筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
(本稿は、2019年9月9日にupした「満蒙開拓団の文献解題」を全面的に書き直したもの。旧稿を保存されている方は、差し替えをお願いします)
2022年2月24日、ロシアはウクライナ侵略を開始。ロシア軍は2月27日、首都キーウの占領を目指し、キーウに隣接する町ブチャに侵攻。ウクライナ軍が奪還する3月30日まで丸一ヶ月、ロシア軍はブチャでやりたい放題の住民虐殺を行った。それが世界史に残った“ブチャの虐殺 Bucha Massacre”。ブチャ市だけで410名、周辺の村々の犠牲者を合わせると1400名以上のウクライナ人が虐殺された。
「ブチャの虐殺は、明日の北海道の虐殺」と戦慄しなかった近未来に盲目な日本人
日本のTVも、見渡す限りに民間人の遺体が散乱する、ブチャ市中心部の並木通りの陰惨な光景を映し出した。強姦された裸の女性数名の遺体が焼かれていたり、子どもを含む十八名の遺体では耳を削がれていたり歯を抜かれていたり、拷問の凄まじさを語る陰惨・残虐な情況が次から次に報道された。この“ブチャの虐殺”には、日頃、脳天気な日本人も相当数が怒りに震えた。そして多くの日本人は、残虐・残虐なロシア民族文化を初めて知った。
しかし、ブチャの虐殺は、明日の北海道で起きる、“明日は我が身”に降りかかる事態だと感得した日本人は一人もいない。ブチャの虐殺は、日本人にとってどこか遠くの国の不幸な出来事であり、日本とは無縁の悲しい事件に過ぎなかった。
同様に、ロシア軍占領によるブチャの酸鼻な陰惨が報道された時、祖父・祖母の時代に当る、1945年8月~46年4月の、主に邦人婦女子35万人前後が惨殺された満洲の歴史を思い出した日本人は、私を除いて一人もいない。日本では、共産党によって、(沖縄戦/ヒロシマ・ナガサキ/東京空襲など)反米闘争用以外の大東亜戦争に関する歴史が徹底的に検閲・隠蔽・排除された。その結果、“大東亜戦争に関する無知無学や転倒史観”が、日本人の通常の思惟となった。日本人は“悪魔のカルト宗教団体”共産党により、自国の戦争史を根底から剥奪され、“歴史無き劣等民族”に転落してしまっている。
日本人の戦争史に関する無知蒙昧は白痴以下。先述の《ブチャ》から退却するロシア軍は、相当数のウクライナの子供たちを誘拐して連れ去った。この報道を聞いて、「八百年前の十三世紀に起きた、対馬における蒙古侵略軍の子供誘拐と同じだ」と喝破した日本人は一人もいなかった。
チンギス・カンが創った蒙古帝国の軍勢は、侵略地の子供を拉致誘拐するのが常。蒙古帝国のこの文化を嫡統的に継承するロシアのプーチンは、対馬の日本人の子どもたちを誘拐した十三世紀の蒙古軍と同じ行動を、ウクライナの子供たちにしたのである。そもそも日本人は、歴史のイロハ──「ロシア帝国はキプチャク汗国を正統に継ぐ蒙古帝国を構成する一国家としてその産声を上げた」「イワン雷帝は八分の七がモンゴル人の血で、ロシア人の血は父方の僅か八分の一」「イワン雷帝は、内廷ではモンゴル服を着、日常はモンゴル語」──を全く知らない。
以下、1945~6年の満洲の“地獄の惨状”の概況を少し触れる。が、これ、「満洲1945~6年」の歴史を語るのが目的ではない。これからの北海道や新潟県で起きる事態を啓蒙喚起すべく、北海道や新潟の近未来と、新潟県が突破された後に、東京で起きる惨状を活写するものである。
厳然たる歴史「満洲一般邦人の“地獄”」を研究させず、「学術研究論文ゼロ」は共産党の仕業‼
満洲問題で、二つの最重要な歴史事実は、「ソ連軍の蛮行」&「ソ連軍と通謀する関東軍」。この満洲歴史学の二大テーマに対し、大学では、日本共産党が戦後八十年間にわたり暴力団を超える過激さで厳格に禁止・妨害した。ために、学術的な良心ある専門書が一冊もない。この二大テーマに関わる市井の体験者の回想記は多いが、それらでは正確な歴史全体を掴むことは難しい。
我々が今、手にする大学教員たちの本は、共産党員・共産主義者が執筆したものばかりで、相当注意しても危険極まりない。『満洲国史』『満蒙終戦史』ですら、この傾向が顕著。実際に満洲一般邦人の阿鼻叫喚の地獄」に関する中立公正な概説入門書と言えば、若槻泰雄『戦後引揚げの記録』(時事通信社)たった一冊。このほか、井上卓弥『満洲難民』や高橋健男『満州開拓民悲史』など、役に立つ本は数冊あるが、学術的な専門書とは言えない。
さて、重要な歴史事実「ソ連軍の蛮行」「ソ連軍と通謀する関東軍」に関する、良心ある学術的な専門書が一冊もない状態にした、共産党の“学界検閲”の目的は二つ。第一の狙いは、満洲で遂行されたロシアの数々の悪行を日本人が知るのを阻み、日本に当然に捲き起こる「反ソ反共」イデオロギー形成の未然阻止。これは、共産党員・共産主義者の悪行を“隠蔽”することでもあった。
