筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
1999年10月、『国民の歴史』が西尾幹二から贈られてきた。余りに分厚く大きいのにビックリ。30分ほどパラ読み。まず、二ヶ月前の8月、「西尾は共産党員だ!」と叫んだ(西尾幹二に対する)谷沢永一氏の怒りを思い出した。次に、『国民の歴史』は、西尾幹二が志位和夫と共著した共産党謹製なのかと唖然、憮然。
1999年8月、西尾幹二を巡って、私は谷沢永一とささやかな論争をした。「《新しい教科書をつくる会》は、共産党と共謀しており、相当に警戒した方がいい」との私の意見に、谷沢は「共謀しているのではない! 西尾自身が共産党員だ!」と激しく反論した。これに対し、私が「西尾はニーチェ・ヒトラー系の廃墟主義アナーキストだから、共産党員コミュニストとは区別したがいい」と言ったら、谷沢永一はブッキラボウに、再び「西尾幹二は共産党員だ!」と叫んだ。
この8月から二ヶ月後の10月、『国民の歴史』を手に私は、谷沢永一は党籍のある共産党員(1952年の火炎瓶闘争時に離党)だったから、西尾幹二の正体を見抜いていたのか、とほとほと感心した。また西尾幹二とは、「下層がニーチェ系のアナーキスト/上層が共産党員」の二層重ねサンドイッチ構造の“反日極左”人士だと、彼の恐ろしい正体を確信した。そして、1997年1月から対西尾“潜入捜査”を始めた私としては、日本国を西尾幹二の共産党史観/スターリン史観から守るために、是が非でも“一冊必殺”の『西尾幹二の研究』を出版せねばと、拳を固く握った(1999年10月末)。
日本憎悪“感情”を猛炎と燃やす西尾が、日本の歴史を破壊せんと大暴走しているのは、西尾の作品を見ればすぐわかる。『国民の歴史』『皇太子さまへの御忠言』『平和主義ではない「脱原発」』は、日本共産党員として書いている。『GHQ焚書図書開封』全十二巻と『日本と西欧の五〇〇年史』は、大川周明にニーチェをブレンドしたアナーキストとして書いている。『ソ連知識人(KGBお雇いの学者擬装の対外工作員)との対話』『国民の歴史』『GHQ焚書図書開封』『日本と西欧の五〇〇年史』は、KGBロスケとしての作品。後者の三冊は、強烈なスターリン史観一色。
西尾幹二『国民の歴史』の「国民」は日本共産党員のことで、一般日本人は含まない
『国民の歴史』の目次をめくれば、この著が日本共産党製なのは、一目瞭然。西尾幹二の『国民の歴史』は、『新聞アカハタ』の丸写しではないか。その中核は、共産党の天皇制廃止を目指した古代史改竄運動で、共産党の反米闘争の拡声器。これら以外の通常の歴史は、西尾エセーのどこにも存在しない。西尾の『国民の歴史』は、『国民騙しの嘘歴史』を略したタイトル。
例えば、その第四章「稲作文化を担ったのは弥生人ではない」/第七章「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」/第十章「奈良の都は長安に似ていなかった」などは、日本人ならだれでも唖然。が、西尾幹二とは奇を衒う狂人の戯言の法螺吹き屋、だと嗤って放任してはいけない。第十章のはそうともいえるが、第四&七章はスターリンの三十二年テーゼに従った、天皇制廃止の共産革命の煽動。西尾幹二の『国民の歴史』は、「河上肇──津田左右吉」を大宣伝する政治プロパガンダ書で、ヒトラーの『我が闘争』と同種。『国民の歴史』を『日本共産党員の歴史』に改題すべきであろう。
西尾幹二は、日本国民から正しい歴史を剥奪し、日本人を歴史喪失の夢遊病者に改造し、日本国を無人の廃墟にすべく、この『国民の歴史』を出版した。そして、この『国民の歴史』を嚆矢に、その後、西尾幹二は膨大な数のデタラメ“嘘”歴史評論を書き殴るようになった。それらは皆、歴史学とは全く無関係で、“反・歴史”の悍ましい情報公害のキワモノばかり。具体的には、①歴史を悪用した天皇制廃止の詭弁の大量生産だし、②再びの対米戦争に日本人を駆り出し一億日本人“皆殺し”と日本列島の対ロ献上を目的とした猛毒のエセー群。
弥生時代“抹殺”と縄文時代“礼讃”は、共産党の十八番。西尾幹二は、この一味
第四章「稲作文化を担ったのは弥生人ではない」のタイトルを、まず本文を読まずに考察しよう。
このタイトルだけでも、西尾幹二が目指すのが弥生時代の抹殺なのが直ぐわかる。それ以前に、このタイトルは、西尾幹二が歴史学さっぱりの無学無教養なゴロツキ狂人なのを示している。
なぜなら、弥生文化とは、水田稲作と鉄器文化が中心だった時代を指す学術用語。とすれば、西尾幹二の狂語「稲作文化を担ったのは弥生人ではない」は、自家撞着した奇言。水田稲作を始めた日本人を弥生人と定義した以上、そうでないとするなら、「弥生時代の人々はいなかった」となる。それは、「弥生時代そのものもなかった」ことになる。
