真赤な嘘「空白の四世紀」を大宣伝するNHK『歴史探偵』(7月26日放送)は、“明白な史実”「景行天皇/日本武尊/仲哀天皇/神功皇后の御代」を抹殺する“悪の歴史偽造”番組。──日本国民が、中川『神武天皇実在論』を座右の書とすべき理由(ⅩⅢ) 

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 佐藤二朗が「所長」を演じるNHK『歴史探偵』は、《NHKは、受信料を全額、共産党から徴収せよ!》があらわな番組。なぜなら、日本国が、その経済力・軍事力を一気に三倍以上に膨張させた、学的にも鮮明な日本について、NHK『歴史探偵7・26』はあろうことか、五回も、共産党製の詐言スローガン「空白の四世紀」を投げつけた。

 つまり、NHK番組『歴史探偵』は、天皇制廃止と日本国の地球からの廃滅を目指す、オウム真理教の残虐・残忍を百万倍に濃縮した、世界で最も血塗られた“日本人皆殺し”カルト宗教団体「共産党」のカルト教義を金科玉条に、日本国の正しい歴史を大改竄し公共電波で流したのである。

 真赤な嘘歴史「空白の四世紀」をデッチアゲたNHKの狙いは、実在明らかな四天皇──第十二代・景行天皇/第十三代・政務天皇/第十四代・仲哀天皇/天皇相当の神功皇后──を、日本国の歴史から抹殺することで、この天皇テロルをNHKは電波で敢行したのである。

《『三国史記』は存在しない》は、天皇制廃止を狙い四天皇をテロるNHKが流す巨嘘

 天皇制廃止という赤色テロを社是とするNHKの恐ろしい番組『歴史探偵7・26』は、大嘘「空白の四世紀」について、次の法螺話で正当化していた。三世紀の日本を語る『魏志倭人伝』と、五世紀の日本を語る『宋書倭国伝』の狭間にあって、四世紀の日本を語る史書は存在しない。ために、四世紀・日本は歴史の空白になった、と。

 これほどの暴論・奇説の大嘘は、レーニン的な大量殺人を絶対ドグマとして狂信して、「日本人を殺せ! 殺せ! 殺しまくれ!」の“カルト宗教団体”日本共産党だけが思いつくもの。なぜなら、日本国の古代史を探照灯で照らしてくれる外国の史書には、「『後漢書倭伝』→『魏志倭人伝』→『三国史記』→『宋書倭国伝』」などがあり、上記の二書だけではない。また、日本には史書『古事記』『日本書紀』がある。四世紀・日本の歴史の基本部分は完全に明らか。空白などどこにも存在しない。

 だが、NHK番組『“歴史大改竄”探偵』は、『三国史記』『古事記』『日本書紀』『広開土王碑文』など存在しない! 四世紀日本は空白だ! と、怒鳴るだけに終始。NHKは、巨大カルト宗教団体・日本共産党のカルト教義「日本人(=自国民)を殺せ! 殺せ! 殺しまくれ!」を、深く信仰している。歴史の抹殺とは、その歴史を担った人間を抹殺することで行われるからだ。

 

【閑話休題】《宗教教義「自国民を殺せ! 殺せ! 殺しまくれ!」》は、極端でも何でもなく、ルソー/フランス革命/ロベスピエールが確立した、ギロチンで仏国民を殺しまくったジャコバン党の教義が世界初。フランス革命とロベスピエールを崇拝したレーニンは、1917年、ジャコバン党のこの“自国民大量殺戮の教義”を継承し、ロシア国民を殺しまくるヴォルシェビキ(ソ連共産党)を創設した。そして、レーニンはその権力掌握六年間で500万人のロシア人を惨殺した。日本共産党は、“人類史上空前の殺人鬼”レーニンを引き継ぐスターリンが創設した、「ロベスピエール→レーニン」の自国民大量殺害を実践する、今や世界で最も恐ろしい殺人カルト宗教団体である。250万人の信者=党員はあらん限りの策謀を巡らして、狂気「日本人を数千万人殺害せよ」を実践している。

