筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
日大法学部教授(2012年当時)百地章は、日本会議ブックレット『女性宮家創設 ここが問題の本質だ!』(2012年)に、次の一文を書いている。
「GHQの圧力のもと、無理矢理、臣籍降下させられた旧十一宮家・・・」(13頁)。
百地章は、六流学者であるが故に、こんな大間違いを犯したのではない。日本の憲法学者は全員、IQがことのほか低く無知・無教養な上に、学的な良心を欠く。彼らは誰一人として、憲法ならびに天皇・皇族に関するGHQ占領行政の研究などしない。彼らは、共産党が完全支配する現代史学界が談合してデッチアゲる、嘘八百の定説をそのまま鵜呑みにする。百地章の大間違い「GHQが11宮家の臣籍降下を強制した」も、この典型。
GHQは、天皇・皇族の身位に対しては、極力、従来のままを基本とした。日本国の伝統や慣習に敬意を有していたからだ。これは、英国コーク卿やマグナ・カルタに従って、相続された権利や地位の擁護を国是とする米国の法思想でもある。
だから、昭和天皇が皇居から追われることなく、吹上御所にお住まれ続けたのは、この一つ。昭和天皇が東京裁判では不起訴となったのも、裁判への出廷で相続された天皇の聖性が棄損されることがあってはならぬと、GHQは最大限に配慮したからだ。これらからも、王制主義者マッカーサー元帥の、強い天皇尊崇と皇族への敬意がひしひしと伝わってくる。
「2・13GHQ憲法草案」第13条として、日本政府に手渡されたGHQの皇族の処遇は「従来通り」
マッカーサーは、皇族に関しても昭和天皇に準じ、その高貴性ができるだけ棄損されないように、細心の注意を払った。ホイットニー民政局長に日本国憲法の起草を命じたときに渡した「マッカーサー三原則」(1946年2月3日)第三項は、「貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者の一代以上には及ばない」とある(『日本国憲法制定の過程Ⅰ 原文と翻訳』、100頁)。その意味するところは、華族制度は改変する(=「一代限りで廃止する」「一代に限って存続を認める」)が、《皇族については現在の制度のまま世襲とし、GHQはこれには関与しない》ということ。
「マッカーサー元帥三原則」に従い、ホイットニー民政局長は2月4日から作業を開始(2月12日に終了)。「マッカーサー三原則」第三項は、そのまま「2・13GHQ憲法草案」第13条になり(備考)、日本政府に渡された(同上、274頁)。なおGHQ民政局は、皇室・皇族を「Imperial dynasty」と表現。
(備考)「マッカーサー三原則」第一項「天皇は元首である」の方は、「天皇は国民統合の象徴」に改変した。
皇族問題で、以上の基本情況を知れば、GHQが宮家数に関し干渉など断じてしなかったことなど明白なこと。「11宮家はGHQによって臣籍降下させられた」が捏造の嘘歴史なのは、想像以前に明らか。この事実は、GHQの資料すべてを捲っても関係者の証言すべてをかき集めても、11宮家に関する記述が一文字も発見できないことからも完全に証明されている。即ち、11宮家の臣籍降下は、日本側の内部犯行。論理的にも容易に結論できる。
昭和天皇やその側近を騙した犯人を現代史学界は決して割り出さなかった。その理由は何か
11宮家の臣籍降下が日本側の内部犯行だとすると、この犯人は、戦後しばらくの間は巷間で噂された加藤進・宮内次官だけに絞られる。が、この噂は1960年頃に自然的に消えた。1945~7年頃の宮内省関係者が、定年引退したからである。後は、学者の仕事になるのだが、加藤進に関する研究論文は、(私の2018年論文まで、七十三年間)異様・異常をきわめてゼロ本を記録した。
戦後日本の現代史学界は、共産党員以外に大学ポストを与えることは、まず絶対にあり得ない。ノンポリの秦郁彦ですら例外中の例外。反共保守の大学院生は、1950~60年代、相当数がいたが、一人残らず追放され、大学に残れた者は一名もいない。ために、学界を完全支配する共産党の意にそぐわない論文や批評を、日本の一般国民が目にすることは万が一にもない。日本の現代史学界は、ロシアと全く同一で、学問の自由は一㍉も存在しない。私が残している論文や著作は、ダイヤモンドやプラチナより稀少価値ははるかに高い。
