“日本唯一人の天才史家”笠井新也を抹殺した津田左右吉ら「共産党支配の古代史学界」の学的犯罪を糾弾しない、非国民ばかりの一億日本人──日本国民が、中川『神武天皇実在論』を必携し座右の書とすべき理由(Ⅸ) 

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 一年に亙る侵略ロシア軍の砲撃で廃墟となったウクライナのバフムートの惨状は、原爆を投下された時の広島よりはるかにひどい。この廃墟の写真や動画を見るウクライナ全国民は、「なぜこんな惨い仕打ちをロシアから受けねばならないのか」と、悲嘆に暮れている。

 それでもウクライナ国民は、自分の祖国の領土全てをいずれ奪還し復興再生せんと歯を食いしばっている。実際にも、ウクライナ国土の20%は、地域ごとに多少の相違はあるが、ロシアの侵略と残虐による廃墟と化しており、バフムートと五十歩百歩の陰惨な様相を呈している。

 これに対し、ウクライナ国民の怒りは怒髪天を衝いているだろうが、ウクライナには前に進むしか、国民が生きて自由を回復する方法はない。このような、地獄の現実に見舞われたウクライナ人のじっと耐えるその辛抱の精神や、奪還そして再生への信念と希望を捨てない不撓不屈には、私は拝む気持ちで、本当に頭が下がる。

 翻って日本の古代史も、“凶悪”共産党員で大嘘つき津田左右吉/井上光貞/直木孝次郎/上田正昭らの“捏造、捏造、捏造”で真実すべてが破壊尽くされ“嘘、嘘、嘘”しかない廃墟と化してしまった。ウクライナ人が“再びの自由と栄光”を目指し、祖国ウクライナの主権と領土を奪還すべく血を流している辛酸の労苦を思えば、私もまた、暗黒の闇に包まれた日本古代史に真実の光を取り戻すべく、“正しい歴史”を奪還するための学的方法を、次代の日本国民に伝えていく労苦を厭っている暇はない。

日本古代史の真実“奪還”の方法は、那珂通世/内藤湖南/笠井新也/中山平次郎への回帰のみ

 “偉大な大帝”昭和天皇は、敗戦と廃墟の1946年1月1日、詔書を渙発され、明治天皇の五ヶ条の御誓文への回帰を日本国民に呼びかけられた。それはまた、“ルソー狂の共産主義者”上杉慎吉の天皇機関説“罵倒”学や、日本の国体をスターリン全体主義に革命する“転倒隠語”「国体明徴」を日本国から一掃せよ、との昭和天皇の有難いご聖旨であった。

 私の『神武天皇実在論』も、日本国民に対する、「“凶悪”共産党員で大嘘つき津田左右吉/井上光貞/直木孝次郎/上田正昭らの“捏造”歴史を一掃せよ」「古代史は、那珂通世/内藤湖南/笠井新也/中山平次郎に回帰し、ゼロから再建せよ」との呼び掛けに他ならない。

 後者の四名は、学問ジャンルで言えば、表1の記紀「保守」学と邪馬台国・九州説を粉砕する学に欠かせぬ最重要な学者。“知の四銃士”である。本稿は、このうち笠井新也に焦点を当てる。

表1;皇室護持三学問のうち二分野で、最高級の学的貢献をなした笠井新也

 皇位継承学の系譜

皇室護持のための記紀「保守」学

天皇制廃止が目的の邪馬台国・九州説を粉砕する学

 井上毅(1843年生)

     ↓

     ↓

     ↓

   中川八洋

那珂通世(1851年生)

    ↓

  (笠井新也

    ↓

   中川八洋

内藤湖南(1866年生)

      ↓

笠井新也/中山平次郎ほか)