が、それだけでなく、第二の狙いもある。これから日本で起きる“第二の阿鼻叫喚の地獄”を日本人が事前察知し対策し防止することがないよう、日本国民をして、ロシアと共産主義者の蛮行を忘却させること。共産党やロシアは、同じ犯罪を何度も繰り返す凶悪犯罪者。両者が“第二の満洲”を日本列島上で起こすのは火を見るより明らか。が、今日の日本人は、眠りこけている痴呆老人。
1、満洲一般邦人に対する、“悪魔ロシア”の無差別“殺戮”
満洲におけるロシアの蛮行は、次のように「一般邦人に対する無差別“殺戮”とレイプと掠奪」及び「産業掠奪・鉄道レール掠奪/医療物品・医者・看護婦の掠奪」に分類すると、よりはっきりする。そして、2022年2月に侵略を開始した、ロシアのウクライナに対する蛮行となんと酷似している事か、と驚くことになる。ロシアは、チンギス・カンの十三世紀蒙古帝国を継承するその末裔。しかも、十三世紀の蒙古帝国のままで、変化していない。
ロシア軍の空前絶後の蛮行「満洲における日本人大量殺戮」を、これからの一般日本人は強く再認識すべきである。この方法として、葛根廟事件/佐渡開拓団跡事件/麻山事件/中川村開拓団事件/瑞穂村開拓団集団自決事件など、実際に起きた歴史に精通することは当然だろう。
葛根廟事件については、大櫛戊辰『殺戮の草原 葛根廟事件の証言』(東葛商工新聞社)や大島満吉『流れ星のかなた』など、回想記が刊行されている。麻山事件の概説書は、1983年に草思社が出版。一方、佐渡開拓団跡事件は、独立した本がない。これは私の猛省。1981~4年頃、満洲引揚者の方々三十名以上、1945~6年の満洲の惨状に関する専門書を出版して欲しいと私に接触してきた時、引揚者の協力の下、佐渡開拓団跡事件の概要書だけは出版しておくべきだった。
満洲での陰惨な大量殺戮はソ連軍や支那人暴民が行ったが、その被害者日本人は、葛根廟事件を除き、開拓農民たちが三割近くを占める。これら事件を五十件ほど例示すべきだが、紙幅の関係で、ほんの数件に留める。
● 佐渡開拓団が去った後に、この開拓団跡に別の開拓農民約三千人が避難していた。この状態で、8月26日、偶然にロシアの軽機関銃二基が手に入ったこれら開拓農民三千人に対し、正規のソ連軍部隊千二百人が、迫撃砲やマシンガンで襲撃した。ロシア軍のこれら日本人に対する殺しは、動けぬ負傷者や子供を集め手榴弾で爆殺するなど陰惨を極めた。この一日だけで日本人1464人がジェノサイドされた(注1)。
● 麻山事件については、(共産党員にも、昔は良心的な者がいたのかと驚くが)中村雪子(共産党員)『麻山事件』(注2)の記録がある。また、高橋健男『満州開拓民悲史』第四章は、麻山事件の概要を簡潔にまとめている。それらに拠れば、1945年8月12日、満洲東部の麻山で、避難“逃避行”中のハタホ開拓団約一千名に、戦車隊も繰り出した正規のソ連軍が襲い掛かったのである。しかも、このハタホ開拓民には、武装した満洲国治安軍“叛乱部隊”が襲撃中だった。まさに「前門の虎、後門の狼」情況。
結局、この約一千名の日本人は集団自決を選び、男性が斬り込む直前、自分たちの家族・婦女子412名を銃剣やピストルで殺した(注3)。興奮状態の短慮な行動だが、関東軍は「避難命令なし」「戦況報告なし」で一般日本人を“皆殺し”する方針だったから、当然に起きるべくして起きる悲劇だった。
● 私の名前と同じなので、私は1981年、慰霊碑に参拝に詣でたいと思った(秩父の荒川町青雲寺境内)。それから四十年がすぎた今も果たしていない。中川村事件に、何となく私が後ろめたく感じている理由はこれ。埼玉県の秩父の寒村「中川村」から満洲の開拓農民になったのは607名(正確には613名)。日本に帰還できたのは188名。七割が死亡(注4)。「小八浪」は満洲の地名。
中川村の農民の悲劇は、支那人“匪賊”から何度も本格的な襲撃を受け、ただ逃げ回ることで精一杯だったこと。彼らが玉音放送を知ったのは8月31日。関東軍がロシア兵や支那・暴民を使って日本人を“皆殺し”する方針だったことは、開拓農民が「避難するorしない」判断をするに最重要な「戦況」を秘匿して知らせない“国軍の大犯罪”を、関東軍が敢行した事実で一目瞭然。
● 北安省に入植した(22県からの出身者で構成された)瑞穂村開拓団は、1945年8月9日時点は1056人。が、周辺支那人からの襲撃や金品要求に絶望し、9月17日未明、半分の495人が自決。その後も地獄の連続で、1946年5月、ハルビンで生存が確認されたものは僅か71人。93%が死亡した(注5)。しかも出身県がばらばらのため、自決後の残り半分の逃避行の状況が正確には伝わっていない。外国への移住では、血縁と地縁を重視しなくてはならない教訓を遺してくれている。
● 集団自決で最も陰惨だった一つに、東京荏原郷開拓団がある。日本に帰還した生存者は二割。1944年末には1143人いた団員は、屈強な男性が179人も徴兵され、8月9日には964人になっていた。東京荏原郷開拓団は、最終的に開拓地を棄て避難を決行。が、そこを周辺の支那人暴民が襲った。しかも、この支那暴民の背後にはソ連の大量の戦車部隊が展開していた。