このことは、1945年夏以降の日本の敗戦直後から、天皇制廃止で活躍した三人の共産主義者に対する非難や糾弾が「全く存在しない/全く許されなかった」事実に明からだろう。この三人とは、表1にリストした「津田左右吉、近衛文麿、加藤進」のこと。
表1;戦後すぐの天皇制廃止ワースト革命家三人を無罪放免した日本
|
日本の新聞・商業雑誌・学術論文・書籍 |
参考文献 |
津田左右吉「神武天皇から第九代開化天皇までは不在」論が、戦後すぐ、大キャンペーンされた。直木孝次郎らの暗躍もこれ。 |
坂本太郎やほか僅かな数の学者を除けば、津田左右吉を神格化して、彼の捏造歴史を礼讃するものばかり。古代天皇を紙上テロルすれば、現代の天皇制度の基盤を転覆させられる。坂本太郎は死没する直前(1980年代)、津田を1950年前後に叩いておくべきだったと猛省。 |
拙著『神武天皇実在論』第Ⅲ部第二章&第Ⅱ部第二章。
|
近衛文麿「退位」論 1945年1月~12月 |
先が予見できる近衛は、昭和天皇を戦勝国の軍事裁判で絞首刑にすべく、天皇を民間人にしておく方が確実だと「退位のススメ」を1945年1月から昭和天皇の周辺に流した。ルイ16世の「退位→ギロチン」を昭和天皇に再現する狙い。 |
拙著『徳仁〈新天皇〉陛下は最後の天皇』第六章。拙著『近衛文麿とルーズヴェルト』。 |
加藤進「11宮家の臣籍降下」謀略工作 1945年12月~47年10月 |
加藤進の天下一の悪行は、完全に隠蔽された。そして、全く関係しないGHQに責任転嫁された、対GHQ冤罪事件でもある。 |
拙著『徳仁〈新天皇〉陛下は最後の天皇』86~126頁。 |
この三名に関する共産党の偽情報宣伝のやり方は、多少の違いがある。“大噓つき小説家”津田左右吉については、「津田学説は正しい。津田は古代史を解明した日本一の大学者」との大宣伝がそのやり方。大東亜戦争の推進者で戦争“狂”「スターリンの犬」近衛文麿については、近衛は平和を欲していたと、紙不足で出版が困難な終戦直後から、真赤な嘘本を大量出版する宣伝方法。
加藤進に関しては、うんともすんとも音がしない、つまり言及ゼロ。加藤進の存在自体を闇の金庫にしまい込んで、加藤進の犯罪を完全隠蔽する偽情報工作。現代史学者で、この三名の犯罪を暴いたのは、戦後八十年になるが、私一人しかいない。
要するに、天皇制廃止に貢献した政治家・学者・官僚は美化されるか、その犯罪が無罪放免される。そればかりか、彼らの犯罪は完全に隠蔽される。日本の現代史学界には、学者の良心などからきし存在しない。仮にも歴史の真実を求める者がいたら、その呼吸は禁止され窒息死させられる。
安定的な天皇制維持の基盤を決定的に破壊した、“主犯”加藤進の犯罪「11宮家臣籍降下」
1947年10月、昭和天皇は前年11月29日にご決断された“11宮家の臣籍降下”を実行された。これは、「主犯が加藤進・宮内次官、従犯が大蔵省主計局」の犯罪で、一種の怪事件。なぜなら、“11宮家の臣籍降下”は、GHQは一㍉も関与しておらず、百%日本側が自主的になしたからだ。
拙著『徳仁〈新天皇〉陛下は最後の天皇』86~126頁に、「11宮家の臣籍降下」に関する、本邦唯一の学術論文が収録されている。仮にも日本国民ならば、この論文の精読をさぼってはならない。この論文の骨子を以下、掻い摘んで紹介する。
抜きん出た大嘘つきの才に長けた共産党員・加藤進(宮内省総務局長→宮内次官)は、1945年11月頃、昭和天皇を誑かす偽情報撒布シンジケート(犯罪組織)を完成させた。このシンジケートは、「GRU工作員で共産主義者の松前重義、(無意識の)GHQ情報〈ソ連への漏洩〉屋・安藤明(GHQ将校専用の高級娼婦館経営、小学校中退)、GHQ民間情報教育局CIE局長ダイク准将(米国共産党員)、その部下のフィッシャー陸軍大尉(米国共産党員)、素浪人・須知要塞、東宮侍従のコミュニスト黒木従達」らがメンバー。松前とダイクがいるから、「加藤進シンジケート」は、どうもソ連政府代表部のGRUかNKGBが所轄の下部組織のようだ。
