宮内庁よ、皇統譜を、歴史事実に正しく「北朝が正、南朝が閏」に糺せ!──今上陛下は北朝初代・光厳天皇の末裔。四代で消滅した南朝は、皇統の悠久を阻害した“叛乱天皇”後醍醐の“亡霊”朝

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 1911年に突然、捲き起こった、水戸学を鵜呑みにした「南朝“正統 しょうとう”論」は、歴史事実を冒瀆する“悪質デマゴギーの暴風雨”だった。「尊王攘夷」などというトンデモ・スローガンで、日本国民を誑かし、日本を国内・対外双方で戦争の巷に落とし込むことを狙ったのが、水戸藩が情熱をかけてデッチアゲた水戸学。水戸学とは、オウム真理教に類するカルト宗教。

 水戸藩の出版物『大日本史』は、日本の知にとって無価値というより、有害な粗大ごみであった。特に、北朝五代の天皇を、第72巻と73巻の間に挟んで、「紀首掲北朝五主紀(光厳院 光明院 崇光院 後光厳院 後円融院)」とし、しかも天皇とせず「院」とする記述など、歴史改竄も甚だしい。一方、南朝については、後醍醐天皇に二巻(68・69)、後村上天皇は第70巻、長慶天皇・後亀山天皇は第71巻と計四巻もあてている。歴史を破壊した水戸学の害毒は、計り知れない。

“北朝の祖”光厳天皇こそ“正統”。“アナーキスト天皇”後醍醐天皇は“異端”

 水戸藩『大日本史』の嘘の最たる一つに、「北朝天皇は誰一人、本物の剣璽を保持したことがなかった」がある。が、光厳・光明・崇光の三天皇は、本物の剣璽を保持されていた。また、北朝の五天皇のうち四名は、大嘗祭を催行された。この歴史事実は、等閑視できるほど軽くはない。表1、表2。

表1;北朝の剣璽と大嘗祭

 

剣璽

大嘗祭

光厳天皇

1331・9・20~1333・5・25

1331・10・6、後醍醐天皇が引き渡す。が、1333・5・9、鎌倉への逃避行中、後醍醐側の武士団に襲われ奪われる。剣璽は後醍醐天皇の元へ。

催行

光明天皇

1336~1348

1336・11・2、後醍醐天皇が譲渡。偽物ではなく、本物。後醍醐が吹聴した「虚器を渡した」は嘘。

催行

崇光天皇

1348・10・27~1351・11・7

1351・12・23、北朝に譲渡。

できず

後光厳天皇

1352~1371

なし

催行

後円融天皇

1371~1382

なし

催行

表2;南朝の剣璽と大嘗祭

 

剣璽

大嘗祭

後醍醐天皇

1318~31、1333~9

光厳・光明天皇の下に渡御している間を除き、保持。

催行

後村上天皇

1339~1368

1351・12・23、崇光天皇に返還させた。この事態を神慮だと感謝し、内侍所にて御神楽を奉納。

できず

長慶天皇

1368~1383

保持。

できず

後亀山天皇

1383〜1392

保持。1392・10・5、吉野から還幸し行在所とした京都大覚寺より、北朝の後小松天皇に返還。

できず

 1911年、「南朝“正統(しょうとう)”論」が、『読売新聞』『万朝報』などに煽られて日本列島を木霊した時、「皇位の正統か否かは剣璽がその天皇のお傍にあるかどうかだ」が、格段に大声で主張された。このアジに遵うなら、北朝の光厳天皇も光明天皇も崇光天皇も、正統(しょうとう)になる。実際の剣璽の渡御のルートに従えば、皇統は「後醍醐→光厳→後醍醐→光明崇光→後村上→長慶→後亀山→後小松」となるからだ。

 だが、1911年に「南朝“正統(しょうとう)”論」を大合唱したゲス大衆は、「剣璽、剣璽!」と大声を挙げながら、剣璽を保持されておられた光厳・光明・崇光の北朝三天皇を、決して皇統に含めない。彼らの狙いは、剣璽などどうでもよく、北朝の天皇を抹殺したい一心だった。正しき日本人が持つべき疑問は、「一部の日本人はなぜ『北朝の天皇を皇統譜から抹殺したい』情動に駆られるのか」だろう。