      ↓

    中川八洋

明治皇室典範から中川皇位継承学・第一冊目『皇統断絶』(2005年)まで116年

那珂の「日本上古年代考」(1888年)から中川『神武天皇実在論』まで135年

湖南論文「卑弥呼考」(1910年)から中川『神武天皇実在論』まで113年

 笠井新也については、私だけではなく、数で言えばそう少なくない有識者が、エジソンのような彼の天才性に驚き高く評価する。が、これは全体で見れば極く少数。

 絶対多数は、上記の「“凶悪”共産党員で大嘘つき津田左右吉/井上光貞/直木孝次郎/上田正昭らの“捏造”歴史家」たちが古代史学界を支配してきたため、笠井新也を“抹殺”し続けている。この絶対多数派が、徒党を組んで、古代史学界全体として笠井新也を無視・抹殺する作戦を徹底するから、吹けば飛ぶタンポポの花のように、笠井新也は確実に消えるほかない。

 しかも、笠井が「邪馬台国は大和朝廷である」との正しい歴史をぶち上げた1922年からすれば、この笠井“無視・抹殺”という古代史学界の犯罪は、すでに百年。百年間も笠井新也“抹殺”をすれば、笠井を知る日本人など一人もいなくなる。笠井新也を復活させて日本古代史を再構築しようとの正論は、古代史学界では杳として聞こえてこない。暴力団的な上記多数派の“笠井潰し”は大成功した。それはまた、日本古代史学界をして廃墟同然の嘘と虚偽の魔窟と化し、日本古代史を完全に死滅させたのである。

『魏志』倭人伝の「大和朝廷に至る道順」&「女王」を特定した、笠井新也の功績は不朽の偉業

 『魏志倭人伝』について、戦後の古代史学界は、笠井新也の1922年論文によって決着済みのはずなのに、“「大和朝廷に至る道順」はまだ解明されていない”“邪馬台国は九州だから、そのような道順など、そもそも存在しない”と、故意に、嘘八百論議を花盛りにしてきた。

 戦後日本の“世紀の嘘八百”「邪馬台国=九州」説のプロパガンダ史家は、「津田左右吉→榎一雄(精神異常者)→井上光貞→…→安本美典」であり、皆、天皇制廃止の共産党に所属する。彼らは学者ではない。だから、学的には決着済みの嘘を七十年の永きに亙って垂れ流し続けられるのだ。

 この嘘(邪馬台国=九州説)垂れ流しの嚆矢を、戦前1910年の白鳥庫吉論文(「倭女王卑弥呼考」『東亜之光』)だとすれば、百十年間の永きに亙り垂れ流されていることになる。1910年「卑弥呼考」の内藤湖南と1922年「邪馬台国は大和である」の笠井新也の二人によって決着している史実を、今も延々と白々しい八百長論議で「未確定」とする日本とは、学問や真実にかかわる全ての正常を喪失し、国全体が共産党に支配されたカルト宗教団体ではないか。

 画期的かつ偉大な笠井新也1922年論文は、シンプルで実に明快。まさに天才史家・笠井の面目躍如。それまで誰一人解明できなかった『魏志倭人伝』の地名「不弥国」を福岡県福間町、もう一つの難解な地名「投馬国」を出雲国に、あっさりと比定した。天才の閃きとは、これだ。

 前者。「不弥ふみ」と「福間ふくま」は語音が相類似し、「福間→不弥」と表記された(注1、390頁)。後者。「投馬」の「投」の古音はヅだから、「投馬」はヅマの支那人宛て漢字。一方、出雲=イヅモの「イ」は聴きづらいので「ヅモorヅマ」と聴こえただろう。結果、「ヅモ→ヅマ→投馬」となった(注1、396頁)。               

注1;笠井新也「邪馬台国は大和である」『考古学雑誌』、1922年3月号。

 このように、支那人宛て漢字の“和語戻し”は、支那“漢語”の古音に関する多少の教養があれば、その後はエジソンやアインシュタインのような閃きが“正解見つけ”を決定的に左右する。この意味で、それまでの“学界のアポリア”をいとも簡単に解いた笠井新也は、旧制中学(現在の県立高校)の教師だが、東大・京大の国史教授よりはるかにIQが高い。私は瞠目して彼を尊敬している。

