筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
(本論文は、「9・26upまぐまぐ」稿「マ元帥の『皇族は今まで通り』『公家は存続』を潰したのは日本側」の第二節)
マッカーサー元帥が「皇族は今まで通り。改変をいっさい行わない」と最終決定し、周辺にその旨を漏らし始めたのは、昭和天皇との会談9月27日の直後から。この報に、スターリンのソ連政府代表部の直接指揮下にあった米国駐留軍GHQに潜むアメリカ共産党員たちも、同じくスターリンのソ連政府代表部が指揮・命令していた日本政府の中枢で蠢く(河上肇系の)日本共産党員も、天皇制廃止への意気込みを削がれることは無く、それぞれの方法で皇族つぶしに爆走した。
GHQ内の共産主義者は、皇族に対し八~九割を没収という法外な財産税を課し、皇族貧困化を現出し、日本国民から軽蔑される“貧乏”皇族づくりを断行した。これには、大蔵省主税局が全面協力。日本政府内の共産主義者は、加藤進・宮内府次官が単独犯で「11宮家の皇籍離脱」を画策。昭和天皇は加藤進の策謀に騙されそう決断するに至らしめられた。加藤進には大蔵省主計局が協力し、1947年10月以降の11宮家の皇族費をゼロ円にした(来年度概算要求の1946年8月末)。
以下はこの概要。保守を自認する読者は、この歴史を学術論文で本邦初に発表した、拙著『徳仁《新天皇》陛下は最後の天皇』第二章第二節を必ず精読されたい。なお、この第二節にある「ダイク私文書(書簡、意見書)」を「《ダイク書簡》と称される《安藤明(聞き取り)メモ書き》」に訂正する。「ダイク書簡」そのものが存在しないことが判明したからだ。
“大嘘吐き”加藤進を美化する“宮本顕治(日本共産党委員長)の犬”椛島有三(日本会議)
日本会議の事務総長・椛島有三は、作り話「十一宮家の皇籍離脱の際、加藤進・元宮内府次長は、1947年10月の重臣会議でのやり取りを次のように証言をしています」と、雑誌に書いている。
「鈴木貫太郎元首相 今日(1947年10月)、皇族の方々が臣籍に下られることはやむを得ない・・・、皇統が絶えることになったら・・・」
「加藤進 離脱なされる宮様方につきましても、皇室典範から言って皇位継承権を持っておられるのでございますから、・・・宮内省としては全力を尽くして充分な生活費をお与えし、品位を保つだけの費用は用意いたす積りです」(注1、加藤語「用意する」は、「ロ円にし地獄に叩き落とす」の意味)。
重臣会議は、鈴木貫太郎を首相に推挙することを決めた1945年4月が最後。重臣会議は、戦後すぐに廃止。それが「1947年10月に開催された」とは、幽霊か亡霊。大嘘も度が過ぎる。椛島有三は、加藤進が晩年に、雑誌『祖国と青年』に自分から持ち込んだインタヴュー形式の原稿「戦後日本の出発──元宮内次官の証言」(注2)から、上記を引用。
つまり、椛島有三は、完全創作の加藤進の大嘘をそのまま引用。椛島有三は高卒の“恐喝が日常の暴力団”だけあって、重臣会議が戦後すぐ廃止された歴史を知らないだけでなく、加藤進が“大嘘吐き日本一”であることすら知らない超・無知。なお、このトンデモ雑誌『正論SP』を編集した産経新聞社の安藤慶太も、雑誌編集が“どだい無理”なユスリタカリのヤクザ。
ロス疑惑の三浦和義を超える“大嘘吐き”加藤進は、「皇族は挙って、皇籍離脱を希望された」との創り話を政治家の間に流した。旧皇族の多くがこの嘘には憤懣やるかたなしと嘆いた。久邇邦昭は、「『ほとんど全部(の皇族は)、皇族の列を離れる希望を表明されたのであります』との衆議院予算委員会(1947年9月30日)での加藤進の答弁は、ちょっと言い過ぎかと思います」と、怒りを抑えた抗議をしている(注3)。皇族会議で皇籍離脱に同意した皇族は共産主義者の東久邇宮と賀陽宮の二名。猛反対されたのは病欠の山階宮を除く残り八名(注4)。
話が脱線するが、日本会議の事務総長・椛島有三は、事実上の共産党員。新天皇から元号制定権を剥奪し、それを内閣に移譲させた“反・天皇”の元号法の立役者は、本人が自慢するように椛島有三。元号法制定の地方自治体決議を運動した椛島有三は、宮本顕治から大金を手にした。椛島運動の成果で1979年6月、共産党員・大平正芳首相の胆入りで宮本顕治製の元号法が制定された。大平正芳/宮本顕治コンビは、椛島有三のお蔭で、新天皇の「元号制定権」剥奪に成功した。
