筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
日本国の中枢が、天皇制廃止の反日革命家に剥奪されれば日本の国家死滅は不可避。防ぎようがないからだ。「天皇制廃止の反日革命家が国家簒奪”」状態の中でも最悪は、“保守擬装”“愛国擬装”した日本憎悪の極左革命家が思想的・権力的に日本国を剥奪した場合。なぜなら、最後の頼みである、見識ある一般国民が立ちあがっても、誰が極左反日革命家か判別できないからだ。
現に、1945年8月の戦前日本の亡国は、イデオロギー的に“ロシア教=レーニン教”の狂信者たちに、霞が関と陸軍という国家の中枢権力機関を握られた結果である。その情況とは、日本国全体が思想における《ロシアの属国/奴隷国》になったことに他ならない。特に、日本国民に最も影響ある朝日新聞が、この“ロシア教=レーニン教”の狂徒の新聞社になったことが、日本をして1906年に始まる《ロシアの属国化/奴隷国化》を推進した。
「天皇制廃止の反日革命家“剥奪”」を牽引する赤い機関車の一つ、保守偽装の政治家&学者のアジプロも、日本国の亡国に決定的な働きをなす。だから、「政治家(学者)の一人ぐらい赤くても、大勢には関係しない」などと、決して油断するな。箴言「蟻の一穴」を心に刻め! また、戦国時代を想起すれば、このような油断が命取り。例えば、家老職ポストの一つに潜入した敵の武将を一人でも採用すれば、有事にこの城は一気に落ち、城主の殿様は打首となり、国は亡びる。
私が、戦前日本の“偽装右翼”上杉慎吉/平泉澄、および“政治ド素人の御公家さん”演技の達人・近衛文麿の正体を暴いた学術的な論考を発表したのは、日本国が「天皇制廃止の反日革命家」に“剥奪”されて日本国中が廃墟となり、翌1946年には日本人一千万人の餓死が確実な惨状となった1945年8月の日本の光景を喚起し警告するためであった。
GRUテロリスト平泉澄と瓜二つ西尾幹二は、上杉慎吉の偽装方法も重ねた「保守」“厚化粧”人士
(1)皇国史観の平泉澄は、8.14宮城クーデタで阿南惟幾・陸軍大臣の同志だったように、昭和天皇の銃殺と天皇制廃止が信条。「皇国史観」とは、治安維持法逃れのためのマルクス・レーニン主義の変名で、天皇テロリズムを転倒した日本国民騙しの詐欺名称。
1935年の「国体明徴」政府声明に始まる、文部省主導の『臣民の道』『国史概説』等の頒布による皇国史観は全てスターリン崇拝狂に基づいた、日本を共産主義独裁の全体主義体制に革命するレーニンのドグマ。それらは、日本国の伝統全ての絶滅を目指すもので、この核心を喝破されたのが天才・昭和天皇。昭和天皇は、戦後すぐの1946年元旦詔書で、皇国史観の一掃と1935年の「国体明徴」政府声明の放棄を国民に訴えられた。が、この詔書を共産党・朝日新聞は『人間宣言』だと歪曲し、徹底的にこの嘘を宣伝した。
1946年元旦詔書を、1935年の「国体明徴」政府声明の放棄だと正しく指摘したのは、私以外、竹山道雄の女婿・平川祐弘だけ(『平和の海と戦いの海』)。日本の現代史は隅から隅まで、共産党に検閲され改竄されている。このことは、「平泉澄とは河上肇以上のゴリゴリのスターリン狂徒」だと、ごく当たり前の事実を指摘したのが私一人しかいない事実にも通底していよう。
(2)また、平泉澄や文部省のドグマ「国体」「皇国史観」は、反・体制アナーキズムの水戸学とも結合。これは、水戸学とはレーニン主義のテロリズム教の近縁にあって真当な学問でなかったからだ。日本で、反・水戸学を旗幟鮮明に掲げたのは、明治憲法/明治皇室典範の起草者・井上毅とその協力者・金子堅太郎。金子堅太郎は、日本のバーキアン第一号。私がバーキアン第二号。実は金子と私は、黒田藩の藩校・修猷館の先輩と後輩。黒田藩は、尊王攘夷の水戸学を禁止していたので、金子と私の「バーク主義」「反・水戸学」は、この黒田藩の方針と無関係ではないだろう。
水戸学は、藤田東湖/会沢正志斎/吉田松陰などの諸著作を読めば一目瞭然だが、低級すぎて笑止な学問以下で、似非学問。尊王攘夷で国家が守れるなど、烏滸の沙汰。反・水戸学の井伊直弼がテロ未遂事件で吉田松陰を斬首したが、井伊直弼の処断は日本の国益に合致していた。