「卑弥呼は百襲姫と比定」の新井新也に報復し、彼の論文を十八年間も凍結した“悪”津田左右吉

 笠井新也の第三論文は、『考古学雑誌』1924年3月号。この論文は、“嘘八百”「邪馬台国=九州説」を垂れ流す著名教授たちをコテンパテンに打ちのめした、なぜなら、そのタイトルが「卑弥呼すなわち倭迹迹日百襲姫命」であるように、この論文によって、卑弥呼が九州の女王でないことが証明されてしまい、それまで犯意をもってデッチアゲていた「邪馬台国=九州説」が、自壊的にぶっ飛んでしまった。笠井新也は、本当に古代史学界の天才。

 しかも笠井新也は、この論文「卑弥呼すなわち倭迹迹日百襲姫命」の続編にあたる第四論文「卑弥呼の冢墓と箸墓」を、同年12月頃に発表する予定だったようだ。上記雑誌の編集長にその旨を連絡していた。が、同年の秋頃か、事件が起きた。編集長から「掲載しない」と拒絶されたのだ。

 笠井新也は、この論文を予定から十八年が経った、同雑誌1942年7月号に発表した。笠井本人は、この理由を「ある事情のため、未完成のまま、第三論文の続掲(連続しての掲載)を中止した」と述べている(同雑誌7月号の344頁)。「続掲」とあるから、論文は完成していたのがわかる。「未完成」は言葉の綾。この「ある事情」は、かくして、掲載を拒否されたとしか読めない。

 笠井論文が1942年7月号で発表される直前の1942年5月、津田事件の予審(一審)裁判所は、津田左右吉の『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』等は出版法違反、よって「禁錮三ヶ月、執行猶予二年」に処すと有罪判決を下した。雑誌社の豹変は、この事態に反応したのではないか。

 具体的には、この判決で、雑誌社に対し「笠井論文を掲載するな」の外部圧力が無くなった。また、「邪馬台国=九州」説が出版法違反となったことで、赤い大嘘「邪馬台国=九州説」を痛罵する(十八年前に送られてきた)論文を掲載拒否する理由は雑誌社には無くなった。なお、この笠井論文は、出版社の方にも一部保管されていたのか。判決と同時に印刷に回している。笠井のチェックはゲラ校正時にできる。

 なお、古代史学界にとり画期的というより「最高級!」と絶賛すべき第四論文「卑弥呼の冢墓と箸墓」を笠井が雑誌社に送ったのは1924年秋。1924年の津田左右吉の『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』の出版は、その直前。津田左右吉本人か彼の恩師・白鳥庫吉が、『考古学雑誌』編集長か、そのオーナーに、笠井論文の掲載ストップの圧力をかけただろうことは想像に難くない。

 天皇制廃止の特効薬である「邪馬台国=九州」説が笠井に論破され崩壊する以上、天皇制廃止に人生を賭けている津田・白鳥コンビは、笠井論文が世に出るのを絶対に阻止せねばならず、手段など選ぶまい。しかも、「白鳥は東京帝大の教授、笠井は田舎の中学教師」。雑誌社が、白鳥から命令されたら、「はい、わかりました」以外の対応などあり得まい。

 なお、白鳥庫吉はスパイ網を張り巡らせる性癖がある。1910年、内藤湖南は、邪馬台国は大和朝廷であるとの論文「卑弥呼考」を雑誌に三回に分けて発表するのだが、その発表が未だ終わらないうちに、白鳥庫吉は別の雑誌に反論を発表した。笠井新也の論文発表阻止など、情報入手がプロのスパイ並みの上に、東京帝大教授の肩書を持つ白鳥にとって、赤子の手を捻るほど容易いことだったろう。

『魏志』倭人伝の、支那人宛て漢字を“和語戻し”する──伊都国/奴国/邪馬台国/倭人

 話を、支那人宛て漢字の“和語戻し”問題に戻す。内藤湖南は、論文「倭面土国」で、『通典』の記述「倭面土」の元の和語は「やまと」だと、“和語戻し”をした。この支那人宛て漢字「倭面土」は、後年、「邪馬台やまと」に変化した、とも湖南は指摘する(『芸文』第二巻第六号、1911年6月)

