今上陛下は、北朝三代・崇光天皇の皇子「伏見宮初代」の孫「後花園天皇」の流れにある伏見宮「統」──これを不敬にも民法用語を用い、「旧皇族は今上陛下から38親等」と讒謗した宮内庁次長・緒方禎巳を懲戒免職に附せ!

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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

「11の旧宮家は、室町時代、崇光天皇の皇子・栄仁親王を祖とする伏見宮の系統で、今上天皇の36親等から38親等の隔たりがある」(2026年7月10日)

 何という反・皇室きわめる“皇統に無知蒙昧”な答弁を、宮内庁次長・緒方禎巳はしたことか。共産党議員の誘導質問に引っかかったのか、それとも共産党と組んで皇室を貶めたかったのか。緒方は、以下①②③④のように、正しく答弁すべきだった。これ以外の答弁などトンデモナイ暴言。

①明治時代に宮家として再編された、室町時代からの世襲親王家の当主は、天皇より親王宣下を受けた、《控え皇太子》である。

旧皇族の男系男子も今上天皇も神武天皇の末裔。両者の皇位継承権は平等同格

②「親等」は現在の民法の用語。一般庶民つまり平民の親族における血縁の遠近を示す指標。皇族に適用すること自体、適切ではない。不適切の極み。

 しかも、世襲親王家の後継制度たる宮家制度の「親王」や「王」は、分枝した時の天皇から何代目であるかが指標。例えば、光格天皇は閑院宮第二代「典仁親王」の第六王子で、東山天皇の曽孫=三代目に当たる、と。「今上天皇からの親等」など狂語で、表現としては烏滸の沙汰。

③天皇からの血の連続があろうとも、天皇が宣下する「親王」や「王」でない限り、皇位継承権を持つ皇族にはなりえない。例。弘文天皇の曽孫である淡海三船は、「王」を放棄し自ら「臣下」を選択したので皇族ではない。また、第11代垂仁天皇から15代孫の和気清麻呂も、天皇から5代孫あたりで臣下となっており、皇族の血を引くが皇族(皇親)ではない。

④皇族は、現在の天皇の血筋に当たるものを「正系」といい、それ以外の皇族を「傍系」とする。しかし、「正系」に男系男子が絶える時は、「傍系」の男系男子が皇位を継ぐので、実態的には、「正系」と「傍系」には差異が存在しない。とすれば、「傍系」とされる宮家の当主/嫡男子を含む男系男子の皇族もまた、平等に「正系」というべきであろう。

 なお、明治天皇は皇子ができず、皇位は久邇宮(の嫡系男子)に譲ると決め、そう久邇宮にも伝えた。大正天皇がお生まれになり、この話はキャンセル。大正天皇が「まだ幼いのに、皇太子(後の昭和天皇)の皇后は久邇宮家から」と早々と決定されたのは、明治天皇による、皇位の久邇宮移行の取り止めに対する代償のようだ。

武家or民法に従えば、《今上天皇は、伏見宮「本家」から分枝した「分家」の「分家」のその「枝家」》

 緒方禎巳・宮内庁次長は、民法の「親等」を持ち出すならば、「親等を定める民法的には、今上天皇の方が旧宮家より、はるかに家格が低い」と、正しく指摘すべきであった。

a 第102代・後花園天皇は、伏見宮第二代貞成親王の第一王子。武家的に言えば、「皇位は、後花園天皇をもって、伏見宮家の分家に移行した」となる。

b 第119代・光格天皇は、この伏見宮家の分家の流れに当たる第113代・東山天皇の曽孫で、東山天皇の傍系子孫である閑院宮(=伏見宮家の分家の分家の、その更なる分家。

・伏見宮家の分家;「第102代・後花園天皇→第118代・後桃園天皇」。

・伏見宮家の分家の分家;閑院宮家(第113代・東山天皇の第六皇子「直仁親王」が初代)

・伏見宮家の分家の分家の、さらにその枝家;「第119代・光格天皇(閑院宮二代の第六王子)~第126代の今上天皇」。

 このように、今上陛下の「統」は、武家的/民法的に言えば、「伏見宮家の分家の分家の分家」or「伏見宮家の分家の分家の、さらにその枝家」なのだ。それを、無学無教養な宮内庁次長は、ナンセンスも余りにナンセンスな、今上陛下を起点とする「・・・親等」などとほざいてしまった。今上陛下に至る系譜は、次の図を参照されたい。

図1;伏見宮貞成親王から今上陛下に至る系譜

 すなわち、宮内庁次長(緒方禎巳)は、次のように答弁すべきであった。「旧皇族が皇位継承権を持つのは、神武天皇からの血統上の末裔であること」ならびに「皇位継承権を持つ特定の皇族だとする“皇室内の手続き”を経ていること」に基づく。「即ち、旧皇族の皇位継承権は、今上陛下との血縁的な近親性とはいっさい無関係です」、と。