元号制定の方法は登極令に定められている。椛島有三が仮にも普通の日本人なら、共産党語「元号法制化!」を叫んではいない。「登極令の復活!」と正しい言葉で訴えているはず。
登極令は、645年発布の初の元号「大化」以来の1300年間続く“日本の元号制定のやり方”を、第二条「天皇践祚の後は、直ちに元号をあらたむ」&第三条「元号は詔書をもって、これを公布す」と、伝統を正確に明文化したもの。現代語に訳せば、「新天皇は元号を勅定し詔書にて公布する」。
しかし、“共産党の役に立つ白痴”椛島有三のお蔭で、宮本顕治/大平正芳コンビは、元号制定権を天皇から剥奪し内閣に移譲させ、公布は詔書ではなく政令に革命した。だから、元号法第一項は、「元号は政令で定める」なのだ。椛島有三とは天皇制廃止の悪魔。天下一の朝敵と言ってよい。
ダイクの対日本洗脳作戦は全く徒労。これを江藤淳と櫻井よし子は反米運動に悪用
GHQのダイク准将は、①強制的な新聞連載記事『太平洋戦争』(同12月8日~)と②「神道指令」(1945年12月15日)と③「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」(1946年1月8日)で、現代史学界や論壇に、その名を留めている。
「神道指令」については、陸軍省・海軍省が管轄した政府機関の靖国神社を「宗教法人」にしたことで、民族系はことさらに激しく批判する。が、私は、日本民族の皆殺しや日本列島の焦土化そしてソ連への献上に狂奔した祖国叛逆者の白鳥敏夫・松岡洋右・阿南惟幾・山本五十六らを祀るスターリン崇拝廟に成り下がった靖国神社というトンデモ神社が政府機関でなくなったことを日本の国益に合致すると、GHQの措置を大歓迎する。GHQの神道指令に批判されるべきものは何一つない。
また、「神道指令」が、会澤正志斎や藤田東湖の水戸学“国家否定アナーキズム”「国体」を「Kokutai Cult」だと排撃したのも正しい。昭和天皇は、『1946年元旦詔書』で、1935年の「国体明徴」を蛇蝎と全否定された。「国体明徴」とは“日本の国体はかつてスターリン型の共産社会だったから、日本はスターリンを神と仰ぐ共産国・日本に改造せねばならない”との1935共産革命宣言。実際、「国体明徴」を大義に“スターリン崇拝の共産主義者”若手将校が2・26クーデタを起こした。
また、GHQ憲法第89条にも明記されているが、政府は特定の宗教に対し財政支援や教宣支援をしてはならないとの“米国型の政教分離”も正しい。この米国型政教分離を、国家からの宗教の廃絶を追求するフランス革命の政教分離に摩り替えた、共産党系の日本の憲法学者こそ糾弾されるべきだ。
次。ダイク准将の「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」(「大東亜戦争の罪は日本にあると日本人がこの罪に懺悔するよう教育する」との意味)だが、これほど無意味な対日政策は“馬鹿の限り!”の一語に尽きる。日本は、昭和天皇の玉音放送一つで大東亜戦争の狂気から既に覚醒していた。
GHQが開いた9月2日時点、七千万日本人は皆、ほんの一握り(0.1%程度)の例外を除き、大東亜戦争否定論者になっていた。このことは、文部省が全国の小学生に9月1日、教科書にある《大東亜戦争を推進する記述》を墨塗りさせたこと一つでも明らか。日本共産党員の東久邇稔彦首相(備考)が8月28日、大東亜戦争を(既に大東亜戦争否定論者になっていた一般国民からは顰蹙を買った、「一億玉砕」をもじった)“一億総懺悔しよう”との呼びかけにも明らか。あるいは、厚木から横浜のホテル・ニューグランドまで車で移動した8月30日のマッカーサーに、沿道に詰めかけた一般日本人で、敵意を抱いたものが皆無という事態も、これを明かにしていよう。