 日本民族の新生児数を減らすことは、日本人を殺害することと同じ。故に日本共産党は党を挙げて、朝日新聞社ほかマスメディアに“新生児数回復策を徹底叩き潰す”キャンペーンをさせてきた。また、数多くの出版社に『産まない選択』などを大量に出版させてきた。日本人・女子中高大生の脳内に、“結婚しない/産まない”を刷り込み洗脳するためである。「1.57ショック」の1990年に新生児数回復措置を執らせず、この新生児数激減を促進したことによって、日本は現在時点で、ゼロ歳から33歳迄の日本人約3300万人を激減させた。この事実、正しくは「共産党が、3300万人の新生日本人を殺した」と解すべきであろう。

 なお、大東亜戦争は、最低でも2000万人の日本人を殺害するのが目的の、ロベスピエール/レーニンの教義の実行であった。大東亜戦争“聖戦”論や“ロシア製スローガン”「大東亜共栄圏」は、日本人から正常な思考を剥奪・麻痺させる猛毒麻薬として考案されたもの。

中川『神武天皇実在論』の読者なら、NHK『歴史探偵7・26』の“大嘘”を見抜けた

 上記NHKの大詭弁(大嘘)《『三国史記』『古事記』『日本書紀』『広開土王碑文』など存在していない》を聴いて、テレビの前でひっくり返った日本人は何人いただろう。おそらくゼロ人か。このように、一億日本国民は、今や全員、自国の歴史を完全に喪失した。日本人とは、ルソーとニーチェが目指した“歴史無き非人間(ボルトナット)”に改造されてしまった。

 つまり、現在の日本人は、『三国史記』『広開土王碑文』で、『古事記』『日本書紀』の年表の間違いを糺して、正確な古代史を浮かび上がらせるという、古代史学のイロハを知らない。戦後日本では、共産党員/共産党系でない古代史学者は、坂本太郎と中川八洋の二人だけしかいないが、少なくとも中川『神武天皇実在論』を座右の書として拳々服膺しなければ、十全に解明されている四世紀・日本の歴史を、僅かも知ることはできない。

 中川『神武天皇実在論』の第Ⅱ部は、『三国史記』『広開土王碑文』『古事記』『日本書紀』を駆使して、四世紀~五世紀初頭の神功皇后/応神天皇の御代を明らかにした、日本唯一の学術的な歴史教科書である。神功皇后の生誕(320年)から崩御(389年)までの歴史年譜は、拙著第Ⅱ部第二章の表1(185頁)で、応神天皇の歴史年譜は同表2(186頁)で、明らかにしている。

 また、神功皇后の新羅征討の史実も明快に明らかで、それは図1(第Ⅱ部第一章、162頁)に明示。これらは、『三国史記』『広開土王碑文』『古事記』『日本書紀』からいとも簡単に確定できる。記紀の記述は、この事からも、その基本部分は、歴史を、史実通りに伝えている。

 これらの歴史は、『三国史記』『広開土王碑文』『古事記』『日本書紀』などを総合すると、誰にでも確定できるのに、私以外、戦後八十年間、誰もやらなかった。津田左右吉ら日本共産党の逆鱗に触れて大学から追放されるからである。

 坂本太郎は、日本書紀を初め史料復元が専門。彼は、古代史全体の歴史を鳥瞰するマクロ歴史学にはさほどの関心を持たなかった。これが、「津田左右吉は歴史学者としてスーパー出鱈目で、果たして歴史学者と言えるのか」と、内心ではひどく軽蔑していながら、坂本太郎は津田非難そのこと自体に無関心だった原因である。

 私は、古代史全体の歴史を鳥瞰するマクロ歴史学者だから、史料を決して読まず史料無視でベラベラと嘘歴史を捏造していく“悪の小説家”津田左右吉の“狂気の犯罪”の、その深刻な弊害を感得できるから、敢然と津田排除の烽火を古代史学界に高々と掲げたのである。

 民族は正しい歴史を共有すべきである。そのためにも、日本国民は、中川『神武天皇実在論』を何度も読んで、津田左右吉・井上光貞・直木孝次郎らに改竄され尽くした嘘偽りの古代史を、ドブ川に遺棄すべきである。これからの日本国民に、正しい歴史を復活してあげておくのは、日本国民としてのなすべき、最高位の知的義務である。祖先が歩んだ歴史通りの歴史を共感し尊崇するのが、その子孫が避けてはならない、歩み続けるべき高貴なる道なのだ。

