い三角形の中に、三つの港「大連、旅順、営口」がある。これら港に係留されていた貨物船や軍艦すべてを用いれば、一般邦人の日本送致を円滑に実行できた。貨物船や軍艦が三十隻以上は係留されていたから、それらの平均輸送能力を五千人とすれば、一度に「五千人×三十隻=十五万人」が、博多や佐世保に送り届けられる。十日後には戻ってこられるから、「8月11日出航、8月21日出航、8月31日出航」だけでも、四十五万人が日本に帰還している。

 が、第三方面軍がソ連軍と戦闘して満鉄線死守を続けるのは、8月31日が限界だろう。しかし、8月10日~31日の三週間の対ソ戦は無駄にはならない。蒋介石軍の十万を超える兵力が、この三週間の間に、奉天まで完全装備で進駐したはずだからだ。また、新京にも蒋の軍隊が少しほど進駐しただろう。蒋介石軍とソ連軍は同盟国だから、ソ連軍は蒋介石軍にはいっさい攻撃できない。

 第二。8月31日まで頑張って蔣介石軍を新京まで進駐させ、“聖域”三角形の防衛と掌握を蒋介石軍と交替する。むろん第三方面軍は蒋介石軍に降伏し、その麾下で武装解除する。この場合、第三方面軍にはシベリア強制連行はない。根本博・中将の部隊がそうであったように、1946年には日本に帰還している。

 聖域三角形を引き継いだ“親日”蒋介石は、一般満洲邦人の日本送致の仕事も、後宮淳から引き継いだ事は言うまでもなかろう。蒋介石は、1945年11月末までに、170万人以上の日本人を日本に帰国させただろう。一般邦人はこの冬季に十万人以上が凍死・餓死・病死したから、コンビ「後宮淳-蒋介石」は、十万人以上の日本人の生命を救ったはず。

 蒋介石にとっても、満鉄本線と奉京線(「北京‐奉天」)を、後宮・大将が死守し蒋介石軍に手渡せば、その後の毛沢東との満洲争奪戦で決定的な差異をもたらすから、日本に感謝し、170万人以上の一般邦人の祖国送還を、「お礼」に遂行するのは、お安い御用だったろう。

 

1、井上卓弥『満洲難民』、幻冬舎、23頁。

2、戦史叢書『関東軍2』、414頁、417頁。

3、富田武『日ソ戦争 1945年8月』、みすず書房、208頁。

4、小松茂朗『四万人の邦人を救った将軍』、光人社NF文庫。

5、Piotrowski、The Polish Deportees of World WarⅡ、Mcf.p.5. 

6、An Army in Exile、Macmillan、1949,p.112、p.113,p.116.

7、カチンの森で発見された一万人以上のポーランド将校などの死体からして、拉致されたポーランド人将兵二十五万人の半分以上は、1942年3月時点、すでにスターリンに殺されていたのではないか。

Ⅱ、「在支」日本軍を満洲に転進させれば、直ちに解決した満洲“対ソ防衛”強化策

 満洲“対ソ防衛”強化は、(1944年現在)「在支」日本軍五十万人を、(1945年4月末までに)そっくりor半分でも満洲に配備すれば済む話だった。が、日本は、この正常で正攻法の策を採らず、あろうことか一般農民を満洲に移住させて、満洲防衛の任に宛がった。さらに、真面な武器もない戦闘能力もない少年を騙し煽て「義勇軍」に“よいしょ”するとは、人間のなす所業ではない。少年義勇兵制度は悪魔がなす狂気。少年義勇兵の話を聞くと、私は嘔吐を催す。

 満蒙少年義勇隊は、特攻隊と同じ、次代の日本男児を死滅させ日本民族を絶滅させる目的から考案された。大東亜戦争が“悪魔の祖国叛逆”戦争だった事実は、若者を自殺させる「特攻隊の制度」と若者をソ連軍戦車の下敷きにして殺す「満蒙少年義勇隊の制度」に十全に証明されている。

 大東亜戦争は、1937年7月7日、《日本民族“皆殺し”教》教祖・近衛文麿が、国益に反する理なき「四ヶ師団北支派兵」に始まった。しかも、これを近衛が閣議決定したのは、盧溝橋事件が現地で解決した数時間後。この現地解決を成功させた立役者が北京駐在の武官補佐・今井武夫(陸軍中佐)。今井は生涯、日中戦争反対を頑なに信条とした。