(3)平泉澄を絶賛して宣伝していた男に(西尾幹二と同じ)“赤の溜り場”東大独文科卒の小堀珪一郎がいる。小堀は、ルソー『人間不平等起源論』が座右の書だとの公言通り、王制廃止論=天皇制廃止の急先鋒。小堀が『昭和天皇論』を出版したのは、自分の正体「共産主義者=天皇制廃止」を隠すための狡猾な擬装用の出版。小堀の心底は平泉澄と同一で、昭和天皇銃殺“狂”徒。
だから、小堀桂一郎は、キーナン検事が王制主義者で、昭和天皇を無罪にしたのではなく、それ以前に不起訴にしたのが口惜しくて堪らず、執拗に、共産党と共同歩調で東京裁判を呪い続けた。この小堀珪一郎の東京裁判に対する糾弾と呪詛は、家永三郎ら共産党の「昭和天皇“戦争責任”論」と共同歩調の一心同体。民族系の“馬鹿の一つ覚え”「東京裁判史観!」は、1978年頃、モスクワのKGB第一総局が日本国内に持ち込んだブレジネフ語。「東京裁判史観!」を叫ぶ藤岡信勝/西尾幹二/櫻井よし子らはロシア系の“敵性の非国民”。シベリアに追放されるべきだろう。
(4)“右翼擬装/保守擬装の極左”の嚆矢は、上杉慎吉。その後の日本の極左人士は皆、上杉から偽装方法を学んだ。天皇殺しが信条の平泉澄の「皇国史観」も、フランス革命原理主義の上杉慎吉が昭和天皇をギロチンで殺したく考案した「天皇主権」論の模倣。上杉は「天皇制廃止を天皇にさせる」ことを思いついた。「天皇は主権者だから、明治憲法を破壊する権能を有し天皇制度を廃止できる」、と。そして次に、天皇制度を廃止した罪で、昭和天皇をギロチン処刑する。
しかも上杉は、自分の超・左翼が見破られないように、中道の憲法学者・美濃部達吉の天皇機関を、《右翼側から叩く》という策に出た。これにより上杉慎吉は、正体「極左」が隠され、逆さイメージの「右翼」になった。これを見破ったのが天才・昭和天皇。美濃部達吉を宮中に呼び慰められた。
(5)谷沢永一の単騎特攻で、「西尾幹二は共産党系の極左だ」との噂が流れた2000~1年の動向を逆流させようと、西尾は唐突に、“マルクス崩れのアナーキスト”西部邁の《読む価値無しの雑談漫談》を激難し、西部邁に奇天烈なレッテル「反米保守」を貼った(→西尾自身が「親米保守」になるレトリック)(『正論』2002年3月号)。ニーチェ・ヒトラー系アナーキストの西尾幹二こそ“度外れの反米極左”。それがどうして親米保守なのか。また、そもそも西部も西尾もアナーキストで、ともに“反米極左”。両者はともに、保守とは真逆の対極の“スーパー極左”。
西尾幹二とは、「日本は米国とこれからも戦争すべき」と煽る“共産党以上の超反米”。だから、それをタイトルにした『日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったのか』(2002年8月)まである。西尾幹二は日米安保条約廃止においては、日本共産党の志位和夫と全く同一。なのに、この重大事実を知らない振りをするのが、野獣的な下衆の集まりといえる西尾信者たち。例えば、西尾を2025年の今、称讃・宣伝しまくっている門田隆将は、実に怪しい。日共秘密党員かも知れない。
ともあれ西尾は、西部邁に逆さ嘘ラベル「保守」を貼って、自分を「保守」に誤解させるレトリックを2002年3月号の正論で行ったが、この手法、上杉慎吉の美濃部達吉攻撃(=天皇機関説論争)と全く同じ。要は、西部も西尾も救いがたい「反米」なのに、西尾が西部を、「お前は、反米だ!」と罵ることによって、跳ね返って「西尾は親米」という荒唐無稽な逆イメージを心理的に醸成するのを西尾は利用した。西尾幹二のレトリックは、第一級の、偽りの自己イメージづくり力を発揮する。明治維新以降では、「上杉慎吉、平泉澄、西尾幹二」が、この道の三大ワル(悪人)。
なお、私は、アナーキスト西部邁の作品など、影響力がない戯言雑談の類と無視している。つまり、読む価値も批判する価値もない“無害な極左の戯言”が西部の諸作品。実際にも記憶に何一つ残らないし、誰でもポイ捨て? 私にとり西部邁は「優しいお兄ちゃん」。それ以外の人では無い。
一方、アナーキスト西尾幹二の作品は、有毒な伝染病菌を放ち一般人に浸透力がある猛毒麻薬。だから、徹底的に滅菌・除染洗浄するのが私の責務。私の書庫に西部の作品は一冊もない。一方、西尾の作品は百冊以上も並んでいる。日本国を守る思想国防において当然の差別。
(6)近衛文麿は、河上肇の直接の愛弟子で“スターリンの犬”で稀代の共産主義者。しかし、近衛は、この正体を隠蔽すべく、「僕、政治が全く分からないお公家さん」演技の名手であった。近衛文麿の真像暴きは、拙著『近衛文麿とルーズヴェルト』でなした。精読を是非とも勧める。