(備考)東久邇稔彦王が河上肇系の日共党員だった事実を、現代史学界は躍起になって隠蔽する。文部大臣が狂信的な共産党員の前田多門、司法大臣が同じく日共党員の岩田宙造、官房副長官がGRUロスケの高木惣吉だったのは、東久邇首相が過激な共産党員だったからだ。
広島にある有名な石碑「過ちは繰り返しませぬから」の「過ち」は、“米国の原爆投下”のことではなく、“大東亜戦争or太平洋戦争”を指す。玉音放送から二十年後の、林房雄の1965年刊『大東亜戦争肯定論』に至る、日本の戦後二十年間は大東亜戦争否定論が絶対多数だった。GHQ支持も1969年頃までは絶対多数だった。
それなのに、「(歴史の彼方にとっくに消えていた)大東亜戦争は聖戦だと日本人は未だに洗脳されているから、この洗脳から日本人を解放してやる」が目的の、ダイク准将が指導した「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」が1945年末に完成し、翌年の頭に実行された。“無意味&徒労&馬鹿げた”教宣活動に終るのは必然だろう。
ところが、このように正しく歴史事実を把握せず、大嘘歴史《ダイクのGHQ民間情報教育局の検閲と教宣で日本は極左になった》を捏造した民族系で化粧したスターリン系共産主義者の大物が現れた。1960年に共産党に離党届を出した江藤淳。「1960年からの江藤淳は“50%共産党員”だった」は、文壇・論壇の常識。が、1982年を境に江藤淳は、“100%共産党員”に戻ったようだ。
江藤淳の著『閉ざされた言語空間』(1989年、実際の執筆は1982~6年)は、民族系日本人を反米反日の共産党信者に改造したことで、日本国を毀損した悪魔的な悪書。米国共産党員ダイクの「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、実際には無力を極めた全くナンセンスなもの。だが、この事実を逆立ちさせたのが江藤淳のトンデモ煽動書『閉ざされた言語空間』。
この『閉ざされた言語空間』を皮切りに、民族系の間では共産党の「反米」がさらに浸透し、1926年に始まり今に続く、日本人共産主義者や中露の対日本洗脳工作の犯罪すべてが米国に転嫁され隠蔽された。江藤淳は、“毛沢東崇拝の共産党員”山崎豊子の『二つの祖国』からのNHK大河ドラマ『山河燃ゆ』も、“毛沢東の犬”で北朝鮮人・本田勝一の嘘八百本『中国の旅』も、ダイクの「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」から発生したとの笑止な法螺話を宣伝して恍惚。
「1982年夏の中韓両国に対する鈴木善幸内閣の屈辱的な土下座外交ぶりも、『おしん』も『山河燃ゆ』も、本田勝一の南京虐殺に対する異常な熱中ぶりも、その全てが1945年12月8日を期して各紙に連載を命じた『太平洋戦争史』と題するGHQのCIE(民間情報教育局)製の宣伝文書に端を発する空騒ぎと言わざるを得ない」(注5)。
この結果、江藤淳の1989年の『言語空間』を境に、共産党は大手を振って、反米闘争として「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」攻撃をエスカレートさせた。“日共秘密党員”櫻井よし子『真相箱の呪縛を解く』(注6)が2002年8月に刊行。続いて、“日共党員”保阪正康の『日本解体――真相箱に見るアメリカGHQの洗脳工作』が2004年9月に出版。
ルソー/レーニンに基づく家族解体と日本人“共産主義者”改造に全力投球する日本共産党の革命運動を米国に転嫁する“日本共産党情報工作員”高橋史郎(朝鮮人)の『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』(致知出版社、社長以下社員全員が朝鮮人)の出版は2014年だった。高橋史郎は、「日本共産党」を「GHQ」に擦り替え、「マルクス・レーニン主義」を「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」に摩り替えた。高橋史郎の本籍が日本共産党員なのは疑う余地はない。