多田駿・陸相か石原莞爾・総理なら可能だった、“反共・反ロ・親英米・親日”蒋介石との講和

(1)日中戦争は、する理由がからきし皆無の不可解極めた戦争だった。近衛文麿は、二つの秘めた目的で、日本の国益に反する日中戦争を遂行した。

 近衛の秘めた目的の第一。蒋介石の国民党軍をぶっ潰し、支那全土を毛沢東の人民解放軍の支配下に置く。つまり、支那全土の赤化が、“超過激な共産主義者”近衛文麿の狙いだった。

 トラウトマン和平工作(=蒋政権との和平)がうまくいく可能性が見えた1938年1月、その打ち切りを内外に闡明した近衛文麿声明に「ポスト蒋介石政権で生まれる支那の新しい政権(毛沢東政権)が樹立した時、日中は和平する」と、近衛は露骨に書き込んだ。原文は「新興支那政権(毛沢東政権)の成立発展を期待し是と両国(日中)国交を調整し、更生新支那(中共)の建設に協力せんとす」。つまり、近衛声明とは、毛沢東政権を樹立して支那全土を共産化した場合でなければ和平はしない、と、支那大陸の共産化を、世界に宣言した。

 近衛の秘めた目的の第二。ソ満国境を挟む日ソ両軍の軍事力が、1936年に初めて逆転していることが認識され、陸軍内部で大騒ぎになった。極東ソ連軍が、関東軍より倍近い強力な軍事力を展開していることに、日本がやっと気付いたのである。ために、陸軍の常識的な軍人たちは、関東軍の装備を五割ほどアップする予算獲得に動き出した。

 一方、満洲にソ連軍を侵略させたい、脳内がスターリン崇拝しかない“稀代の共産主義者”近衛文麿は、関東軍の軍備増強を不可能にすべく、余剰予算を支那本土に浪費させることを思いついた。つまり、関東軍の戦力を逆に徹底的に削いで、「ソ連様が無血状況で満洲を獲得できる」よう、日本の経済・財政力の全てを、1937年からの対蒋介石戦争につぎ込んだ。これによって、関東軍の戦力が対ソで、当り前だがより弱化が進んだ。これが、蒋介石に対する無期限戦争を開始した近衛の第二の理由である。が、対蒋介石戦争の大義など初めからない。そこで近衛らは、わけのわからぬスローガン「戻なる那を膺懲する」をデッチアゲた。

(2)満蒙開拓団は、この日ソ軍事力の逆転が騒がれた1936年から、関東軍の肝いりで規模を拡大して推進された。ソ連と通謀し満洲をソ連に献上するのを画策していた関東軍の赤い中枢にとり、画餅や紙風船の満蒙開拓団は、関東軍の軍備強化をせずとも、それに代替できるとの日本国民騙しの偽りのイメージ形成に都合のいい材料だった。そこで、関東軍は政府に頼んで、大々的な騙しアドバルーン「日本人農民百万戸(家族含めて五百万人)移住(=二十代・三十代の壮年男児の満洲に移住)」をぶち上げさせた。多くの日本人は騙されて、“満洲の軍事力は向上する”との錯覚を膨らました。暗愚を極める一般大衆は、「兵員が増える」と「戦車や爆撃機が増える」の区別はできない。

(3)それ以上に、1930年代に入るや、夜郎自大になった日本人は、一億挙げて、軍事力は兵器の量と質で定まるとの常識を失っていた。だから脳天気に徹し、極東ソ連軍の大増強には、日中戦争などしている暇も余裕もないことに気付くことがなかった。

 1937年7~8月、日中戦争の中止と蒋介石との和解を必死になって説いて回ったのは、陸軍参謀本部・作戦部長の石原莞爾ぐらいしかいなかった。このほか、満洲をソ連軍の急襲からいかに守るかを真当に考えていた数少ない陸軍エリートには、近衛に左遷された石原莞爾の後に参謀次長になった多田駿がいたが、多田が陸軍における最後の日本の逸材だった。