上記メンバー以外の米国共産党員ソープ准将が、梨本宮を独断で(GHQ内部の手続きをとらず)A級戦犯容疑で“逮捕”した事件が1945年12月に発生した。この逮捕は、加藤進の依頼かも知れない。保守だった梨本宮は皇族会のリーダーで、梨本宮のいない皇族会がまとまることは難しかった。つまり、加藤進は、犯罪「11宮家の臣籍降下」を遂行するに、梨本宮の存在が邪魔で、その排除をソープに頼んだのである(推定)。加藤進とソープ准将は共産主義者同士、ソ連政府代表部が結びつけるのは朝飯前。なお、梨本宮の巣鴨拘置所収監は1945年12月12日、その釈放は翌年4月13日。
加藤進は晩年、「11宮家の臣籍降下は、俺様一人の功績」と自慢する回想記を遺した(『祖国と青年』1984年8月号)。この回想記から「11宮家の臣籍降下」にはGHQが一切かかわっていないことが、逆に判明する。加藤進が脚本・主演の主犯とすれば、「11宮家の臣籍降下」に関る他の様々な事実とも完全に符合。加藤進のこの自慢には誇張は全くなさそうだ。
「ダイク文書」を皇居に届けたのはヤクザの安藤明(ダイクは現れず)→ダイクが書いていない証拠
1945年12月31日、昭和天皇への忠義一筋の侍従次長・木下道雄は、東宮侍従の黒木従達(河上肇系の共産主義者)の紹介で、ヤクザ安藤明からCIE局長ダイク准将の私的文書を受け取った。ダイクから受け取ったのではない。これだけでも、この文書はダイクが書いたものでないのは明らかではないか。木下道雄とは、悪人を疑うことを知らない、スーパーお人よしで世間知らずの「いい人」。
しかも、次のABCのような「ダイク私的文書」は、日本政府全体にかかわる問題。宮内省単独の問題ではないし、天皇・皇族の一存で決定すべき問題でもない。当然、外務省を通じて文書の事実確認をすべきだし、幣原喜重郎首相に届けるべきものである。が、木下道雄は天皇・皇族だけで処理すべきと思い込んだ。木下道雄をこのように洗脳・誤導した者は、安藤明では無理だから、加藤進や松前重義らだろう。
【ダイク私的文書】 A、三直宮家を除き、他の11宮家は皇族の身位を剥奪する。 B、枢密院など天皇の直接機関は廃止する。 C、華族制度は廃止する。 |
ABCがマッカーサー元帥の意向とは大きく乖離することは、ダイク私的文書からわずか一ヶ月半後の2月13日に日本政府に渡されたGHQ憲法草案とは相違することで一目瞭然。木下道雄がダイク私的文書を外務省や首相の幣原にチェックしてもらわなかったのは、例えば、「そんなことをすれば昭和天皇が東京国際軍事法廷に起訴され処刑される」「マッカーサーから天皇制廃止で報復される」などの恐怖に駆られたからだろう。何らかの恐怖に怯えなければ、昭和天皇と皇族だけの問題で処理するという馬鹿げた判断などしない。これほどの恐怖を木下道雄に植えつけられるのは、やはり加藤進しかいない。
なお、昭和天皇は2月22日に、「2・13GHQ憲法草案」を手にされている。「天皇は元首」ではなかったが存続し日本国に君臨させるGHQの方針も(GHQ憲法第一条)、世襲皇族に関しては従来のまま(GHQ憲法第13条)も、昭和天皇はお知りになられた。この13条は、華族制度に関しては一代限り存続できるが、いっさいの政治権能を喪失するとしていた。後者は貴族院の廃止を意味したが、それでも華族制度に含まれた公家制度は一代に限り残置されることになっていた。
この“一代”公家制度ならば、廃止と異なって、GHQが去った後に世襲公家制度に戻せるので、2月22日時点、昭和天皇は安堵なされたようである。また、これらのことは、ダイク私的文書が何から何まで嘘だらけの偽造文書なのを明らかにした。なのに、昭和天皇はなぜか、「11宮家の皇籍離脱はやむをえない」との先入観(思い込み)から覚醒されることはなかった。加藤進の洗脳の強度がすさまじいレベルだったからだが、果たしてそれだけだろうか。
加藤進は新聞等を動員し、天皇の思い込み「11宮家の皇籍離脱」が是正する正常思考を妨害
洗脳だけでなく、加藤進が打ち出す、次から次の既成事実のキャンペーンによって、天皇・皇族が思考回路を正常化する余裕を失ったのが実情だろう。例えば、皇族十一名中の八名が反対しているのに、加藤進は、新聞に「皇族会は十一宮家の皇籍離脱を決定した」と真赤な嘘情報を「模範記事」で渡し報道させた(1946年9月1日付)。これ、俗にいう「新聞辞令」。新聞を通して加藤進は皇族に対し、「11宮家は皇籍を離脱せよ」を命令したのである。