「集団自決に走る者が半分、強行脱出組が半分」になった。が、後者は戦闘能力がある男性が半分になったのだから、強行脱出は初めから無理な話。結局、自決するか殺害された。日本に帰国したのは奇跡的に足立守三ら240人で二割(注6)。
● 玉音放送から二日後1945年8月17日午後8時頃、来民(くたみ)開拓団は、たった一人「宮本貞喜」を除き、276名全員が、襲撃する支那暴民と戦闘しつつ集団自決した。武士団のような見事な最期だった。来民開拓団のミステークは、支那人警官の罠と嘘に気付かず、支那人側に武器「八式小銃が十丁、弾が一千発」を渡したこと(注7)。武器を渡していなければ、宮本を入れて計277名もいるから、33km(徒歩一日行程)しか離れていない満鉄の駅「陶頼昭」に安全に到達している。
他の開拓団でも、武器を渡さなかった場合、生存率は鰻登りに高くなっている。嘘つき支那人(漢族)の言葉を信じるなど、烏滸の沙汰。ウィグル人は今、殺され放題で民族死滅の直前。永年、ウィグル人が、非武装であり続けたことも、この原因。
以上の六事例ぐらいを知った上で、角田房子『墓標なき八万の死者』(番町書房)を読むと、誰も勇んで満洲に移民したわけでもない、国策への愛国心的な協力で満洲開拓にはせ参じた開拓農民の悲劇が万感胸をよぎる。私は、満洲移民を日本は1905~25年の二十年間に限って全力を挙げ推進し、しかし、支那人にナショナリズムが生まれ、満洲の良質な未開墾地がほぼなくなった1928年の直前の1925年をもって完全中止すべきだった、が持論。
タイミングが三十年もずれた1934~6年からの満洲開拓農民の移民政策とは狂愚の塊で、憤りが先に立つ。特に“マルクス主義のペテン語”「五族協和」を聞くと、怒りで脳内が大爆発する。
しかも、満蒙開拓団は、“マルクス教徒の気狂い”加藤完治が、スターリンのコルホーズを模倣したもの。共産主義思想の「共同生産」の満洲での実験が、満蒙開拓団だった。実際にも“スターリン崇拝の権化”加藤完治は、満蒙開拓団の農民をスターリンのモルモットと見做していた。日本人開拓農民が、スターリンのソ連軍に殺戮されるのは、加藤完治にとって至上の至福だったようだ。が、戦後日本は、GHQに反共を教わりながら、真赤だった戦前日本に拘泥し、加藤完治を絞首刑に処しなかった。日本民族は、1930年代、根底から赤い劣等民族に自己改造していた。
それはともかく、以下、満蒙開拓団以外の満洲一般邦人の惨憺たる惨状に少し触れておく。但し、これらは、葛根廟事件を除けば集団ではない。個人の悲劇の範疇に括られる。個人であるため、記録がほとんどない。政府は戦後、満洲引揚者の生き残りから証言を収集すべきであった。
ロシア民族特有な“殺人ごっこの遊び”だった葛根廟事件
開拓農民でない悲劇の葛根廟事件とは、興安街に住んでいた日本人避難民が蒙った遭難事件のこと。この避難に当たり、当地の日本人は、千二百人の一班と千三百人の二班に分かれた。地獄の惨劇は、この第二班に起きた。尚、第三班は近隣の開拓農民である東京荏原郷開拓団(964名中、生存者1名)と仁義仏立講開拓団(680人中、生存者20人)の千六百人を超える大集団。
これらのうち、第二班の8月14日の葛根廟事件、第三班の8月17日の東京荏原郷開拓団事件、第三班の8月25日の仁義仏立講開拓団事件を、「興安省における三大遭難事件」という。
しかも、第一班と第二班は、絵に画いたような「天国と地獄は紙一重」を演じた。一班は8月10日に出発。列車は運行しており無事に新京に到着した。一方、11日に出発予定だった第二班は、関東軍の部隊が逃げる時に自分たちのトラックや馬車を徴発してしまったので、老人や子供用のそれが無く右往左往するうち、出発が8月14日早朝になった。
出発が三日間も遅れたことが命取りになった。関東軍は8月13日をもって鉄道運行を止めたからだ。結果、第二班は、ソ連軍戦車十四輌とトラック二十台に乗る歩兵による“殺し快楽の殺戮ごっこ”に遭遇し、千三百人のうち千百八十人(91%)が殺された。日本に帰還できたのは9%の百二十名。この生存者の一人、17歳の少年だった大櫛戊辰は、回想記『殺戮の草原』を出版(注8)。
ロシア軍は戦車の機関銃で避難民を撃ち続け、倒れたor逃げ遅れた避難民をトラックから降りたロシア兵士が小銃で撃ちまくり、また銃剣で刺して回った。この葛根廟事件が正確に日本で記録されたのは、これを目撃していた日本人兵士が十七名もいたことも大きい。第107師団の伝令兵三名と関東軍二〇九部隊の斥候兵14名。
彼らは隠れた場所で傍観。それだけでなく、ソ連軍部隊が去った後、救助をしなかった。彼らは襲撃直前の退避誘導や襲撃後の生存者“救護”はできたのに、しなかった。関東軍参謀部から「一般邦人は皆殺し! 少なくとも助けるな!」が厳しく命令されていたのは、間違いなかろう。