日本最大の蛇行剣“副葬”の富雄丸山“墳墓”は、神功皇后の(移葬された)父を埋葬か

 長さ267㎝の蛇行剣が、奈良市の富雄丸山“墳墓”(円型、直径109㍍)から発掘された。日本国民を洗脳すべく、共産党の命令をただ垂れ流す“嘘歴史刷り込み隊”NHK『歴史探偵』は、《四世紀後半の築造が確定している富雄丸山“墳墓”から発掘されたが故に、四世紀後半に製作されたことが明らかな蛇行剣と盾形・白銅鏡により、「空白の四世紀」の日本歴史には初めて本格的な照明が当てられる》と、度が過ぎた歴史無視のバカ騒ぎを阿波踊っていた。

 四世紀・日本の基本歴史は、江戸時代から明解にわかっている。今般、長大な蛇行剣と盾形・白銅鏡の発掘は、富雄丸山“墳墓”に誰が埋葬されているかを解くカギにはなる。が、それ以上の歴史を明らかにすることは全くあり得ない。NHKの神懸かり御託宣《蛇行剣で「四世紀の日本」が明らかになる》など、赤い気狂いの戯言。

 長大な蛇行剣と盾形・白銅鏡を、私は2023年1月、新聞報道で知った。以来、この富雄丸山“墳墓”の被葬者は誰かと思案してきた。神武天皇が武力簒奪した大和盆地&河内湖地方(奈良県と大阪府)の御陵や墳墓は全て、天皇の御裁可の案件。つまり、①天皇の御裁可がない御陵や墳墓はこの地には一つもない。また、三輪山の西側麓に数多く存在した製鉄・製銅工場や鉄剣鍛冶屋は全て大和朝廷の直轄。②長大な蛇行剣と盾形・白銅鏡の発注者は大和朝廷のみ。③富雄丸山“墳墓”築造の時期は、神功皇后の御代(西暦346~89年)。等は、しかと心得ておくべき初歩知見。

 すなわち、A極めて大きい円型の富雄丸山“墳墓”の築造は、神功皇后が御裁可の墳墓。また、Bそこに埋葬の副葬品「長大な蛇行剣と盾形・白銅鏡」は、大和朝廷の命令で製造されたもの。このABの条件に合う被葬者は、あれこれ思案したが、“神功皇后の父君”しか思い浮かばなかった。

 神功皇后の「夫」仲哀天皇の御陵は、大阪府藤井寺市に、墳丘長245㍍の前方後円型で築造されている。これは神功皇后の陣頭指揮で築造されたもの。天皇陵は原則、前方後円型である。

 一方、富雄丸山“墳墓”のような円型は、「皇別」とされる、天皇の血を引く皇族だが皇位継承順位の低い、しかし朝廷の特別な高官など。この要件を満たし、神功皇后と関わる人物は、神功皇后の父君「息長宿禰王」がまず浮かぶ。

 滋賀県・琵琶湖の東岸にある山津照神社墳墓(墳丘長46㍍)は、かつては、息長宿禰王(おきながすくねのきみ)の御墓でないかと言われてきた。が現在、そのような主張は消え、息長宿禰王の御墓は特定されていない。息長宿禰王は第九代・開化天皇の玄孫だから、神功皇后は開化天皇の五代孫。仲哀天皇も開化天皇から嫡流五代孫、御両名は、開化天皇の五代孫同士のご成婚。

 神功皇后は、九州から大和に還幸されるに際し(347年)、仲哀天皇の第一皇子/第二皇子を誅殺し、第三皇子の応神天皇を皇太子とすることに成功。これもあって、神功皇后は、身位は摂政であられたが、実態的には威光と権力が絶大な天皇であった。北畠親房は第十五代天皇としている。その治世は崩御の389年まで続き、「神功皇后、四十三年間、皇位に在位」と解すべきである。

 神功皇后(天皇)を陰で支えた人物は誰か。この問いは記紀からでは全く分からない。私は、郷里の滋賀県から上京した実父の「息長宿禰王」ではなかったと推定している。だとすれば、父君「息長宿禰王」の薨去に当たり、神功皇后が手厚く葬っただろうことは、言うまでもないこと。

 円型の富雄丸山“墳墓”は、息長宿禰王の御墓だと、私がかねてより想像している理由は、もう一つある。奈良盆地の北端の地・富雄は、息長宿禰王の郷里である滋賀県・琵琶湖湖畔にも近い。また、神功皇后の皇居・政庁はおそらく仲哀天皇の御陵(大阪府藤井寺市)の近くだったろうから、墓参するに富雄ならさほど遠くない。