実は、共産党は、弥生時代を無かったことにしたく、「稲作も鉄器も原・日本語も縄文時代の日本人の祖先たちの文化だった」に摩り替える嘘歴史づくりに全力を投入してきた。西尾幹二は、共産党特別党員だから、共産党の歴史捏造の尖兵となり、偽装名『国民の歴史』で、『共産党員のための歴史教本』を書いたのである 。
縄文時代と弥生時代の時代区分は、水田稲作文化と鉄器文化(製鉄と鉄剣鍛造)の有無。農耕をするか否かではない。土器の相違で時代区分としたのは、それが簡便に理解しやすいからだ。
縄文人は農耕をしており、特にマメ科の野菜作りが盛んだった。また、北海道縄文人は漆の木の畑を持ち、世界最古の漆塗りの櫛を造っている。北海道縄文人の人口密度は、日本列島の中で最も高かった。物差しを持っていた、青森県の三内丸山遺跡の縄文人は、北海道縄文人と同族。
日本の水田稲作は、福岡県に仮に紀元前1500年頃に始まったとし、青森県のそれは紀元後300年頃だから、全国に広まるに千八百年間かかっている。つまり、縄文時代から弥生時代への移行に二千年ほどの歳月がかかっている。この間、縄文時代と弥生時代は重畳し分離していない。
沖縄地方の人々は鹿児島県や奄美群島にいた原「隼人」の縄文人と同族だが、水田稲作が九州から沖縄に流入したのは、日本本土の平安時代。沖縄は陸の孤島で、支那大陸からの影響は明の時代になるまで皆無。日本の平安時代に、沖縄は縄文時代から一気に「弥生時代→平安文化」となった。そして、日本の鎌倉時代の頃、ほぼ日本本土と同じ武士文化をもった。
以上の事柄からでも、日本語と日本人が形成された弥生時代の日本人とは、縄文人が母体であり、弥生日本人と縄文の原・日本人とは、人種的にほとんど差異が無かった。すなわち、水田稲作文化と鉄器文化とは、僅かな数の外国人(各、江南地方の支那人や楽浪郡の支那人など)からの技術の流入で、大規模な数の渡来人の流入ではなかった。縄文時代から海洋民族だった日本人とは異なり、対馬海峡を渡洋する航海技術や大型丸木舟に不得手な朝鮮人は、ほとんど流入していない。
縄文時代の原・日本人は対馬海峡をかなり自由に往来した。一方、朝鮮人は技術的にそれができなかった。日本文化である高い渡洋技術は、江戸時代の鎖国まで続き、倭寇がその最期。例えば、神功皇后は排水量20㌧級の軍船に武装兵員十人ほどを積載し一千隻の大規模な海兵隊をもって、新羅を急襲しそこを植民地にした。一方の新羅には軍船は一隻もなかった。
斉明天皇は、白村江に(排水量100㌧、積載武装兵力は7~80人の)750隻の当時の世界最大の海軍力を投入。一方、迎える唐の海軍は、日本の五分の一の僅か150隻。海戦の怖さは、多寡ではなく作戦で勝敗が決まること。多勢に奢った日本海軍は、狭い河口の川上側に陣取る唐軍に川下側から突撃する大馬鹿をやり、大敗北を喫した。さて、この時の百済だが、海軍力を全く持っていなかった。朝鮮が海軍力を持つのは李朝朝鮮が初めて。日本に遅れること(神功皇后から)千二百年。
天皇・皇室の起源は弥生時代。ために、天皇の抹殺を図る共産党は、弥生時代“抹殺”に暴走する
共産党の弥生時代“抹殺”を最も矯激に大宣伝したのは、擬装アナーキストで実際は共産党員のままだったスターリン狂徒の林房雄。林房雄は、天皇制廃止キャンペーンとして、神武天皇非在論を、反語表現を用い表題を逆さにした『神武天皇実在論』を、1971年に出版した。
坂本太郎を含め、神武天皇の実在を自明とする保守知識人はこぞって、林房雄に嘔吐を催し軽蔑をもって唾棄した(実際は、論難せずに無視した)。が、一般大衆は、林房雄の『神武天皇非在論』を、共産党(津田左右吉)に対抗した勇気ある書であるかに錯覚し、林房雄に万雷の拍手を送った(相当数の部数が売れた)。1970年を境に劣化激しい日本人の知は、豚より悪くなっていた。
私は、林房雄のトンデモ有害本を徹底糾弾して焚書にしておかないと、天皇の祖先は縄文時代に支那から移住してきた支那人になると痛憤し、十年後の1981年、林健太郎に反論書を書いてくれと依頼すべく伺ったことがある。その時、私は迂闊にも余計な事「林房雄というトンデモ赤を叩き潰すに、同姓『林』の林健太郎先生こそ適任です」と口にした途端、林健太郎は機嫌を悪くされ、話が途切れてしまった。
結局、1971年から四十二年も遅れて2023年、私は本物の正しい『神武天皇実在論』をヒカルランド社から出版した。神武天皇の御生誕地が福岡県糸島市で、東征出撃は唐津湾であることの比定にも成功した。この比定作業は、坂本太郎の教えに従い、私は『古事記』を重視し、『日本書紀』を排斥した。尚、坂本太郎は『日本書紀』の権威で、その功績で文化勲章を授与された。
大和朝廷の誕生が水田稲作/鉄器文明の弥生時代であるのが許せない日本共産党は、1970年、大和朝廷を抹殺し天皇起源を歴史から消す共産党史観(スターリンの三十二年テーゼ)の徹底化のため、弥生時代“抹殺”を天皇制廃止革命の中核の一つに位置付け、弥生時代や弥生文化を破壊する改竄やlow-key化を古代史学者に命じた。“捏造”日本歴史づくりである。林房雄の1971年『神武天皇不在論』は、共産党が牽引した“弥生時代つぶし”に呼応した有害図書の第一号。