もう一度言う。関東軍参謀部は、これら斥候兵や伝令兵の報告を受けながら、現地部隊に一般邦人の救出・報復・救急を命令しなかったのは、瀬島龍三や秦彦三郎の関東軍が、侵略ロシア軍の一味だったからだ。日本人が阿鼻叫喚で殺される光景こそ、関東軍の中枢が待ち望んだものだった。邦人保護権の履行義務を課せられている関東軍の、国際法違反に当たるこの暴虐な行為を、決して看過してはいけない。
現在の日本人に「移民・支那人を全員、国外退去させよ」と警告する、宮尾登美子の『朱夏』
プロの小説家が回想した満洲「体験」記と言えば、藤原てい『流れる星は生きている』と宮尾登美子『朱夏』。この二冊以外に、他の文学者の作品(私の調査が不十分だからかも知れないが)ないようだ。藤原ていと宮尾登美子は、ロシア兵からも支那暴民からもレイプされなかった。この奇蹟が無ければ、体験記は書けない。誰も、自分の犯罪被害を早く忘れたいと思っても、記録して残そうとは思わない。他にインテリ女性は相当数いただろうが、レイプされたが故に書かなかった、と考えられる。
宮尾登美子は、葫蘆島から佐世保に帰還した。佐世保も博多と同じ九大医学部付属病院の引揚船医療チームが派遣されており、引揚女性の掻把と梅毒など性病の治療にあたった。『朱夏』は、引揚げた女性一人一人を面談するこの医療チームの婦長が、宮尾登美子の自己申告「レイプされなかった」を疑っているのが描写されている(注9)。
10歳から30歳までの日本人女性でレイプされた者(レイプされ殺された者)は、私は97%と推定。だから婦長の疑問は、当時の常識。レイプされなかった宮尾登美子の幸運は七億円宝くじに五回連続してあったような確率。なお、私は、宮尾「自伝」のこの箇所の記述から、「報国農場」の開拓農民の女性に対するロシア兵のレイプはひどく、「ほとんどが梅毒に罹患」したのを知った。
なお、『朱夏』は、宮尾が支那人暴民に襲われた時の情景も描いている(注9、294~9頁)。近所の支那人がその家の竈の中に宮尾とその娘を隠してくれたお蔭で、惨殺されることから逃れている。宮尾自身の家は襲われ、家財はことごとく盗られたとあるから、自分の家に居たら、宮尾は生存していない。宮尾登美子は神様に特別に可愛がられている。
(蛇足) ペテン師・北野憲二(木こり、小学校卒)は、デッチアゲ嘘話「牡丹江の富裕層六百五十人の日本人婦女子が、あり得ないコース《新京→吉林》経由で《通化→平壌》に向かう途次、この列車内に闖入した支那人暴民に襲われ、大規模レイプ事件になった。これを小山克(しやうさんかつ)事件という」を出版した。驚くことに、この法螺話を本当の話だと思っている日本人がかなりいる。
その奇怪なタイトル『満州国皇帝の通化落ち』を見れば、この話がトンデモ本だと直ぐ判るだろに。皇帝溥儀は平壌から航空機で日本に亡命するため列車で平壌を目指していた。新京から通化に宮廷を避難させようとしたのではない。また、この書全体が、耳かじりで得た満洲の諸事件のパッチワーク。共産党員・吉田清治『私の戦争犯罪』とそっくり。日本共産党が専横する“嘘情報拡散器”「日本版wiki」は、このトンデモ創作「小山克事件」を、史実だと詐称・嘘宣伝している。
2、日本人に対し、際限なきレイプ/レイプ殺人/掠奪のし放題だったロシア軍
1945年8月~46年4月の満洲で、ソ連軍のロシア人将兵の日本人女性へのレイプとレイプ殺人は、想像を超える地獄のレベル。レイプされた十歳以上の日本女性は、三十万人を下ることはないだろう。そればかりか、死なない限り解放されない無限レイプで殺されるレイプ殺人は、ロシアの民族文化。このレイプ殺人で殺害された日本人女性は、およそ三万人か。
私が高校一年生の夏(十五歳)、博多港の波止場でクレーンを観察している時、五十歳ほどの産婦人科医(九大医学部卒)が声をかけてきた。どこに進学するのかと聞いたので、「東大文Ⅰ(理Ⅰではない)」と答えたら、うちに来ないかと誘われた。もう六十年前の話だから、はっきりしないが、病院ではなく、たぶん自宅の方だったように思う。
六十年以上が経った今、覚えている彼の話は、次の二つ。「葫蘆島から引き揚げてきた日本人女性で、十歳以上でレイプされていない者は一人もいなかった」「自分は掻把を担当した。一隻の引揚船から降りた女性の掻把手術後の○○が、(臨時診療所を仮設した博多港の桟橋に)二山もできた」。○○は伏字でなく、単純に私が思い出せないだけ。
この時、私の頭の中で浮かんださまざまの事柄のうち、今思い出すのは二つ。「この医師はなぜ、この話を私にするのか」「そんな○○を二山も、数日間、桟橋に放置したら、臭いは凄いし、伝染病が発生する心配はなかったのか」。
満洲でのロシア兵による(レイプではなく)レイプ殺人は、その後、高校・大学時代、随分と聞いた。が、活字の記録物が余りに少ない。文字記録は、敦化「日満パルプ」事件と方正(ほうまさ)収容所から若い娘460名が拉致され還ってこなかった事件の二つぐらい。人間は被害者になると語りたくない/記録したくない心理によるのだろう。