戦後日本における保守偽装の三人の超・反日極左「西尾幹二、櫻井よし子、福田和也」を暴いた私
戦後日本では、戦前以上の、自分の正体や真像を隠蔽するのがひどくなったし、ほとんどの政治家や学者や官僚あるいは新聞記者などの常態になった。これらの界隈における偽りのイメージづくりに励んでいる者は、総計で数千名になるかもしれない。この意味で、私がたった三名「福田和也、西尾幹二、櫻井よし子」の正体暴きしかしていないのは、空しい気に襲われる。が、方法論の提示が学者の使命。多くの日本人が、私のこの三ケースの分析手法から、他の偽装人士の思想本籍暴きに邁進されるのを希望する。
北朝鮮人・福田和也(中核派)の正体暴きは、ポスト‐モダンの概説書を兼ねた本格的な学術書で行った。1995年に始めたが、完成したのは十年後の2005年。『福田和也と《魔の思想》』がそれ。福田和也は、この書で筆が震え評論家活動から引退。同書は、「一冊必殺」の効果満点だった。
日本共産党秘密党員かつ北朝鮮人でKGBロスケ櫻井よし子については、『女性皇族「囚人」〝狂〟櫻井よし子論』第Ⅰ部で、ほんの少し行った。出版を急いだために、第Ⅰ部の第五章と第六章の収録が間に合わなかった。両章は『ゼミ講義』にupしたので、併せて読まれたい。
問題は、『西尾幹二の研究』。これ、未だに出版に漕ぎ着けていない。この事には忸怩たる思いがあるのは、谷沢永一氏との約束を、私が破っているからだ。
谷沢永一は、かねてから西尾幹二を共産党員(正確には「共産党特別党員」)と喝破していた。また、西尾幹二の「教科書をつくる会」が共産党の下部機関であるのを見抜いていた。私が1999年8月、谷沢永一に主張したのは、「西尾は、共産党と談合的につるんで《つくる会》の教科書を執筆している。しかし西尾は、共産党員としてではなく、あくまでニーチェ・ヒトラー系の“廃墟”主義アナーキストとして共同謀議している」、と。
が、西尾幹二が1999年11月末に贈ってきた『国民の歴史』を一読した時、谷沢の西尾評が正しいと、愕然。西尾幹二は、体の半分はアナーキストだが、体の半分は共産党特別党員の混血児。共産党史観一色の『国民の歴史』は、共産党特別党員として執筆している。
それから一ヶ月後の1999年末、ビジネス社から、「谷沢永一先生は単騎、西尾幹二“糾弾”に特攻します。中川先生はどうします?」と聞いてきた。私は、「1997年年頭に路の会に入会し、西尾がスーパー極左反日である証拠集めをしてきた。これを2001年末まで丸五年間続け、2002年に大著『西尾幹二の研究』を出版し《一冊必殺》したい。このアジェンダを変更する気はありません」と答えた。実際にも2000年正月時点、私が谷沢永一に助人する特攻機は、五十枚の論文「西尾幹二の『国民の歴史』は、天皇“抹殺”共産党史観」一本のみ。こんな複葉機の特攻では役に立つまい。
が、2002年になっても大著『西尾幹二の研究』はできなかった。2025年時点、それはまだ出版に至ってない。2000年に谷沢永一が日本国のため、特攻機『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』で突っ込んだ時、助人すべきだったと、過去二十五年ずっと、私は自省している。谷沢永一の指摘「つくる会の教科書は、底辺に共産主義を秘めている。共産主義しか頭に入っていないから、少し話題をずらしても、直ちに本音が文面に現れる」は、実に正鵠を射た名言。
潜入捜査の成果はダボハゼ一匹(=西尾幹二の自白「ミュンヘン大学から退学処分された」)のみ
私が西尾幹二に初めて出会ったのは、1996年7月23日の第一期「路の会」定例会に講師として呼ばれた時。これが、渡部昇一から“噛みつき狂犬”と聞いていた人物との初邂逅。西尾幹二は、この第一期「路の会」で例会案内を送ったメンバーとして私の名前を書いている(『日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったのか』、306頁)。これ、全くの間違い。その時の私は入会していないし、1996年7月まで西尾幹二に会ったこともない。西尾が送るはずはなかろう。