 なお、息長宿禰王の生誕は西暦295年。神功皇后がお生まれの西暦320年の時には25歳。薨去は355年の享年60歳、と仮定。この時、神功皇后は35歳だから、息長宿禰王の御墓の築造に丸五年がかかったとして、その完成は西暦360年。考古学的な墓年齢とは合理的に符号。

長剣と盾形銅鏡は、「造り出し」(入口)で悪霊を斬って被葬者を護る殉死家臣の武器

 富雄丸山“墳墓”は息長宿禰王の御墓だと、さらに確信するようになったのは、この御墓の「作り出し」(被葬者が眠る棺への横穴を遮るかのように突き出した門)から、長大な蛇行剣と盾形・白銅鏡が、2023年1月に発掘された時。蛇行も白銅も死者を襲う悪霊を斬り殺し退散させる神器。

 実際にも、この「長大な蛇行剣と盾形・白銅鏡」の傍に人体の骸骨が発掘された。この人物こそ、被葬者のボディガード的な豪傑の家臣であろう。主人を守るべく剣と盾と鏡を振り回したいと、神功皇后に自ら殉死を願い出た武人の鑑。

 とすれば、「長大な蛇行剣と盾形・白銅鏡」は、神功皇后が、この殉死する豪傑士に、「下賜して上げる」と勅命され、朝廷直属の刀剣鍛冶屋と製銅・鋳物工房に制作を命じられたもの。彼らは数年の歳月をかけ何度も試作研究を重ねて、神功皇后に献上したと考えられる。

 天照大神が民族宗教に昇華させた、紀元前100年頃に始まる前漢鏡(白銅鏡)“崇拝”教は、伊勢神宮のようにご神体として祀る宗教にもなる。一方、三~六世紀の日本全国で築造された16万基の、天皇・皇族そして地方の豪族の墳墓すべてに共通して、白銅鏡は、悪霊退散の“魔除け呪(まじない)の器でもあった。

 地方に数多く残る豪族の墳墓を見学すると、(白銅鏡が手に入らぬ場合には)棺を納める室の壁面に無数の鏡を描き、実物の鏡に代えている。大和朝廷に服属するようになった四世紀以降の熊襲(熊本県の中・南部)では装飾古墳が盛んだったが、壁面にこの装飾鏡が美しく描かれている。

(備考)私は、宮崎県南部/鹿児島県/奄美大島の隼人と、熊本県の熊襲とは、別人種と考えている。

 長大な蛇行剣(2.37㍍)と盾形・白銅鏡(長さ64㎝、最大幅31㎝、最大厚0.5㎝)に、ナンタラカンタラと、実に有害な論評が多すぎる。古代の日本人は死後の悪霊を特段に恐れた。この程度の民俗学的な歴史を知らない、超劣等生が集まるアホ馬鹿集団が日本の古代史学界なのだ。

 序だが、この富雄丸山“墳墓”について珍論奇説を吐く、幼稚園児もびっくりする“超お馬鹿な古代史学者”がいたので紹介しておく。「読売新聞オンライン』2023年2月8日付け「奈良・富雄丸山古墳から国宝級の大発見」に、共産党員・辰巳和弘(元・同志社大学教授)が、無知蒙昧どころではない、次のような極めつけの的外れを嘯いている。日本中の古代史学者は、赤い上に劣悪以下。学者とは程遠い幼稚園児以下ばかりしかいない。全員を、早急に分限免職に処せねばならない。

 精神病院から脱走している気狂いなのか、赤い辰巳和弘は“大暴言”「被葬者は、王権(共産党語、正常語は「大和朝廷」)とは距離を置き、敵対していた豪族の墓ではないか」を吐く。現在の奈良県と大阪府は、かつての神武天皇が開拓された支配地で、当時の大和朝廷の聖域である。しかも神武天皇が制圧してから三百五十年。そこには敵対勢力は一人どころか煙さえ存在しない。

 そんなところに、仮に敵対勢力が巨大な墓を築造すれば、大和朝廷は即座に一族全員を射殺・斬首して、その墓を徹底破壊する。天武天皇までの大和朝廷は、七百年間に亙り、服属しない者に対しては峻厳。服属を誓約しない限り、僅かな寛容も見せなかった。