共産党フェミニズムでロシア兵の強姦致死を擁護する“赤い魔本”『ソ連兵へ差し出された娘たち』
この問題を考察する前に、日本国政府からも自国軍隊「関東軍」からも棄民され、運と勇気と知恵で命からがら満洲から引揚げた者たちを愚弄する、人間の血が流れていない“非・人間”が書いた悪魔本『ソ連兵へ差し出された娘たち』(注10)に触れておこう。まず、“世紀の毒書”『ソ連兵へ差し出された娘たち』には、共産党流フェミニズムが暴発している。歴史事実の核心をあらん限りに歪曲する共産革命アジばかり。その非学問のひどさは、嘔吐を催すレベル。
a「満洲史、…男性引揚者の話が多い。男性と比べると女性の満洲体験は、取り上げられにくいのだ」(307頁)。
b「敗戦後、逃避行や難民生活を強いられた者は、女性が大半。それなのに、日本の満洲史は男性から見たものばかり」(注10、308頁)。
これ、百八十度に逆。敗戦後の満洲史は、共産党の命令で、男性の苦難史を徹底的に抹殺した。シベリアへの強制拉致・強制労働百七万人は、男性ではないか。うち六十万人が殺されたとの数字確定作業をしたのは、私とチェーホフのロシア文学者・阿部軍治のたった二人だけ。戦後、ソ連史の学者は東大を含め数十名いるが、一名もシベリア抑留の日本人男性の研究をしなかった。
シベリアに拉致連行された満洲の一般邦人男性の数と帰還できた数は、満洲研究で絶対に欠くことができないが、これに関する学術論文は一本もない。評論すら一本もない。二十~二十五万人の「在満」日本人男性がシベリアに連れ込まれたと推定できるのに、確定数字を割り出せない。また、帰還できたのが数千人はいるのは、およそ見当がつく。しかし、これに取り組んでいる私は、その数字をおおざっぱにもまだ確定できないでいる。先行研究が皆無という異常が原因。
(備考)在満洲の日本人医者と看護婦が五千人ほど、ベリア内務省が所管する強制重労働収容所ではなく、極東ソ連軍の軍事基地(シベリア)に強制連行された。二百人前後の看護婦が帰還している記録があるくらいで、残りがどうなったがさっぱりわからない。この「五千人」も仮数字。大まかであれその人数をほぼ確定数字にするのはロシア現代史学者の職責だろう。なのに、この研究は、一切なされていない。
戦後満洲史/満洲引揚史は、男性“抹殺”が基調。事実は事実のままに正しく観るのが、客観性重視の学問の視点。が、学問を一度もしたことがない無知蒙昧な朝鮮人・平井美帆ごときが、困難を極める満洲“戦後史”など、あと三百年やっても一行も書くことはできない。
共産党フェミニズム狂の平井美帆はまた、「満洲における戦時性暴力を書くに当り、現代を生きる男たちの無自覚さを指摘・・・」(注10、319頁)というが、ロシア将兵のレイプ殺人に一言も言及しない。平井美帆の《満洲における戦時性暴力》とは、レストランで料金先払いをさせて、料理を出さない詐欺店長と同じ言い草。共産党員の大嘘は底なし。殺人鬼に似ている。
そもそも、『ソ連兵へ差し出された娘たち』がルポした開拓団は、集団自決も餓死・伝染病死も戦死もほとんどなく、無事に生還した最幸運な黒川開拓団。性接待に駆り出された十代の女性十五名の悲劇は深く同情されるべきだが、他の開拓団の大量虐殺や大量死亡を直視すれば、黒川開拓団全員の命を救った尊い自己犠牲だったのは事実。これを転倒するとは、非・人間の所業。
しかも、1982年に建立した岐阜県にある「乙女の碑」は、奇々怪々。なぜなら、それは大きな石碑「訪中墓参記念」の脇の付け足し。心底から追悼するなら、乙女の碑をこんな粗末には建立しない。「訪中墓参記念」ごときで巨大な記念石碑を建立するなど、熱烈な毛沢東崇拝の共産主義者でない限り、万が一にもしない。「乙女の碑」は、共産党の革命運動用の偽装崇拝物なのか。
敦化事件は満洲でのロシア将兵によるレイプ犯罪の典型。が、日本は、学校では決して教えない
満洲ロシア占領軍の日本人女性への大規模レイプ犯罪事件について、満洲戦後史の専門家が最初に読むのは、日本の私企業「日満パルプ」(王子製紙の子会社)の女子社員/社員妻たちが蒙った惨劇。吉岡幾三のエセー「トンホア(敦化)の赤い壁」がそれ(注11)。
ソ連軍はポツダム宣言に違反して停戦せず日本側を攻撃し続けた。ならば関東軍は、国際法に従い、停戦する必要は全くなかった。しかし、瀬島龍三は8月19日、ジャリコーワでソ連軍と武装解除の協定に署名。敦化の関東軍守備隊は、これをもって瓦解。8月22日、ソ連軍は敦化に進駐。
ソ連軍は直ちに男性社員を十km離れた湿地帯に連行し、ここに放置。次に、女性社員と社員の妻たち約170名を独身寮に集め、二十人ごとのグループに分け、各部屋に閉じ込めた。そこに、毎晩、数十名、数百名のロシア兵が押しかけてレイプのし放題。このレイプ犯罪の六日目の8月27日未明、ある三十名ほどのグループが青酸カリで集団自決。「二十三名が即死、途中で吐き出して量が少なかったのか五名が息を吹き返す」事件が起きた。これが、《敦化「日満パルプ」レイプ事件》。