 多田駿は、近衛文麿のトンデモ声明「蒋介石を対手(相手)とせず」(1938年1月16日正午)の発出に数時間にわたり抵抗した、日本が誇る偉大な軍人。日本の国益と世界の平和秩序を破壊つくす“赤い狂気”対蒋介石戦争を止めさせる方法は、近衛文麿を射殺する方法を採らないなら、参謀次長・多田駿は、1938年1月15日、もう少し踏ん張って(=真に勇気ある愛国行動)近衛内閣を総辞職に追い込むべきであった。

(備考)多田駿は、その後、陸軍大臣になる直前までいった。が、昭和天皇が(在位中)唯一例外に閣僚人事に介入し、多田駿の陸相就任は不可になった。多田駿は、迂闊にも、昭和天皇がソ連の手先と喝破され、蛇蝎と嫌悪された河本大作の妹を妻にしていた。昭和天皇は多田駿が「反ソ/親・蒋介石」である事実などお知りになられておらず、河本大作と同じ共産主義者でソ連の回し者だと誤解されておられた。

(4)日本を危殆に瀕せしめる対蒋介石戦争を中止し、支那に展開する日本の陸軍力を全て満洲に転進させる対中講和のチャンスは、上記の近衛声明「蒋介石を相手とせず」を潰しトラウトマン工作に委ねること以外に、二回訪れた。その一つは、1944年7月に東條内閣の総辞職の時。

 総辞職するに際し東條英機が、「日本は対英米戦争に専念すべきである。よって、対蒋介石戦争を全面的に中止し撤兵する」声明を発出していれば、満洲へのソ連軍の侵攻は無かった。しかも、この宣言は、ハル・ノートの「半分受諾」だから、その後、米国は和平提案を提示してきたはず。

(備考)なお、当時の米国、特に国務省は、支那Chinaと満洲Manchuriaを厳格に峻別していた。語彙「支那」は、「満洲を含まず」と同義だった。一方、日本は、満洲在住の支那人を「満人」と言うように、満洲族と漢族の区別すらせず一緒くた。だから、“満洲に行く”ことを「支那に行ってくる」と口する日本人が十人の中九人であった。

 もう一つのチャンス。1944年11月10日に汪兆銘が死没し、蒋との和平交渉を妨害する障害物が除去された時。小磯國昭総理が蒋介石に、「ごめんなさい、日本は汪兆銘に騙されていました。直ちに和平しましよう」との声明を仮に発出すれば、汪兆銘に怒り心頭の蒋介石は、これに乗ったはず。

 なお、このケースで小磯國昭が気を付けるべきは、1944年11月、陸軍の中枢は、参謀本部を含め、《満洲にソ連軍を侵攻させ関東軍はこれに協力する》(=満洲をソ連に献上)を決定していたこと。しかも、「石原莞爾(55歳)が総理、多田駿(62歳)が陸軍大臣」(カッコ内の年齢は1944年時点)ならいざ知らず、IQが凡庸な小磯では、日本が赤化の泥沼状態に陥っているのを覚れない。1944年11月時点、六年前(1937~8年)の石原莞爾や多田駿を代替できる人材は日本から消滅していた。

蒋介石と防共協定を締結し、蒋に毛沢東潰しをさせるのが“防共”。日独伊防共協定は欺瞞

 日本の現代史学者の95%は共産党員だから、歴史事実に対し正常な解釈を決してしない。例えば、日独伊三国防共協定(1937年11月)の“防共”の意味は、ドイツでは「反・英米」の隠語、日本では「防共」は「アジア共産化の推進」を意味する転倒語。だからドイツは、この防共協定の下で、世界唯一の共産国家ソ連と「不可侵条約」を締結した(1939年8月)

 日本は、東アジアでは数少ない“反共反ソ”の蒋介石に対して、1937年に戦争を開始し、それを一方的に拡大した。仮にも日本に、「防共」=「反共」の思想が僅かでもあれば、防共協定を、真先に蒋介石の国民党政府と締結している。南京“攻略”など、決してしていない。

 日本が蒋介石と防共協定を結んでいれば、1937年、蒋介石は、「抗日」で毛沢東と共同戦線を採る必要が全くなかった。蒋介石は、1937年から「反共」を旗幟鮮明に、毛沢東の中国共産党を“撲滅”する内戦に全力を挙げることができたはず。