さらに、2022年、過激共産党員の賀茂道子(名古屋大学准教授)が、『GHQは日本人の戦争観を変えたか──ウォー・ギルトを巡る攻防』(光文社新書)を出版。江藤淳の『閉ざされた言語空間』は、かくも共産党の中核的な反米運動に昇格した。江藤淳は、『諸君』で『閉ざされた言語空間』連載を開始した1982年、純度100%共産党員に回帰した。1982年の福田恒存の江藤批判は的中した。
ダイク准将「書簡」の正体は加藤進。署名しただけダイクは、酒と女の大晦日が報酬
このように歴史を正しく繙けば、米国共産党員ケン・ダイクの対日心理作戦とは全て空しい徒労だった。しかし、江藤淳が四十年後の1982~6年、雑誌『諸君』に連載した『閉ざされた言語空間』によって、ダイクの対日本人洗脳作戦は、「民族系」偽装の共産主義者達により、反米闘争に悪用された。ダイクの希望「日本共産化」作戦は、四十年後、江藤淳・櫻井よし子・高橋史郎・賀茂道子らにより、日本共産化を着実に促進する好材料として復活したと言ってよい。対日心理戦が専門のダイクは、四十年後を見据えた深謀遠慮の天才だったのか。それとも、単なる偶然か。
さて、脱線はここまでにして、本論に戻ろう。竹田恒泰という、売名と金稼ぎに生きる恥無き旧皇族がいる。その著『語られなかった皇族たちの真実』195~6頁に、怪文書「ダイク意見書」の文字が三回でてくる(注7)。が、「ダイク意見書」なるものは、1945年12月31日の大晦日、娼婦館経営者・安藤明(注8)や政治ゴロ須知要塞らが侍従次長・木下道雄に手渡したシロモノだが、実は安藤の手書きメモ。ダイク准将がGHQ公式ルートの外務省「終戦連絡中央事務局」に送致したものではない。つまり、「ダイク意見書」=「安藤明メモ書き」は、得体の知れない怪文書の中の怪文書。実際にも、ダイクはそんなものを書いていない。
「ダイク意見書(ダイク書簡)」=「安藤明メモ書き」の執筆者というべきは、加藤進・宮内府次官。実際の光景はこうだろう。12月31日の午前中、ダイクと松前重義が安藤の娼婦館に集合。そして、ダイクに何かを喋らせ、横で、松前重義が「俺が通訳してやる」と称し、加藤進から渡された文を読み上げる。安藤は必死にそれを書き留める。松前の「通訳」内容など日本語のできないダイクはチンプンカンプン。ただ、早く女を抱きたいダイクは、この安藤明が書きとった日本語メモに署名した。
この署名たった一つの報酬が、この大晦日を酒と女で過ごすダイク准将の娼館代金の「棒引き」。ソ連政府代表部が松前重義を通じて安藤明に支払った? 即ち、「ダイク意見書=安藤明メモ書き」は、加藤進/松前重義/安藤明/ソ連政府代表部(GRU東京事務所)の四者共同で捏造した怪文書なのだ。これには、前日12月30日、木下道雄にダイクという名前を刷り込む舞台を提供したGRUロスケ黒木従達(西郷従道の孫、東宮御所勤務の宮内官僚、商売女の腹上で死亡)も絡んでいる。
松前重義は、東海大学の創設者で、戦後日本ではKGB工作員として悪名高い。戦前、ドイツ留学時にリクルートされ1953年のKGB移籍まではGRUに所属していたから、ソ連政府代表部とはツーカーの関係。つまり、日本共産党員の加藤進も、GRUの共産主義者・松前重義も、米国共産党員ケン・ダイク(注9)も、ソ連政府代表部が操るスターリン/ベリヤの手先だった。
皇室典範や皇族・華族問題はホイットニー民政局長の所管。ダイクは神道や「太平洋戦争に対する日本人の贖罪意識形成」を担当するCIE局長。GHQとは米国陸軍「太平洋軍」の軍隊組織。局=部隊間を超えた越権行為は万が一にもしない。
即ち、ダイクが皇族問題に関与することは決してありえない。が、昭和天皇への忠誠一筋の木下道雄は、GHQの組織を一切知らなかった。また、皇族という最重要問題が、外務省「終戦連絡中央事務局」を通さないなど決してあり得ないとの常識もなかった。木下道雄は、嘘ラベル「ダイク書簡」が貼り付けられた、実際は加藤進が執筆したに等しい怪文書「安藤明メモ書き」を昭和天皇に1946年元旦の夕方五時前後に奏上。昭和天皇は、この(「十一宮家を廃絶しなければ三直宮家も危ういぞ」の)“加藤進が書いた(対天皇)脅迫文書”を、GHQからの極秘手紙だと勘違いされてしまった。
ソープ准将の梨本宮“A級戦犯容疑”逮捕は、松前重義(←加藤進)がソープに依頼?