 なお、「邪馬台」を今でも「やまたい」と訓む、悪辣な輩の他意は犯罪的レベル。詐言師や詐欺師より悪質な意図的嘘だからだ。考古学的に、九州にそのような国は煙ほどもないことは、十分に証明済みではないか。現に、「邪馬台国=九州」説は、今や、共産党員の天皇制廃止“狂”学者以外は決して口にしない。簡単に言えば、内藤湖南1910年の論文「卑弥呼考」で、本件はとうに決着。これを無視する白鳥・津田らの赤い古代史学者は、過激な政治的革命“天皇制廃止”を目論む不埒な暴力革命家。学者ではない。

 もう一度言う。邪馬台国を「やまたいこく」と嘘訓みするのは、神武天皇から第九代・開化天皇までを不在に“歴史捏造”するための政治的策謀。正語「やまとのくに(大和朝廷)」を潰して消すために、共産党が党挙げて実行している “言葉殺しlogocide”。共産革命の革命運動。

 話を戻す。湖南が通暁する支那語の古音を駆使した論文「倭面土国」は、大嘘つき津田左右吉など赤い学者とは全く異次元。本物の学者が放つ迫力がぐんぐん伝わってくる。また、この湖南論文は、支那人「漢字表記」を“和語戻し”する学的方法論の提示で、古代史を専攻する学徒の必読。

 さて、私の『神武天皇実在論』で“和語戻し”した、魏志倭人伝の漢字表記「伊都国」「奴国」「邪馬台国」について、以下、少し触れる。私は『神武天皇実在論』の頁数を二十五頁分バッサリ減らしたため、この三語の“和語戻し”の説明も、この頁数減らしで割愛した。ために、同書にない。

表2;日本の「古代史学者」はほぼ全員、支那人「漢字表記」の“和語戻し”ができない欠陥学者──例外は、笠井新也と中川八洋と内藤湖南のたった三人だけ?

笠井新也

中川八洋

内藤湖南

・不弥国←ふくま(福間)くに

*港「津屋崎」は福間国領内

 

・投馬国←いずも(出雲)くに

・伊都国←いつ+くに←いつくに

・奴国←+くに←なのつくに

・邪馬台国←やまとのくに

・倭人←やまとびと

・倭面土←やまと

*日本語「やまと」の支那人宛て漢字は、「倭面土→邪馬台」と変化した。

 

(1)伊都国

 伊都国の「都」の古音はツだから、伊都国の日本人は、魏の外交官に、自国名を「いつ〇くに」か「いつ○○くに」と発音している。国名は自国人と周辺国人とのコミュニケーション過程で自然発生的に生まれる。また端的に表徴する語彙だから、その国の最も特徴ある誇れるものを用いる。

 伊都国が日本列島の他の国々に比し特段に目立つ、いわゆる特異は何といっても、宗教の創造とその祭祀儀式の整備。後者での荘重な飾りや神秘的な聖器(例えば、ご神体の「鏡」)づくりでは、伊都国は、他の国々(例えば、出雲国)の追随を許さない。

 神武天皇が橿原でご即位される前からある、三輪山の麓の大神神社(おおみわじんじゃ)を例としよう。大神神社(おおみわじんじゃ)には、社がない。ご神体は三輪山で、鏡でもないし、刀でもない。この大神神社、出雲人の建立である。出雲国人や奴国人には、独自の宗教祭祀を魅惑的に神秘的に発展させていく、宗教性の高い伊都国人の才能がなかった。

 キリスト教と仏教とイスラム教が 世界広く伝搬したのに比すれば、日本の神道は民族と共にあって、日本列島に限定されている。しかし、列島中に散見される無数の神社や祠を見る時、天照大神が創唱した神社教=神道が、宗教としていかに一流の宗教だったかは一目瞭然。その頂点が伊勢神宮。そこには“太陽神の巫女”天照大神が祀られ、巨大な前漢鏡(八咫鏡、国産の模造品)がご神体として鎮座している。伊都国は、弥生時代中期より「いつくくに」が国名だっただろう。それ以外の国名は考えられない。

