大飯原発停止判決を招いたA級戦犯は、「脱原発」側に媚を売ってきた“ヌエ総理”安倍晋三 ──今からでも遅くない、田中俊一/島崎邦彦の首を斬れ!

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筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

※2014年5月26日に中川八洋掲示板に掲載された記事を、再掲載したものです。

 二〇一四年五月二十一日、安倍首相の官邸はむろん、自民党や電力業界に激震が走った。福井地裁の札付きコミュニスト裁判長・樋口英明が、やはりといっていいだろうが、私を含めて司法に精通するその道の「専門家」の予想通り、大飯原発の再稼動差し止めを命じる判決を下したからだ。

 その判決文は、「脱原発」教の狂信的な信徒たちと全く同じで、科学の衣を着ながらも非科学きわまりないもの。しかも、その基本モチーフは「日本は、原発をやめろ!」というもの。判決文の中にこういう文章がある。「生存を基礎とする人格権は法分野において最高の価値を持つ」、と。

「生存が、最高の価値」だって?──動物と人間の差異がわからぬ樋口裁判長

 この思惟は、われわれ文明社会に生きる人間を、さも家畜か何かの動物並みに考えるイデオロギーを基調とする。つまり、「日本人は、生物学的なヒトであり、動物の一類型」との考えが基底になければ発想されえないもの。確かに、文明社会そのものを否定してしまえば、文明社会の生命源である電気も必要ない。上記の判決文を貫くのは、このロジック。

 樋口英明裁判長が判決に書きたかった本心は、「生存を基礎とする動物権は法分野において最高の価値を持つ」だが、この「動物権」では余りにぎらつくので「人格権」とほんの少し言葉をマイルド化しただけ。

 そもそも、「生存」という概念は、非人間的な怖ろしい考え。それは法秩序や道徳や科学を全面的に無視否定できる、野蛮人が崇拝するカルト宗教の下等なドグマである。「生存」の二文字さえあれば、①日本が文明社会でなくとも、②未開野蛮な社会へと退行しても、これら①②を正当化する。樋口裁判長は、このカルト宗教のドグマに沿って、大飯原発の再稼動の是非を判決したのである。

 人間の価値は、「生存」していることにはない。それならば、人間は刑務所の中でも、上野動物園の空いている獣舎の中でも、生存さえしていれば価値があることになる。人間の価値は、倫理道徳とどう向き合っているか、どう真善美に囲まれているか、など文明的生存によって問われるもの。

 これほど、野蛮人的な思考しかできない裁判長・樋口英明だから、科学技術などには一片の真摯な考慮を払うことしない。自分の科学技術にかかわる無知蒙昧さを省みることなく、薮から棒に「原発は安全でない」「原発は事故を起こす」「多数の人を殺す」と言い放っているだけ。

 控訴する関電は、(関電がこれまで雇用した)劣悪なバカアホ弁護士を全員解雇して、新規蒔き直しをするほかない。敗訴した同じ弁護士を使うのは、雇用主がよほどのバカアホに限られ、敗訴が続くことになる。

 だが、関電には、それよりももっと緊要な仕事がある。大飯原発を再稼動したければ、法廷外での、官邸工作と霞ヶ関工作と世論工作にこそ全力集中すべきである。樋口英明のような確信犯裁判官は別として、一般に裁判所ですら、政治的に中立ならばなおのこと、原発問題では官邸/霞ヶ関/世論の三者の動きに、新聞やテレビと同じかそれ以上に、センシティブに左右される。

 特に関電が調査すべき最優先事項は、樋口英明裁判長が自動車に乗っているかどうかをしっかり確認すること。判決によれば、樋口は、科学技術の一つである、日本だけで年間五千人を殺している自動車には決して乗らないはずである。また、原発であろうとLNG・石炭の火力であろうと、電気は科学技術が生んだもの。完全な安全などない。しかも火力発電所だって、多くの人命を犠牲にすることではじめて発電している。ヒトの「生存」を絶対視する樋口英明の家では、きっと蝋燭で本を読み、薪でご飯を炊いていなければ理に合わない。この確認も、関電はしっかり怠ってはならない。 関電は、裁判で完全勝利をしたいならば、裁判外での闘争や調査にわずかの手抜きもしてはならない。

総理になった直後、田中俊一/島崎邦彦が共産党活動家なのを知りながら、自民党に「人事同意」を強要した“共産党の犬”安倍晋三

 福井地裁・樋口裁判長の判決がご宣託する「安全」は、二〇一二年秋に民主党政権下で発足した原子力規制委員会の「常軌を逸した過剰安全基準」の延長上にあって、それをさらに百倍ほど過激にしたもの。つまり、「田中俊一/島崎邦彦の原子力規制委員会→福井地裁の大飯原発再稼動禁止判決」であることは、この判決文を読めば、誰にでも理解できよう。