ロシアの女狩りは主にトラック。これを“済州島の嘘話”に借用したのが日本共産党員・吉田清治
満洲でロシア軍は、レイプする日本人女性を“狩る”時、多くはマンドリン(機関銃)で脅迫するか、トラックに白い布を靡かせて襲った。“白い布”は、《武力攻撃はしない! 代わりに、女を寄越せ!》のロシア軍の合図。つまり、日本人女性を見つけると、ロシア人は手当たり次第に、トラックに投げ入れた。
一例を挙げる。東満洲に位置する方正収容所には、ある記録によると、時期不明だが、開拓民が8640人いた。うち、餓死・凍死・病死した者2360人。支那人の妻になった者2300人、ハルビンに脱出した者1200人。脱走した(無断で突然消えた)者1200人。ロシア軍部隊がトラックでやってきて強制連行した若い女性460人、・・・。この460人は、一人も還ってこなかった(注12)。レイプされ続けて死んだのである。
満洲ロシア兵のトラック“女狩り”を、自分のデッチアゲ小説に採り入れたのが、狂信的共産党員の吉田清治。吉田のデッチアゲ小説が『私の戦争犯罪──朝鮮人強制連行』(注13、1983年、107頁)。彼の嘘歴史は、ソ連のアンドロポフ書記長が、宮本賢治・共産党委員長に命令し捏造させたと考えられる。アフガン侵攻後のソ連封じ込めで西側同盟を構築したレーガン大統領に対抗して、日韓分断を図るべく、KGB第一総局と日本共産党本部が考案した共同作品のようだ。実在する人物「吉田清治」の名前があるが、党本部への名義貸し。無学無教養な吉田清治には書けない。
私が吉田の「済州島で陸軍が女狩りをした」が真赤な嘘と直ぐ見抜いたのは、済州島史を知っていたからではなく、彼が「俺様は、山口県労務報国会の動員部長だった」(注13、3頁)の経歴詐称から。このポストには、県庁の上級官吏だけしか就けない。民間人が就くことは万が一にもありえない。
ロシア文化“侵略地レイプ”を、学校で教育しないのは、これから北海道で繰り返させるためだ!
私は1980年代前半、満洲の高等女学校の生徒がほとんど帰還していないことに気付き、葫蘆島から帰還した105万人の在満一般邦人の写真を集めてチェックしたことがある。佐世保港でも博多港でも、高等女学校の生徒が映った写真は一枚もなかった。私が集めた写真に偶然に映っていないだけかもしれないから、これだけでは証拠にはならない。
私が調査せんとしたのは、1945年8月に満洲で在籍していた女学生(12~17歳)のうち、何名が帰還できたかである。当時、高等女学校は富裕層しか進学できなかったから、満洲の主要都市にしか設立されていない。それでも十校以上はあったようだから、在籍数が五百名なら全部で五千名以上となる。帰還できた女学生が二百名ならば、女学生96%がレイプ殺人の犠牲者ということ。
尚、『満州国皇帝の通化落ち』216~34頁に、8月21日に通化高女の校長「古荘康光」(架空の人物)が十八名の女子生徒(架空の女学生)を引率し、満洲国軍の支那人反乱軍からの襲撃に対し逆に接触し昵懇になりレイプ被害を未然に阻止し(デッチアゲ嘘話)、9月4日に日本に辿り着いたとの小説風嘘話が書いてある。これ、すべて捏造。8月21日の通化発なら、朝鮮半島は38度線で分断されており、それより南にはいけない。なのに、釜山経由で9月4日に日本に到達とある。宇宙人の空飛ぶ円盤を借りたようだ。
満洲でレイプされた日本人女性の数は三十万人を下るまい。レイプ後殺害された者はうち一割の三万人か。が、この種の被害者の百%は語ることはない。外部の者が研究して全貌を明らかにするしかない。しかし、このジャンルの研究論文は、共産党の弾圧で一本もない。日本人なら、確率統計学を活用して、この困難なジャンルを突破的に解明する本格的な論文を発表すべきである。
以下、文藝春秋社が募集手記をまとめた『されど、我が満洲』(1984年刊、注14)の一部を紹介しておく。ロシア兵による満洲レイプ地獄の一端が嗅ぎとれる。
「(新京の病院に入院中の18歳の少年の目撃談、1945年8月20日頃)病院の玄関に、12、3歳の少女から二十歳ぐらいの娘が十名ほど、担架に乗せられて運ばれていた。全員が裸で、恥毛も揃わない幼い子供の恥部は腫れ上がって、その原形は無かった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ、声を出しているようだが、聞き取れない。
次の女性はモンペだけを剝ぎ取られて下の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切り口から血と一緒に食み出していた。次の女性は乳房を切られて、片眼を開けたままであった・・・。次もその次も、ほとんど同じ姿である」(注13、172頁)。