林房雄の悪書が出版された1971年以降、古代史学界では、弥生時代の歴史をハチャメチャな嘘歴史で埋め尽くすことが流行した。その音頭を執ったのは、1962年に坂本太郎が東大を去った後、古代史学界のボスになった井上光貞・東大教授。私の『神武天皇実在論』第Ⅲ部第五章は、事例として、弥生時代の歴史を嘘歴史に捏造する質の悪い論文の一つを紹介している。
また、西尾幹二『国民の歴史』第四章は、弥生時代抹殺=天皇制廃止を狙った林房雄『神武天皇不在論』を意識して後継している。「大川周明→林房雄→西尾幹二」は、アナーキストの天皇制廃止イデオロギーの中軸をなす系譜。西尾幹二“つぶし”をさぼっても天皇制度を護持できると考える輩は、現実から遊離した怠惰と錯誤に犯されている。天皇制廃止の一味ともいえる。
「縄文人の“祖先との共生”思想、弥生人の“祖先崇拝”思想」の差異の分水嶺となった水田稲作
さて、『国民の歴史』第四章の中味を吟味しておこう。その冒頭から、“精神分裂病の狂人”西尾幹二の妄言狂史が、爆発している。西尾は「水田稲作の文化を担った主体は縄文人である」「弥生文化を担った主体はどこまでも縄文人」と絶叫しているからだ(72~3頁)。
水田稲作以降の日本人をもって「弥生人」と分類する学術定義に、何一つ不都合はない。が、弥生人は渡来人が多かったなど劣悪なトンデモ論文を殊更に言挙げし、この間違いを糾弾する形で、西尾はさらなる荒唐無稽な詭弁と法螺を吹く。これ、「泥棒に対して《あいつは泥棒だ》と指弾しておいて、自分が大掛かりな泥棒をする」プロの窃盗犯のやり方で、西尾幹二“詭弁”術の一つ。
また、西尾幹二は、水田稲作を、すりの早業で、「縄文人の一部がやっていた」陸稲や天水田の稲作に摩り替える(73頁)。陸稲や天水田は、水田稲作ではない。また、縄文文化と弥生文化を分離する方が、両者を全体から鳥瞰した場合の学術的な説明で、齟齬がより少なくなる。なのに、西尾幹二は、これまでの常識と合致する「時代区分」を破壊する。
そうした方が、日本の皇室と神社信仰の母体となった水田稲作に詭弁と嘘を大量砲火し易くなるからだ。この西尾幹二や日本共産党の歴史解体は、日本国民から歴史を剥奪する確実な“反・歴史”革命運動になるからだ。
例えば、奈良盆地の三輪山の麓は、出雲の国からの製鉄と鉄剣製造の職人が多く移住した地域だが、三輪神社は社殿が無く、三輪山を御神体にしている。縄文時代のアニミズム信仰である。出雲国では、縄文思想が弥生時代の晩期でも根強かった。
紀元前一世紀~紀元後一世紀にかけ、軍事力で絶対優勢の出雲国に対して、その七分の一の軍事力しかない伊都国(おそらく「いつくくに 斎くくに」が本当の国名。伊都国は支那流の宛て漢字。「都」の古音に「つ」があることは「都合」「都度」からわかる)は、真っ向から出雲国と戦争すれば勝負にならず大敗北し、日本列島の統一は出雲国に奪われたはず。「伊都国→大和朝廷」は、天照大神の御代からすれば四百五十年間、隠忍自重し、出雲国との戦争を回避した。服属しない出雲国の西半分を一気に征伐したのは、第十二代景行天皇とその皇子・日本武尊で、四世紀初頭であった。
ともあれ、紀元元年の頃、出雲国は、まだ縄文思想に濃厚に支配されていた。これは、伊都国が奈良盆地に大和朝廷を開いていくのに大きな幸運となった。なぜなら、日本列島の日本人たちは、弥生文化・思想の最先端を走った「伊都国→大和朝廷」の方が魅力的だったからだ。例えば、水田稲作における灌漑土木技術は、「伊都国→大和朝廷」こそ、日本列島の最先端。単位面積当たりの米の収穫量は、弥生人の最優先課題。これだけでも、大和朝廷は出雲国に対し有利に立った。
尚、西尾の『国民の歴史』第四章の詭弁は、弥生文化の水田稲作の米の収穫量は、単位面積当たり、灌漑技術ゼロの縄文人の陸稲や天水田に比すれば三十倍をはるかに超えていたのを考慮していない。ダーティな西尾幹二は、人口増加率と平均寿命で、縄文時代と弥生時代の顕著な相違を隠蔽する。縄文時代の平均寿命は三十五歳、弥生時代では五十歳近い。この差異は、水田稲作による米摂取“栄養”がいかに大きかったかを物語っている。
それ以上に、縄文文化と弥生文化の相違は、宗教観。縄文人は“祖先との共生”。弥生人は“祖先崇拝”。縄文と弥生の同じ日本人の宗教観を大変化させたのが水田稲作。神社は米の倉庫から発展した建造物。大量の米が備蓄されたことから神社が考案された。一方、縄文人の祭事には祭殿がない。
また、稲から収穫の籾が翌年の米を作り、その籾が次の年の米を産む。この連続して米が永遠に生産されることから日本人は祖先と子孫の連続の永遠を知り、子孫繁栄をもたらす祖先崇拝を宗教とした。伊勢神宮は祖先崇拝教の大本山。全国津々浦々、祖先崇拝でない神社など存在しない。
縄文人(原・日本人)の宗教も大切にし、縄文文化との共存を選んだ弥生人(日本人)の大和朝廷