1945年12月2日、皇族・梨本宮がA級戦犯容疑で逮捕! とのニュースは、「どうして?」との驚きが日本中に充ちた。A級戦犯は、1931年の満州事変の首謀者と大東亜戦争(1937~45年)の推進者に限るとGHQは公表していたから、いずれとも無関係な梨本宮殿下が逮捕されるのは理に合わず、その異様さに日本人は皆、何か政治的な臭いを感じた。梨本宮の実際の出頭は12月12日。
12月6日に羽田に降り立った、日本の天皇・皇族を尊敬する王制主義者キーナン首席検事がこのことを知ったのは12月末。翌1月、逮捕したE.ソープ准将(対敵諜報局長)に梨本宮の釈放を要求。しかし、ソープは頑として釈放を拒否。キーナン首席検事は「自分は天皇・皇族を起訴しない。東京裁判の開廷日に梨本宮は釈放される。即ち、この開廷日まで拘禁する理由など全く無い。今直ぐ釈放せよ」と迫ったようだ。それでもソープは釈放を拒否。梨本宮の釈放は4月13日。東京国際軍事法廷の開廷5月3日の直前だった。
GHQ内で、ソープほど、公然と「俺様は米国共産党員であるぞ」と正体を隠さなかった共産主義者は珍しい。反共のウィロビー少将は、「ソープは秩父宮まで逮捕する予定だったが、これは自分が阻止。(治安維持法の廃止と)特高の解体(10月6日)はソープ。徳田球一や志賀義雄を府中刑務所から釈放(10月10日)したのもソープ。さらにソープは、野坂参三の帰国を“歓迎!”とお迎え(東京駅、1946年1月13日)。(ソ連の大スパイである)ラティモアを擁護・・・」と、回顧(注10)。
マッカーサーは、1945年10月に入るや、GHQ内や外部の日本人に、「天皇は訴追せず。天皇・皇族は今まで通り」を口にするようになった。ために、共産主義者達は、GHQの内と外で、「三直宮を除き、せめて皇族全員の皇籍を剥奪し天皇制度を弱体化させねば」の革命に熱を入れた。
梨本宮は皇族会議のリーダーで、昭和天皇が最も信頼を寄せる皇族。皇族には頭脳明晰な閑院宮という保守がもう一人いたが(備考)、ポツダム宣言受諾に反対し(1945年8月12日)、昭和天皇の顰蹙を買い、梨本宮の代役は無理な情況。即ち、共産党員・加藤進に乗っ取られた宮内省と全面対決できる態勢に皇族会議を糾合させうるのは梨本宮お一人しかおらず、梨本宮が不在となれば皇族会議はテンデバラバラになり、加藤進が「皇族会議を黙らせる」ことが容易くなる情況に一変する。
(備考)宮家当主十四名の思想分類。保守は梨本宮と閑院宮。河上肇系の共産主義者が秩父宮と東久邇宮。白鳥敏夫系GRUロスケの共産主義者が賀陽宮。少しピンクが高松宮。残る八名はノンポリ。
以下、私の仮説。加藤進は「ソープ准将に梨本宮をA戦犯容疑で逮捕させる」ことを松前重義に依頼。松前はソープを尋ねて、それを懇請。ソープ准将は自分の権限だから、戦犯リスト追加など朝飯前。これが、ソープの梨本宮逮捕という異常が発生した経緯だろう。仮説はここで終了。
実際にも、丸四ヶ月の拘置所暮らしで、釈放後はめっきり老けられた梨本宮は、皇族会議のリーダーに復帰することは無かった。皇族会議を牛耳りたい加藤進が予定した情況が見事に現出した。
昭和天皇が「十一宮家の皇籍剥奪」を思込みで決断されるよう誘導した“世界一の洗脳師”加藤進
(1)十一宮家の皇籍剥奪は、天皇の発議がなければ不可能。つまり昭和天皇にそう思い込ませることが絶対条件。そこで、日本一いや“世界一の洗脳師”加藤進は、自分が書いた(「十一宮家を臣籍降下させねば三直宮も危ないぞ」の)対天皇“恫喝”文書を、GHQでは全く部外者ダイクの署名がある(偽造文書「ダイク書簡」ですらない)「安藤メモ書き」にして人の好い木下道雄・侍従次長に渡したのだ。