しかも、加藤は、前日の8月31日、大蔵省主計局をして、来年度(1947年)の予算で、11宮家については9月をもって皇族費を打ち切ることを決定させた。大蔵省の幹部に共産党員がいたのである。大平正芳の先輩とまでは推定したが、まだ特定できていない。昭和天皇は、ついに1946年11月29日、「11宮家の皇籍離脱」をご決心なされた。2・26事件を粉砕された大賢帝・昭和天皇は、加藤進の叛乱(偽情報宣伝戦)には畏れながら敗北なされた。
加藤進は、1945年11月にシンジケートを創り、天皇・皇族騙しの“世紀の大策謀”「11宮家の皇籍離脱」を実行し、たった一年で大成功を手にした。1946年2月、“忠臣”寺崎英成が外務省から宮内省に異動してきた。侍従次長・木下道雄であれ昭和天皇であれ、この寺崎を通じダイク文書の信憑性をGHQに確認すべきであった。私は、宮廷がこの簡単な行為をしなかったミステークが悔しくてならない。
「皇族十一名のうち離脱賛成は二名、八名は反対」→加藤進の国会答弁「全員が離脱を希望」
11宮家の皇籍離脱の事が国民広くに知られていた1947年9月30日、加藤進は、衆議院予算委員会の答弁で、「11宮家の…ほとんど全部 皇族の列を離れる希望を表明された・・・」という大嘘を平然と陳述。実際には、皇籍離脱を了解したのは、河上肇系の共産党員・東久邇宮と白鳥敏夫系のGRU工作員・賀陽宮のお二方のみ。閑院宮や竹田宮など八名は強く反対を表明し、皇籍離脱にNO!を突き付けた。山階宮はご病気でお立場は不明。
が、嘘つき加藤進は、十一分の二を「ほとんど全部」に逆さ捏造。また、この答弁で、「離脱される」を、自分たちが実際に強行した“離脱させねばならない”を示唆する「離脱せらるべき」と、口が滑った箇所もある。もっと驚くのは、加藤進は、離脱に抵抗する皇族を「従え!」と命令口調で恫喝し続けたのに、この国会答弁では「われわれ宮内府の官僚は、皇族の皇籍離脱のご希望を一日も早く実現してあげるのが任務」と、自分たちの犯罪を糊塗し、さも忠臣であるかの演技をなしている。
“日本一の騙し屋”加藤進の対皇族への態度は傲岸不遜で、いつも皇族を目下に見下げていた。加藤は、まさに山縣有朋の再来だった。天皇・皇族の臣下であるのに、天皇・皇族の上だと考える日本人は、明治維新以降に叢生するようになった。「山縣有朋→2・26クーデタの革新将校→近衛文麿→8・14クーデタの阿南惟幾」は、この一つ。加藤進はこの系譜を継承し、「俺様は昭和天皇より偉いのだ」と自惚れていた。加藤進の異様な傲岸さについては、GHQ民政局の軍人や英米のジャーナリスト達が書き残している。
補記;2・13GHQ憲法草案をさらに極左革命憲法に改造したコミュニスト佐藤達夫
GHQ総司令官のマッカーサー元帥は親日で王制主義者。ために、その押し付け憲法の起草に関し1946年2月4日にホイットニー民政局長に命じた三原則は、日本によって好ましいものが混ざっていた。が、マッカーサー三原則の第一項「天皇は、日本国の元首の地位にある」は、ホ民政局長が左に旋回させた。2・13GHQ憲法では、「元首」ではなく「象徴」に置換していたからである。
同様に、マッカーサー三原則の第三項「貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない」「華族の地位は如何なる政治権能も有さない」については、変更は全くなく、そのままGHQ憲法第13条にして日本側に手渡した。それは、「世襲皇族」は今まで通りということだし、「皇族以外の貴族、すなわち華族」の制度は、一代に限り維持されるというもの。
ところが、日本側の方が、このマ三原則第三項を完全に抹殺した。まず、皇族問題は憲法には馴染まないと削除。これは、皇室典範の事項でもあるから、良しとしよう。
しかし、公家を含む華族制度については、GHQが「一代ならば現状通りに維持してよい」しているのに、日本側こそがバッサリと削った。