さて、私が入会した第二期「路の会」の初会合は1997年6月。それから二年以上が経った1999年11月30日の「路の会」例会で、私の潜入捜査がやっと報われた。例会後の飲み会が午後9時半頃から蕎麦屋(新橋駅から東に50ⅿほどの右折する角に立つビルの地下一階)であり、西尾幹二の学歴詐称を問い質すチャンスが訪れたからだ。10時半頃になり、西尾の席に誰もいない情況で、西尾は独り大八海(吟醸)の冷酒を飲んでいた。私は彼の目の前に座り、執拗に次の二点を繰り返し訊いた。
a「ドイツに留学したと言うけど、著作奥付プロフィールに、大学名が書いていない。推定するにミュンヘン大学/ボン大学/ケルン大学のどれかのようだが、いずれか」。
b「留学時のステータスは、《大学院生、研究生、単位取得学生》のうち、どれか」
西尾幹二は、これには一言も答えなかった。ショーンKと同じく、留学していないから当然の沈黙。が、私が筑波大学で永年人事に携わっているのを知っている西尾幹二は観念したのか、次を口にした。言葉を平易に直すと、A「ドイツに着いてすぐ(1965年9月)、退学処分になった」(大学名は伏せたまま)。だから、ドイツ留学の大学名が書けない、と。私が驚いたのは次の方。これ、自慢話ではないか。退学処分されたのを自慢話に摩り替える人間など、西尾幹二以外、誰もいまい。
B「退学処分されたから、博士号が採れた」。これは、バイエルン州立ミュンヘン図書館に二年間通い、ニーチェ伝記を書くための資料を四千枚の写真コピーで撮ったことを指す。西尾『ニーチェ 第二部』390頁に記述されている。
C「ドイツに着いて直ぐ退学処分されたら、日本人の誰でもショックで帰国する。だが、僕は博士論文の資料集めに活用。どうだ、危機時の俺様の判断は非凡で優れているだろう」と、踏ん反り返って威張った。私は、この時、口には出さなかったが、「それ、奨学金の詐取になる。刑法犯罪!」と思った。実際にも、西尾幹二は天性の犯罪者性が強く、一般通念上の学者ではない。詐欺や騙しや盗みを日常とする、西尾幹二のような学者はそうざらにはいない。
国立大学では著作プロフィールの学歴詐称は、一発で懲戒免職!
西尾幹二の著作は二百点前後になるだろうが、どの本のプロフィール欄にも、「ドイツ留学」の五文字も「ミュンヘン大学」の七文字も見当たらない。仮にもこの虚偽を記述すれば、一発で電気通信大学から懲戒免職で追放される。狡猾な西尾幹二の用心深さからの無記述。私が、西尾幹二の近くに潜入して調査していた項目の一つが、この「西尾幹二=ショーンK」の確実な証拠入手。最有力な証拠「自白」を、1999年11月に採れたのは、上出来だった。
なお、バイエルン州立ミュンヘン図書館は大学ではなく、西尾がここで二年間過ごしても、「ドイツ滞在」となり、「ドイツ留学」にならない。西尾幹二はこれを知る故に、五文字「ドイツ留学」をプロフィール欄に決して書かなかった。西尾幹二は、杜撰でおおらかな西部邁と異なり、実に用心深い。
記述「西尾幹二はミュンヘン大学『研究助手』」は共産党wiki日本版と国書刊行会パンフレットのみ
法廷で私が心底から驚いたのは、西尾幹二は退学処分されていない証拠として提出したのは、所属する電気通信大学などの公的機関ではない、証拠性を全く有さない、民間会社にすぎない国書刊行会の『全集』宣伝パンフレットただ一つ。しかも、これ以外は無い、と主張。
ミュンヘン大学哲学部に所属する「研究助手」なら、「同僚の写真ぐらいあるだろう/指導教官の名前もあるだろう」と、私はそれらの提出を求めた。が、ゼロ回答。ミュンヘン大学に在学したことがないから、その様なものが全くないのだ。つまり、出版社のパンフレットに嘘学歴を書いてそれをばら撒いても、西尾幹二が責任を持つ出版物でないから、「私は知りません」の一言で済む。法的には学歴詐称にはならない。生来の犯罪者・西尾幹二らしい、この隙を悪用した学歴詐称の手口。
仮にも西尾幹二がドイツ国立大学の「研究助手」を二年も務めたら、ドイツ語の論文が最低でも三つや四つはあるはず。が、西尾幹二はドイツ語の論文が全く書けず一本もない。法廷で、私は、研究助手なら、ドイツ語の論文があるはずだから、それを出せと要求。が、出して来なかった。
また、研究助手は、Ph.Dのcandidateになった者が博士論文に集中できるよう、給与を支給するシステムだから、Ph.Dのcandidateでもない西尾幹二が就くことはできない。それがドイツに着くなり、いきなり研究助手とは、太陽が西から昇ってもありえない。西尾幹二の学歴詐称の悪辣さは、ショーンKどころではない。