(2)奴国

 私は、奴国のもとの和語が「な」であることに誤りはないと考えている。奈良時代の史料に見える“那の津”(那の港)の「那」、那珂川(那ヶ川)の「那」、儺縣(なのあがた)の「な」等、その国名が一音「な」だった可能性は高い。が、私は学術的とは必ずしも言えないのだが、「三音だったのではないか」に拘っている。理由は、『魏志』倭人伝の、他の国々が三音、少なくとも二音だからだ。「つしま(くに)」「いき(くに)」「まつら(くに)」「いつく(くに)」「ふみ(くに)」「いずも(くに)」「やまと(のくに)」「しま(くに)」「いほき(くに)」・・・・・。

 仮に三音「な○○」と仮定して、この○○を考えれば、国名は、他国が賞讃したり嫉妬したりする特別な特性を用いるから、奴国が誇る港「那の津」は、それに該当しよう。「那の津」は、現在の福岡市の中心部・天神町より北に少し行ったところ。日本一に整備されていた港であったろう。金印授与の審査に来た後漢の官吏は、この「那の津」で下船し、整備された一本道を輿に担がれ、春日市「須玖岡本」の都に入城したはず。が、この私の国名推定「なのつくに」は、私の(学問を離れた)拘りなので、読者は無視されて構わない。

(3)邪馬台国=やまとのくに

 これは、後述。

(4)その他。

  • 佐伯有清『邪馬台国論争』、岩波新書は、『魏志』倭人伝の原文と訓み下し文を掲載している。訓み下し文は、ひらがなのルビをつけているのとつけないのとばらばら。ために「倭人」を、佐伯が「やまとびと」と訓んだか、「わじん」と訓んだか、判らない。「やまとびと」と訓めば合格。「わじん」と訓んだのなら、トンデモ誤読。これだけ指摘しておく。
  • 佐伯有清は、「まつらこく」とか「いとこく」などと、「国」を正しく「くに」と訓まず、トンデモ間違いの「こく」と訓む。絶対に許容してはならない誤読。日本人が、国を「こく」と発音するのは、鎌倉時代の武士が出現するまで万が一にもあり得ない。あくまで「くに」と発音した。日本人の日本語だからだ。なのに、佐伯有清は、西暦240年頃の日本人の言語を記録した『魏志』倭人伝を、さも鎌倉時代の日本人の言語を記録した文書にしている。“ゴミ人間の溜り場”日本の史学者の低級レベルを見せつける。

漢委奴国王(からのやまとのなのつくにおほきみを、「カンのワのナのコクオウ」と嘘訓みさせる日本

 このように、北大の共産党員・佐伯有清は、『魏志倭人伝』訓み下し文で、国を「こく」と笑止な誤読をする。この種の誤読、広く日本中の大学教授が冒す一種の伝染病的な誤読でもある。佐伯ばかりを非難できない。その一つが、志賀島で発見された金印「漢委奴国王」。これを小中高の学校教科書も、トンデモ訓み「かんのわのなのこくおう」と訓ませる。笑止千万。

 この訓みは、ノンポリ常識人の三宅米吉の訓みを踏襲したもの。赤い狂人がほとんどの古代学界において、数少ない常識人の三宅米吉を批判するのは意にそぐわないが、間違っている以上、糾弾しておく。金印は、「漢帝国+周辺の民族名+その国名+官名」が基本として漢字を並べる。このルールは絶対。実際、「委=倭」は大和民族、「奴国」がその国名、「王」が官名or官号。

 ところが、三宅米吉もそれ以降の古代史学者全員、国名「奴国」の「国」を切り離し、これを官号の「王」にセメダインで貼り付け、奇天烈な珍語「国王」を捏造している。「国王」なる国産漢語は、英国のKingなどを翻訳するために、幕末から維新にかけ日本人が造語したもの。支那には、漢語句「国王」など、存在しない。