 なお、剣璽が南朝と北朝の間を相互に行ったりきたりしているのは、「両統迭立/両朝正統」の状態であることの証拠。歴史学は、この事実に従うべきで、それは歴史事実に反する「南朝“正統(しょうとう)”論」を排除・否定することに他ならない。

 また、後亀山天皇が、吉野を去って京都に還幸され大覚寺を行宮とされ、余生を三代将軍・足利義満の庇護下で送ると決心されたのは、1945年9月2日の戦艦ミズーリ号上で、日本が降伏文書に調印した情況によく似ている。大東亜戦争は日本が祖国・日本国になした自国毀損の叛逆だったが、後醍醐天皇の吉野朝とはこれと同じで、国内を擾乱の巷と化した上に、日本国と皇室に対する有害&無意味な叛乱に他ならなかった。

 北朝は、初代・光厳天皇をもって“治天の君”として、京の都において天皇職の職務を粛々と遂行された。南北朝時代の最終段階では、全国の武士の95%と公家の99%が、吉野の後亀山天皇にそっぽを向いた。剣璽を北朝に返還して和を請う以外に、敗者・南朝の後亀山天皇が生きるすべは、何一つ残されていなかった。

 このような南朝をもって“正統(しょうとう)”とする水戸藩(『大日本史』)や頼山陽(『日本外史』『日本政記』)には、正気があるようには思えない。オウムの麻原彰晃と同種の狂気に犯されている。国家の政治に無関係だった「後村上、長慶、後亀山」の三天皇に、御歴代の天皇としての事績など全く存在しない。それなのに、水戸藩の『大日本史』は、後村上天皇に一巻、長慶天皇と後亀山天皇に一巻を宛てている。『大日本史』は、皇統史に改竄的な歪曲を加えており、史書とは言えない。

天皇主権論・穂積八束(東大教授)は、南朝“正統”論の中でも水戸学より凶悪・危険な極左思想家

 山形有朋が、桂太郎の協力を得て、明治天皇から「南朝が正統」の勅裁を得た1911年3月1日をもって、南北朝正閏論の大騒ぎが収束したわけではなかった。これに続いて、文部省の教科書調査委員会“歴史”部会が、1911年5月15日から始まったからだ。

 この歴史部会の6月2日・5日、東京帝大法学部の憲法担当教授・穂積八束は、「主権は二あるべからず」から、「南朝北朝二者の存立を認めず。況や、正閏といふがごとき事あるべからず。既に、南朝系の天皇を天皇とする以上は、北朝の天子は天子にあらず。帝とするのも不可なり。全然、これを歴史上に記録すべからず」という大暴論をアピール。千葉功『南北朝正閏問題』、筑摩書房、209~10頁。

 穂積八束は、ドイツ留学中に、強度の社会主義者になった。彼の憲法理論はフランス革命のジャコバン党と似ているし、ルソーの社会契約論にも通じる極左性が濃厚。穂積八束の心底は、天皇制廃止だったろう。このことは、彼の弟子を見れば、もっと明瞭。

 穂積が自分の後継者に選んだのが、“右翼偽装の天皇制廃止の共産主義者”上杉慎吉。この上杉が愛弟子・後継者に選んだのが、ルイ16世国王をギロチン処刑したフランス革命原理主義の宮澤俊義。このように、東大の非コミンテルン(非・日共)系共産革命の憲法学は、「穂積八束→上杉慎吉→宮沢俊義」と流れて、今や全国の大学を赤く汚染している。樋口陽一は、この系譜。

(備考)上杉慎吉の《天皇に天皇制廃止をさせる共産革命の方法》については、拙著『正統の憲法 バークの哲学』、192~200頁で分析している。

 穂積の「国家主権者」説とは、“国家には主権者がおり、日本では天皇がこれに当たる”というもの。私やバークのように、コーク卿の“法の支配”思想を継承している者は、国家内には主権者はおらず、あくまでも法や慣習こそが絶対主権者と考える。井上毅の“旧慣の尊重”や明治憲法の「告文」は、コークの“法の支配”と全く同一の思想で、井上毅は“日本のコーク卿”といえる。