「(新京、1945年8月末)お隣の主婦は、三人組のロシア兵に輪姦された。主人はピストルを突き付けられ傍観を強いられた。公園を歩いていた若い女性は、白昼堂々、凌辱された。また、数人のロシア兵士に狼藉された女性は意識不明になり、病院に担ぎ込まれた」(注13、170頁)。
「13歳の少女をいきなりソ連兵が抱き抱えた。私はとっさに子を抱きしめ顔を伏せた。他の人を見る余裕はない。少女の抵抗する悲鳴が狭い貨車に響き、助けようとする母親の殴られる音、叫び、やがて少女の悲鳴が弱り声もしなくなった」(注14、177頁)。
「(満洲から列車で北鮮に入り、そこで二年間、帰国の機会を待っていた29歳の主婦の談)沼田少尉の奥さんは、骨と皮に痩せ意識は朦朧としていた。昨晩、ソ連兵がやってきて動けない彼女を担いで行って大勢で輪姦してまた戻してきた・・・。次の日、彼女は死んだ」(注14、128頁)。
『凍土からの声』(謙光社、1986年)は、満洲引揚の女性たちが自費出版した体験記。この著にも、多くの貴重な証言がある。
「私達の列車の隣にソ連の軍用列車が停まっており、戦車や自動車、野砲などが積まれ、男女の兵が乗っていた。仲間と一緒に家畜用の貨車の中を覗いて驚いた。藁の上に若い女が全裸で三人、虫の息で転がされている。顔形から日本女性であることが推定されたが、声をかける事もできなかった」(注15、216頁)。
「(ロシア兵は日本人)女性を狙って毎夜のように難民収容所に押しかけてきた。娘さんが泣き叫びながら、大男のソ連兵に担がれて行方知れずになった(=還ってこなかった)」(101頁)。
「(南新京の駅で下車し、近くの寺で休んでいた)その夜(8月16日)、私のそばで寝ていた若い婦人が身重の体で、ソ連兵に強姦された。出征軍人の奥様であった。
・・・(夫が勤めていた)興農合作社の社宅に移り、六畳・四畳の二部屋に五家族13人で共同生活を始めた。・・・若い女性はソ連兵のトラックに乗せられ、連れていかれた(=還ってこなかった/レイプし尽くしたあと殺された)。」(注15、49頁)。
3、38度線以北の朝鮮半島でも、“ロシア地獄”で命を落とした一般邦人は無数
(1)関東軍とその軍属の家族を優先的に避難させて、“他の日本人は後回し/列車は無し”は、関東軍が在満の同胞=邦人を虫けらだと思っていた端的な証拠。「関東軍は共産主義者=絶対神だから無謬、それ以外の日本人は虫けらだから殺されても当然」は、実際にも関東軍参謀部におけるコンセンサスだった。
新京在住の関東軍/軍属の家族の過半および満鉄社員の家族「3万7千人」は、1945年8月9~10日に新京発の旅客列車に乗った。この一群だけ、「新京→奉天→平壌→ソウル→釜山→博多」の避難コースで、無傷かつスムーズに日本に到達した。
8月12日に無蓋の貨車車両で新京駅を出発した、満洲国政府に勤める文官の家族グループの第一陣が北鮮の郭山駅に到達した時には、朝鮮半島は三十度八度線で分断されていた。ソウル手前の駅「開城」(米軍が接収)の北側にソ連軍がゲートを設置したからだ(注16、26頁)。新京発が8月12日以降の軍人・軍属の家族は、全員、他の一般邦人と同じ地獄に落ちた(注16、第二章)。8月11日に新京駅を出発した日本人については、まだ調査中。
(2)北鮮からの帰還者は、最終確定数字がB「32万2545人」(注16)。北鮮での日本人死者数は、A「1945年8月8日現在の北鮮居住者+満洲からの流入者-南鮮への自力脱出者」を推計し、「A-B」とすればいい。尚、南鮮への自力脱出者は、ほとんど容易に確定できる。
南鮮は米国が進駐したので秩序が維持され、虐殺・殺害がほとんどなく病死も少なかった。ために南鮮からの帰還者C「59万7302人」とD「1945年8月8日時点の南鮮居住者」の差を出して、「北鮮から南鮮への自力脱出者」数は自ずと算出できる。この算出は後日。以下、別の視点から、この「南鮮への自力脱出」を論じる。
(3)38度線を突破して北鮮からの脱出がいかに困難だったかは、「38度線」を冠する著書が多いことからわかる。赤尾覺『北緯三十八度線──生き地獄の檻』、藤川大生『奇蹟の38度線突破』、中村泰三『北緯三十八度線』、佐々木祝雄『三十八度線』など。
つまり、ソ連軍支配と米軍支配とは、前者は死と背中合わせの地獄、後者は自由・生命・財産が守られている天国、という天文学差異があった。簡単に言えば、「米軍は天使、ソ連軍は悪魔」で、「鬼畜ロシア」が現実の中の現実。が、1941年12月8日からの太平洋戦争では、日本は友邦の米国に戦争を仕掛け、挙句に「鬼畜米英」を絶叫した。対中戦争を含め、日本は完全に狂っていた。
大東亜戦争八年間を糾弾しない“祖国叛逆の非・国民”たちに対し、日本は懲役や絞首刑にする立法をしてこそ正義。「鬼畜米英」キャンペーン、特に雑誌『漫画』の「鬼畜米英」キャンペーンの害毒は大きい(注18)。「鬼畜米英」の犯人(ソ連大使館か)捜しの学術研究に手を抜いてはならない。