縄文時代の思想・宗教は、弥生文化の新しい思想・宗教にとって変られることはなかった。両者は50‐50の共存関係を続け、今に至っている。弥生文化が全国平均で紀元前1000年に誕生したとすれば、アニミズムと“祖先との共存”の縄文思想は、新しい“祖先崇拝”の弥生思想と、三千年間も共存してきたことになる。
(1)縄文思想とその民俗。
大晦日の煤払いや元旦のおせち料理は縄文人の祭事の名残。京都の五山の送り火も、大晦日に「帰宅」した死者の祖先が正月明けに「棲んでいる」山に帰る際の道を照明する火。“五山の大文字焼”が八月なのは、原点の縄文民俗が仏教と結合し、大晦日から移動しただけ。七世紀から繁茂しはじめる仏教は、このように縄文民俗の温存の一翼を担った。
日本語「(今際の際で親が子に)草葉の陰から見守っているからね」も、縄文思想。柳田国男が『魂の行くえ』(1949年)に、それを収録している。これ、縄文時代における、「現」世代が死んだ祖先と共存する思想。それが、1949年でもまだ日本列島のあらゆる所で生きているのを柳田国男が書き綴った。「この島々(日本列島)にのみ、死んでも死んでも(祖先は)同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念している・・・」(『柳田國男全集』第13巻、710頁)、と。
弥生思想である祖先崇拝の宗教は、神社の社・祝詞・神官で体系的に整備された。この弥生の祖先崇拝の頂点に立つ大和朝廷ですら、縄文思想と共存していた。それが前方後円の御陵。後円は妊婦のお腹で、前方は産道である。即ち、もう一度、この世に生まれてきて下さいの願いから造られたのが、前方後円の御陵。
紀元後248年に築造を開始し256年頃に完成した(第七代孝霊天皇の皇女・百襲姫が眠られておられる)箸墓が、この前方後円“御陵”の嚆矢。死者の祖先と別れたくない/この世で一緒の生活を続けたいとの縄文人の祖先観から考案された。この大規模な土木工事は、第十代崇神天皇の命令で土師氏が行った。第九代開化天皇の頃、魏の帯方郡(現在のソウル近郊)に大秀才の日本人技術者が留学し持ち帰った技術だろう。魏は帯方郡への日本人留学生を受け容れていたようだ。紀元後230~246年頃“御在位”の第九代天皇の謚号は、「(文明)開化天皇」。“外国(魏)の高度技術の導入を積極的になされた”の意だろう。
尚、「箸墓」は、「土師氏が造った御墓」の転訛。「はじし→はし→箸」。日本書紀が記載するエピソード「箸でホトを衝く」は、「箸墓 はしのみはか」からの一般庶民の下品な連想。大和朝廷の記憶記録官は優しい。こんな庶民の卑猥な戯言を収録してあげるとは。
(2)日本人と弥生文化・思想。
弥生思想や宗教観は、天皇を奉戴する制度と神社とのかかわりで日本人の生活の血肉となり、今に至っている。皇室の行事も、水田稲作が決定的な基盤や背景となっている。新嘗祭はその一つ。また、日本人は何かあると神社に詣で、受験の合格祈願や交通安全を祈る。一月になると、天満宮は小中高校生で溢れ返っている。大型建造物の着工で、神官の祝詞を欠く光景を、ほとんど見ない。二十一世紀になっても、結婚式だけでなく、様々な行事のごとに、日本人はタイムスリップして弥生時代に回帰している。
岡本太郎の同志・西尾は、共産党の「弥生時代は要らない」キャンペーンで『縄文語の発見』を引用
西尾の『国民の歴史』第五章も、奇天烈すぎる。ほんの少し、触れておこう。西尾幹二は、日本語が弥生期に全国共通の言語となった歴史事実を歪曲し、「日本語=縄文語」という“非在の嘘歴史”をデッチアゲている。広域の「縄文語」は、日本の歴史をどう辿っても発見できない。日本列島の縄文人は約十の部族に分かれ、それぞれが言語を持ち、相互の会話はかなり困難だったようだ。この部族分化は、北米アメリカ・インディアン(native‐American)を思い出せばよかろう。
北米アメリカ・インディアンは、ナバホ族/チェロキー族/スー族/アパッチ族/プエブロ族その他、数十の部族から構成され、それぞれ言語が異なる。これは、オーストラリアのアボリジニも同じ。だが、フィンランド古語では一流学者なのに小泉保は、何を狂ったのか、『縄文語の発見』を出版し(1997年)、奇語狂語の三文字「縄文語」をぶち上げた。
私は縄文人に多少の関心があり、北海道縄文人の語彙を五つほど推定した。うち三語は、秋田県マタギ語の中からの推定(仮説)。北海道・青森県・秋田県にまたがる縄文人は同一部族。マタギは弥生文化を拒絶して山に籠ったため、純粋・縄文人だった時の言語を維持。一方、北海道縄文人がまだ繁茂していた紀元後三百年頃、アムール川から北海道に侵入したシベリア少数民族アイヌは、アイヌ語の中に北海道縄文人の言葉をとりいれた。
アイヌが使う「せた=犬」「わっか=水」「さんぺ=心臓」は、北海道・青森県・秋田県にまたがる縄文人の言葉だと考えられる(拙著『侵入異民族アイヌの本当の歴史』、251頁)。が、これ、小泉保が主張する(日本全国に共通する)「縄文語」ではなく、一つの縄文部族の語彙。