 私は、「からやまとなのつくにおほきみ」と訓む。漢帝国を、西暦57年、奴国の“学ある高官”は、「かん」と呼んだかもしれない。が、当時の日本人は、外国は国ごとに区別せず、朝鮮も支那も「から」と発音。よって金印でも、「漢」を「から」と訓んだと推定する。

 倭を「わ」と訓む日本人など、鎌倉時代に武士が出現するまで誰一人いない。常識中の常識。「奴国」は「なくに」「なのくに」と訓む。それなのに、何故に「国」を切り離して、一文字「奴」にするのか。呆れて絶句するほかない。日本の歴史学者がこんな反・学問のアホバカ訓みをするのは、「国王」と言う漢語句が支那語にあるとの度外れの無知から生まれている。

(補注) 私が、「なのくに」との訓みは間違っていないとしながら、「なのつくに」と敢えて訓む理由は前述。

 日本の歴史学者はことごとく水準以下で、幼稚園児と変わらぬレベル。これは、珍語「国王 こくおう」の捏造でも明らか。例えば、明帝国が足利義満を「日本国の 源道義」に冊封したが、これを学校教科書では“荒唐無稽な誤り”「にほんこくおう げんどうぎ」に訓ませる。「王」という官名=王号はあるが、「国王」という語彙は支那語には無い。国名「日本国」と官名「王」の区別・峻別もできないのが、日本の古代史学者。

日本の古代史学者は、ほぼ全員、漢語知らずの“学者以前の赤いクズ”ばかり

 このように日本の古代史学者は、漢語ができず、ために極度に誤まった訓みを平然となす。要は、嘘の垂れ流し。この漢語・漢文に関する教養のなさが、共産党員・学者の嘘歴史“捏造”に拍車をかけている。

 これを端的に紹介すべく、表3を作成した。3は上記に説明済み。2は中川『神武天皇実在論』の299~300頁を、1は同書106頁を参照されたい。

表3;日本の「古代史学者」は、ほぼ全員、漢語知らずの“学者以前の赤いクズ”ばかり

 1、『魏志』倭人伝の「共立」。支那には「共立」という漢語は存在しない。

 2、『後漢書』の「帥升」。「帥」は軍事司令官。「升」は日本人の名前。「帥升」という人名などない。

 3、『後漢書』の「国の王」。支那皇帝の「臣下」たる“従属”の意味。漢語に「国王」はない。

(参考)和製の漢語句=日本語を漢語だと錯覚するお粗末すぎる日本の史学者は“学者以前”。例えば「女帝」は、平安時代初期に日本人が造語。漢語ではない。奈良時代まで「女帝」など存在せず。

 

共産党語「やまたいこく」を殲滅し正語「やまとのくに」に戻さねば、テロられた古代天皇の復活不可

 「やまとのくに」と訓むべき「邪馬台国」を「やまたいこく」と嘘訓みに訓ませるのは、それによって西暦紀元元年前後に誕生した大和朝廷を、一瞬にして280年ほど遅らせることができるからだ。まさに政治的策謀としての嘘訓み「やまたいこく」なのだ。新井白石のお粗末な訓み間違い「やまたいこく」を権威に「やまたいこく」を正当化する屁理屈も、天皇制廃止の赤い目論見から創られている。

 裏を返せば、津田左右吉らにテロられて、歴史からバッサリ消された初期古代天皇の一群を、歴史通りに復活させるには、「邪馬台国」を正しく「やまとのくに」と訓むことが先決で絶対不可欠。「邪馬台国」を、九州であろうとどこであろうと、大和朝廷でないとすると、初期皇統史の約二百八十年間が一瞬でぶっ飛んで抹殺されてしまう。なぜなら、大和朝廷は、「邪馬台国」の滅亡後にできた政権となるからだ。

 「邪馬台国」の滅亡を西暦270年とすれば、この後に出現する大和朝廷は、第11代・垂仁天皇が初代天皇にならざるを得なくなる。このように、「邪馬台国=九州」説は、神武天皇から第十代の崇神天皇までも紙上テロルして皇統譜から消せる猛毒の劇薬。