 つまり、原子力規制委員会の委員長と委員長代理が、教条的な「脱原発」イデオロギーの田中や島崎ではなく、通常の学者ならば、規制委員会の安全基準は学術的にはるかに順当なものになっていた。そうすると、今般の判決は、一般の素人の目でも荒唐無稽にすぎるから、樋口のような共産党系裁判官ですら、とても出すことはできなかっただろう。

 すなわち、一年半以上も前から、国民も電力会社も、認めてはならない(原子力規制委員会の)過剰安全基準を、田中らの職権濫用ではなく霞が関行政の許容の範囲だと慣れてしまった。このことが、(福井地裁の)超過剰安全基準を公然と判決文に書ける雰囲気を醸成し、「脱原発」がより過激にエスカレートしてしまったのである。行き過ぎの連鎖である。

 原子力規制委員会の過剰安全基準は、科学ではなく、宗教である。福井地裁の超過剰安全基準は、宗教ではなく、カルト宗教である。が、科学に疎い大衆や庶民は、安全基準が厳しければ厳しいほど安全になると錯覚する。安全基準の過剰強化は、安全向上にはなんら寄与せず、まったく無関係。が、このような科学の常識が、菅直人の「脱原発」政策の効果抜群で、いつしか未開国に変貌した日本では、消滅した。

 では、田中俊一や島崎邦彦を二〇一二年十二月末(民主党から自民党の政権交代)をもって追放できたのに、なぜ自民党は、それをしなかったのか。(党籍はないが)共産党員の官房長官菅義偉の策謀に始まり、この菅・官房長官と二人三脚で、総理となった安倍晋三自身が、オレ様は独裁者だぞとばかり、自民党内でコンセンサスができていた両名追放の動きを封殺したからである。

 総理になったばかりの安倍晋三は、何をしたのか。二〇一三年一月下旬、田中と島崎を国会の人事不同意で追放する自民党内の動きを阻止すべく、閣僚に緘口令を敷き「同意する」との閣議決定を(自民党と合議する前に)先にしたのである。田中/島崎追放に動いていた石破茂・幹事長が、安倍晋三による前代未聞の手続き無視の閣議決定を知ったのは、一週間も経ってからだった。

 二〇一三年一月時点の自民党は、エネルギー政策としての原発推進というより、「脱原発」を民主党が推進したものだから、民主党政権の政策を一掃する反・民主党の旗幟を鮮明にしたい意気込みにおいて、“脱原発つぶし”を先鋭的に打ち出していた。田中・島崎の人事同意問題も、彼らを任命したのが民主党政権だとの理由において、「同意せず追放する」が自民党のコンセンサスとなっていた。

 だが、安倍晋三は、エチオピア農民百五十万人を餓死政策で殺害した共産党独裁政権のメンギスツと昵懇であったコミュニズム・シンパの父親・晋太郎の影響を強く受けている。田中俊一と島崎邦彦が共産党活動家上がりという情報を知るや、その人事続行を決めた。安倍晋三の、共産党への信条は不明だが、共産主義者に異常な親近感をもつ。

 だが、共産主義者は共産党と不可分の関係をもつ。当然、田中と島崎も、公然と「脱原発」を目標として、あらゆる屁理屈をつけて原発再稼動を妨害し続けた。そして、成功している。この事態は、安倍晋三が積極的にそうなるよう誘導した主犯といえるから、安倍晋三こそ原発再稼動阻止のA級戦犯と断じてよかろう。

 福井地裁の大飯原発再稼動禁止判決もまた、「脱原発」コミュニストの田中・島崎が牛耳る原子力規制委員会の延長上のものだから、原発ゼロを命令したこのトンデモ判決も、元を質せば、安倍晋三が元凶だと断定して間違いではない。

安倍晋三こそ、廃炉ブームに火をつけて「脱原発」を加速した張本人  

 田中俊一と島崎邦彦の、札付きの「脱原発」屋の「人事同意」は、法律に従い「一年以内」だから、仮に同意するのならば、二〇一三年九月ぎりぎりまで引き伸ばすのは常識。自民党内ではこの選択肢も検討されていた。

 「いつでも不同意にするぞ」の情況を続けてさえいれば、田中・島崎は今の地位に居座り続けたいから、この間だけでも必ず一基か二基かの原発を、自己保身のため再稼動させていたはず。

 だが安倍晋三は、「不同意」という当然の決断を逆立ちさせ、直ちに逆走の「同意」へと独断専行的に舵を切った。「朝日新聞と何らかの取引をした」などの噂通り、ダーティな裏取引を安倍がしたのは本当だろう。

 が、そんなことはどうでもよい。問題は、田中/島崎の人事に同意して「<脱原発>イデオロギーとは全面対決をしません」と「脱原発」側に媚を売れば、自分の人気が高まると考えた、安倍の浅はかな人気至上主義の方だろう。安倍はまた、人気至上主義の裏返しで、批判に弱くオロオロするのが常。そればかりか、批判の嵐を想像しては、批判など簡単に撥ね返せるケースですら、戦う前にヘナヘナと折れてしまう。