小泉保は、縄文人の歴史を全く知らない無知蒙昧。たとえば、九州では、三縄文部族がいた。それぞれ、①九州の四分の三を占め、四国/広島県/岡山県/兵庫県/大阪府/奈良県/三重県など広域に居住していた縄文人とは親族、②熊本県の南三分の二を占め弥生期に熊襲となる縄文人、③鹿児島県/宮崎県の南三分の一/奄美諸島の縄文人でのち隼人となる縄文人、の三縄文部族。
神武天皇が福岡県糸島市(唐津湾)から東征し、奈良盆地の南(橿原)を領有するに、この東征ルートが安全だったのは、彼らの祖先の縄文人が親族だったからだろう。一方、四世紀初頭、熊襲や隼人が大和朝廷に叛乱し、第十二代景行天皇や日本武尊が鎮圧に苦労されたが、熊襲や隼人の基層となった彼らの縄文時代に遡った祖先が、九州北半のそれとはずいぶんと異なった部族だったからではないか。一説では、南洋の島からの血が入っていたらしい。
日本語が形成されていく過程は、縄文時代の後期に始まり、上記の「九州の四分の三を占め、四国/広島県/岡山県/兵庫県/大阪府/奈良県/三重県など広域に居住していた縄文人」の言語が中核となり、山陰、北陸、東海道、関東へと広がったと考えられる。特に水田稲作の弥生時代が始まると、各集落は他の集落の籾倉庫を相互に襲う戦争が頻発し、これが相互交流を深め、また秩序づくりのために「国」ができ、言語の統一が進んだはず。第十代崇神天皇の三世紀後半でも、大和朝廷と宮城県・岩手県の弥生人との会話は相当に困難だったようだ。このように交流の無い地域間では言語の統一すなわち日本語への統一のペースは、亀の歩みで遅々。
さて、小泉保だが、縄文語の発見の方法として、日本語(弥生人の基本的な全国統一言語)の地方方言から遡及させていく方法を提唱(『国民の歴史』、89頁)。何という馬鹿げたアイディアか。日本語以前の縄文人各部族の言語が、地方方言であれ日本語から推定できるはずなどありえない。しかも、縄文時代史に無知蒙昧なズブの素人である小泉保は、発見もしていない縄文語をさも発見したかに錯覚させるペテン師表題の『縄文語の発見』を出版。晩節を穢すトンデモ本となった。
さて、西尾幹二は、小泉保の馬鹿げた本をなぜ大絶賛するのだろう。西尾幹二はパブロフの犬の如く、『縄文語の発見』というタイトルに飛びついたのではないか。共産党員は、岡本太郎のように、「富の格差が生まれた」弥生時代を憎悪し、「貧しくとも平等だった」縄文時代を理想のユートピア社会だったと狂妄する。岡本太郎の大阪万博の「太陽の塔」は縄文時代の太陽をモチーフにしたと本人は語る。しかし、縄文時代の太陽も弥生時代の太陽も二十一世紀の太陽も同じ。共産党員とは夢想病の狂人で、科学思考が一切できない野蛮人。
西尾幹二も同じ。縄文時代に日本語の縄文語が形成されたなら、日本語が形成され全国共通の言語になった「弥生時代なんか要らない!」を絶叫できる。言語学の学識を欠如する西尾は、本の嘘タイトルを見て、「小泉保の狂説の本こそ、弥生時代不要論の決定打だ」と小躍りしたようだ。
「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」(第七章)なら、『国民の歴史』はチリ紙以下の塵
西尾幹二とは、無知と傲慢で踏ん反り返る“反・歴史の狂人”。日本古代史に照明を当ててくれる『魏志倭人伝』に、西尾は、あらん限りの悪罵abcdを投げつける。『国民の歴史』第七章。
a、「魏志倭人伝は歴史資料の価値がほとんどない」(150頁)。
b、「魏志倭人伝は歴史の廃墟である」(167頁)。
c、「魏志倭人伝は歴史資料ではない。不正確な距離推定や地形描写や、影や幻のような人の蠢きが綴られているだけ。まさに廃墟」(169頁)。
d、「魏志倭人伝は、たかが二千字の廃墟」(172頁)。
神武天皇ほか初代から十数名の天皇を歴史から消す、日本古代史を嘘八百で根こそぎ抹殺せんとする西尾幹二にとり、史料『魏志倭人伝』分析から正しい古代史を発掘する「内藤湖南/(天才の)笠井新也/中山平次郎/中川八洋」らが、大和朝廷と神武天皇が紀元元年前後に誕生したのを証明するのが不愉快で堪らないのだ。しかも、歴史学に無知な西尾幹二は、『魏志倭人伝』をまともには読んだことは一度もない。読んでも理解できない。研究したことなど、むろんない。
『魏志倭人伝』は、魏の外交官による、「対日」軍事侵攻ルートの調査である。松浦半島の外国人専用埠頭「呼子」から奈良盆地の大和朝廷までの徒歩行の日数や乗船日数は、きわめて正確で、見事な諜報。拙著『神武天皇実在論』の第三章図1(80~1頁)&図3(84~5頁)を観よ。
が、暴力団以上にゴロツキの西尾幹二にかかると、「不正確な距離測定や地形描写で、魏志倭人伝は歴史資料ではない」と、事実を逆さにした大法螺を吹く(169頁)。第九代の開化天皇が、魏の使者を伊都国(いつくくに)の迎賓館に留めおいて、絶対に奈良盆地の大和朝廷への訪問を許さなかったのは、魏を潜在敵国potential enemyと見做し、用心に用心したからである。