 要は、共産主義を国体化しつつあった日本には、文字通りの「防共」思想が一㍉も存在せず、よって日本は“反共の闘士”蒋介石を憎悪し、蒋との戦争を八年間もやった。日本は、共産国家だったのだ。だから日本は、“日中戦争の戦死”という名目で、同胞の日本人41万人を支那本土で殺害した。日本は、「反共・反ソ・親英米・真正の愛国」の日本人を、心底から憎悪していた。

第二節 関東軍の一般邦人“棄民”は事実。が、棄民した理由を不問にした戦後日本の非情と異常

 日本における現代史研究は、何から何まで不可解なことばかり。関東軍が、1945年8月、在満一般邦人を棄民したことに対し、学者(富田武ほか)も評論家(半藤一利ら)も声を大にして論難・糾弾する。確かに、関東軍の一般邦人“棄民”は事実だから、これを糾弾するのは正しく間違っていない。が、この論難・糾弾の声、何となく空しく、腑に落ちない。

 関東軍の“棄民”策により、百数十万人の一般邦人が難民・流民となって「レイプ、戦死、病死、殺害、凍死、餓死」の阿鼻叫喚の地獄に叩き落された。関東軍が他の軍務遂行を優先し、この軍務遂行で多くの瑕疵を犯した結果の、半ば已む得ざる情況として、この一般邦人の阿鼻叫喚の地獄図が生まれたのならば、この種の論難・糾弾は妥当。

 が、関東軍は、初めから、一般邦人を「レイプ、戦死、病死、殺害、凍死、餓死」の阿鼻叫喚の地獄に叩き落す目的で棄民している。すなわち、糾弾で済ます次元の問題ではない。秦彦三郎・参謀長や瀬島龍三・作戦参謀などの関東軍参謀部に対し、死刑を含めた処断を論議すべきが、この問題の本旨であろう。本物の歴史学は、“法”と道徳を欠くことはない。“法”と道徳をもってサーチライトのように史実を照らしたとき、歴史の真実が鮮明に浮かび上がってくるからだ。

自国民ジェノサイド狂の殺人鬼ばかりの関東軍参謀部は、ロシア兵/支那人暴民より凶悪だった?

 関東軍の棄民の実態と実像は、①ソ連軍の侵攻も戦況についても、一般邦人に一度も(ラジオなどの手段があるのに)連絡も通知もしなかった。②避難命令を発しなかった(行政庁が痺れを切らし、関東軍に代わり、概ね二日遅れで避難命令を出した)。③鉄道を早々と8月13日には運休した。(ウクライナでもロシアは鉄道へのミサイル投下を決してしないように)ロシア軍は占領行政を考えて、敵の鉄道を爆撃や破壊しない。このことを関東軍は了知していた。つまり、鉄道運休は、関東軍が邦人“皆殺し”を狙っていた証左。GRUロスケ草場辰巳はソ連側証人として東京裁判に出廷のため東京に来た。が、草場は鉄道を運休させて“邦人殺し”を実行した自責から、遺書三通を遺して青酸カリ自殺した。

 次。④武装解除する前、関東軍の部隊は、避難民に対し食糧や衣料品を渡すことはできたのに、これをした部隊が一つもない。⑤武装解除後の各部隊は、命令に従い列車に乗るべく、(シベリアに連行されるのに「ナホトカ→舞鶴」で日本に帰国するのだと)意気揚々と指定の場所に行軍中、出会った一般邦人から「兵隊さん、助けて!」と声を掛けられたが、これら邦人に一顧すらせず無視している。関東軍参謀部が、命令「一般邦人と口を訊くな!」「邦人を助けるな!」を各部隊に厳しく発していたのは、間違いなかろう。

 このことは、GRUロスケ草地貞吾が敵将ワシレフスキー元帥に宛てた手紙(元帥は8月26日に受領)からも窺い知れる。生来の大嘘つきサイコパス草地貞吾は、百数十万人の在満邦人が、一人残らず職を失い居宅を失い“流浪の民”となり、日本列島の故郷に帰るしか生きる術のない情況を転倒して、真赤な嘘「生業を持っている」「残留希望者がいる」を捏造し、「一般居留民のほとんどは満洲に生業があり、希望者はなるべく残留して、貴軍に協力させてほしい」と書いた(注1)。これ、侵略者ロシアへの「棄民するので、殺すなり奴隷にするなり、お好きなように」のジェノサイド容認書ではないか。