 安倍晋三が「脱原発」勢力との全面対決を避けて、絶えず自分の方から先に妥協を申し入れる弱さは、安倍の幼児的な人気至上主義に加え、妥協してはならないものには妥協しない毅然とした信念が欠如する惰弱な人格の故である。安倍が売春婦のように「脱原発」に媚びるのは、田中・島崎の同意人事だけではない。

 「福島第一の第5&6号基を廃炉にせよ」と、不必要にも安倍首相は東電に要請した(二〇一三年九月十九日)。そればかりか、茂木敏充大臣に命じて「福島第二も廃炉だ」とまで言わせた(同年同月三十日)。安倍は、「脱原発」側に妥協すると、「脱原発」側も妥協してマイルドになると心底から信じている。分裂症的な転倒思考をする安倍には、自分の行動が絶えず「脱原発」側の火に油を注いでいることがわからない。また、IQが極度に低く、廃炉は究極の脱原発であることがわからない。

 小泉純一郎が、一気に、「脱原発」側に安倍を翻意させようと行動をおこしたのは、「脱原発」と「原発推進」との間をフラフラする、安倍の弱さを見抜いたからである。

 それはともかく、福井地裁の真赤な判決は、これから大きな影響をもつ。それが、「脱原発」が日本の国策になる新たな起爆力となるのは、紛うことなき現実。しかし、無気力に頭が痴呆化した安倍晋三も自民党も、そう洞察できない。

 たとえば、原発推進の自民党のボスである細田博之(幹事長代行)も、そのグループ数十名の自民党国会議員も、原発は重要なベースロード電源と定めた新しい「エネルギー基本計画」の閣議決定に漕ぎ着けたから(二〇一四年四月)、もう「脱原発」路線を封じ込められたと安心している。彼らは、自分たちが放置している、制度となった「脱原発」の慣性がどれほど巨大なものかまったく理解できない。経産省の赤い官僚たちにとって、学歴が低く頭も悪い無知一色の自民党議員を二枚舌で騙すことぐらい、赤子の手を捻る程度にいとも簡単なことが理解できない。

田中と島崎を追放せよ、原子力規制委員会を環境省から内閣府へ移管せよ

 すなわち、安倍晋三も自民党も電力会社も原点に返らなければ、「脱原発」への滔々と流れる日本の極左革命の潮流を止めることはできない。この原点とは何か。原子力規制委員会の田中俊一&島崎邦彦(注1)に自ら辞任せざるを得ないよう追い込むこと。しかも、それは今でも直ぐに可能。

 この秘策を知りたければ、私の所に相談に来ればよい。「脱原発」をどうすれば粉砕できるか、その方法をあらゆる分野で隅々まで熟知する者は、一九六〇年代までの日本にはいくらでもいたのに、二十一世紀に入った日本では、とうとう、私独りになってしまった。

 そして、原子力規制委員会と原子力規制庁を、環境省から内閣府に移管しなければならない。環境省という共産党官僚しかいない赤色官庁の外局にしていては、「脱原発」の総本山となることはあっても、公正中立であるべき「原子力規制委員会」には、万が一にもなりえない。

 また、福島での利権漁りばかりが横行する自民党は、一度でいいから真剣に「脱原発」との戦いをしたらどうだ。その初陣として、自民党は、島崎邦彦のような<活断層狂>学者を学的に糾弾して叩きのめす学者・専門家組織を創ることから始めるのが一つの常道。このほか、いろいろな策があるが、ここでは割愛。

 しかし自民党だけではなく、今般の関電のテイタラクな裁判闘争をみても、原発推進側には堕落と無気力ばかりが横溢している。

非科学的な福島セシウム避難を即時解除せよ、非医学的なセシウム除染を即刻中断せよ

 また、安倍晋三首相は、原子力災害対策本部長として、科学や医学を遵守する正道に立ち返るべきだ。それは、“反・科学や反・医学の極みである”福島セシウム避難を即刻解除することに尽きる。不必要な福島避難民を全員、直ちに帰宅・帰郷させる、科学に適う正道を実行したとき、「脱原発」の革命勢力は総崩れを起すだろう。

 もちろん、世界が嗤う「セシウム一㍉シーベルト除染」も直ちに中断すべきである。セシウム除染を、国際基準である「二〇㍉シーベルト以上」に戻せば、除染すべき箇所など、福島には一ヶ所として存在しない。

 

注  

1、『撃論 』第九号、二〇一三年一月二十五日発売に、二つの重要論考がある。 「“原発ゼロ狂信者”田中俊一を原子力規制委員長から即時罷免せよ」と「“活断層狂”島崎邦彦と“IPS細胞ペテン師”森口尚史」である。

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