しかし、魏の使節は、大和朝廷の奈良盆地内に放ってきた、諜報員を兼ねる支那人の商人や技術者(織物・染色・土木・建築その他)を迎賓館に集めて、この軍事侵攻ルートの研究を完成させた。が、歴史に無知蒙昧な西尾幹二は、魏の使節が蒐集した「目撃者の証言は、不正確で当てにならないもの(ばかり)」と(155頁)、これまた罵倒する。開化天皇は、これら入国する技術者たちが、唐津湾も今津湾も博多湾も瀬戸内海コースも知ることがないよう、また日本人との接触を絶対にしないよう、福岡県の津屋崎に外国人専用の船着き場を造り、(瀬戸内海を使わせず)日本海周りにした。しかも舞鶴に下船した後も山中をぐるぐる引き回し、その後に奈良盆地に入れた。拙著82~5頁参照。
日本の友好国だった公孫氏を倒した魏を信用しない大和朝廷の平時の国防態勢は完璧で万全だった。しかも、国防軍総司令官の開化天皇は自分の存在を隠し、叔母の百襲姫を国家元首と偽って「親魏倭王」に認めてもらっている。魏を偽計で対日侵攻の気を起こさせない第九代開化天皇の見事な策略は、新羅を焚きつけ唐の軍事力を朝鮮半島から追放した“東洋のビスマルク”天武天皇の才を凌ぐ。(備考)中川八洋『神武天皇実在論』第三章を必ず読むこと。
西尾幹二の歴史改竄とその詭弁はダーティ。『魏志倭人伝』は、対日侵攻ルート諜報調査報告書だから、初めから史論であるはずもない。なのに、西尾幹二はタキトゥスの史書『ゲルマーニア』などと比較して、「史論」の評価物差しを「史料」のそれに摩り替え、「歴史資料として廃墟だ」と罵っている(169頁)。史論と史料は別次元のもの。が、西尾は罵ることを目的に、同一ジャンルに括る作為を行なう。小学生の野球全国大会で優勝したチームを大谷翔平と比較して、「まるでボール遊びだ」と罵るやり方と同じ。西尾幹二の人格は“凶悪な殺人鬼型”。西尾幹二が、通常の人間ではないのは、この異常な罵倒で十分に明らかだろう。
特に、『魏志倭人伝』の著者・陳寿に対する西尾幹二の執拗な人格攻撃は、ミュンヘン大学が喝破したように、西尾幹二とは狂犬以上の“噛みつき狂猿”。人間ではなく野獣。
イ、「書き手の陳寿という人物のパーソナリティ(人格)が感じられない」(151頁)。
ロ、「陳寿は我々が再体験するに値する《人間の行為や思想》を何一つ語っていない」(168頁)。
ハ、「陳寿は、自己を語っていない平板陳腐な小記録(を書いた)。(『魏志倭人伝』の目的ではない)他者を語ることには少しも成功していない」(170頁)。
邪馬台国は「やまとのくに」、卑弥呼は「ひめみこ」が正しい訓み。「ヤマタイコク」「ヒミコ」は嘘訓み
日本の古代史学界は共産党に乗っ取られ、正常な歴史学的な学問研究は排除され存在しない。「台」の古音は「と」だから、「邪馬台国」は「やまとのくに」としか訓めない。が、実在する大和朝廷を抹殺すべく、わざと不可能な訓み「ヤマタイコク」に誤読させる。これ、学問ではなく共産革命。
学界が正しい訓み「ひめみこ」を禁止するのも、こう正しく訓めば、誰でも笠井新也や中川八洋と同じく、「百襲姫」に比定してしまうからである。なお、内藤湖南は「倭姫」に、日本書紀は「神功皇后」に比定。これらは間違いだが、大和朝廷の女性皇族としたことで半分合格。つまり50点。
笠井新也や私のように『魏志倭人伝』を正しく読むと、奈良盆地の大和朝廷の歴史年表が正しく浮かび上がる。『魏志倭人伝』は、日本の古代史を明るみに引き出した探照灯。偉大な史料である。
一方、日本共産党特別党員の西尾幹二は、津田左右吉や井上光貞とは共産革命の同志で、神武天皇から神功皇后までを抹殺する革命を遂行すべく、『魏志倭人伝』“抹殺”に全力投球した。西尾幹二『国民の歴史』第七章は、井上光貞の『魏志倭人伝』“潰し”(拙著『神武天皇実在論』98~106頁)を手を変え品を変えて継承したもの。西尾幹二は井上光貞の後継者たらんと粋がっていた。
第八章「王権の根拠」は、《津田左右吉に続け!》と雄叫ぶ西尾幹二の天皇制廃止論
一欠けらの日本人性を有さない非国民だから、二文字「天皇」を見るだけで虫唾が走る共産党員は、「天皇」の代置語として珍語「王権」を考案した。天皇制廃止の運動でも二文字「天皇」を使うのを止めようと共産党員に檄を飛ばした最初は、共産党員の西郷信綱(『詩の発生』、1960年)。
そして、井上光貞『日本古代の王権と祭祀』(1984年)や網野善彦『異形の王権』(1986年)以降、共産党員古代史学者が、一丸となって、「王権」を教宣した。この奇々怪々な言葉「王権」は、古代エジプトのファラオの研究のための考古学用語で、フランクフォート『Kingship and Gods』などからの援用。日本の天皇に対し、「早く廃止されて考古学の対象に成れ!」「天皇制は死んだ。死んだ天皇制の天皇はどんな権力を有していた?」と、罵倒や揶揄が目的の、まさに不敬の極みの矯激な共産党語。尚、この「王権」については、拙著『神武天皇実在論』182~7頁が、分析している。