木下道雄は、疑うことを知らないスーパーお人好し。a『1946年元旦詔書』の発出に伴った超多忙な年末、b元旦を迎えた皇室の諸行事、c古式に則った元旦祭祀、の三つで肉体的にも疲労困憊の極にあった(五分でいいから横になりたい)昭和天皇に、この元旦の夕方に渡すという史上空前の大ポカを犯した。「大晦日12月31日の午後三時、政治ゴロ須知要塞と娼館経営者・安藤明から渡された「ダイク書簡」ならぬ「安藤明メモ」を、「木下道雄なら、何も疑わず、外務省にチェックさせることもせず、必ず天皇に奏上するはず」との加藤進の陰謀は図星で大成功。
昭和天皇も、特段に信頼する木下道雄だから、この怪文書に関し次の質問をなされなかった。①「GHQからのダイク書簡」がなぜ「外務省→宮内省」経由でないのか、②外務省を外したいなら、「GHQ→宮内省→宮中」だが、どうして「ダイク→ヤクザ安藤明→侍従次長」なのか。③ダイク書簡なら英文のはずだが、なぜ英文がないのか。昭和天皇もお疲れがひどく、木下道雄同様、思考がほとんど停止していた。怪文書「安藤明メモ書き」を12月31日に侍従次長“渡し”にした加藤進の狡猾な策謀は、天才という他ない(以上、注11)。
次。昭和天皇の洗脳に爆走する共産党員・加藤進の第二弾は、昭和天皇が信頼を寄せる(御母堂である)皇太后陛下の篭絡。皇太后から「三直宮だけでも残しなさい」と助言されれば、昭和天皇が「11宮家の廃絶は仕方がないのか」と心理的に動揺するのは必至。加藤進は1946年5月19日、皇太后攻略(→昭和天皇攻略)の心理作戦を狙い、沼津の御用邸を訪れた。そして、こう騙した。
「GHQとの折衝に当たるうちに、必ず、皇族廃止問題が起きるであろうこと、そうした要求がGHQから出てくる前に先手を打って直宮以外の皇族方の臣籍降下を申し出ることで、直宮だけは確保すべき」(注12)。
加藤進は、既にマッカーサーの方からGHQ憲法草案の手渡しを通じて連絡した「GHQは全皇族を今まで通りとする」(1946・2・13)を、それから三ヶ月後、その逆「GHQは皇族廃止をする」に転倒している。仮にもそのような懸念があれば、慎重に様子を見て、決して当方から先に動かないのは、孫氏の兵法ではないが、常識中の常識。だが、加藤進は、これも転倒させ「先手を打つ」と逆に煽動。逆さ大嘘付きが得意な加藤進の面目躍如。
(2)大正天皇の裁可を経た「皇族降下施行準則」(1920年)すら、その後に“死産”させ皇室令にさせなかった(注13、拙著第二章第一節)皇族会議の実力は侮り難いと、加藤進は周到に練りに練りを重ねて皇族会議つぶしを準備した。実際には、宮本顕治的な“共産党の過激革命家”加藤進は、リーダー梨本宮が悄然として声を上げない“リーダー不在”の皇族会議に対しては、“黙れ、皇族ども!”と一喝するのが有効だと判断し、恐喝を交えた高圧一辺倒で皇族たちを罵倒し続けた。
閑院宮が、この加藤進の傍若無人の光景を記録。お蔭で、我々は今、それを知ることができる。「1946年5月28日/31日の皇族情報懇談会において、次官の加藤進が(我々への)説明の衝にあたった。・・・皇室・皇族に関する重要事項を予め皇族に諮ることなく、一方的に独断的に決めてしまい、事後報告的に説明するという態度。各皇族とも激越に難詰した」(注14、406頁)。
このように、終戦と同時に、宮内省の一官僚に過ぎない加藤進が、天皇・皇族を支配下に置いてしまった。これ、2・26事件のクーデタが成功した情況に喩えれば、正しくイメージできるだろう。
ダイクの横に座る松前重義から聞き書きした「安藤明メモ」が、「ダイク書簡」の正体
木下道雄の『側近日誌』97~9頁に、一見すると『ダイク書簡』を翻訳したかに思わせるものが掲載されている。が、本物のダイク書簡なら必ず添付されているはずの英語原文が添付されていない。しかも、97頁に「安藤明がDykeの意見を聞き書きしたもの」とある。実は、「ダイク書簡」なるものは存在しない。木下道雄は、Dykeから聞いてまいりましたと称する「安藤明メモ書き」を受取った(注15)。