 即ち、井上毅や私と真逆の極左が穂積八束。穂積こそ、東大における天皇制廃止の源流だった。上記1911年6月の穂積の発言「歴史に実在する北朝天皇五名の歴史教科書からの完全抹殺」は、北朝天皇五名の紙上処刑のアピ-ルではないか。われわれ普通の日本人には、天皇に対してこんな紙上処刑など、畏れ多くてできない。

 天皇に対し紙上処刑できる者は、天皇の地上処刑ができる。現に、1945年8月14日の深夜から翌朝未明にかけての宮城クーデタには、水戸学を狂信する共産主義者の東大教授・平泉澄も加担していた。たまたま侍従が深夜には天窓を開ける仕事を忘れ、昭和天皇の防空壕が見つからず、昭和天皇は阿南惟幾・陸軍大臣とその高級副官・美山要蔵が率いるクーデタ部隊に監禁されることから免れた。

 歴史上の天皇に対する紙上テロルの大規模なものが、1911年の穂積から僅か八年後の1919年、津田左右吉によって展開された。札付きの共産主義者だった津田左右吉は、その著『古事記及日本書紀の研究』(1919年)で、「神武天皇から開化天皇までの九代は実在しない」と、初期天皇九名を紙上で殺害した(「欠史九代」)。今では津田左右吉が幼少のころ住んでいた生家まで、共産党が聖地として崇め管理している。津田左右吉は、共産党のヒーローで、共産党では「神」に扱われている。

2026・7共産党キャンペーン「愛子内親王を天皇に」は、1911南朝正統キャンペーンの再現版

 2026年7月、皇室典範から女性皇族の臣籍降嫁を禁止すべく、典範第12条を削除した皇室典範“大改悪”がなされた。朝日、読売、毎日、日経の日本の新聞は、これに便乗し、「序に、典範第一条の『皇位は男系男子に限る』も削り、愛子内親王殿下を天皇にする道を拓け!」と大キャンペーンした。日本のマスメディアを支配する天皇制廃止勢力の、愛子内親王“褒め殺し”での天皇制廃止キャンペーンは、実は、1911年の「南朝“正統(しょうとう)”」キャンペーンの繰り返しだった。

 このことから、逆に、1911年の「南朝“正統(しょうとう)”」キャンペーンが、天皇制廃止の日本最初の国民運動だったことがわかる。1911南朝“正統(しょうとう)”キャンペーンは、水戸光圀が編纂を開始した『大日本史』の第72巻と73巻の間に挟んだ補遺附録というべき、「紀首掲北朝五主紀(光厳院 光明院 崇光院 後光厳院 後円融院)」を根拠としている。

 北朝五天皇(光厳/光明/崇光/後光厳/後円融)に対する、この不敬極まる水戸藩の編纂は、《臣下は、歴史上に極めて枢要な北朝の五天皇を紙上抹殺(テロル)できる》の、史上初の実践だった。水戸光圀は天皇制廃止の源流の一人である。

 実際にも、十七世紀の水戸光圀の時代は、徳川幕府が「禁中並公家諸法度」(1615年、徳川家康の花押がある)を制定するなど、「武士が上、天皇は下」「武士は天皇・公家に対する生殺与奪の権能を有する」という不遜不敬なドグマが跋扈していた時代。徳川幕府が、天皇崇敬にその立場を劇的に転換したのは第八代・徳川吉宗で、その後、「天皇が上、徳川将軍は下」が徐々に定着していった。譜代大名の掛川藩主には、天皇崇拝者が多く輩出した。

 話を『大日本史』に戻す。その北朝五天皇に対する記述は、後小松天皇の勅で完成した不世出の皇統譜『本朝皇胤紹運録』を全否定する革命というべきもの。即ち、水戸藩には、後小松天皇への反感や憎悪が渦巻いていたのだ。が、水戸藩とは逆に、私にとって、『本朝皇胤紹運録』は後小松天皇の作だから偉大で聖なる皇統譜。ただ有難く奉戴するように、今も時々使っている。