だが、日本で普通の「王権」の意味は、英国の「王権神授説divine right of King」や「国王の大権royal prerogative」のそれ。一方、古代史学界の珍語「王権」は、限りなく意味不明。なのに、小学校から大学まで、全ての教科書やその他の出版物で、“赤い狂語”「王権」がやたらに大爆発している。仮に西尾幹二の「つくる会」が“保守”ならば、また彼らが通常の日本人の団体なら、率先して共産党語「王権」の廃止を訴えたはず。が、『国民の歴史』も西尾幹二たちも、逆に共産党語「王権」を大宣伝した。
さて、西尾幹二が『国民の歴史』第八章で何を訴えているのか、明らかにせねばならない。この章、一読では何を書いているのかよくわからないからだ。“性悪の極左”西尾幹二が“真実隠し/本心隠し”で展開する悪質なレトリックは、相当な注意を払わなければ、読者はイチコロに騙される。
章タイトルは、天皇“位”と支那の皇帝“位”の正統性の相違比較。むろん、これ、偽装。こんな比較、中学一年生でも知っている事柄だから、わざわざ独立の「第八章」をつくる必要などない。
三種の神器“承継”廃止/大嘗祭の廃止/男系男児の廃止──『国民の歴史』第八章の怖い狙い
『国民の歴史』第八章で西尾幹二が読者を洗脳せんと狙ったのは、天皇位の正統性の三条件──①神武天皇からの父方の血が流れている男系であること、②三種の神器が承継されていること、③大嘗祭が滞りなく挙催されること──をぶっ壊すこと。西尾は、この第八章でもう一つ、密かな誑かしをしている。①②③がなくとも、X「宣命で②③は代替できる」&Y「天皇位は人民の同意と推挙で決めればいいのであって(人民主権/国民主権)、男系男子に拘る必要性もない」との国民騙し詭弁を、読者の頭に刷り込もうとしているからだ。西尾の『国民の歴史』は、このように、その内容を一つ一つ正確に解剖すれば、『国民騙しの嘘歴史』と改題されるべきが判明する。
上記の革命ドグマX&Yを法螺吹く悪名高い過激・共産党員二人を、西尾幹二は『国民の歴史』の趣旨からして全く不必要なのに、なぜか褒めちぎっている(表1)。西尾の秘めた天皇制廃止策略、すなわち上記①②③及びXYについて、両共産党員が間接的に理論提供をしているからだ。西尾幹二にとって両名は“わが革命の同志”で、西尾幹二の両名への感激が伝わってくる。
表1;天皇制廃止の凶悪・共産党員をベタ褒めする西尾幹二の底意
天皇制廃止に爆走する凶悪な共産党員 |
これら極左不必要なのにベタ褒めする西尾幹二 |
水林彪。『記紀神話と王権の祭り』『王権のコスモロジー』『天皇制史論―本質・起源・展開』。出版社は日共の岩波や柏や青木など。 |
「最近では最も確かな立証の仕方をして見せた論文」「詳細を極めて論及」(184頁)「法制史家としての緻密な論証結果」(189頁) |
吉田孝。『律令国家と古代の社会』。稀代の嘘つきで、歴史改竄が趣味。 |
「極めて優れた古代王権の解釈」(194頁)「最もすぐれた研究書」(195頁)。 |
東大在学中、民青活動とバイオリンに集中し、もともと劣等生で入学した水林の“お馬鹿”脳は、ますます赤く腐ったトマト・ジュースになった。だから、トンデモ本しか書かない。しかも、劣等生らしく、水林の国語力を欠く文章は、文旨がほとんど掴めない。悪文以下のスーパー悪文。水林彪は、小学校の作文教室に通うべきだ。
例えば、水林が付けた、本の表題『王権のコスモロジー』って、意味わかる? 私は店頭で見た時、「英国の王権神授説の宇宙論」のことかと思った。珍語「王権」は、天皇を表徴できない。古代史の“史学”に、コスモロジーは存在しない。
ところで、水林彪/谷口孝/西尾幹二らがデッチアゲ嘘歴史を軽視しないよう警告しておきたい。首相・安倍晋三が遂行した《2019・4・30共産革命》で、「水林彪→西尾幹二→安倍晋三・菅義偉・内閣法制局の三者による、譲位禁止と剣璽渡御の禁止」の系譜を否定することはできないだろう。
尚、《2019・4・30共産革命》とは次のこと。2019年4月30日、上皇陛下に対して譲位禁止の共産革命が、“史上空前の共産主義者”安倍晋三と“悪魔の共産党員”菅義偉によって断行され、上記②の「三種の神器の承継」が禁止され、《人民が新天皇に剣璽を渡す》形式で挙催された。この日本史上最悪の大事件を、片時も忘れてはいけない。上皇陛下のご無念に想いを致して、安倍晋三に対する天誅の精神を日本人は決して失ってはならない。安倍晋三の国葬に参加した日本人を八つ裂きにする処罰も忘れてはいけない。
このように、『国民の歴史』第八章を正しく考察すると、西尾幹二とは、谷沢永一の炯眼「純度百%の共産党員」よりも、はるかに過激でもっと凶悪。西尾幹二とは、共産党員度が大濃縮した“千%共産党員”と考えるべきだ。
宣命が天皇“位”に権威を与える??? 古代天皇は近隣豪族の共立(=人民の互選)???