とすれば、この「安藤明メモ書き」は、安藤明が(加藤進が執筆した内容を読み上げた、通訳を演技する)松前重義から聞いた通りに書いたものと推断できる。しかも、この「安藤明メモ書き」にはDykeの署名があったのではないか。日本語の文章にDykeが署名するのはおかしいが、木下道雄は騙されやすい人間、これすら疑わなかったようだ。むしろ、「安藤明メモ書き」にダイクの署名があるから、「安藤明メモ書き」は「ダイク意見書」だと木下道雄は思い込んだようだ。
木下道雄は、前日30日、コミュニスト黒木従達の邸で紹介された、政治ゴロ須知要塞すら気持ちが悪いとは疑っていない。須知は「Dykeは、昭和天皇の“京都御遷幸”(東京追放)や皇太子の米国留学などを考えている」と、“口から出任せ法螺話”を木下に吹き込んだ。が、木下はこれを変な話とはせず聞いている(注16、94頁)。内容が荒唐無稽すぎ嘘っぽいと、木下道雄は気付かないのだろう。
翌31日、須知は安藤明を伴い皇居の木下道雄を訪ねた。ダイクの女遊び友達である二人から「ダイクの意見書」だと称するメモ書きを、(これほど悪人の言動を信用するのだから)木下道雄がダイクの本当の意見だと錯誤するのは、心理学的にはあり得る。仮に木下道雄が、一言「ダイク本人に確かめたい」と言っていれば、須知と安藤の顔がとっさに変わるから、ウルトラお人好しの木下道雄ですら何か変だと気づいただろうに。
加藤進の国会答弁の大嘘は、想像を超え絶句する他ない“土星に届く無限の高さ”
加藤進が稀代の大嘘付きである重要事実を、竹田恒泰は全く指摘していない。むしろ逆。次のように加藤進はGHQの皇族数カットに対する対抗策を講じたと、捏造の嘘歴史を書いている。「加藤次官ら宮内官僚たちはかなり早い段階から皇族の大半の臣籍降下は(GHQからの強制で)避けられないと捉えていた」と(注17)。事実はこの逆。加藤進は、「GHQは皇族数を今まで通りにする。ならば、我々日本人の手で皇族数の大幅縮小を成功させてやるぞ」と、あらん限りの悪智慧を実行した。
加藤は、その回想記で、白々しくも「占領軍の指令や政策への対応こそ、まさに国体護持の戦いと言ってよいと思います」(注18)と、本心の逆を吐露している。さらに狡猾な加藤は、「とにかく天皇とお直宮を護ることが絶対に必要だった当時の情況から考えた時、(11宮家におかれては)是非とも臣籍に自ら降下して頂く以外には(策は)ありませんでした」と嘯く(注18)。
そして、加藤進の極め付き大嘘が、1947年9月30日の衆議院予算委委員会での国会答弁。全て、事実を無視した大捏造のオンパレード。十一宮家当主のうち八名が大反対であった。皇籍離脱を公に表明されたのは、共産党員の東久邇宮お一人で1945年10月だった。
「皇族が、皇族の列を離れるという希望を示されたのは戦後まもなく皇族の中の二、三の方が示されまして、その後もたびたび示されたのであります。殊に新しい憲法が施行になります前(1947年5月3日)には今回皇族の列を離脱せらるべき十一の宮家の大人の方が、殆んど全部皇族の列を離れる希望を表明されたのであります」(ゴチックは100%の大嘘)。
「その希望をわれわれ(宮内府官僚)は、一日でも早く実現することが適当であると考え・・・」(「嫌がる皇族を恫喝して強制離脱させた事実を逆さにしている」)。
加藤進に加担した大蔵省主計局(1946年8月末)が、翌47年10月からの皇族費カット
直宮を除く、十一宮家の皇族費が1947年10月以降ゼロ円になった。これ、1946年8月末、来年度概算要求の締め切りで決まった。つまり、1946年8月末、「11宮家の皇族費の、1947年10月以降は打ち切り」を、大蔵省主計局長が宮内省と合意したということ。
この主計局長は野田卯一。夫婦別姓など共産党員そのもの野田聖子の祖父。野田聖子の父もそうだが、野田家は代々極左の家系。どうやら野田卯一は天皇制廃止を信条としていたようだ。
2・13「GHQは皇族に触らない」を知る幣原内閣。加藤進の内閣と宮中の情報切断