「38度線を突破し、北鮮から脱出の困難性」は、藤原ていの体験ノン・フィクション『流れる星は生きている』を読んで欲しい。彼女は二人の息子と娘一人を連れ、新京出発からちょうど一年目に三十八度線を越えた。その後、博多港に無事に着いた。藤原ていは、こう書いている。
「私たち(四名)は、アメリカ軍のトラックに救助されたのだ。私はとどめなく流れる涙で、前に立っているアメリカ兵を見上げると、その兵隊は正広と正彦を数えるように指差し、その指先を私に向けてとどめた。《お前の子供たちか?》」
「こう聞いているに違いない。私は、トラックの上に両手をついて、(アメリカの兵隊さんに)何度も何度も頭を下げて泣いた」
「《正広、正彦、みんな助かったんだよ、アメリカに助けられたんだよ》(と)子供たちに言って聞かせた」(注19、丸カッコ内中川)。
アメリカの兵隊を見た瞬間、日本人は誰でも助かったと思った。一方、ロシア軍の兵士に出会った日本は、体が硬直して死や拷問を覚悟した。これは、2022年以降のウクライナ人が体験している日常。実際に、ウクライナ兵士は弾薬が尽き降伏しても射殺される。時にはナイフで首を斬り落とされる。無限に残虐な拷問が加えられる。一日にスープ一杯の食事で餓死と背中合わせの捕虜生活に耐えなければならない。
この「ロシアは悪魔、米国は天使」との最も正しい現実を百八十度転倒して、共産主義を狂信する近衛文麿や陸軍の赤色エリート将校らに国家を占領された日本は、逆さにも、ロシアを宗主国とするロシアの奴隷国となり、スターリンの命令に従い“反共親米”蒋介石の中華民国に戦争をしかけ(1937年7月)、挙句に“親日の友好国”米英豪蘭に宣戦した(1941年12月)。
日本人で、反スターリン/反・大東亜戦争は、昭和天皇お一人であられた。1945年7~8月、昭和天皇の祈りからであろう、奇蹟が起きた。「米国のポツダム宣言/米国のヒロシマ原爆」である。これにより昭和天皇はご聖断でき、日本は地獄の国家滅亡から救出された。進駐する米国は、日本を救う神風だった。引揚げ日本人が遭遇した米国兵士は、日本人にとり天使だった。
逆さ語「鬼畜米英」は誰が造語したか/誰が日本国内に広めたのかについて、私は、その語源探しをしてきたが、恥ずかしい話だが、まだ突き止めていない。ロシア大使館が1942~3年、日本の雑誌社にそれを宣伝させる工作をした結果だろうとは推定できる。が、証拠がなかなか掴めない。
それはともかく、戦後日本では、“正しいスローガン”「鬼畜ロシア」が叫ばれなかった。共産党の機関紙「朝日新聞」のウルトラ親ロの大キャンペーン記事が毎日のように垂れ流され、日本人が理性を放棄し知を失い究極状態で洗脳された結果である。“正しいスローガン”「鬼畜ロシア」が叫ばれない以上、日本に迫る亡国と死滅はもはや不可避。国益を忘失した国家が存続することは決してない。
(4)関連文献
「北鮮からの引揚者orソ連軍支配下の北鮮の日本人たち」に関する著作につき、簡単に概説しておこう。欠いてはならぬ必読本は、森田芳夫『朝鮮終戦の記録』(巖南堂書店)。これに井上卓弥『満洲難民』(幻冬舎)と城内康伸『奪還』(新潮社)を読めば、およその情況が理解できる。なお、城内の『奪還』のタイトルは、内容的には『突破』が適切。そう修正すべきである。
この他、私の書庫にあるのを順不同で紹介すれば、清水徹『忘却のための記録』(ハート出版)、前田藤恵『存亡の果てまで』(原書房)、中村泰三『北緯三十八度線』(現幻社)、ヨーコ川島『竹林はるか遠く』(ハート出版)、『大東亜戦史8 朝鮮編』(富士書苑)、森文子『脱出行』(国書刊行会)、・・・。
注
1、高橋健男『満州開拓民悲史』第五章/第六章、批評社、177頁。
2、中村雪子『麻山事件』、草思社、1983年。
3、上掲、高橋、第四章。
4、同、高橋、82頁。このほか、山川暁『秩父・中川村開拓団顛末記』、草思社。大野定二『凍土からの叫び』、自費出版。などがある。
5、合田一道『死の逃避行』、富士書苑、119~26頁。
6、同、『死の逃避行』、130~42頁。このほか、足立守三『ああ、東京荏原郷開拓団』など。
7、『満州分村移民と部落差別』、えにし書房、131頁。
8、大櫛戊辰『殺戮の草原 葛根廟事件の証言』、東葛商工新聞社。
9、宮尾登美子『朱夏』、新潮文庫、681~2頁。
10、平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち』、集英社。集英社は、社長以下、役員全員が北朝鮮人。
11、『大東亜戦史6―満洲編、上』、富士書苑、364~83頁。
12、『満蒙開拓史』、562頁。
13、吉田清治『私の戦争犯罪』、三一書房。
14、『されど、我が満洲』、文藝春秋社。
15、『凍土からの声』、謙光社。
16、井上卓弥『満洲難民』、幻冬舎、26頁、第二章。
17、厚生省『引揚げと援護 三十年の歩み』。
18、『鬼畜米英 漫画全集』、合同会社パブリブ。ほか。
19,藤原てい『流れる星は生きている』、中公文庫、246~7頁。