『古事記』は、日本民族が仰いで奉戴すべき“皇室の聖なる史書”。故に、共産党員・国語学者は、『古事記』の生命源の“歌”を破壊する。が、日本人は、この“歌《テロ》”を放置。──日本国民が、中川『神武天皇実在論』を座右の書とすべき理由(ⅩⅠ) 

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筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 日本書紀も古事記も、共に皇統譜。共に史書。この基本的な同一性・共通性から、日本人の間では両書を同一視する傾向が一般的。しかし、日本書紀と古事記は、この基本を除けば、相当に相違する。この相違の一つが、日本書紀は“日本国の偉大な史書”で日本国民が保守して(備考1)永遠に護り続けるべき史書であるのに対して、古事記は“皇室の聖なる史書”で日本民族が仰いで奉戴すべき史書であること。古事記には、我が日本民族と皇室とをつなぐ精神の絆としての機能がある。

(備考1)日本書紀の三大“保守”問題。第一。神武天皇の即位が約660年遡り過ぎ。那珂通世が解決。第二。魏志倭人伝の「邪馬台国の女王」は、神功皇后でなく百襲姫。内藤湖南と笠井新也が解決。第三。神武天皇の生誕地/東征御出陣地は、宮崎県ではなく福岡県糸島市。中川八洋『神武天皇実在論』が解決。

 “日本国の偉大な史書”と“皇室の聖なる史書”という相違が、全国の大学を占拠する天皇制廃止カルト教団“共産党”の、両書を亡き者にせんとする“誹謗中傷のやり方”での相違となった。共産党員・共産主義者がこぞってなす、過激で常軌を逸した誹謗中傷は、日本書紀では次のCに集中し、古事記ではABC三分野で展開。これは、共産党員・共産主義者が古事記“抹殺”には、古代天皇テロルによる日本書紀“抹殺”以上の憎悪と殺意を煮えたぎらせている証左でもある。

 判り易くたとえるなら、共産党員・共産主義者の大学人は、日本書紀には原爆五ヶほどを投下するが、古事記には水爆十ヶほどを投下する。なぜ共産党員・共産主義者は、これほどまでに古事記を憎しみ、跡形もなく日本国から消し去りたいのか。

 日本書紀は歴史書性を重視して神話を軽視する(備考2)。一方、古事記は皇室が信仰する神話を重視する。また、古事記は、賢所や皇霊殿において御神楽で奉納すべく、歌を多用した“神事の長編祝詞”的な音楽性を付加した、特殊な史書でもある。

 これら古事記“特有”の性格が、日本民族をして皇室の祖先(天照大神)や古代天皇と精神における強度の絆を形成する。ために、古事記“抹殺”に、共産党員・共産主義者の“赤い犯罪者”大学人どもは、大正時代から、念入りにも三テロリズムABCを駆使してきたのである。

古事記は天之御中主神で始まり天照大神に一直線。国常立尊で始まる書紀の神話は、意味魍魎

 上記の備考2について。古事記と日本書紀の神話記述は、全く異次元なほどに相違する。古事記のそれは、天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)で始まり天照大神に一直線だから、小学五年生でもすぐ理解できる。

 一方、日本書紀は国常立尊(くにのとこたちのみこと)で始まるが、続いて「一書に白く」と、他の史料六つをリスト的に紹介。このような「神話の始まりについては、七説がございまして・・・」を冒頭にすれば、民族として共有し信仰する神話には、なりえない。

 直截的に言えば、日本書紀は、冒頭で「神話なんかどうでもいいではないか」と宣言しているに等しい。現に、日本書紀を読んでいると、外国の史書、ヒュームの『イングランド史』を読んでいる時と同じ感興に襲われる。書紀は“日本国の偉大な史書”だが、日本民族が血沸き肉躍らせる“聖なる史書”にはなりえない。