西尾幹二の退学処分(入学取り消し)通知書は、次のようなものと推定できる。
西尾幹二に対する退学処分通知書 1965年9月○日 ミュンヘン大学哲学部 理由は以下の通り。 1、ニーチェ哲学に関し、ズブの素人以下で、いっさいの知見がない。 2、ニーチェ研究に絶対不可欠な古代ギリシャ語のマスターをしていない。それどころか、古代ギリシャ語が一文字も読めない。*古代ギリシャ語のマスターは、ドイツの大学哲学部の入学絶対資格。 3、ドイツ語で論文を書く能力が全くなく、本学入学の資格を有さない。 4、ドイツ語で学術的内容の討議能力をいっさい欠き、本学入学の資格を有さない。 5、・・・・ 6、・・・・ 7、・・・・ 8、背が低く、本学在籍にふさわしくない。 9、立ち居振る舞いが下層階級のそれで、本学在籍にふさわしくない。 |
そして、この退学処分通知書を西尾幹二に手渡す時、ミュンヘン大学哲学部の担当職員が、「醜悪な猿顔の日本人、さっさと日本に帰れ。ここはお前の来るところではない」と罵ったようだ。西尾幹二の周辺に潜入してから約三年、私は西尾の飲み友達に相当な時間と高級料理を浪費し西尾幹二が酔って話した内容を収集。「ドイツで醜悪な猿顔と罵られた」との話は、相当な数が集まった。
「《背が低い》《立ち居振る舞いが下品》が処分理由になった」と西尾がボヤいたとの情報も得た。これらを、西尾幹二の博士論文『ニーチェ 第二部』390頁の記事(中央公論社)と総合。これだけでも、西尾幹二がミュンヘン大学への入学資格を、入学直後に取り消されたのは十全に証明されている。が、念には念をいれ、私は西尾幹二の自白を取るチャンスを丸三年間も窺った。
なお、博士論文『ニーチェ』奥付の西尾プロフィールを観よ、「ドイツ留学」「ミュンヘン大学」の文字がない。また、大学外の施設で、博士論文用に選び抜いた四千枚の写真copyを撮るのに、二年の歳月はかかる。大学に通学する暇は一日もなかったはず。またドイツでは、背が低い者への公然差別は、1970年代までは慣習として許されていた。タルコット・パーソンズの事例は、この一つ。
西尾はなぜ中川を訴えた? 退学処分された事実を拡散されないよう中川“口封じ”が理由の一つ
西尾幹二が2013年秋、東京地裁に中川を提訴した理由の筆頭は、共産党に依頼され、中川の脱原発“糾弾”を封殺し、日本の脱原発を推進するため。が、共産党から中川を提訴しろと、半ば命令された時に西尾幹二が喜々と快諾したのは、「中川を放置すれば、ミュンヘン大学から退学処分されたことがいずれ広まる」と恐れ、中川“抹殺”の口封じせんと実行したもの。
共産党wiki日本版の事務所は代々木の共産党本部の中。西尾wiki記事は共産党が全面協力
2024年11月1日、西尾幹二の死没と同時に、wiki日本版は一夜にして、全文が総入れ替えとなった。西尾幹二が生前に準備していた大部の記事が、そのまま掲載された。西尾幹二は、日本共産党特別党員なので、日本共産党が百%独裁するwiki日本版においては、西尾幹二のしたい放題が許される。要するに、どんな見え見えの大嘘でも、何でもOKなのだ。
wiki項目「西尾幹二」の冒頭に、西尾幹二は「ミュンヘン大学近代文学科のヘルマン・クーニッシュ研究室の客員助手として西ドイツ留学」とある。これ、wikiでは初出。これが本当なら、西尾幹二は、生きている間に出しているだろう。なぜ、西尾幹二は、この記述をwikiに出さなかったのか。ブダイな出版物の奥付プロフィールにも、なぜ書かなかったのか。生前なら問い糺され、嘘がバレるからだ。西尾は、この危険を避けたのである。
また、国書刊行会のパンフレットでは「(給与が支給される)研究助手」だったのが、今度のwikiでは「(「ゲスト扱い」だったという意味の)客員助手」に変更している。私が法廷で「ドイツ語で論文が書けない者が研究助手になれる可能性は万が一もない」に対応して慌てて変えたようだ。
だが、「客員助手」もありえない。「学術的内容を会話するドイツ語はできない」「ニーチェ哲学が、皆目わからない」ものを助手にはしない。足手まとい甚だしいからだ。要するに、助手とは教授の雑用係だから、「お客様=ゲスト」では務まらない。