 秦や瀬島の“操り人形のおバカ”山田乙三・関東軍総司令官は、満洲の数少ない港「大連」「営口」をソ連軍に8月23日に手渡した。草地は、この後に、この手紙をワシレフスキーに送っている。仮に正常な人間なら「大連・営口の民間船舶を、《三万人の入院患者の即時内地移送》《百数十万人の一般邦人の可及速やかな内地移送》に使用させて頂きたい」「武装解除した日本兵一万人を、この引揚げ業務に宛てて頂きたい」との手紙になっているだろう。関東軍参謀部の参謀たちは、草地貞吾のような“自国民殺人狂徒”ばかりだった。

スターリンに満洲“献上”すべく、精鋭部隊を南方に遺棄した陸軍参謀本部&関東軍

 東京の陸軍参謀本部も満洲の関東軍も、1943年夏を過ぎたころ、満洲をソ連軍に無傷で献上することを決定し、満洲の精鋭部隊をゼロにすることに狂奔した。また、スターリンが満洲に侵攻する旨を宣言したことに「万歳!」と叫んで、関東軍はソ連軍の侵略にどう協力するかを研究し、それを実行した。まず、スターリンの対満洲/対日侵攻宣言は主に三つ。表1がそれ。

表1;スターリンの三つの対日侵攻“宣言”

スターリンの動き

日本側の対応

1、1944年11月6日、革命記念日。日ソ中立条約違反の「日本は侵略国」と名指し糾弾。これ、《日本に侵略します》の別表現。

東京の陸軍参謀本部は、これに狂喜し、瀬島龍三をモスクワのソ連軍参謀本部に派遣し、ソ連の対日侵攻の軍事作戦策定に参加させた。

1944年12月1日、ソ連はシベリア鉄道を用い、大量の兵器/弾薬の極東輸送を開始した。

この兵器/弾薬の輸送につき関東軍は、諜報していた「情報部」から、詳細に報告されていた。

2、1945年2月11日、ヤルタでスターリンは米国ルーズヴェルト大統領に「ドイツ降伏後2~3ヶ月後に、対日侵攻を開始する」と約束。

秦彦三郎(東京の参謀次長)は、ヤルタ秘密協定をスウェーデンの小野寺信から入手。小野寺“機密電報”は瀬島とのみ共有。他には秘匿。

3、1945年4月5日、スターリンは、日ソ中立条約の破棄通告。

 

これとヤルタ秘密協定から、秦と瀬島と種村佐孝は、ソ連軍の満洲&北鮮侵攻を、1945年7月7日~8月7日と断定。瀬島の新京赴任は7月1日。種村佐孝のソウル着任は8月5日。

 秦彦三郎・参謀長や瀬島龍三ら関東軍参謀部は、ソ連軍が侵攻を開始した8月9日未明、直ちに、「満洲を護らない/ソ連様に献上する」と決めた。これは秦彦三郎や瀬島龍三がGRUロスケであったことからの当然の意思決定。が、そうでない側面もある。満洲のソ連様への献上は、近衛文麿が《四ヶ師団の北支出兵》を決定した1937年7月7日以来の日本国の絶対方針で、秦彦三郎や瀬島龍三らは八年前に定まった国是を粛々と履行した、とも解されるからだ。

 陸軍参謀本部もまた、1937年7月7日以来の日本国の国策「満洲のソ連様への献上」を、1944年2月に入るや、公然と履行し始めた。それが、関東軍の精鋭師団を次から次に、フイリッピンや南方へと転出させて、関東軍の軍事力を“もぬけの殻”にし、ソ連軍の侵略があれば一撃で倒されるようにする、満洲防衛力の空洞化作戦であった。

 戦史叢書『関東軍2』の「転出」の項を見れば唖然とするが、この満洲防衛力の空洞化作戦は度外れな青天井で進められた(注2)。「中部太平洋への転出」「フイリピンへの転出」「沖縄や台湾への転出」「・・・への転出」と、「転出」のオンパレード。“転入のみ”が喫緊に不可欠な満洲防衛の逆。満洲を放棄しロシアに献上するとの決定がなされていない限り、あり得ない“逆さ国防の極み”。

 1943年以降、日本が対英米戦争を継続したいなら、満洲の軍事力を一大強化すべきで、これは最優先されねばならない。仮にも太平洋や東南アジアの軍事力を強化したいなら、支那本土に展開する軍事力(50万人)の転出しかなかった。