共産党員・共産主義者の“赤い犯罪者”大学人が大暴走する、古事記“テロリズム”の三方法ABC

A、嘘宣伝「古事記は偽書」の流布。「日本書紀は偽書」説が流布されていないことに留意せよ。

①嘘根拠の例1;「『続日本紀』に記述されていない」←『万葉集』も記述されていない。『古事記』『万葉集』は、朝廷=政府の事業ではなく宮廷の事業だから、国史への記述は不要。

 なお、「大和朝廷」という言葉をテロって抹殺し、共産党造語の珍語「王権」に置換すると、このように古代史は不明になる。言語は市場経済と同じで、市場経済なしに経済活動する情報が消えるのと同じく、歴史言語を抹殺すると、それにまつわる歴史の90%以上が瞬時に消える。共産党語「王権」を禁止し自然発生語「大和朝廷」「天皇」に戻さない限り、正しい古代史解明は消滅する。

B、共産党員・国語学者(高木市之助/土橋寛ら)は、古事記に記述されている“歌111首”を、独立歌謡にして古事記の“地の文=所伝”から切り離す。古事記の本質“皇室の聖なる史書”を空中分解的にバラバラ解体して抹殺するためである。古事記から111首の歌を剥奪し、古事記を骨と皮だけにすると、古事記は死に絶える。これが、赤い古代・国文学者たちの狙い。

C、津田左右吉/井上光貞/直木孝次郎らは、古代天皇“皆殺し”という血塗られた学的犯罪「記紀《捏造歴史学」を、学界・学校教科書・その他の出版物に徹底的に刷り込んできた。この“記紀捏造歴史学”に対し戦後初めて、“真実の歴史剣”を振り回して斬り込んだのが、中川八洋の『神武天皇実在論』ただ一冊。

 

 上記ABは、古事記“抹殺”の手法。上記Cは、記紀の両書“抹殺”の手法。本稿のモチーフはBの解剖。ためにBを叩いて排撃する私の学問は、厳密に言えば、“記紀保守(護持)学”ではなく、“記《保守》学”というべきか。

柿本人麻呂を編纂に加え、和琴の伴奏で朗誦された“宮廷史書”古事記は、歌を詠う壮大な祝詞

 古事記が収録する歌こそは、古事記の血肉である。この歌なしには、宮廷用の“聖なる皇統譜”である古事記は命を奪われ息絶える。

 大正時代の土井光知に始まり、昭和時代の高木市之助や土橋寛ら共産党員・共産主義者の古代・国文学者は、古事記の歌を「民間詩」とか「民謡」とか、いわゆる“架空の人民詩歌”に改竄・捏造し、天皇・皇族や朝廷の臣下の歌ではない、との嘘歴史を捏造した。また、古事記に記述されている天皇・皇族の歌を古事記から分離するのは、“デリダの脱構築”そのもの。とすれば、学者の衣を着た土橋寛らは、蛮行(ヴァンダリズム)の“古事記の解体deconstruction”に大暴走した気狂い、といえよう。

 特に、土橋寛『古代歌謡の世界』『古代歌謡全注釈 古事記編』は、津田左右吉の『日本古典の研究』に匹敵する“悪書の中の悪書”。いずれ、本格的な解剖をせねばなるまい。

 古事記の編纂者は、天武天皇ただ独り。一方、日本書紀は、681~720年の三十九年間で、延べにすれば二百名ほどの漢文の達人たちが編纂官になっている。

 しかも、天武天皇の編纂作業を手助けした者には、朝廷の高級官吏など一人もいない。現在の宮内庁の書陵部の専門知識を持つ職員に似た、帝紀・旧辞を担当する専門官吏数名が、天武天皇の作業に参画したのは言うまでもないが、これも宮廷の舎人らで、ほぼ全員が下級官吏(六位以下)だったろう。

 中臣氏が率いる、大嘗祭や宮中神事関係の巫女や神官から数名。また太氏が率いる、歌舞管弦部局の楽人数名が参加しただろう。稗田阿礼は、この双方に所属していた女性舎人と推定できる。