西尾幹二のように、大学院生の資格を得ていない番外外国人に、日独親善からやむを得ず与えるステータスは、唯一「研究生」だけ。それなら、大学院生の部屋の片隅に机を置いてやり、(「単位は出さないけど、どの授業に勝手に聴講してもいいよ」の)「後は勝手にしなさい」で済む。尚、この場合、「客員研究生」にはならない。研究生には給与は出ないから、給与を出さない意味の「客員」を付ける理由が存在しないからだ。
さて、次が肝心。西尾幹二は、思い出や体験を事細かに、その都度、活字にする。なのに、指導教官の名前、同僚の助手の名前が、西尾幹二の厖大な作品に一つも出てこない。しかも、二年間の客員助手が本当なら、数本のドイツ語の論文を書いているはず。ドイツ滞在中でも、その内一本ぐらいは、指導教官が訂正してあげ、発表させているだろう。余り親切でない指導教官の場合は、それらを日本に持ち帰り、日本の学会誌で二、三本は発表しているだろう。が、病的な《書き魔》の西尾幹二が、客員助手の二年間、一本の論文も書かなかったという。これだけでも、「客員助手」という真赤な嘘、十分に暴かれている。
しかも、この「客員助手」という仕事は、国立ミュンヘン大学からかなり離れているバイエルン州立「ミュンヘン図書館」で二年間過ごしたという、博士論文『ニーチェ 第二部』390頁の記述と矛盾するではないか。「客員助手」は、妄想以上のベラボウ詐言。西尾幹二が大嘘つき詐欺師である証拠でしかない。
盗用盗作を常習とする刑法犯罪者・西尾幹二
西尾幹二の盗用盗作癖については、谷沢永一から聞いていたが、その時、自分がその被害者になるとは思わなかった。盗用盗作癖の三羽烏と言えば、「有本香、佐藤優、西尾幹二」か。有本香については、私が尊敬する“風刺漫画家”蓮見都志子の見事な有本香“風刺漫画”「手柄乞食は権威がお好き!=有本香は他人の業績盗みが超一流」が実に的を射ている。
そのキャッチ・コピーは、「手柄乞食(有本香のこと)は続くよ、どこまでも 権威に憑依し、乗り捨てて はるかな高みまで出世する 売り込みのネタはパクればいい」。「乗り捨てて」とあるのは、有本香は、最初は西尾幹二に媚を売り、次に小林よしのりの下に日参し、最後に同じ北朝鮮人・百田尚樹と金儲けのコンビを結成した。この経緯を、蓮見はうまく表現。
蓮見は、北朝鮮人の福島瑞穂と同じ家族解体論で事実婚主義の有本香を「手柄乞食 スプーン」と称する。しかし、spoonは隣のスープ皿からスープを盗むことを指す米語のスラング。「隣のスプーン」と訳した方がいい。また「手柄乞食」ではなく、「手柄泥棒/業績泥棒」の方が適訳。有本香の(他人の)業績を泥棒する病気は有名。西尾幹二のそれも有本と遜色がない。二ケースを紹介。
2002年4月に刊行された拙著『歴史を偽造する韓国』は、発売一ヶ月で初版の一万一千部が完売するという超人気だった。そこで西尾から、この本の概要を「路の会」2002年6月25日で講話するよう電話があった。概要を説明した後、会場はざわついた。司会の西尾幹二が、「さあ、皆さん、この本を叩きましょう」と煽りに煽り出したからだ。講師の私も会場の参加者も凍りついて啞然。結局、誰も口を開かず、沈黙が15分以上続き、お開きになった。
同年夏、この事件を西部邁に相談した。西部邁は(私は献本する習慣がないので献本していなかったが)「あのよく売れた本のことですか。西尾幹二のジェラシーは病的。中川さんには学術的な専門書をさも評論かにして出版する特殊才能がある。われわれ評論家は皆、学術的な評論をしたい。が、中川さんのようにはうまくいかない。西尾幹二は、あの本が羨ましく、それで中川さんに嚙みついた。西尾幹二はジェラシーが昂ぶると狂暴な狂犬に変身する。中川さんは、西尾幹二と急いで縁を切った方がいい。今の情況では危険!」と言った。多分、この年の、西尾幹二の同志で“宮本顕治の生れ変り”川勝平太が講師だった「路の会」例会をもって、私は遅すぎた脱会をした。
さて、問題は翌2003年5月に起きた。朝鮮人「金完燮」(北朝鮮の対韓潜入工作員)との対談本『日韓大討論』(扶桑社。この会社は、朝鮮大学校卒を大量に採用している)で、西尾幹二は、2002年6月に罵った私の『歴史を偽造する韓国』から、私の本からの引用とはせず自分の見解と詐称し、大量の盗作。西尾幹二の泥棒癖/詐欺癖は尋常ではない。盗作の対比表について、別稿で公表する。