 蔣介石との戦争を完全停止(支那本土からの完全撤兵)せずに、対英米戦争を継続するのは全く不可能な絵空事。支那からの撤兵と日独伊三国同盟の破棄の二つだけで済む、日本国を全く害さない/日本国民の矜持を傷つけないハル・ノートの受諾こそ、支那の陸軍力の過半を満洲に転進させて満洲を防衛できるから、対英米戦争を継続するに絶対的な方策だった。

 しかも、表1に見る如く、ソ連軍の満洲侵攻は、正常な人間の目なら、風雲急を告げる明らかな緊急事態。ヒトラー・ドイツが降伏するより前(1945年4月まで)に、日本はハル・ノートの受諾を対米通告しておかねば、日本は固有の領土と満洲などの海外権益を護持することはできないが、そのような事態に日本は既に陥っていた。

ソ連軍様への首都・新京“明渡し”だった、関東軍総司令部の通化への突然の引越し

 関東軍参謀部は、1945年8月10日午前、突然、総司令部を新京から通化に移動させる決定をした。その理由は全く闇の中。実際にも、私は納得できる説明(論文)を見たことがない。総司令官・山田乙三は、ソ連軍の巨大かつ強力な部隊が、東側からだけでなく西側からも侵攻し、しかもその規模が想像を超えたものであることに胆を潰し逃亡を図った、のが真相ではないか。

 秦彦三郎・総参謀長ですら、通化には通信施設がなく、統帥発動には最も不適当であったと、回想している『苦難に堪えて』、1958年)。が、山田乙三は、8月12日午後二時、松村知勝と瀬島龍三を引き連れ、通化に飛んだ。また、前日の8月11日、一日中、新京の関東軍総司令部は、書類を焼き続けている。これは、総司令部の建物をソ連軍に明け渡すことを決意した時の行動。

 つまり、山田乙三は、ソ連軍侵攻から丸一日しか経っていない8月10日朝、ソ連軍への全面降伏を決意している。それは、満洲一般邦人を棄民する決意であり、70~80万人の関東軍の全将兵を棄兵する決意でもあった。棄兵するのだから、統帥発動に不可欠な通信施設なんかなくてもよい。“交通の要所”通化は、日本やどこかに飛行機で逃亡するにベストの地理にあった。

 8月10日~14日、草地貞吾ほか関東軍参謀部の参謀たちは、一般邦人の保護を第一とする作戦に固執した後宮淳・陸軍大将に“それを止めさせよう”と説得した。彼等の理屈の一つに、①「朝鮮全土の長期持久」が関東軍の最優先任務、②「朝鮮全土の長期持久」には関東軍総司令部が通化にあるのがベスト、との力説があった。が、この①②は、全くの嘘八百で悪質な詭弁。

 関東軍参謀部は、開戦直後の8月9日未明、朝鮮北部をソ連軍に無傷で渡すよう現地部隊に指示していたようだ。つまり、「朝鮮全土の長期持久」ではなく、その逆の「朝鮮全土のソ連様への献上」が、関東軍の方針だった。城内康伸『奪還』は、それを裏付ける。一部を紹介しておこう。

「8月9日の深夜、三十機のソ連機が、照明弾をふんだんに投下して羅津を空襲した。北村留吉・羅津市長は、8月9日の午前、羅津の日本陸軍の要塞部隊司令官に、邦人への避難命令を発して頂きたいと頼んだ。司令官は“必要ない”と拒絶した」

「翌10日午前に再度、避難命令を頼んだ。司令官は“避難の時期に有らず”と再び拒否。が、その後すぐ、要塞部隊の日本人将兵全員、一兵も残さず逃亡していた」(注3)

 この一例が示すように、関東軍には「満洲は捨てても、朝鮮全土は長期持久する」防衛方針は煙ほども存在しなかった。通化への総司令部の引越しは、棄民と棄兵をしたい関東軍総司令部の逃亡“隠蔽”演技に好都合な舞台装置づくりだった。“赤い悪魔”関東軍は、狐よりずる賢かった。

 

1、白井久也『シベリア抑留』、岩波書店、273頁。

2、戦史叢書『関東軍2』、226~7頁。

3、城内康伸『奪還』、新潮社、27~33頁。

                                              (2024年10月3日記)

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