西尾幹二は狡猾な上に、読者騙しのレトリック力が日本一。表向きの言葉から西尾の真意を安直に推し量ってはいけない。最初に水林彪、次に吉田孝について、彼らをベタ褒めする西尾幹二の脳内を覗くとしよう。
(1)水林彪。水林は、超過激な天皇制廃止の革命運動家。水林の論文「律令天皇制(共産党の珍語狂語)の神話的なコスモロジー」(『王権のコスモロジー』第一章)では、共産党語が花火大会のごとくにオン・パレード。「皇統譜」を「王統譜」(お豆腐?)/「崩御」を「死去」としたり(『コスモロジー』21頁)、皇女を「娘」/「皇后」を「妻」としたり(22頁)、古代史料の表記を徹頭徹尾に改竄。共産革命家・水林彪は、学者ではない。
そして、西尾幹二だが、これら水林のトンデモ共産党語「王統譜」「死去」「妻」を、そのまま用いている(『国民の歴史』187頁ほか)。西尾幹二が、志位和夫以上の狂信的な天皇制廃止論者で、「スターリン三十二年テーゼ」を日々拝む共産主義者であるのは、かくも明白。
それはともかく、西尾幹二は、なぜダラダラと水林彪の意味不明な文を紹介し続けたのか。水林の“律令制下の即位宣命”の言及が天皇制廃止の詭弁として有効に活用できると、西尾幹二が飛びあがって興奮しなかったならば、このような紹介をしなかったはず。
西尾幹二は、天皇制度の正統性の絶対を構成する「①神武天皇に繋がる男系の血、②三種の神器の承継、③大嘗祭の挙催」を憎悪し、この三つを破壊・消滅させることを、永年、内心で煮え滾らせてきた。そこに、即位宣命(践祚・即位に当たって新天皇の詔勅)が天皇位の正統性の根拠になっているとの水林の詭弁を知った。西尾幹二は即座に、《即位宣命をすれば、「神武天皇に繋がる男系の血/三種の神器の承継/大嘗祭の挙催」なんか要らない》との大詭弁を思いついたのである。
しかし、即位宣命は、践祚即位に当っての百官の臣下に対する新天皇としての宣言で、天皇位の正統性の根源たる①②③とは次元を異にする。が、天皇・皇族“皆殺し”が信条の西尾幹二にとって、①②③の抹殺・消滅のためなら、どんな屁理屈でも詭弁でもその活用を躊躇わない。
(2)吉田孝。西尾は、吉田孝『律令国家と古代の社会』から、著作権法“違反”を気にすることもなく、二頁にわたって丸写しの引用をしている(『国民の歴史』、194~5頁)。西尾は、この引用をもって、全く無関係な支那帝国の皇帝“位”と、意味不明な比較(比較の振り)の雑談をする。つまり、支那帝国の皇帝“位”は舞台装置で、比較は誑かしの煙。あくまでも吉田孝の主張(引用文)を読者に摺り込むのが、西尾幹二のこの章の目的。
引用文で吉田が主張しているのは、ただ一点。天皇“位”は畿内豪族が共立した地位。よって、「天皇制とは、畿内豪族政権」で「王民制」(共産党製の珍語、「皇民制」のこと?しかし、「皇民制」もまた奇々怪々語)であった、と。馬鹿々々しい。律令時代、畿内豪族であれ地方豪族であれ、全て天皇に臣属する臣下。天皇は神武天皇と父系の血で繋っている皇族しかその位に即くことはできない。
つまり、吉田孝は犯意をもって嘘八百の嘘歴史を捏造したのに、西尾幹二は、これに感激感動。何故か。「どうしても天皇制度を欲するなら、天皇は、皇統の血が入っていない人民の互選で擁立すべきだ」が、西尾幹二の持論だからだ。この荒唐無稽な(天皇制廃止に至る)西尾持論を補強した真赤な吉田“嘘歴史”に、「吉田孝よ、よくぞ捏造してくれた。有難う」と、西尾幹二は飛び上がって感謝感激しベタ褒めした。
序。私の書庫に吉田孝の『古代国家の歩み――大系《日本の歴史》第三巻』(小学館)がある。何とも粗雑な内容で知が消え失せた読む絶えない代物。この分析は別稿に譲る。ここでは、末尾に添付された地図「律令子国家と日本列島」が捏造の真赤な嘘地図なので、それを指摘したい。
680~1230年頃の北海道には、秋田・青森県からの移住した農民や商人とその子孫十万人以上が居住していた。むろん、全員が日本人。彼らの考古学的な特徴の一つに、秋田県オリジナルの土師器の使用がある。この土器を共産党員のアイヌ学者は、《北海道で生産された秋田県オリジナルの土師器》とせず、「擦文土器」だと命名。ここまでは我慢する。しかし、真赤な嘘歴史「北海道には擦文文化があった」との歴史捏造を許すわけにはいかない。正しい歴史記述は、次であるべき。
「北海道には、奈良時代以前(680年頃)から鎌倉時代初期にかけて、秋田県・青森県の移住日本人で栄えた時代があった。恐らく五百五十年ほど続いた。1230年ごろを境に消滅したのは、毒矢や奥州藤原氏の残党が有していた武器でアイヌが“皆殺し”したからだろう。アイヌのチセは、この日本農民の家屋のパクリだし、“サクシュコトニ川の遺跡”などは擦文期移住日本人の生活の一端を伝えている」(拙著『侵入異民族アイヌの本当の歴史』、100頁その他)。
アイヌは土器を作らない/使わないから、八千年ほど北海道の主だった縄文人や擦文期日本人とは異質な、シベリア少数民族のがわかる。そのアットウシや毒矢は、アイヌがアムール川にいたことを証明する。大嘘つき吉田孝の歴史改竄の害毒から、日本は正しい歴史の真実を守っていかねばならない。