(1)西尾幹二の『平和主義でない脱原発』は、全編、他人の著作の丸写しがふんだん。あからさまな甚だしい著作権法違反。筑波大学では「盗作」の一つに「自分の本の半頁を超えるをもって、他人の作品から引用した場合は、弁明を許さず盗作とする」との内規がある。在職中に、ある同僚が、アメリカの国際政治学者の本から大部に引用し、何と本人の本のちょうど丸々一頁に及んでいるが訴えられ調査委員会が大学本部に設置され、私の所になんとかしてくれと泣きついてきた。盗作と認定されれば、「減俸10%減、六ヶ月」の懲戒処分だから、本人はパニック。
話を戻す。西尾幹二の盗作を、私は『脱原発のウソと犯罪』で指摘した。ところが西尾は、これをもって名誉棄損だと逆に私を訴えた(あの2200万円訴訟の事由の一つ)。盗人猛々しいとはこのこと。西尾幹二の行動は、暴力団と変わらない。尚、この西尾幹二の著作権法違反を犯した記述は、別稿で公表する予定。
あくどい奨学金詐取とこの犯罪隠しの西尾流のプロ顔負けの偽情報撒布
西尾が日本の民間団体から奨学金を獲得したことは、国書刊行会『全集』宣伝パンフレットに明記されている。この日本の民間団体は、奨学金をドイツの銀行に送金し西尾は個人的に引き出すことができる。だが、“プロの一流詐欺師”である西尾幹二は、大嘘「ドイツに留学した」をデッチアゲるべく、《ドイツ政府給付金だった》を捏造。西尾幹二『私は毎日こんなことを考えている』15頁に、「ドイツ政府の私への支給額は月額五万五千円」と真っ赤な嘘を記述している。
さて、ドイツ政府は給付生に、「マルク」で支払う。また、「所属先の大学」に振り込む。外国人給付生は、大学の奨学金課に毎月受け取りに行く。西尾幹二はミュンヘン大学を退学処分されているので、ドイツ政府の給付金なら万が一にも受け取ることはできない。そもそも、マルクでの支払いが、為替レートから、きっちりした額「五万五千円」にはならない。西尾幹二の書いた記事すべて、嘘、嘘、嘘、の嘘の大洪水。その中から真実を掘り出す作業は並みの知識ではできない。
この民間団体は、西尾がミュンヘン大学に留学していると騙され、二年間、毎月五万五千円を横浜正金銀行から送金した。つまり、西尾幹二は、この民間団体から総額132万円を詐取した(1965~7年)。入学金と授業料は免除だった可能性があるので、西尾幹二がこれを詐取したとは言い切れない。この1960年代の額「132万円」は、2020年代では「二千万円弱」に相当。三十~三十二歳の西尾幹二は「二千万円弱」を詐取横領した。
“極左アナーキスト”西尾の死亡時の「西尾=保守論客」報道は、犯意ある“保守潰し”キャンペーン
日本共産党と完全に同じ「天皇制廃止」「脱原発」の過激運動家である西尾幹二を、新聞の死亡記事の多くは、「保守論客が死去」と流した(朝日新聞、2024年11月1日、16時29分)。西尾幹二の『皇太子さまへの御忠言』『(平和主義でない)脱原発』に怒っている本物の保守系日本人は、この報道には「エッ」と驚いた。
極左人士に嘘ラベル「保守、保守、保守」を貼るのは、1990年代から徹底的に実行された“保守潰し”キャンペーン。日本中すみずみに行き亙らせた、保守潰しの言葉殺し(logocide)。これを私は、(PHPの社員を通じ)福田和也に教わった。福田和也は、「天皇制廃止」を「天皇抜きナショナリズム」とすれば、愛国心と相克しないと錯覚され《天皇制廃止を一般の日本人に摺り込める》と、『VOICE』の座談会で説明したらしい。
確かに、西尾幹二に「保守論客」の嘘ラベルを貼れば、西尾の「天皇制廃止」も西尾の「脱原発」も西尾の「反米」も、“保守”となり、共産党と天皇制廃止/脱原発/反米を、加速的に推進できる。西尾幹二も(西尾幹二が後継者にしたいと考えていた中核派の)福田和也も、「天皇制護持/原発推進/親英米」を抹殺し潰すべく、自分を「保守」「パンク右翼」だと宣伝しまくった。これを、朝日新聞などはさらに増幅して拡散した。
蛇足。上述の朝日新聞記事は、西尾幹二について、「西尾幹二はショーペンハウアーの研究者」との嘘を吐いている。西尾幹二には、ショーペンハウアーの翻訳はあるが、その研究論文は一本もない。つまり、西尾はショーペンハウアーの翻訳家とは言えても、ショーペンハウアーの研究者とは決して分類できない。ニーチェについても、博士論文の『ニーチェ伝記』はあるが、ニーチェ哲学に関する本は、『ツアラトゥストラ』に関する雑談雑文の感想文(講談社新書の『ニーチェとの対話』)であるのみで、学術的な研究論文は一本もない。ミュンヘン大学が似非ニーチェ研究者として退学処分に附したのは、大学なら当然の措置である。