 このオンライン文は続いて、共産党員・辰巳和弘が語ったのに、そうとはせず、わざわざ読売新聞の赤い記者の説明だとしているが、「富雄丸山“墳墓”は、神武天皇に殺害され滅亡した、紀元元年前後まで大和盆地の支配者だった、長髄彦の末裔=豪族が築造したもの」とする。バカバカしくて絶句するほかない。神武天皇は、長髄彦の血をひく者のうち逃亡した者を除き、一人残らず斬首している。これが、当時の戦争で、戦国時代と何ら変わる処はない。

 第十代・崇神天皇の御代(~崩御258年)に大和朝廷は、西・出雲を除き中国地方全域と東海地方も福井県/石川県も軍事制圧を終了。故に、「神武天皇は初代天皇」と記す書紀は、「崇神天皇は、日本国初代天皇」と記述した。

 そして、第十二代・景行天皇は、九州の隼人と熊襲、次に西・出雲と、大和朝廷に歯向かう地方を軍事的に次々に制覇した。景行天皇は、東北地方の蝦夷を除き、事実上の日本国統一をほぼ完成した。この国家統一のほぼ終了に伴い、後継する仲哀天皇と神功皇后は、海外遠征に乗り出した。両名の新羅征討は、朝鮮半島の南部を日本領土に確定するのが目的。対馬海峡に面する半島の(済州島を含む)南部は、新羅を除き、全域がすでに日本に服属し、日本国の領土だった。

 大和朝廷とは、「神武天皇~天武天皇」の七百年間、軍事一色の政府。大和朝廷から軍事色が消えるのは持統天皇以降。斉明天皇の御代には、日本海軍力は唐帝国の五倍も強力で、当時の世界で唯一無比の大海軍国。白村江“海戦”での敗北は、驕りが生んだ戦術の拙劣が原因。

 さて、脳内三歳児の共産党員・辰巳和弘のスーパー嘘をもう一つ。「今般、発掘された銅鏡と長剣は、ヤマト王権の力(高度な技術力)を示すとは限らず、富雄丸山“墳墓”の被葬者は王権内部の有力者と言うことにもならない」だって(大爆笑)

 大和朝廷の天皇/皇族か、天皇の血を引く「皇別」の高位高官でない限り、大和国/河内国での墳墓は許されていなかった。また、両「国くに」における鉄剣製造や銅鏡製造の関係者は全て、独占的に大和朝廷の雇用もしくは管理下にあった。大和朝廷から独立の者など、一人もいなかった。

 大和朝廷は、神武天皇の御代から、鉄剣製造や銅鏡製造などの金属工場すべてを、三輪山の西側山麓に集中させていた。河内湖南岸(大阪)に、これらの大規模工場を新規に設立したのが神功皇后。度重なる朝鮮出兵の便宜のためである。この新規工場群は現在の応神天皇の御陵の近辺ではないかと、私は推定している。

 なお、応神天皇の御陵は大阪府羽曳野市誉田(こんだ)にあるが、大阪府藤井寺市の仲哀天皇の御陵とはわずか1㎞しか離れていない。応神天皇は一度も会ったことのない“瞼の父”の傍で眠りたいと、この地を御陵に選ばれたようだ。

共産党語「古墳」は絶対禁止! 天皇のそれは「御陵」、臣下/地方豪族のは「墳墓」に

 上記の文章で気付かれた読者もいるだろうが、私は長年、共産党の天皇制廃止語「古墳」の使用禁止を訴え続けてきた。天皇の「御陵」を、“相続人が死滅した、放棄されている昔の墳墓跡”を意味する「古墳」と表記するとは、不敬も甚だしい。これら御陵は今上陛下のご祖先の御陵であり、“生きている御陵”。二文字「古墳」には、共産党の天皇制廃止“今上陛下を殺せ!”が含意されている。

 国語的にも「古墳」は、“子孫が途絶えて、礼拝者がいない、放棄された墳墓”の謂い。二文字「古墳」を天皇の「御陵」に使用した者は、明らかに刑法・墳墓不敬罪の犯罪者である。総理は、これら犯罪者を刑事告訴すべきである。

 この事は、臣下や地方豪族の墳墓にも当て嵌まる。確かに、これら墳墓の子孫は現存してはいない。だからと言って、われら日本民族全体として死者を弔うのは放棄できない道徳であり、日本民族として生まれた世襲の義務である。不適切語「古墳」を廃して常識語「墳墓」を用いるのは、人間なら当然だし、われら日本人の品格を発露する常識でもあろう。