 このほか、柿本人麻呂が、680年、天武天皇に歌人として召し抱えられたように、三名ほどの宮廷歌人も加わっている。私は、古事記の編纂は681年春~682年末の約一年半と仮定するので、柿本人麻呂は、古事記編纂における歌を撰録する召人として起用されたと推定する。なお、柿本人麻呂も六位以下の下級官吏。

 宮廷には、推古天皇の御代に文字化が完全に完了した帝紀や旧辞の他(備考)、西暦紀元元年前後の神武天皇から推古朝までの約六百年間に及ぶ天皇・皇族・臣下の歌が蒐集・保管されていたはず。これらの歌は、旧辞や帝紀が記述する所伝と一緒になっていた歌と、そうではなく独立して蒐集されていた歌とに二分される。

(備考)推古天皇の「古」は、「ふるごと=歴史の事柄」の謂い。即ち「推古」とは、「帝紀・旧辞を推して定めて完成させた」との意。歴代天皇に関する淡海三船の歴史知見は、日本書紀のレベルをはるかに超える。皇室の内部に、皇統譜を正確に伝える歴史部局があったと解せねばならない。

 柿本人麻呂ら(朝廷には歌人の部局はないから、わざわざ「宮廷」と言う必要はないが)“宮廷の歌人たち”は、天武天皇の命令で、数百年にわたって蒐集した天皇・皇族・臣下の歌の中から、古事記の地の文に適合するのを選んで当て嵌めていく作業をしたようだ。だからと言って、この「独立して蒐集されていた歌」に、常民の民謡とか民間詩などは存在しない。

 神武天皇の御代もしくは日向三代の御代から推古天皇まで、宮廷歌人や記憶記録官が記憶記録した歌に、庶民の歌が紛れ込む可能性は、物理的に不可能。しかも、歌を謳える一部の庶民の歌も一定レベル以上なら集める制度を初めてつくったのは天武天皇。天武天皇以前に、「民謡」とか「民間詩」など、宮廷には“限りなく皆無”。一つも存在しない。

 以下、景行天皇記に収められた皇太子・日本武尊の条にある歌を少し分析する。「民謡」「民間詩」など一首もない。これが、一読で氷解する。

天皇の大御葬の歌となった、六名の后/六名の皇子たちの“夫&父”日本武尊を偲ぶ歌四首

(1)日本武尊記(景行天皇記に含まれる)にある四首(34~7番)は、日本武尊の妃や皇子たちの“哭き嘆き悲しんだ歌として記述されている。この四首は、天武天皇の崩御から明治天皇の大喪の礼でも歌われたから、一千二百年以上も、朝廷における天皇ご葬送歌曲であり続けた。これを廃止したのは、大正天皇の大喪の礼のとき。つまり、1925年頃、日本は皇室の伝統を破壊することに走り出していた。その方向は、天皇制廃止の共産国家・日本を目指していた。

・34番「なづきの田の 稲がらに 稲がらに はひもとほろふ ところ蔓」(作は、后のひとり)

・35番「浅じの原 腰なづむ 空はいかず 足よ行くな」(作は、后のひとり)

・36番「海がゆけば腰なづむ 大河原の植ゑ草 海がはいさよふ」(作は、后のひとり)

・37番「濱つ千鳥 濱よは行かず 磯つたふ」(作は、七~十歳の皇子の一人。のちの仲哀天皇か)

(日本武尊の后は六名。皇子が六名。皇女はゼロ)

 葬儀が行われているので、后や皇子の歌は、記録される。この四首が実際の歌であることに、疑いはない。明らかに七~十歳の子供の作と思われる37番の存在も、このことを傍証する。現に、37番からは、「白い浜千鳥に化した父よ。浜辺をゆっくり歩いて! そんなに遠くに飛んでいかないで!」と願っているのに、「磯伝いにジャンプし続けて、あっという間に遠ざかっていく」と、「お父さん、行かないで。逝かないで。」との泣き叫ぶ声が伝わってくる。

 このような熱風のごとき熱い思いが吹いてくる、拙い四つの歌が、民謡などで作られるはずもなく、校注した倉野憲二らは、ゴリゴリ共産党員の高木市之助からぶっかけられた嘘八百の赤い汚染液にどっぷり洗脳され過ぎている。倉野は、岩波書店本(1958年)の223頁に、36番と37番を「民謡」だと、出鱈目はなはだしい間違いを頭注している。