 が、藩主も家来も挙って極左ヤクザ集団だった水戸藩には、「皇統譜は天皇・皇室の専管だから、臣下や一般日本人は介入してならない」という臣下が持つべき節度や敬順の思想がなかった。『大日本史』のを編纂を通じ、水戸藩では「『本朝皇胤紹運録』なんかぶっ壊せ」が基調であった。

 水戸学から生まれた幕末の革命スローガン「尊王攘夷」は、1930年代に「昭和天皇を殺せ!」に変貌した。皇国史観という「昭和天皇を殺せ!」ドグマに見る、水戸学のヒドラ的な本性は、水戸学の本性から必然の成り行き。長野県松代には、「皇国史観」から生まれた、昭和天皇と皇后陛下を銃殺刑に処する刑場用の拘置所が、「御所」の名で今も保存されている。

楠木正成の忠君を称讃するための“皇統の改竄”が、「南朝正統(しょうとう)論」のすべて

 「藤田東湖は、多少学問もあり、剣術も達者で、一廉役に立ちそうな男だったヨ。しかし、どうも軽率で困るよ。非常に騒ぎ出すでノー。西郷隆盛は東湖を悪く言ふて居たよ。おれも大嫌ひだよ。なかなか学問もあって、議論も強かったが、本当に国を思ふという赤心がない(『氷川清話』、勝海舟全集21、講談社、62頁)

 勝海舟の人物評は天下一だけあって、さすがである。藤田東湖には国家がない。これは会沢正志斎も同じ。国家不在は、水戸学全体を貫く基本ドグマである。藤田東湖はそれを最も的確に表現しただけと言える。ここで、藤田東湖の『弘道館記述義』(1847年)などを解剖し、藤田東湖の思想を明かにしておくのが親切というもの。しかし、本稿は、1911年の南朝正統問題の分析。藤田東湖論は、後日に回すことにしよう。

 1911年、「南朝正統」論を、が鳴りたてた連中は、愛国心もなければ、日本国がない。そして口開けば、意味不明な抽象語「大義名分に悖る」「君臣の大義を損なう」「国体を毀損する」「後醍醐は天皇親政だ!」等、皇統史の問題からぶっ飛んで、あらぬ世界に酔い痴れて恍惚。

 私は、これら抽象語の意味が全く分からない。おそらく、2026年の日本人99・99%も、さっぱり理解できないだろう。簡単に言えば、南朝正統論とは、『太平記』を読んで楠木正成の忠誠心や桜井の駅での11歳の我が子(正行)との別れに感動し、この感動を小学生に教えれば、日本国が盤石な国家になるという幼児的なウルトラ短絡思考から生まれている。

 私は『太平記』を読んだ時、楠木正成のような超一流の武人が、ヒトラーと同種で、独裁者“願望”の分裂病を病む後醍醐天皇に仕えるそのことが不思議でならなかった。『梅松論』は、後醍醐天皇の言説「古の興廃を改めて、今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」を伝えている。この言辞、医学的には分裂病の症状。これ、ヒトラーの全権委任法と同じ。

 そして、このような天皇の恣意的な綸旨“乱発”政治では、天皇の治世は不可能。国を大混乱させて破滅的な自壊に導くだけ。北朝が存在しなかったならば、ヒトラー治世が1945年4月末に廃墟のドイツとなって終焉した光景に、十四世紀の日本は、なっていただろう。

 が、最高の知性と英邁と賢慮を発揮した光厳天皇の北朝によって、十四世紀日本は、戦乱を最小限に抑え、北山文化の華を咲かせることができた。この光厳天皇を五年間も幽閉したのが後醍醐天皇である。南朝が六十年で滅び、一方、北朝は光厳天皇から今上陛下に至る七百年間の皇統を創られた。われら日本人は、北朝の歴代天皇のたゆまぬ知恵と努力に、今一層の感謝を捧げよう。

                                                 (2026年8月9日記)

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