 特に、特段に残忍な天皇殺しテロ実行が職業の共産党員四十名(管理人)が独占的にやりたい放題のwikipediaは、天皇の「御陵」をことごとく紙上“抹殺”する。「御陵」をわざわざ「古墳」に書き換えるwikipediaの犯罪は、彼らが日本の古代天皇を、ルイ16世と同様、ギロチン処刑しているからである。例えば、応神天皇の御陵「惠我藻伏崗陵 えがのもふしのおかのみささぎ」は、一般的な項目表記なら「応神天皇“御陵”」となる。が、日本共産党‐wikipediaは、天皇制廃止を狙って、これを不必要にも「誉田御廟山古墳」と改竄する。

 かつての通称は「誉田御廟」だったから、「応神天皇・誉田御廟」でも良い。が、日本共産党‐wikipediaは、わざと二文字「古墳」をくっつける。wikipediaを占領して恣意的に編集する共産党員四十名の管理人を刑務所に収監しないなら、日本国が絶望の淵に立つのはそう遠くはない。

附記;「日本の馬”移入“は四世紀」は、研究不足で中川『神武天皇実在論』から削除

 日本は、騎馬戦用であれ、運搬用・農耕用であれ、馬の導入は実に遅い。日本で最初に馬が上陸した地点が、日本最古の“馬の歯”などの発掘から、福岡県・津屋崎港(福間町)なのは間違いない。「金海(キメ、金官伽耶)→対馬→津屋崎」のルートでの蒙古馬の移入だった。日本最初の馬の放牧地が、津屋崎の岬につくられたのは、陸揚げした港の直ぐそばで便利だったからか。

 しかし、それがいつかの推定作業は難しい。第十二代・景行天皇から神功皇后に至る、西暦310年から350年の間とは推定できる。が、これを絞るのが、なかなか厄介。日本書紀の馬の記述の最初は応神天皇紀。404年、百済から(騎馬戦に適した足の長い)良馬が献上されたとある(岩波書店の書紀、370~1頁)

 馬具は、奈良県メスリ山“墳墓”および新山“墳墓”から発見され、その一つは310年代に製作された「西晋式帯金具」。被埋葬者が馬に乗っていたのは明瞭で、仮にそれを340年代と考えよう。なお、この被埋葬者の埋葬時期を350年と仮定しておこう。

 私は、神功皇后の第一回新羅征討(346年)で、輸送用の軍馬(騎馬の馬ではない)が使用されたと仮定している。しかも、補充用の矢その他の武具を背中に乗せて運ぶ、この軍馬は100頭を大きく上回っていただろう(推定)。とすれば、津屋崎に最初の馬の牧場をつくったのは、景行天皇か成務天皇となる。神功皇后が346年の新羅征討に軍馬を投入したのが史実だとすれば、それ以前に第十四代・仲哀天皇が北九州市・門司に、馬を育てる大きな放牧場をつくられていたと推定できる。

 日本陸軍が最初に騎馬戦をしたのは、広開土王の碑が明記する404年の高句麗戦であったろう。つまり、390年に即位された応神天皇の御代。百済がペアの良馬を日本に献上したのが、この404年と同時期だとの書紀の記述から、次の事が想像できる。百済は、高句麗の本拠地を目指して百済領内をトレパスする日本軍の馬が余りにズングリで速度の出ないタイプであるのに驚き、サラブレッドのような足の長い馬を献上した?

 なお、「神武東征は騎馬民族征服王朝」説をぶち上げた“考古学者”江上波夫は、ゴリゴリの日本共産党員。彼は、皇室の祖先は日本人を征服したモンゴル帝国のような外来征服者だと荒唐無稽な嘘歴史をデッチアゲ、「日本人よ、外来征服者の天皇を日本から叩き出せ! 銃で撃ち殺せ!」と日本人に対皇室クーデタを呼びかけた。江上波夫は重度の精神異常者でもあった。

 が、九州から奈良県に至るルートで、大量の馬具は発見されておらず、日本列島に騎馬民族が侵入した痕跡“皆無”は、一瞬で証明される。それは同時に、江上波夫の狂気を証明する。なお、古代の日本列島でほんの少量なら馬具が発見されたが、それらは、四世紀の製造物。西暦紀元元年前後の神武天皇東征から三百年後。騎馬民族による征服説など、ペテン師の詐欺話以上にはなるまい。

(2023年7月30日記)

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