 このような正しい答弁をしないから、共産党議員に、“皇室やその皇位継承に対する誹謗中傷”の口実を与えることになる。実際にも、共産党の塩川鉄也議員は、共産党のトンデモ嘘と天皇の人気投票制度を宣伝する狂言「600年前の室町時代まで遡る遠い血筋の人を捜して養子にする。広く国民の理解と支持を得るのは困難ではないか」を繰り返して、その質問を結んだ。宮内庁次長は、共産党の国会を活用した「天皇制廃止プロパガンダ」に、グルになって絶大な協力を提供した。

皇位継承は“皇室の家法”に遵うべき。国会決議「皇室典範を奉還する」は焦眉の急

 天皇制度は、皇位継承が慣習・法conventionsに従ったからこそ、二千年に亘って存続したのである。今後も、その永続を願うならば、皇位継承に皇室・皇族以外の者が関与してはならない。これこそは、日本国民が遵守すべき大原則であり、世襲の義務である。

 要は、皇室の自律は、国あげて最大限尊重されるべきである。このためには、「国会だけは皇室典範に関与できる」との憲法第二条の定めを、解釈改憲では無く、死文化しておく必要がある。この措置をしておけば、国会が、スターリンが創った“悪魔のカルト宗教団体”共産党がなした上記7・10政治プロパガンダなどに穢されずに済む。

 なお、憲法第二条の死文化は難しいことではなく、いとも簡単。「皇室典範を審議するという、越権も甚だしい大不敬行為を、国会は今後いっさい致しません。国会は皇室典範の審議権を天皇・皇室に完全に奉還致します」と国会決議すればいいだけの話。義務は放棄できないが、権利は放棄できる。国会よ、共産党や立憲民主党の天皇制廃止プロパガンダを国会から排除するためにも、この「皇室典範“奉還”」決議を早急に行え!

南北正閏論を再度吟味し、天皇の下で「北朝が正、南朝が閏」に正しく定め直そう!

 今上陛下は、上記のチャート図で明らかのごとく、「崇光天皇→伏見宮→後花園天皇→・・・光格天皇・・・」と流れる、北朝第三代・崇光天皇の末裔。しかし、現在の皇統譜では、北朝それ自体が閏統となり、五代の天皇が正天皇から除外され、今上天皇の祖先・崇光天皇ですら皇統譜から消されている。皇統譜は、基本的には後小松天皇が勅命した『本朝皇胤紹運録(1426年)が正しく、これに戻さねばならない。

 幸徳秋水らとともに天皇制廃止の先駆者だった山縣有朋は、自分の専制権力を駆使して、狂人テロリスト吉田松陰から注入された“国産アナーキズム”水戸学に汚染された自分の北朝“憎悪”に基づく南朝“正統”論を、1911年、自然的な老化で思考力がお弱くなられた崩御直前の、北朝の明治天皇に強制的に裁可させた。明治天皇に自らの祖先を否定させる暴挙を敢行した。

 これが、政府の“反・歴史学きわめる《逆立ち》公式見解”「北朝の天皇が閏天皇で、南朝が正天皇である」が、1911年に定まった経緯。なお、明治天皇の崩御は、1912年7月30日。

 日本では水戸学が、さも愛国的な国産イデオロギーであるがごとく、百八十度逆イメージが定着している。そして、この逆さイメージを拡大再生産すべく、この水戸学がスターリン崇拝とカップリングし、昭和天皇“殺し”の8・14宮城クーデターとなった歴史を、戦後日本は徹底的に学校教育から排除して隠した。水戸学の狂信者・平泉澄の「皇国史観」が「レーニン史観」の偽装スローガンだったように、皇国史観の源流たる水戸学とは、国産の反体制アナーキズムが本性で正体。

 水戸学は、歴史事実として「江戸幕藩体制破壊→明治憲法体制破壊→昭和天皇“暗殺”」を実行したように、レーニン/スターリンの共産革命思想とは破壊主義(ヴァンダリズム)を共通とし、両者は近親的なイデオロギーだった。これが、水戸学が1930年代に共産主義思想と合体した主たる理由。

 このような水戸学が明治天皇の周辺を動かし、歴史に違背する暴論「南朝“正統(しょうとう)”」を政府見解に仕立て上げたのである。「1907年の日露協商協定(反・英米)、1910年の朝鮮併合、1911年の南朝“正統(しょうとう)”」が一直線に、1930年代の「5・15事件→国体明徴→2・26事件→1937・7対支那戦争の開始→対英米蘭戦争→1945・4ソ連軍導入・本土決戦・一億玉砕」に繋がって行った。

 暴力革命万歳の水戸学と1911年「南朝“正統(しょうとう)”」論を唾棄的に廃止しない限り、皇統の安定のための歴史基盤は確立しない。正しい皇統譜「北朝“正統(しょうとう)”」を復権して、崇光天皇や後花園天皇や光格天皇を輝かせてこそ、昭和天皇の後裔の今上陛下や悠仁親王殿下が輝けるのである。 

(2026年8月5日記)

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