 なお、1960年出版の、悪名高い共産党員・上田正昭の『日本武尊』(共産党が占領した吉川弘文館)も、悪意と悪魔性を爆発させこの四首を無根拠に「民謡だ」とデッチアげ断定をなし、実在する日本武尊を歴史から抹殺すべく真赤な嘘歴史を捏造している。

 若くして亡くなった父や夫を、翔天する白い浜千鳥に仮構する一種の幻覚は、慟哭して悲しむ子供や妻によくみられる、一般的な心理であろう。また、人間として正常な人格を持つなら、この四首が発露する亡き夫・父を偲ぶ悲嘆には胸をうつ。江戸時代晩期の学者・橘守部は、その著『稜威言別 いつのことわき』で、この四首を「涙こぼるる」と評した。この橘守部の感性には、正常な倫理道徳性が迸っている。橘守部とは真逆を嘯く“大嘘つき”土橋寛には、鬼畜生の本性が踊っている。

 この土橋寛を継承する殺人鬼のごとき冷血な非人間を見つけた。紹介しておこう。廃校にすべき同志社大卒の共産党員・藤原享和(立命館大学教授)は、彼の新著『上代歌謡と儀礼の表現』28頁に、この四首について、「それらの歌詞に何ら葬儀の様子や悲しみの詞句が見いだせない」と記述している。これを読んだ最初、頭に浮かんだのは「ウクライナ人をもっと殺せ、もっとウクライナ人を殺そう」と、毎日曜日、フジTVから煽動し続ける狂人の“○○非人”橋下徹。

 私は(中学生の頃だったか)、后や皇子達の「一緒に死にたい」「あなた(orお父さん)、死後の世界に私(僕)も連れてって」と悲嘆を爆発させている、この四首に涙が止まらなかった。

すでに儀礼用歌謡となっていた四百年前の三首を、日本武尊の今際の際の歌にした理由は何か

(2)日本武尊は今際の際に、一種の辞世の歌(第33番)のほか、三首の歌を遺した。そう古事記は記述している。が、この三首は、それ以前から宮廷に宮廷儀礼用として存在。私は、これら三首は、第十一代垂仁天皇の頃、(松尾山の中腹辺りからの)歌に長けた宮廷貴人の作だと考えている。

・第30番「大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 大和しうるわし」(歌に長けた高級官僚の作)

・第31番「命の全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊かしが葉を うずにさせ その子」(上記と同一人物。同一場所/同時刻)

・第32番「愛しけやし 吾家の方よ 雲居たちくも」(上記と同一人物で、同一場所/同時刻)

・第33番「嬢子の 床の辺に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや」(日本武尊ご本人の作)

 ところが、土橋寛はその大著『古代歌謡全注釈 古事記編』(角川書店)で、この第31番を「平群山の山遊びにおける老人の歌」だとする。墓に入っている土橋寛の骨に告ぐ! 口から出まかせもほどほどにしたらどうだ。

 天皇制廃止の共産党員・土橋寛は、大和朝廷の都が実に美しいと、その高官が讃歌したこと自体が、許せないのだ。そこで、「高位高官の大和朝廷の貴人→地元の老人」「高級官僚たちの、薬草の採取を兼ねた山中の宴→庶民の山遊び」に改竄して、“俺様は天皇や大和朝廷を侮蔑したぞ!”とご満悦の様子。土橋寛は、実に怖ろしい悪魔だ。

 なお、畳薦とあるように、宴会をするために、相当数のゴザ類を従者に運ばせている。かなり富裕でないとできない野辺の宴会。しかも奈良盆地の南の邸から北遠くに移動した宴会だから、地元に宿もとっている。また、“樫の葉っぱを鬢(=冠)に挿せ”とあるから、高位高官なのがすぐわかる。