私が、十一宮家の皇籍剥奪事件を調査している時、怪訝すぎ脳裏を離れなかったことが一つある。幣原内閣は、1946年2月13日、ホイットニーからGHQ憲法草案を渡され、GHQは皇族には一指も触らないことを知った。ところが、この最重要情報が、天皇や皇族には全く伝わっていない。1946年5月、加藤進は、独断で全皇族に対し「十一宮家の皇籍離脱を飲め」と迫ったが、これに対して皇族の誰一人、事実「GHQはそのことは考えていないぞ!」を加藤進に突きつけた反駁をしていない。
前述の閑院宮は、1946年11月頃を回想し、「陛下の《諸般の事情》とは、GHQ方面の意向のこと。皇室縮小方針ひいては日本弱体化政策のこと」だと断じ、加藤の犯罪をGHQの政策だと思い込んでいる(注19)。このことは、加藤進が、マッカーサーやGHQの方針が皇族に伝わらないよう、内閣と皇族間の情報を遮断する工作を全力を上げて徹底的に遂行したことを示している。
注
1、『正論SP vol2』、2017年5月刊、164頁、編集人・安藤慶太。
2、『祖国と青年』1984年8月号、22頁。
3、久邇邦昭『少年皇族の見た戦争』、PHP、193頁。邦昭氏は1947年時点、18歳。
4、中川八洋『徳仁《新天皇》陛下は最後の天皇』、ヒカルランド、99頁、2018年。
5、江藤淳『閉ざされた言語空間』、文春文庫、272頁。原著1989年。この内容を激しく批判したのが、ノンポリ現代史家・秦郁彦の『陰謀史観』、新潮新書、2012年、138~45頁。
6、櫻井よし子『真相箱の呪縛を解く』を解剖して批判した論考を、私は私のブログで発表した覚えがあるが、今は、どれか思い出せない。
7、竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』、小学館、2006年。小学館(の共産党細胞)がこれを出版したのは、旧皇族の復籍を阻止したい共産党の工作の一つ。竹田恒泰は、実際にも、この後は、櫻井よし子に洗脳され「旧皇族の復籍反対。養子の方がいい」をキャンペーンしている。上記著作の197頁に、加藤進が捏造した嘘歴史「重臣会議」を引用している。強度の共産党シンパ竹田恒泰の天皇制度擁護はチャランポランで半ば有害。読むに堪えない。
8、ヤクザ安藤明の人物を知りたいなら、自費出版本『昭和の快男児 日本を救った男 安藤明』を参照のこと。
9、日本人の米国共産党員には、有名人を挙げると、加藤シズヱ/都留重人/三木武夫/長谷川毅など。FBI監視下の米国共産党員ミヤーズとの関係から櫻井よし子もそうだろうが、未確定。
10、ウィロビー『知られざる日本占領』、番町書房、137~8頁。
11、木下道雄『側近日誌』、国書刊行会、94~9頁。
12、竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』、小学館、194頁。
13、「皇族降下施行準則」は、“天皇制廃止の巨魁”山縣有朋が、“腰巾着”伊東巳代治を引き連れて、共産主義思想が荒れ狂い始める大正時代の1920年、反・皇族の狼煙として制定せんとしたもの。しかも、皇族の臣籍降下の規則は「1907年の皇室典範増補」があるから、全く不必要だった。大正時代に始まる華族に降下された皇族は皆、「1907年の皇室典範増補」の手続き。
大正天皇の御裁可を経たが、波多野・宮内大臣は、秘かに皇族降下施行準則を公布せず、皇室令に含めないことにした。産まれた赤子を死産させたのと同じ処置。だから、この降下準則が適用された事例はゼロで、そのような皇族は一人もいない。ところが、共産党員の気狂い浅見雅男と小田部雄次らは、この皇族降下施行準則に関する大嘘を書きまくった。浅見の『闘う皇族』『皇族誕生』や小田部の『皇族』『天皇と宮家』などは、この大嘘垂れ流しの悪書群の筆頭。
14、閑院純仁『私の自叙伝』、人物往来社、406頁。
15、上掲、木下道雄、97~9頁。
16、仝上、94頁。
17、上掲、竹田恒泰、194頁。
18、上掲、『祖国と青年』、20頁、22頁。
19、上掲、閑院純仁、407頁。
(2026年10月12日記)