「お別れの会」集合の西尾信者は皆、極左の非国民で、保守はゼロだった。門田隆将もこの一人
「お別れの会」に参加したのは、ノンポリが数名いるかも知れないが、ほぼ全員がロスケ極左や非国民たちであった。保守は一人もいなかったとは、断定できる。これは、参加者の誰一人、真正な保守なら主張するはずの次の諸事項を決して口にしたことのない事実に完璧に証明されていよう。
(外交の分野) a、「ウクライナを支援せよ」「ロシアの侵略を許すな」「サハリンⅠ&Ⅱから撤退せよ」 b、「北方四島奪還!」「日ロ平和条約は、日ソ中立条約の二の舞、決して締結してはいけない」 c、「残虐なテロ組織ハマスを許すな!」「被害国イスラエルを支援しろ、日本」 |
(内政の分野) d、これ以上の赤字国債発行の禁止。財政規律に「国民負担率」を採用し、財政規律の絶対遵守。国債買い入れ機関に堕した日本銀行を、金融政策に専念する本来の中央銀行に戻せ! e、擬装難民など不法移民の国外退去。外国人への生活保護費の支給の禁止。中共支那人の日本の大学への留学の禁止と国外退去。イスラム移民の全面禁止。 f、女性皇族「養子論」による皇室典範改悪が進められているが、この天皇制廃止の絶対阻止。皇室の安定に寄与する唯一の有効策「旧皇族の復籍」の特例法の制定。 |
(備考)上記のabcdefを考察すると、門田隆将や高市早苗が本当に保守であるのか、疑問視せざるを得ない。高市早苗には夫婦別姓など、10%程度の保守があるが、門田隆将にはゼロ。門田は、西尾幹二との交際から心底は極左の可能性が高い(日共?)。少なくとも高市早苗との交際は、門田は売名が目的だろう。門田と高市との間に、思想における接点が何一つないではないか。
日共の革命「天皇制廃止/脱原発/中川潰し」に貢献のご褒美か、共産党「下賜」の瑞宝中綬賞?
西尾幹二は学問業績が全くない。ニーチェ伝記は学問ではない。確かに、翻訳業績はある。しかし、西尾と同程度の翻訳業績をもつものは多く、ほとんど無数。また、社会的には、西尾幹二は天皇制廃止と反原発と反米闘争(「GHQに対する中傷誹謗」など)はあるが、これは反社であって、社会的貢献の真逆。
すなわち、西尾幹二には叙勲すべき特別視する業績が皆無。が、2015年春、瑞宝章中綬賞を授与された。私は、これに関して、異様な体験をした。2015年10月の法廷で、東京地裁きっての共産党員裁判長の千葉和則は、西尾側の弁護士に、「アレを出しなさい」と私語をした。しかも、「アレ」で具体名でないから、事前に電話で指示していることがわかる。また、弁護士たちが出し渋ってきたことがわかる。
翌11月の法廷で、西尾側が出したのは、準備書面でなく、二つの資料。①すでに訴状と同時に提出されたものと同じ、「西尾幹二はミュンヘン大学哲学部の研究助手だった」という大嘘が印刷された、訴状に添付していた国書刊行会『全集』宣伝パンフレット。②春の叙勲の官報。そして、この二資料の提出手続きが終わるや、千葉和則は、「結審!」と宣言し、退廷した。
①に関しては、「民間会社の印刷物では、いかようにも虚偽が書ける。ミュンヘン大学に在籍した証拠にならない」と一年半前に私が主張し、一方、西尾側はこれにいっさい反論せず、一年半、無言を貫いたシロモノ。即ち、私の主張に降参しますと、西尾側は意思を表示した。
さて、②の叙勲だが、私が耳にした噂は、西尾幹二の天皇制廃止と脱原発キャンペーンに感激した共産党が推薦し、共産党員しかいない賞勲局の共産党員が審査の体裁をとって決定したというもの。しかし、この2015年11月、人づてに、まだ賞勲局に残っている推薦状や審査書類の内容を入手するのを、私は忘れてしまった。ために、叙勲の理由が定かでない。
もう一つ、2015年11月の法廷で私が考えたのは、叙勲された大学教授は一気にイメージが好転し、「嘘はつかない良心的な学者」と誤解されやすくなる。このイメージ大転換を狙い、情況不利に追い込まれている「西尾・中川裁判」で西尾を援護するため、共産党は緊急に叙勲したのかも知れない、と。
この裁判では、原告・被告の論争は全くなく、原告側は手を膝に置いてペンも握らず、2014年6月の第三回口頭弁論から、私と裁判長の論争を一年半、黙って聴き続けていた。それほど不利な状況の西尾側が逆転するに、叙勲は決定的に確実な助っ人となる。が、この私の推定は証拠がないから、何とも、もどかしい。(続く)
(2025年2月15日記)