 一方、「邪馬台国」を私の『神武天皇実在論』のように正しく「やまとのくに」と訓むと、神武天皇が一瞬にして実在し、その在位も西暦紀元元年前後に確定される。さらに、『魏志』倭人伝の女王・卑弥呼を第七代孝霊天皇の皇女・百襲姫に比定すると、その薨去は248年だから、孝霊天皇が二世紀最後の天皇なのが分かり、よって神武天皇が一世紀初頭の天皇なのが確定する。

 つまり、『魏志』倭人伝の「邪馬台国」を「やまとのくに」と正しく訓むだけで、かつ「女王」を百襲姫だと正しく比定するだけで、皇統史は記紀の通りとなる。このように、『魏志』倭人伝を日本最初に正しく解明した笠井新也こそ、真正の歴史家。笠井新也こそ記紀を“保守”して、皇統を護持した真正の日本国民である。

笠井新也の天才性を惜しんで、博士論文の執筆と公刊のため、法外な予算を渡した愛国文部官僚

 文部省には、かつて“立派な官僚”がいた。歴史改竄の犯罪の巣窟と化した古代史学界の異常な反・歴史の動きに歯止めをかけ、さらには真に突出した天才的な古代史学者の学問を世に残さんと、この愛国心旺盛な文部官僚は、「1947年に三千円、1948年に五千円」を笠井新也に直接給付した。購買力平価から現在価格に換算すると、この「八千円」は、優に一千万円を超える。

 この金額からして、「博士論文の研究・執筆費用+その間の生活費+完成した博士論文の出版費用」なのが分かる。笠井新也も、このことを知り、タイトル「邪馬台国及卑弥呼研究」の博士論文(1050枚)を書き上げている。論文博士の学位申請者は、この論文を印刷出版して提出するのが慣例。

 が、笠井の博士論文、文部省は京都帝大に提出するのを期待していたようだが、笠井は提出しなかった。印刷に付す金を、米など生活費に使ったからではないか。ために、この論文、今も笠井家に保存されたまま。唖然とする事態。

 戦後すぐは誰でも困窮していたから、給付金を米の代金に転用したのは目を瞑っても、生活に余裕が戻ったら、印刷をするのは当然。しかも息子・笠井倭人は大学教授。日本の古代史学界にとってかけがえのない“日本の知的宝”である笠井新也の博士論文「邪馬台国及卑弥呼研究」を出版するのは、息子として最低限の仕事ではないか。どうやら、この馬鹿息子、父親が天才的な古代史学者だと知らないようだ。

 ともかく、笠井新也の博士論文、誰か出版してほしい。それは、古代史学界の歴史学を一気に正常化するほど大変な価値があるもの。特に、天皇制廃止の政治手段と化した古代史学界の反歴史/嘘歴史を霊験あらたかに粉砕すること間違いなし。日本国の貢献すること大の出版物となろう。

(2023年6月4日記)

附記;前稿で書き忘れた重要問題。本ブログの読者は、以下を前稿に添付されたい

 『日本書紀』史観と『古事記』史観は、半ば真逆のような感じがしてならない。『日本書紀』は、初代・神武天皇から第41代・持統天皇へと、現代の我々と同じく、歴史を過去から現在へと、時間の流れに沿って記述している。一方、『古事記』では、初代・神武天皇から第23代・顕宗天皇までの全天皇が、神代の高天原の方向に、その龍顔を振り向かれているように感じてならない。

 この相違は、過去から現在に歴史が流れている『日本書紀』、各天皇の御代=「現在」を高天原=「過去」の中で再生して輝かさせている『古事記』と、言い換えてよかろう。これは、『古事記』が、バークの保守主義史観と近似する思想に立っているからではないだろうか。

 バークは、『フランス革命の省察』で、マグナ・カルタ(1215年)からエリザベス女王そしてコーク卿さらに権利章典(1689年)に至る“約五百年弱の英国歴史”を絶対規範として、ルソーとフランス革命を断罪した。これは、この五百年間の歴史=過去の方向に、バークが体を向けているからだ。つまりバークは、未来には後退りで歩んでいる。バークの後頭部には、もう二つの眼球が付いている。

 

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