 しかし、威張り腐った共産党員学者・土橋寛の人格は津田左右そっくりで傲慢不遜。また、現場に足を運ぶことをしない、机上の妄想で書きまくる法螺吹き屋。「平群の山」とは、斑鳩町の北側に位置する、奈良県の矢田丘陵か、矢田丘陵の松尾山(標高315メートル)の事。が、これすら指摘していない。

 松尾山に登り、その中腹(標高250メートル)辺りから、南東方向を眺めると、左に三輪山、正面に大和三山が一望できる。第30番は、この景色をうたったもの。しかも、橿原の方向に自分の館ははっきりとは見えないが、雲がその上空に立ち昇っているのがみえると、我が邸を愛しんでいる。

 さて、既に宮廷儀式歌謡になっている歌三首を、天武天皇や側近の宮廷舎人らが、薨去直前の日本武尊の“望郷の歌”に撰録したのは、なぜか。また、日本武尊の条だけで十四首と、歌数の余りの多さは、なぜか。

 私の推定だが、天武天皇は、日本武尊の鎮魂の神事を、御神楽を含めて、宮中三殿の賢所と皇霊殿で挙催しようとしたのではないか。御神楽を伴う場合、歌は多ければ多いほどいい。また、宮廷ですでに最高の扱いを受けている宮廷儀式用三首を、「日本武尊の作」に移譲したのも、この神事を考えれば納得できよう。

 ではなぜ、日本武尊に限って特別な鎮魂祭を執り行う必要があったのか。確かに、日本武尊が薨去されてから、景行天皇も次の成務天皇も、さらにその次の仲哀天皇も皆、怨霊が漂っていると恐れて、奈良盆地を避けている。景行天皇の最後の皇居は、近江国。成務天皇も同じ。

 長皇子・仲哀天皇は、「敦賀→山口県の長門→福岡市の香椎」と、その皇居を、日本武尊の怨霊が覆い尽くしていると恐れられた奈良県や大阪府を避け続けられた。この仲哀天皇の行動は理解できるが、天武天皇がそれをするのは解せない。日本武尊の薨去は西暦320年だったと仮定すれば、古事記の原案成立は682年だから、三百六十年が経っているからだ。日本武尊の怨霊を鎮めるというのは、理由にはできない。

 とすれば、壬申の乱で不慮の自裁に至った甥・大友皇子を鎮魂すべく、日本武尊を鎮魂する形で、天武天皇は、それをなそうとしたのではないか、と考えるほかない。大友皇子の最後は近江国の大津。大和朝廷の故地たる、奈良盆地/大阪(河内国)ではない。この情況は三重県で薨去された日本武尊と同じ。奈良盆地(=大和)を讃歌する三首を日本武尊に捧げたのは、実は大友皇子=弘文天皇に捧げたのだろう。

 日本武尊を慕い追いかける后や皇子の、悲しみが涙から絞り出された歌四首の収録も、天武天皇におかれては、即位されておられた大友皇子の仮想の大喪の儀に奏でる、仮想の葬送の歌曲にされたかったからではなかろうか。この四首は余りに拙い歌であるのに古事記に収録した理由を、私は、このように考えている。

日本書紀から歌を削除しても書紀の史書性は揺るがない。が、歌を失った古事記は古事記でない

 本稿のモチーフを、もう一度、まとめておこう。日本書紀には128首の歌があるが、これを全て削除されても書紀の史書性は全く揺るぐことがない。が、古事記からその111首の歌を剥奪すると、イタリア・オペラに似た音楽性を加味されている古事記は、その生命を絶たれて死ぬ。

 この故に、われわれ真正の日本国民は、土橋寛と高木市之助を、津田左右吉/井上光貞/直木孝次郎/上田正昭らと同様に、徹底的に粉砕して、日本国の古代史/古代国文学から抹殺しなくてはならない。日本国民は、皇室を奉戴する“世襲の義務”を負うて、この世に生まれたのである。権利は放棄できるが、義務は放棄できない。日本国民は、この義務の履行にその生を賭ける、高貴なる美徳を誇るべきだろう。

(2023年7月1日記) 

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