華族制度になじまない公家に関して、華族とすること自体がおかしいのであって、公家と公家以外の華族とを分離して、憲法には世襲公家制度は現状通りに維持される旨を条文化すべきであったろう。そして、この公家の条文は天皇条項の第一条/第二条に続く第三条にすれば済む。
なお、井上毅は明治時代だが華族制度の創設に反対意見を述べている。私も同じ意見。華族制度は、皇室の藩屏たる公家を埋没させるので、皇室を尊崇する日本には基本的に馴染まない。
(備考)マッカーサー三原則は『日本国憲法制定の過程Ⅰ』98~100頁、2・13GHQ憲法草案は同266~303頁。
マの「華族制度は一代のみ認める」を、「華族制度も公家制度も認めない」に極左化した佐藤達夫
しかし、日本側の首席交渉官・佐藤達夫(内閣法制局第一部長)は、独断で「華族の制度は廃止する」に変更した。これ、ギロチンの殺人祭りだったフランス革命のジャコバン党を模倣したのである。GHQ側の交渉窓口の主任はケーディス大佐。穏健な共産主義者だが、共産主義者である以上、日本側からの華族制度の廃止は大歓迎で即座にOK。3月5日の早朝には日米の合意となった。
なお、マッカーサー三原則の変更は、マッカーサーは雲の上の人だから、GHQ内部だけでは通常は困難。しかし、「日本側のたっての要望です」と言えばマッカーサーでも飲まざるをえない。ケーディスは共産主義者同士として意気投合した佐藤達夫の案を、ホイットニーを通じマッカーサーの了解を取り付けた。3月4日の徹夜での日米擦り合わせを含め、その後の修正交渉でまとまった4月13日草案を見ると、第13条は佐藤達夫の要望通りにマッカーサー三原則第三項の真逆になっていた。
「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」(『日本国憲法成立史 第三巻』、338頁)。
条文が「華族の制度を認めない」なら、爵位のない公家はこの華族に含まれないとの解釈が成り立つ。しかし、文言「その他の貴族の制度」があるので、公家にもこの禁止条項は適用される。佐藤達夫は独断で「公家制度つぶし→天皇制廃止」を狙って、マッカーサー三原則第三項の転倒をケーディス大佐に申し出たのである(3月4日)。ケーディスがこれを直ちに快諾したことは、翌3月5日に幣原総理が昭和天皇にそう内奏していることから明らか。だから昭和天皇は、「堂上公家だけでも残すわけにはいかないか」と、幣原にもう一度の交渉をやんわりとお命じなられたのだ(3月5日)。
「華族制度は認めない」は佐藤達夫のGHQへの提案。が、佐藤は「米国が提案してきた」と嘘報告
芦田均日記(注1)が示す、内奏する幣原総理とご下問する昭和天皇との3・5会話から、佐藤達夫は、3月4日のケーディス大佐らとの折衝で、佐藤が提案したのを米国側が命令的に提案してきたと、閣議に嘘(180度逆)を報告したことがわかる。つまり、GHQ憲法草案の第13条「華族制度は一代に限り認める」を、米国側が「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」に修正してきた、と。
(注1)『芦田均日記』第一巻、90頁。この記録によると、昭和天皇のご意向に沿いたく、幣原は民政局と再折衝すべく、閣議で了解を取ろうとしたが、共産党員の岩田宙造・司法大臣に猛反対され断念している。岩田を閣僚にしたのは、河上肇系の共産党員である前総理の東久邇宮。
なお、交渉官は公家つぶしに暴走する佐藤達夫本人だから、再折衝しても「叶いませんでした」と嘘の報告をするはず。交渉官を外務省の外交官に変えるか、外務省の人間を佐藤達夫と抱き合わせにして、決して佐藤達夫一人に行かせない措置を講じなければならない情況であった。
狡猾な佐藤達夫は、マ三原則第三項のうち「華族の身位(爵位の使用)について、その生存中に限り、認める」だけを第97条として残していた(注2)。が、第13条の条文は「華族の制度は認めない」だから、実におかしな話。現実に、衆議院での審議過程で削除が提案され(上林山栄吉議員ほか)、この削除が了承された。佐藤としては想定内のことで、内心では呵々と笑い転げただろう。
(注2) 『日本国憲法成立史 第三巻』、347頁。
(2025年5月20日記)